傘張り浪人の傘
魔物娘の誕生により天下泰平も間近と思われている昨今。とある町のあばら家ともいえる長屋の中で、独り黙々と傘張りをする男がいる。
男の名は弥彦。この地方に住む下級武士の男である。元来からの争い事を好まない気質からか、金子に困った際、迷わず刀を質に出すという武士らしくない所があるが、いくら貧困に窮していても悪どいことはせず、身なりを整え、 慎ましやかに暮らす実直な男だ。
「全て世は事もなし。後はこの傘が売れれば上々だ」
弥彦は背負子に番傘を十ばかり詰めると、腰に刀の代わりの古ぼけた番傘を差して長屋を出た。見上げた空は鈍い色味の雲に覆われ、雨が降るか降らないか、なんとも言えない天気であった。そして、こんな天気でこそ傘は売れる。二束三文の安番傘であれば、買うに戸惑わず、雨が降らずとも損ではないからだ。
一羽の燕が弥彦を後ろすぅっと追い抜くと、野擦りの如く地面すれすれを滑空し、再び鈍色の空へと舞い上がり、あっという間に点となって消えた。
「やあ、これは一雨降るに違いない」
弥彦は声を少し荒げると、放たれた矢の如く人の往来の多い通りへ駆け出した。
果たして、弥彦が馴染みの飯屋の軒下で蓙を敷いて番傘を並べ出した頃、ぽつぽつと雨が降り出し、暫くすると針のような細い雨になった。どうやら傘を持っている町民と持っていない町民は半々であり、傘が売り切れるか不安であったが、幸いな事に同業者は見受けられなかった。
(しめた。これなら売れるやもしれん)
弥彦はそう確信したが押しうるような事はしない。家路を急ぐ者たちを相手にする時は、相手の都合に合わせることが得策と知っているからだ。二束三文の金子よりも雨に濡れないことを優先する者も多く、幾ばくか多く支払うと釣銭も受け取らず駆け出す者もいるからだ。弥彦は実直ではあるが、金子の大事さは骨身に染みているため、貰えるものは貰っておく男でもある。
そして、弥彦の番傘はあれよあれよという間に売れてゆき、ついには最後の一つも売れてしまった。久々の纏まった儲けに弥彦の懐は暖まった。
「ひい、ふう、みい…これなら稲荷亭で蕎麦がきと燗酒くらいは頼めるな」
稲荷亭とは、今まさに弥彦が軒下を借りている飯屋だ。料理自慢の板前と彼の奥方である稲荷が切り盛りするこの飯屋は旨くて安いと評判である。弥彦が久々の酒が飲めると心踊らせながら店仕舞いをしていると、ばしゃばしゃと水溜まりを踏みながら男が駆け寄ってきた。
「おーい、傘屋、ちょいと店仕舞いは待っておくれよ」
「はあ、ですが、生憎と売れる番傘はありませんので…」
「嘘を言っちゃいけないよ。腰に一つ差しているじゃないか」
「旦那、これはそうとうに使い古したものですよ?」
「構うものかい。このまま雨に降られるよりかは幾分もましってものだ。あんたには悪いが買わせてもらうよ。」
「は、はあ…」
「まあ、これで雨が止むまで酒でも飲んでいるといい」
男は弥彦に新品の番傘の三倍ほどの支払いをすると足早に去っていった。弥彦は稲荷亭で温かい蕎麦に貝柱のかき揚げ、燗酒というかつてない程の贅沢をしながら雨をしのぎ、夜半には長屋に帰った。久々の贅沢で心は晴れやかなはずだったが、弥彦は少し寂しい気持ちでいた。聞き慣れ過ぎてしまい、もはや何とも思わなくなってしまった隣人夫婦の喘ぎ声も、何故だか少し鬱陶しく思えてしまった。弥彦は頭から布団にくるまると、酔いもあってかすぐに眠りについた。
それから暫くした日のこと。その日は朝から小糠雨が降っており、外に出る気の起きなかった弥彦は夜半まで長屋で腐っていた。そんな時、弥彦の部屋を訪ねる者がいた。注意深く聞いていなければ雨垂れの音にも負けてしまいそうな声で戸の向こうから弥彦に尋ねかけている。
「もし…こちらは弥彦様の住まうお部屋でしょうか?もし…」
弥彦はいつぞやの男の使いが傘を返しに来たのかと考えたが、このような時間に訪ねてくることはあるまいと考え直した。正直に言えばこんな時間に来る来訪者に一抹の怪しさを感じていたが、声色から女性と分かったため、この雨が降るなか捨て置くのもいささか抵抗があった。
