眠りの鍵の門を越えたい
太陽が昇って沈んで、私が職場から帰ると。
「お帰りなさい!さあ寝ますよメイスンさん!」
寝間着を着込んだイラノアが、枕を脇に抱きながら、そう笑顔で私を迎えた。
「せめて、晩飯を食べてからにしないか」
「ではそのあとで寝ましょう、メイスンさん!」
少々疲れを孕んだ私の言葉に、イラノアははきはきと応じた。だが、やるべきことはまだある。
「実は昼休みに簡易ベッドを手に入れたから、食後に組み立てようと思うんだ」
「なんてことしやがる」
わざわざ背負って持ち帰った荷物を示すと、怒りのあまりか、緩やかな雰囲気の彼女らしからぬ言葉が、その口から漏れ出した。
「何てことしやがる、ってイラノア。我が家のベッドは二人が横になるには少々狭すぎると思わないか」
「確かに二人で横になって、片方が寝返り打ったら落ちちゃいますからね。気遣って、大きいベッド手に入れてきてくれるメイスンさん大好き!」
「簡易ベッドでも二人用を運ぶのは無理だったよ」
「ぬか喜びだった!」
「ところで、晩飯はどうする?」
感嘆に梱包された簡易ベッドを今まで運びこみながら、私は話を変えるべくそう尋ねた。大荷物のお陰か、腹がいつもより減っているからだ。
「あ、晩御飯はもう作ってます。器に注いだりしますから、上着脱いだり手を洗ったりしてください」
「ありがとう。助かる」
食事を準備する時間も惜しいため、どこかに食べに行かないかという思いを込めての問いだったが、晩飯の準備をしてくれているとはありがたい。私は素直に礼を口にした。
そして、寝間着の上にエプロンを付けたイラノアと食卓を挟みながら、私たちは一つの合意に至った。
それは、別々のベッドで横になる代わりに、イラノアとは同じ部屋で夜を過ごすというものだ。
ワーシープの羊毛の魔力は、同じベッドで横になっているときが最も効力を発するが、同じ部屋でもそれなりの効果はあるらしい。
そこで、私の可能な限り間違いを犯したくないという主張と、買ってきてしまった簡易ベッドの有効活用のため、寝室に簡易ベッドを置くというところで決着がついた。
そして、彼女が食器を洗っている間に、私は寝室で簡易ベッドを組み上げた。
木製の骨組みをねじで止め、やや薄手のマットを引けば出来上がりだ。あまりマットは柔らかくないし、体格の良すぎる人が横になれば骨組みも折れそうだ。
だがあくまでもこれは簡易ベッドだ。仕方ない。
「よし」
シーツを敷き、一通り枕と毛布をおいてから、私は額の汗をぬぐった。
マットに手を当て、軽く体重をかけてみると、ちゃんとしたベッド程ではないもののソファよりか具合は良さそうだった。
今までつかっていたベッドと簡易ベッドで、多少寝室が狭くなったような気がするが、仕方ない。
道具を片付けようと身を屈めたところで、控えめなノックが響いた。
「どうですか…って、もう出来上がったんですね」
湯気ののぼる器を載せたお盆を手に、イラノアがドアを開きつつ、そう声を上げた。
「ああ、ついさっきできた所だ」
「お疲れ様です。ちょっと休憩のつもりでお茶を用意したんですが、いかがですか?」
「もらうよ」
「気分の落ち着くハーブティに、お砂糖とミルクをたっぷり入れてみました。お口に合うといいんですけど」
イラノアからカップを受け取り、口元に近づけた。
湯気とともに立ち上る、甘い香りが鼻をくすぐる。
カップの縁に唇を寄せ、火傷せぬよう軽く一啜りする。すると、砂糖の甘みとミルクのまろやかさが舌の上を撫で、遅れて鼻を茶の香りがくすぐった。
初めて味わう種類の風味であったが、いわゆる薬草臭さめいたものは一切ない。一口、また一口と、抵抗なく自然に喉を滑り下りていく。
そして、最後の一口まで飲み干してから、ふんわりとした香りだけが残った。
「…うん、美味しかったよ。ごちそうさま」
「お粗末様でした」
カップをお盆で受け取りつつ、彼女はにっこりと笑った。
「それじゃあ、ベッドも出来上がったところですし、そろそろ寝ませんか?」
「ああ、道具を片付けて、着替えてからだな」
「じゃあ私は、カップを片付けてきます」
「洗い終わったら、私は気にせず先にベッドに入っていてくれ」
「分かりました」
そう言葉を交わすと、彼女はお盆を手に寝室を出て行った。
