連載小説
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chapter 2
 ジェインはひときわ強く触手に力を込めると、勢いをつけて壁面から屋上へと飛び降りた。煉瓦を敷き詰めた屋上面で転がりつつも受け身をとると、彼女は姿勢を整えようとした。だが、自身の右足が体を易々と引き上げることはできても、体重の半分を支えるには頼りない、骨格のない触手数本になっていることを思い出した。
「参ったな…」
 腿の半ばほどで裂けたズボンの内からあふれる触手に、ジェインは顔をしかめた。触手の足では立つのは難しいし、そもそも目立ってしまう。顔を空に向けると、少しだけ離れた場所に浮いていた船が、ゆっくりと旋回していた。見晴らしがよいということは、彼女自身もどこからも見えているということだ。酒場で騒ぎを起こした片足が触手の女が、このナムーフに何人いるだろう。
「スカートに履き変えて足を隠して…いや、先にここを離れるか」
 駆け回ることはできなくても、ゆっくり歩くことぐらいはできるだろう。ジェインは触手の先端に未だ引っかかっていた靴を手に取ると、触手同士を絡めあわせて足を作ろうとした。だが、触手同士がぐるぐると螺旋状に絡み合う内、触手は彼女の意志を離れた。ぎちぎちと、触手同士が互いを締め千切らんばかりに巻き付きあっていくのだ。
「お、おっと…」
 力加減を間違えたのかと脱力しようとしたが、触手の動きは止まらない。触手同士が絡み合い、何かを形作っていく。やがて、触手同士の表面が曖昧になり、一瞬の融解を経て、一本の棒へと変じていた。太腿から徐々に細まり、固みを帯びたくびれを経て、緩やかな膨らみの曲線を折れ曲がった先端へとつなげる棒へとだ。棒の先端は平たく広がっており、五つの突起が並んでいた。
 それはどう見ても足だった。
 ジェインにとって馴染みのある足が、そこにあった。
「も、戻った…?」
 足の指に力を込め、握ったり開いたりすると、足はジェインの意志通りに動いて見せた。力を備えながらもぶよぶよと柔らかい肉の触手ではなく、芯に骨格を備えた足だ。ぬめりを帯びた病的な白さの表皮は、彼女の肌色と同じ落ち着いた白になっている。ジェインは一瞬迷ってから、触手がより集まってできた足に触れてみた。だが、彼女の指先に感じるのはぬめりではなく、さらさらとした肌の質感だった。
 触手が足に変化した。いや、足に戻ったというべきか。
「一回だけ…じゃないな」
 指を思い切り広げたところ、再び指先の肌が白く変化するのを見て、彼女は足を触手に変化させる方法を理解した。どうやら力を込めて指を広げれば触手になり、力を込めて触手をより合わせれば足に戻るようだ。
「でも、破れたズボンはそのままだな…」
 ジェインは太腿の半ばから垂れ下がる、ズボンとしての役目を果たせなくなった布切れを引きちぎり、片足だけ半ズボンの状態にした。多少目立つ服装だが、触手を隠しながらよろよろ歩き回るよりかは遙かにましだ。手に持っていた靴を履くと、ジェインは建物の屋上に立った。
 少々無駄な時間を過ごしてしまったかもしれない。すでにこの建物は取り囲まれているだろう。
「さーて、どうしたもんか…」
 酒場で囲まれたときは、彼女がジルを使って足を触手に変えた瞬間の驚きに乗じただけだ。すでにジェインの足がクラーケンであることを知られているならば、先ほどのように上手くはいかないだろう。彼女は通りに沿って並ぶ建物の屋根に目を向けた。
「行ける…な」
 助走をつけての幅跳びなら、十分に隣に移ることはできそうだ。何軒か建物を渡ってから下に降りるとしよう。
 だが、ジェインが屋上の縁から距離をとり、助走の準備運動として軽く足首を回し始めたところで、不意に声が響いた。
『ナムーフ市民諸君!私はロプフェル行政長だ』
 妙に反響を含んだ声に、ジェインはちらりと聞こえてきた方向に目を向けた。近隣の建物の屋上かと思ったが、声の源は屋上より上、青空を背に浮く船から響いていた。
『今日はナムーフ生誕十周年記念祭に集まってくれて感謝している。十年という年月を、ここナムーフで過ごせたのは諸君等の協力あっての物だ』
