帰宅
遠くから見えていた魔王城は、久々に近づいてもやはり大きかった。
魔王城城下町の一角で、私は足を止めて魔王城を仰いだ。
見上げるほど巨大な城。難攻不落の要塞。魔王の居城。
表現の仕方はいくらでもあるが、思い出の籠る懐かしの我が家に変わりはない。
申し遅れたが、私はルーシャ。魔王の娘であるリリムの一人だ。ちなみに、姉妹が多すぎるお陰で第何女かは覚えていない。
「……」
私は、城を見上げたおかげで少し痛くなった首筋を軽く擦ると、魔王城に向けて足を進めた。
思い出はたくさんあるが、城を見上げたままでは首筋が固まってしまう。
歩きながらでも、過去を懐かしむことはできる。
私が城を離れたのは、もう十数年前のことだ。
別に両親や姉妹との仲が悪くなったからでも、若い頃にありがちな『世界を見たい』などという欲求を満たすためではない。単純に、婿探しの旅に出るためだった。
世界を巡り理想の旦那様を見つけ出し、二人で、あるいは三人で凱旋する。そんな、姉達の辿った道筋を、自身の足で歩むための旅だった。
だが、城下町を進む私の傍らに、旦那様の姿は無い。まだ理想の殿方を見つけていないからだ。
風の噂によれば、妹の中にもすでに旦那様を見つけ出した者もいるらしい。
焦りが胸の内を焦がすが、目を曇らせて拙速に旦那様を決めてしまっては、後々の不和に繋がるだろう。より良い将来のためにも、妥協などすることなく、理想の旦那様を探す必要がある。
そして今回の帰郷は、一時休息を取るためのものだ。城に帰り、ひと月ほどゆっくり過ごして、焦りに曇った目と心を清める。そうして再び、婿探しの旅に出るのだ。
慌てて婿を探す必要はない。デルエラ姉さんのように、婿探しよりお見合いに力を注ぐリリムだっているのだ。いや、デルエラ姉さんは結婚していたか?
そんなことを考えていると、ふと鼻を腹のすくような香りがくすぐった。傍らに視線を向ければ、料理屋の側を通り抜けるところだった。
(そういえば…)
香りによって掘り起こされた、郷愁を孕んだ思い出が、胸裏を通り抜ける。
(あの子、元気かしら…)
旅に出る以前の出来事が浮かび上がった。
あれは、もう二十年は前のことだったろうか。まだ幼かった私の下に、遊び相手と称して人間の男の子が連れてこられたのだ。
後で聞くところによると、当時雇ったジパング出身の料理人の子供だったらしい。
腹や腕はもちろん、首や顎の下にまで肉を付け、丸々と太った料理人と違って少年はほっそりとしており、まるで陶器の人形のように白く華奢だった。
私より少しだけ幼かった彼は、ジパングと全く違う環境とサキュバスのメイド達に早くも慣れているようで、私とすぐに打ち解け、魔王城の私の部屋や中庭、厨房の裏手などで一緒に遊んだ。
人形遊びはもちろん、『姫と勇者』のごっこ遊びに付き合わせたり、人間の街から仕入れてきたという絵本を一緒に読んだりした。
また少年も私に、私の知らないジパングの遊びや、ジパングのお話を聞かせてくれた。
特に、彼のお話は格別だった。
『五日で僕達よりも大きくなるタケっていう草があって、その中にはお姫様が住んでいるんだ』
『都を襲って財宝を盗んだアカオニを、三匹のお供を連れた勇者がやっつけたんだ』
『ジパングの海には時々、シンキロウってお城が浮かぶんだ』
彼のお話には、未だ見ぬ魔界の外が溢れており、私自身の憧れと相まってそれは素晴らしいものに感じられた。
だが、彼と過ごした時間はごく短かった。
彼の父親、つまりはジパングからの料理人は、魔王城の厨房に入る代わりに一つの条件を出していた。それは、自分の息子を最高の料理人として育て上げるため、協力することだった。
魔界に満ちる魔力に当てられ、料理人になる前に色狂いにならぬよう、料理人一家の部屋には魔力を寄せ付けぬ魔術が施され、料理人の息子自身にも魔術が掛けられた。