私は道具類をまとめてから、遅れて寝室を出て、物置に向かう。そして、道具を道具箱に収めてから、寝間着に着替え、寝室に戻ったのは十数分ほどしてからだった。
寝室の戸を開くと、ベッド脇のテーブルのランプが、寝室とベッドの上の盛り上がった毛布を照らしていた。
「……おやすみ」
私はゆっくりと上下する毛布の盛り上がりに向けてそう告げると、簡易ベッドに潜り込み、手を伸ばしてランプの灯を消した。
闇が部屋を見たし、毛布のぬくもりが全身を包む。
昼間の簡易ベッドの運搬と、先ほどの組み立てのお陰で身体は疲れ切っており、イラノアの用意してくれたお茶が体の芯を温めてくれている。
普通の人間ならば、このまま眠れるだろう。
私は、一抹の期待を胸に、闇の中で目を閉ざした。
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身じろぎもせず、ものを考えるのもやめた状態でどれほど経っただろうか。
ふと、そんな疑問が湧きおこったころには、今が夜のどのぐらいか分からなくなっていた。
一瞬、今まで実は寝ていたのではないか、という思いが胸中に湧くが、眠っていたにしては意識が明瞭だ。
眠り損ねたことに、微かな落胆を覚えていると、不意に衣擦れの音が響いた。
私は身じろぎひとつしていないため、イラノアの立てた音だろう。だが、寝返りを打つにしては長すぎる音の後、床板が軋んだ。
そのままじっとしていると、床板の軋みは間を置きながら一つ、また一つと生じた。
まるで、イラノアが起き上がって、ベッドから降りたかのようにだ。
トイレにでも行くのだろうか、などと考えていたが、彼女の足音は寝室のドアではなく、簡易ベッドの傍らで止まった。
そして、毛布が捲られ、夜気が入り込む。
「……」
「よいしょっと…」
ひんやりとした空気に閉口していると、イラノアの低い声とともに、柔らかく暖かなものが私の隣に入ってきた。
彼女は簡易ベッドに横になると、私を覆う毛布を少しだけ手繰り寄せて、彼女自身を覆う。
ベッドと毛布の空間で、彼女は夜気の入り込む隙魔が無いことを確認すると、うんと一つ小さく頷いた。
そして、彼女は私に身体を押し付け、ごく自然に手を腰の方に伸ばし
「やめなさい」
「やっぱり起きていましたか」
手首をつかんだ私にむけ、そう応じた。
「せっかくベッドを用意したのに、なぜ入ってくる」
「いやあ、やっぱり羊毛を直に当てた方が眠りの魔力の効きもいいんじゃないかと…」
「ではこの手はなんだ」
「ほら、抱きついた方が、なんかこう…密着するでしょう?」
「その割には下の方に向かおうとしていたよね」
「ばれましたか」
そう受け答えをするうち、暗闇の中だというのに、半笑いの彼女の表情が見えたような気がした。
「まあ、百歩譲って、一緒のベッドで横になるところまでは良しとしよう」
「わーい」
「ただ、寝る以外の行動は禁止」
「えー」
そう続けた私の言葉に、彼女は唇を尖らせる。
「そうでもしないと、すぐ男女の仲に持ち込もうとするだろうが」
「しちゃいけないんですか?」
「まだ互いのこと十分に理解できてないのに、一時の感情でそういうことして結婚とかなんだとかして、後から相手の嫌なところ見えてきても困るだろう」
「むぅ…」
彼女は低く呻き、しばしの間をおいてから口を開いた。
「なら、寝てる隙に…」
「私がどういう症状だか覚えているかね、イラノア」
眠っている隙に手を出そうにも、私はただ横になっているだけだから、さっきのように手を止めてしまえば問題ない。
その言葉に、彼女はなおも続けた。
「だったら…私の不眠治療が功を奏して、メイスンさんがうっかり眠ってしまったらどうでしょう?多分、私の魔力が効くまで、しばらくかかると思います。それまで、毎日一緒に過ごしていれば、私もメイスンさんも、互いのことを分かり合えるんじゃないでしょうか?」
「ん…」
彼女の申し出に、私は少しだけ感心した。
確かにそうだ。こんな毎日を送り、私が普通に眠れる日が来れば、イラノアのことも大分理解できているだろう。
「それなら…」
返事をしようとして、私はふと気が付いた。
イラノアの方から、規則正しく穏やかな呼吸が聞こえてくることに。
「…寝たのか」
彼女の寝つきの良さに、一抹の羨望を覚えながら、私は彼女の手を解放した。