「そういや挨拶がどうのこうのって言ってたな」
 舞台の上でジルを自在に操って見せた男の言葉を思い返しながら、ジェインは顔を正面に向ける。
『だが、今日という記念すべき日を乱そうとする輩がいる。そう、浸食主義者だ!』
 浸食主義者。酒場でも彼女に向けて投げつけられた言葉だ。
『ナムーフでは我々人類と、魔物たちの共生を目指している。だが浸食主義者は我らの理想を阻み、自らと同じ場所へと引きずり降ろそうとしているのだ!諸君、浸食主義者が許せるか!?』
 熱のこもっていく飛行船からの声に、通りの合間や少し離れた広場から歓声が呼応した。
『そうだ、浸食主義者を許してはならない!浸食主義者の思いのままにさせてはならない!今日という、十周年の節目を汚す浸食主義者を、野放しにしてはいけない!』
 飛行船からの声が自分を指している。ジェインがその事実に思い至った瞬間、屋上の一角にもうけられた跳ね上げ戸が開いた。
「いたぞ!」
 制服だろうか。軍服のようにも見える同じ造りの衣装に袖を通した男たちが数人、跳ね上げ戸から屋上へとはい上がってきた。皆、手には警棒を握りしめている。
「ち…」
 見つかる前に逃走するつもりだったのに、とジェインは演説に聴き入ってしまっていた自分を責めた。だが、悔やんだからといって状況が好転するわけはない。彼女は過去の憂いを忘れ去ると、建物の縁に向けて駆けだした。
「跳ぶ気だ!」
「追え!」
 背後から響く声が耳朶を打つが、ジェインは振り返らない。彼女は一直線に屋上を駆け抜け、胸中に膨れ上がる落下の恐怖を押さえ込みつつ、建物の縁を思い切り蹴った。
 宙を舞う一瞬、彼女の背筋を冷たい物が駆け抜けたのは建物の合間から吹き上げる風ばかりのせいではないだろう。しかし恐怖とは裏腹に、一瞬の間をおいて、彼女は隣の建物の屋上に無事着地していた。一息つく間もなく、ジェインは再度駆ける。
「五人付いてこい!残りは下から先回りしろ!」
 警備の一員が、部下たちにそう命じる声が聞こえた。そして遅れて、やや思い足音が背後から響く。その数は六つ。彼女のように、屋上を飛び越えてきたのだ。
「待て!止まれ!」
 おそらくナムーフの住民相手ならばよく通じる命令なのだろう。しかしジェインは、警備の男の言葉に耳を貸すことなく、次の建物へと跳び移った。
「さーて、逃げきれるか…?」
 焦りそうになる心を落ち着かせるべく、ジェインは意図的に落ち着かせた声で自問した。このまま建物から建物へと跳び移っていたところで、いずれは浮島の縁へと追いつめられてしまうだろう。下手すれば、先回りした警備の連中が待ちかまえているかもしれない。
「ジルはどうだ…?」
 ジェインは足をちらりと見ると、先ほど建物を上ったときのことを思い返した。上ることができるならば、降りることもできるだろう。それこそ、建物から飛び降りるような勢いで身を投げ出し、壁面に吸盤を吸い付かせてやれば、階段をゆっくり駆け降りるよりも早く通りに出られるだろう。
『どうした警備隊!早くその浸食主義者を捕らえるのだ!』
 ジェインが次の建物へと跳び移るに合わせるように、飛行船から声が響く。
『戦力か!?人数が足りんのか!?ならば増員してやる!警備飛行船!出動せよ!』
 飛行船からの声に合わせるように、一隻のやや小型の飛行船が彼女の方へ向けて接近してくる。馬などに比べれば、遙かにゆっくりとした速度だが、遮る物のない空から接近してくる様子は、追われる者の焦燥感を煽るようだった。
 ジェインは前方を確認した。いつの間にやらかなり進んでいたらしく、島の縁近くに彼女は達していた。今いる建物を入れて後三軒。その先は無限の青が待ちかまえている。
『追いつめろ!警備飛行船は先回りして、人員を投下しろ!』
 まっすぐに彼女を目指していた飛行船が、進路を変えて彼女の前方に向かった。そして島の縁に建つ建物の屋上に近づくと、船体からロープを垂れさせた。ロープを伝い、今まさにジェインを追う六人と同じ衣装の男たちが五人、するすると屋上に降りた。前に五人、後ろに六人。『クラーケン』のジルによってもたらされた触手を用いれば、四人までならどうにかなるかもしれない。だがその先は?
