連載小説
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(129)リッチ
 夜。人里から少し離れた廃墟があった。だが、地面に接するような空気抜きの穴から明かりがこぼれていた。地下室に、明かりを必要とする誰かがいるのだ。
 周囲の草むらからさまよい出たネズミが、空気抜きの穴に近づく。するとネズミの耳に、人の声が届いた。
「このように大気中の導魔力路さえ確立していれば、直接接触なくとも魔力の伝達は可能である。導魔力路の媒介としては、匂いを構成する微粉、視線による大気変質などが挙げられる。高位の魔物に接近するだけで魔力の影響を受けるというのは、この匂いと視線に依るところが多い」
 滔々と流れるように何かを説明する声だ。声に紛れて時折ひっかく様な音が混ざる。声の主とは別に、紙にペンを走らせている誰かがいる。 ネズミは鼻を鳴らしながら、空気抜きの穴に身を滑り込ませていった。人がいるなら食べ物もあるかもしれない。思考と言うにはほど遠い、飢えと危険を天秤に掛けた上での判断だった。
「しかし魔王の魔力については不明なところが多い。導魔力路が観測できないにも関わらず、世界各地に影響を及ぼしているからだ。魔力が物理と精神に影響を及ぼすが、魔力の伝搬についてはまだ未知の部分が多い。もしかしたら我々の個々の精神は、物理的な距離をものともしないほど『近い』のかもしれない。あるいは、魔力は物理と精神とは別の、第三の軸でしか表現できない何らかの媒介によっても伝搬するのかもしれない。そして、その伝搬についてだが…」
 声が不意に止まり、ため息が挟まれる。
「どうする、続けるか?」
「え、ええーと…その…」
「では、物理伝搬の実例を見るがいい」
 ネズミが空気抜きの穴から地下室に身を出した瞬間、何かがその灰色の体毛に触れた。
「ヂュイッ!?」
 一瞬鳴き声が漏れた直後、全身がぴくりとも動かなくなる。
「これが、物理伝搬だ」
 石組の床をイスが擦る音が響き、妙に軽い足音が近づいてきた。
「魔力で作り出した風の塊に、魔力で記述した術式を織り込む。風の塊が接触することで、術式が流入するのだ」
 ことん、と石組の床に何かが置かれ、みしりと木の擦れる音が響いた。そして、空気抜きの穴の縁で完全に硬直していたネズミを、小さな手が拾い上げた。
「見ろ、麻痺の術式が効いている」
 ネズミを握っているのは、妙に青白い肌をした少女だった。まだまだ子供と言っていいほど幼い顔立ちだが、その表情は妙に冷めた、大人びたものだった。
 彼女はネズミを手にしたまま踏み台を降りると、すたすたと地下室の中央へ歩いていった。そしてテーブルを挟むように置かれた二脚のイスの内、背の低い方へよじ登るようにして座った。
「麻痺の術式の基本構成はわかるな?」
「は、はい」
 少女の問いかけに、テーブルの向かいに腰を下ろした青年が頷いた。
「書いてみろ」
「えーと…」
 青年は、外見的には10ほどは下であろう少女の命じるままに、広げていたノートにペンを走らせた。丸と曲線、直線が二本。そして一繋がりになったいくつかの文字を書き加えて、青年のペンはノートから離れた。
「ふむ…まあいい」
 少女はノートに記された奇妙な模様をざっと見ると、その何カ所かをつついた。
「こことここを抵抗路に書き換え、ここの誘導魔力式を55にすると、どうなる?」
「えー、活性化?」
「そうだ」
 彼女は頷くと、続ける。
「麻痺とは逆の効能がもたらされる。体内で毒物を合成する事もできるし、発火や凍結も思いのままだ」
「でも、発火ぐらいならこう、火の玉の魔法を使った方が早いんじゃ?」
「それでは効果が丸分かりであろう。発火の術式には鎮火の術式、凍結の術式には発熱の術式で対抗される」
 青年の言葉に、少女はそう返した。
「そもそも、効能を隠さねばならない理由というのが…うむ」
 言葉を続けようとして、彼女はテーブルの上に置かれた砂時計が、ひとつまみほどを残してほぼ落ちきっていることに気が付いた。
「続きは明日にしよう」
 彼女の一言の直後、砂時計の砂が流れ落ちた。
「ありがとうございました」
「うむ」
 青年が頭を下げ、少女が軽く頷く。
「では、後は片づけておいてくれ」
「はい」
「それと、明日の準備は?」
「できてます。後は出かけるだけです」
「そうか」