そして、ジパング料理に限らず多くの料理を学び、身に着けるため、料理人の息子は人間会の有名な料理店に預けられることとなった。
住み込みでの弟子入りが決まって、迎えの馬車が来た日、彼は私の部屋のベッドの下に隠れ、私は部屋に誰も入れまいと立てこもっていた。
しかし大人たちの力に敵うはずもなく、扉は易々と開かれ、彼は荷物とともに馬車へ詰め込まれた。
そして私は、文字通り心臓を裂かれそうな心地に涙を流しながら、手を振りつつ少年の乗った馬車を追いかけ、力尽き、倒れた。
それきり少年とは会っていない。
数年前、婿探しの旅の合間に、彼が弟子入りしていたオークの料理店を訪れたことがあったが、既に彼は修行を終えて魔王城へ戻ったと聞いた。その時飲んだスープは、僅かに塩味がきつかった気がした。
だが、今回の帰郷により、彼と再会できるのだ。この二十年で、彼はどう変わっているだろうか。そして、彼の身に着けた料理はどれほどの物なのだろうか。
魔王城の入り口を前に、私の胸は期待で膨らみ、腹が小さく音を立てた。
帰宅後、両親へのあいさつを済ませると、私は早々に自分の部屋へと引き上げた。
姉妹達に挨拶をしようにも、旦那様を見つけた者は二人きりで自分の部屋に引きこもっているし、未婚の者は留守でいない。ちなみに、デルエラ姉さんも不在だった。
久々の自分の部屋は、メイドの掃除が行き届いているためか埃一つ落ちておらず、それでいて記憶の中の部屋と何ら変わりはなかった。
「ふぅ…」
ベッドに仰向けに倒れ込み、今日一日分の移動の疲労と、十数年分の旅の疲れを吐息とともに吐き出す。
全身を満たす疲労感が倦怠感を呼び、このまま眠ってしまいたいという欲求が沸き起こる。
だが、欲に身を任せるわけにはいかなかった。
ベッドに横になる私の耳を、ノックの音が打った。
「どうぞ」
「失礼します」
私の返答にサキュバスメイドがドアを開き、一歩部屋に入る。
「もうすぐお食事の準備ができます。食堂までお越しください」
「分かったわ。着替えてから行くわ」
「かしこまりました。失礼します」
サキュバスメイドが一礼とともに部屋を退く。
両親へのあいさつを済ませた後、簡単な食事をしたいと注文していたのだ。
私は勢いを付けてベッドから飛び起きると、簡単な部屋着に着替えて、部屋を出た。
そして一人廊下を進み、大きなテーブルの並ぶ食堂に入る。
「お待ちしておりました」
給仕係のメイドが、テーブルの一角に用意された席の傍らで、私に向けて一礼した。既に食事の時間は過ぎているため、私の分の席しかない。
席に歩み寄ると、給仕係が椅子を引いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
椅子に腰を下ろし、テーブルに目を向ける。
テーブルの上の平たい皿には、スープが注いであった。具も何もない、透き通ったコンソメスープだ。
「すぐにパンと主菜をお持ちしますので、しばしお待ちください」
給仕は私にそう告げると足音もなく、それでいて足早に厨房の方へと歩み去っていった。
「……いただきます」
一人取り残された私は、そう声に出してから、並べられたスプーンの一つを手に取った。
スープの水面に銀色の匙を差し入れ、救い上げる。こぼさぬよう、滴らせぬよう気を付けて口に運び、吸った。
すると、口中にスープのぬくもりと、味わいが広がる。ほのかな塩味と、微かな肉の風味。牛骨や香味野菜などを一晩がかりで煮込むことしか得られない、料理人の努力が滲み出た逸品だ。
一口、また一口とスプーンが勝手に動き、口へスープを運ぶ。
「お待たせしました」
スープを半分ほど飲んだところで、給仕係が皿を二つ運んできた。
「主菜の『茹で鶏のスライス 淡味ソース掛け』とパンでございます」
私の前に置かれた皿には、熱を通して白くなった鶏肉を数枚スライスしたものに、淡い桃色のソースが一筋掛けた物が、付け合せの生野菜とともに乗っていた。
