堕落の福音
「これで何度目だと思ってんだ!出来ないんならやるんじゃねえよ!!」
「…すみません」
目の前で上司が怒鳴り散らす。
理由は単純。俺がしょうもないミスをしただけだ。
『何度も聞こうとしたけど、相手にしようともしなかったじゃないか!』
そんな不満を飲み込んで、俺は謝った。
口答えをした所で、返ってくるのは更なる罵声と無駄な残業だけだ。
『頑張るのはもう止めてしまいましょう。この世界はこんなにも辛い事が多過ぎますから』
耳元で呟かれる様な声が聞こえた。
驚いた俺はつい辺りを見回してしまった。
「話を聞いてんのか!」
顔に書類を投げつけられる。
今のは俺が悪い。
今のも、今ままでのも、きっとこれからも俺が悪い。
『いいえ、貴方は悪くありませんよ。悪いのはこの世界です。この世界は雑音が多過ぎますから。貴方の下へ堕落の福音がもたらされるその時まで、私が貴方の耳を塞いでおきましょう』
両耳にそっと手が添えられる感覚がした。
飽きずに怒鳴る上司にバレないように、耳に手をやったがそこには誰の手も無かった。
当たり前か。
「 」
だけど、不思議な事に聞き飽きた上司の罵声は聞こえなくなっていた。
それどころか、今では誰かに優しく包み込まれている様な気さえする。
何となく、故郷のお袋を思い出した。
「 」
上司が追い払う様に手を振っている。
きっと一通り怒鳴ってスッキリしたんだろう。
俺は床に散らばった書類を拾うと机に戻った。
「なあ、今の見たか?」
「急にボーッとしちゃって、ちょっと気持ち悪い…」
「ヤバい薬でもやってんじゃねえの?」
「うっそ!?こわーい!」
同僚達がこっちを見ながら何か言っているが、何て言っているか聞こえないし、そんな事はどうでも良かった。
今だけは、この何とも言えない多幸感に身を委ねていたい。
/////////////////
終電ギリギリの電車に乗って、俺はマンションへ帰った。
ビジネスバックを床に放り投げると、手帳と財布が飛び出て散らばる。
ネクタイを緩めて、明かりもつけずにテレビのスイッチを入れる。
最近壊れたテレビが薄ボンヤリと映したのは、ゴミにまみれた俺の部屋だった。
俺はジャケットをゴミの山に投げるとベッドに倒れ込んだ。
スーツに皺が出来るの何て関係ない。
俺は明日から自由の身だ。
『もう休みましょう。この世界は移ろいが激し過ぎますから。永遠に同じ時を刻む万魔殿で、貴方の心と身体を癒しましょう』
そんな耳障りの良い言葉を聞きながら、俺は眠った。
眠りに落ちる間際、誰かが俺の頭を撫でている様な気がした。
/////////////////
「この前に送った履歴書なんだけどね、何処も駄目だったよ…」
職安のおじさんが申し訳なさそうに言った。
何となく予想はしていたからか、それほどショックは無かった。
ただ、この世界への執着が1つ無くなった様な気がして心が軽くなった。
俺はおじさんにお礼を言うと職安を出た。
もうここには来ない気がする。
職安を出た俺はスクランブル交差点で止まっている。
みんな一様にスマホをいじって下を向いているもんだから、俺もそれに倣って下を向いてみる。
あるのはくたくたになった革靴だった。
たぶん、俺もこの靴と同じくらい頼りないのかもしれない。
信号が変わって、回りよりワンテンポ遅れて歩き出す。
揺れる人波の中、俺はふらふら歩いている。
次第に足が重くなっていく。
誰か俺の手を引いてくれないだろうか。
そう思っていると、背中に何かぶつかった。
振り向くと、スマホ片手にヘッドホンを着けている高校生が尻餅をついていた。
「危ねえな!ぼさっとしてんじゃねえよ!」
俺が手を伸ばすより速く高校生は起き上がると、罵声を浴びせて人波に飲まれて行った。
