連載小説
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前編
「そういや、最近吹雪がひでぇな」

 暇だ何だと言いながら、自宅に転がり込んできた友人と酒を飲み交わしていた。
 彼はジョッキで麦酒を。僕は氷の入れたグラスで薄めの火酒を。
 互いのペースで思い思いに飲みながら話をしていると、彼が窓を見て呟くようにそう言ったのだ。

「……まぁね」

 僕も釣られるように、窓に顔を向ける。
 まだ昼だと言うのに、外は薄暗く、窓を叩きつけるように吹雪いていた。

「まるで、全てを拒んでるみてぇだなぁ」
「村長も同じ事言ってたよ」

 僕と友人は息を深く吐いた。
 ここは、話によく聞く街路に灯りが照らされるような都会ではなく、万年吹雪に見舞われることもある、雪原地帯の小さな村だ。
 別に太陽と仲が悪いわけではない。陽の光が雪原一帯を照らしてくれることもある。光を受けて輝く未踏の雪景色は、見る度に感動するほどだ。
 しかし、最近は太陽が顔を見せてくれることはなく、吹雪が猛威を振るっている。
 最近、と言いつつ最後に陽の光を浴びたのがいつだったか、定かではないほどに前の記憶だ。

「全く、こんなくそわるい天気じゃなくて、もっと天気の良い日に行きゃいいだろうが」
「知ってた? 村長の話だと、明日からはこれ以上に吹雪がひどくなるらしいよ」
「マジかよ。ならもっと後にするとかよ……あるだろうが」

 友人が大袈裟に顔をしかめながら答える。
 吹雪がひどくなるのは、正確には今日の日が暮れる頃からだが、言わないでおく。
 村長の予報は信憑性が高い。
 昔、誰もいない雪山で長い間生活をしていたことがあるらしく、その時に天気の様子が分かるようになったらしい。
 子供の時は、目の前の友人と『村長は人間ではないのでは』と、様々な妄想を膨らませて一日を過ごしていたこともあるが、今となってはどうでもいい話である。
 例え人間だろうとそうでなかろうと、村長は村長だ。

「ド正論だけど……理屈じゃないんだ、こういうのは。今日行くって、決めたからね」

 グラスに入ってから全く小さくならない氷を眺めながら、僕は答える。
 誰にでもあるだろう。理屈で片付けられない、自分の信念のような物が。この件に関して言えば、それに等しい。
 顔を上げると、友人が納得しきれていない表情で椅子の背もたれに背中を預けていた。

「お前さ……変なところで頑固だよな」
「言われすぎてもう慣れたよ」

 僕の言葉に、彼は大袈裟にため息を吐いてきた。
 小テーブルを挟んだ向かい側にいるとは言え、漂ってくる息は既に酒臭い。

「はー、吹雪がひどくなった辺りからか、ここらへんで魔物も見かけるようになったって話もあるしなぁ。全く、これじゃおちおち外にも出られねぇよ」
「それは、これから野暮用で村の外に出る、僕への皮肉と捉えていいかな」
「気をつけろってことだよ」

 友人は先ほどよりも真剣で、しかしヤケクソ気味な声色で言うと、ジョッキに入った麦酒をあおった。
 そんな不器用な優しさを見せる友人に笑みが浮かぶのを止められず、それを誤魔化すように、僕は未だに溶ける気配が無い氷の入ったグラスに口を付ける。

「大丈夫さ。何とかなる」
「どうだかなぁ……お前は昔からお人好しだからな。魔物なんかにもコロッと騙されそうだ」
「それはさすがに無いだろう、って思うけどね」

 この村にも、教団に属する人間がたまに訪れてくる。
 その人の話では、魔物とは人間に襲いかかり、血肉を喰らう醜悪な魔物という話をよく聞く。
 しかし、風の噂では魔王が代替わりした時から、全ての魔物は美しい女性へと変化し、人間に対しては友好的に接してくる、という話も聞く。
 この村や、僕自身が完全な反魔物領に属しているというわけではないが、どちらを信じるかと聞かれれば、やはり直接人から聞くことの多い前者の話だろう。
 これは僕の偏見かもしれないが、前者の話が本当であれば、人間を騙せるほど知能の高い魔物は少ないだろう。仮に知能が高かったとしても、獲物の少ないこの地域に居続けるのは得策ではない。
 逆に、後者の話が本当であれば、話も分かるだろうし人間を騙して襲う必要も無い。