スプーンを置き、ナイフとフォークを手に取って、鶏肉を一口大に切って口へ運ぶ。
ほのかな酸味を帯びたソースが、淡白な鶏肉を彩る見事な一品だった。
鶏肉を食べ、スープを飲み、時折パンを抓む。
そして皿が空になるころには、空腹感はほどよく満たされていた。
「……ご馳走様でした……」
空になった皿と虚空を前に、私はそう口にした。
そして、人心地ついたところで給仕係に目を向ける。
「ちょっと」
「はい、なんでしょうか?」
「この料理を作ったのは?」
空になった皿を示しながらの問いに、給仕係の表情に緊張が宿った。
「料理長ですが…何か、失礼がありましたか…?」
「いえ、私が旅に出ている間に料理長は代わったはずなのに、昔とあまり変わらないことに少し驚いたの」
嘘だ。本当は、記憶にあるコンソメスープといくらか味は変わってた。それも、旅の合間に立ち寄った料理店のスープとどこか似た味にだ。
「新しい料理長に挨拶したいのだけれど、いいかしら?」
「え、えぇと…たぶん大丈夫だと思います…」
「そう、ありがとう」
給仕係の言葉に、私は椅子を立ち、厨房に向けて歩き出した。表面上は平静を装っているが、内心では期待が膨らんでいる。
十数年前まで慣れ親しんだ味と、旅の間に立ち寄った料理店の味。その二つを併せ持った味わいが、先ほどの料理にあったのだ。以前の料理長の味と、あの料理店の味。この二つを併せ持つことができる者は、彼の他にはいないはずだ。
さあ、なんて言ってやろうか。まずは料理の賞賛。それよりも先に、久しぶりと言う挨拶だろうか?
「料理長!」
私は厨房に入り、そう声を放った。すると、片付けや料理の仕込みをしていた数人の料理人の視線が私に向けられる。
そして、料理人たちの間から、一人の男が姿を現した。ひときわ高い帽子を被った料理人、すなわち料理長だ。
彼の姿を目にした瞬間、私の口中から言葉が消え去った。
「……」
言うべき言葉を失った理由の半分は胸中で不意に膨れ上がった懐かしさで、もう半分は彼の変化によるものだった。私の視線の先に立っていたのは、あの頃の陶器の細工物のような少年などではなく、彼の父親とうり二つの男だった。
白い調理服の下には分厚い腹肉がおしこめられ、袖口からは鍋を軽々振るえるほどの太さを備えた腕が覗いていた。襟の上にはでっぷりと肉のついた顔が乗っており、脂肪の襟巻が首の周りに巻き付いていた。
だが、肥え太った顔に宿る双眸には、二十年前を共に過ごした少年と同じ輝きが宿っていた。
その輝きだけが、私の心を二十年前の別れの日へ誘っていた。
そして、料理長もまた目を見開き、かつて少年だった日々を回想しているようだった。
料理人たちの視線を浴びながら、私と彼はしばしの間、無言で見つめ合っていた。
「…ええと、その…」
どうにか沈黙を破り、最初に口を開いたのは私だった。
「久しぶり、ね…シュンちゃん…」
二十年前の呼び方で、私はそう彼を呼んだ。
その一言に料理長、シュンちゃんは顔と比べると小さな目を潤ませた。
だが、彼の口から紡がれたのは、二十年前の私の呼び名ではなかった。
「…ルーシャお嬢様…!」
どこか湿った音で構成された、サキュバスメイドたちと同じ呼び方。その一言に、私はようやく彼が、いや、私と彼が変わってしまっていたことに気が付いた。
「な、何言ってるの、シュンちゃん…昔みたいにルーちゃんでいいのよ…」
内心の動揺を抑え込み損ねた震え声で、私はあのころを取り戻そうとするかのように言った。
だが、シュンちゃん―料理長は私の言葉に、ほお肉を揺らしながら顔を振った。
「滅相もありません…あのころは、とんだ失礼をしました…」
もはや、私と彼の間には、二十年かけて築かれた壁が聳えている様だった。
「父の代から世話になり、私も妻子共々厄介になっているというのに、あのような無礼を…何も知らぬ子供とはいえ、誠に申し訳ございませんでした…」