誰かに優しくするのも許されないような気がして虚しくなった。
『貴方の優しさは、貴方が愛し、貴方を愛する者に与えなさい。この世界は心無い者が多過ぎますから。堕落した神の名の下にこの世界が堕落し、愛に包まれる日を夢見て、共に深みへ堕ちて行きましょう』
耳元で誰かが甘く囁いた。
いよいよもって、俺は駄目になったのかも知れない。
/////////////////
「過度な心労でしょうね。1週間分の睡眠薬を出しますので、まずはそれで様子を見ましょう」
医者はこっちを見る事無く言った。
俺はお礼を言うと、診察室を出た。
後は薬を受け取って金を払うだけだ。
「お大事にどうぞー」
無駄に長く待たされ、渡されたのは小さな錠剤が幾つか。
それが入った袋を揺らしながらコンビニに行くと、しこたま酒を買った。
未練何て物は無くなっている。
足取り軽く、俺はマンションに帰る。
目の前には1週間分の睡眠薬と大量の缶ビールや缶チューハイ。
失敗した時の恐怖が頭を過ったが、これからしでかそうとしてる事を思い出すと笑えて来る。
「そんな物に頼ってはいけませんよ」
幻聴ではなく、今度ははっきりと聞こえた。
顔を上げると、テーブルを挟んだ向かい側に黒い修道服を着た女性が見える。
普通の女性と違う所を挙げるなら、黒い翼や尻尾とかがある事だ。
「貴方に堕落の福音をもたらしに参りました。さあ、共に万魔殿へ」
俺は差し出された彼女の手を取った。
手を引かれるがままにベランダへと歩いて行く。
「目を閉じて私に身を任せて下さい」
彼女が人間じゃない事なんてどうでもよかった。
このつまらない世界にさよなら出来るなら、何をされても構わない。
そう思いながら、言われた通りに目を閉じて身を任せると、あの日感じた多幸感が身を包んだ。
そして、俺達はベランダの欄干を蹴った。
「…すみません」
目の前で上司が怒鳴り散らす。
理由は単純。俺がしょうもないミスをしただけだ。
『何度も聞こうとしたけど、相手にしようともしなかったじゃないか!』
そんな不満を飲み込んで、俺は謝った。
口答えをした所で、返ってくるのは更なる罵声と無駄な残業だけだ。
『頑張るのはもう止めてしまいましょう。この世界はこんなにも辛い事が多過ぎますから』
耳元で呟かれる様な声が聞こえた。
驚いた俺はつい辺りを見回してしまった。
「話を聞いてんのか!」
顔に書類を投げつけられる。
今のは俺が悪い。
今のも、今ままでのも、きっとこれからも俺が悪い。
『いいえ、貴方は悪くありませんよ。悪いのはこの世界です。この世界は雑音が多過ぎますから。貴方の下へ堕落の福音がもたらされるその時まで、私が貴方の耳を塞いでおきましょう』
両耳にそっと手が添えられる感覚がした。
飽きずに怒鳴る上司にバレないように、耳に手をやったがそこには誰の手も無かった。
当たり前か。
「 」
だけど、不思議な事に聞き飽きた上司の罵声は聞こえなくなっていた。
それどころか、今では誰かに優しく包み込まれている様な気さえする。
何となく、故郷のお袋を思い出した。
「 」
上司が追い払う様に手を振っている。
きっと一通り怒鳴ってスッキリしたんだろう。
俺は床に散らばった書類を拾うと机に戻った。
「なあ、今の見たか?」
「急にボーッとしちゃって、ちょっと気持ち悪い…」
「ヤバい薬でもやってんじゃねえの?」
「うっそ!?こわーい!」
同僚達がこっちを見ながら何か言っているが、何て言っているか聞こえないし、そんな事はどうでも良かった。
今だけは、この何とも言えない多幸感に身を委ねていたい。
/////////////////
終電ギリギリの電車に乗って、俺はマンションへ帰った。