 このままでは、どうあがいても捕らえられる。無理もない。この場で即座に思いつけるようなことなど、警備隊の連中ならば容易に対応できるだろうからだ。
 ジェインは徐々に近づく最後の建物に向け、頭を働かせた。島の縁に建つ隣の建物。通りを挟んだ向かいの建物。建物と建物の間の路地。島の土台。隣の浮島。
 幾つもの逃げ先の候補が泡沫のように浮かんでは消えを繰り返す。だが、そのうちに彼女の脳裏に、たった一つだけ消えずに残った考えがあった。こんなことできるわけない。胸中に浮かぶ考えをねじ伏せ、彼女は飛行船から下りた男たちの待ちかまえる、最後の建物へと跳んだ。
「来たぞ!」
 眼前の男たちが等間隔に距離をとった。ジェインの触手にまとめてとらわれないようにするための用心だろう。一人だけを狙えば陣系を突破できるかもしれない。だが、彼女は男たちに挑むのではなく、進む方向を少しだけ変えた。
 真っ正面ではなく、斜め右へ。通りに面した建物の縁に向かう。
「飛び降りる気だ!」
 彼女から見て右手にいた男が、ジェインを止めようと走り出す。だが残る男は、彼女の進路変更をフェイントだと判断したのか、体を緊張させたまま身構えていた。
 ジェインと建物の縁が徐々に迫り、一人だけ動いた男の指先を、彼女の衣服の端が掠める。そして勢いを殺すことなく、進路を揺らすことなく、彼女は建物の縁を蹴って身を躍らせた。石畳の敷き詰められたとおりに向けてだ。
「しまっ…!」
 屋上から誰かの声が響く。
 ジェインは全身を包む浮遊感を無視し、恐怖をねじ伏せながら、靴の中で右足の指を大きく開いた。力を込めた彼女の動きに、靴の中でジェインの右足がほどける。破れたズボンから露出する右足が一層白く、そしてぬめりと光沢を帯び、靴の中から引き抜かれる。太腿半ばから枝分かれした四本の触手。うち一本の先端に靴をひっかけたまま、彼女は身をよじって今し方飛び降りた屋上に目を向けた。
 彼女の体は思ったほど落下しておらず、屋上の縁まで手を伸ばせば届きそうだった。だが、ジェインが伸ばしたのは手ではなく触手だ。太腿半ばから分岐する触手の二本を勢いよくのばし、煉瓦組みの壁面に吸盤を張り付かせる。足に一瞬重みがかかるが、彼女は自身の落下の勢いを抵抗することなく受け入れた。すると彼女の触手は柔軟に伸び、彼女の視界に最上階、その下の階、さらに下の階と窓が映り込ませていく。急峻に停止すれば、落下した分の衝撃が彼女を襲うが、触手が伸びるままに任せれば勢いはだいぶ殺せる。やがて地上から二階の高さで、ジェインの触手は伸張を止めた。
 これで吸盤から力を抜けば、怪我することなく下の通りに降りられるだろう。しかしジェインは脱力ではなく、逆に力を込めた。自身の体を支える二本の触手にだ。伸びきった触手は、主の命じるがままに縮み始めた。はじめのうちはゆっくりだったが、ジェインの体が引き上げられるにつれてその勢いは加速し、ついには落下するのと同じ勢いに達していた。そして彼女の体が屋上の縁に達した瞬間、ジェインはようやく吸盤から力を抜いた。
 指の腹より敏感な吸盤から、ざらついた煉瓦の感触が消え去り、彼女の体は建物の上方へと打ち出された。ジェインが酒場の窓から飛び出したときと同じ要領で、あのとき以上の勢いと速度で、ジェインは宙を舞った。方向こそ正反対だが、落下の瞬間にも似た浮遊感が彼女を襲う。そして、触手が作り出した勢いが失われたところで、ジェインはまだ働かしていない二本の触手のうち、靴をひっかけていない方を、勢いよく伸ばした。
 建物の上空を舞っていた、警備隊員たちを降下させた飛行船に向けてだ。
 飛行船は迫る白い触手に、身をよじることもよけることもできず、ふれられるがままになった。膨れ上がる袋の下につり下げられた船体に触手がふれ、吸盤が木板を感じる。ジェインは力を込めて船体に吸い付くと、飛行船に飛び込むべく触手を縮めた。
 見る見るうちに空に浮かぶ船が彼女の視界で大きくなり、勢いよくジェインは大きく膨れた袋の下に転がり込んだ。
