連載小説
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(130)ワイト
 曇天の下、鬱蒼と生い茂る森の外れに、周囲を塀で囲まれた屋敷があった。塀にはツタがへばりつき、壁面が見えぬほど葉を茂らせている。
 塀の内側に目を向ければ、芝生と呼ぶには延び放題になった草が庭を覆い尽くしていた。下手すれば子供の背丈ほどはあろうかという草むらの中に、門扉から続く細い道があり、その先に屋敷がうずくまっていた。
 古い屋敷だった。雨粒に含まれる微かな埃が壁に染み入っては流されを繰り返し、濃淡が複雑な模様を描いている。屋根に目を向けてみれば、ところどころ瓦がぬけ落ち、いったい何に根を張ったのか草が芽吹いていた。
 あばらや、廃屋、ぼろ屋敷。表現は様々だったが、詰まるところそのような屋敷だった。
 もはや住む者のいない、あとは朽ちるに任せるだけの建物。だが、敷地にはいくつもの人の気配があった。
 庭の片隅、草が払われた一角に、十に満たないほどの人が立っていた。皆、黒い衣服に袖を通しており、地面に据え置かれたいくつかの石の内、真新しい一つに向かっていた。
 そして人々の中にいた壮年の男が、真新しい石と一度掘り起こされて埋め戻された土を前に、手にした小さな本を読んでいた。
「主神よ、どうかあなたの下へと旅だった魂をお見守りください。あなたを目指しつつも迷えるときはお導きください。苦難に面したときは手をさしのべてください。あなたの下へたどり着くよう…」
「生まれつき病気がちだったのに、よくここまで持ったわね」
 壮年の男が朗々と唱える言葉の陰で、黒衣の女の一人が傍らに立つ別の女に向け、ひそひそとささやいた。
「旦那さんは?」
「相続した財産で、王都の方に屋敷を買ったそうよ」
「奥さんの葬式なのに…」
「まあ、結婚して三月も経ってないから、そういうことなのよ」
「でもよくあからさまな男と結婚したわね」
「病毒が頭に回ってたんじゃないの?」
 低く小さく、しかし確かに笑い声が辺りに響いた。壮年の男が紡ぐ言葉に比べれば圧倒的に小さな囁きに過ぎなかったが、その場にいるほぼ全員の耳に届いた。そして、並ぶ人々の中で一際若い、いや幼いと言うべき少年が、とりあえず色が黒いだけの粗末な衣服の袖口を握りしめていた。生地と指が擦れ、本人にも届かないような小さな音を立てる。しかし、彼が袖口を握りしめる力は、確かに彼の手のひらに爪痕という証を残していた。
「主神よ、この者を今日の日までお見守りくださったことを感謝いたします。そして、あなたの下へと無事至ることを願います」
 壮年の男は本を閉じると、目を伏せて聖印を結び、祈りを締めくくった。遅れて並ぶ人々も、聖印を結び、祈りを捧げた。
「……さあ、皆様お疲れさまでした。故人のお見送り、ありがとうございました」
 壮年の男はくるりと振り返ると、参列者に向けて礼の言葉を述べた。
「秋も深まり、肌寒くなって参りました。故人に祈りを捧げたり、故人との思い出を語り合ったりするのも結構ですが、くれぐれも風邪を引かれないよう気をつけてください。それでは、解散といたします」
 壮年の男の言葉に、黒衣の人々は口々に何かをしゃべりながら、早々に墓の前を離れていった。草を切り開いて作ったわずかな道を抜け、敷地の外に止めてある馬車へと向かうと、皆乗り込んでいった。
 そして後には壮年の男と、少年だけが残った。
「…大丈夫かい?」
 壮年の男は、未だ墓石を、まだ柔らかな土を見つめる少年に声をかけた。
「……」
 少年は無言で頷いて見せた。
「どこか、行く宛はあるのかな?」
 壮年の男は、この屋敷で住み込みで働いていた少年のことが、少し気がかりだった。身寄りがあるのかないのか。次の勤め先が決まっているのか、いないのか。身内もおらず、奉公先も決まっていないのなら、しばらく自分のところで預かってやろう。壮年の男はそう考えていた。
「…大丈夫です」
 少年は、かすれた声で言葉を紡いだ。
「少し、お屋敷を片づけてから、旦那様のところに行きます」
「そうか…」
 壮年の男は少し複雑だった。少年に行く宛があるというのはよかった。だが、その行き先というのがあの男のところというのが、少し気がかりだった。三ヶ月前に突然現れ、土の下で眠る彼女と結婚し、とうとう妻の葬式にさえ姿を現さなかった男。そんな男の下で、少年がまともに育ててもらえるだろうか。
「神父様、今日はありがとうございました」
 少年は壮年の男に向き直ると、頭を下げた。
「そろそろ暗くなります。神父様も風邪を引かないよう、気をつけてかえってください」
「ああ、ありがとう」
 少年の気遣いに礼を返しながらも、彼は少年の言葉にこの場を離れてほしいという意図を感じた。無理もない、家族のようであった彼女を失ってしまったのだ。
 ここは一人にしてやった方がいいだろう。
「君も、あまり寒くないように、な」
 壮年の男はそう声をかけてから、踵を返し、その場を離れていった。門をくぐるまでの間、彼は何度か少年を振り返ったが、少年はじっと軟らかな土を見下ろしたままだった。やがて男は屋敷の敷地を出ていった。