すると、本当に眠っているのか、イラノアの手は力なく私の腹の上に落ちる。
「……」
私はそれ以上ものを考えるのを止め、毛布の下で朝を待つことにした。
それから、私の生活は少しだけ変わった。
イラノアとの同居に伴い、家事の負担が少しだけ減り、食費が二人分に増えた。だが、イラノアの寝具製作の仕事のお陰で、収入自体は増えている。
夜に関しては、寝室のベッドが大きくなったほかには、何も変っていない。
朝にベッドから起き上がり、職場へ向かい、夕方に帰る。交代で晩飯を作り、一つのベッドで横になる。
その繰り返しの日々だ。
「メイスンさん、最近顔色良くなりましたよね?」
ある日、食卓を挟んで夕食を摂っていると、イラノアがそう口を開いた。
「そうかな?」
「初めて会った頃は、もう少し疲れた感じでしたよ。それに何だか、全体的に雰囲気が柔らかくなったような気がしますし」
彼女の評価に、私は思わず手で顔に触れた。
確かに、イラノアが来る前に比べて、少しだけ肌艶が良くなったような気がする。
「やっぱり私の努力が実を結びつつあるということですね」
「夜中私に抱きついて寝るのが努力?それぐらいで努力に分類されるのなら、眠れない夜を過ごす私は苦行僧か」
そう口では言う物の、内心私は彼女の貢献に感謝していた。
羊毛の魔力は、私を眠りに導くことは出来ないものの、肉体に安らぎを与え、疲労を取り去ってくれているようだ。
「でも、この調子ならいつかぐっすり眠れるようになりそうだな」
「ええ。そしたら…子供はまず三人ぐらいで…郊外の気持ちのいいところに引っ越して…うふふふふ」
イラノアはニヤニヤと笑みを浮かべた。
そうだ、『私が眠っている間なら、イラノアが何をしてもいい』という約束があったのだった。
「あー、イラノア?」
「そして私と子供たちの羊毛で寝具を作って売って…家の隣に工場を…」
彼女は私の声に気付かず、にやにやと未来を描いていた。
「……」
私はため息をつき、とりあえず彼女が落ち着くまで待つことにした。
どうやら、眠れぬ日々はもう少し続きそうだ。
イラノアと一緒に、同じ夢を眠らずに見るようになれるまで。
「お帰りなさい!さあ寝ますよメイスンさん!」
寝間着を着込んだイラノアが、枕を脇に抱きながら、そう笑顔で私を迎えた。
「せめて、晩飯を食べてからにしないか」
「ではそのあとで寝ましょう、メイスンさん!」
少々疲れを孕んだ私の言葉に、イラノアははきはきと応じた。だが、やるべきことはまだある。
「実は昼休みに簡易ベッドを手に入れたから、食後に組み立てようと思うんだ」
「なんてことしやがる」
わざわざ背負って持ち帰った荷物を示すと、怒りのあまりか、緩やかな雰囲気の彼女らしからぬ言葉が、その口から漏れ出した。
「何てことしやがる、ってイラノア。我が家のベッドは二人が横になるには少々狭すぎると思わないか」
「確かに二人で横になって、片方が寝返り打ったら落ちちゃいますからね。気遣って、大きいベッド手に入れてきてくれるメイスンさん大好き!」
「簡易ベッドでも二人用を運ぶのは無理だったよ」
「ぬか喜びだった!」
「ところで、晩飯はどうする?」
感嘆に梱包された簡易ベッドを今まで運びこみながら、私は話を変えるべくそう尋ねた。大荷物のお陰か、腹がいつもより減っているからだ。
「あ、晩御飯はもう作ってます。器に注いだりしますから、上着脱いだり手を洗ったりしてください」
「ありがとう。助かる」
食事を準備する時間も惜しいため、どこかに食べに行かないかという思いを込めての問いだったが、晩飯の準備をしてくれているとはありがたい。私は素直に礼を口にした。
そして、寝間着の上にエプロンを付けたイラノアと食卓を挟みながら、私たちは一つの合意に至った。
それは、別々のベッドで横になる代わりに、イラノアとは同じ部屋で夜を過ごすというものだ。
ワーシープの羊毛の魔力は、同じベッドで横になっているときが最も効力を発するが、同じ部屋でもそれなりの効果はあるらしい。
そこで、私の可能な限り間違いを犯したくないという主張と、買ってきてしまった簡易ベッドの有効活用のため、寝室に簡易ベッドを置くというところで決着がついた。
そして、彼女が食器を洗っている間に、私は寝室で簡易ベッドを組み上げた。