「それがお人好しだってんだよ。ったく、そんなんだからお前は彼女の一人も出来ねぇんだよ」
「余計なお世話だよ――っと。そろそろ、行ってくるよ」

 最近になって事ある毎に言ってくる友人の軽口に返しながら、グラスの酒を飲み干して立ち上がる。
 相変わらず溶けてくれない氷が気になって仕方ないが、これ以上長居するわけにもいかない。
 外は薄暗いが、これ以上暗くなる前には村に戻っておきたい。
 今日中に行かなければ次に行くのはいつになるかも分からないのだ。

「あぁ、またな。あと……親御さんによろしくな」
「伝えておくよ。あと、自分の家に戻るなら鍵はいつもの場所に」
「わかったわかった」

 友人の適当な言葉にため息を吐きながら、防寒着を身に付けて、家を出た。


 吹雪で白く埋もれつつある墓の前で手を合わせ、目を閉じる。
 野暮用と言っても何のことは無い、両親の眠る墓の前で、近況を語りにきただけだ。
 最後に来てから、今までのことを思い出せる限り語っていく。
 初めはこの墓前に来るだけでも、父さんや母さんが恋しくて涙が溢れてきてしまうほどだったが、今では慣れたもので、微笑みかける余裕もできた。
 人間とは慣れる生き物だ。時にはそれが残酷な場合もあるけれども、僕にとってこの慣れは、天上にいる両親を安心するために必要な慣れだと思っている。

「……よし」

 白い息と共に言葉を吐き出し、立ち上がる。
 最後に、何も手土産を持って来れなかったことへの謝罪と、またすぐにでも来るという約束を取り付けて、墓地から出た。
 出たのだが。

「…………」

 しばらく歩いて、僕は呆然としてしまった。
 吹雪が強くなっていることは薄々感づいていた。
 空が、来た時よりもさらに暗くなっていることも気付いていた。
 自分の足跡が消えてしまっていることも、最初の吹雪の時点で、どうせ村まで辿り着く前に完全に消えて分からなくなっているだろうからまだ良い。
 ただ、村と墓地を繋ぐ、一番大事な目印が見つからないのだ。

「……まずったな」

 墓地と村からは距離がそこそこある。時計を基準に考えれば、村と墓地を往復するだけで、長針が一周するくらいには時間がかかる。
 なぜ、ここまで長いのかと問われれば、僕にもよく分からない。一言で片付けるならば、村長の意向と言うしかない。
 ただ、遠いということは村長も自覚していたようで、村と墓地を繋ぐ為の目印として、先に赤い旗の付いた鉄製のポールを、地面に刺してくれていた。
 何度もその目印を頼りに墓地と村を往復してきたから分かるのだが、それは吹雪にも耐え得る頑丈なポールで、その目印と目印の間隔はある程度しか開いていないはずなのだ。
 その目印が、この吹雪の中では全く見えてこない。
 しかし、だからと言って、吹雪が止むまでここにいるわけにもいかない。
 明日や明後日の天気までは分からなくとも、この後の天気の状態ならば村長でなくとも分かる。
 この吹雪、今日中に止むことはない。

「ははっ……帰れるかな」

 自嘲気味に笑いながら、僕は呟いた。
 それでも、帰らなければならない。
 動いていれば、目印も見つかる。動かなければ、その目印は見つからないのだ。
 大丈夫さ、何とかなる、と出来る限り前向きに考えながら、僕は再び歩き出した。


「……あれ?」

 吹雪で遮られて先の見えない視界の中を彷徨ってから、どれくらい経った頃だろうか。
 奥のほうで、動く影を見つけた。
 目印にしては小さすぎる影。どこか、人の形をしているようにも見える。
 遠出している最中に吹雪が強くなり、自分のように遭難寸前まで来てしまった人だろうか。
 普通に考えてそんなことはあり得ないはずだが、誰かがいる、ということは僕に強い希望を与えていた。
 その影に近寄っていくと、それは動きを止めてこちらに対して何か身構えているようにも見える。
 それでも尚、近付いていくとその影の姿が次第に明確になり――