ーーーーーーーー


 薄暗い廊下を、男が一人進んでいた。髪に白いものが混ざり、皮膚のあちこちに皺を刻んだ男だ。だが、皮膚や頭髪の衰えとは裏腹に、彼の足取りはしっかりとしており、実のところどれほどの年齢なのかはっきりしなかった。ただ、決して若くはないだろうというのは確かだった。
 男は窓から差し込む、細く青白い月の光を頼りに廊下を進み、とある一室の前で足を止めた。拳を握り固め、軽く木板を打つ。低く、しかし確かに堅い音が響いた。
『はぁい…』
「失礼します、お嬢様」
 男は低い声音でそう紡ぐと、取っ手を握って扉を押し開いた。彼が足を踏み入れたのは、絨毯の敷かれた部屋だった。並ぶ家具も部屋の奥におかれたベッドも、いずれも古いものであったが、しっかりとした造りから手の込んだ代物であることが見て取れた。そして、ベッドの上に向けて、彼は頭を下げた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
 男が頭を上げると、ベッドの上で身を起こしていた女が微笑んだ。線の細い、まるでガラス細工のように儚い印象の女だ。緩く波打つ長い髪は、その淡い金色のおかげか妙に細く見える。そして、彼女の薄すぎる肌の色も、まるで病に冒されているかのような印象を与えている。
「今日は調子がよろしいようですね」
「もう、いつも万全よ」
 男の言葉に、女はそう応えた。
「昔の私とは違うんだから」
「失礼しました」
 男は軽く頭を下げると、部屋の中に音もなく足を踏み入れ、ベッドの傍らのいすにかけられた上着を手に取った。
「すぐに食事も湯浴みもできますが、いかがなさいますか?」
「うーん、湯浴みの気分ね」
「かしこまりました」
 女がベッドから立ち上がり、男がその細い肩に上着を羽織らせてやりながら、二人はそう言葉を交わした。
「それで、今日は何か用事があったかしら?」
 しずしずと足を進め、廊下に出ながら、ふと女が思いだしたように男に問いかける。
「本日は特になにも」
「そう。だったら、次の宴の準備を始めるにはちょうどいいわね」
 宴。その一言に、男は前回の宴からの日数を胸の内で数えた。
「もうそのような時期でございますか?」
「違うわよ。いつもの親睦会じゃないわ」
 男の、幾ばくかの驚きを含んだ問いかけに、彼女は小さく笑みをこぼした。
「しかし、ここひと月ほどは記念日の類はありませんし…いえ、もしかしたら私が忘れているだけかもしれませんが」
「大丈夫、誕生日会でも、結婚記念日でもないわ」
 男が耄碌しているわけではない、と遠回しに否定しながら、彼女は続ける。
「新しい子を迎えるのよ」
「新しい…ああ、なるほど」
 男は納得した。彼の主人は、親睦会に新たな仲間を加えようとしているのだ。類希な素質を備えた、選ばれた者だけが参加することを許される夜会が、また少しだけ大きくなるのだ。
「夢でね、新しい子が『生まれる』のを感じたの」
 女は足を進めながら、男に向けて説明した。
「招待状を送って、私たちの仲間に加えてあげないと」
 浴室の前で女が足を止め、男が扉を開きながら言葉を紡いだ。
「左様でございますな」
 夜の世界に足を踏み入れた者の戸惑いは、男もよく知っている。そんな不安を拭う一助になるのが、夜会の招待状だ。
「湯浴みしながら、他の招待客を考えるわ」
 女は浴室に足を踏み入れると、上着を肩からおろし、寝間着の袖から腕を抜いた。そして妙に青白い裸身をさらしながら、床におかれた籠に衣服を投げ入れた。
「では、食後に招待状を書けるよう、準備をしておきます」
 女の裸体に慌てることも、不必要に見つめることもなく、男は彼女の脱ぎ捨てた衣服を籠ごと手に取った。
「それでは、ごゆっくり」
「ええ」
 男は小さく一礼してから、浴室を出ていった。



