殻の中の小鳥
寒空の下、私は一人薄暗い街角にたたずんでいた。
そこは表通りと裏通りを繋ぐ路地のような場所で、私から少しはなれたところを多くの人が行き交っていた。
皆、上等な外套に身を包み、襟を立てて背中を丸めながら、それぞれの目的地へ急いでいた。
「・・・寒い・・・」
彼らの装いに、私は頭から追い出していた寒さを思い出し、小さく身体を振るわせた。
肩から薄汚れたケープを羽織っているものの、前は大きく開いている。加えて、仕事上の必要性から、私が来ているのも胸元が大きく開いた、やや薄手の服だ。
身体のラインが良く浮かぶが、この季節には全く向いていない。
このまま回れ右して戻り、すぐそこにある安宿の寝床に戻りたい。だが、それは絶対に出来ない相談だった。
私の背後、すぐそこにある安宿の窓の一つから、男が見張っているのだ。
私が逃げないように、私がちゃんと仕事をするように、だ。
ここで、私が安宿に引き返そうとしようものなら、安宿の玄関にたどり着く前に彼が飛び出してきて、私を痛めつけるだろう。
「っ・・・」
ちょっとした想像に、右脇腹が微かに痛んだ。私がこの街に着たばかりの時、彼に蹴られたときの傷だ。
そういえば、この街に来てからどれぐらい経ったのだろう。この、ダーツェニカの街に来てから。
「・・・あ・・・」
少し昔を思い返そうとしたとき、私の目の前を白いものが降りていった。
顔を上げてみれば、灰色がかった黒い雲から、白いものがちらほらと降りてくるのが見えた。
「雪・・・」
呟きと共に掌を差し出してみれば、降りてきた雪が肌に触れ、すぅっと溶けていく。
ゆっくりと舞い降り、儚く溶けていく、美しい雪。だが、その美しさと裏腹に、冷気は確実に私の体温を奪っていく。
それが、二度の冬で私が学んだことだ。
「・・・そうか、もう三年目なんだ・・・」
私の故郷では雪が降らなかったから、三度目の雪はそのまま私のこのダーツェニカという街で過ごした時間になるわけだ。
路地に入ってきた男と交渉し、そのまま物陰に入って相手をする。そんな日々を繰り返しているうちに、もう三年も経ってしまったのか。
「・・・帰りたいな・・・」
どうせ叶わぬ願い事と頭では理解しているが、そんな囁きが思わず口から零れてしまった。
私は軽く頭を振ると、下らない願望を頭から追いやった。
とりあえず、今日の分を稼がなければ痛めつけられてしまう。早いところ客を見つけないと。
私は顔に垂れた髪を掻き上げた。長く尖った、冷え切った私の耳が、掌に触れた。
――――――――――――――――――――
私の故郷であるエルフの里は、大陸の南東部の森の深くにあった。人里との交流はおろか、外部へ続く道はなく、狩猟で細々と暮らしていた。
幼い頃は、何の疑問もなく日々を受け入れていた。が、ある年齢になったところで任される、見張りの仕事から私は故郷での日々に疑問を抱くようになった。
見張りは、里を中心とするある程度の広さの円の縁を、仲間と二人で見て回るというものだ。そして、円に近づく人間がいれば、一人が弓と魔法で脅して追い返し、もう一人が報告の為里へ走るのだ。
当時、私は里の大人たちから、人間は魔物に劣らない邪悪な種族で、隙あらば森を侵して土地を汚そうとしているのだと教えられていた。
私は大人たちの言葉を信じ、里を囲む円に近寄る人間を脅して追い返していた。
ある時は木々に願い、風に語りかけ、何か恐ろしいものの叫び声のような音を出して脅かした。
またある時は、木々の合間を縫って矢を放ち、怪我をさせて追い返した。
その結果、人間が深い穴のある方向へ進もうとも、怪我が原因で身動きが取れなくなって森の獣に襲われようとも、私は気にしなかった。あの日までは。
あの日、いつものように仲間と二人組みで見張りをしていたところ、人の気配と共に血の匂いが私の鼻を衝いたのだ。仲間を報告のために村へ走らせ、私は弓に矢を番えながら、そっと人間の様子を探った。
木々の合間から見えたのは、皮の鎧を纏った男だった。最も鎧は半分壊れており、覗く地肌には幾つもの傷が刻まれ、血を流している。彼は木の根元で幹に背中を預ける用意して座り込んでおり、ゆっくりと呼吸を重ねていた。
私は、彼のまるで喘ぐような呼吸の仕方に、彼がそう長くないことを悟った。そして、いつでも射放てるよう引き絞っていた弓を緩め、矢を矢筒に戻して、男のところへ歩み寄っていった。
「大丈夫?」
彼は、私がすぐ傍に歩み寄っても気が付く様子もなく、私が掛けたその声に、ようやく顔を向けて反応した。
しかし、その両の目はどこも見ておらず、何も見えていないことが分かった。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
彼は私の問いに返答を返すことなく、走って乱れた呼吸を落ち着かせようとするかのような、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
その様子は、まるで全身に矢を突き立てられ、倒れこんでしまった猪が、死に行く様に良く似ていた。
私は、このままでは彼が死んでしまうことを理解した。丁度、見張りが持たされる道具袋には応急手当用の薬草が収められており、私自身も簡単な治癒魔法はいくつか知っていた。
だが、私は薬草を取り出すわけでも、治癒魔法の詠唱を始めるわけでもなく、ただ彼の傍で立ち尽くしていた。里の大人達に聞かされていた人間の姿に、私は彼を助けるべきか否か悩んでいたからだ。
人間は邪悪で、森を汚す。
しかし、目の前で木の幹に背中を預ける彼の姿は、実にちっぽけで弱々しい、死に掛けの生き物のそれだった。
勿論、彼の纏った皮鎧と、全身の傷から彼がどのようなことをしてきたかは分かる。が、彼は今現在、まさに死のうとしているのだ。
助けるべきか否か、私の頭の中を幾つもの考えが回っていた。
私が悩んでいるうちに、彼の呼吸が徐々にゆっくりとしたものになってきた。そして、大きく空気を一度吸うと、更にパクパクと口を開閉させてから彼は呟いた。
「おかあ・・・さん・・・」
その一言の後、彼は深い溜息をつくように息を吐いて、動かなくなった。
彼は死んだのだ。私が悩んでいる隙に。
私の目の前にあったのは、邪悪な生き物の亡骸などではなく、最後に母を呼んで死んでいった、ちっぽけな男の姿だった。
そこに、里の大人達が言う邪悪な人間の姿はなかった。
その事実に私が気が付いたとき、私の脳裏にこれまでの見張りで追い返してきた人間の姿がよぎった。
いずれの姿も、道を求めて彷徨う迷子であったり、何かから逃れようと急ぐ怯えた者の姿であり、邪悪な存在はどこにもなかった。
では、里の大人達の言う邪悪な人間とは、一体なんなのか?
息絶えた男を前に、私は呆然と立ち尽くしていた。
――――――――――――――――――――
その後、私は放っておけという大人たちの言葉に逆らい、その場に男の亡骸を埋めると、両親や大人たちに邪悪な人間について尋ねた。
彼らは口をそろえて、人は邪悪だと答えた。だが、当時の私には彼らは人間を毛嫌いし、交流を絶つ為だけにそう言っているようにしか思えなかった。
そして、後はお決まりのように私は大人達に反発し、弓と矢といくらかの荷物を手にして、里から飛び出していったのだ。
人と交流し、彼らが本当に邪悪な存在かどうかを確かめる為にだ。
そうして、私は奴隷商人に捕まり、故郷から遠く離れたダーツェニカまではるばる運ばれ、今の主人である男に買われた訳だ。
人間がどれだけ邪悪か、今の私には痛いほど分かる。
「うぅ・・・寒い・・・」
先程降り始めた雪は、既に街の石畳を薄く覆うほど積もり始めていた。
地面から、空気から、肌を差すような冷気が身体に染み入り、体温を奪っていく。
帰りたい。故郷でなくとも、せめて寝床のあるすぐそこの安宿に、帰りたい。
しかし、今日の分の稼ぎが十分でない為、私は寒空の下もうしばらく客を待たねばならないのだ。
「はぁ・・・」
「んまぁーあ、あーあ、あー」
両手に息を吐きかけ、擦り合わせる私の耳を、甲高い声が打った。
視線を声のした方角、裏通りの方へ向けてみれば、裏通りの向こうの方から人影が一つ私のほうへ向かって歩いてきていた。
汚れた外套を何枚も羽織り、頭を球形の兜のようなもので包んだ人物だ。
頭を包む兜には幾つものへこみと傷がついており、覗き穴と思われる正面の丸いガラス窓が、曇っている為表情は窺えない。また、外套の裾から伸びる手足は、折れそうなほど細い。
そんな、珍妙な装いの人影が、行進でもするように手足を振り上げ、音階も適当な鼻歌めいた声を放ちつつ、私の立つ路地に入り込んできた。
「はーん、ふんふんふんはーん」
彼が近づくに連れ、鼻の奥を刺す冷たい空気に、酸っぱい臭いが混ざり始める。夏場、数人分の吐瀉物を一昼夜置いたような、胸の悪くなるような臭いだ。
臭いは彼が私の目の前に来たところで頂点に達する。
同時に、丸兜がぴたりと足を止め、正面に取り付けられた窓を私のほうに向けた。
「ねえ・・・」
出来れば通り過ごして欲しい、という私の願いも空しく、彼はそう声を掛けてきた。
「あそーんでー?」
「・・・・・・」
「あそーんでーぇえー?」
無視する私に、そいつは屈み込みながら声を掛けてきた。
へこみと傷のついた球形の兜が私の顔の傍に寄り、彼の纏った外套の襟元から立ち上る悪臭が、肺の奥に染み入ってくる。
「ねえ・・・あそーんでぇー?」
三度の問いに、私はじっと視線を逸らして耐えた。
もう少し、もう少しの我慢だ。
「あそーん」
「このクソがぁ!また来たかぁ!」
四度目の問い掛けが、脇から飛んできただみ声に掻き消される。
直後、球形の兜を褐色の棒状の何かが打ち据え、彼の身体が雪で白く染まった石畳に倒れ伏した。
「まぁた性懲りもなく来やがって・・・!」
だみ声の方に視線を向ければ、腹の突き出た中年の男が、砂の詰まった細長い皮袋を手に立っているのが目に入った。今現在の、私の持ち主の男だ。
白目が薄黄色く濁った両の目には怒りが滲んでおり、彼の気分がそう良くないことを示していた。
「てめえが、来ると!うちは、商売、上がったりなんだよ!」
言葉を細かく切りながら、男は手にした皮袋を、横たわる彼の外套に覆われた胴体に何度も振り下ろした。
一撃ごとに、彼の痩せぎすな細い身体が、衝撃で揺れ、跳ねる。
「何が!遊んで!だ!遊びたきゃ!金!もってこい!」
皮袋を振り下ろすのを止めると、男は踵で踏み潰すようにしながら言葉を続けた。
そしてそのまま、数度蹴りを叩き込むと、男はようやく彼への暴力を止めた。
「クソ・・・相変わらず嫌な臭いだ・・・おい、臭いがつかないうちに帰るぞ」
男は忌々しげに、動かなくなった外套の背中につばを吐きかけると、そう続けて私の手首を握り、ずんずん歩き出した。
「あ・・・ちょ、ちょっと、待・・・」
「あぁ!?」
突然手を引かれ、バランスを崩しそうになる私に、男が威嚇めいた声を上げる。
私は口をつぐみ、どうにか縺れる両足を立て直しながら、男の足についていった。
薄く雪の積もった石畳の上に足跡を残しながら、男と私は裏通りに面した安宿に入った。
ドアが開き、男と私の二人を受け入れる。
暖炉に火は入っていないが、屋根と壁があるだけで、ほっと息をつけるような温もりがそこにあった。
「おら、着いて来い!」
男は、私が人心地つく間も許さず、酒場と食堂を兼ねた一階の広場を通り抜けると、奥の階段を上り始めた。
私は半分引き摺られるようにしながら男に付いて行くが、一階の片隅に置かれた物をちらりと見た。
湾曲した背の高い金属の棒と、そこに吊り下げられた籠だ。籠には布が掛けてあり、中を窺うことは出来なかった。
「・・・・・・」
階段を上るうちに、籠が一階の天井に遮られ、見えなくなる。
やがて階段を上りきると、男は私を半ば引き摺りながら廊下を進み、突き当りの扉を開いた。扉の向こうはベッドが二つに、テーブルと椅子が一組だけ置かれた殺風景な部屋だ。
男は部屋に入るなり、私を床の上に放り出した。
「きゃ・・・!」
半ば引き摺られるような姿勢で放り出されたため、私はよろめきながら部屋のほぼ中央まで進んで、崩れ落ちた。
私の背後で、男が扉を閉める音がする。顔を向ければ、壁際においてあったもう一脚の椅子を手に取り、扉の取っ手の下に背もたれが食い込むように置きなおした。
これでもう、外から扉は開かない。
「おい」
男は椅子の位置を調整し、軽く押し引きして確認すると、よろよろ立ち上がる私に向けて低い声と共に振り返った。
「今日の稼ぎを出せ」
「は、はい・・・」
私は上着の懐に手を入れると、そこに収められていた幾枚かの硬貨を取り出し、差し出した。
「これで、全部です・・・」
「・・・」
男は無言で歩み寄ると、私の手のひらから硬貨を引ったくり、数えた。
「少ないな」
「今日は早く引き上げたから・・・」
いささか不機嫌そうな男の言葉に、私はそう返した。
だが、男はそれだけでは納得しないようだ。
「今日は二人相手したんだろ?二人ならもうちょっと稼げるだろう?だってのにこれは何だ、一人分ぐらいしかないじゃねえか」
掌の上の硬貨を私の目の前に突きつけながら、彼は声を荒げた。
「きょ、今日のお客さんは二人とも、口だけだったから・・・」
今日相手をした二人の男の形と味を思い返しながら、私はそう弁解した。
だが、男が求めていたのは言い訳ではなかったようだ。
「んな事を聞いてんじゃねえ!」
声を荒げると、男は私の肩を思い切り突き飛ばした。
衝撃にバランスを崩し、私は再び床の上に倒れてしまった。
「・・・っ・・・!」
「口の注文しかなかったから、口だけしか相手しなかったぁ!?そんなんで、今日の目標稼ぐのに、何人要るか言ってみろ!」
尻餅をついた痛みに耐える私の肩を掴むと、男は力を込めて私の身体をひっくり返した。
そして、床の上にうつぶせになった私の手首を掴み、背中の方へねじり上げる。
「・・・いっ!」
「口だけでいいってヤツに胸も使ってやって、一回でいいってヤツに二回してやるのがえーぎょーどりょく、って言うもんだろうが!」
肩や肘に走る痛みに、私は思わず自由な手足を使って逃れようともがいた。だが、男は恫喝を続けながら更に手首をねじり、激痛を私にもたらした。
このまま暴れていたら、彼はもっと腕をねじり上げるだろう。
彼との生活で学んだことが脳裏に浮かび、私は歯を食いしばって、ともすれば暴れだしそうになる手足を押さえ込んだ。
「そうやってなじみの客を作って、毎回本番までやらせりゃあ、目標どころかお釣りまで付いてくるだろうが!あぁ!?」
「ご・・・ごめん、なさ・・・い・・・!」
肩等での発する激痛に耐えながら、私はどうにか声を絞り出した。しかし謝罪の言葉は彼の神経を逆撫でしたらしく、手首を握る彼の手に力が篭る。
「ごめんなさいじゃねえよ!努力します、だろうが!」
「は、はい・・・!努力します、頑張ります・・・!もっと、もっと稼ぎます・・・!」
関節が立てるみしみしという音を身体伝いに聞きながら、私は声を張り上げた。
すると、手首を握っていた彼の指が緩み、腕が開放された。
「っ、はぁはぁはぁはぁ・・・」
「分かったんなら、明日から努力するんだな」
痛みによっていつの間にか止めてしまっていた呼吸を再開させ、喘ぐ私を見下ろしながら男はそう言った。
するとそのまま彼はベッドへ歩み寄り、ごろりと横になると三枚重ねの毛布を被った。しばしの間をおいて、鼾が室内に響き始める。
「・・・・・・」
私はようやく呼吸を落ち着かせると、痛む肩を擦りながらゆっくりと立ち上がった。
ちらりと視線を扉に向けるが、そこには変わらず椅子が鎮座したままだ。数日置きの彼の怒声と暴行に、最初のうちは野次馬や止めようとする人間が着ていたのだが、もういつもの事と流すかのように誰も来なくなった。結果、他の人間を寄せ付けない為に設置された椅子だけが残されたというわけだ。
「・・・痛っ・・・」
肩に支障がないか確認する為、軽く上げてみるが、一瞬肩の奥を鋭い痛みが走った。少し痛めてしまったようだ。やはり、反射的にもがいてしまったのが不味かったのだろう。次からは大人しくしなければ。最も、買われたばかりの頃の殴る蹴るに比べれば遥かにましだが。
そこまで考えたところで、私は自分の思考が大分異常な方向に捻じ曲がっていることに気が付いた。
腕をねじり上げられ、関節を痛めたというのに、昔に比べればましだと?
