袴の裾を泥で汚しながら山中を男が走っている。入山した頃に降りだした細雨は、峠を越えた辺りで驟雨となって男を叩いた。救いは春の温い雨であることか。

男は袴をからげる事も忘れて雨を凌ぐ場所を探していると、視界に古ぼけた寺が見えた。天の助けとばかりに荒れ寺の軒に駆け込むと、笠の顎紐を解いた。歳の頃は二十の辺りか、若さの内に精悍さを滲ませ始めた青年である。
青年は笠と身体中から水を滴らせながら寺へ入った。焼け落ちたのか手入れがなされなくなったのか、朽ちかけた寺の屋根からは雨が漏れている。
青年は笠と腰の大小を床に置くと、荷物を包んでいる布をほどいて手早く着物と袴、足袋、草履を脱いだ。そして、荷物から取り出したずぶ濡れの手拭いをきつく搾ると身体中を拭い、草履に足を入れた。
濡れた草履の感触を素足に受けるのは不快極まりないが、辺りに散見される木のささくれから足を守るには我慢せねばなるまい。

雨が止むまで寝て待とうと考えた青年は、荷物を持つと具合の良い場所を見つけようと寺の奥へ歩を進めた。その時、奥の暗がりから青年目掛けて何かが飛来した。青年がこれを避けると硬い何かが床に当たる音が聞こえた。何事かと暗がりに意識をやると人の気配がある。

「こっちに来るんじゃねえ!」

暗がりから男の怒鳴り声が聞こえた。虚勢を張っているが、その声は何かに怯え、震えている。
驟雨の切れ間から日が顔を出し、崩れかけの屋根を通して青年と暗がりを照らし出した。暗がりの中には雨に濡れた男が居る。男は怯える様な、すがる様な目で青年を見ていた。青年は男を刺激せぬ様に、出来る限り柔らかな声色で言った。

「某の名は弥彦。訳は存ぜぬが、貴殿に仇なすつもりはない」


／／／／／／／／／／／／／／／／／


束の間に顔を出した陽光は再び厚い雲に遮られ、勢いを増した雨が荒れ寺を潰さんばかりに叩いている。その荒れ寺の中で弥彦と男が語らっている。男はまだ弥彦を信じきっていない様で、時折辺りを窺っている。
そんな男を落ち着かせる為か、弥彦はここに到るまでの道中なぞを話して聞かせた。

「その歳で国中を渡り歩いているのか」
「左様。父の教えに従い、元服の後より諸国を経巡り歩いては剣の腕を磨き、見聞を広めているのです」

大した話では無いとばかりに話す弥彦に、男は頻りに感心していた。

「いや、凄い事だ。なかなか出来るものじゃない」
「しかし、直に刀が不要となる時代が来ると某は見ています。道中で様々な物事が変わりつつあるのを目の当たりにしました故に」
「へぇ、例えばどんな風にだい」

弥彦は暫しこの問いに沈思黙考した後に、自分でもいささか得心がいかないといった風に答えた。

「何と言えばよろしいのか…そう、人と妖怪の有り様が変わったのやも知れませぬ」
「人と妖怪の有り様ねぇ…」

虚な瞳で床を見つめながら男が言う。そんな男を弥彦はいくらか不審に思った。

「ところで、貴殿はなぜこの様な荒れ寺へ」
「俺かい？俺はなぁ…ここから三つ山を越えた所にある村から逃げて来たのさ」
「いったい何から」
「言った所で信じやしないさ。…俺はもう寝る」

男はそう言うと、弥彦に背を向けて寝転がった。その背中は暗に話し掛けてくるなと語っている。
弥彦は話をこれ以上聞く事は出来ないと判断し、自分も寝ることにした。


／／／／／／／／／／／／／／／／／


弥彦は寝苦しさで目を覚まし、身体を起こそうとした。しかし、身体はぴくりとも動く事無く横たわったままだ。
動かぬ身体の代わりに目で辺りを窺うと、視界の端に白い人影が見えた。そして、その白い人影は弥彦が目覚めた事に気付くと、するすると這い寄って来た。弥彦はその白い人影の姿を見ると言葉を失った。なぜなら、その人影の下半分は真っ白な蛇体だからである。
そして、何よりも弥彦を驚かせたのは蛇体にあの男が巻き取られている事であった。男のすがる様な目を見て、何とか身体を動かそうとする弥彦に白い蛇体の持ち主、白蛇の女が言った。

「斯様に手荒な事は好みではありませぬが、この方との逢瀬を邪魔される訳にはいかぬのです。暫し、そのまま寝ていて下さいませ」

口調こそ柔かなものであるが、白蛇の赤い瞳には有無を言わせぬ迫力があった。射竦められた弥彦はさながら蛇に睨まれた蛙である。しかし、幸か不幸か呑まれる蛙は既に蛇体に捕らわれている。
捕らわれの男は、何とか片方の腕を引き抜くと弥彦に伸ばした。

「た、助けてくれ…」

しかし、その助けを求める手を白蛇はあっさりと捕まえた。男の指に自らの指を絡め、胸元へと運んで行く。
白蛇は瞳に妖しげな色を宿らせながら男に言った。

「捕まったというのに、まだ逃げられるとお思いなのですね？ふふふ、それは一生叶わぬ願いでございますよ」

白蛇は蛇体の締め付けを強めて上半身でも絡み付くと、蛇の舌で男の頬を舐めた。それだけで、怖れとは違うぞくりとした物が男の背を走った。その様を見て、白蛇は恍惚とした表情を浮かべる。