ーーーーーーー


 屋敷の片隅、代々の当主やその妻、あるいは幼くして命を落とした子供たちの墓がうずくまる一角に、真新しい墓石があった。墓石に彫り込まれた文字は角が鋭く、石自体もかすかな光沢を帯びている。それもそのはず、その石が墓として使われるようになったのは、昨日からのことだからだ。
 墓石の前の土はまだ柔らかさを残しており、かすかに盛り上がってさえいた。だが、昨日の葬式から一夜明けたにも関わらず、土の表面は未だに湿り気を帯びていた。昨日、雨でも降ったのだろうか?
 その答えは、墓の前から続く、庭に茂る草をかき分けた後にあった。伸びる草のあちこちに、土が付いていた。折れ曲がった草の茎に泥がへばりつき、草のないところでもかすかな土の粒が点々と落ちている。土をまき散らしながら移動した痕跡は、屋敷の庭をしばらく進み、裏口へと続いていた。そして、裏口の傍らに、刃先を土にまみれさせ、柄に赤い染みを付けたスコップが一つ立てかけられていた。
 屋敷の中に目を向けると、勝手口から廊下に土で汚れた足跡が残されており、しばし廊下を進んでからとある一室に入っていた。
 上等そうな木材に、かすかな錆を浮かばせながらも優美な曲線を描くドアノブを備えた扉の奥には、部屋があった。ベッドが一台に、衣装を納めたチェストや鏡台。年代を感じさせる家具が揃えられている。そして、部屋の奥におかれたベッドの上と、その傍らに人影があった。
 ベッドの傍らに膝を突いているのは、少年だった。ただ黒いだけの衣装に袖を通した様は、昨日の葬式のものそのままだ。ただ、唯一異なる点があるとすれば、その衣装のあちこちに泥汚れがついており、昨日はなかった解れや破れがあるところだろうか。
 少年は、衣装の汚れはおろか、何かでひっかいたような頬の真新しい傷にさえ意識を向ける様子もなく、ただじっとベッドの上を見つめていた。
 ベッドの上には女が横たわっていた。白い衣装に身を包んだ、若い女だ。ただ、そのスカートや袖には、少年と同様に土がこびりついていた。いくらか少年が手で払ったり、拭ったりしたのだろうか、生地に汚れが染み着いているものもある。しかし女は衣装の汚れに頓着する様子もなく、ベッドの上に横たわったままだった。指先はおろか、寝息で胸を上下させることもなく。
 よくよくみれば、女には妙なところがいくらでもあった。頬や唇はかすかな赤みを帯びているが、腹と胸の間辺りで組まれた彼女の指は、妙に青ざめている。そして薄く開く唇も、乾燥しかけているかのように皺が浅く刻まれていた。
 確かに、彼女は乾いている。昨日、棺の中から参列者たちと最後の別れをした時に比べれば、乾いている。
「………」
 少年は、じっと女を見つめていた。自身の手で墓を暴き、棺の蓋を破り、穴の底からここまで運んできた彼女の姿を。そうしていれば、一昨日までのようにベッドに身を起こし、言葉を紡ぎ、微笑んでくれるかのように、少年はじっと見つめていた。
 だが、いくら見つめども、女がぴくりとも動く気配はなかった。
「……掃除をして参ります」
 ふと、少年は言葉を紡いだ。この部屋まで点々と残してきた土くれを思い出すほどに、心に余裕ができたためだ。
「すぐに戻りますので、しばしお休みください、お嬢様」
 彼はベッドのそばから立ち上がると、疲労の残る手足をぎこちなく動かしながら、寝室を出ていった。