確かに、彼の関節をねじるという暴行は、殴る蹴るなどの単純な暴力に比べれば外傷は少ない。しかし、痛みは遜色なかった。
彼としては、怪我させることなく痛めつけ、言うことを聞かせる為の手段として編み出した暴力の振るい方なのだろう。だが、初期の暴力によって骨折を経験した身としては、関節をねじり上げられ、そのまま骨折に至るほうが恐ろしいのだ。
「つつ・・・」
仕事着を脱ごうと腕を上げれば痛みが走る。私はどうにか服を全て脱ぐと、壁に掛けられた衣装掛けにそれを掛けた。
そして肩を擦りながら、私は部屋に置かれたもう一つのベッドに歩み寄ると、毛布を広げてその中に潜り込む。
寒さは身体の奥に突き刺さるようだったが、私は身体を丸めて目を瞑り、それに耐える。明日も仕事はあるのだ。早く休んで、備えなければ。
程なくして眠りが訪れた。
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『ひなどり ひなどり 殻の中 空を夢見て 眠ってる』
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頭を締め付けられるような痛みに、私は目を覚ました。ダーツェニカ特有の冷気による目覚めだ。
毛布の中から窓の外を見てみれば、昇り始めた朝日が裏通りを照らしつつあるところだった。
そろそろ起きなければ。
「ん・・・うーん」
丸めていた身体を伸ばし、被っていた一枚の毛布を除けつつ、私は身を起こした。
毛布を跳ね除けたことで、冷気が直接身体に触れる。だが、このまま毛布の下にいたところで寒いのには変わらないのだ。むしろ、こちらの方が目が覚めて丁度いい。
「うぅ、寒い・・・」
呟きながらベッドを降りると、軽く肩を動かしてみた。
微かな痛みは残っているが、大分良くなっている。これなら医者に行く必要もないだろう。
簡単に判断を下すと、私は服を掛けた壁に歩み寄った。
そして、昨日着ていたのとは別の、もう一着の衣装を取り、袖を通す。
胸元は閉じており、厚手の生地が体のラインを隠してしまっている為色気は全くないが、仕事着の何倍も暖かい。
目の届く範囲で身だしなみを整えると、私は窓際のテーブルに向かった。そして、その上に昨夜から放り出されたままの硬貨を数枚手に取る。
枚数を確認して、懐に収めた。
そのまま扉の前に向かい、取っ手に食い込んだままの椅子をどかすと、私は扉を開けて外に出た。
冷えた空気が流れ込み、部屋の空気が意外と澱んでいたことを私は知った。
後ろ手に扉を閉め、薄暗い廊下を音をたてぬようゆっくりゆっくり、足を少しだけ引きずりながら進む。
そして階段にたどり着くと、手すりを握って一段ずつ下りて行った。
別に、昨夜怪我したわけではない。
奴隷商人につかまった時、足を逃げられないように折られたからだ。
幸い骨はくっついたものの、まっすぐに固定しなかったせいで少しだけ左右の足の長さが違ってしまった。
おかげで折れた脚に体重を掛けると痛むため、走るどころかこのように階段の上り下りさえままならないのだ。
いま思えば、これが奴隷商人の狙いだったのだろう。
一階に降りると、私は出入り口ではなく、食堂のカウンターに向かった。
「おはようございまーす」
「うーいす」
カウンターの奥、厨房から低いうめき声のような返事とともに、肥った男が出てきた。
「今日も頼むね、ハイよ」
「はい」
私は男の差し出したメモといくらかの硬貨を受け取った。
メモに書かれているのは、食堂で使う食品のリストだ。
仕入れの一部を担当することで、この宿に少し安値で泊めてもらっているのだ。
私は金額とメモの内容を確認すると、カウンターから離れて、食堂の隅に向かった。
そこにあったのは、湾曲した背の高い金属の棒と、そこに吊り下げられた籠だ。
昨夜掛けてあった布は取りのけてあり、中身が見える。
籠の中にいたのは、設置された横木にとまる一羽の小鳥だった。
私は籠に近づくと、くちばしが赤く白くつるりとした羽の小鳥に向けて、こうささやいた。
「おはよう」
無論、小鳥は返事をするわけでもなく、濡れた黒い眼目でこちらを見返し、首をかしげるばかりだ。
でも、小鳥の愛らしい姿を見ているだけでも、私の心は十分に和んだ。
「……よし…」
たっぷり小鳥の姿を目に収めると、私は籠の側から離れ、宿の出入り口に向かった。
木の扉に手を掛け、押し開くと強い朝日とともに冷たい空気が私を迎えた。
「うぅ…」
衣服を通して肌を刺す冷気に呻きながら、私は宿の外に出た。
辺りには昨夜降った雪が薄く積もっており、眩いほどにきらきらと朝日を照り返している。
もっとも、朝日によって少々溶けている上に、足跡がいくつも刻まれているため、一面真っ白と言うわけではない。
戸を閉め、雪に覆われた石畳の上に降りると、私は市場の方に向かって歩き始めた。
さく、さく、さく、さく、と一歩ごとにゆっくりと足音と足跡が刻まれていく。
振り返ってみれば、左右の足の長さの違いのせいかいくらか歩幅に偏りのある私の足跡が、安宿の入り口からすぐ後ろまで続いていた。
やはり、雪はいい。膝に達するほど積もるのはごめんだが、ごくごく薄いうちならこんな楽しみがある。
私は、いくらか気分を明るくしながら、足を進めていった。
向かう先は、ダーツェニカの市場街だ。
近隣の村や町から日用品や食品を揃えた人々が集まり、朝から昼過ぎまで取引をするのだ。
多くの品物や人が集まるため、市場街は常に混雑しているが、一般商店よりいくらか安く物を手に入れることができる。
だから、稼ぎが同じでも市場街で買い物をした方が、より多くのものが手に入るのだ。
この街に移り住んでから、ひと月もしないうちに身に着けた生活の知恵である。
(とりあえず、パンにハムに、果物に…)
懐の硬貨の枚数を思い出しながら、私は仕入れのついでに何を買うべきか算段を立てた。
酒。
安くて、量があり、日持ちのする食料品。
仕事のための、新しい香水と、安い装身具。
それと、新しい仕事着のための生地。
食品と酒以外はまだ必要ではないが、今のうちからお金を貯めておいた方がいいだろうか。
そんなことをつらつら考えながら、足を進めていく。
裏通りを通り抜け、いくつかの路地を通り、市場街に近づいていく。
そして街の中を流れる水路にかかる橋の手前、市場街まで橋を渡ってから角をいくつか曲がればよい、というところで、私の耳を音がくすぐった。
ぴちゃぴちゃという、何かを舐めるような音。
ハフハフという、呼吸を交えながら何かを口に押し込む音。
ぐじゅ、ヴジュ、という柔らかなものをこねるような音。
そんな音が、私の耳に届いたのだ。
不快感を湧き起こさせる、濡れた粘着質な、いくつかの音。
その出元は、少し先の路地裏のようだった。
「……」
私は足を止め、路地裏へと続く角に目を向けた。
ここからは何も見えないが、角を覗き込めば、何かあるのだろうか。
ちらりと視線を上げてみるが、空には鳥の姿はない。
ならば、犬か何かの死骸を犬か何かが食べている、というわけでもないようだ。
安宿の一階酒場の酔客や、ほかの住人によれば、ここダーツェニカは昔一時期完全に魔物の支配下にあったらしい。
そして街の地下には巨大なダンジョンが存在し、そこには当時の魔物の残党が生き残っているという噂を聞いたこともある。
街の地下を流れる下水路も、地下ダンジョンの一部を利用して作られているとも聞いた。
ちらり、と視線を水路に向ければ、水路の壁面に人が入れそうな穴が、ある程度の間隔を置いて並んでいた。
ぴちゃ ぐちゅ はふ ぐぢゅぢゅ ぶち はふ
水路を眺める私の耳を、再び音が打つ。
まるで、水路から這い出した魔物が、犠牲者の亡骸を食らっているような音が、だ。
どうしよう。街の衛兵に知らせるべきだろうか?
しかし、ダーツェニカほど大きな街に、魔物が出たなどという話は聞いたことがない。
下手な通報をすれば、逆に私がしょっ引かれるだろう。
でも、本当に魔物だったら、このまま離れれば被害が出てしまう。
私はしばしの逡巡を経てから、一つの結論にたどり着いた。
とりあえず、あの角を覗き込んで、何が起こっているのかを確認しよう。
問題がなさそうなら、そのままで。魔物だったら、衛兵へ。
私はどうすべきかを決めると、向きを変えて路地裏へ続く角へ進んだ。
一歩、一歩と足を進めるたびに、濡れた音が耳に絡みつく。
ぐちゃぐちゃ ぶじゅ はふ じゅぶぐちゅ
路地裏に隣接する食堂の、レンガ造りの建物の壁に背中を押し当て、ゆっくり進んでいく。
そして、角の所にたどり着いたところで、私はそっと路地裏を覗き込んだ。
薄暗い、人がすれ違えるかどうかという路地裏に、こちらに背を向けるようにして何者かが屈んでいた。
よくわからない輪郭に、大きく丸い頭。
それは手を伸ばし、足元を通る小さな下水路から何かをつかみ取ると、顔の真ん中のあたりに押し込んでいた。そして反対の手で、降り積もった雪をかき集めて握ると、それも顔の真ん中に押し込んでいく。
そこまで確認したところで、路地裏の向こうから、私の方に向けて風が吹いた。
鼻を、酸っぱい臭いの混ざった悪臭が突く。腐肉と吐瀉物をかき混ぜたような、胸の悪くなる臭い。
「…っ…!」
私は思わず小さくうめきながら、口と鼻に手を伸ばした。
その瞬間、屈んでいた影が大きく動いた。
屈めていた背を伸ばし、大きくて丸い頭をこちらに向けたのだ。
がちゃん、という音が路地裏に響き、同時に日の光が差し込む。
「…っ!」
日の光に照らし出されたその姿に、私は声をあげそうになった。
そこに屈んでいたのは、私に昨晩声をかけ、さんざんに暴行されたあの丸兜の男だったからだ。
「……」
「……」
兜の正面に取り付けられた丸窓と、私の両目が無言のままに交錯する。
だが、早々に飽きたのか、彼は私から丸窓を逸らすと、ねじっていた体を正面に向けた。
きぃ、という軋むような音を挟んでから、再びあの粘着質な音が響きだす。
すぐそばの食堂や、彼の足もとを流れる下水路が私の頭の中で噛み合った。
おそらく、これは彼の食事なのだろう。
兜の丸窓をドアのように開け、下水路から側の食堂から出た残飯を押し込む。
普通の食事からは遠く離れた、彼特有の食事だ。
彼の放つ臭いと相まって胸が悪くなりそうだったが、私はある種の安心を覚えていた。
時折街中で見かける、正体不明の人物の生活の片鱗が、明らかになったのだ。
彼も化け物などではなく、ただの人間だということか。
私は胸をなでおろしながら角から離れると、橋の方へと歩みだした。
いつもより少し遅刻だが、いい品が残っているだろうか?
そんなことを考えながら。
――――――――――――――――――――
市場から戻り、仕入れた品物を納め、部屋に戻る。
待ち構えていたのは、すでに目を覚ました男の姿だった。
酒はどうした、またメシはこれか、俺嫌いなんだよ、もう少し稼げよ、今日も頑張れよ、あーあまずい、やっぱりもう少し南に行ったほうがいいのかね。
一方的な、男の愚痴に相槌を打ちながら、買ってきたパンとハムを切り、下の食堂でもらった一部が欠けた皿の上に並べる。
そして、テーブルの上に皿と水差しを置けば、朝だか昼だかわからない食事の時間だ。
男はようやく愚痴めいた言葉を止めると、椅子に腰かけた。
私もそれに倣って、男の向かいに椅子を置いて座る。
そして、どちらからともなく食事に手を付けた。
やわらかいパンの上にハムを乗せ、齧る。
塩気とパンの甘みが口に広がる。
「そういやお前、今日は少し遅かったな」
不意に、男がそう声をかけてきた。
「いつもならもうチョイ早く帰ってくるだろ?なんかあったのか?」
「あ、はい…えーと」
久々の、一方的ではない、返答を求める彼の言葉に、私は内心驚きを覚えていた。
同時に、今朝見たものを話すべきかどうか迷っていた。
「言ってみろ」
男が返答を促す。
「その、実は市場への行きに、昨日声をかけてきた人を見ました…」
「誰?」
水差しからコップに水を注ぎながら、男が言った。
「昨日、最後に声をかけてきたあの人です…ご主人様に殴られた…」
「…あいつか…」
彼の放つ臭いを思い出した、とでも言いたげに彼が顔を顰めた。
「それで、何だ?また遊んでだとか言われたのか?」
「い、いいえ…ただ、食堂の裏の路地で何か食べていたのを見かけただけです…」
「へえ?あいつ金持ってたのか?」
「いえ、お店で出たごみみたいなものを食べてました」
「なるほど、な…しかしどうやって物を食ってたんだ?あの兜脱いでたのか?」
「正面の窓をドアみたいに開けてました。中は見えませんでしたけど…」
「そうか…」
彼は興味を失ったようにそう呟くと、手に残っていたパンとハムをまとめて口にねじ込んだ。
そして数度の咀嚼を挟んでから飲み下すと、手にしたコップの水を飲み干した。
「んじゃ、後片づけておけ」
彼はそう言うと、席を立った。
――――――――――――――――――――
皿を片づけ、仕事に着替えると、私はいつもの場所に立った。
日はまだ高いが、裏通りの物影はこっそりことを済ませるには十分に暗い。
そして、日が出ているいうのにちょっと用事を済ませようという男も、十分に多かった。
「ん…ん…」
石畳に膝を突き、喉の奥から小さい音を紡ぎながら口中の棒に舌を絡める。
それは熱く、彼の興奮を示すように脈打っており、先端から塩辛い先走りが滲んでいた。
「ん…」
唇で真ん中を締め、膨れた先端に舌を巻きつける。そして、舌の表面の細かいぶつぶつで、なめらかな先端を擦ってやった。
「うぅ…!」
頭上から低い呻き声が降り注ぎ、口中の肉棒が引き抜かれそうになる。
私は両腕を客の腰にまわすと、抜けないようにしっかりと押さえこんだ。
そしてそのまま、唇を窄めて前後に頭を揺する。
先端に絡めた舌と、粘り気の強い唾液、頬の肉、唇が一体となって、肉棒の表面を撫でまわした。
瞬間、腕の中の男の腰がびくっと震え、肉棒がひときわ大きく脈打つ。
直後、口中に苦みと僅かな塩味を孕んだ粘液が迸った。
「うぅ…!」
「ん…」
私は動きを止めて、じっと口中に放たれた白濁を受け止めた。粘り気と、微かな弾力のある液体が口腔を満たしていく。
やがて、肉棒の脈動が小さくなり、射精が止まった。
私は頭を下げ、口から肉棒を抜いた。すぼめられた唇により、半萎えの肉棒が扱きあげられ、尿道に残っていた射精の残滓が搾り取られていく。
そして、最後に鈴口を小さく吸ってから肉棒を解放すると、私は顔を上げた。
視線の先にあったのは、期待の籠った目を向ける男の顔だった。
「…んぁ…」
私は口中の粘液を溢さぬよう注意しながら口を開くと、唾液と混ざって量の増した白濁を彼の視線に晒した。
舌を軽く動かし、白濁を揺らしてやると、客の表情に愉悦が加わった。
「……」
たっぷり見せつけてから口を閉じ、小さく顎を上げる。
その姿勢のまま、私は口中の粘液を飲み込んだ。
私の細い喉が小さく上下し、どろりとした液体を胃袋へと送り届けていく。
やがて、最後の一滴まで飲み下すと、私は再び口を開いた。
「…ぁあ…ん…」
小さく声を漏らし、完全に口の中が空であることを、彼の出した体液を一滴残らず私が飲み干したことを示すと、彼は満足げに頷いて見せた。
「ありがとう、気持ちよかったよ」
彼はそう言うと、懐に手を入れ残金を差し出した。
「約束通り、銀貨三枚増しだ」
「ありがとうございます、また私を使ってくださいね」
残金を受け取りながらそう言うと、私は物影を出て裏路地から出ていこうとしている男を見送った。
これで、今日三人目の客だ。
一人残らず口での奉仕を求めたため、一度にもらえる金額はそこまでないが、三人も相手をしたともなればそれなりの金額になる。
この調子なら、あと二人ほど口で相手をしてやれば今日の目標に届くはずだ。
裏路地から空を見上げれば、日が大分傾いたのか空が赤かった。
まだ時間はある。
私は服装を軽く整えると、物影から出て行った。
だが、私の足が物影から出たところで止まった。いつも私が客待ちをしている場所には、すでに人影があったからだ。
元の色がわからぬほど汚れ、染みのついた外套を重ね着した、大きな球状の兜をかぶった男。
今朝方残飯を熱心に兜の中に詰め込んでいた彼が、私に背を向けるようにして、そこに立っていた。
「……」
「……?」
無言で立ち尽くす私の気配を察したのか、彼が体を捩ってこちらに兜の窓を向けた。
汚れのこびりついた丸いガラスの向こうから放たれた視線が、私を射抜く。
「あー!」
うれしげな、高い声とともに彼がぐるりとこちらに向き直り、距離を詰めてくる。
私は彼の一歩ごとに増していく臭いに、思わず数歩退いていた。
だが、私が下がるよりも早く彼は歩み寄り、ついに私の目の前に立った。
「あーそーぼー?」
丸い兜を左右に傾けながら、間延びした問いを彼が放つ。
「ええと、いやその…ここにいると、また殴られるよ…?」
私は、どうにか彼に対する昨日の仕打ちを持ち出し、彼を遠ざけようとした。
しかし、彼は聞いているのかいないのか、再びこう言い放った。
「あーそーぼー?」
一言ごとに首を右に左に傾けながらの問いは、私の言葉を理解してのものとは思えなかった。
「おい、ぐぉらぁぁぁぁぁあああ!!」
横から、濁った怒声届く。顔を向けてみれば、男が安宿の入り口からこちらに向かって早足で近づいているところだった。
「まぁぁたてめえはぁぁぁぁ!」
手にした砂の詰まった細長い革袋を、感触を確かめるように掌に打ち付けながら、男が距離を詰めてくる。
だが、男が革袋を振りかぶろうとした瞬間、彼が右手を突き出した。
「な、何だ…!?」
目の前に突然現れた、汚れて茶色く変色した包帯に包まれている拳に、男が一瞬ひるむ。
「おかね、ある」
指が開き、半ば溶けた雪に覆われた石畳に、銀色の薄く丸いものが転がり落ちていった。
ちゃりんちゃりん、と小気味いい音が辺りに響く。
「……」
男は、地面に転がる十数枚の丸い物に、目が釘付けになっていた。
茶色い汚れのようなものがこびりついているが、確かに銀貨だ。
「おかねもってきた、だからあそぶ」
彼の言葉に、男は無言でその場に屈むと、雪に硬貨を擦り付けた。
すると粘ついた茶色いものは容易に取れ、銀色の光沢を取り戻した。
確かに銀貨だ。
男は、地面に転がる残りの硬貨の枚数を確認すると、顔をあげた。
「どうぞどうぞ、怪我させたりしなければ何でもやります。夕飯時ぐらいには返してけだせえ」
そういう彼の顔は、ここ数か月で見たことがないほど輝いた笑みを湛えていた。
これほどの笑みを見せたのは、いつか私が一日に三人を相手し、金貨数枚に及ぶ稼ぎを得た時以来だ。
「おい、くれぐれも失礼のない様にしろよ。あと、いつもの時間までには戻れよ」
銀貨を拾い集めると、男はそう私に言い聞かせ、路地から裏通りへ出て行った。
だが、彼は安宿に戻るわけではなく、別の方角へ歩いて行った。確かあの方向には、酒場があったはずだ。
「あーそーぼー?」
男を見送る私に、彼が三度そう問いかけた。
男が立ち去ってしまった今、もう私を彼からかばう者はいないのだ。
「……わかったわ…」
私はため息を挟むと、気分を変えた。
「それで、何をしたいの?」
「ついてきて」
その場でズボンを下ろされても大丈夫なよう覚悟を決めたというのに、彼はくるりと向きを変えると、裏通りの方へ歩き出した。
肩すかしな彼の行動に、一瞬唖然としてしまう。だが、彼は呆然と立ち尽くす私に振り返りもせず、すたすたと進んでいく。
「!」
私は我に返ると、急いで彼の後を追った。
一度折られた足への負担を避けるため、自然とけんけんのような奇妙な走り方になる。呆然としていたとはいえ、ごく短い時間だったのが幸いして、すぐに追いついた。
そこで私は上げていた片足を地面につき、急ぎのけんけんから普通の歩みに戻した。
汚れの染み付いた外套の数歩後ろをついていく形になる。
「……」
しかし、歩めども歩めども彼は無言のままで、最初の『ついてきて』が何かの聞き違いだったのではないか、と思うほどだ。
だが、彼は確かに『ついてきて』と言っていた。それに、金を払ったのに私がついてこなかったら、彼は男の所へ怒鳴り込むかもしれない。
そうなれば、また私が痛めつけられる。
私は、彼の目的が何か分かっていなかったが、それでもついていかなければならなかった。
だが、足を進めるごとに再び彼我の間が徐々に広まっていく。やはり上背ががある分、彼の一歩の幅が大きいのだ。
距離を保とうと足を速めるが、骨の継ぎ目が痛くなってくる。
「ちょ、ちょっと待って…」
思わず口を突いて出た言葉に、彼はびたり、と足を止めると、上体を捩って後ろを振り返った。
そして、足を半ば引きずるようにしながら急ぐ私を見るなり、大きく一つ頷いた。
「わかった」
そして私がようやく追いついたところで、彼は再び足を進め始めた。
だが今度は先ほどのような大股ではなく、小幅でゆっくりとした歩調だった。
私は彼の歩調に合わせてペースを落とすと、彼の通った空気を吸わないよう、真横に並んだ。
おかげで、場末の酒場の裏手を歩いている程度の臭気を堪えるだけで済む。
しばしの間、私たちは黙々と進み続けた。
裏通りから裏通りへ進み、やがて屋台の並ぶ通りに面した路地にたどり着く。
そこで彼は、ついに足を止めた。
「ねえ」
顔をこちらに向けながら、彼が兜の下の口を開く。
「なにかかってきて」
外套の懐に手を突っ込み、彼は握り拳を差し出した。
反射的に手を広げると、彼はその上で指を開き、握っていた銀貨を落とした。
いくらか汚れがこびりついているが、まぎれもない銀貨だ。
「ええと、何を買ってくれば…」
「なんでもいい。ふたつ」
ぼろ布が巻きついた指を二本立てて、答えた。
私は彼の曇ったガラス窓と、手元の銀貨を見比べてから、通りの方へ歩き出した。
さて、何を買おうか?