木製の骨組みをねじで止め、やや薄手のマットを引けば出来上がりだ。あまりマットは柔らかくないし、体格の良すぎる人が横になれば骨組みも折れそうだ。
だがあくまでもこれは簡易ベッドだ。仕方ない。
「よし」
シーツを敷き、一通り枕と毛布をおいてから、私は額の汗をぬぐった。
マットに手を当て、軽く体重をかけてみると、ちゃんとしたベッド程ではないもののソファよりか具合は良さそうだった。
今までつかっていたベッドと簡易ベッドで、多少寝室が狭くなったような気がするが、仕方ない。
道具を片付けようと身を屈めたところで、控えめなノックが響いた。
「どうですか…って、もう出来上がったんですね」
湯気ののぼる器を載せたお盆を手に、イラノアがドアを開きつつ、そう声を上げた。
「ああ、ついさっきできた所だ」
「お疲れ様です。ちょっと休憩のつもりでお茶を用意したんですが、いかがですか?」
「もらうよ」
「気分の落ち着くハーブティに、お砂糖とミルクをたっぷり入れてみました。お口に合うといいんですけど」
イラノアからカップを受け取り、口元に近づけた。
湯気とともに立ち上る、甘い香りが鼻をくすぐる。
カップの縁に唇を寄せ、火傷せぬよう軽く一啜りする。すると、砂糖の甘みとミルクのまろやかさが舌の上を撫で、遅れて鼻を茶の香りがくすぐった。
初めて味わう種類の風味であったが、いわゆる薬草臭さめいたものは一切ない。一口、また一口と、抵抗なく自然に喉を滑り下りていく。
そして、最後の一口まで飲み干してから、ふんわりとした香りだけが残った。
「…うん、美味しかったよ。ごちそうさま」
「お粗末様でした」
カップをお盆で受け取りつつ、彼女はにっこりと笑った。
「それじゃあ、ベッドも出来上がったところですし、そろそろ寝ませんか?」
「ああ、道具を片付けて、着替えてからだな」
「じゃあ私は、カップを片付けてきます」
「洗い終わったら、私は気にせず先にベッドに入っていてくれ」
「分かりました」
そう言葉を交わすと、彼女はお盆を手に寝室を出て行った。
私は道具類をまとめてから、遅れて寝室を出て、物置に向かう。そして、道具を道具箱に収めてから、寝間着に着替え、寝室に戻ったのは十数分ほどしてからだった。
寝室の戸を開くと、ベッド脇のテーブルのランプが、寝室とベッドの上の盛り上がった毛布を照らしていた。
「……おやすみ」
私はゆっくりと上下する毛布の盛り上がりに向けてそう告げると、簡易ベッドに潜り込み、手を伸ばしてランプの灯を消した。
闇が部屋を見たし、毛布のぬくもりが全身を包む。
昼間の簡易ベッドの運搬と、先ほどの組み立てのお陰で身体は疲れ切っており、イラノアの用意してくれたお茶が体の芯を温めてくれている。
普通の人間ならば、このまま眠れるだろう。
私は、一抹の期待を胸に、闇の中で目を閉ざした。
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身じろぎもせず、ものを考えるのもやめた状態でどれほど経っただろうか。
ふと、そんな疑問が湧きおこったころには、今が夜のどのぐらいか分からなくなっていた。
一瞬、今まで実は寝ていたのではないか、という思いが胸中に湧くが、眠っていたにしては意識が明瞭だ。
眠り損ねたことに、微かな落胆を覚えていると、不意に衣擦れの音が響いた。
私は身じろぎひとつしていないため、イラノアの立てた音だろう。だが、寝返りを打つにしては長すぎる音の後、床板が軋んだ。
そのままじっとしていると、床板の軋みは間を置きながら一つ、また一つと生じた。
まるで、イラノアが起き上がって、ベッドから降りたかのようにだ。
トイレにでも行くのだろうか、などと考えていたが、彼女の足音は寝室のドアではなく、簡易ベッドの傍らで止まった。
そして、毛布が捲られ、夜気が入り込む。
「……」
「よいしょっと…」
ひんやりとした空気に閉口していると、イラノアの低い声とともに、柔らかく暖かなものが私の隣に入ってきた。
彼女は簡易ベッドに横になると、私を覆う毛布を少しだけ手繰り寄せて、彼女自身を覆う。
ベッドと毛布の空間で、彼女は夜気の入り込む隙魔が無いことを確認すると、うんと一つ小さく頷いた。
そして、彼女は私に身体を押し付け、ごく自然に手を腰の方に伸ばし
