連載小説
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空を異様な色の雲が渦巻いている。雲の合間から覗く空も、不安を煽る色合いをしていた。
それもそのはず、ここは魔界。青空と白い雲の広がる地上とは、全く異なる世界だった。
見渡す限りの荒野の真ん中には、巨大な城が渦巻く雲に向けてそそり立っている。
そして城を目指すように、荒野を一台の巨大な荷車が進んでいた。
六つの車輪が大地を踏みしめるその荷馬車は、金属特有の鈍い光沢を帯びており、罪人護送用の箱型馬車に似た形をしている。だが、妙なことに引く馬もいないのに、前へ前へと進んでいた。
「あれが、魔王城ですか…」
箱型馬車の天版の蓋を開き、顔をのぞかせたウィルバーが城を見上げながらそう呟いた。



見世物小屋の一件ののち、レスカティエに文字通り駆け戻ったウィルバーは、レスカティエの公文書館に押し入り、通常数人がかりでないと持ちあがらない「言の戸」と呼ばれる落とし戸を一人で開いて、地下書庫に入り込んでいったのだった。
資料を手に入れた彼はすぐさま緊急会議を招集し、集まった高僧や聖騎士を前にして、彼はこう言ったのだ。
「皆さん、魔王を滅ぼしましょう」
驚愕する一同を前に彼は朗々と、もはや魔物を個別に相手しては埒が明かない、大元を立つべきだ、と続けた。
「しかし、どうやって魔王を倒すのだ?」
「あ奴の側には、前魔王を倒した裏切り者が控えているのだぞ」
湧きだす当然の疑問に、彼は自信に満ちた声で、こう応じた。
「問題ありません。私が相手をします」
そしてマントの下から槍を一本出すと、その穂先で自身の手首を切り落としたのだ。
「さあ、ごらんください」
赤い断面を晒し、血の溢れだす手首を一同に向けて掲げると、手首の断面を突き破って何かが現れた。
それは、ウィルバーの指だった。
中指、人差し指、薬指が肉をかき分けながら現れ、長袖に腕を通すように手首から先が瞬く間に生え揃った。
「このように、私は主神の御加護と祝福を一身に受けてきました。そして今こそ、主神がお与えになられた物に応えるべきなのです」
目の前で繰り広げられた再生と、ウィルバーのここ数年の武勇は、一同の反論を封じるのに十分な力を持っていた。
「もちろん、私一人ではできることに限りがあります。ですので、皆さんにもご協力をいただきたいのです」
ウィルバーの言葉に、首を横に振れる者は誰もいなかった。


そして、ウィルバーは教団の助力を得て、この『戦車』を作り出したのだった。
公文書館の地下書庫に封じられていた、『ウェイトリィの馬車』をモデルに作りだされたこの一台は、大気中の魔力を吸って動く。
その特性は、魔界のような魔力の満ちた環境で大いに発揮されていた。
「……」
ウィルバーは戦車の表面に刻まれた無数の模様を一撫ですると、空を見上げた。
彼の耳に、遠くから翼が空を打つ音が届いたからだ。
魔王城に向けて接近する戦車に、魔物たちが気が付いたらしい。
「さて…」
目的はあくまでも魔王城への到達。今ここで、この『戦車』を破壊されるわけにはいかない。
ウィルバーは一度頭を引っ込めると、天版の穴から這い出て、戦車の上に立った。
彼の手には、矢がぎっしり詰まった矢筒が握られている。弓は携えていなかったが、問題はない。
矢を一本右手に握ると、聖騎士の鉄仮面が魔王城の方に向けられた。
渦巻く雲を背に、一つ二つと、小さな影が舞っている。形は定かでないが、サキュバスかハーピーだろう。
ウィルバーは、羽ばたく影に向けて、矢を握った右手を掲げ、振り下ろした。
指の間から矢が離れ、緩やかに山なりの子を描きながら影へと突き進む。
そして、矢がウィルバーの目に見えなくなったところで、影があわてたように少しだけ浮かび上がった。遅れて聖騎士の耳に、一際強く空を叩く翼の音が届く。
だが、影が十分に動くより先に矢が届き、空飛ぶ何者かの羽を貫く。