「もし…弥彦様、いらっしゃいますか?」
「お客人、暫し待たれよ」
弥彦は布団を畳んで部屋の隅っこに追いやり、軽く身なりを整えると、戸を開けた。そこには大きな番傘をさした女性が立っていた。傘越しであるため正確に分からないが、身の長は弥彦の肩ほどと窺えた。彼女の羽織る外套から覗く脚は小糠雨のせいか、しっとりと湿り気を帯びていた。そして、何よりも弥彦を驚かせたのは傘にあるはずのない目が、ぎょろりと弥彦を見上げていたのだ。これには弥彦もたまらず驚いた。
「し、失礼だが、どちら様だろうか?生憎と、某には貴女に会った覚えがない」
「ああ、弥彦様!私をお忘れになったのですか!?」
傘をずらしたことで窺えた彼女の目は涙で潤んでいた。しかし、とんと身に覚えのない弥彦は困ったように頭を掻くと、夜も遅く雨も降っているため、部屋に上がるよう促した。彼女は弥彦の申し出に頷くと、弥彦の部屋に上がった。
「弥彦様、本当に覚えていないのですか…」
彼女の問いかけに弥彦は首をひねった。
「ううむ、何処かで見たような気がしなくもない」
確かに弥彦は何となくではあるが見覚えはあった。正確に言えば、彼女ではなく彼女が被っている傘に見覚えがあるが、それには目など無かったためはっきりと言えなかったのだ。そして、それを察してか、彼女は傘の中から出てきた大きな舌で弥彦を傘の中に引き込むと、とつとつと話しだした。
「弥彦様、これは山風の激しかった夜に折れてしまった骨組みを直していただいた場所です。この部分は、穴が空いた際、ただ塞ぐだけでは味気なかろうと花をあしらっていただいたものです」
「まさか、貴女はあの日に売ってしまった番傘なのか?」
「ああ、ついに思い出していただけたのですね…嬉しゅうございます」
果たしてそれは、いつかの雨の日に弥彦が売ってしまった番傘であった。魔物娘の存在こそ受け入れていた弥彦であったが、まさか自分が魔物娘と関係を持つ、しかも使い古した番傘が付喪神になろうとは予想もしていなかったのだ。そして、弥彦がこのことに瞠目していると、女性は朗らかに微笑んだ。身の長こそ弥彦の肩ほどでこそあったが、顔立ち良く、均整のとれた体つきの女性が眼前で微笑んだことで、弥彦の顔に朱が差す。彼女はそれを見てとると、嬉しそうにはにかんだ。そして、意地悪そうな笑みを浮かべて、言った。
「弥彦様。私、ほんの少しだけ貴方様を恨んでおります。なにせ、枝葉と一括りにされて打ち捨てられる所でしたもの」
言われた弥彦は酷く狼狽してしまった。
「まさかあの傘がこうして付喪神になるとは思ってもいなかったとは言え、酷いことをしてしまったようだ。申し訳ない」
「ふふ、恨んでいるというのは嘘ですよ。弥彦様はお優しい方ですすから。それに、私はこうして弥彦様の元に帰れただけでも幸せです」
彼女は弥彦の体に腕を回すと、優しく抱きすくめた。弥彦はそんな彼女をいとおしく思い、されるがままであった。
「ですが、一つ我が儘をお許しください」
「ああ。某にできることであれば何でも言ってくれ」
「はい。では、私に名をつけていただけませんか?」
彼女の求めに弥彦を暫く頭を捻ると、答えた。
「お華、というのはどうだろうか…いや、さすがに安直がすぎるか」
「いえ、素敵な名です。お華…これが私の名なのですね」
お華と名付けられた彼女は、小さく身震いすると、弥彦にしなだれかかった。吐息には熱がこもり、視線も艶かしいものに変わっていた。
「弥彦様、私は今までと名付けのお礼をしたいのです。私たち付喪神の魔物娘は主に使われることを至上の喜びとしています。どうか、私の体を弥彦様の思うようにお使いください」
その言葉の後に、お華の傘の舌が弥彦をべろりと舐め回す。だが、それはけっして不快でなく、むしろお華に対する欲望を高めさせた。
「弥彦様、私はとても寂しがり屋な性分ですので、どうか私を貴方様の傍に永く置いてくださいませ」
「ああ、お前をもう二度と手放したりはしないとも」
かくして二人は傘の中で一つになり、夫婦の契りを交わした。気付けば雨は強くなっていたが、二人の心は晴れやかだった。