「やっぱり、串焼きかしら?」
この通りの屋台は、いつも通っているところに比べいくらか値が張る。その代り、味はよく、店によっては量も多い。
もっとも、あまりこの通りまで来たことはないのだが、それでもこの辺りで売っているという串焼きについては、何度か耳にしたことがある。
それなりに多い人通りの中を、串焼きの屋台を探して私は足を進めた。
程なくして、私は通りの一角で串焼きの屋台を見つけた。
串に刺した肉片に塩と胡椒をすり込み、炭火で炙っている。胡椒を使っている分割高ではあるが、食欲をそそるいい香りが辺りに漂っていた。
「すみません…二本ください」
「あいよっ」
威勢のいい返事とともに、屋台の主人が炙っていた串を二本取り、広げた掌とともに差し出してくる。
私は主人の掌に、懐から出した銀貨を一枚乗せた。
だが、支払いに使ったのは彼から預かった銀貨ではない。私が仕事を仕立ていた間に、客から受け取った分だ。そのまま渡すには汚れすぎており、汚れを落とそうにも近くに水はなく、地面の雪も溶けて土埃と混ざっていたからだ。
「毎度あり!」
私串を受け取ると、元来た道を歩き始めた。
串を二本握り、人にぶつからぬ様に注意しながらも、肉が冷めるのを防ぐため極力急ぐ。
周りから見れば滑稽な様子なのだろうが、私には気にしている余裕はなかった。
足が痛まぬ程度に急ぎ、裏通りへ続く路地に入る。彼は、私が表通りに出て行ったときと寸分違わぬ位置に、のそりと立っていた。
「買ってきました…」
「ありがと」
私が差し出した二本の串焼きの内、片方を彼は受け取った。
「ひとつたべていいよ」
「え?」
彼の言葉に、私は戸惑った。
「あげる」
手元の串焼きと彼の兜の窓を見比べる私に、彼はそう告げると体ごと横を向いた。
そして顔を上げて、串を持っていない方の手で窓に触れる。
きぃ、という小さな軋みとともに、丸い窓が開いた。
私の位置からは見えないが、彼は開け放たれた兜の穴に、串焼きを正面から突っ込んだ。串の半ばまでが兜の中に消え、引き抜かれると連なっていた五切れ肉のうち、二つがなくなっていた。
「…いただきます」
ぼんやりとしているわけにもいかず、私も食べることにした。
口を開け、串に突き刺さる肉の一切れを含み、串を引いた。歯で固定していた肉が串を滑り、抜ける。
最初に感じたのは、塩味だった。
だが、肉の表面に滲んだ油のせいか、直接塩を舐めた時のような尖った味ではなく、どことなく丸みを帯びているようだった。
そのまま、微かに熱の残る肉を咀嚼した。
肉の筋が押しつぶされ、脂と汁が滲みだす。
口中に広がる塩味を帯びた肉汁が、舌を通じて幸福感を孕んだ旨味を伝えた。
胸が焼けるような脂が口内に絡み付き、顎の動きに合わせて口の隅々に広がっていく。
久々の肉の味に、私は陶酔していた。
やがて、口内の肉が粉々になり、滲みだした唾液と混ざり合っていく。
そして口中を満たす肉の破片をたっぷり味わうと、私は数度に分けて飲み込んだ。
喉を肉が滑り落ちていき、後味と寂寥感が口内に取り残される。
ああ、久しぶりの肉だ。
「おいし…」
思わずそう囁いてから、次の一口を口に収めた。
今度は二切れ。まとめて串から引き抜き、両の奥歯で噛み締める。
肉が二つで量が二倍に脂も二倍。味も二倍、というわけにはいかないが、それでも量が増えた分味の濃度が増した気がする。
舌に肉汁を絡ませながら、咀嚼し、嚥下する。
これで残り二切れ。
少しでも長く味わうため、私は一切れだけを口に含んだ。
量が減ったため、口中に広がる味の濃度は減っている。だが、味自体が落ちたわけではない。
変わらぬ濃厚な、脂と塩と肉の旨味を胸いっぱいに味わう。
肉が、こんなにおいしい。
里に住んでいたころは、誰も肉など食べなかった。だが、人につかまってから肉を食べさせられ、その味を覚えた。
最初の頃は肉を食べることに抵抗があったのだが、食べなければ死ぬという環境を繰り返すうちに慣れていったのだ。
環境も、身体も、嗜好も、里に住んでいたころから変わってしまった。だが、少なくとも今は不思議と何の感慨もない。
肉の味わいが、口中を、胸中を、心中を満たしているからだ。
そんなことを考えているうちに、口中の肉が粉々になり、唾液とともに喉の奥へ消えていった。
串に目を落とせば、残っているのは根元の近くの一切れだけ。
名残惜しさが脳裏に浮かぶが、この一切れをじっと持っていたところで何かになるわけではない。私は最後の一切れに対する名残惜しさを打ち消して、肉を前歯で捕え、串を引いた。
歯茎をくすぐるような振動とともに、肉が串の表面を滑り、串から離れる。
上下の前歯の間を広げて、肉を口中に導き入れる。
そして唇を締め、口内で肉を転がした。
脂と、そこに溶け込んだ塩が、口内に塗り広げられていく。
たっぷりと表面の塩味を孕んだ脂を味わってから、奥歯で肉をかみしめた。
変わらない、旨味を含んだ肉汁が溢れ出し、口内を満たす脂と塩の味をわずかに薄める。
肉の筋が千切れ、破片が肉汁とともに漂い、舌や口蓋をくすぐる。
黙々と、ただ黙々と私は肉を噛みしめ、その味わいを楽しんだ。
やがて肉片は肉の繊維になり、肉汁と唾液と混ざり合って粥のようになった。
私は口中で、肉粥をたっぷりと転がしてから、数度に分けて嚥下した。
塩味が、脂味が、旨味が、喉を滑り落ちていく。
そして、僅かな味わいを口中に、僅かな異物感を腹のあたりに残して、串焼きは完全に私の中に消えていった。
「はぁ…美味しかった…」
ため息とともに、私はそう漏らした。
「おいしかったね」
呼応するように、横から声が降り注ぐ。
顔を向けてみれば、何も刺さっていない串を手にした彼が、兜の窓を閉ざして私を見下ろしていた。
「ちょうだい」
そう彼が手を差し出しながら言う。何のことかと、彼の手と窓の向く先を目で追ってみれば、そこには私の持った串があった。
「…?」
疑問に思いながらも、私は串を差し出し、茶色い布に包まれた彼の手の上に乗せた。
「ありがとう」
彼は串を片手にまとめると、そのまま外套の懐に突っ込んだ。
そして手を下ろすと、彼はのそのそと歩き始めた。
「?」
彼の行動に疑問が起こるが、とりあえずついていくことにする。
まだ時間はあるし、もらった銀貨の枚数から言ってももう少し一緒にいなければならないからだ。
ゆっくりと進む彼に、私は足が痛まない程度に急いでついて行った。
――――――――――――――――――――
その後、彼は主に裏通りを進み、時折足を止めて何かを見たり、私に硬貨を渡して食べ物を買わせ、一緒に食べたりした。
相手が彼でなく、表通りを歩いていれば、まあ逢引中のようにも見えただろう。
もっとも、実際のところは私が連れまわされているだけなのだが。
そうこうしているうちに、日は沈み、通りに並ぶ建物の窓や街灯に灯が灯ち始めた。
そろそろ戻りたいところだが、彼の足はあの裏通りではなく、市場街の方へ向かっていた。
「……」
これまで主に進んでいたのが、裏道とはいえ表通りと建物一つ隔てたところだったため、喧噪や明かりは見えていた。
だが今通っている道はほとんど人通りがなく、下手すれば「ここは無人の町だ」と言われても信じそうなほど静まり返っていた。
やがて、彼は建物と建物の間の路地を通り抜けて、足を止めた。
続けて私も路地から出てみると、そこは何度か通った水路に面した通りだった。
「あれはげすいろ」
彼が右手を挙げ、水路を指さしながら口を開いた。
「げすいろはひろい。たってあるけるぐらいひろい。でもみんなごみをすてると、つまる」
水路の脇にところどころ開いた、大きな穴を指し示しながら彼は言葉を紡ぐ。
「つまるとみずがあふれて、みんなこまる。だからしょうこうかいちょうさん、そうじするようおしごとたのむ」
「はあ…」
「あなにはいってそうじすると、しょうこうかいからおかねがもらえる」
なるほど、どうやらこの金はそうやって稼いだものらしい。
後ろ暗い種類の金ではないことに、私は内心胸を撫で下ろした。
「おしごとたのしい」
だが、その一瞬の油断を突いたかのように、彼はぐるりと上体をひねり、私を覗き込むようにして続けた。
「でもあなたおしごとたのしそうじゃない。なんで?」
「…っ!」
急な接近と彼の臭気、そして彼の質問に私は思わず一歩退いていた。
「なんどかみた。おしごとしてる。でもたのしそうじゃない。ならなんでおしごとしてる?」
「そ、それは…」
彼の問いかけに、私は答えを紡ごうとしたが、口が開閉するばかりで言葉が出ない。
「おしごと、きらい?」
「………」
彼の助け舟に、私は小さく頷いて応えた。
「だったらしなければいいのに」
「無理よ…」
理解できない、といった調子で彼は捩っていた上半身を戻す彼に、私は低く呟いた。
「仕事しなきゃ、痛くされるし…痛いのは嫌だし…」
小さく頭を振りながら、私は言葉を紡ぎ続ける。
「私だって好きでやってるんじゃないわよ…でも、こうしなきゃ…生きていけないのよ…」
「にげればいいのに」
「逃げられたらとっくに逃げているわよ!」
気楽な様子の彼の言葉に、私は思わず声を張り上げた。
「私だって何度逃げようと思ったかしれないわ!それに何度本当に逃げようとして、どうなったか…分かる!?痛む足を引きずって逃げてるのに、歩きで追いつかれて痛めつけられる怖さ!?もう二度とあんな思いしたくないわよ!」
じわりと目元に熱い物が浮かび、頬を伝って流れおちていく。
「仕事はやだけど、痛いのはもっと嫌なのよ…!もう、もういやだ…寒いのも、痛いのも、仕事も…!」
そこまでどうにか言葉を絞り出してから、私はへなへなと石畳の上に座り込み、顔を覆った。
「帰りたい…里に、帰りたい…ぃ…!」
「……」
私の嗚咽が水路と並ぶ通りに響いた。
「…ことりさん」
しばしの間をおいてから、顔を覆う私の上から声が降り注いだ。
「ちいさな ちいさな ことりさん はねのおれた ことりさん」
歌うように、妙な節回しを付けた言葉を、彼は紡ぐ。
「あなたがいるのは かごのなか?からからならば でていける」
目の前に、茶色く変色したぼろぼろの布が巻きつけられた手が差し出される。
「つばさがおれて とべなくても そとにでていくことはできる」
いくらか柔らかい、優しげな声音に、私は何の嫌悪感もなくその手を取った。
彼の手に力が加わり、立ち上がらされる。
「ちいさな ちいさな ことりさん」
彼が羽織った何枚もの外套の内に手を差し入れ、何かを握った。
「つばさのおれた ことりさん」
外套の内側から腕を引き抜くと、彼の手には茶色い染みのついた木の棒が握られていた。
長さは彼の指先から肘までだろうが、その先端は外套の内にあるため見えない。
「あなたには くちばしが ついている」
木の棒を差し出すようにしながら、彼は続けた。
「からをわるのは あなたじしん」
私は、目の前に突き出された汚れた棒に、いつのまにか手を伸ばしていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『ひなどり ひなどり 殻の中 外へ出ようと 殻を突く』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
安宿に戻るころには、もう真夜中になっていた。
入り口のドアを、音をできるだけ抑えながらゆっくりと開く。
そして客もおらず、店主も奥へ引っ込んだ酒場を、ゆっくりゆっくり階段を目指して横切った。
視界の端に、布をかぶせられた籠が映る。めくって中を見たいところだが、今は我慢だ。
やがて酒場を通り抜け、階段にたどり着く。
段の前で一度足を止め、手すりを左手でしっかり握ってから、一段一段上がり始めた。
まともな足を段に乗せ、手すりを握る左手に力を籠め、折られた足を段に引き上げる。
体重移動の瞬間、団の板がみしりと音を立てるが、気にならないほど小さなものだ。
構うことなく手すりの上で左手を滑らせ、足を運ぶ。音を立てぬように、板を軋ませぬように注意を払いながら、二階へあがっていく。
そして、階段の最後の段をあがると、私は一息ついてからまっすぐ進み、部屋のドアをそっと開いて中に入る。
「んがぁ…っごぉ…」
私を迎えたのはお帰りの言葉でも、遅いという怒号でもなく、いびきだった。
部屋の隅に置かれたベッドの上に、男が寝転がっていた。
酒瓶を抱え、大口を開き、頬に涎を垂らしながらいびきをかいている。
酒瓶の中身の残りがいくらかこぼれ、シーツに染みを作っていた。
部屋の中央に置かれたテーブルに目を向ければ、酒瓶がいくつかと、食い散らかした料理の乗った皿が置いてある。
酒瓶はすべて口が開いており、倒れ、転がり、中身をこぼしていた。
「……」
私は小さく嘆息すると、テーブルの側で横倒しになっていた椅子に歩み寄った。
背もたれを左手でつかみ、折られた足に体重がかからぬよう注意しながら引き起こして、、扉の側まで運ぶ。
そしてドアノブに背もたれが食い込むように置くと、私は小さく扉を揺すった。
椅子はドアノブにしっかり食い込んでおり、少々力を加えたぐらいでは扉は開きそうになかった。
これで、もう誰も入ってこれない。いつものように。
扉から左手を離し、身体ごとベッドの方に向き直る。
視線の先にいるのは、ベッドの上でいびきをかく男。
無事な足を一歩進める。
酒瓶を抱え、幸せそうに涎を垂らす男。
折られた足を引きずるように一歩進める。
あの男が食い散らかした食べ物も、転がる酒瓶も、私が稼いだ金で買ったものだ。
足を一歩進める。
この部屋の代金も、男が着ている服も、私の稼いだ金で賄っている。
足を一歩進める。
この部屋のすべてが私のものだ。
足を一歩進める。
だが、一つだけ私のものではないものがあった。
足を一歩進める。
ベッドの上に横たわり、大口を開けて眠りこける男。
足を一歩進める。
私の稼いだ金で暮らし、私の稼いだ金で生きているというのに、私を縛る唯一の異物。
足を一歩進める。
卵の黄身も白身も雛鳥のものだが、殻は雛鳥のものではない。
足を一歩進める。
だというのに、殻は雛鳥を縛っている。
足を一歩進める。
男は殻だ。私にとっての、卵の殻。
足を一歩進める。
私を縛る、卵の殻。
足を一歩進める。
彼は言った。私の翼は折れていると。
足を一歩進める。
確かにそうだ。逃げようにも、この足では無理だ。
足を一歩進める。
だけど彼は言った。嘴があると。
足を一歩進め、止める。
目の前にベッドがあり、私は大口を開けて眠る男を見下ろしていた。
「んががぁ…ふごぉ…」
卵のように膨れた腹を上下させながら、彼はいびきをかいている。
私は膝を屈めて、ベッドの脇に脱ぎ散らかされた靴下を一足拾った。
そしてそれを片手で軽く丸め、いびきを迸らせる口の中に、ぐいと詰め込んだ。
「んが……ふごっ…!?」
口がふさがっていびきが止まり、しばしの間をおいて彼が目を開いた。
「んご…ふごんが…!?」
眠気に曇った目をぱちぱちと開閉させながら、何事かを呻く。