衝撃と痛みに影がバランスを崩し、魔界の大地に向けて落下していく。
しかし、その体が大地の染みと化すはるか前に、近くを飛んでいた別の影が寄り添い、影の落下を止めた。
「仲間思いですね…」
負傷した仲間を抱きかかえ、魔王城へと舞い戻っていく影に向けて、ウィルバーは小さく呟いた。
そして、彼は矢筒に手を伸ばすと、まとめて数本の矢を引き抜いて腕を振りかぶると、一息に振り下ろした。
指の間から矢が放たれ、一本一本が別の方向へと飛んでいく。
すると、舞う影が反応するより早く、鋭い矢じりが翼を撃ち抜いた。
『っ!』
『!?』
風に乗って、微かな悲鳴がウィルバーの耳に届き、姿勢を崩して墜落していく。
仲間の落下に、その周囲を飛ぶ影たちが舞い寄り、抱きとめた。
そして、ウィルバーの思惑通り、影たちはひとつ残らず魔王城へと引き返していった。
これでいい。
ウィルバーは飛び去っていくいくつもの影を見送りながら、鉄仮面に覆われた顔を頷かせた。
空からの偵察がだめならば、次は陸上からの攻撃だろうか。それとも、遠距離魔法による直接攻撃だろうか。
「さあ、次はどう来ますか…?」
魔王城を見据えながら、鉄仮面の奥から低い挑発めいた声が響いた。



魔王城の一角、大きく張り出したテラスに、いくつもの魔物の姿があった。
ハーピィなど、翼をもつ魔物が楽に離着陸できるように造られたそこにいたのは、負傷したハーピィとその治療に当たる魔物だった。
「ハーピィ偵察部隊、負傷多数!」
ハーピィの一体が、上官のバフォメットに向けて報告する。
「これ以上出撃させては、全員負傷になりかねません!」
「仕方ない、空からの偵察は諦め、弓矢と魔法での攻撃としよう…」
数多くの負傷者に、見目幼い魔王軍の幹部は、方針を変更した。
魔王城めがけて突き進む、家ほどはあろうかと言う巨大な六輪馬車。教団のシンボルを掲げるそれに、友好の意志がないことが分かった今、部下を危険にさらす必要はない。
「超長距離魔法の準備と、接近物の足止めのため陸上部隊を…」
「待ちなさい」
背後から響いた声に、バフォメットは言葉を切った。
「…これは、皇女様…」
振り返ってみれば、彼女の後ろに一体のリリムが立っていた。
「その命令、少し待ってくれないかしら?少しあの馬車の人間と、話をしてみたいの」
「それは、少々危険では?」
皇女様の気まぐれに、バフォメットは内心溜息をつきつつ、抗弁した。
「大丈夫よ。だって、偵察のハーピィ達も、殺そうと思えば殺せたのに、翼しか負傷していないのでしょう?」
「まあ、確かにそうですが…」
「じゃあこれならどうかしら?私があの馬車の足止めをするから、その間にあなたたちは長距離魔法の準備をする」
いいことを思いついた、と言うような様子でリリムはそう提案した。
「ですが、長距離魔法の余波を受けるかもしれませんし…あまり得策とは…」
「大丈夫よ。ある程度自分の身を守ることは出来るし、私が十分離れたら魔法を使えるでしょう?」
「……かしこまりました…」
皇女様の気まぐれに、バフォメットは内心で溜息をついた。



ウィルバーの視界の中で、魔王城の一角から小さな影が一つ舞出でた。
あれだけ負傷させたというのに、まだ偵察を出すのかと聖騎士の胸中に呆れめいた感情が芽生える。
だが、彼の手が矢筒に伸びた瞬間、微かな違和感が芽生えた。
「……あれは…」
ウィルバーの目が、微かに動く小さな影に焦点を合わせ、その姿をつぶさに観察した。
すると、彼と『戦車』に向かう小さな影が、ハーピィやドラゴンなどではなくサキュバス、それもかなり高位のサキュバスであることが分かった。
偵察にしては位が高すぎるし、攻撃にしては護衛もいない。
「…まあ、主神の御意志があれば、私を止めることなどできませんが…」
ウィルバーは矢筒から手を離すと、代わりにマントの下から投げ槍を一本右手に握り、やってくるサキュバスを待った。