「き、来た!」
 乱入してきたジェインに、震える声がかかる。彼女が顔を上げると、ジェインの姿に驚き後ずさろうとする男と、舵輪を握ったまま彼女の方を振り返る男の姿が目に入った。ジェインは二人を睨みつけながら、広げていた触手を一本に収束させつつ立ち上がった。
「降りろ」
 警備隊員の男二人に、短く命じる。
 舵輪を握る男と、もう一人の男が一瞬目を合わせた。
「余計なことをしたら、ここから叩き落とす。そっと舵輪から手を離して大人しく降りるのなら、なにもしない」
 二人は船の高度と、垂れ下がるロープの端から屋上までの距離を比較すると決心を固めたようだ。ロープから降りるのならば、怪我をする心配はないだろう。
 舵輪を握っていた男が、ジェインの命令通りそっと指をはなして後ずさる。そして船体の縁から垂れ下がるロープを伝い、二人は船を降りていった。
「…っと!」
 ジェインは右足を触手に変えて舵輪までのばすと、とりあえず固定するよう握りしめた。船体の縁から下方を見れば、警備団員の二人は大人しくロープから直下の建物の屋上へと降りるところだった。これで船が手に入った。
「さーて、これでとりあえず脱出はできるな…」
 ジルのサンプルは手元にないが、ジェインの体に起きた現象を見せれば、ナムーフの存在を知らしめることはできるだろう。報酬の全ては無理かもしれないが、それでも一部分はどうにかしてもらえるだろう。
『君の行いを赦そう。君のレ…』
「っ…!」
 頭の中で響く、おそらく依頼主であろう男の言葉を、彼女は途中で断ち切った。あの街の名前、そのほんの一文字を思い浮かべただけで、彼女の喉奥に何かがこみ上げたからだ。そして、その先まで思い出せば、めまいと吐き気で身動きがとれなくなるであろうことは、容易に想像できた。飛行船を操っている今、操縦不可能な状態になるのは避けたかった。
「ん…?あ、そうだ」
 彼女はようやく気が付いた。そう、今現在ジェインは飛行船を操縦しているのだ。空を飛ぶものどころか、水に浮かぶものすら操ったことがないと言うのに。彼女は触手に力を込め、体を舵輪のそばまで引き寄せると、両手で舵輪をつかんだ。取っ手が十ほどそろう木製の輪のそばには、よく見てみれば幾つもの取っ手やつまみ、あるいは頭上の大きな袋から垂れ下がる紐などがあった。
「ええとこれを回せば左右だろ…浮かぶのは…こっちか?」
 舵輪を軽く回してから、彼女は頭上から垂れ下がる紐を引いてみた。するとゴウ、という音が響いて、飛行船が軽く前進した。
「っと…!?」
 不意の前進に、一瞬後ろに倒れそうになりながら、彼女はどうにか踏みとどまった。とりあえず前進する方法さえわかればいい。あとは、操縦しながら覚えるとしよう。
『警備飛行船!応答しろ!』
 不意に声が響いた。ジェインがちらりと顔を横に向けると、少し離れた位置に浮かぶ飛行船が、なにやらチカチカと光を明滅させていた。
『返答がない場合、乗っ取られたものと見なす!』
 何か合図でも取り決めてあるのだろう。だが、合図を知らぬジェインには返答などできないし、そもそも飛行船の操縦で手いっぱいだった。
『三つだ、三つ数える間に取り押さえて返答せよ!さもなくばチャールズを派遣する!』
 男の声は最後通告とばかりに声を上げると、咳払いを一つ挟んで続けた。
『ひとーつ!』
 その間に、ジェインは腹を決めていた。腕を伸ばし、垂れ下がる紐をしっかりと握ると、彼女は思いきりそれを引いた。
 先ほど軽く引いたときよりも遙かに大きな音がゴウと響き、腹を決めていなければひっくり返っていたであろうほどの勢いで飛行船が前進する。
「っと…!」
 手の中でぶるぶると震えだした舵輪をしっかりと握りしめ、ジェインはまっすぐに飛行船を進ませた。
『逃走か!?逃走する気か!チャールズっ!チャールズを呼べ!』
 男の声は数えるのを止めると、そう誰かを呼んだ。チャールズというのが誰か、何なのかはわからないが、十分に距離をとれば問題はない。このままナムーフを離れ、待ち合わせ場所に向かえば、彼女は自由になるのだ。