ーーーーーー


女が湯浴みをしている間に、男は物置を探っていた。招待状をしたためられるよう、必要なものを揃えるためだ。
 すでにペンとインク壷は予備も含めて揃えてある。あとは、便せんと封筒、蝋に印だけだ。
「ここだったか」
 前回の宴で出した招待状で使わなかった便せんの残りと、新しい便せんが物置の棚から出てきた。薄暗いためよく見えないが、便せんの色も質も同じもののようだ。そして、封筒もほどなくして見つかった。
 あとは封蝋のための蝋と印だ。前回の宴の後、大規模な整理は行っていないから、この近くにあるはずだ。男は小物入れの蓋を一つ一つ開きながら、中身を確かめていった。そして小箱の一つに、中指ほどの長さと太さを備えた金属製の棒が転がっているのを見つけた。溶かした蝋に家紋を刻むための印だ。
「ここか」
 だが、小物入れには印のほかには何も入っていなかった。確か前回使った後、新品の蝋とともにしまっておいた筈なのだが。
 男の疑問は、印を手に取った瞬間に氷解した。印に刻まれていたのが、主人の家紋ではなかったからだ。正確に言えば主人が今の姿、ワイトになるよりも以前に使用していた家紋だ。
 交差する槍と盾から成る家紋。その細かい意匠を男はしばし見つめると、そっと小箱の中に納め、棚の奥へと押しやった。捨ててしまってもいいものだが、なかなか捨てる機会がないのだ。
 そう、今は現在使用している家紋を探さねば。
 男はそう自分に言い聞かせると、再び並ぶ小物入れを一つ一つ確かめていった。