心底申し訳なさそうな様子で、彼はそう釈明した。
「…いいのよ、料理長…」
私は深く呼吸を一つ挟んでから、料理長を許した。
「さっきの食事、美味しかったわよ」
「…ありがとうございます…」
「それを言いに来ただけ。邪魔して御免なさいね…」
そう告げると、私は踵を返し、返事も聞かずに走り出した。
自分の部屋に向かって、壁から逃げるために。
翌日、私は簡単に荷物をまとめ、魔王城の入り口に立っていた。
婿探しの旅を再開するためだ。
「本当にもう出発されるのですか?もう少しごゆっくりなさればいいのに」
部屋からここまで荷物を持ってくれたサキュバスメイドが、そう引き止めるような言葉を口にした。
「いいのよ。本当はひと月ぐらい休むつもりだったけど、なんか一晩ですっきりしたし」
メイドの言葉に、私はそう答えた。
「それに、そろそろ旦那様を見つけて、母さんと父さんも安心させたいし」
「そうですか…」
いささか決まり文句めいた私の言葉に、彼女はそう対話を切った。
だが、彼女が本当に問いかけたかったことは、そんなことではない。
「ん?ああ、これ?」
ようやく今彼女の視線に気が付いた、という調子で、私は自分から切り出す。
「ちょっとイメージチェンジしてみたんだけど、似合う?」
腰の辺りまであった髪を、ばっさり肩口で切りそろえたことについて、そう問いかけた。
「ええと…お似合い、だと、思います…」
「そう、よかった」
詰まり詰まりながらのサキュバスメイドの返答に、私は微笑む。
実のところ、似合う似合わないなど、別にどうでもいいのだ。
やがて、私とサキュバスメイドは、城の出入り口にたどり着いた。
「じゃあ、この辺りで…」
「本当にここまででよろしいのですか?城下町までお見送りしますが…」
「大丈夫よ」
彼女から鞄を受け取りながら、私は続けた。
「ここまでありがとうね。次、帰る時は、二人で帰るつもりだから」
「お待ちしております」
サキュバスメイドの見送りを背に、私は歩き出した。
百年経っても変わらぬものを、見つけるために。
魔王城城下町の一角で、私は足を止めて魔王城を仰いだ。
見上げるほど巨大な城。難攻不落の要塞。魔王の居城。
表現の仕方はいくらでもあるが、思い出の籠る懐かしの我が家に変わりはない。
申し遅れたが、私はルーシャ。魔王の娘であるリリムの一人だ。ちなみに、姉妹が多すぎるお陰で第何女かは覚えていない。
「……」
私は、城を見上げたおかげで少し痛くなった首筋を軽く擦ると、魔王城に向けて足を進めた。
思い出はたくさんあるが、城を見上げたままでは首筋が固まってしまう。
歩きながらでも、過去を懐かしむことはできる。
私が城を離れたのは、もう十数年前のことだ。
別に両親や姉妹との仲が悪くなったからでも、若い頃にありがちな『世界を見たい』などという欲求を満たすためではない。単純に、婿探しの旅に出るためだった。
世界を巡り理想の旦那様を見つけ出し、二人で、あるいは三人で凱旋する。そんな、姉達の辿った道筋を、自身の足で歩むための旅だった。
だが、城下町を進む私の傍らに、旦那様の姿は無い。まだ理想の殿方を見つけていないからだ。
風の噂によれば、妹の中にもすでに旦那様を見つけ出した者もいるらしい。
焦りが胸の内を焦がすが、目を曇らせて拙速に旦那様を決めてしまっては、後々の不和に繋がるだろう。より良い将来のためにも、妥協などすることなく、理想の旦那様を探す必要がある。
そして今回の帰郷は、一時休息を取るためのものだ。城に帰り、ひと月ほどゆっくり過ごして、焦りに曇った目と心を清める。そうして再び、婿探しの旅に出るのだ。
慌てて婿を探す必要はない。デルエラ姉さんのように、婿探しよりお見合いに力を注ぐリリムだっているのだ。いや、デルエラ姉さんは結婚していたか?