 青年と言葉を交わし、いくつか確認をすると、彼女は椅子を降りた。
「では、先に休む」
「おやすみなさい、師匠」
 青年の言葉を背に、彼女は地下室を出ていった。
 廊下は薄暗かったが、彼女が指を軽く立てるとその先に光が宿り、あたりを照らした。指先の光を頼りに廊下を進み、一階へと階段を上がる。そして通路を抜けて広間にでると、彼女は足を止めた。
「……」
 少女は無言のまま指先の光を掲げながら壁の一角を見上げた。そこには額縁に納められた一枚の絵が掛けられていた。
 椅子に腰を下ろす老人の肖像画だ。への字に口を曲げ、鋭い眼光でこちらを見ている。眼光を再現した画家の技量もすばらしいが、それ以上に描かれた老人自身の気配が滲みだしているようだった。
 だが少女は、暗闇から浮かび上がった老人の絵に対し、臆する様子はなかった。
 それもそのはず、描かれている老人こそ、かつての彼女なのだから。
「……」
 少女は絵から目を離すと、つかつかと広間につながる廊下の一本に入っていった。




 バルトリウス・エルタル・イムトマール
 錬金術に魔術、死霊術に医術と様々な分野に手を広げた男の名前だ。彼は自身の研究を表には出さず、常に次なる研究の礎としてしていた。次の研究のための研究は、彼一人を不死者へと昇華させるには十分であった。死にながら動き、考え、喋ることのできる生者。不死者にして既死者。それが、リッチであった。
 イムトマールは、錬金術研究の過程で作り出した幾ばくかの金と宝石を売り払い、人里離れた場所に終の住処をもとめた。そして彼はその全身が朽ち果てて塵さえも残らなくなるか、自ら肉体を脱ぎ捨てる方法を発見するまで、人里離れた屋敷で研究を続けるつもりだった。
 だが、イムトマールの生活の変化は、思いもしない方向から訪れた。ふと気が付くと、全身が縮んでいたのだ。もとより体格の立派な方ではなかったが、それでも成人男性としては人並みの背丈ではあった。だが、イムトマールの手足は縮んでおり、まるで子供だった。ぼろぼろになっていたローブの袖からのぞく腕も、骨に乾ききった皮と肉がへばりついたものではなく、やや青ざめたみずみずしい肌に覆われた柔らかなものになっていた。
 そして屋敷中を探し回り、本と木箱を積んで作った踏み台を上って鏡をのぞき込むと、青い顔をした少女がイムトマールを見返していた。
 姿が変わってしまったのだ。
 原因はすぐに分かった。魔王の交代に伴う魔力の変質の影響が、人外の域に足を踏み入れていたイムトマールにも及んだためであった。
 イムトマールは一通り自身を調べて、特に影響がなさそうだという結論にいたった。性転換の事実はそれなりに衝撃ではあったが、リッチとなってから股間にぶら下がっていたモノはしなびるがままに任せていた。時と共にとれてなくなるかどうかの違いでしかない。
 しかし、彼はその日のうちに重大な問題に行き当たった。



 翌日、イムトマールは屋敷の一角で声を上げていた。
「バッティ!バッティ!」
「はーい、ただいま参ります」
 リッチの少女の呼び声に、弟子のバッティは廊下を急ぎ足でやってきた。あけ放たれた扉をのぞき込むと、中には壁に並ぶ棚と積み上げられた箱、そしてその中央で両手を上げる師匠の姿があった。
「どうしたんです?」
「あの…箱を…取ってくれ…!」
 両手を伸ばし、つま先立ちになりながら、イムトマールは棚の上の方の段にある紙箱を取ろうとしていた。
「はいはい」
 バッティは物置部屋に足を踏み入れると、手を伸ばしてくるぶしより下が入りそうな大きさの紙箱を取った。
「これですか?」
「うむ」
 弟子が差し出す箱を受け取りながら、イムトマールは頷いた。
「最初から脚立を使えば届いたんじゃないんですか?」
「脚立を持ってうろうろして回る訳にはいかんだろう」
 箱のふたを小さく開けて中身を確認しつつ、弟子の言葉に彼女は応じる。
「それじゃあ、飛ぶ魔法を開発するとか…」
「私の研究はそのような些末な物事のためにやってるんじゃない。研究の過程で飛ぶ方法を見いだせたのなら使うが、わざわざ研究などせん」
 イムトマールは箱のふたを閉じると、弟子を見上げた。
「それより、お前の方は準備できているのか?」
「ええ。後は師匠待ちです」
「そうか、すぐに準備する。」
 イムトマールは弟子の脇を通り抜け、物置部屋を出た。
「ああそうだ。そこ、片づけておいてくれ」
「…はーい」