そして、しばしの間をおいてサキュバスはウィルバーと言葉を交わせる距離まで舞い寄ると、接近を止めた。
「こんにちは」
前進する『戦車』の正面、ウィルバーと目の高さが同じになるほどの位置で、球状の光に腰かけながらサキュバスがそう口を開いた。
「こんにちは」
「魔界へようこそ、教団の方。私は、魔王が愛娘のリリム」
「これはご丁寧に。私は教団より参りました、主神の僕の聖騎士です」
槍を掴む指を握り、緩めながら、ウィルバーはそう返した。
「それで、御用は?」
「少しだけ、あなたと話をしたくて」
「残念ですが、この『戦車』を止める相談はできません」
「違うわ。本当に話をしに来ただけ」
聖騎士の鉄仮面が左右に揺れるが、リリムにとっては予想の上だったらしい。
「あなたみたいな人は初めてだから、どういう人か知りたいの。いくつか質問してもいいかしら?」
「…私の応えられる範囲で、『戦車』の歩みを妨げないと約束なさるなら」
「いいわ、約束する」
長距離魔法の準備はしているが、準備をしているのはあくまでもバフォメットであって、彼女自身ではない。リリムは内心鉄仮面に向けて舌を出した。
「あなたは何をしに、魔界に来たの?」
「あなたのご両親、魔王と裏切り者の元勇者を主神の御許へ送る為です」
一切の遠慮もなく、ウィルバーはリリムにそう応えた。
「あなたのご両親の行いは、我々人間に対し甚大な被害をもたらしています」
「そうかしら?母が魔王になってから、魔物が人を殺める類の被害は激減したって聞いたけど?むしろ、人と魔物の間に愛が芽生えるようになって、一部では共存も果たしているとか。それにほら…」
リリムは目蓋をおろし、一瞬の間をおいてから続けた。
「『汝の敵を愛せ』って、教団の教えにもあるんじゃないかしら?」
「確かに、そういった教えがあるのは事実です。ですが、あなたの考えていらっしゃる愛と、教えの愛は異なるものです」
いくらかの苦笑を孕んだ言葉が、鉄仮面の奥から紡がれた。
「あなた方のおっしゃる愛は、肉欲によって生じる興奮と快感を勘違いされているのでしょう」
「じゃあ教団で教えている愛と言うのはあれかしら、『母が子を愛するような、無償の愛』?」
「それも違います」
魔物の親子にも愛はある、と続けるつもりだったリリムの肩をすかすように、ウィルバーは否定した。
「主神の説かれる愛は、肉欲によるものでも血縁によるものでもない、真の愛です」
「それは、どう違うのかしら…?」
「私は愛の違いを幾度も見てきました。肉欲による愛が盤石の物なら、なぜ人は将来を誓い合った相手を裏切られるのでしょう。血縁による愛が永遠の物なら、なぜ子に拳を振り上げる親がいるのでしょう。それは、肉欲も血縁も、愛に似た物を作り出すことは出来ますが、しょせんはまがい物にすぎないからです」
怪訝な表情を浮かべるリリムに向けて、彼はそう解説した。
「ですが、主神の愛だけは違います。主神の愛こそが盤石且つ永遠の物で、我々人は主神の愛に応える義務があります。そう、主神の望むがまま、私たちは動かねばならないのです」
「それで、主神の愛に応えるため、私の両親に手を掛ける、と?」
「その通りです」
リリムに向け、ウィルバーはゆっくりと頷いて見せた。
「でもあなた…さっき偵察しようとしていたハーピィを、怪我させる程度にしてたじゃない。教団にとって、魔物は殺すべき相手じゃないのかしら?」
「以前まではそうでしたが、あなたのお母上が魔王の座に就いてから変わったと、私は考えております。魔王の交代により、魔物が人めいた姿と人のような心を手に入れたのは、主神が魔物にも悔悟と帰依の機会をお与えになられたからではないのでしょうか。人にも悔悟と帰依の機会があるのですから、罪に塗れた魔物にあってもおかしくはありません」
それで、悔悟と帰依の機会を奪わぬよう、魔物を殺さなかったということか。
リリムは内心、この男がただの狂信者にすぎないと落胆していた。