「……っ!」

 その姿に僕は目を見開き、息を呑んだ。

「…………」

 それは、女性の姿をしていた。蒼い双眸は、氷のように凍てついていて、こちらを冷たく射抜く。
 左右で下ろした長い髪は下に行くほど青から赤味を帯び、それでも冷たい紫へと色を変えていた。左右の結び目は、青紫色のヘアバンドの先についているのか、大きく細長い氷のようなもので隠されている。
 さらに、この猛吹雪の中だと言うのに、無駄の無いすらりとした身体を覆っている着衣は、胸と腕部分にしかなく、肩や腹などから露出している青白い肌はどう考えても人間的ではない。
 また、下半身の腿から先は、氷柱型の義足のようになっていて、足先に行くほど先細っている。
 これだけ彼女の姿を分析して、考えられる事は一つ。

 魔物である、という事だけだった。

 魔物とは、美しい女性であり、人間に対して友好的に接してくるという、風の噂の話。
 それは、正解半分で間違い半分だった。
 確かに、彼女は美しい姿をしている。しかし、彼女の僕に対する眼光は、とても友好的なそれではなかった。
 彼女がどんな魔物かは分からない。しかし、この地域に関連した、凍てつくような氷の魔物であるということは雰囲気から悟ることが出来る。
 この状態から、いつ氷漬けにされてもおかしくない。
 それほどまでに、彼女の視線は無感情だった。

「人間が何の用」

 そうして発された彼女の言葉は、この猛吹雪よりも、凍てついていた。
 返事をするのが、というよりは彼女に対して言葉を発することすら躊躇われる。

「い、いや、あの……み、道に迷ってしまいまして……」
「だから」

 正直な話を言うと、今すぐ背を向けて立ち去りたい。
 彼女の無感情さがとてつもない拒絶に感じてしまうのだ。
 しかし、彼女の気分を害して、背中から氷柱を刺されでもしたら、と考えてしまうとできなかった。できるはずがなかった。
 相手は魔物なのだ。どんな姿をしていようが、どんなに美しかろうが、魔物なのだ。

「あの、この近くに小さな村があるはずなんですが、場所とかって分かりますかね?」
「興味ない」
「あぁ……そうですか」

 向こうから話しかけておいて、この無愛想な対応は一体どういうことだろうか。
 いくら興味が無いからと言って、それを相手に隠さずぶつけていい、ということにはならない。
 ここまで来ると、僕もさすがに気分を害される。
 多少投げやりに、そして彼女に当てつけるように、わざとらしくため息を吐こうとした。

「でも、女王様から『人間を殺してはいけない』と厳しく言われている」

 そんな時、相変わらず拒絶的ではあるが、彼女が僕を見ながらそう言った。
 しかし、そんな無愛想で言われても、説得力が無い。

「は、はぁ……」
「だから、あなたが死んでしまわないように、その村まで一緒についていてもいい」
「は!?」

 一瞬、幻聴かと思ってしまった。
 彼女から、そういう親切さは微塵も感じられないからだ。どこで野垂れ死のうと構わない。彼女の態度はそういう類のものだ。
 とは言え、彼女がこの場で嘘を吐くようには見えなかった。
 僕に対して全く興味が無いから、嘘を吐く必要性がない、という拒絶的な意味での理由だ。
 ならば、嫌々だろうとなんだろうと、彼女にとって女王様の命令には絶対ということになる。
 何にしろ、自分以外の誰かがいるというのは心強い。話の通じる相手ならなおさらだ。
 それが、たとえ無感情で無愛想の失礼な魔物だとしても。

「あぁ、それはありがたい。是非、お願いしたい」
「ただし条件がある」
「……はい?」

 その条件に、少しだけ身構える。
 彼女が教団の言う魔物なのか、それとも風の噂に聞く魔物か、僕の見解ではまだ半々だからだ。
 これだけ人間と話が出来るのだ。相応の知性を持っていても良い。
 もし彼女の僕に対する無興味が、食料としか見ていないから、という理由だとしたら?
 そう、身体の一部を食わせろ、などの要求をしてきてもおかしくはないのだ。
 指一本や、目玉一つなら、人間は死なない。

「あなたの精をもらう」
「……は? せ、精?」

 しかし、その条件は全く持って意味の分からないものだった。『精』と言われても、それは受け渡しできるものではなく、自分で付けるものではないだろうか。
 考えても仕方が無い。何にしろ、命を取るようなことではないことは分かっている。
 人体の一部をもぎ取られるよりかはマシだろう。
 ……生活に支障が出るような『精』でなければいいが。