 師匠の理不尽な要求に、青年はそう応じた。
 改めて見ると、棚の中段より下の箱はだいたいが下ろされているか、一度ふたが開けられたようになっていた。箱の中身が何だったのかはわからないが、手の届く範囲の箱の中身で代用できないか調べたのだろう。
「これも仕事仕事」
 魔術師イムトマールの弟子となるための条件の一つ、イムトマールの世話をする。その履行を彼は行っていた。
 イムトマールはこれまで弟子をとっていなかった。バッティを弟子として迎えたのは、身長がかなり縮んだせいで研究はおろか、日常的な行動にさえ支障を来すようになったからだ。そこでイムトマールは弟子入りを志願してやってきた青年を迎える気になったのだった。
「こんなものか」
 床に下ろされていた箱を適度に棚に詰めると、バッティはざっと物置部屋を眺めた。どこに何が入っているか、概ね思い出せる。
「さーて、次は…」
「バッティ!準備ができたぞ!」
 後一つ二つは仕事を片づけられるかと思っていたが、師匠の呼び声は思いの外早かった。
「はい、ただいま!」
 バッティは物置部屋の戸を閉め、イムトマールの部屋へと向かった。すると、リッチの少女は自室の扉の前に立っていた。
「遅い」
 眉間に浅く皺を寄せながら、イムトマールは憮然とした表情で言った。
「すみません、片づけに手間取っていて…」
「まあいい、行くぞ」
 バッティの言い訳を打ち切ると、イムトマールはスカートを翻しつつ、大股の早歩きで廊下を進み始めた。そう、ローブの裾ではなく、スカートである。今イムトマールがまとっているのは、紺色のワンピースであった。髪にも櫛が通してあり、普段のぼろぼろのローブ姿とは打って変わって、女の子然とした姿である。
 イムトマールとバッティは勝手口をくぐると、雑草の茂る裏庭に出た。そして裏庭の一角の馬車小屋の戸を、バッティが開く。小屋の中には、荷物を積み、真新しい幌が張られた荷馬車が一台停まっていた。だが、馬はおろかロバすらいない。
「積み荷は?」
「すべて用意できています」
「よし、乗せろ」
 イムトマールが言葉とともに両腕を広げると、バッティは彼女の脇を両手でつかみ、ひょいと持ち上げた。そして御者席にイムトマールを座らせてから、彼は荷馬車の反対側に回って御者席に着いた。
「よし…それでは師匠、お願いします」
「うむ」
 イムトマールが両目蓋をおろし、小さく何かを唱える。すると彼女の前方、つまりは荷馬車の前に真っ黒な穴が生じた。穴からいななきが響き、遅れて真っ黒な馬が現れる。馬はすでに轡や手綱を備え付けており、その一端はイムトマールの手に握られていた。
「ほれ」
「ありがとうございます」
 イムトマールから渡された手綱を受け取ると、バッティは軽く馬を打った。すると馬はブヒヒン、と小さく鳴いてから足を踏み出し始めた。
 みしり、と荷馬車が一瞬揺れ、ゆっくりと進み始める。それなりに荷物は積んでいるが、重さを感じさせない進み方だった。
「今日もいい調子ですね」
 屋敷の敷地を出て、木々の間のあるかなきかといった細い道を進みながら、バッティはそう呟いた。馬の足取りはしっかりとしており、多少の斜面でも荷馬車の重みに負ける様子がないからだ。

「当たり前だ。ユズレフカトフの野を駆け回る黒牝馬だぞ」
 イムトマールは薄い胸を軽く反らしながら、まるで自分がほめられたかのように言って見せた。いや、事実バッティは師匠のことを称えていたのだ。荷馬車を引く黒馬は呼び出したのではなく、イムトマール自身が作り出したのだから。
「それにしても、生き物を作るだなんてすごい魔法ですね」
「なーに、形と動きをまねただけだ。それに、十五人による賛美楽唱術式を再現するのに比べれば、馬一頭などたやすいたやすい」
 口の端を小さく持ち上げながら、イムトマールはそう言った。
「でも師匠、こんな便利なことができるんだったら、メイドの一人ぐらい作れるんじゃないんですか?」
「…この術式は外見の割に、意外と魔力を食うのだ。だからできることならば、あまり濫用したくない」
 イムトマールはふぁーあ、とわざとらしくあくびを付け加えた。
「さて、帰りの分もあるから、私は少し瞑想に入る」
「はぁ、そうですか…」
「着いたら声をかけろ」
 その一言を最後に彼女は口を閉ざし、ゆっくりとした寝息を重ね始めた。