そんなことを考えていると、ふと鼻を腹のすくような香りがくすぐった。傍らに視線を向ければ、料理屋の側を通り抜けるところだった。
(そういえば…)
香りによって掘り起こされた、郷愁を孕んだ思い出が、胸裏を通り抜ける。
(あの子、元気かしら…)
旅に出る以前の出来事が浮かび上がった。
あれは、もう二十年は前のことだったろうか。まだ幼かった私の下に、遊び相手と称して人間の男の子が連れてこられたのだ。
後で聞くところによると、当時雇ったジパング出身の料理人の子供だったらしい。
腹や腕はもちろん、首や顎の下にまで肉を付け、丸々と太った料理人と違って少年はほっそりとしており、まるで陶器の人形のように白く華奢だった。
私より少しだけ幼かった彼は、ジパングと全く違う環境とサキュバスのメイド達に早くも慣れているようで、私とすぐに打ち解け、魔王城の私の部屋や中庭、厨房の裏手などで一緒に遊んだ。
人形遊びはもちろん、『姫と勇者』のごっこ遊びに付き合わせたり、人間の街から仕入れてきたという絵本を一緒に読んだりした。
また少年も私に、私の知らないジパングの遊びや、ジパングのお話を聞かせてくれた。
特に、彼のお話は格別だった。
『五日で僕達よりも大きくなるタケっていう草があって、その中にはお姫様が住んでいるんだ』
『都を襲って財宝を盗んだアカオニを、三匹のお供を連れた勇者がやっつけたんだ』
『ジパングの海には時々、シンキロウってお城が浮かぶんだ』
彼のお話には、未だ見ぬ魔界の外が溢れており、私自身の憧れと相まってそれは素晴らしいものに感じられた。
だが、彼と過ごした時間はごく短かった。
彼の父親、つまりはジパングからの料理人は、魔王城の厨房に入る代わりに一つの条件を出していた。それは、自分の息子を最高の料理人として育て上げるため、協力することだった。
魔界に満ちる魔力に当てられ、料理人になる前に色狂いにならぬよう、料理人一家の部屋には魔力を寄せ付けぬ魔術が施され、料理人の息子自身にも魔術が掛けられた。
そして、ジパング料理に限らず多くの料理を学び、身に着けるため、料理人の息子は人間会の有名な料理店に預けられることとなった。
住み込みでの弟子入りが決まって、迎えの馬車が来た日、彼は私の部屋のベッドの下に隠れ、私は部屋に誰も入れまいと立てこもっていた。
しかし大人たちの力に敵うはずもなく、扉は易々と開かれ、彼は荷物とともに馬車へ詰め込まれた。
そして私は、文字通り心臓を裂かれそうな心地に涙を流しながら、手を振りつつ少年の乗った馬車を追いかけ、力尽き、倒れた。
それきり少年とは会っていない。
数年前、婿探しの旅の合間に、彼が弟子入りしていたオークの料理店を訪れたことがあったが、既に彼は修行を終えて魔王城へ戻ったと聞いた。その時飲んだスープは、僅かに塩味がきつかった気がした。
だが、今回の帰郷により、彼と再会できるのだ。この二十年で、彼はどう変わっているだろうか。そして、彼の身に着けた料理はどれほどの物なのだろうか。
魔王城の入り口を前に、私の胸は期待で膨らみ、腹が小さく音を立てた。
帰宅後、両親へのあいさつを済ませると、私は早々に自分の部屋へと引き上げた。
姉妹達に挨拶をしようにも、旦那様を見つけた者は二人きりで自分の部屋に引きこもっているし、未婚の者は留守でいない。ちなみに、デルエラ姉さんも不在だった。
久々の自分の部屋は、メイドの掃除が行き届いているためか埃一つ落ちておらず、それでいて記憶の中の部屋と何ら変わりはなかった。
「ふぅ…」
ベッドに仰向けに倒れ込み、今日一日分の移動の疲労と、十数年分の旅の疲れを吐息とともに吐き出す。
全身を満たす疲労感が倦怠感を呼び、このまま眠ってしまいたいという欲求が沸き起こる。
だが、欲に身を任せるわけにはいかなかった。