「まぁ、いいけど……僕はどうすればいいんですか?」
「私が言うまで動くな。動いたら無理やりにでも拘束する」
「はぁ……分かりました」

 ……あれ、僕は彼女に『精』を献上することが確定事項となっているのか?
 それならば動かない方が良いだろう。『精』の受け渡しを終わらせてさようなら、という事態は何としても避けたい。
 靴に雪が入るのを我慢して、膝を前に折って雪の中に埋めた。

「…………」
「…………」

 そのままの状態で、彼女を眺める。
 彼女もその場から動かず、無感情にこちらを見下ろしている。
 これで良いのだろうか。何も変わっているような感じはしない。
 本当に『精』を受け取っているのか、それを聞こうとしたとき、ようやく周囲を取り巻く空気の変化に気付いた。
 冷気が、先ほどまでの身体を冷やしてくるようなものとは違っていた。言ってしまえば、先ほどよりも凍えるような寒さではなくなったのだ。

「……ん?」

 しかし、肉体的に冷やされるのとは違う、また別の寒さを感じた。
 言ってしまえば、誰かが恋しくなるような寒さだ。
 まるで、冷気が心の中に直接入り込んでくるような。
 心に開いてしまっている穴を、それがどんな小さな穴でも、その冷気は容赦なく通り抜ける。
 冷やされている。心が、冷やされている。

「……っ」

 身体が震える。孤独の寒さに打ち震え、思わず両腕で、自分の身体を抱きしめた。
 何なんだ、これは。
 寂しい。人の温もりが恋しい。
 これが『精』を渡すと言うことなのか?
 とは言え、別に彼女は何かを奪っているんじゃない。
 ただ、僕が心の奥底にあった寂しさや孤独感を、表面上に引きずり出しているだけだ。
 それが『精』を渡すことと、どう繋がっているのかはわからない。
 ただ、言える事は、寒い――心が寒い。

「ぅ……くっ」

 耐えろ。耐えるんだ。
 これは全部、過去に味わったことのあるものだ。一度は狂おしいくらい苛まれ、そして乗り越えてきたものだ。
 だから、耐えられるはずだ。何とかなる、このくらいの寒さなら、まだ大丈夫だ。
 顔を上げる。
 彼女が、相変わらず無表情で見下ろしてきている。
 こんな無愛想な奴に、恥を晒すわけにはいかない。彼女にとって、僕はそんなことをする価値すらないという事は分かっているが、彼女に弱みを握られるような感覚になるのはとてつもなく嫌だった。
 そうして、吹雪が身体ではなく心を打ち付けて来る中、自らを励まして心の寒さをごまかし続ける。 その時、フッとその冷気が止んだ。
 そして、打ち付けてきていた吹雪が従来どおりの役割に戻り、今度は肉体的な寒さに身体が震えた。

「精はもらった」
「あぁ、そうですか……ふぅ」

 どうやら終わったらしい。
 深く息を吐いて、心に宿っていた孤独感を外に追い出す。
 これで交渉は成立だ。村に着くまでは彼女がいてくれる。
 立ち上がり、肩やフードに積もる雪を手で払う。

「で、村まで行くわけですが……ちなみに、その場所を捜し当てたりとかは……」
「できない。私はあなたが死なないように監視するだけ」
「……そうですか」

 監視……か。相変わらず相手に対する思いやりの欠片も感じない魔物だ。
 まぁ、彼女がいる限り、命に関しては保障されているので安心してもいいだろうが、なるべく早く戻れることを祈ろう。
 別に、この魔物の監視に対して申し訳ないと思っているわけではない。
 人が恋しいのだ。
 こちらを冷たく見てくるだけで動き出そうともしない彼女に代わり、僕は猛吹雪の雪原を歩き出した。