「じゃあ、その悔悟と帰依の機会があるにもかかわらず、私の両親を手にかけるということは、よほど主神はあなたを愛したのね」
「ええ、主神だけが私を愛してくださいました」
リリムの皮肉に、ウィルバーはそう応えた。だがその言葉は、リリムの胸中に微かな違和感を生じさせた。
「主神だけ…?」
「はい。主神がお与えになった御加護と祝福により、私は幾度となく自分に向けられる愛がまがい物であることを知り、主神の愛のみが真実の愛であることを悟りました」
「…少し、詳しく聞かせてもらってもいいかしら?」
鉄仮面の紡ぐ言葉に、何かを感じ取ったリリムは、彼にそう問いかけた。
「ええ、魔王城まではしばらくかかりそうですからね」
リリム越しに魔王城を一瞥してから、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私がこの世に生を受けた時、私を迎えたのは母の悲鳴だったそうです。主神のお与えになった、まがい物の愛から身を守る祝福が、早速両親が抱えていた血縁による愛の錯覚を暴き立てたのです。
 父は生まれた私を布でくるみ、籠に入れて川へと流しました。そして、私は一昼夜駆けて川を下り、川沿いの修道院で拾われたのです。もちろん、修道士たちは私の姿に驚愕し、私が人か魔物かでしばし揉めたそうです。ですが、院長の『この子を人として育て上げることが、主神が我々にお与えになった試練だ』という一言で、私を保護することが決まりました。それからの日々はいい物でした。皆さんにはよくしてもらいましたし、読み書きや主神の教えを学ばせてもらいました。一つだけ、嫌なことはありました」
「嫌なこと?」
「陰口です」
リリムの挟んだ言葉に、ウィルバーは応じるように続けた。
「表立って、私に向けては言いませんが、私のいない場所で皆が陰口を囁くのです。『やはり魔物だから主神の教えを学ぶのが遅い』『魔物の子だからもの覚えが悪い』私が何かできるようになるたびに、よくできたと頭を撫でてくれる皆さんが、影でそう私をけなすのです。
 私は、自分に落ち度があると考え、魔物だからと言われぬよう努力を重ねました。その結果、僧侶としては一人前になることができましたが、それでも影口はなくなりませんでした。むしろ逆に、『一日分の薪を一人で割るなんて、やはり魔物だ』『火傷したのに三日で治っている、やはり魔物だ』『どうやら俺たちが裏で何て呼んでるか感づいているらしい、やはり魔物だ』などと増えたほどでした」
当時を思い出したのか、鉄仮面の聖騎士はやれやれとばかりに頭を振り続けた。
「私は悩みました。主神は何のために、私に異常に良い耳と力の溢れる身体をお与えになったのか。影口を囁かれぬよう、己を正しながら日々を過ごしてきました。そしてある日、聖騎士という職務の存在を知り、私は聖騎士となるべく生まれたことを悟りました。
 良い耳は遠くの物音や微かな気配を聞きとるために、強靭な身体は弱き信徒を守るために、主神が私にお与えになった。そう気が付いた瞬間、私は目の前の霧が晴れていくように感じました。そしてその日の内に、院長と修道院の皆さんに己の決心を告げ、レスカティエに向かったのです。レスカティエでの聖騎士見習いの日々は充実したものでした。主神のお与えになった身体故、陰口はいつでも聞こえていましたが、この身体は、主神が私を聖騎士にするべくお与えになった物なのです。陰口など、主神をたたえる言葉に感じられました。
 そして、十分な鍛錬を積み上げ、私は聖騎士として主神に仕える日々が訪れたのです。しかし…」
ウィルバーは言葉を切ると、短く溜息を挟んだ。