『何をする!?』か『なんだ!?』とでも言っているのだろうか。まあ、どうでもいい。
今から殻を割るのだから。
私は目を白黒させる彼に向けて、ずっと握っていた右手を振り上げた。
右手に収まっているのは、彼から渡された汚れた棒。そしてその先端にあるのは、掌ぐらいの広さの金属の刃。
刃がこぼれ、欠けた、なまくらの手斧だった。
私は、手斧を男の首のあたりめがけて振り下ろした。
ご
づ
「…っ!!」
鈍い手ごたえとともに彼の首の付け根辺りに刃が食い込み、男が靴下の奥からくぐもった声を上げる。
丸まった刃では彼の首を切り落とすことはできず、刃は浅く皮膚を破って彼の鎖骨を折る程度にとどまった。
だが問題はない。食い込む手斧を引き抜き、再び振り上げる。
「…っ!んが…!」
何事かを呻きながら、男がベッドから身を起こし、こちらに向かって手を伸ばす。
何度も私を押さえつけ、腕をひねりあげ、痛めつけてきた腕。今度も私を抑え込もうとする掌を払うように、手斧を振り下ろす。
指に手斧の刃が食い込み、たやすく細い骨をへし折る。
指先がそれぞれあらぬ方向を向き、男が仰け反る。
突き出した手を胸元に引き寄せ、もう一方の手でかばうように指を覆う彼に、今度は横から手斧を叩き付ける。
二の腕に丸まった刃がぶつかり、肉を叩き切り、骨にひびを入れる。
男はくぐもった叫びをあげながら、ベッドの上を退き、壁に背中を押し付けた。
だが短い脚はバタバタとベッドのシーツを擦り、なおも退こうとしている。
まるでそうやっていれば、壁を通り抜けて私から逃れられる、とでもいうかのように。
私は握った手斧を恐怖に彩られた彼の顔めがけて叩き付けた。
だが、振り下ろされる手斧に腕をかざして、彼は顔を守った。
腕に刃がぶつかり、肉を削ぎ取りながら軌道が逸れる。
腕をえぐられる感触に、男は顔をゆがめた。直後、手斧が彼の腕から離れ、振り下ろした勢いそのままにベッドのシーツへ食い込んだ。
彼の腕からこそぎ取った肉が刃ごと叩き付けられ、傷口からあふれ出した血がシーツに赤い染みを着ける。
だが、刃先にへばりついた肉は一口で飲み込めるほどで、全然足りなかった。
私は、手斧をベッドから引き抜くと、左手を柄に添えて両手で握りなおす。
そして、うめき声と血をまき散らしながら、口に詰められた靴下を取ろうと折れた指を押し付ける彼に向けて、高々と振り上げた。
腕を上げ、背筋も逸らした私の姿を男の目が捉えるなり、彼は口元に運んでいた両手を離し、両腕を頭の上で交差させて顔を逸らした。
守りの姿勢だが、私は構わず手斧を振り下ろす。
両腕の力に、逸らした背筋がもたらした距離が加わり、手斧の刃は先ほどとは比べ物にならない勢いに達した。
交差した彼の両腕に刃先が食い込み、皮を破り肉を挟み込みながら骨に達する。
だが、手斧の勢いは止まらず、そのまま交差した腕を押しこみながら、腕ごと彼の頭にぶつかった。
衝撃の一瞬後、みしりと硬い物に刃先が食い込むような感触が、手斧の柄から掌に伝わる。骨にひびが入ったのだ。
「んぅ〜〜〜〜〜っ!」
口に詰め込まれた靴下越しでもよく聞こえるほど大きなうめき声をあげ、彼が両足をばたつかせた。
同時に、彼の両腕に力が籠り、腕を広げようとする気配が伝わる。私は手斧を持って行かれないように、急いで刃を彼の腕から引き抜いた。
血が飛び散り、彼がくぐもった悲鳴を上げ、傷口を押さえようとするかのように両腕を組んだ。
しかし、私は痛がる彼の様子に構うことなく、手斧を振り上げて、振り下ろした。
頭を狙った一撃が、思い切り仰け反って振り下ろしたせいで、少しだけ狙いが逸れて右肩にあたる。
くぐもった悲鳴。
今度は背筋をあまり反らさず、肩を縮めて両手を広げて顔を守ろうとする、彼の掌を狙いながら構えた。
振り上げ、振り下ろす。
しかし今度は勢いが足りなかったのか、掌に食い込みつつも骨に達することはなく、手の甲で強かに彼の顔を打っただけだった。
もう少し反らしてもいいのか。
うめき声に、すすり泣きのような音が混ざり始めた物を聞きながら、今度は顔だけをベッドにうずくまって背中を見せる彼の方に向けながら、背筋を逸らした。
振り上げられた手斧が、まっすぐに振り下ろされる。
汗と脂で薄汚れたシャツに、丸まった刃が叩き付けられ、肉を裂き骨にひびを入れる感覚が伝わる。
これでいい、狙いも勢いも、申し分ない。
小さく仰け反りながら、あばら骨にひびを入れられた痛みに苦鳴を漏らす彼を見つつ、私は内心満足した。
そして、一度手斧を握る両手の指を緩め、位置を調整すると、私は手斧を振りかぶった。
狙いを定め、振り下ろす。
肩に歯が突き刺さり、呻きが上がる。
刃を引き抜き、振りかぶって、叩き付ける。
腰の、骨に包まれていない部分に驚くほど深々と刃が刺さり、血が流れ出す。
くぐもった悲鳴を聞きながら振り上げ、同じ場所狙いでまた振り下ろす。
だが、彼が転がったせいで狙いが外れ、むき出しの膨れた腹に刃が当たった。
ぐにょり、とした気味の悪い感触が伝わる。
手を野を振り上げてみれば、歯の刺さっていた場所から黄色と白と桃色が一瞬だけ覗き、直後溢れだした赤に隠された。
靴下の奥から迸る悲鳴は、弱々しいものの甲高く、耳障りだった。
喉を砕けば収まるだろうか?
脇腹を押さえて流血を抑えようとしつつも、激痛にのた打ち回る彼の喉に狙いをつけて、手斧を叩きこむ。
だが、彼が視界の端に振り下ろされる手斧をとらえるなり、傷を押さえる片方の手を振りかざし、手斧の刃を受けた。
丸まった鈍ら刃が肉に食い込み、骨を押しやりつつも肉をそぎ落としながら軌道が逸れる。そしてがら空きの彼の胸に、手斧が突き立った。
「…!!!」
声にならない悲鳴が上がった。
うるさいが、手足が邪魔だ。
喉から手足に狙いを移し、手斧を振り上げ振り下ろす。
痛みをこらえながら懸命に身を守ろうとする腕に、易々と鈍刃が食い込んでいく。
振り上げ、振り下ろす。肉が削れる。
振り上げ、振り下ろす。血が溢れ出る。
振り上げ、振り下ろす。肉が断ち切られる。
振り上げ、振り下ろす。骨に当たる。
振り上げ、振り下ろす。骨を叩き折る。
振り上げ、振り下ろす。やっと一本折れたが、微妙に手間がかかる。
意外と血も声も出ないが、この調子では疲れるだろう。そうだ、関節の所で切ってやろう。
振り上げ、振り下ろす。皮と肉でようやく繋がっている右手を押さえ、呻く彼の足を狙う。
振り上げ、振り下ろす。足だけあって肉が固く、腕の半分も食い込まない。
振り上げ、振り下ろす。ようやく骨と思しき硬い物に刃先が当たる。
振り上げ、振り下ろす。驚くほど深く何かに刺さる。
振り上げ、振り下ろす。硬い物を断ち切り、肉にたどり着く。
振り上げ、振り下ろす。肉が断ち切られ、足が皮と肉だけでつながっている。
振り上げ、振り下ろす。さあ次だ。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。足が折れる。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。腕が折れる。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。声が聞こえない。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ………
「……」
手斧を振り上げたまま、私は動きを止めた。
もう振り下ろす必要がなかったからだ。
ベッドの上の彼は、手足をかざして体を捩るどころか、身じろぎすらしていなかった。
ベッドの上の彼は、声にならぬ悲鳴どころか、微かなうめき声すらあげていなかった。
もう十分だ。殻は割れたのだ。
私は握りしめていた指を緩め、手斧を離した。
ごど、と重い音を立てて手斧が床板にぶつかり、倒れる。
両腕から両肩にかけて解放感が訪れる。手斧一丁の重みからは、想像もつかない解放感だ。
安宿の小さな部屋の中だというのに、青空の下にいるような気がする。
「うふふ…ふふふふ…うふふふふふふふ…」
大声で笑いながら踊りたいところを、私は低く笑った。
ああ、いい気分だ。
天井を仰ぎ両手を掲げながら、私はゆっくりと、ゆっくりとその場で回り始めた。
草原で踊っているかのように。
――――――――――――――――――――
椅子を除け、そっとドアを開き、廊下を進む。
もうすぐ朝だが、眠っている人は眠っているのだ。
安らかな眠りを妨げないよう、足を忍ばせながら階段を下り、数時間前に通った酒場に下りた。
そのまま、安宿の出入り口に向かおうとしたが、ふと私の視界の端に白い物が映った。
白い布を掛けられた、鳥籠だ。
そっと歩み寄り、布をめくる。
すると気配を察したのか、体を丸めていた小鳥が、驚いたような真ん丸な目でこちらを見ていた。
小鳥は殻からは出られるが、籠から出られない。ならば私が出してやろう。
私はにっこりとほほ笑みかけてやると、籠の蓋を開き、手を差し入れた。
チチチッ
小鳥が甲高い声を上げて羽ばたき、手から逃れようとした。
だが狭い籠の中、逃げる場所などなく、容易に小鳥は私の手の中に収まった。
「ごめんなさいね」
手の中でもがく小鳥を押さえながらそう囁き、そっと籠から手を抜いた。
そして、酒場を進みドアに手をかけ、押し開く。
冷気が屋内に流れ込み、頬を撫でた。
「っ…」
寒さに一瞬身が強張るが、我慢して足を進める。
後ろ手にドアを閉めたところで、私は完全に外に出た。
暗い。
まだ日が昇っていないどころか、日の放つ光すら覗いていない。
だが、辺りの暗さとは裏腹に、私はどこまでも明るい顔をしているのだろう。
「さ、どこへでも行きなさい」
そう手の中の小鳥に囁くと、私は指を緩めた。
掌に冷気が触れ、微かな重みが羽ばたきの音とともに消え去った。
「……」
未だ暗い空に向かって飛んでいく小鳥を見送ってから、私は視線を下ろした。
さあ、私も進まなければ。
石畳に覆われた道に足をおろし、進んでいく。
仕事のために立っていた路地を脇目に、市場まで何度も通った道を辿っていく。
仕事に行くにせよ、市場で買い物に行くにせよ、こんなに晴れやかな気分でここを通るのは初めてだ。足の痛みを無視して、スキップをしたくなってくる。
いや、スキップはいつでもできるようになったのだ。
ダーツェニカを出て、本当に晴れ渡った青空の下でスキップできるのだ。
草原にも、海辺にも、故郷の里へでも…行きたいところへ行けるようになったのだ。
「ふふ…」
自然と笑みがこぼれてくる。
さあ、どこに行こうか。
そんなことを考えながら、裏通りを進む私の足が止まった。
進む道の先に、人影があったからだ。
頬を撫でる冷気に、独特の臭気が加わる。人影の放つ臭いに、私は覚えがあった。
染みのついた汚れた外套を重ね着し、窓のついた球形の兜を被ったその姿。
彼だ。私に嘴を授けてくれた、彼。
「殻を割ってきました…ありがとうございました」
私はそう言って、頭を下げた。
臭いは不快だが、礼は言わなければならない。
だが、私の言葉に彼は何も返さなかった。
「…?」
不審を覚え、私が顔を上げようとした瞬間、視界の端に何か黒い物が降り立った。
「……ちいさな ちいさな ことりさん」
目が自然と黒い物の方へ向かうと同時に、彼が口を開く。
「つばさの おれた ことりさん」
降り立ったのは、猫だった。毛皮の汚れた、黒い猫。
「とべもしないのに そとにでて なにをしようとしているの」
猫の口元に、白い物が咥えられていることに気が付いた。
「ちいさな ちいさな ことりさん」
白い物は、猫の牙に貫かれ、動く気配を見せなかった。
「あなたを まもる からはない」
白い小鳥を咥えた猫が駆け出し、視界から消えていった。
「ねえ」
降り注ぐ声に顔を上げてみれば、汚れた外套を重ね着した彼が、手が届きそうなほど近くに立っていた。
「あぁーそぉーぼぉー」
彼はそう言いながら、兜の前面の薄汚れた窓に手を掛けた。
キィ、という軋みとともに、私の目の前で窓が開いていった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『ひなどり ひなどり 殻の外 ひなどり守る 殻はない』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ダーツェニカの衛兵制服に身を包んだ男が、早朝の裏通りを進んでいた。
安宿の一室で発生した殺しの捜査のためだ。
ただの殺しならばダーツェニカではたまに発生するが、今回はひどい物らしい。
詰所まで通報に来た安宿の従業員の話によれば、何人死んでいるのかよくわからないほどだそうだ。
「クソ…なんで朝っぱらから…」
爽やかな朝をぶち壊した従業員の通報に、胸をむかつかせながら彼は道を急いでいた。
すると不意に、彼の鼻を異臭が突いた。何かが腐ったような、鋭い臭いだ。
脳裏に浮かんでいた殺しの通報と相まって、腐臭は彼の脳裏に腐り果てた死体を連想させた。
想像、いや妄想に近い脳裏の死体に、彼の歩みが遅くなり、ついには止まった。
頬を撫でる腐臭を追って、風上に目を向けてみれば、そこには袋小路に続く路地があった。
そして袋小路に蹲る一つの影が、彼の目に入った。
「はふ…はふ…ぶじゅ…」
染みのついた外套に、襟の向こうから覗く球形の兜。
ダーツェニカの裏路地で時折見かける、名物浮浪者だった。
地面に屈みこみ、残飯か何かを貪っているようだった。
「ちっ…」
石畳の上に散らばる何かをかき集めては兜の穴に押し込む浮浪者から目を外すと、彼は再び足を進め始めた。
ダーツェニカ衛兵として、職務を全うするために。
そこは表通りと裏通りを繋ぐ路地のような場所で、私から少しはなれたところを多くの人が行き交っていた。
皆、上等な外套に身を包み、襟を立てて背中を丸めながら、それぞれの目的地へ急いでいた。
「・・・寒い・・・」
彼らの装いに、私は頭から追い出していた寒さを思い出し、小さく身体を振るわせた。
肩から薄汚れたケープを羽織っているものの、前は大きく開いている。加えて、仕事上の必要性から、私が来ているのも胸元が大きく開いた、やや薄手の服だ。
身体のラインが良く浮かぶが、この季節には全く向いていない。
このまま回れ右して戻り、すぐそこにある安宿の寝床に戻りたい。だが、それは絶対に出来ない相談だった。
私の背後、すぐそこにある安宿の窓の一つから、男が見張っているのだ。
私が逃げないように、私がちゃんと仕事をするように、だ。
ここで、私が安宿に引き返そうとしようものなら、安宿の玄関にたどり着く前に彼が飛び出してきて、私を痛めつけるだろう。
「っ・・・」
ちょっとした想像に、右脇腹が微かに痛んだ。私がこの街に着たばかりの時、彼に蹴られたときの傷だ。
そういえば、この街に来てからどれぐらい経ったのだろう。この、ダーツェニカの街に来てから。
「・・・あ・・・」
少し昔を思い返そうとしたとき、私の目の前を白いものが降りていった。