 まるで、眠っているようだ。いや、事実眠っているのだろう。バッティは弟子入りしたての頃、師匠から『久々によく眠った』と何度か聞かされていた。イムトマール曰く、生命の輪から外れてしまった肉体には、食事や睡眠が必要なくなるらしい。だが、かつての骨と乾ききった肉と皮だけで構成されていた肉体と異なり、今の体は休息を必要とするようだった。
 だが、なんだかんだと理由を付けてみても、バッティには今の師匠の姿は、今日のお出かけが楽しみで昨夜あまり眠れなかった女の子にしか見えない。
「……中身はあの爺さんなのにな」
 広間に掛けられた、眼光鋭い生前のイムトマールの姿を思い出しながら、バッティはそう口に出して言った。そうしなければならない気がしたからだ。
「さーて」
 顔を上げ、手綱を握りなおしながら、バッティは気を取り直した。
 街までまだ遠い。



 街に着いた二人は、手始めになじみの道具屋へ向かった。荷馬車に満載された品物を売りさばくためだ。
「浄化銀が七に、擬態樹の杖が八に…」
 荷馬車から降ろされた荷物を前に、道具屋の主人は算盤を弾く。
「テュルプ博士の身体学書の写本がひぃ、ふぅ…八冊。うーん、確かに学術書の写本は貴重だけど、最近は印刷機が出始めてるからな…」
「全部図版入りですよ」
 バッティは積まれた本を一冊取ると、道具屋の主人の前で広げて見せた。
「ほら、どれも詳細でしょ?」
「そう、印刷機といえども、細かい図画を再現するには至ってない…からね」
 バッティに続いて少女も口を開くが、最後に一言付け加えた。
「へえ、物知りだねお嬢ちゃん」
「師匠のところで、いろいろ本を読んだりしてますからね」
 人里離れたところの魔術師に厄介になってる兄妹、という設定に従い、バッティはそう応じた。
「まあ、こっちとしても図版入りはありがたいけど…正直学術書の価値は下がってきてるからな…」
「そんな」
「まあ、今はこのぐらいの値段で買わせてもらうよ」
 差し出された算盤を見て、バッティは眉間に皺を寄せた。
「うーん、これぐらいですか…」
「どんなだ?どれぐらいだ?」
 つま先立ちになる少女が転ぶ前に、道具屋の主人は手にした算盤をさらに下ろした。
「うーむ、こんなものか…」
「どれもこれもいい品物だけど、ほしがる人間が減ってきてるからね。毒薬よりも精力剤、破城槌よりも大きなベッド、って感じだね」
 道具屋の主人は軽く肩をすくめて見せた。
「そうなのか…」
「お嬢ちゃんからもお師匠さんに言ってくれないかな?惚れ薬とかなら大歓迎ですって」
「うむ、考えてお…」
「分かりました、伝えておきます!」
 少女の言葉を遮りながら、青年が大きな声で返事した。
「それより、他に需要のありそうな品物とかありませんか?薬とか、道具とか…」
「うーん、そうだな…あ、あれとかいいんじゃないか?」
 道具屋の主人は、ふと思いついたように手を打った。
「本だ。写本づくり、あんたら得意だろ?」
「ええ、まぁ…」
 正確に言えば、木や染料を素材に再構築した複製本だ。一文字ずつ書き写した写本とは、原理が異なる。
「実は北の方の本屋で、大人気の本があるんだ。ずっと売り切れで、読み終わった奴が高値で他の奴に売ってるぐらいだ」
「ああ、つまりその本を複製して売ればいい…って大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫って、本の作者が訴えでもしたら」
「内容が御法度ものだってのに、いったい誰が写本訴えるんだ?」
 言われてみればそうだ。
「ふん、そんな下らぬものを作って一儲けしようなどとは…」
「少し待ってください。提案してみます」
 イムトマールの口をふさぎながら、バッティは応じた。
「そうか、あんた等が卸してくれるなら、こっちも販路を調べておいてやる」
「助かります」
 バッティは店の主人に一礼すると、イムトマールと共に荷馬車に乗って店を離れた。そして、荷馬車が店からある程度離れたところで、彼はようやく師匠の口から手を離した。
「もう大丈夫ですよ」
「なにが大丈夫だ」
 彼女は目を三角につり上げ、怒った様子でまくし立てた。
「何ださっきの態度は。あれではまるで、私たちが他人の本で一儲け企もうとしているようではないか」
「テュルプ博士の研究書と同じことを、少し手広くやるだけですよ。それより声を抑えてください。周りに伝わります」
 バッティの言葉に、彼女は辺りの様子を気にしてか、少しだけ声を潜めた。