ベッドに横になる私の耳を、ノックの音が打った。
「どうぞ」
「失礼します」
私の返答にサキュバスメイドがドアを開き、一歩部屋に入る。
「もうすぐお食事の準備ができます。食堂までお越しください」
「分かったわ。着替えてから行くわ」
「かしこまりました。失礼します」
サキュバスメイドが一礼とともに部屋を退く。
両親へのあいさつを済ませた後、簡単な食事をしたいと注文していたのだ。
私は勢いを付けてベッドから飛び起きると、簡単な部屋着に着替えて、部屋を出た。
そして一人廊下を進み、大きなテーブルの並ぶ食堂に入る。
「お待ちしておりました」
給仕係のメイドが、テーブルの一角に用意された席の傍らで、私に向けて一礼した。既に食事の時間は過ぎているため、私の分の席しかない。
席に歩み寄ると、給仕係が椅子を引いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
椅子に腰を下ろし、テーブルに目を向ける。
テーブルの上の平たい皿には、スープが注いであった。具も何もない、透き通ったコンソメスープだ。
「すぐにパンと主菜をお持ちしますので、しばしお待ちください」
給仕は私にそう告げると足音もなく、それでいて足早に厨房の方へと歩み去っていった。
「……いただきます」
一人取り残された私は、そう声に出してから、並べられたスプーンの一つを手に取った。
スープの水面に銀色の匙を差し入れ、救い上げる。こぼさぬよう、滴らせぬよう気を付けて口に運び、吸った。
すると、口中にスープのぬくもりと、味わいが広がる。ほのかな塩味と、微かな肉の風味。牛骨や香味野菜などを一晩がかりで煮込むことしか得られない、料理人の努力が滲み出た逸品だ。
一口、また一口とスプーンが勝手に動き、口へスープを運ぶ。
「お待たせしました」
スープを半分ほど飲んだところで、給仕係が皿を二つ運んできた。
「主菜の『茹で鶏のスライス 淡味ソース掛け』とパンでございます」
私の前に置かれた皿には、熱を通して白くなった鶏肉を数枚スライスしたものに、淡い桃色のソースが一筋掛けた物が、付け合せの生野菜とともに乗っていた。
スプーンを置き、ナイフとフォークを手に取って、鶏肉を一口大に切って口へ運ぶ。
ほのかな酸味を帯びたソースが、淡白な鶏肉を彩る見事な一品だった。
鶏肉を食べ、スープを飲み、時折パンを抓む。
そして皿が空になるころには、空腹感はほどよく満たされていた。
「……ご馳走様でした……」
空になった皿と虚空を前に、私はそう口にした。
そして、人心地ついたところで給仕係に目を向ける。
「ちょっと」
「はい、なんでしょうか?」
「この料理を作ったのは?」
空になった皿を示しながらの問いに、給仕係の表情に緊張が宿った。
「料理長ですが…何か、失礼がありましたか…?」
「いえ、私が旅に出ている間に料理長は代わったはずなのに、昔とあまり変わらないことに少し驚いたの」
嘘だ。本当は、記憶にあるコンソメスープといくらか味は変わってた。それも、旅の合間に立ち寄った料理店のスープとどこか似た味にだ。
「新しい料理長に挨拶したいのだけれど、いいかしら?」
「え、えぇと…たぶん大丈夫だと思います…」
「そう、ありがとう」
給仕係の言葉に、私は椅子を立ち、厨房に向けて歩き出した。表面上は平静を装っているが、内心では期待が膨らんでいる。
十数年前まで慣れ親しんだ味と、旅の間に立ち寄った料理店の味。その二つを併せ持った味わいが、先ほどの料理にあったのだ。以前の料理長の味と、あの料理店の味。この二つを併せ持つことができる者は、彼の他にはいないはずだ。
さあ、なんて言ってやろうか。まずは料理の賞賛。それよりも先に、久しぶりと言う挨拶だろうか?