「やめなさい」
「やっぱり起きていましたか」
手首をつかんだ私にむけ、そう応じた。
「せっかくベッドを用意したのに、なぜ入ってくる」
「いやあ、やっぱり羊毛を直に当てた方が眠りの魔力の効きもいいんじゃないかと…」
「ではこの手はなんだ」
「ほら、抱きついた方が、なんかこう…密着するでしょう?」
「その割には下の方に向かおうとしていたよね」
「ばれましたか」
そう受け答えをするうち、暗闇の中だというのに、半笑いの彼女の表情が見えたような気がした。
「まあ、百歩譲って、一緒のベッドで横になるところまでは良しとしよう」
「わーい」
「ただ、寝る以外の行動は禁止」
「えー」
そう続けた私の言葉に、彼女は唇を尖らせる。
「そうでもしないと、すぐ男女の仲に持ち込もうとするだろうが」
「しちゃいけないんですか?」
「まだ互いのこと十分に理解できてないのに、一時の感情でそういうことして結婚とかなんだとかして、後から相手の嫌なところ見えてきても困るだろう」
「むぅ…」
彼女は低く呻き、しばしの間をおいてから口を開いた。
「なら、寝てる隙に…」
「私がどういう症状だか覚えているかね、イラノア」
眠っている隙に手を出そうにも、私はただ横になっているだけだから、さっきのように手を止めてしまえば問題ない。
その言葉に、彼女はなおも続けた。
「だったら…私の不眠治療が功を奏して、メイスンさんがうっかり眠ってしまったらどうでしょう?多分、私の魔力が効くまで、しばらくかかると思います。それまで、毎日一緒に過ごしていれば、私もメイスンさんも、互いのことを分かり合えるんじゃないでしょうか?」
「ん…」
彼女の申し出に、私は少しだけ感心した。
確かにそうだ。こんな毎日を送り、私が普通に眠れる日が来れば、イラノアのことも大分理解できているだろう。
「それなら…」
返事をしようとして、私はふと気が付いた。
イラノアの方から、規則正しく穏やかな呼吸が聞こえてくることに。
「…寝たのか」
彼女の寝つきの良さに、一抹の羨望を覚えながら、私は彼女の手を解放した。
すると、本当に眠っているのか、イラノアの手は力なく私の腹の上に落ちる。
「……」
私はそれ以上ものを考えるのを止め、毛布の下で朝を待つことにした。
それから、私の生活は少しだけ変わった。
イラノアとの同居に伴い、家事の負担が少しだけ減り、食費が二人分に増えた。だが、イラノアの寝具製作の仕事のお陰で、収入自体は増えている。
夜に関しては、寝室のベッドが大きくなったほかには、何も変っていない。
朝にベッドから起き上がり、職場へ向かい、夕方に帰る。交代で晩飯を作り、一つのベッドで横になる。
その繰り返しの日々だ。
「メイスンさん、最近顔色良くなりましたよね?」
ある日、食卓を挟んで夕食を摂っていると、イラノアがそう口を開いた。
「そうかな?」
「初めて会った頃は、もう少し疲れた感じでしたよ。それに何だか、全体的に雰囲気が柔らかくなったような気がしますし」
彼女の評価に、私は思わず手で顔に触れた。
確かに、イラノアが来る前に比べて、少しだけ肌艶が良くなったような気がする。
「やっぱり私の努力が実を結びつつあるということですね」
「夜中私に抱きついて寝るのが努力?それぐらいで努力に分類されるのなら、眠れない夜を過ごす私は苦行僧か」
そう口では言う物の、内心私は彼女の貢献に感謝していた。
羊毛の魔力は、私を眠りに導くことは出来ないものの、肉体に安らぎを与え、疲労を取り去ってくれているようだ。
「でも、この調子ならいつかぐっすり眠れるようになりそうだな」
「ええ。そしたら…子供はまず三人ぐらいで…郊外の気持ちのいいところに引っ越して…うふふふふ」
イラノアはニヤニヤと笑みを浮かべた。
そうだ、『私が眠っている間なら、イラノアが何をしてもいい』という約束があったのだった。
「あー、イラノア?」
「そして私と子供たちの羊毛で寝具を作って売って…家の隣に工場を…」
彼女は私の声に気付かず、にやにやと未来を描いていた。
「……」
私はため息をつき、とりあえず彼女が落ち着くまで待つことにした。
どうやら、眠れぬ日々はもう少し続きそうだ。
イラノアと一緒に、同じ夢を眠らずに見るようになれるまで。
12/05/19 09:48更新 / 十二屋月蝕