男の名は弥彦。この地方に住む下級武士の男である。元来からの争い事を好まない気質からか、金子に困った際、迷わず刀を質に出すという武士らしくない所があるが、いくら貧困に窮していても悪どいことはせず、身なりを整え、 慎ましやかに暮らす実直な男だ。
「全て世は事もなし。後はこの傘が売れれば上々だ」
弥彦は背負子に番傘を十ばかり詰めると、腰に刀の代わりの古ぼけた番傘を差して長屋を出た。見上げた空は鈍い色味の雲に覆われ、雨が降るか降らないか、なんとも言えない天気であった。そして、こんな天気でこそ傘は売れる。二束三文の安番傘であれば、買うに戸惑わず、雨が降らずとも損ではないからだ。
一羽の燕が弥彦を後ろすぅっと追い抜くと、野擦りの如く地面すれすれを滑空し、再び鈍色の空へと舞い上がり、あっという間に点となって消えた。
「やあ、これは一雨降るに違いない」
弥彦は声を少し荒げると、放たれた矢の如く人の往来の多い通りへ駆け出した。
果たして、弥彦が馴染みの飯屋の軒下で蓙を敷いて番傘を並べ出した頃、ぽつぽつと雨が降り出し、暫くすると針のような細い雨になった。どうやら傘を持っている町民と持っていない町民は半々であり、傘が売り切れるか不安であったが、幸いな事に同業者は見受けられなかった。
(しめた。これなら売れるやもしれん)
弥彦はそう確信したが押しうるような事はしない。家路を急ぐ者たちを相手にする時は、相手の都合に合わせることが得策と知っているからだ。二束三文の金子よりも雨に濡れないことを優先する者も多く、幾ばくか多く支払うと釣銭も受け取らず駆け出す者もいるからだ。弥彦は実直ではあるが、金子の大事さは骨身に染みているため、貰えるものは貰っておく男でもある。
そして、弥彦の番傘はあれよあれよという間に売れてゆき、ついには最後の一つも売れてしまった。久々の纏まった儲けに弥彦の懐は暖まった。
「ひい、ふう、みい…これなら稲荷亭で蕎麦がきと燗酒くらいは頼めるな」
稲荷亭とは、今まさに弥彦が軒下を借りている飯屋だ。料理自慢の板前と彼の奥方である稲荷が切り盛りするこの飯屋は旨くて安いと評判である。弥彦が久々の酒が飲めると心踊らせながら店仕舞いをしていると、ばしゃばしゃと水溜まりを踏みながら男が駆け寄ってきた。
「おーい、傘屋、ちょいと店仕舞いは待っておくれよ」
「はあ、ですが、生憎と売れる番傘はありませんので…」
「嘘を言っちゃいけないよ。腰に一つ差しているじゃないか」
「旦那、これはそうとうに使い古したものですよ?」
「構うものかい。このまま雨に降られるよりかは幾分もましってものだ。あんたには悪いが買わせてもらうよ。」
「は、はあ…」
「まあ、これで雨が止むまで酒でも飲んでいるといい」
男は弥彦に新品の番傘の三倍ほどの支払いをすると足早に去っていった。弥彦は稲荷亭で温かい蕎麦に貝柱のかき揚げ、燗酒というかつてない程の贅沢をしながら雨をしのぎ、夜半には長屋に帰った。久々の贅沢で心は晴れやかなはずだったが、弥彦は少し寂しい気持ちでいた。聞き慣れ過ぎてしまい、もはや何とも思わなくなってしまった隣人夫婦の喘ぎ声も、何故だか少し鬱陶しく思えてしまった。弥彦は頭から布団にくるまると、酔いもあってかすぐに眠りについた。
それから暫くした日のこと。その日は朝から小糠雨が降っており、外に出る気の起きなかった弥彦は夜半まで長屋で腐っていた。そんな時、弥彦の部屋を訪ねる者がいた。注意深く聞いていなければ雨垂れの音にも負けてしまいそうな声で戸の向こうから弥彦に尋ねかけている。
「もし…こちらは弥彦様の住まうお部屋でしょうか?もし…」
弥彦はいつぞやの男の使いが傘を返しに来たのかと考えたが、このような時間に訪ねてくることはあるまいと考え直した。正直に言えばこんな時間に来る来訪者に一抹の怪しさを感じていたが、声色から女性と分かったため、この雨が降るなか捨て置くのもいささか抵抗があった。
「もし…弥彦様、いらっしゃいますか?」
「お客人、暫し待たれよ」