ーーーーー


 廊下に点々と落ちる土くれや、裏口へと続く足跡を片づけ、泥と土にまみれたスコップを洗い流したところで、少年はようやく自分の身だしなみを整えることができた。
 喪服代わりのただ黒いだけの衣服を脱いでみると、少年は改めて自分がどれだけ汚れた格好をしていたかを自覚した。あちこちに土汚れがこびりついており、何かにひっかけたのか解れがいくつもあった。汚れの方は一度洗えば目立たなくなるだろうが、解れを直すのは手が掛かりそうだ。
 少年はため息をつきながら、洗濯予定の衣服を入れる籠へと手にした衣服を放り込もうとし、しばし考えてから籠の傍らにそっとおいた。土汚れがほかの衣服に移るかもしれないからだ。
 少年はひとまず着替えを手に取ると、使用人用の浴場へ向かった。浴場とは言っても、水瓶が一つと手桶がいくつか、そして排水路が備えられただけの質素なものだ。曇った小さな鏡が一枚壁に取り付けられているが、髭も生えていない少年にはまだ用のないものだった。
 彼は下着を脱ぐと浴場に入り、水瓶から手桶で水をくんだ。頭上で手桶を傾けると、冷たい水が彼の肌の上を流れ落ち、少年は小さく体をふるわせた。そして寒さをこらえながらもう一度手桶に水をくむと、薄手の固いタオルを水に漬け、一度絞ってから体を擦り始めた。肌にへばりついていた一日分の垢と、一晩の重労働でかいた汗が少年から離れていく。そして手桶にタオルを浸し、軽くすすぐ。
 体をタオルで擦り、軽くすすぐ。これを幾度か繰り返す内に、少年の体は徐々に清められていった。そして、垢の浮かぶ手桶の水を排水路に流し、最後にもう一度水瓶の水を浴びてから、少年は浴室を出た。
 乾いたタオルで体を擦り、水気をふき取っていく。そして、古びてはいるが清潔で乾いた下着と衣服に袖を通した。
 少年は壁に据え付けられた姿見を眺め、自身の身だしなみを確認した。シャツはズボンに入ってるし、どこにも妙な皺などない。主人の前に出ても、恥ずかしくない、普段通りの格好だ。
 そこでふと少年は、この普段通りの格好をするのが久しぶりのように感じた。実際のところ、昨日の葬式の前日、つまりは一昨日までは普段着だったのだ。だが、その間に起こったいろいろなことが、ついこの間までの日常と今現在を異常に隔てられたもののように感じさせていた。
「……あ」
 少年はぼんやりとものを考えながら鏡を眺める内、あることに気がついた。何かで擦ったのか、頬に傷ができていたのだ。すでに出血は止まっており、乾いた血液がかさぶたとなってへばりついている。痛みがなかったところをみると、そう深い傷ではなかったようだ。
「…あのとき…かな…」
 主人である女を、土の下から掘り起こしたときのものだろう。少年は傷の近くを軽く撫でながら、そう結論づけた。
 少年はやがて鏡から視線を外すと、主人の寝室へと向かった。主人の様子を見るためだ。自身の身だしなみを整えた今、主人の世話を本格的にしなければならない。
 廊下を進み、寝室の扉の前で足を止めると、彼は軽くノックした。
「失礼します」
 返事がないまま、彼は扉を押し開いた。部屋の中、ベッドの上には変わらぬ様子で女が一人横たわっていた。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
 ベッドのそばまで歩み寄った少年が、そう問いかける。しかしもちろん、ベッドの上の女は彼の言葉に応じなかった。薄く唇を開き、微動だにしないまま、ただ横たわっている。
 少年は無言のまま、主人の姿をしっかりと見た。ここまでつれてきたときはきれいに見えていたが、こうしてみるとあちこちが汚れていることに気がついた。彼女を包む白い衣装はもちろん、手足や髪の毛に泥が絡んでいる。主を汚れたまま寝かせてしまっていたことを、少年は遅まきながら悔やんだ。
「すみません、お嬢様…すぐに入浴の準備をします」
 少年は横たわる女にそう言いながら、頭を下げた。着替えとシーツの替えはあっただろうか。彼は主を清めるのに必要なものを脳裏で並べながら、寝室を飛び出していった。


ーーーー


 便せんに封筒、蝋と印と灯り。そして名簿。
 招待状をしたためるのに必要な道具を一通り文机に揃えてから、男は浴室へ向かった。扉をくぐると、かすかな湿り気が彼の肌を撫で、耳朶を心地よい音色が打った。
 鼻歌だ。とくにこれといった名はなく、単に気の向くままに旋律を奏でるだけの鼻歌だ。
「〜♪」
 女は浴槽に身を浸しながら、心地よさそうに鼻歌を奏でていた。
「お嬢様」
 男が女に向かって声をかけた。
「そろそろよろしい頃かと」
「あら、もうそんな時間?」
 水音を立てながら、女が問いかける。
「はい」
「じゃあ、そろそろ上がるわ」
 一際大きな水音が響き、遅れて水滴が水面を打つ音が幾重にも続いた。浴槽の中で立ち上がった女の肌から水滴が滴り落ちているのだ。
 彼女は浴槽の縁をまたぎ、広げられていた布の上に立った。
「失礼します」
 男は乾いた柔らかな布を手に、湯気を立てる女の側に歩み寄った。
「お顔をどうぞ」
「ありがと」
 男の差し出したタオルを受け取ると、女は顔にそれを当てた。
 一方男は、女の背後に回り、背中に残る水滴を別のタオルで拭い始めた。青ざめた肌は、湯の温もりのせいか少しだけ血色がよくなっており、タオル越しでもわかるほど温かかった。男は、彼女の肌に直接触れぬよう、しかし滴が残らぬようにタオルを動かした。
 肉の薄い、細い背筋に沿って肩から背中を拭うと、肋骨がかすかに浮かぶわき腹へと移る。そして顔を拭い終えた女がタオルで髪を包み込むのにあわせ、今度は身体の前面へと移る。華奢な首筋から、片手に収まるほどの乳房とその間、細い腰へとタオルを滑らせる。
 そして男は腰を屈めると、彼女の腰から下へと作業の手を移した。華奢な体つき相応の薄い尻と、両足の付け根とへその下ほどのごく狭い範囲を覆うつつましやかな茂みが、ちょうど男の眼前にある。だが、男は特に何の感動もなく、彼女の太腿の前後と外を拭い、その延長で内腿を軽く擦りと両足の付け根にタオルを当てた。
「はい、終わりました」
 三枚目の乾いたタオルで全身を軽く拭い、拭き残しをなくしてから、男は立ち上がった。
「ありがとう」
 女は礼の言葉を述べると、両腕を軽く背中の方へのばした。男は彼女の仕草に、当然のように部屋着のローブを手に取ると、袖を腕に通して羽織らせた。
「お食事はどちらで召し上がりますか?」
「ダイニングでいただくわ」
 頭に巻き付けていたタオルをとり、ローブの背中へ湿り気の残る頭髪をはらりと垂らしながら、女は応じる。
「あと、名簿も用意してくれるかしら?食事をしながら、だいたいの招待客を決めたいから」
「文机の方においてありますので、後ほど持って参ります」
 男と女は言葉を交わしながら、浴室を出ていった。