顔を上げてみれば、灰色がかった黒い雲から、白いものがちらほらと降りてくるのが見えた。
「雪・・・」
呟きと共に掌を差し出してみれば、降りてきた雪が肌に触れ、すぅっと溶けていく。
ゆっくりと舞い降り、儚く溶けていく、美しい雪。だが、その美しさと裏腹に、冷気は確実に私の体温を奪っていく。
それが、二度の冬で私が学んだことだ。
「・・・そうか、もう三年目なんだ・・・」
私の故郷では雪が降らなかったから、三度目の雪はそのまま私のこのダーツェニカという街で過ごした時間になるわけだ。
路地に入ってきた男と交渉し、そのまま物陰に入って相手をする。そんな日々を繰り返しているうちに、もう三年も経ってしまったのか。
「・・・帰りたいな・・・」
どうせ叶わぬ願い事と頭では理解しているが、そんな囁きが思わず口から零れてしまった。
私は軽く頭を振ると、下らない願望を頭から追いやった。
とりあえず、今日の分を稼がなければ痛めつけられてしまう。早いところ客を見つけないと。
私は顔に垂れた髪を掻き上げた。長く尖った、冷え切った私の耳が、掌に触れた。
――――――――――――――――――――
私の故郷であるエルフの里は、大陸の南東部の森の深くにあった。人里との交流はおろか、外部へ続く道はなく、狩猟で細々と暮らしていた。
幼い頃は、何の疑問もなく日々を受け入れていた。が、ある年齢になったところで任される、見張りの仕事から私は故郷での日々に疑問を抱くようになった。
見張りは、里を中心とするある程度の広さの円の縁を、仲間と二人で見て回るというものだ。そして、円に近づく人間がいれば、一人が弓と魔法で脅して追い返し、もう一人が報告の為里へ走るのだ。
当時、私は里の大人たちから、人間は魔物に劣らない邪悪な種族で、隙あらば森を侵して土地を汚そうとしているのだと教えられていた。
私は大人たちの言葉を信じ、里を囲む円に近寄る人間を脅して追い返していた。
ある時は木々に願い、風に語りかけ、何か恐ろしいものの叫び声のような音を出して脅かした。
またある時は、木々の合間を縫って矢を放ち、怪我をさせて追い返した。
その結果、人間が深い穴のある方向へ進もうとも、怪我が原因で身動きが取れなくなって森の獣に襲われようとも、私は気にしなかった。あの日までは。
あの日、いつものように仲間と二人組みで見張りをしていたところ、人の気配と共に血の匂いが私の鼻を衝いたのだ。仲間を報告のために村へ走らせ、私は弓に矢を番えながら、そっと人間の様子を探った。
木々の合間から見えたのは、皮の鎧を纏った男だった。最も鎧は半分壊れており、覗く地肌には幾つもの傷が刻まれ、血を流している。彼は木の根元で幹に背中を預ける用意して座り込んでおり、ゆっくりと呼吸を重ねていた。
私は、彼のまるで喘ぐような呼吸の仕方に、彼がそう長くないことを悟った。そして、いつでも射放てるよう引き絞っていた弓を緩め、矢を矢筒に戻して、男のところへ歩み寄っていった。
「大丈夫?」
彼は、私がすぐ傍に歩み寄っても気が付く様子もなく、私が掛けたその声に、ようやく顔を向けて反応した。
しかし、その両の目はどこも見ておらず、何も見えていないことが分かった。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
彼は私の問いに返答を返すことなく、走って乱れた呼吸を落ち着かせようとするかのような、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
その様子は、まるで全身に矢を突き立てられ、倒れこんでしまった猪が、死に行く様に良く似ていた。
私は、このままでは彼が死んでしまうことを理解した。丁度、見張りが持たされる道具袋には応急手当用の薬草が収められており、私自身も簡単な治癒魔法はいくつか知っていた。
だが、私は薬草を取り出すわけでも、治癒魔法の詠唱を始めるわけでもなく、ただ彼の傍で立ち尽くしていた。里の大人達に聞かされていた人間の姿に、私は彼を助けるべきか否か悩んでいたからだ。
人間は邪悪で、森を汚す。
しかし、目の前で木の幹に背中を預ける彼の姿は、実にちっぽけで弱々しい、死に掛けの生き物のそれだった。
勿論、彼の纏った皮鎧と、全身の傷から彼がどのようなことをしてきたかは分かる。が、彼は今現在、まさに死のうとしているのだ。
助けるべきか否か、私の頭の中を幾つもの考えが回っていた。
私が悩んでいるうちに、彼の呼吸が徐々にゆっくりとしたものになってきた。そして、大きく空気を一度吸うと、更にパクパクと口を開閉させてから彼は呟いた。
「おかあ・・・さん・・・」
その一言の後、彼は深い溜息をつくように息を吐いて、動かなくなった。
彼は死んだのだ。私が悩んでいる隙に。
私の目の前にあったのは、邪悪な生き物の亡骸などではなく、最後に母を呼んで死んでいった、ちっぽけな男の姿だった。
そこに、里の大人達が言う邪悪な人間の姿はなかった。
その事実に私が気が付いたとき、私の脳裏にこれまでの見張りで追い返してきた人間の姿がよぎった。
いずれの姿も、道を求めて彷徨う迷子であったり、何かから逃れようと急ぐ怯えた者の姿であり、邪悪な存在はどこにもなかった。
では、里の大人達の言う邪悪な人間とは、一体なんなのか?
息絶えた男を前に、私は呆然と立ち尽くしていた。
――――――――――――――――――――
その後、私は放っておけという大人たちの言葉に逆らい、その場に男の亡骸を埋めると、両親や大人たちに邪悪な人間について尋ねた。
彼らは口をそろえて、人は邪悪だと答えた。だが、当時の私には彼らは人間を毛嫌いし、交流を絶つ為だけにそう言っているようにしか思えなかった。
そして、後はお決まりのように私は大人達に反発し、弓と矢といくらかの荷物を手にして、里から飛び出していったのだ。
人と交流し、彼らが本当に邪悪な存在かどうかを確かめる為にだ。
そうして、私は奴隷商人に捕まり、故郷から遠く離れたダーツェニカまではるばる運ばれ、今の主人である男に買われた訳だ。
人間がどれだけ邪悪か、今の私には痛いほど分かる。
「うぅ・・・寒い・・・」
先程降り始めた雪は、既に街の石畳を薄く覆うほど積もり始めていた。
地面から、空気から、肌を差すような冷気が身体に染み入り、体温を奪っていく。
帰りたい。故郷でなくとも、せめて寝床のあるすぐそこの安宿に、帰りたい。
しかし、今日の分の稼ぎが十分でない為、私は寒空の下もうしばらく客を待たねばならないのだ。
「はぁ・・・」
「んまぁーあ、あーあ、あー」
両手に息を吐きかけ、擦り合わせる私の耳を、甲高い声が打った。
視線を声のした方角、裏通りの方へ向けてみれば、裏通りの向こうの方から人影が一つ私のほうへ向かって歩いてきていた。
汚れた外套を何枚も羽織り、頭を球形の兜のようなもので包んだ人物だ。
頭を包む兜には幾つものへこみと傷がついており、覗き穴と思われる正面の丸いガラス窓が、曇っている為表情は窺えない。また、外套の裾から伸びる手足は、折れそうなほど細い。
そんな、珍妙な装いの人影が、行進でもするように手足を振り上げ、音階も適当な鼻歌めいた声を放ちつつ、私の立つ路地に入り込んできた。
「はーん、ふんふんふんはーん」
彼が近づくに連れ、鼻の奥を刺す冷たい空気に、酸っぱい臭いが混ざり始める。夏場、数人分の吐瀉物を一昼夜置いたような、胸の悪くなるような臭いだ。
臭いは彼が私の目の前に来たところで頂点に達する。
同時に、丸兜がぴたりと足を止め、正面に取り付けられた窓を私のほうに向けた。
「ねえ・・・」
出来れば通り過ごして欲しい、という私の願いも空しく、彼はそう声を掛けてきた。
「あそーんでー?」
「・・・・・・」
「あそーんでーぇえー?」
無視する私に、そいつは屈み込みながら声を掛けてきた。
へこみと傷のついた球形の兜が私の顔の傍に寄り、彼の纏った外套の襟元から立ち上る悪臭が、肺の奥に染み入ってくる。
「ねえ・・・あそーんでぇー?」
三度の問いに、私はじっと視線を逸らして耐えた。
もう少し、もう少しの我慢だ。
「あそーん」
「このクソがぁ!また来たかぁ!」
四度目の問い掛けが、脇から飛んできただみ声に掻き消される。
直後、球形の兜を褐色の棒状の何かが打ち据え、彼の身体が雪で白く染まった石畳に倒れ伏した。
「まぁた性懲りもなく来やがって・・・!」
だみ声の方に視線を向ければ、腹の突き出た中年の男が、砂の詰まった細長い皮袋を手に立っているのが目に入った。今現在の、私の持ち主の男だ。
白目が薄黄色く濁った両の目には怒りが滲んでおり、彼の気分がそう良くないことを示していた。
「てめえが、来ると!うちは、商売、上がったりなんだよ!」
言葉を細かく切りながら、男は手にした皮袋を、横たわる彼の外套に覆われた胴体に何度も振り下ろした。
一撃ごとに、彼の痩せぎすな細い身体が、衝撃で揺れ、跳ねる。
「何が!遊んで!だ!遊びたきゃ!金!もってこい!」
皮袋を振り下ろすのを止めると、男は踵で踏み潰すようにしながら言葉を続けた。
そしてそのまま、数度蹴りを叩き込むと、男はようやく彼への暴力を止めた。
「クソ・・・相変わらず嫌な臭いだ・・・おい、臭いがつかないうちに帰るぞ」
男は忌々しげに、動かなくなった外套の背中につばを吐きかけると、そう続けて私の手首を握り、ずんずん歩き出した。
「あ・・・ちょ、ちょっと、待・・・」
「あぁ!?」
突然手を引かれ、バランスを崩しそうになる私に、男が威嚇めいた声を上げる。
私は口をつぐみ、どうにか縺れる両足を立て直しながら、男の足についていった。
薄く雪の積もった石畳の上に足跡を残しながら、男と私は裏通りに面した安宿に入った。
ドアが開き、男と私の二人を受け入れる。
暖炉に火は入っていないが、屋根と壁があるだけで、ほっと息をつけるような温もりがそこにあった。
「おら、着いて来い!」
男は、私が人心地つく間も許さず、酒場と食堂を兼ねた一階の広場を通り抜けると、奥の階段を上り始めた。
私は半分引き摺られるようにしながら男に付いて行くが、一階の片隅に置かれた物をちらりと見た。
湾曲した背の高い金属の棒と、そこに吊り下げられた籠だ。籠には布が掛けてあり、中を窺うことは出来なかった。
「・・・・・・」
階段を上るうちに、籠が一階の天井に遮られ、見えなくなる。
やがて階段を上りきると、男は私を半ば引き摺りながら廊下を進み、突き当りの扉を開いた。扉の向こうはベッドが二つに、テーブルと椅子が一組だけ置かれた殺風景な部屋だ。
男は部屋に入るなり、私を床の上に放り出した。
「きゃ・・・!」
半ば引き摺られるような姿勢で放り出されたため、私はよろめきながら部屋のほぼ中央まで進んで、崩れ落ちた。
私の背後で、男が扉を閉める音がする。顔を向ければ、壁際においてあったもう一脚の椅子を手に取り、扉の取っ手の下に背もたれが食い込むように置きなおした。
これでもう、外から扉は開かない。
「おい」
男は椅子の位置を調整し、軽く押し引きして確認すると、よろよろ立ち上がる私に向けて低い声と共に振り返った。
「今日の稼ぎを出せ」
「は、はい・・・」
私は上着の懐に手を入れると、そこに収められていた幾枚かの硬貨を取り出し、差し出した。
「これで、全部です・・・」
「・・・」
男は無言で歩み寄ると、私の手のひらから硬貨を引ったくり、数えた。
「少ないな」
「今日は早く引き上げたから・・・」
いささか不機嫌そうな男の言葉に、私はそう返した。
だが、男はそれだけでは納得しないようだ。
「今日は二人相手したんだろ?二人ならもうちょっと稼げるだろう?だってのにこれは何だ、一人分ぐらいしかないじゃねえか」
掌の上の硬貨を私の目の前に突きつけながら、彼は声を荒げた。
「きょ、今日のお客さんは二人とも、口だけだったから・・・」
今日相手をした二人の男の形と味を思い返しながら、私はそう弁解した。
だが、男が求めていたのは言い訳ではなかったようだ。
「んな事を聞いてんじゃねえ!」
声を荒げると、男は私の肩を思い切り突き飛ばした。
衝撃にバランスを崩し、私は再び床の上に倒れてしまった。
「・・・っ・・・!」
「口の注文しかなかったから、口だけしか相手しなかったぁ!?そんなんで、今日の目標稼ぐのに、何人要るか言ってみろ!」
尻餅をついた痛みに耐える私の肩を掴むと、男は力を込めて私の身体をひっくり返した。
そして、床の上にうつぶせになった私の手首を掴み、背中の方へねじり上げる。
「・・・いっ!」
「口だけでいいってヤツに胸も使ってやって、一回でいいってヤツに二回してやるのがえーぎょーどりょく、って言うもんだろうが!」
肩や肘に走る痛みに、私は思わず自由な手足を使って逃れようともがいた。だが、男は恫喝を続けながら更に手首をねじり、激痛を私にもたらした。
このまま暴れていたら、彼はもっと腕をねじり上げるだろう。
彼との生活で学んだことが脳裏に浮かび、私は歯を食いしばって、ともすれば暴れだしそうになる手足を押さえ込んだ。
「そうやってなじみの客を作って、毎回本番までやらせりゃあ、目標どころかお釣りまで付いてくるだろうが!あぁ!?」
「ご・・・ごめん、なさ・・・い・・・!」
肩等での発する激痛に耐えながら、私はどうにか声を絞り出した。しかし謝罪の言葉は彼の神経を逆撫でしたらしく、手首を握る彼の手に力が篭る。
「ごめんなさいじゃねえよ!努力します、だろうが!」
「は、はい・・・!努力します、頑張ります・・・!もっと、もっと稼ぎます・・・!」
関節が立てるみしみしという音を身体伝いに聞きながら、私は声を張り上げた。
すると、手首を握っていた彼の指が緩み、腕が開放された。
「っ、はぁはぁはぁはぁ・・・」
「分かったんなら、明日から努力するんだな」
痛みによっていつの間にか止めてしまっていた呼吸を再開させ、喘ぐ私を見下ろしながら男はそう言った。
するとそのまま彼はベッドへ歩み寄り、ごろりと横になると三枚重ねの毛布を被った。しばしの間をおいて、鼾が室内に響き始める。
「・・・・・・」
私はようやく呼吸を落ち着かせると、痛む肩を擦りながらゆっくりと立ち上がった。
ちらりと視線を扉に向けるが、そこには変わらず椅子が鎮座したままだ。数日置きの彼の怒声と暴行に、最初のうちは野次馬や止めようとする人間が着ていたのだが、もういつもの事と流すかのように誰も来なくなった。結果、他の人間を寄せ付けない為に設置された椅子だけが残されたというわけだ。
「・・・痛っ・・・」
肩に支障がないか確認する為、軽く上げてみるが、一瞬肩の奥を鋭い痛みが走った。少し痛めてしまったようだ。やはり、反射的にもがいてしまったのが不味かったのだろう。次からは大人しくしなければ。最も、買われたばかりの頃の殴る蹴るに比べれば遥かにましだが。
そこまで考えたところで、私は自分の思考が大分異常な方向に捻じ曲がっていることに気が付いた。
腕をねじり上げられ、関節を痛めたというのに、昔に比べればましだと?