 しかし、現実とは非情なものだ。いや、この場合は神に見放されているとでも言えばいいのか。
 空は黒く染まり、それでもなお猛威を振るう吹雪の中を、無愛想な魔物と歩き回るが、未だに目印が見つからない。
 ただでさえ吹雪で視界が悪いと言うのに、この漆黒の夜空では目印を見つけることは絶望的だ。
 だからと言って立ち止まるわけには行かず、ひたすら歩き続けていると、小さな洞窟を見つけた。
 このまま歩いても疲れるだけだと感じた僕は、ここで一日を凌ぐ事にした。それでいいか、と彼女に聞くと、『あなたが村に着くまでに死ななければどうでもいい』と返ってきた。
 それを了承と受け取り、洞窟の中で身体を休めることにする。
 中はそんなに深くは無かったが、幸い先客はいなかった。家具のようなものは無いが、地面や壁がわずかに整えられているのを見ると、過去に誰かがここで過ごしていたらしい。
 明かりや暖房のようなものはないが、それでも吹雪に晒されているよりはずっとマシだろう。
 なるべく外からは遠い壁際に背を預けて座り込むと、どっと疲れが溢れ出してきた。そうして疲労を自覚してしまうと、もう立ち上がることすら億劫になる。
 僕とは対照的に、彼女は疲れも見せず、見慣れてきた無表情で僕を見下ろしてくる。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
「興味ない」

 ばっさりだ。彼女の対応に慣れてきたのもあるが、ここまで来ると逆に清々しい。

「僕があなたのことを知りたいんですが」
「私は興味ない」
「いや、だから……もういいか」

 少なくともここまではお互いのことを知らずにやってきたのだ。無理に知る必要もない。
 それでも吐き出るため息に精神的な疲労を感じながら、壁に背を預けて目を閉じた。



 目を覚ます。暗い景色と、視界の隅の白い景色で、現状をすぐに思い出した。
 その白い景色に目を向けると、そこそこの距離を開けて、こちらに冷たい目を向ける青白い肌の女性がいた。
 左右に下ろした髪を結い直した形跡がない。もしかして寝ていないのだろうか。
 とは言え、彼女は人間ではないし、寝る必要が無いのかもしれない。
 便利な生き物だ。人間である事にそれなりの誇りはあるつもりだが、今だけは魔物と言う存在が羨ましい。

「おはようございます」
「…………」

 返事は無し。そもそも期待していなかったのでショックもない。
 洞窟の外に近付いてみると、相変わらず暴力的な吹雪が天下を取っている。
 近くに転がっている小石を拾い、雪原に向かって高めに投げてみると、すぐに見えなくなった。
 視界は最悪だ。

「この中を歩き回るのは無謀だな」

 一度出てしまったら、もう二度とここには戻ってこれそうにない。
 いくら命を保障されているとは言え、体力や気力までは保障してくれないだろう。

「吹雪が止むまではここにいることにします。いいですかね、魔物さん」
「あなたが死ななければどうでもいい」

 相変わらずの返事だ。

「ここにいれば、死ぬことも無いでしょうから、僕の監視を終わらせても構いませんが」
「それはできない。精をもらった以上、村までは一緒にいなければならない」
「……そうですか」

 律儀なものだ。彼女がそう言うなら、無下にすることもない。
 自分から話しかけることさえ無ければ、きっと彼女から話しかけてくることもない。

「ただ、あなたからまた精をもらうことになる」
「全然構いませんよ、魔物さんがそれでいいなら」

 洞窟の奥に戻りながら、答える。
 彼女に『精』を渡す時の、あの強烈な温もりへの恋しさは、この状況ではかなり辛いが耐えられないものではない。
 そうして、最奥の壁に背を預けて腰を下ろし、防寒着のポケットから飴を取り出して口に放り込んで空腹をごまかす。
 この雪原地帯で生活をする人々の大体がそうだが、防寒着には非常食として小さな固形物を常備している。特に僕は内側にあるポケットなどにも無駄に詰め込んでいるので、贅沢さえ言わなければ10日くらいは持つ。
 水に関しては、外に積もっている雪さえあれば何とかなるだろう。

「…………」

 口の中で飴を転がしながら、ふと夢を見たことを思い出してしまった。
 まだ幼い僕が、両親と笑い合って過ごしていた頃の夢だ。
 とても幸せで――今となっては、とても残酷な夢でしかない。
 普段であればあの頃は楽しかったなどと能天気に言うことも出来ただろうが、如何せん今は状況が状況だ。
 滅多にそんな夢を見ることはないのだが、どうして今になって見たのだろうか。