ーーー


 井戸から汲んだ水と、ぐつぐつと音を立てるほどに沸騰させた鍋一杯の湯を浴槽に注いで、少年はようやく入浴に適する温度の湯を作り出した。
 浴槽に手を差し入れ、温度を確かめてから、彼は急いで寝室に戻った。
「お嬢様!入浴の準備ができました!」
 ベッドの上の主は少年の言葉に応えなかった。だが、彼はかまうことなくベッドに歩みよると、彼女の身体を抱えようとした。しかし、女の身体は不自然に固く、まるで木彫りの人形のようであった。
 少年は彼女を苦労しながら、半ば担ぐようにして抱えると、寝室を出ていった。廊下を進み、一人で歩くときの数倍の時間をかけながら、ようやく浴室に入る。
「ふぅ…」
 抱えていた主の身体を、そっと浴室に置かれていた背の低い台の上に横たえ、少年は息をついた。
 さあ、早く入れてやらねば、浴槽の湯が冷めてしまう。
 呼吸を整えてから、少年は主の衣服に手をかけた。
「失礼します」
 ボタンをゆるめ、襟を大きく開き、白い装束を脱がせる。彼女の手足はがっちりと固まっていたが、それでも衣装を脱がすだけのことはできた。やがて、白い布の下から血の気のない肌が露わになる。薄い乳房や、あばらの浮かんだわき腹、肘の内側に小さな穴がいくつか残る細い腕。
 ほんの数日前まで、病と闘っていた痕跡の残る裸体が、少年の目の前に晒された。
「……」
 少年は無言で彼女の裸体を見ながら、あることを思い出していた。
 それは、ベッドの上で身を起こす主の姿だった。彼女がまだもう少しだけ元気で、少年がもっと幼かった頃だ。
 この屋敷に引き取られた少年が、先輩のメイドに連れられ、主の部屋へ挨拶に伺った時だった。主はベッドの上で身を起こしていた。そして、メイドの紹介を受け、少年が挨拶すると、彼女はにっこりと微笑んだ。
 何かを言ったような気がするが、少年の耳には届かなかった。カーテンを透かす淡い日の光を浴びる、儚げな彼女の姿に目が釘付けになっていたからだ。
 主はいくつか言葉を紡ぐと、そっと手を伸ばして少年の頭を撫でた。細い指は彼の頭髪を軽くくすぐり、そのまま離れていった。触れるだけで折れてしまいそうな、まるでガラス細工のように華奢な指の感触は、少年に一つの心構えをもたらしていた。
 この女性は、自分が守らなければ。
 この屋敷で、少年は自らのためではなく、主である女のためにすべてを行うことを決意していた。
 そして今、少年は裸体を晒す主の前で、いつの間にかぼんやりとしていたことに気がついた。緩やかに曲げられたまま固まっている彼女の指に、自身の指を軽く絡めながらだ。
 冷たく、固く、記憶にあるよりも細く感じられる指から、少年は慌てたように手を離した。無意識のうちとはいえ、主と手をつなぐとは、何という無礼を。
「すみませんでした…!」
 少年はそう謝罪の言葉を紡いだ。
 そう、彼女の衣服を脱がせたのは、主を入浴させるためだ。だが、手を握っていたのは、少年自身の思い出に引きずられた結果だ。主のためではない行動をしてしまったことに、少年は申し訳なさを抱いていた。
 これ以上過去に浸って入浴を遅らせていては、湯が冷めてしまう。
 少年は主の身体を抱えると、不自然に重く感じられるそれを浴槽へと運んでいった。