確かに、彼の関節をねじるという暴行は、殴る蹴るなどの単純な暴力に比べれば外傷は少ない。しかし、痛みは遜色なかった。
彼としては、怪我させることなく痛めつけ、言うことを聞かせる為の手段として編み出した暴力の振るい方なのだろう。だが、初期の暴力によって骨折を経験した身としては、関節をねじり上げられ、そのまま骨折に至るほうが恐ろしいのだ。
「つつ・・・」
仕事着を脱ごうと腕を上げれば痛みが走る。私はどうにか服を全て脱ぐと、壁に掛けられた衣装掛けにそれを掛けた。
そして肩を擦りながら、私は部屋に置かれたもう一つのベッドに歩み寄ると、毛布を広げてその中に潜り込む。
寒さは身体の奥に突き刺さるようだったが、私は身体を丸めて目を瞑り、それに耐える。明日も仕事はあるのだ。早く休んで、備えなければ。
程なくして眠りが訪れた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『ひなどり ひなどり 殻の中 空を夢見て 眠ってる』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
頭を締め付けられるような痛みに、私は目を覚ました。ダーツェニカ特有の冷気による目覚めだ。
毛布の中から窓の外を見てみれば、昇り始めた朝日が裏通りを照らしつつあるところだった。
そろそろ起きなければ。
「ん・・・うーん」
丸めていた身体を伸ばし、被っていた一枚の毛布を除けつつ、私は身を起こした。
毛布を跳ね除けたことで、冷気が直接身体に触れる。だが、このまま毛布の下にいたところで寒いのには変わらないのだ。むしろ、こちらの方が目が覚めて丁度いい。
「うぅ、寒い・・・」
呟きながらベッドを降りると、軽く肩を動かしてみた。
微かな痛みは残っているが、大分良くなっている。これなら医者に行く必要もないだろう。
簡単に判断を下すと、私は服を掛けた壁に歩み寄った。
そして、昨日着ていたのとは別の、もう一着の衣装を取り、袖を通す。
胸元は閉じており、厚手の生地が体のラインを隠してしまっている為色気は全くないが、仕事着の何倍も暖かい。
目の届く範囲で身だしなみを整えると、私は窓際のテーブルに向かった。そして、その上に昨夜から放り出されたままの硬貨を数枚手に取る。
枚数を確認して、懐に収めた。
そのまま扉の前に向かい、取っ手に食い込んだままの椅子をどかすと、私は扉を開けて外に出た。
冷えた空気が流れ込み、部屋の空気が意外と澱んでいたことを私は知った。
後ろ手に扉を閉め、薄暗い廊下を音をたてぬようゆっくりゆっくり、足を少しだけ引きずりながら進む。
そして階段にたどり着くと、手すりを握って一段ずつ下りて行った。
別に、昨夜怪我したわけではない。
奴隷商人につかまった時、足を逃げられないように折られたからだ。
幸い骨はくっついたものの、まっすぐに固定しなかったせいで少しだけ左右の足の長さが違ってしまった。
おかげで折れた脚に体重を掛けると痛むため、走るどころかこのように階段の上り下りさえままならないのだ。
いま思えば、これが奴隷商人の狙いだったのだろう。
一階に降りると、私は出入り口ではなく、食堂のカウンターに向かった。
「おはようございまーす」
「うーいす」
カウンターの奥、厨房から低いうめき声のような返事とともに、肥った男が出てきた。
「今日も頼むね、ハイよ」
「はい」
私は男の差し出したメモといくらかの硬貨を受け取った。
メモに書かれているのは、食堂で使う食品のリストだ。
仕入れの一部を担当することで、この宿に少し安値で泊めてもらっているのだ。
私は金額とメモの内容を確認すると、カウンターから離れて、食堂の隅に向かった。
そこにあったのは、湾曲した背の高い金属の棒と、そこに吊り下げられた籠だ。
昨夜掛けてあった布は取りのけてあり、中身が見える。
籠の中にいたのは、設置された横木にとまる一羽の小鳥だった。
私は籠に近づくと、くちばしが赤く白くつるりとした羽の小鳥に向けて、こうささやいた。
「おはよう」
無論、小鳥は返事をするわけでもなく、濡れた黒い眼目でこちらを見返し、首をかしげるばかりだ。
でも、小鳥の愛らしい姿を見ているだけでも、私の心は十分に和んだ。
「……よし…」
たっぷり小鳥の姿を目に収めると、私は籠の側から離れ、宿の出入り口に向かった。
木の扉に手を掛け、押し開くと強い朝日とともに冷たい空気が私を迎えた。
「うぅ…」
衣服を通して肌を刺す冷気に呻きながら、私は宿の外に出た。
辺りには昨夜降った雪が薄く積もっており、眩いほどにきらきらと朝日を照り返している。
もっとも、朝日によって少々溶けている上に、足跡がいくつも刻まれているため、一面真っ白と言うわけではない。
戸を閉め、雪に覆われた石畳の上に降りると、私は市場の方に向かって歩き始めた。
さく、さく、さく、さく、と一歩ごとにゆっくりと足音と足跡が刻まれていく。
振り返ってみれば、左右の足の長さの違いのせいかいくらか歩幅に偏りのある私の足跡が、安宿の入り口からすぐ後ろまで続いていた。
やはり、雪はいい。膝に達するほど積もるのはごめんだが、ごくごく薄いうちならこんな楽しみがある。
私は、いくらか気分を明るくしながら、足を進めていった。
向かう先は、ダーツェニカの市場街だ。
近隣の村や町から日用品や食品を揃えた人々が集まり、朝から昼過ぎまで取引をするのだ。
多くの品物や人が集まるため、市場街は常に混雑しているが、一般商店よりいくらか安く物を手に入れることができる。
だから、稼ぎが同じでも市場街で買い物をした方が、より多くのものが手に入るのだ。
この街に移り住んでから、ひと月もしないうちに身に着けた生活の知恵である。
(とりあえず、パンにハムに、果物に…)
懐の硬貨の枚数を思い出しながら、私は仕入れのついでに何を買うべきか算段を立てた。
酒。
安くて、量があり、日持ちのする食料品。
仕事のための、新しい香水と、安い装身具。
それと、新しい仕事着のための生地。
食品と酒以外はまだ必要ではないが、今のうちからお金を貯めておいた方がいいだろうか。
そんなことをつらつら考えながら、足を進めていく。
裏通りを通り抜け、いくつかの路地を通り、市場街に近づいていく。
そして街の中を流れる水路にかかる橋の手前、市場街まで橋を渡ってから角をいくつか曲がればよい、というところで、私の耳を音がくすぐった。
ぴちゃぴちゃという、何かを舐めるような音。
ハフハフという、呼吸を交えながら何かを口に押し込む音。
ぐじゅ、ヴジュ、という柔らかなものをこねるような音。
そんな音が、私の耳に届いたのだ。
不快感を湧き起こさせる、濡れた粘着質な、いくつかの音。
その出元は、少し先の路地裏のようだった。
「……」
私は足を止め、路地裏へと続く角に目を向けた。
ここからは何も見えないが、角を覗き込めば、何かあるのだろうか。
ちらりと視線を上げてみるが、空には鳥の姿はない。
ならば、犬か何かの死骸を犬か何かが食べている、というわけでもないようだ。
安宿の一階酒場の酔客や、ほかの住人によれば、ここダーツェニカは昔一時期完全に魔物の支配下にあったらしい。
そして街の地下には巨大なダンジョンが存在し、そこには当時の魔物の残党が生き残っているという噂を聞いたこともある。
街の地下を流れる下水路も、地下ダンジョンの一部を利用して作られているとも聞いた。
ちらり、と視線を水路に向ければ、水路の壁面に人が入れそうな穴が、ある程度の間隔を置いて並んでいた。
ぴちゃ ぐちゅ はふ ぐぢゅぢゅ ぶち はふ
水路を眺める私の耳を、再び音が打つ。
まるで、水路から這い出した魔物が、犠牲者の亡骸を食らっているような音が、だ。
どうしよう。街の衛兵に知らせるべきだろうか?
しかし、ダーツェニカほど大きな街に、魔物が出たなどという話は聞いたことがない。
下手な通報をすれば、逆に私がしょっ引かれるだろう。
でも、本当に魔物だったら、このまま離れれば被害が出てしまう。
私はしばしの逡巡を経てから、一つの結論にたどり着いた。
とりあえず、あの角を覗き込んで、何が起こっているのかを確認しよう。
問題がなさそうなら、そのままで。魔物だったら、衛兵へ。
私はどうすべきかを決めると、向きを変えて路地裏へ続く角へ進んだ。
一歩、一歩と足を進めるたびに、濡れた音が耳に絡みつく。
ぐちゃぐちゃ ぶじゅ はふ じゅぶぐちゅ
路地裏に隣接する食堂の、レンガ造りの建物の壁に背中を押し当て、ゆっくり進んでいく。
そして、角の所にたどり着いたところで、私はそっと路地裏を覗き込んだ。
薄暗い、人がすれ違えるかどうかという路地裏に、こちらに背を向けるようにして何者かが屈んでいた。
よくわからない輪郭に、大きく丸い頭。
それは手を伸ばし、足元を通る小さな下水路から何かをつかみ取ると、顔の真ん中のあたりに押し込んでいた。そして反対の手で、降り積もった雪をかき集めて握ると、それも顔の真ん中に押し込んでいく。
そこまで確認したところで、路地裏の向こうから、私の方に向けて風が吹いた。
鼻を、酸っぱい臭いの混ざった悪臭が突く。腐肉と吐瀉物をかき混ぜたような、胸の悪くなる臭い。
「…っ…!」
私は思わず小さくうめきながら、口と鼻に手を伸ばした。
その瞬間、屈んでいた影が大きく動いた。
屈めていた背を伸ばし、大きくて丸い頭をこちらに向けたのだ。
がちゃん、という音が路地裏に響き、同時に日の光が差し込む。
「…っ!」
日の光に照らし出されたその姿に、私は声をあげそうになった。
そこに屈んでいたのは、私に昨晩声をかけ、さんざんに暴行されたあの丸兜の男だったからだ。
「……」
「……」
兜の正面に取り付けられた丸窓と、私の両目が無言のままに交錯する。
だが、早々に飽きたのか、彼は私から丸窓を逸らすと、ねじっていた体を正面に向けた。
きぃ、という軋むような音を挟んでから、再びあの粘着質な音が響きだす。
すぐそばの食堂や、彼の足もとを流れる下水路が私の頭の中で噛み合った。
おそらく、これは彼の食事なのだろう。
兜の丸窓をドアのように開け、下水路から側の食堂から出た残飯を押し込む。
普通の食事からは遠く離れた、彼特有の食事だ。
彼の放つ臭いと相まって胸が悪くなりそうだったが、私はある種の安心を覚えていた。
時折街中で見かける、正体不明の人物の生活の片鱗が、明らかになったのだ。
彼も化け物などではなく、ただの人間だということか。
私は胸をなでおろしながら角から離れると、橋の方へと歩みだした。
いつもより少し遅刻だが、いい品が残っているだろうか?
そんなことを考えながら。
――――――――――――――――――――
市場から戻り、仕入れた品物を納め、部屋に戻る。
待ち構えていたのは、すでに目を覚ました男の姿だった。
酒はどうした、またメシはこれか、俺嫌いなんだよ、もう少し稼げよ、今日も頑張れよ、あーあまずい、やっぱりもう少し南に行ったほうがいいのかね。
一方的な、男の愚痴に相槌を打ちながら、買ってきたパンとハムを切り、下の食堂でもらった一部が欠けた皿の上に並べる。
そして、テーブルの上に皿と水差しを置けば、朝だか昼だかわからない食事の時間だ。
男はようやく愚痴めいた言葉を止めると、椅子に腰かけた。
私もそれに倣って、男の向かいに椅子を置いて座る。
そして、どちらからともなく食事に手を付けた。
やわらかいパンの上にハムを乗せ、齧る。
塩気とパンの甘みが口に広がる。
「そういやお前、今日は少し遅かったな」
不意に、男がそう声をかけてきた。
「いつもならもうチョイ早く帰ってくるだろ?なんかあったのか?」
「あ、はい…えーと」
久々の、一方的ではない、返答を求める彼の言葉に、私は内心驚きを覚えていた。
同時に、今朝見たものを話すべきかどうか迷っていた。
「言ってみろ」
男が返答を促す。
「その、実は市場への行きに、昨日声をかけてきた人を見ました…」
「誰?」
水差しからコップに水を注ぎながら、男が言った。
「昨日、最後に声をかけてきたあの人です…ご主人様に殴られた…」
「…あいつか…」
彼の放つ臭いを思い出した、とでも言いたげに彼が顔を顰めた。
「それで、何だ?また遊んでだとか言われたのか?」
「い、いいえ…ただ、食堂の裏の路地で何か食べていたのを見かけただけです…」
「へえ?あいつ金持ってたのか?」
「いえ、お店で出たごみみたいなものを食べてました」
「なるほど、な…しかしどうやって物を食ってたんだ?あの兜脱いでたのか?」
「正面の窓をドアみたいに開けてました。中は見えませんでしたけど…」
「そうか…」
彼は興味を失ったようにそう呟くと、手に残っていたパンとハムをまとめて口にねじ込んだ。
そして数度の咀嚼を挟んでから飲み下すと、手にしたコップの水を飲み干した。
「んじゃ、後片づけておけ」
彼はそう言うと、席を立った。
――――――――――――――――――――
皿を片づけ、仕事に着替えると、私はいつもの場所に立った。
日はまだ高いが、裏通りの物影はこっそりことを済ませるには十分に暗い。
そして、日が出ているいうのにちょっと用事を済ませようという男も、十分に多かった。
「ん…ん…」
石畳に膝を突き、喉の奥から小さい音を紡ぎながら口中の棒に舌を絡める。
それは熱く、彼の興奮を示すように脈打っており、先端から塩辛い先走りが滲んでいた。
「ん…」
唇で真ん中を締め、膨れた先端に舌を巻きつける。そして、舌の表面の細かいぶつぶつで、なめらかな先端を擦ってやった。
「うぅ…!」
頭上から低い呻き声が降り注ぎ、口中の肉棒が引き抜かれそうになる。
私は両腕を客の腰にまわすと、抜けないようにしっかりと押さえこんだ。
そしてそのまま、唇を窄めて前後に頭を揺する。
先端に絡めた舌と、粘り気の強い唾液、頬の肉、唇が一体となって、肉棒の表面を撫でまわした。
瞬間、腕の中の男の腰がびくっと震え、肉棒がひときわ大きく脈打つ。
直後、口中に苦みと僅かな塩味を孕んだ粘液が迸った。
「うぅ…!」
「ん…」
私は動きを止めて、じっと口中に放たれた白濁を受け止めた。粘り気と、微かな弾力のある液体が口腔を満たしていく。
やがて、肉棒の脈動が小さくなり、射精が止まった。
私は頭を下げ、口から肉棒を抜いた。すぼめられた唇により、半萎えの肉棒が扱きあげられ、尿道に残っていた射精の残滓が搾り取られていく。
そして、最後に鈴口を小さく吸ってから肉棒を解放すると、私は顔を上げた。
視線の先にあったのは、期待の籠った目を向ける男の顔だった。
「…んぁ…」
私は口中の粘液を溢さぬよう注意しながら口を開くと、唾液と混ざって量の増した白濁を彼の視線に晒した。
舌を軽く動かし、白濁を揺らしてやると、客の表情に愉悦が加わった。
「……」
たっぷり見せつけてから口を閉じ、小さく顎を上げる。
その姿勢のまま、私は口中の粘液を飲み込んだ。
私の細い喉が小さく上下し、どろりとした液体を胃袋へと送り届けていく。
やがて、最後の一滴まで飲み下すと、私は再び口を開いた。
「…ぁあ…ん…」
小さく声を漏らし、完全に口の中が空であることを、彼の出した体液を一滴残らず私が飲み干したことを示すと、彼は満足げに頷いて見せた。
「ありがとう、気持ちよかったよ」
彼はそう言うと、懐に手を入れ残金を差し出した。
「約束通り、銀貨三枚増しだ」
「ありがとうございます、また私を使ってくださいね」
残金を受け取りながらそう言うと、私は物影を出て裏路地から出ていこうとしている男を見送った。
これで、今日三人目の客だ。
一人残らず口での奉仕を求めたため、一度にもらえる金額はそこまでないが、三人も相手をしたともなればそれなりの金額になる。
この調子なら、あと二人ほど口で相手をしてやれば今日の目標に届くはずだ。
裏路地から空を見上げれば、日が大分傾いたのか空が赤かった。
まだ時間はある。
私は服装を軽く整えると、物影から出て行った。
だが、私の足が物影から出たところで止まった。いつも私が客待ちをしている場所には、すでに人影があったからだ。
元の色がわからぬほど汚れ、染みのついた外套を重ね着した、大きな球状の兜をかぶった男。
今朝方残飯を熱心に兜の中に詰め込んでいた彼が、私に背を向けるようにして、そこに立っていた。
「……」
「……?」
無言で立ち尽くす私の気配を察したのか、彼が体を捩ってこちらに兜の窓を向けた。
汚れのこびりついた丸いガラスの向こうから放たれた視線が、私を射抜く。
「あー!」
うれしげな、高い声とともに彼がぐるりとこちらに向き直り、距離を詰めてくる。
私は彼の一歩ごとに増していく臭いに、思わず数歩退いていた。
だが、私が下がるよりも早く彼は歩み寄り、ついに私の目の前に立った。
「あーそーぼー?」
丸い兜を左右に傾けながら、間延びした問いを彼が放つ。
「ええと、いやその…ここにいると、また殴られるよ…?」
私は、どうにか彼に対する昨日の仕打ちを持ち出し、彼を遠ざけようとした。
しかし、彼は聞いているのかいないのか、再びこう言い放った。
「あーそーぼー?」
一言ごとに首を右に左に傾けながらの問いは、私の言葉を理解してのものとは思えなかった。
「おい、ぐぉらぁぁぁぁぁあああ!!」
横から、濁った怒声届く。顔を向けてみれば、男が安宿の入り口からこちらに向かって早足で近づいているところだった。
「まぁぁたてめえはぁぁぁぁ!」
手にした砂の詰まった細長い革袋を、感触を確かめるように掌に打ち付けながら、男が距離を詰めてくる。
だが、男が革袋を振りかぶろうとした瞬間、彼が右手を突き出した。
「な、何だ…!?」
目の前に突然現れた、汚れて茶色く変色した包帯に包まれている拳に、男が一瞬ひるむ。
「おかね、ある」
指が開き、半ば溶けた雪に覆われた石畳に、銀色の薄く丸いものが転がり落ちていった。
ちゃりんちゃりん、と小気味いい音が辺りに響く。
「……」
男は、地面に転がる十数枚の丸い物に、目が釘付けになっていた。
茶色い汚れのようなものがこびりついているが、確かに銀貨だ。
「おかねもってきた、だからあそぶ」
彼の言葉に、男は無言でその場に屈むと、雪に硬貨を擦り付けた。
すると粘ついた茶色いものは容易に取れ、銀色の光沢を取り戻した。
確かに銀貨だ。
男は、地面に転がる残りの硬貨の枚数を確認すると、顔をあげた。
「どうぞどうぞ、怪我させたりしなければ何でもやります。夕飯時ぐらいには返してけだせえ」
そういう彼の顔は、ここ数か月で見たことがないほど輝いた笑みを湛えていた。
これほどの笑みを見せたのは、いつか私が一日に三人を相手し、金貨数枚に及ぶ稼ぎを得た時以来だ。
「おい、くれぐれも失礼のない様にしろよ。あと、いつもの時間までには戻れよ」
銀貨を拾い集めると、男はそう私に言い聞かせ、路地から裏通りへ出て行った。
だが、彼は安宿に戻るわけではなく、別の方角へ歩いて行った。確かあの方向には、酒場があったはずだ。
「あーそーぼー?」
男を見送る私に、彼が三度そう問いかけた。
男が立ち去ってしまった今、もう私を彼からかばう者はいないのだ。
「……わかったわ…」
私はため息を挟むと、気分を変えた。
「それで、何をしたいの?」
「ついてきて」
その場でズボンを下ろされても大丈夫なよう覚悟を決めたというのに、彼はくるりと向きを変えると、裏通りの方へ歩き出した。
肩すかしな彼の行動に、一瞬唖然としてしまう。だが、彼は呆然と立ち尽くす私に振り返りもせず、すたすたと進んでいく。
「!」
私は我に返ると、急いで彼の後を追った。
一度折られた足への負担を避けるため、自然とけんけんのような奇妙な走り方になる。呆然としていたとはいえ、ごく短い時間だったのが幸いして、すぐに追いついた。
そこで私は上げていた片足を地面につき、急ぎのけんけんから普通の歩みに戻した。
汚れの染み付いた外套の数歩後ろをついていく形になる。
「……」
しかし、歩めども歩めども彼は無言のままで、最初の『ついてきて』が何かの聞き違いだったのではないか、と思うほどだ。
だが、彼は確かに『ついてきて』と言っていた。それに、金を払ったのに私がついてこなかったら、彼は男の所へ怒鳴り込むかもしれない。
そうなれば、また私が痛めつけられる。
私は、彼の目的が何か分かっていなかったが、それでもついていかなければならなかった。
だが、足を進めるごとに再び彼我の間が徐々に広まっていく。やはり上背ががある分、彼の一歩の幅が大きいのだ。
距離を保とうと足を速めるが、骨の継ぎ目が痛くなってくる。
「ちょ、ちょっと待って…」
思わず口を突いて出た言葉に、彼はびたり、と足を止めると、上体を捩って後ろを振り返った。
そして、足を半ば引きずるようにしながら急ぐ私を見るなり、大きく一つ頷いた。
「わかった」
そして私がようやく追いついたところで、彼は再び足を進め始めた。
だが今度は先ほどのような大股ではなく、小幅でゆっくりとした歩調だった。
私は彼の歩調に合わせてペースを落とすと、彼の通った空気を吸わないよう、真横に並んだ。
おかげで、場末の酒場の裏手を歩いている程度の臭気を堪えるだけで済む。
しばしの間、私たちは黙々と進み続けた。
裏通りから裏通りへ進み、やがて屋台の並ぶ通りに面した路地にたどり着く。
そこで彼は、ついに足を止めた。
「ねえ」
顔をこちらに向けながら、彼が兜の下の口を開く。
「なにかかってきて」
外套の懐に手を突っ込み、彼は握り拳を差し出した。
反射的に手を広げると、彼はその上で指を開き、握っていた銀貨を落とした。
いくらか汚れがこびりついているが、まぎれもない銀貨だ。
「ええと、何を買ってくれば…」
「なんでもいい。ふたつ」
ぼろ布が巻きついた指を二本立てて、答えた。
私は彼の曇ったガラス窓と、手元の銀貨を見比べてから、通りの方へ歩き出した。
さて、何を買おうか?