「しかし、私を待っていたのは変わらず陰口を囁かれ、高僧や貴族の護衛として駆り出される日々でした。弱き信徒のために力を振るうことなどほとんどなく、『なんだあの化け物は』などと囁かれながら馬車を護衛する。最初の内は、鍛錬を積みながらそういうものだと自分に言い聞かせていました。ですが数年前、世話になった修道院の院長がレスカティエを訪れ、近くに魔物が現れると話して下さり、聖騎士が正しく使われてないことを知りました。聖騎士は弱き信徒を守る盾などではなく、高僧や貴族の護衛に成り下がっていたのです。
 そして、私の耳にも人々の陰口に混ざって、助けを求める弱々しい声が届くようになりました。私は、その声に応えるべく、レスカティエに寄せられた救援依頼を積極的にこなして行きました。ある時は盗賊団を捕え、ある時はドラゴンを大人しくさせ、ある時は魔物の巣窟に単身乗り込みました。そして一つ片付けば、護送を部下に頼んで単身次を目指す。そんな日々の繰り返しでした。
 もちろん、負傷することはありましたが、主神の御加護により怪我は立ちどころに癒え、疲労も歩いている間に回復しました。主神の御加護は、私に休む必要なく戦い続けることを可能にしていたのです。町から町へ村から村へ、飲まず食わずはもちろん時には不眠不休で大陸を駆け廻りました。しかしそれでも、私の耳に届く助けを求める声は減らず、むしろ増えていったのです。もはや私には何をどうすればよいのか、わかりませんでした」
喋り疲れたのか、聖騎士は言葉を切った。
だが、リリムは黙したまま彼の次の言葉を待っていた。
「ですがつい先日、とある方からこう言われました。『魔王に相手する力がないから、我々を虐めてすっきりしているのだろう』と。その一言で、私は目が覚めました。主神は、私に魔王を倒すために御加護と祝福をお与えになったのです。ですが主神の意図に気付かず、ただの魔物ばかりを相手にしていたため、助けを求める声は増え続けていたのです。ですが、私のやるべきことが分かった以上、助けを求める声はもちろん、主神の愛にもやっと応えることができるのです。
 両親が私を捨て、育ててくれた修道士達も陰口を囁き、助けたはずの人々から怖れられる、誰からも感謝されることのない生涯でしたが。主神だけが私を愛してくださいました。川に捨てられた乳飲み子が一昼夜生きながらえたのも、流れ着いた修道院にちょうど乳の出る山羊がいたのも、腕を切り落とされても即座に新たな腕が生える身体を得たのも、主神の愛によるものです。だから、私は主神の愛に応えねばならないのです。」
そこまで紡ぐと、ウィルバーは言葉を切った。
「そんなことが、あったのね…」
目の前の男の、凝縮された生い立ちに対し、リリムはどうにかそう呟いた。
この男はたまに現れる勇者とは全く違う。義憤や義務感、功名心のために魔王を倒しに来たのではない。主神への異常なまでの依存心と、歪んだ精神がもたらす幻聴が、彼を魔王討伐に駆らせているのだ。
リリムは、ウィルバーに対して恐怖と共に、ある種の憐みを覚えていた。
「ねえあなた…確か、真実の愛とまがい物を見分ける力を主神が授けてくれた、って言ってたわよね」
「ええ。主神の祝福のおかげで、幾度も救われました」
「確かに、あなたの言うとおり肉欲や血縁によって生じる感情は、真実の愛とやらに比べればまがい物でしかないかもしれないわ。でも、あなたに対して一時的とはいえ、好意を向けてくれた人がいるんじゃないのかしら?」
そう口にしてから、リリムは自分の発言が時間稼ぎめいたものであることに気が付いた。
別にそのような意図はない。単に、この聖騎士の生い立ちが彼の語った通りなら、あまりにも哀れだからだ。
「…確かに、いましたね」
リリムの問いに、鉄仮面が渦巻く雲を見上げた。
「私が生まれるまでは、両親は互いの才能を引き継いでいるであろう子に、毎日呼びかけていたと聞きました。また、私の部下の尼僧も、私を慕っていると言ってくれたこともありました。ですが…」
仮面の奥から、力ない低い笑い声を溢れさせると、聖騎士は続ける。