ーー


「とりあえず、これで全部かしら?」
「はい、お疲れ様でした」
 最後の招待状に署名を添えると、女はペンを置いた。招待状は全部で二十通。うち十九通は親しい知人や、彼女に恩のある人で、最後の一通は今回の主賓だった。
「後は私がやっておきます」
 便せんを封筒に納め、封蝋を施し、宛先を入れて送る。それで、招待状についてはおしまいだ。
「ふふ、びっくりするかしら?」
「どなたがですか?」
 突然の問いかけに、男は一瞬の間に彼女の本意を探ってから、問い返した。
「今回の主賓の、新しい子よ」
 女は椅子に座ったまま、男を見上げて答えた。
「ただでさえいろいろ混乱しているのに、突然招待状がやってきて、どう思うかしら?」
「それは…驚くでしょうね」
 男は間を挟んで応じた。
「私…いえ、お嬢様の時もそうだったのですから」
「そうだったわね」
 女はふと、遠い目をした。
「もう、あれから大分経ったのね…」
 あれ、というのがいつのことかは知らないが、確かにかなりの日々が過ぎたことを男は思いだしていた。
「お嬢様がご存命だった頃、もう一度起きあがられた頃、こうしてはっきりと目を覚まされた頃…いろいろありました」
「ふふ、私が死んだとき、ゾンビになったとき、ワイトになったとき、でしょ?」
 遠回しな男の表現に、女は笑みをこぼした。
「長い間かかって…いろんなことがあって…ねえ、覚えてるかしら?あなたがこの屋敷に来たときのこと」
「はい。私がまだ子供の頃でしたね」
 男は、遙か過ぎ去った日々を思い返し、主と初めて出会った時のことを脳裏に描いた。
「私よりも小さくて、がちがちに緊張しちゃってて…ふふ」
 女もまた、当時のことを思い出したのかおかしそうに笑みをこぼした。
「それが、いつの間にか私を追い越すぐらい大きくなって…」
 女は、兄と妹、いや父と娘、下手をすれば祖父と孫ほどに年が離れているようにも見える男に向け、手を伸ばした。
「ずっと、長い間ありがとう」
 女の青白い指先が、男の頬を撫でた。
 そこには、かなり薄まり消えかけていたが、小さな傷跡が残されていた。