「やっぱり、串焼きかしら?」
この通りの屋台は、いつも通っているところに比べいくらか値が張る。その代り、味はよく、店によっては量も多い。
もっとも、あまりこの通りまで来たことはないのだが、それでもこの辺りで売っているという串焼きについては、何度か耳にしたことがある。
それなりに多い人通りの中を、串焼きの屋台を探して私は足を進めた。
程なくして、私は通りの一角で串焼きの屋台を見つけた。
串に刺した肉片に塩と胡椒をすり込み、炭火で炙っている。胡椒を使っている分割高ではあるが、食欲をそそるいい香りが辺りに漂っていた。
「すみません…二本ください」
「あいよっ」
威勢のいい返事とともに、屋台の主人が炙っていた串を二本取り、広げた掌とともに差し出してくる。
私は主人の掌に、懐から出した銀貨を一枚乗せた。
だが、支払いに使ったのは彼から預かった銀貨ではない。私が仕事を仕立ていた間に、客から受け取った分だ。そのまま渡すには汚れすぎており、汚れを落とそうにも近くに水はなく、地面の雪も溶けて土埃と混ざっていたからだ。
「毎度あり!」
私串を受け取ると、元来た道を歩き始めた。
串を二本握り、人にぶつからぬ様に注意しながらも、肉が冷めるのを防ぐため極力急ぐ。
周りから見れば滑稽な様子なのだろうが、私には気にしている余裕はなかった。
足が痛まぬ程度に急ぎ、裏通りへ続く路地に入る。彼は、私が表通りに出て行ったときと寸分違わぬ位置に、のそりと立っていた。
「買ってきました…」
「ありがと」
私が差し出した二本の串焼きの内、片方を彼は受け取った。
「ひとつたべていいよ」
「え?」
彼の言葉に、私は戸惑った。
「あげる」
手元の串焼きと彼の兜の窓を見比べる私に、彼はそう告げると体ごと横を向いた。
そして顔を上げて、串を持っていない方の手で窓に触れる。
きぃ、という小さな軋みとともに、丸い窓が開いた。
私の位置からは見えないが、彼は開け放たれた兜の穴に、串焼きを正面から突っ込んだ。串の半ばまでが兜の中に消え、引き抜かれると連なっていた五切れ肉のうち、二つがなくなっていた。
「…いただきます」
ぼんやりとしているわけにもいかず、私も食べることにした。
口を開け、串に突き刺さる肉の一切れを含み、串を引いた。歯で固定していた肉が串を滑り、抜ける。
最初に感じたのは、塩味だった。
だが、肉の表面に滲んだ油のせいか、直接塩を舐めた時のような尖った味ではなく、どことなく丸みを帯びているようだった。
そのまま、微かに熱の残る肉を咀嚼した。
肉の筋が押しつぶされ、脂と汁が滲みだす。
口中に広がる塩味を帯びた肉汁が、舌を通じて幸福感を孕んだ旨味を伝えた。
胸が焼けるような脂が口内に絡み付き、顎の動きに合わせて口の隅々に広がっていく。
久々の肉の味に、私は陶酔していた。
やがて、口内の肉が粉々になり、滲みだした唾液と混ざり合っていく。
そして口中を満たす肉の破片をたっぷり味わうと、私は数度に分けて飲み込んだ。
喉を肉が滑り落ちていき、後味と寂寥感が口内に取り残される。
ああ、久しぶりの肉だ。
「おいし…」
思わずそう囁いてから、次の一口を口に収めた。
今度は二切れ。まとめて串から引き抜き、両の奥歯で噛み締める。
肉が二つで量が二倍に脂も二倍。味も二倍、というわけにはいかないが、それでも量が増えた分味の濃度が増した気がする。
舌に肉汁を絡ませながら、咀嚼し、嚥下する。
これで残り二切れ。
少しでも長く味わうため、私は一切れだけを口に含んだ。
量が減ったため、口中に広がる味の濃度は減っている。だが、味自体が落ちたわけではない。
変わらぬ濃厚な、脂と塩と肉の旨味を胸いっぱいに味わう。
肉が、こんなにおいしい。
里に住んでいたころは、誰も肉など食べなかった。だが、人につかまってから肉を食べさせられ、その味を覚えた。
最初の頃は肉を食べることに抵抗があったのだが、食べなければ死ぬという環境を繰り返すうちに慣れていったのだ。
環境も、身体も、嗜好も、里に住んでいたころから変わってしまった。だが、少なくとも今は不思議と何の感慨もない。
肉の味わいが、口中を、胸中を、心中を満たしているからだ。
そんなことを考えているうちに、口中の肉が粉々になり、唾液とともに喉の奥へ消えていった。
串に目を落とせば、残っているのは根元の近くの一切れだけ。
名残惜しさが脳裏に浮かぶが、この一切れをじっと持っていたところで何かになるわけではない。私は最後の一切れに対する名残惜しさを打ち消して、肉を前歯で捕え、串を引いた。
歯茎をくすぐるような振動とともに、肉が串の表面を滑り、串から離れる。
上下の前歯の間を広げて、肉を口中に導き入れる。
そして唇を締め、口内で肉を転がした。
脂と、そこに溶け込んだ塩が、口内に塗り広げられていく。
たっぷりと表面の塩味を孕んだ脂を味わってから、奥歯で肉をかみしめた。
変わらない、旨味を含んだ肉汁が溢れ出し、口内を満たす脂と塩の味をわずかに薄める。
肉の筋が千切れ、破片が肉汁とともに漂い、舌や口蓋をくすぐる。
黙々と、ただ黙々と私は肉を噛みしめ、その味わいを楽しんだ。
やがて肉片は肉の繊維になり、肉汁と唾液と混ざり合って粥のようになった。
私は口中で、肉粥をたっぷりと転がしてから、数度に分けて嚥下した。
塩味が、脂味が、旨味が、喉を滑り落ちていく。
そして、僅かな味わいを口中に、僅かな異物感を腹のあたりに残して、串焼きは完全に私の中に消えていった。
「はぁ…美味しかった…」
ため息とともに、私はそう漏らした。
「おいしかったね」
呼応するように、横から声が降り注ぐ。
顔を向けてみれば、何も刺さっていない串を手にした彼が、兜の窓を閉ざして私を見下ろしていた。
「ちょうだい」
そう彼が手を差し出しながら言う。何のことかと、彼の手と窓の向く先を目で追ってみれば、そこには私の持った串があった。
「…?」
疑問に思いながらも、私は串を差し出し、茶色い布に包まれた彼の手の上に乗せた。
「ありがとう」
彼は串を片手にまとめると、そのまま外套の懐に突っ込んだ。
そして手を下ろすと、彼はのそのそと歩き始めた。
「?」
彼の行動に疑問が起こるが、とりあえずついていくことにする。
まだ時間はあるし、もらった銀貨の枚数から言ってももう少し一緒にいなければならないからだ。
ゆっくりと進む彼に、私は足が痛まない程度に急いでついて行った。
――――――――――――――――――――
その後、彼は主に裏通りを進み、時折足を止めて何かを見たり、私に硬貨を渡して食べ物を買わせ、一緒に食べたりした。
相手が彼でなく、表通りを歩いていれば、まあ逢引中のようにも見えただろう。
もっとも、実際のところは私が連れまわされているだけなのだが。
そうこうしているうちに、日は沈み、通りに並ぶ建物の窓や街灯に灯が灯ち始めた。
そろそろ戻りたいところだが、彼の足はあの裏通りではなく、市場街の方へ向かっていた。
「……」
これまで主に進んでいたのが、裏道とはいえ表通りと建物一つ隔てたところだったため、喧噪や明かりは見えていた。
だが今通っている道はほとんど人通りがなく、下手すれば「ここは無人の町だ」と言われても信じそうなほど静まり返っていた。
やがて、彼は建物と建物の間の路地を通り抜けて、足を止めた。
続けて私も路地から出てみると、そこは何度か通った水路に面した通りだった。
「あれはげすいろ」
彼が右手を挙げ、水路を指さしながら口を開いた。
「げすいろはひろい。たってあるけるぐらいひろい。でもみんなごみをすてると、つまる」
水路の脇にところどころ開いた、大きな穴を指し示しながら彼は言葉を紡ぐ。
「つまるとみずがあふれて、みんなこまる。だからしょうこうかいちょうさん、そうじするようおしごとたのむ」
「はあ…」
「あなにはいってそうじすると、しょうこうかいからおかねがもらえる」
なるほど、どうやらこの金はそうやって稼いだものらしい。
後ろ暗い種類の金ではないことに、私は内心胸を撫で下ろした。
「おしごとたのしい」
だが、その一瞬の油断を突いたかのように、彼はぐるりと上体をひねり、私を覗き込むようにして続けた。
「でもあなたおしごとたのしそうじゃない。なんで?」
「…っ!」
急な接近と彼の臭気、そして彼の質問に私は思わず一歩退いていた。
「なんどかみた。おしごとしてる。でもたのしそうじゃない。ならなんでおしごとしてる?」
「そ、それは…」
彼の問いかけに、私は答えを紡ごうとしたが、口が開閉するばかりで言葉が出ない。
「おしごと、きらい?」
「………」
彼の助け舟に、私は小さく頷いて応えた。
「だったらしなければいいのに」
「無理よ…」
理解できない、といった調子で彼は捩っていた上半身を戻す彼に、私は低く呟いた。
「仕事しなきゃ、痛くされるし…痛いのは嫌だし…」
小さく頭を振りながら、私は言葉を紡ぎ続ける。
「私だって好きでやってるんじゃないわよ…でも、こうしなきゃ…生きていけないのよ…」
「にげればいいのに」
「逃げられたらとっくに逃げているわよ!」
気楽な様子の彼の言葉に、私は思わず声を張り上げた。
「私だって何度逃げようと思ったかしれないわ!それに何度本当に逃げようとして、どうなったか…分かる!?痛む足を引きずって逃げてるのに、歩きで追いつかれて痛めつけられる怖さ!?もう二度とあんな思いしたくないわよ!」
じわりと目元に熱い物が浮かび、頬を伝って流れおちていく。
「仕事はやだけど、痛いのはもっと嫌なのよ…!もう、もういやだ…寒いのも、痛いのも、仕事も…!」
そこまでどうにか言葉を絞り出してから、私はへなへなと石畳の上に座り込み、顔を覆った。
「帰りたい…里に、帰りたい…ぃ…!」
「……」
私の嗚咽が水路と並ぶ通りに響いた。
「…ことりさん」
しばしの間をおいてから、顔を覆う私の上から声が降り注いだ。
「ちいさな ちいさな ことりさん はねのおれた ことりさん」
歌うように、妙な節回しを付けた言葉を、彼は紡ぐ。
「あなたがいるのは かごのなか?からからならば でていける」
目の前に、茶色く変色したぼろぼろの布が巻きつけられた手が差し出される。
「つばさがおれて とべなくても そとにでていくことはできる」
いくらか柔らかい、優しげな声音に、私は何の嫌悪感もなくその手を取った。
彼の手に力が加わり、立ち上がらされる。
「ちいさな ちいさな ことりさん」
彼が羽織った何枚もの外套の内に手を差し入れ、何かを握った。
「つばさのおれた ことりさん」
外套の内側から腕を引き抜くと、彼の手には茶色い染みのついた木の棒が握られていた。
長さは彼の指先から肘までだろうが、その先端は外套の内にあるため見えない。
「あなたには くちばしが ついている」
木の棒を差し出すようにしながら、彼は続けた。
「からをわるのは あなたじしん」
私は、目の前に突き出された汚れた棒に、いつのまにか手を伸ばしていた。
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『ひなどり ひなどり 殻の中 外へ出ようと 殻を突く』
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安宿に戻るころには、もう真夜中になっていた。
入り口のドアを、音をできるだけ抑えながらゆっくりと開く。
そして客もおらず、店主も奥へ引っ込んだ酒場を、ゆっくりゆっくり階段を目指して横切った。
視界の端に、布をかぶせられた籠が映る。めくって中を見たいところだが、今は我慢だ。
やがて酒場を通り抜け、階段にたどり着く。
段の前で一度足を止め、手すりを左手でしっかり握ってから、一段一段上がり始めた。
まともな足を段に乗せ、手すりを握る左手に力を籠め、折られた足を段に引き上げる。
体重移動の瞬間、団の板がみしりと音を立てるが、気にならないほど小さなものだ。
構うことなく手すりの上で左手を滑らせ、足を運ぶ。音を立てぬように、板を軋ませぬように注意を払いながら、二階へあがっていく。
そして、階段の最後の段をあがると、私は一息ついてからまっすぐ進み、部屋のドアをそっと開いて中に入る。
「んがぁ…っごぉ…」
私を迎えたのはお帰りの言葉でも、遅いという怒号でもなく、いびきだった。
部屋の隅に置かれたベッドの上に、男が寝転がっていた。
酒瓶を抱え、大口を開き、頬に涎を垂らしながらいびきをかいている。
酒瓶の中身の残りがいくらかこぼれ、シーツに染みを作っていた。
部屋の中央に置かれたテーブルに目を向ければ、酒瓶がいくつかと、食い散らかした料理の乗った皿が置いてある。
酒瓶はすべて口が開いており、倒れ、転がり、中身をこぼしていた。
「……」
私は小さく嘆息すると、テーブルの側で横倒しになっていた椅子に歩み寄った。
背もたれを左手でつかみ、折られた足に体重がかからぬよう注意しながら引き起こして、、扉の側まで運ぶ。
そしてドアノブに背もたれが食い込むように置くと、私は小さく扉を揺すった。
椅子はドアノブにしっかり食い込んでおり、少々力を加えたぐらいでは扉は開きそうになかった。
これで、もう誰も入ってこれない。いつものように。
扉から左手を離し、身体ごとベッドの方に向き直る。
視線の先にいるのは、ベッドの上でいびきをかく男。
無事な足を一歩進める。
酒瓶を抱え、幸せそうに涎を垂らす男。
折られた足を引きずるように一歩進める。
あの男が食い散らかした食べ物も、転がる酒瓶も、私が稼いだ金で買ったものだ。
足を一歩進める。
この部屋の代金も、男が着ている服も、私の稼いだ金で賄っている。
足を一歩進める。
この部屋のすべてが私のものだ。
足を一歩進める。
だが、一つだけ私のものではないものがあった。
足を一歩進める。
ベッドの上に横たわり、大口を開けて眠りこける男。
足を一歩進める。
私の稼いだ金で暮らし、私の稼いだ金で生きているというのに、私を縛る唯一の異物。
足を一歩進める。
卵の黄身も白身も雛鳥のものだが、殻は雛鳥のものではない。
足を一歩進める。
だというのに、殻は雛鳥を縛っている。
足を一歩進める。
男は殻だ。私にとっての、卵の殻。
足を一歩進める。
私を縛る、卵の殻。
足を一歩進める。
彼は言った。私の翼は折れていると。
足を一歩進める。
確かにそうだ。逃げようにも、この足では無理だ。
足を一歩進める。
だけど彼は言った。嘴があると。