「生家を訪ねる機会があったのですが、私を迎えたのは歳以上に老いた父だけでした。母は、私を生んだ後に『自身に原因があるのでは』と心を病み、五年と経たぬうちに亡くなったと教えられました。父も後妻を娶ることもなく、一人孤独に過ごしていたようです。まあ、父は盛んに私に向けて謝ってくれましたが、捨てた息子への謝罪ではなく化け物じみた聖騎士に許しを請う言葉でしたね。
 私の部下の尼僧も、『このままでは私が壊れる』などと休むよう言ってくれましたが…主神のお与えになった力が無ければ、彼女の言葉を受け入れるところでした。全く、主神だけが私を愛してくださっているのに、何を考えていたんでしょうね…」
ウィルバーは仮面の奥で低く、どこか寂しげに笑った。
「聖騎士さん…もし、あなたの部下の尼僧が主神の愛と同じ愛を持っていて、その上であなたに休みを薦めたら…あなたはどうしてたかしら?」
「そうですね…彼女が本当に私の身を案じていると信じ、休んでいたでしょうね…」
「だったら、もし私に主神にも負けない愛があったら…引き返してくれるかしら?」
「…出来ることならばそうしたいのですが、たぶん無理でしょう。主神以外の皆が、私から離れて行きましたから…」
「そんなこと本当に確かめてみないと分からないじゃない」
「では、確かめるとしましょうか」
ウィルバーはそう告げると、フードに手を掛けて下ろした。布の下から、鉄仮面から延びる皮帯の食い込む頭が露わになった。
彼はややいびつな頭に食い込む皮帯を緩めると、鉄仮面が落ちぬよう押さえながら、リリムを見据えた。
「これが、主神が私に授けて下さった、真実の愛を見出すための祝福です」
リリムの眼前で、鉄仮面を押さえる手が下りた。
「っ!?」
鉄仮面の下から現れた顔に、リリムは思わず息をのみ、声を上げまいと口元に手をやった。
「やはり、あなたもでしたね…」
鉄仮面に隠されていた顔に、諦めを孕んだ笑みを浮かべながら、ウィルバーはリリムに言った。
「呼吸や心音が跳ね上がったのが聞こえました」
「ごめんなさい…」
「謝る必要はありません。もう慣れましたから」
鉄仮面を顔に当て、皮帯で頭を締めあげながら彼は続ける。
「しかし、あなたの言葉は嬉しかったです。どうか、その気持ちを忘れないでください」
フードを被り、自身の肌を完全に隠すと、彼はリリムの背後に聳える城に目を向けた。
「さて、長話しすぎたようですね…そろそろ城下町に着きそうですので、ここから離れることをお勧めします」
「本当に一人で私の両親…いえ、魔王と元勇者に挑むつもりなの?」
「はい、私には主神のご加護と祝福があります。それに、この『戦車』には火薬を詰め込んでありますから、魔王城の壁に穴を開けて押し入ることぐらいは出来るでしょう」
リリムの問いかけに、彼はごく当たり前のような様子で応えた。
「そして、魔王の下まで立ちはだかる者を退けつつ向かい、この耳元で響く声が止むよう努力します」
「もし、魔王と元勇者を倒しても声が止まなかったら?」
「その時は、この命の続く限り魔物を殺め、悪人を滅ぼし、主神に仇なし信徒を苛む敵を滅ぼし続けるでしょう」
鉄仮面の奥から、冗談めかしながらも決心の籠った声が響いた。そうだ、この男はやるつもりなのだ。
「もっとも、主神のご加護がありますので、首を刎ねられた程度では私を止めることは出来ないでしょうね」
「まるで、大昔の化物みたいね」
「ははは、確かに」
鉄仮面の奥から苦笑が漏れた。
「仮に私を止めようとするなら、この身を粉微塵にして焼きつくすべきでしょうね。そうでもしない限り、動き続けられるでしょう」
「そう…」
リリムが短く返したところで、二人の間に沈黙が訪れた。
『戦車』の車輪が荒れ地の土を踏み、車軸が軋む音だけが辺りに響く。
「さて、私はそろそろ『戦車』の中に戻って、決戦に向けて身体を休めたいと思います」
最初に沈黙を破ったのは、聖騎士だった。
「そうね。私もそろそろ城に戻ろうと思うわ。でもその前に」
「何でしょう?」
「あなたの名前は?」
「…私は聖騎…」