 入浴を終えると、少年は主の身体を拭き上げ、バスローブを軽く羽織らせてから寝室へと運んだ。
 ベッドの上にそっと彼女を横たえると、少年はバスローブの前をあわせ、裾を整えた。本当ならば清潔な寝間着を着せてやりたいが、今はまだ仕事がある。浴室の掃除に、衣服の洗濯だ。
 それに、それらを片づけても、まだやるべき仕事はいくらでもあった。屋敷の掃除だ。主の夫であった男は、売り払うのにも一手間かかるこの屋敷を、とりあえず手元に置いておくつもりらしく、管理と清掃を少年に任せたのだ。
 定期的に食料や掃除道具は送ると、女がまだ生きていたころに送られた手紙にはあった。
 少年は初めてその手紙を読んだとき憤りを覚えたが、今は感謝していた。少年が屋敷の管理をしている間、ずっと主と一緒にいられるからだ。
「それでは、掃除に行って参ります」
 少年はベッドの上の主に向けてそう言うと、寝室を出ようとした。しかし、彼が寝室の扉の前に立つよりも先に、女が動いた。胸の上で組んでいた指が解け、腕がシーツの上へと落ちたのだ。
 シーツと肌のぶつかるかすかな音に少年は驚いた。だが、すぐに落ち着きを取り戻した。温かなお湯で身体を清めたから、固まっていた間接が緩んだのだろう。少年はそう判断した。
 そして、彼女の指を組み直すべくベッドに歩み寄ると、少年は女の手を取った。
 冷たく、固く、細い指。生物の気配を感じさせないの感触に、少年は主がどういう状態にあるかを、改めて認識した。
 いつまでこうしていられるだろう。いつまでこうしているつもりだろう。
 少年は一度自問し、すぐにその問いから目を背けた。
 今は、今だけでも、主とこうしていたい。
 少年は内心の衝動を押さえ込み、主のために指を組ませようとした。
 すると、彼の手の中で、彼女の指が小さく動いた。
14/04/09 21:55更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
 ワイトさんはあらあらうふふ系のお嬢様なんだ。
 元死人とは思えない豊満な肉体のあちこちを惜しげもなく揺らしながら屋敷のあちこちを歩き回って、召使い達に労いの言葉をかけて回るんだ。
 もちろん衣服に押し込まれた乳房(ワイトになってサイズが変わったけど、家計のことを考えて昔の衣服を着ている。胸のボタンは死ぬ)が苦しげに揺れ動く様子は男にとって目に毒なのはもちろん、女性陣にとっても危険物なんだ。『あんな欲張り・ワガママ・スケベを兼ね揃えた大罪ボディになれるかしら』っていう嫉妬混じりの憧れと、『あんな身体を惜しげもなく見せつけるのは夜が不満な証拠よ!』という憤怒混じりの嫉妬とで、七つの大罪の内五つを女性陣にもたらすんだよ。
 でもお嬢様本人にはそんなつもりは微塵もなくて、単に召使い達が働いてる様子を見て回り、特にがんばってる者にご褒美(性的なものではない)をあげるつもりなんだよ。
 それで、召使いの内で「がんばってるとお嬢様がご褒美をくれるぞ」って噂が広まって、いまいち屋敷になじめていない少年召使いが早合点してご褒美(性的)を目指してがんばるんだ。
 一人でありとあらゆる雑用をこなす少年に、お嬢様は感心しつつも少しだけ心配して、ある日少年を私室に呼ぶんだよ。
 お嬢様としては、少年に労いの言葉をかけると同時に、あまりがんばりすぎないように、同僚ともう少し協力するようにとたしなめるつもりだったんだ。
 でも呼び出された少年は疲れた様子を見せながらもどこか隠しきれない興奮と期待を滲ませているんだよ。でもお嬢様は少年の心内に気がつくこともなく、「もう!(怒っているつもり。怒ってないように見える。牛のモノマネではない)」って感じで窘めるんだ。そして、少年に「なんでそんなに根を詰めるのですか?」と聞くと、彼は「ご褒美がもらえるから」って応じるんだ。
 ようやく合点が行くお嬢様。確かに少年のような田舎出身ではご褒美(お嬢様自作のお菓子。ふわふわあまあま。性的ではない)など味わったことないだろうから、がんばるんだ。
 それで、お嬢様はそんなことなら、こんどこっそりご褒美をあげましょうって言っちゃうんだよ。この一言で少年は一気に舞い上がり、今この場でご褒美(性的。おっぱい)がほしいです!とかオネダリしちゃうんだよ。
 もちろんお嬢様はご褒美(性的なものではない。お菓子)の準備なんかしてないけど、少年のオネダリが真剣すぎて困っちゃう。それで、正式なご褒美じゃないけど、部屋においてあるお菓子を上げましょうと言うことで戸棚に向かうのよ。
 揺れる、お嬢様の乳房。揺れる、お嬢様の尻。
 はい、少年はもはや理性とか消し飛んで、お嬢様の尻太腿にしがみつきます。
 突然の少年の行動にびっくりするお嬢様。でも、尻と太腿に押し当てられる妙に固いモノに、彼女はようやくいろいろと理解するんだよ。
「あら?(驚き)あらあらあら?(理解と困惑)あらら?(違和感)あららら?(認識)あら、あら、あらあらあら(驚きと困惑)あら…あーあらあらあら(理解)」
 そういう風にあらあらを繰り返しながら、少年の想いとか自分の無防備な振る舞いとかに気がついて、ようやく少年の求めるご褒美に想い至るんだ。
 そして、
「あらーあらあららあらあら…あらあらうふふ」
 って感じで合意に至りましたとさ。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33