「……っ」

 ……考えても仕方がないことに気付き、頭を振って追い出した。
 気付いたら口の中の飴が無くなっていた。どうやら思っていたよりも考え込んでいたらしい。
 まだポケットに入っている飴を取り出し、口の中に放り込んだ。

 その後、何度か寂しさに心を支配されかけられながら、一日を洞窟の中で費やした。
 吹雪はまだ、止まない。



 それから、恐らく3日ほど経った頃だ。僕が一日中眠っていたという事さえ無ければ、この計算は間違っていないはずである。
 この洞窟に来てから、毎日のように村で起きた楽しい出来事が夢に出てくる。おかげで心は余計に温もりを求めるようになり、それを抑えることから僕の一日は始まる。
 心を落ち着かせた後、入り口付近にいる青白い魔物に声をかけながら、外の様子を見るまでが日課になりつつある。

「おはようございます」

 一日の始まりは挨拶から始まる。だから、誰でもいいからその日初めて人に出会ったら、その人に挨拶しろと、父が言っていた。
 当たり前ではあるが、一日の始まりに初めて出会う人は、母か父だった。
 母も父に対しては理解がある人だったらしく、僕と顔を合わせると必ずと言っていいほど挨拶をしてきた。
 それが一日欠かさずに数年単位で行われ、両親がいなくなる頃には、すっかり習慣付いてしまっていた。
 返事が来ないと分かっていても、挨拶してしまう自分には少し呆れる。身に染み付いた習慣にはそう簡単には抗えるはずはないのだ。
 そうして外を眺めるのだが。

「……おはよう」

 冷たい声で、挨拶が返ってきた。
 思わず彼女の方を見ると、表情に変化は無く、こちらを見る目はやはり冷たい。冷たいが、凍りつくほどではなくなっているように見えた。
 恐らく、彼女が意外なことをしてきたので、そう錯覚してしまっているだけだろう。

「お……おはようございます」
「おはよう」

 意味も無くまた返してしまうと、また返されてしまった。本当に律儀な魔物だ。
 言うべき言葉が見つからず、何も言わずに外を眺める。
 吹雪は、少しだけ弱まっているように見える。弱まっていたが、洞窟から出ようと思えるほどではない。
 まだ、洞窟での生活はしばらく続きそうだ。

「……グラシス」

 吹雪で積もって汚れていない雪をすくって口に入れていると、彼女が呟くように言った。
 聞きなれない単語に、顔を向けると表情の読めない顔で僕を見下ろしていた。
 どうやら僕に向けた言葉であるらしい。だが、意図が分からない。

「……はい?」
「私の名前」
「あ、あー……そうですか」

 合点がいった。どうやら彼女はグラシスと言うらしい。
 それは良いのだが……一体どういう風の吹き回しだろう。
 特に僕は彼女にしつこく話しかけてもいない。吹雪が止むまでここに過ごす事を決める、と伝えてからは毎日挨拶ぐらいしかしていない。

「あなたの名前」

 これからもそこそこ長く洞窟で一緒に過ごすだろう人間に対して、多少の興味が沸いた、ということだろうか。

「僕は……僕の名前は、コールです」
「コール……そう」

 それっきり、彼女は何も言わなくなる。話は終わりらしい。
 雪で喉を冷やして潤いをごまかし、洞窟の奥へと戻る。
 適当な壁際で腰を下ろし、防寒着のポケットからビスケットを取り出して齧る。
 グラシスさんのあの変化は何だろうか。
 自分に対して興味を持ってくれたことは嬉しい。
 嬉しいが、今になっては素直に喜ぶことはできなかった。

 グラシスさんの対応や吹雪がやや軟化したが、時折襲い掛かる温もりへの渇望は、相変わらずだった。



 次の日、目を覚まして入り口近くにいるグラシスさんと挨拶を交わす。

「吹雪は日に日によわくなっている」
「そうみたいですね」

 彼女の言うとおり、外は相変わらず吹雪いているが昨日よりも弱くなっている。
 このまま弱くなってくれればいいが。
 グラシスさんを見ると、外の景色をただ眺めている。
 昨日は態度も柔らかくなっていた。
 今なら、聞きたいことも色々と聞けるかもしれない。