「あれは学術書だ。だが、貴様が売ろうとしてるのは御法度ものの内容とかいう本だろう」
「もしかしたら、魔術的な内容で御法度なのかもしれませんよ」
 不意にイムトマールが言葉を絶った。バッティは手綱を握りながら、横目でちらりと師匠の顔を見た。イムトマールは、口を開閉したり、眉間にしわを寄せたりゆるめたりしながら、なにを言おうか考えているようだった。
「…とりあえず、その本やとやらに行って、どのような本なのか調べてみるとしよう」
「わかりました」
 イムトマールの百面相を経ての結論に、彼は同意した。



 日が傾き、かすかに夕焼けの色を帯びつつある山道を、荷馬車が進んでいた。荷台に芋や小麦など、食料を適度に乗せた馬車の御者席には、バッティとイムトマールの姿があった。だが、出発したときと異なり、イムトマールは瞑想ではなく、本を広げていた。
「『おうおう、はあはあ、あれあれ、いくいく』おれはしゃせーした」
 彼女は平坦な口調でそう言うと、ページをめくった。
「こうして、ごろうはのろわれましたとさ。めでたし…なんだこれは」
「さあ…」
 師匠の問いかけに、バッティは前方を見たまま応じた。
「わずか8頁で、全頁に挿し絵とわずかばかりの文章が添えてあって、話の筋も肉もないではないか」
「でも、あれはあったじゃないですか。何というかその…男女の機微とか」
「人間の男と魔物がでてきて一発やって終わり、ではないか」
 イムトマールは手にしていた本、いや薄い本を背後に放り投げた。
「あの程度で大人気かつ御法度ものなのか?」
「教団からしてみれば、かなり危険な内容ですからね。その辺のプレミアム感も大人気の一因になっているかもしれません」
 そう。渇きに渇いた喉ならば、泥混じりの水たまりの水も美味しく感じられるだろう。
「しかし、あのような内容の本を複製して売り出すなど、私のプライドがゆるさんぞ」
「でも、買ってしまったものはしょうがないでしょう。何とかして元を取らないと」
 まあ、値段的にも十日ほど粗食に耐えれば十分取り戻せる程度のものなのだが。それでもバッティは、今の魔法薬などの製造とは違う、新たな収入源を確立するために、師匠を説得しようとしていた。
「ならば…私が作るまでだ」
「………なにをですか?」
「御法度本をだ」
 師匠の言葉に、彼は山道と言うことも忘れ、思わず横を見た。
「男女の機微や人間と魔物がどうのこうのを書き上げればよいのだろう」
「…師匠が?」
「当たり前だ。お前の何倍長生きしていると思っている。こんなもの、すぐに書き上げてみせる」
 少女の体に収まった老魔術師を、バッティはしげしげと見ていた。師匠の普段の言動から考えると、本を書くどころか御法度本の複製さえいやがるはずだからだ。
「うぉ!?」
 不意に手綱が引っ張られ、バッティは思わず声を上げた。正面に顔を向けると、荷馬車が道から逸れつつあったのを、馬が自信の判断で戻したのが分かった。
「どうした?」
「いえ、大丈夫です…」
 よそ見をしていた、師匠が低俗な本を書くとは思わなかったため驚いた、などといった本当の理由を胸に押し込んで、バッティはそう答えた。
「とにかく、ワシは今夜から執筆を始める。いつもの指導は行うが、その後はしばらく一人にしてくれ」
「わかりました」
 本人が書くというのならば、バッティにできることはただ一つ。師匠の言うとおり、邪魔をしないことだった。
「それでは少し急ぎますね。今夜からということなら、少しでも時間が多い方がいいでしょう」
「うむ、頼む」
「揺れますから、気をつけてください」
 バッティが手綱を軽く操ると、馬の歩調が早くなった。荷物の量や道の傾斜にも関わらず、加速しているのはやはり大魔術師が魔術で作り出した馬だからだろうか。
 車輪を鳴らし、荷台を揺らしながら、師匠と弟子は屋敷を目指していた。



 その夜、夕食を終え、バッティへの魔術指導を行った後、イムトマールは自室の机に向かっていた。机の上にはペンとインク壷と、紙が何枚かだ。紙には様々な文言が記されているが、線を引いて消してあるものが大部分だった。
「『老魔女の一度は朽ち果てた肉体が再生し、再び芽生えてきた肉欲に抗えることもできず、玄孫ほどの歳の男と情を…』だめだだめだだめだ」
 イムトマールは言葉を絶ちきると、紙に並べていた文字に線を引き、考えを捨てた。