足を一歩進め、止める。
目の前にベッドがあり、私は大口を開けて眠る男を見下ろしていた。
「んががぁ…ふごぉ…」
卵のように膨れた腹を上下させながら、彼はいびきをかいている。
私は膝を屈めて、ベッドの脇に脱ぎ散らかされた靴下を一足拾った。
そしてそれを片手で軽く丸め、いびきを迸らせる口の中に、ぐいと詰め込んだ。
「んが……ふごっ…!?」
口がふさがっていびきが止まり、しばしの間をおいて彼が目を開いた。
「んご…ふごんが…!?」
眠気に曇った目をぱちぱちと開閉させながら、何事かを呻く。
『何をする!?』か『なんだ!?』とでも言っているのだろうか。まあ、どうでもいい。
今から殻を割るのだから。
私は目を白黒させる彼に向けて、ずっと握っていた右手を振り上げた。
右手に収まっているのは、彼から渡された汚れた棒。そしてその先端にあるのは、掌ぐらいの広さの金属の刃。
刃がこぼれ、欠けた、なまくらの手斧だった。
私は、手斧を男の首のあたりめがけて振り下ろした。
ご
づ
「…っ!!」
鈍い手ごたえとともに彼の首の付け根辺りに刃が食い込み、男が靴下の奥からくぐもった声を上げる。
丸まった刃では彼の首を切り落とすことはできず、刃は浅く皮膚を破って彼の鎖骨を折る程度にとどまった。
だが問題はない。食い込む手斧を引き抜き、再び振り上げる。
「…っ!んが…!」
何事かを呻きながら、男がベッドから身を起こし、こちらに向かって手を伸ばす。
何度も私を押さえつけ、腕をひねりあげ、痛めつけてきた腕。今度も私を抑え込もうとする掌を払うように、手斧を振り下ろす。
指に手斧の刃が食い込み、たやすく細い骨をへし折る。
指先がそれぞれあらぬ方向を向き、男が仰け反る。
突き出した手を胸元に引き寄せ、もう一方の手でかばうように指を覆う彼に、今度は横から手斧を叩き付ける。
二の腕に丸まった刃がぶつかり、肉を叩き切り、骨にひびを入れる。
男はくぐもった叫びをあげながら、ベッドの上を退き、壁に背中を押し付けた。
だが短い脚はバタバタとベッドのシーツを擦り、なおも退こうとしている。
まるでそうやっていれば、壁を通り抜けて私から逃れられる、とでもいうかのように。
私は握った手斧を恐怖に彩られた彼の顔めがけて叩き付けた。
だが、振り下ろされる手斧に腕をかざして、彼は顔を守った。
腕に刃がぶつかり、肉を削ぎ取りながら軌道が逸れる。
腕をえぐられる感触に、男は顔をゆがめた。直後、手斧が彼の腕から離れ、振り下ろした勢いそのままにベッドのシーツへ食い込んだ。
彼の腕からこそぎ取った肉が刃ごと叩き付けられ、傷口からあふれ出した血がシーツに赤い染みを着ける。
だが、刃先にへばりついた肉は一口で飲み込めるほどで、全然足りなかった。
私は、手斧をベッドから引き抜くと、左手を柄に添えて両手で握りなおす。
そして、うめき声と血をまき散らしながら、口に詰められた靴下を取ろうと折れた指を押し付ける彼に向けて、高々と振り上げた。
腕を上げ、背筋も逸らした私の姿を男の目が捉えるなり、彼は口元に運んでいた両手を離し、両腕を頭の上で交差させて顔を逸らした。
守りの姿勢だが、私は構わず手斧を振り下ろす。
両腕の力に、逸らした背筋がもたらした距離が加わり、手斧の刃は先ほどとは比べ物にならない勢いに達した。
交差した彼の両腕に刃先が食い込み、皮を破り肉を挟み込みながら骨に達する。
だが、手斧の勢いは止まらず、そのまま交差した腕を押しこみながら、腕ごと彼の頭にぶつかった。
衝撃の一瞬後、みしりと硬い物に刃先が食い込むような感触が、手斧の柄から掌に伝わる。骨にひびが入ったのだ。
「んぅ〜〜〜〜〜っ!」
口に詰め込まれた靴下越しでもよく聞こえるほど大きなうめき声をあげ、彼が両足をばたつかせた。
同時に、彼の両腕に力が籠り、腕を広げようとする気配が伝わる。私は手斧を持って行かれないように、急いで刃を彼の腕から引き抜いた。
血が飛び散り、彼がくぐもった悲鳴を上げ、傷口を押さえようとするかのように両腕を組んだ。
しかし、私は痛がる彼の様子に構うことなく、手斧を振り上げて、振り下ろした。
頭を狙った一撃が、思い切り仰け反って振り下ろしたせいで、少しだけ狙いが逸れて右肩にあたる。
くぐもった悲鳴。
今度は背筋をあまり反らさず、肩を縮めて両手を広げて顔を守ろうとする、彼の掌を狙いながら構えた。
振り上げ、振り下ろす。
しかし今度は勢いが足りなかったのか、掌に食い込みつつも骨に達することはなく、手の甲で強かに彼の顔を打っただけだった。
もう少し反らしてもいいのか。
うめき声に、すすり泣きのような音が混ざり始めた物を聞きながら、今度は顔だけをベッドにうずくまって背中を見せる彼の方に向けながら、背筋を逸らした。
振り上げられた手斧が、まっすぐに振り下ろされる。
汗と脂で薄汚れたシャツに、丸まった刃が叩き付けられ、肉を裂き骨にひびを入れる感覚が伝わる。
これでいい、狙いも勢いも、申し分ない。
小さく仰け反りながら、あばら骨にひびを入れられた痛みに苦鳴を漏らす彼を見つつ、私は内心満足した。
そして、一度手斧を握る両手の指を緩め、位置を調整すると、私は手斧を振りかぶった。
狙いを定め、振り下ろす。
肩に歯が突き刺さり、呻きが上がる。
刃を引き抜き、振りかぶって、叩き付ける。
腰の、骨に包まれていない部分に驚くほど深々と刃が刺さり、血が流れ出す。
くぐもった悲鳴を聞きながら振り上げ、同じ場所狙いでまた振り下ろす。
だが、彼が転がったせいで狙いが外れ、むき出しの膨れた腹に刃が当たった。
ぐにょり、とした気味の悪い感触が伝わる。
手を野を振り上げてみれば、歯の刺さっていた場所から黄色と白と桃色が一瞬だけ覗き、直後溢れだした赤に隠された。
靴下の奥から迸る悲鳴は、弱々しいものの甲高く、耳障りだった。
喉を砕けば収まるだろうか?
脇腹を押さえて流血を抑えようとしつつも、激痛にのた打ち回る彼の喉に狙いをつけて、手斧を叩きこむ。
だが、彼が視界の端に振り下ろされる手斧をとらえるなり、傷を押さえる片方の手を振りかざし、手斧の刃を受けた。
丸まった鈍ら刃が肉に食い込み、骨を押しやりつつも肉をそぎ落としながら軌道が逸れる。そしてがら空きの彼の胸に、手斧が突き立った。
「…!!!」
声にならない悲鳴が上がった。
うるさいが、手足が邪魔だ。
喉から手足に狙いを移し、手斧を振り上げ振り下ろす。
痛みをこらえながら懸命に身を守ろうとする腕に、易々と鈍刃が食い込んでいく。
振り上げ、振り下ろす。肉が削れる。
振り上げ、振り下ろす。血が溢れ出る。
振り上げ、振り下ろす。肉が断ち切られる。
振り上げ、振り下ろす。骨に当たる。
振り上げ、振り下ろす。骨を叩き折る。
振り上げ、振り下ろす。やっと一本折れたが、微妙に手間がかかる。
意外と血も声も出ないが、この調子では疲れるだろう。そうだ、関節の所で切ってやろう。
振り上げ、振り下ろす。皮と肉でようやく繋がっている右手を押さえ、呻く彼の足を狙う。
振り上げ、振り下ろす。足だけあって肉が固く、腕の半分も食い込まない。
振り上げ、振り下ろす。ようやく骨と思しき硬い物に刃先が当たる。
振り上げ、振り下ろす。驚くほど深く何かに刺さる。
振り上げ、振り下ろす。硬い物を断ち切り、肉にたどり着く。
振り上げ、振り下ろす。肉が断ち切られ、足が皮と肉だけでつながっている。
振り上げ、振り下ろす。さあ次だ。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。足が折れる。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。腕が折れる。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。声が聞こえない。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ、振り下ろす。
振り上げ………
「……」
手斧を振り上げたまま、私は動きを止めた。
もう振り下ろす必要がなかったからだ。
ベッドの上の彼は、手足をかざして体を捩るどころか、身じろぎすらしていなかった。
ベッドの上の彼は、声にならぬ悲鳴どころか、微かなうめき声すらあげていなかった。
もう十分だ。殻は割れたのだ。
私は握りしめていた指を緩め、手斧を離した。
ごど、と重い音を立てて手斧が床板にぶつかり、倒れる。
両腕から両肩にかけて解放感が訪れる。手斧一丁の重みからは、想像もつかない解放感だ。
安宿の小さな部屋の中だというのに、青空の下にいるような気がする。
「うふふ…ふふふふ…うふふふふふふふ…」
大声で笑いながら踊りたいところを、私は低く笑った。
ああ、いい気分だ。
天井を仰ぎ両手を掲げながら、私はゆっくりと、ゆっくりとその場で回り始めた。
草原で踊っているかのように。
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椅子を除け、そっとドアを開き、廊下を進む。
もうすぐ朝だが、眠っている人は眠っているのだ。
安らかな眠りを妨げないよう、足を忍ばせながら階段を下り、数時間前に通った酒場に下りた。
そのまま、安宿の出入り口に向かおうとしたが、ふと私の視界の端に白い物が映った。
白い布を掛けられた、鳥籠だ。
そっと歩み寄り、布をめくる。
すると気配を察したのか、体を丸めていた小鳥が、驚いたような真ん丸な目でこちらを見ていた。
小鳥は殻からは出られるが、籠から出られない。ならば私が出してやろう。
私はにっこりとほほ笑みかけてやると、籠の蓋を開き、手を差し入れた。
チチチッ
小鳥が甲高い声を上げて羽ばたき、手から逃れようとした。
だが狭い籠の中、逃げる場所などなく、容易に小鳥は私の手の中に収まった。
「ごめんなさいね」
手の中でもがく小鳥を押さえながらそう囁き、そっと籠から手を抜いた。
そして、酒場を進みドアに手をかけ、押し開く。
冷気が屋内に流れ込み、頬を撫でた。
「っ…」
寒さに一瞬身が強張るが、我慢して足を進める。
後ろ手にドアを閉めたところで、私は完全に外に出た。
暗い。
まだ日が昇っていないどころか、日の放つ光すら覗いていない。
だが、辺りの暗さとは裏腹に、私はどこまでも明るい顔をしているのだろう。
「さ、どこへでも行きなさい」
そう手の中の小鳥に囁くと、私は指を緩めた。
掌に冷気が触れ、微かな重みが羽ばたきの音とともに消え去った。
「……」
未だ暗い空に向かって飛んでいく小鳥を見送ってから、私は視線を下ろした。
さあ、私も進まなければ。
石畳に覆われた道に足をおろし、進んでいく。
仕事のために立っていた路地を脇目に、市場まで何度も通った道を辿っていく。
仕事に行くにせよ、市場で買い物に行くにせよ、こんなに晴れやかな気分でここを通るのは初めてだ。足の痛みを無視して、スキップをしたくなってくる。
いや、スキップはいつでもできるようになったのだ。
ダーツェニカを出て、本当に晴れ渡った青空の下でスキップできるのだ。
草原にも、海辺にも、故郷の里へでも…行きたいところへ行けるようになったのだ。
「ふふ…」
自然と笑みがこぼれてくる。
さあ、どこに行こうか。
そんなことを考えながら、裏通りを進む私の足が止まった。
進む道の先に、人影があったからだ。
頬を撫でる冷気に、独特の臭気が加わる。人影の放つ臭いに、私は覚えがあった。
染みのついた汚れた外套を重ね着し、窓のついた球形の兜を被ったその姿。
彼だ。私に嘴を授けてくれた、彼。
「殻を割ってきました…ありがとうございました」
私はそう言って、頭を下げた。
臭いは不快だが、礼は言わなければならない。
だが、私の言葉に彼は何も返さなかった。
「…?」
不審を覚え、私が顔を上げようとした瞬間、視界の端に何か黒い物が降り立った。
「……ちいさな ちいさな ことりさん」
目が自然と黒い物の方へ向かうと同時に、彼が口を開く。
「つばさの おれた ことりさん」
降り立ったのは、猫だった。毛皮の汚れた、黒い猫。
「とべもしないのに そとにでて なにをしようとしているの」
猫の口元に、白い物が咥えられていることに気が付いた。
「ちいさな ちいさな ことりさん」
白い物は、猫の牙に貫かれ、動く気配を見せなかった。
「あなたを まもる からはない」
白い小鳥を咥えた猫が駆け出し、視界から消えていった。
「ねえ」
降り注ぐ声に顔を上げてみれば、汚れた外套を重ね着した彼が、手が届きそうなほど近くに立っていた。
「あぁーそぉーぼぉー」
彼はそう言いながら、兜の前面の薄汚れた窓に手を掛けた。
キィ、という軋みとともに、私の目の前で窓が開いていった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『ひなどり ひなどり 殻の外 ひなどり守る 殻はない』
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ダーツェニカの衛兵制服に身を包んだ男が、早朝の裏通りを進んでいた。
安宿の一室で発生した殺しの捜査のためだ。
ただの殺しならばダーツェニカではたまに発生するが、今回はひどい物らしい。
詰所まで通報に来た安宿の従業員の話によれば、何人死んでいるのかよくわからないほどだそうだ。
「クソ…なんで朝っぱらから…」
爽やかな朝をぶち壊した従業員の通報に、胸をむかつかせながら彼は道を急いでいた。
すると不意に、彼の鼻を異臭が突いた。何かが腐ったような、鋭い臭いだ。
脳裏に浮かんでいた殺しの通報と相まって、腐臭は彼の脳裏に腐り果てた死体を連想させた。
想像、いや妄想に近い脳裏の死体に、彼の歩みが遅くなり、ついには止まった。
頬を撫でる腐臭を追って、風上に目を向けてみれば、そこには袋小路に続く路地があった。
そして袋小路に蹲る一つの影が、彼の目に入った。
「はふ…はふ…ぶじゅ…」
染みのついた外套に、襟の向こうから覗く球形の兜。
ダーツェニカの裏路地で時折見かける、名物浮浪者だった。
地面に屈みこみ、残飯か何かを貪っているようだった。
「ちっ…」
石畳の上に散らばる何かをかき集めては兜の穴に押し込む浮浪者から目を外すと、彼は再び足を進め始めた。
ダーツェニカ衛兵として、職務を全うするために。
10/12/28 16:28更新 / 十二屋月蝕