「料理長!」
私は厨房に入り、そう声を放った。すると、片付けや料理の仕込みをしていた数人の料理人の視線が私に向けられる。
そして、料理人たちの間から、一人の男が姿を現した。ひときわ高い帽子を被った料理人、すなわち料理長だ。
彼の姿を目にした瞬間、私の口中から言葉が消え去った。
「……」
言うべき言葉を失った理由の半分は胸中で不意に膨れ上がった懐かしさで、もう半分は彼の変化によるものだった。私の視線の先に立っていたのは、あの頃の陶器の細工物のような少年などではなく、彼の父親とうり二つの男だった。
白い調理服の下には分厚い腹肉がおしこめられ、袖口からは鍋を軽々振るえるほどの太さを備えた腕が覗いていた。襟の上にはでっぷりと肉のついた顔が乗っており、脂肪の襟巻が首の周りに巻き付いていた。
だが、肥え太った顔に宿る双眸には、二十年前を共に過ごした少年と同じ輝きが宿っていた。
その輝きだけが、私の心を二十年前の別れの日へ誘っていた。
そして、料理長もまた目を見開き、かつて少年だった日々を回想しているようだった。
料理人たちの視線を浴びながら、私と彼はしばしの間、無言で見つめ合っていた。
「…ええと、その…」
どうにか沈黙を破り、最初に口を開いたのは私だった。
「久しぶり、ね…シュンちゃん…」
二十年前の呼び方で、私はそう彼を呼んだ。
その一言に料理長、シュンちゃんは顔と比べると小さな目を潤ませた。
だが、彼の口から紡がれたのは、二十年前の私の呼び名ではなかった。
「…ルーシャお嬢様…!」
どこか湿った音で構成された、サキュバスメイドたちと同じ呼び方。その一言に、私はようやく彼が、いや、私と彼が変わってしまっていたことに気が付いた。
「な、何言ってるの、シュンちゃん…昔みたいにルーちゃんでいいのよ…」
内心の動揺を抑え込み損ねた震え声で、私はあのころを取り戻そうとするかのように言った。
だが、シュンちゃん―料理長は私の言葉に、ほお肉を揺らしながら顔を振った。
「滅相もありません…あのころは、とんだ失礼をしました…」
もはや、私と彼の間には、二十年かけて築かれた壁が聳えている様だった。
「父の代から世話になり、私も妻子共々厄介になっているというのに、あのような無礼を…何も知らぬ子供とはいえ、誠に申し訳ございませんでした…」
心底申し訳なさそうな様子で、彼はそう釈明した。
「…いいのよ、料理長…」
私は深く呼吸を一つ挟んでから、料理長を許した。
「さっきの食事、美味しかったわよ」
「…ありがとうございます…」
「それを言いに来ただけ。邪魔して御免なさいね…」
そう告げると、私は踵を返し、返事も聞かずに走り出した。
自分の部屋に向かって、壁から逃げるために。
翌日、私は簡単に荷物をまとめ、魔王城の入り口に立っていた。
婿探しの旅を再開するためだ。
「本当にもう出発されるのですか?もう少しごゆっくりなさればいいのに」
部屋からここまで荷物を持ってくれたサキュバスメイドが、そう引き止めるような言葉を口にした。
「いいのよ。本当はひと月ぐらい休むつもりだったけど、なんか一晩ですっきりしたし」
メイドの言葉に、私はそう答えた。
「それに、そろそろ旦那様を見つけて、母さんと父さんも安心させたいし」
「そうですか…」
いささか決まり文句めいた私の言葉に、彼女はそう対話を切った。
だが、彼女が本当に問いかけたかったことは、そんなことではない。
「ん?ああ、これ?」
ようやく今彼女の視線に気が付いた、という調子で、私は自分から切り出す。
「ちょっとイメージチェンジしてみたんだけど、似合う?」
腰の辺りまであった髪を、ばっさり肩口で切りそろえたことについて、そう問いかけた。
「ええと…お似合い、だと、思います…」
「そう、よかった」
詰まり詰まりながらのサキュバスメイドの返答に、私は微笑む。
実のところ、似合う似合わないなど、別にどうでもいいのだ。
やがて、私とサキュバスメイドは、城の出入り口にたどり着いた。
「じゃあ、この辺りで…」
「本当にここまででよろしいのですか?城下町までお見送りしますが…」
「大丈夫よ」
彼女から鞄を受け取りながら、私は続けた。
「ここまでありがとうね。次、帰る時は、二人で帰るつもりだから」
「お待ちしております」
サキュバスメイドの見送りを背に、私は歩き出した。
百年経っても変わらぬものを、見つけるために。
12/04/05 23:32更新 / 十二屋月蝕