ビジネスバックを床に放り投げると、手帳と財布が飛び出て散らばる。
ネクタイを緩めて、明かりもつけずにテレビのスイッチを入れる。
最近壊れたテレビが薄ボンヤリと映したのは、ゴミにまみれた俺の部屋だった。
俺はジャケットをゴミの山に投げるとベッドに倒れ込んだ。
スーツに皺が出来るの何て関係ない。
俺は明日から自由の身だ。
『もう休みましょう。この世界は移ろいが激し過ぎますから。永遠に同じ時を刻む万魔殿で、貴方の心と身体を癒しましょう』
そんな耳障りの良い言葉を聞きながら、俺は眠った。
眠りに落ちる間際、誰かが俺の頭を撫でている様な気がした。
/////////////////
「この前に送った履歴書なんだけどね、何処も駄目だったよ…」
職安のおじさんが申し訳なさそうに言った。
何となく予想はしていたからか、それほどショックは無かった。
ただ、この世界への執着が1つ無くなった様な気がして心が軽くなった。
俺はおじさんにお礼を言うと職安を出た。
もうここには来ない気がする。
職安を出た俺はスクランブル交差点で止まっている。
みんな一様にスマホをいじって下を向いているもんだから、俺もそれに倣って下を向いてみる。
あるのはくたくたになった革靴だった。
たぶん、俺もこの靴と同じくらい頼りないのかもしれない。
信号が変わって、回りよりワンテンポ遅れて歩き出す。
揺れる人波の中、俺はふらふら歩いている。
次第に足が重くなっていく。
誰か俺の手を引いてくれないだろうか。
そう思っていると、背中に何かぶつかった。
振り向くと、スマホ片手にヘッドホンを着けている高校生が尻餅をついていた。
「危ねえな!ぼさっとしてんじゃねえよ!」
俺が手を伸ばすより速く高校生は起き上がると、罵声を浴びせて人波に飲まれて行った。
誰かに優しくするのも許されないような気がして虚しくなった。
『貴方の優しさは、貴方が愛し、貴方を愛する者に与えなさい。この世界は心無い者が多過ぎますから。堕落した神の名の下にこの世界が堕落し、愛に包まれる日を夢見て、共に深みへ堕ちて行きましょう』
耳元で誰かが甘く囁いた。
いよいよもって、俺は駄目になったのかも知れない。
/////////////////
「過度な心労でしょうね。1週間分の睡眠薬を出しますので、まずはそれで様子を見ましょう」
医者はこっちを見る事無く言った。
俺はお礼を言うと、診察室を出た。
後は薬を受け取って金を払うだけだ。
「お大事にどうぞー」
無駄に長く待たされ、渡されたのは小さな錠剤が幾つか。
それが入った袋を揺らしながらコンビニに行くと、しこたま酒を買った。
未練何て物は無くなっている。
足取り軽く、俺はマンションに帰る。
目の前には1週間分の睡眠薬と大量の缶ビールや缶チューハイ。
失敗した時の恐怖が頭を過ったが、これからしでかそうとしてる事を思い出すと笑えて来る。
「そんな物に頼ってはいけませんよ」
幻聴ではなく、今度ははっきりと聞こえた。
顔を上げると、テーブルを挟んだ向かい側に黒い修道服を着た女性が見える。
普通の女性と違う所を挙げるなら、黒い翼や尻尾とかがある事だ。
「貴方に堕落の福音をもたらしに参りました。さあ、共に万魔殿へ」
俺は差し出された彼女の手を取った。
手を引かれるがままにベランダへと歩いて行く。
「目を閉じて私に身を任せて下さい」
彼女が人間じゃない事なんてどうでもよかった。
このつまらない世界にさよなら出来るなら、何をされても構わない。
そう思いながら、言われた通りに目を閉じて身を任せると、あの日感じた多幸感が身を包んだ。
そして、俺達はベランダの欄干を蹴った。
16/08/09 15:02更新 / PLUTO