「そう言えば、グラシスさん」
「なに」

 彼女がこちらに顔を向ける。
 やはり、表情に凍ったような硬さが消えている……ように見える。

「グラシスさんって、結局は魔物でいいんですよね?」
「なんで」
「いや、何でって聞かれても……あ、あぁ、僕の質問が悪かったです、ごめんなさい」

 特に深い意味は無い質問だったのだが、自分が逆の立場で似たようなことを聞かれたら、きっと同じような言葉を返すだろう、ということに気が付いた。
 この質問は僕に置き換えれば、『君は人間だよね?』と聞かれていることと同じである。
 自分の聞きたいことを的確に表す言葉は、この場合どういう言葉だろうか。
 如何せん魔物への知識が無さすぎて、言葉が見つからない。

「私は精霊だから」
「……精霊?」

 そんな僕の心を悟ったのか、グラシスさんが僕の求めていた問いの答えを提示してくれた。
 精霊という言葉は聞いたことがある。
 と言うのも、人間の中には精霊を扱う者も存在するくらいなので、その話を聞くことが多く、少なくとも魔物よりかは知識を持っている。

「精霊って言うと、精霊使いとかが使役する……あれですか?」
「似ているけど、違う」
「……と言うと?」

 精霊と一口に言っても、色々違うらしい。
 人間も、生まれた場所や生きていた環境で、呼び名が変わるらしいので、分からないこともない。

「彼女らは、自然から生み出された存在。私は、女王様から生み出された存在」
「自然に寄るものか、人の手に寄るものか、って事ですか」
「そう」
「なるほど」

 僕からしてみれば、どちらにしろ同じようなものだが。

「でも、私もその精霊も、人間の精を必要としている。他の魔物も、精を必要としている」
「…………」
「そういう意味で、私も魔物と呼ばれている」

 魔物の定義は、人間の『精』を必要としているかどうか、だったのか。
 じゃあその魔物たちが必要としている人間の『精』が、共通の物であれば、魔物は人間の血肉を喰らう必要はないということになる。
 つまり、教団に属する人の言う話は、まるっきりの誤解なのだ。
 まぁそれ以上に精霊も魔物の区分に入ってしまうことに驚いたが。

「……すいません、僕はあなたのことを誤解していたかもしれません」
「気にしてない」

 僕が頭を下げると、グラシスさんはそう言った。
 どこか嬉しそうに聞こえたのは、錯覚だろうか。
 顔を上げると、それが錯覚ではない事を証明されてしまった。
 そこにあったのは、最初に会ったときとは考えられないくらい、柔らかな微笑だった。

「……なんか、グラシスさん、変わりましたよね?」
「なにが」
「なにがっていうか……なんか雰囲気が温かくなったというか」
「……よくわからない」

 分かるものでもないだろう。
 彼女のこの変化については、喜んでいる自分と、喜べない自分が混在している。
 僕が求める温もりに、今までのグラシスさんは対象外だった。温かみを全く感じなかったからだ。
 最初はあの冷淡な態度が嫌ではあったが、慣れてしまえばどうということはなかった。
 それが、今では彼女から僕に歩み寄ろうとしているし、最初にあった冷酷さも溶け始め、温もりを有し始めている。
 その温もりを、求めてしまうだろうことは推測に容易い。
 どうせ、彼女とは村に着いてしまえば終わる関係だ。
 だからこそ、自分勝手な願いだと分かっているが、最後まであの態度を貫いて欲しかった。

「でも、もっとあなたのことを知りたくなっている」
「……そうですか」

 それが、僕に対して興味まで持つようになっている。
 一体、何が彼女を変えたのだろう。

「教えて欲しい」

 グラシスさんが隣に腰を下ろす。隣に座られても、冷気は漂ってこなかった。
 彼女自身も冷気を発していると思い込んでいたが、どうやら僕の勝手な思い込みだったようだ。

「ならグラシスさんから聞いてきてください。僕はそれに、答えられる範囲で答えますよ」

 そうして、村のことや僕自身のこと、そこから派生して友人のことなども悪く言いつつ、教えていく。
 聞けば聞くほど、質問したいことは増えていくようで、グラシスさんとは外が暗くなっても話を続けた。
 その日、グラシスさんとは出会ってから最も多くの言葉を交わしていた。

 少しずつ、しかし確実に。
 吹雪は弱くなっていた。
 しかし、それ以上に僕の心も弱くなっていた。
 自分で思っていたよりもずっと、限界はすぐ近くにあったのだ。
14/11/17 22:39更新 / edisni
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