「外見が若くても中身が老婆じゃやはりダメだろう。もう少し、何というか…」
 別の紙を取り出し、再びペン先を当てる。
「『男側にやる気』『女側にやる気』『はじめは男側で最後は女側にやる気』『はじめは女側で最後は男側にやる気』…」
 イムトマールはつぶやきながら、いくつかの言葉を紙に並べると、ペンを置いてうめいた。
「さーて、どうしたものか…」
 書けると豪語したものの、実のところイムトマールにはめくるめく淫欲の世界はおろか、色恋沙汰の経験がなかった。そのため、こうして一通り話の筋を考えてみても、どうすればいいのか思い付かないのだ。これならば、何の説明もなくいきなり始めてしまった方がどれだけ楽か。
「いや、それではあの本と一緒だ」
 イムトマール自身が『もっといいものを書ける』と言った、その対象の二の舞になってしまう。
「……話の筋を考えるのは後だ。先に絵を用意して、それに合う話を考えよう」
 考えを打ち切ると、大魔術師は書き散らした紙切れをまとめた。そして、新たな紙を出すと、ペンにインクを吸わせて線を引き始めた。まずは、練習もかねた筆慣らしだ。
 曲線をいくつかと直線をつなぎ、軽く影を示す斜線を入れる。すると、紙上には真横から見た馬の姿が描かれていた。魔術で馬を作るため、馬の構造を完璧に理解していたおかげで、それなりの仕上がりにはなっていた。
「次は女だな」
 魔術の研究の一環で、いくらか人体の構造を学んだこともある。イムトマールは馬の隣に、線を引いていった。前進を支える骨格と、骨格をつなぐ筋肉に、脂肪の柔らかみを加えて皮膚をかぶせる。手足や胴の線の下に何があるかを考えながら、女の姿を描きあげていった。
「…できた」
 ペンを置き、紙を取り上げながら、イムトマールはつぶやいた。確かに馬の隣には直立する女の姿があった。だが、それまでだ。色気のようなものはほとんどなく、ページをめくれば筋肉と内蔵と骨格をさらしていそうな、つまりは医学書の挿し絵のような仕上がりになっていた。
「………参った…」
 紙を机の上に戻して、イムトマールはため息をついた。文章もダメならば、挿し絵もダメ。これでは、いつまで経っても本など作り上げられないではないか。
「うーむ、模写のモデルでもいてくれれば…」
 サキュバスを呼び出す魔術を使うか、どうか思案していたイムトマールは、ふと思い付いた。魔王の影響で多くの魔物が女性化している今、何もサキュバスを呼び出す必要などないのではないか。そう、もっと無害な魔物や、信頼できるものがいればそれでいい。
「…………」
 イムトマールの唇が小さく開閉すると、微かな詠唱が紡がれ、直後部屋の壁に一枚の姿見が現れた。召喚のための門でも、鏡の形をした魔物でもない。ごくふつうの鏡だ。
「よし」
 鏡に映る青い肌の少女に向けて、彼女は短く頷いた。ゆるやかなローブに袖を通し、椅子に座る彼女からは、あどけなさと色気が奇妙に同居していた。鏡に映り込む彼女の姿をモデルにすれば、それなりの絵は描けるだろう。
「さーて…まずは机に向かっている姿勢から…いや」
 早速自身の姿を模写しようとしたところで、彼女は手を止めた。練習は重要だが、それ以上にやらねばならないことがあるのではないのか?そう、形を覚えることだ。
 イムトマールがさらさらと馬の絵を描くことができたのは、馬の形を熟知しているからだ。ならば、見たままを模写して、本で使いづらい姿勢の練習をするよりも、自身の体の形を覚えることの方が重要ではないだろうか。
「ふむ…」
 彼女は椅子を降りると、改めて鏡に映り込む自身の姿を見た。まとった衣服を整えるために鏡を見ることはあったが、こうして自分の体に目を向けるのは久しぶりだった。手足は細く、短く、誘うようなポーズを取るには足りないものが多すぎるな、というのが最初の感想だった。
 ローブの袖をまくりあげてみれば、柔らかそうな二の腕が露出する。指で肌を押してみると、死人のような肌色とは裏腹に、指先を柔らかく受け止めた。
「ほう、ほう」
 腕の柔らかさを味わいながら鏡を見ると、少女が肩口までを無防備に晒している様子が目に入った。
 彼女は腕から指をはなすと、今度はローブの裾を持ち上げた。細い足がしばらく続き、小さな膝小僧からいくらか肉の付いた太腿へとつながる。イムトマールはローブの裾をもたげた姿勢のまま、鏡を見た。すると、鏡には無防備に両足を晒す少女の姿があった。ローブの裾から下着が見えそうで見えない。