鉄仮面の奥から、幾度も繰り返した名乗りの言葉を紡ごうとして、彼は言葉を断った。今このとき、名乗るべき名前は聖騎士の物ではない。
鉄仮面の巨漢は、軽く頭を振りながら、言葉を繋いだ。
「いえ、母の墓の隣にあった小さな墓石には、こう刻まれてました。ヴィルヘルム・ウェイトリィと」
「ヴィルヘルムね…」
鉄仮面の聖騎士の名を数度繰り返すと、彼女は改めて彼を見据えた。
「それじゃあさようなら、ヴィルヘルム・ウェイトリィ」
「さようなら、リリムのお嬢さん」
二人がそう挨拶をかわすと、リリムは腰掛けていた光球を消し、聖騎士は『戦車』の落とし戸を開いた。
そして、リリムの姿が魔界の空高くへ舞い上がり、聖騎士の巨体が戦車の中へ入っていく。
渦巻く雲を背にリリムが荒れ地を進む『戦車』を見下ろす頃、聖騎士は火薬の匂いに満たされる中、椅子に腰かけていた。
リリムが戦車に向けて手をかざした。すると彼女の掌に、極小の太陽めいた火の玉が一つ現れた。人に当たれば消し炭も残さず焼きつくすことのできる、火炎魔法の頂に位置する魔法の一つだ。
この火球と、『戦車』に満載した火薬があれば、あの聖騎士も跡形もなく焼きつくせるはず。だが…
「……」
リリムは火球を浮かせたまま、しばし眼下の『戦車』を見下ろしていた。
彼女の脳裏に、いくつもの景色が浮かび上がる。もし、で彩られた素敵な景色だ。
だがリリムは顔を左右に振ってそれを打ち消した。聖騎士の言葉に込められていた、彼の意図を成就させるため。
聖騎士が鉄仮面の奥で目を閉じる。自身の言葉に込めていた、聖騎士の意図の成就を待つため。
そして、リリムの生み出した火球が、まっすぐに開け放たれた『戦車』の落とし戸に飛び込んでいった。
直後、『戦車』が歪に膨張し、落とし戸の穴から炎が噴き上がった。
内側の圧力に耐えかねた『戦車』が爆ぜ、太陽が現れたかのような閃光が辺りを焼き、爆風が嵐にも劣らぬ勢いで辺りを薙ぎ払った。
「っ!」
閃光と全身を打ちすえる衝撃に、リリムが声を漏らす。
そして、全てが終わった頃、彼女はいつの間にか閉ざしていた目を開いた。
魔界の荒れ地に、同心円上に広がる爆風の跡が刻まれており、その中心に内側から歪に開いた『戦車』だったものと炎が残されていた。
『戦車』の残骸を舐めるように炙る炎の他、動く物は、何もなかった。
「…さようなら、ヴィルヘルム・ウェイトリィ」
彼女の唇から、か細い別れの言葉が紡がれるが、応える者はいない。
囁きは、風に乗って魔界へ散って行った。
12/08/23 16:16更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
「あ、また蹴った」
暖炉の側、安楽椅子に腰かけた女が、大きく膨れた腹を撫でながら口を開いた。
「生まれる前からこんなに動いて…誰に似たのかしら?」
「君じゃないかな?ほら、小さい頃はおてんばだったじゃないか」
安楽椅子の側に屈みこみ、女の腹に指を伸ばしながら、男が応える。
「でも、きっと君に似て頭の良い子になるんだろうな」
「あら、もしかしたらあなたに似て、優しい子になるかもしれないわよ?」
男と女は、そう言葉をかわすとにっこりとほほ笑んだ。
「君と僕の子だから、きっと優秀な魔術師になるさ」
「もしかしたら、勇者と共に魔王と戦うことになるかもしれないわよ?」
「ははは、未来の救世主か。だったら、おまじないをかけよう」
男は、女の腹を撫でながら言葉を紡ぎ出した。
「この子が健やかに育ちますように」
そして女が、男に続いて言葉を紡ぐ。
「この子が誰にも優しい子になりますように」
「この子が道を違えることがありませんように」
「「主神よ、どうかこの子に加護と祝福を」」
腹の中の生命に語りかけるような二人の祈りは、暖炉の傍で消えていった。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33