「どの様な事があろうとも、この白姫からは逃げられませぬよ。万に一つ、私の手元から離れられたとしても、また捕まえに行きますからね」

男は怯えを孕んだ目で白蛇を見た。それは、慈悲を乞うかの様な眼差しだった。

「ふふ、なりませぬよ。この白姫、例え貴方様が地の果てに逃げようとも追い詰め、奈落に落ちようとするならば、その底で待ち受けていましょう」

白蛇はそう言うと、男の首筋や胸板も舐め回し始めた。白蛇は舌で愛撫するのと同時に男の味を楽しんでいる。まるで高価な砂糖菓子を味わうかの様に、時間を掛けてゆっくりと男を味わった。

「はぁ…この精と言う物はなんと美味な事でしょう。とりわけ貴方様の精は美味…。一舐めしただけで気をやってしまいそうです」
「お、俺はあんたの餌じゃあねえ」
「うふ、分かっておりますよ。それに、良い人を餌扱いなどするはずがありませぬよ。私は貴方様の全てを愛して愛して止まぬのです。そうだと言うのに…」

白蛇の瞳から、ふっと光が消えた。見つめる先には先程から絡め取ったままの男の手がある。
白蛇は男の手を顔の前まで持ってくると、誰に言うでもない小さな声でぼそぼそと呟く。

「そうだと言うのに、愛して止まぬと言うのに…この手は私以外の者を求めようとする……。なんと憎い手でしょうか…」

白蛇は無遠慮に手首を動かして、あちこちから男の手を睨み付ける。憎い恋敵を見る様な眼差しで手を睨まれる男は気が気ではなかった。

「あ、良い事を思い付きました」

これ以上は無い妙案を思い付いたと言わんばかりに、白蛇の顔には喜色が浮かんでいる。そして、瞳から光を消したまま、底抜けに明るい声色で言った。

「私以外を求める憎い手は……こうしてしまいましょう」

男の手を握る白蛇の手に、青い炎が灯った。その青い炎が男の手を燃やす。
一瞬、何が起きたのか理解の追い付かなかった男は、青く燃え盛る自分の手をまじまじと見た。
そして、叫んだ。

「ああああ！俺の手があ！！」
「うふ、慌てる姿も可愛らしいですよ」
「それどころじゃあ！放せ！頼むから手を、放してくれえ！」

男は青い炎の中から手を抜こうと暴れたが、暴れる程に白蛇の手を握る力が強まっていく。
魔物の力で握られた手を、ただの人が振りほどく事は不可能であった。

「焼けて無くなりはしませんから安心して下さい。…ただ、この手は私以外の者を触れる事は出来なくなるでしょうねぇ」

嬉しそうに言いながら白蛇は手を放した。男は直ぐ様手を引っ込めると何度も裏返したり、握ったり開いたりして、手が無事である事を確かめた。
そんな男の様子を白蛇は微笑みながら見つめ、言った。

「さあ、私と貴方様の家へ帰りましょう」
「い、嫌だ！」
「…少し我が儘が過ぎますよ？……また、良い事を思い付きました」
「こ、今度は何を、するつもりだ…」
「うふ、狂おしい程に私を求めていただける様にするのですよ」

白蛇は男の頬に両手を当てると言った。

「さあ、口を開けて下さいませ？」

男は口を固く閉ざした。

「開けて下さいませ？」

男は口を固く閉ざしたまま小さく頭を振る。

「開けて」

底冷えのする声色で白蛇が言うと、男はかたかた震えながら口を開いた。
最早、男に為す術は無い。これから行われる『良い事』を甘んじて受けるしかないのだ。

「素直は良き事ですよ。……では」

白蛇は口を開けると、自らの口を男の口にゆっくりと近付けていく。
その時、男は白蛇の口の中を見てしまった。青白く光る白蛇の喉の奥、燃え盛る青い炎が漏れ出るのを見てしまった。

「あ、ああぁ…や、止めて、助け！ッ、むぐぉおおお！」

白蛇の口と男の口が重なって一つ間を置いた後、男の身体中から青い炎が燃え上がった。
燃え盛る青い炎は男だけでなく、白蛇の身体さえも燃やしていく。

「ああああ！身体が熱いい！水、水をぉおお！！」
「うふ、うふふふ、うふふふふふ」

この壮絶な光景を目の当たりにし、弥彦は意識を手放した。


／／／／／／／／／／／／／／／／／


「と、言う事が十余年も前にあったのだ。あの後、偶然にも樵に見付けられていなければ、某は今頃どうなっていた事か……さて、幾らか涼しくはなっただろうか？」
「はい…色々な意味で肝の冷える話でした…」

少しやつれて見えるお華であった。

■作者メッセージ
やったか！？(リベンジ的な意味で)

時期としては魔王が代わった直後です。
白蛇は押し掛け女房。
白蛇なんて見たことの無い男は彼女から逃げるが、ついに捕まる…
と、言った話です。

楽しんでいただけたでしょうか？