「だいたい方向性がつかめてきたな…」
 そう、何もかもを知り、男を招くのは娼婦の仕事だ。少女は無知かつ無防備に、自身の秘すべき場所を晒そうとするその姿勢がいいのだ。
「ということは…」
 彼女はローブの裾を下ろすと、椅子を鏡の正面に移動させ、再び腰掛けた。そして鏡像の自身と向かい合いながら、彼女はローブの前を開いた。
 細い首から薄い胸の間、へそ、そして両足の付け根を覆う白い布までをさらし、肘掛けに両腕を乗せる。乳房の先端や秘所は、ローブや下着で隠されている。見ようによっては入浴後の火照った体をさましているかのようにも見えるが、目つき一つで姿勢の意味が大きく変わってしまいそうだ。
「…もう少し…こうか…?」
 目を細め、愉悦を唇ににじませ、少しだけの期待を視線に込める。ただそれだけで、鏡に映る少女は男を誘う花のような色香をにじませた。蕾だというのに、早くも蜂や蝶を招き始めている早熟な花だ。これが開花したらどんな花が咲くのだろう、と期待させるような姿だった。
「よしよし、一見すると無防備に己を晒す少女であったが、実のところすべては『あなた』を誘うためで、入浴後のわずかなひとときに向けられたその視線からすべてを悟る…だな」
 今までとってきた姿勢を基本に、イムトマールは話を脳裏で組み立てていった。
「あとは、体を覚えて、絵に描くだけだな…」
 彼女はそういいながら、体を擦り始めた。まずは腕。肌をなで、筋肉を軽く押し、骨をつかむ。触れさせる手の力を強めながら、彼女は自信の体をなぞっていった。 自身の骨格の形や筋肉の付き方を脳裏に刷り込み、筆先から紙に再現できるように。
 腕の次は肩。肩の次は胴。そして手のひらが薄い乳房を軽く擦ると、彼女の吐息が小さく乱れた。
「……」
 淡い色の先端が発した甘い刺激を意識の片隅に追いやり、彼女は自身の体を覚えることに集中した。あばらの上に、どの程度の肉を盛り、皮を被せてやればこの薄い乳房ができあがるのか。粘土像を仕上げるときのように、乳房を擦り、揉む。柔らかな肉の質感が、吸い付くような肌を通して手のひらに伝わる。
「ん……」
 彼女は小さく声を漏らしながらも、自身の体をまさぐるのを止めなかった。絵筆を取ったときのため、形を覚えるために自身に触れているからだ。多少のくすぐったさなど、我慢しなければならない。リッチの大魔術師は、そう自分に言い聞かせながら、体奥から生じる感覚をこらえた。
 やがて、彼女の両手のひらは、薄い乳房から微かに浮かぶ肋骨の上を通り過ぎ、小さなへそが穿たれた腹へと至った。腹部に刻まれた小さく浅いくぼみを中心に、軽く肌をなでる。柔らかな膨らみを通して、彼女はその中に詰め込まれた『もの』を感じていた。直接描くわけではないが、肌一枚奥に何が詰まっているかをイメージした方が、乳房や二の腕とは異なる柔らかさを表現できるだろうからだ。
 しかし、彼女がへその下ほど、下腹の辺りを軽くなでた瞬間、鈍い疼きが体内を駆けるのを感じた。
「う…」
 腹の中の何かが、外部からの刺激に打ち震えたのだ。イムトマールには、それが何か分かっていた。子宮だ。子を宿すための、今の自分の体格からすれば未成熟なはずのそこが熱を帯びている。
 すべては自身を学ぶため。
 そう言い聞かせてきたイムトマールの指が止まった。彼女の軽く開いた両足の間、椅子の座面が湿り気を帯びていたからだ。体の疼きに反応したのだろうか。視線をあげて鏡を見てみれば、青ざめた肌の少女の両足の付け根に刻まれた亀裂から、微かに滴が溢れているのが見える。
 イムトマールは、鏡を眺めながら止めていた指を動かした。腹からはなした指先を太腿に当て、そっと肌の上を滑らせる。そして両足の付け根、亀裂をなす左右の肉の盛り上がりに、彼女は指先を触れさせた。
 痺れが脳髄へと走った。
「……っ…」
 鼻から吐息が溢れ、リッチの少女の指先が震える。痙攣は彼女の股間の肉へと伝わり、胎内の柔肉の入り口をくすぐって、前進を痙攣させた。すると、彼女の下腹の疼きが呼応するように大きくなり、股間をむずむずとさせた。
「い、いかん…」
 思わず両足を閉じ、膝小僧から太腿までを擦り合わせてしまっていたことに気が付いて、イムトマールは声を漏らした。そして、自分の両足の付け根がどうなっているのかをしっかりと見るため、もう一度両足を大きく開き、椅子の足に自身のそれを絡めるようにして固定した。