弥彦は布団を畳んで部屋の隅っこに追いやり、軽く身なりを整えると、戸を開けた。そこには大きな番傘をさした女性が立っていた。傘越しであるため正確に分からないが、身の長は弥彦の肩ほどと窺えた。彼女の羽織る外套から覗く脚は小糠雨のせいか、しっとりと湿り気を帯びていた。そして、何よりも弥彦を驚かせたのは傘にあるはずのない目が、ぎょろりと弥彦を見上げていたのだ。これには弥彦もたまらず驚いた。
「し、失礼だが、どちら様だろうか?生憎と、某には貴女に会った覚えがない」
「ああ、弥彦様!私をお忘れになったのですか!?」
傘をずらしたことで窺えた彼女の目は涙で潤んでいた。しかし、とんと身に覚えのない弥彦は困ったように頭を掻くと、夜も遅く雨も降っているため、部屋に上がるよう促した。彼女は弥彦の申し出に頷くと、弥彦の部屋に上がった。
「弥彦様、本当に覚えていないのですか…」
彼女の問いかけに弥彦は首をひねった。
「ううむ、何処かで見たような気がしなくもない」
確かに弥彦は何となくではあるが見覚えはあった。正確に言えば、彼女ではなく彼女が被っている傘に見覚えがあるが、それには目など無かったためはっきりと言えなかったのだ。そして、それを察してか、彼女は傘の中から出てきた大きな舌で弥彦を傘の中に引き込むと、とつとつと話しだした。
「弥彦様、これは山風の激しかった夜に折れてしまった骨組みを直していただいた場所です。この部分は、穴が空いた際、ただ塞ぐだけでは味気なかろうと花をあしらっていただいたものです」
「まさか、貴女はあの日に売ってしまった番傘なのか?」
「ああ、ついに思い出していただけたのですね…嬉しゅうございます」
果たしてそれは、いつかの雨の日に弥彦が売ってしまった番傘であった。魔物娘の存在こそ受け入れていた弥彦であったが、まさか自分が魔物娘と関係を持つ、しかも使い古した番傘が付喪神になろうとは予想もしていなかったのだ。そして、弥彦がこのことに瞠目していると、女性は朗らかに微笑んだ。身の長こそ弥彦の肩ほどでこそあったが、顔立ち良く、均整のとれた体つきの女性が眼前で微笑んだことで、弥彦の顔に朱が差す。彼女はそれを見てとると、嬉しそうにはにかんだ。そして、意地悪そうな笑みを浮かべて、言った。
「弥彦様。私、ほんの少しだけ貴方様を恨んでおります。なにせ、枝葉と一括りにされて打ち捨てられる所でしたもの」
言われた弥彦は酷く狼狽してしまった。
「まさかあの傘がこうして付喪神になるとは思ってもいなかったとは言え、酷いことをしてしまったようだ。申し訳ない」
「ふふ、恨んでいるというのは嘘ですよ。弥彦様はお優しい方ですすから。それに、私はこうして弥彦様の元に帰れただけでも幸せです」
彼女は弥彦の体に腕を回すと、優しく抱きすくめた。弥彦はそんな彼女をいとおしく思い、されるがままであった。
「ですが、一つ我が儘をお許しください」
「ああ。某にできることであれば何でも言ってくれ」
「はい。では、私に名をつけていただけませんか?」
彼女の求めに弥彦を暫く頭を捻ると、答えた。
「お華、というのはどうだろうか…いや、さすがに安直がすぎるか」
「いえ、素敵な名です。お華…これが私の名なのですね」
お華と名付けられた彼女は、小さく身震いすると、弥彦にしなだれかかった。吐息には熱がこもり、視線も艶かしいものに変わっていた。
「弥彦様、私は今までと名付けのお礼をしたいのです。私たち付喪神の魔物娘は主に使われることを至上の喜びとしています。どうか、私の体を弥彦様の思うようにお使いください」
その言葉の後に、お華の傘の舌が弥彦をべろりと舐め回す。だが、それはけっして不快でなく、むしろお華に対する欲望を高めさせた。
「弥彦様、私はとても寂しがり屋な性分ですので、どうか私を貴方様の傍に永く置いてくださいませ」
「ああ、お前をもう二度と手放したりはしないとも」
かくして二人は傘の中で一つになり、夫婦の契りを交わした。気付けば雨は強くなっていたが、二人の心は晴れやかだった。
16/04/12 21:56更新 / PLUTO
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