「ここが…こうか」
 左右の太腿に両手を添えると、彼女は軽く力を込めた。皮膚が引っ張られ、両足の付け根の亀裂が薄く開き、桃色の内側を晒した。てらてらと光沢を帯びた粘膜から体液が溢れ、彼女の尻肉や椅子の座面をぬらす。
「ほう…」
 血色の悪い、一応動く死体だと思っていた自身の体に、これほどまで鮮やかな色が隠れていたことに感嘆しながら、イムトマールは自身の内側に触れた。微かに震える指先が、押し開かれた粘膜の入り口を軽くなでる。
「ん…!」
 一度股間に触れた瞬間に感じていたとはいえ、予測以上の痺れに彼女は思わず声を漏らした。だが、決して心地の悪いものではない。むしろ、自身を観察するためにもこの刺激に慣れなければ。イムトマールは小さな膣口を二度、三度と撫でながら、そう自身の行動を理由付けしていた。
 やがて、にじむ粘液に彼女の指先は塗れ、薄い粘膜の表皮を多少強く擦っても、痛みが生じないようになっていった。
 そのことを頭で理解するのが先か、下半身の疼きと熱の命ずるに任せるのが先か、彼女の指先はいつしかいっそう強く、いっそう大きく自身の股間をいじり回していた。
 入り口を軽く撫でる程度だった指先は、いつの間にか爪の半ばまでを穴の内に埋め、濡れた音を立てている。その体格と同じく、起伏に乏しい彼女の胎内の肉は、それでも十分な柔らかさでもって差し入れられた指先を締め付けていた。まるで、指の動きを押さえ込もうとしているかのようだが、膣肉をかき回す力に叶うはずもなく、指先の動きを一層強く感じさせるだけだった。
「はぁ…ん…」
 ついに彼女の口から鼻にかかった声が溢れだした。すると、堰を切ったかのように快感が体内に溢れてくる。
 自分の『形』を確かめるため。
 頭ではそう言い聞かせていたのだが、もはや快感を味わうことに心中の天秤は傾いていた。
「ん…く…ふ、ぅ…!」
 吐息を乱れさせ、言葉にならぬあえぎを紡ぎながら、彼女は胎内を浅くかき回す。そして片方の手で、自身の乳房を擦り、時にはつかんでいた。刺激が足りない。もっと、もっと。
「ふ…う…!」
 強く乳房を握りしめ、股間を大きくかき回した瞬間、彼女は視線を鏡から外し、天井を仰ぎながら声を漏らした。全身の動きが硬直し、小さく震える。
 そして、しばしの間をおいて、彼女は力を抜いた。
 後にはけだるい疲労感だけが残っていた。
「ふぅ…ふぅ…ふ、う…」
 呼吸をなだめながら、イムトマールは背もたれに預けていた体を起こし、姿勢を整えた。股間に触れていた手を上げてみれば、粘液の糸が引いている。
「……洗わないとな…」
 自身の『形』を確かめるのに没頭していたと、内心でいいわけをしながら、彼女は部屋の戸口へと目を向けた。
 その瞬間、ようやく彼女は気が付いた。いつの間にか扉が開いていることに。
 扉の向こう、廊下にはバッティが立っており、茶器の乗ったお盆を携えていた。だが、彼の目は驚きに見開かれており、口は魚のように開閉を繰り返していた。
「……」
 なんと言ったものか。イムトマールも言葉を紡ごうとしながらいいわけが思い付かず、ただ魚のように口をパクパクと開いては閉じていた。
 そして、二人がしばし魚の物まねをしたところで、ようやく青年が意味のある言葉を紡いだ。
「…ごゆっくり…」
「…うむ…」
 バッティはお盆を手にしたまま、一歩退いて扉を閉ざした。
 そして、後に残されたイムトマールはしばししてからつぶやいた。
「い、いやそういうわけではなくてだな…」
 だが、もはやそのいいわけを聞く者は、そこにはいなかった。
14/04/08 21:36更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
 リッチにとって大事なはずの秘密の箱。それがなぜかその辺に放置される珍事が続出。
 戸棚の上に箱。
 食器棚の中に箱。
 掃除をしていたら箱。
 料理をしていたら皿の上に箱。
 井戸で水をくんだら、桶の中に箱。
 高いところの荷物を取ろうとすれば、踏み台の上に箱。
 階段を上れば箱。
 箱。
 箱。
 箱。
 いったい主の目的は。日常に差し込まれる箱が青年を襲う。
次回、『先生、経箱を弟子の頭に叩きつけて壊したら、なんか動かなくなったんです!』

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