「…ん?」
 そこまで思い浮かべたところで、ジェインは声を漏らした。どこに向かえば、何から解放されるのだろう。
『チャールズッ!チャァァァルズッ!何!?チャールズは今身動きできないだと!?』
 自問するジェインの思考を遮るように、声が聞こえぬ誰かにそう応じた。
『仕方ない!ならば今日の出し物を使え!』
 男の声は誰かにそう命じてから、一つ咳払いを挟んで続けた。
『ナムーフの市民諸君!このような形でお披露目となるのは残念だが、今日、我々がまた一歩高みへと上った証をご覧に入れよう!我々はついに、成し遂げたのだ!天地を駆け抜ける風はおろか、空の雲も、つむじ風も、雨も、嵐も操れるようになったのだ!』
 ゴロゴロゴロと、何か重いものが転がるような音が、ジェインの頭上から響いた。見上げても船体をつるす袋のせいで何も見えないが、横の方に見える空は青かった。少なくとも、雷を抱えるような雲は見あたらない。
『さあ諸君、今こそお見せしよう!我々がまた一つ高みへと上った証を!偶然と、季節によってのみ縛られていた力を!』
 声は自信に満ちた口調でそう高らかに口上を述べると、一瞬の間をおいて続けた。
『浸食主義者に、雷を!』
 瞬間、ジェインの全身を衝撃が走った。目の前が白くなり、全身にしびれが走る。直後、彼女が意識を取り戻すと、ジェインは船がゆっくりと、だが確実に高度を落としているのに気がついた。
「何で…」
 ジェインが顔を上げると、船を吊り下げていた袋が燃えているのに気がついた。どうやら袋が燃え上がって、中に詰め込まれていた気体が漏れだしているせいで、高度が下がっているらしい。飛行船からの声を素直に受け取れば、袋を燃え上がらせたのは落雷のせいだろう。
 落雷の直撃を受けながらほぼ無事であるという幸運と、なぜ雷が落ちたのかという疑問を心の片隅に押しやると、ジェインは舵輪を必死に回した。飛行船から離れようと加速したせいで、彼女の乗る飛行船は島から離れた場所に浮いていた。このままではこの浮遊都市の遙か下方に広がる海に着水してしまう。あまり調べてはいないが、水も食料もほとんどない状況で海を漂流するのは避けたい。
 ジェインはどうにかして近くの浮島に不時着すべく、舵輪を回しつつ、頭上から垂れ下がる紐を引いて加速しようとした。しかし落雷のせいでどこかが壊れたのか、舵輪の回転は妙に軽く、紐を引けども加速する気配はなかった。そしてそうする間にも、頭上の袋は徐々に燃え上がっていく。
「くそ、飛べ!飛べ…!」
 舵輪の側に設けられたとってやらつまみやらを必死に動かすが、彼女の奮闘むなしく浮遊する気配はなかった。船に飛び乗ったときのように船から近くの浮島に向かおうにも、あたりの島に届かないことを彼女は本能的に悟っていた。
 空飛ぶ島々から落とされる。
 心の奥でねじ伏せていた落下への恐怖が、もはや彼女の理性の重石を押し返さんばかりに暴れ回っていた。
 こんなことになるのなら、船など乗っ取らなければよかった。
 操縦の傍ら、ジェインの意識の一角にふと、そんな後悔が浮かんだ。
 建物の屋上に逃れなければよかった。
 酒場で大暴れせずに、そっと裏口から逃げればよかった。
 あの二人からジルを受け取らなければよかった。
 あの酒場に入らねばよかった。
 いや、そもそもこのナムーフにこなければよかった。
 そこまで考えたところで、彼女の後悔は止まった。ジェインはそれ以上の不満と後悔が浮かばない理由を探ろうとし、ふと違和感に思い至った。
 ゆっくりとではあるが、彼女と飛行船の落下にあわせて下から上へと流れるべき青空とかすかな雲が、上から下へと流れているのだ。
「…浮いてる…?」
『どういうことだ!?直撃だったはずだぞ!なぜ落下しない!?』
 ジェインの思考を裏付けるように、落雷を生じさせた声が、そう誰かに問いつめていた。
『なに!?係留気流だと!?馬鹿者!係留気流が下にあるのなら、なぜ私に教えなかった!』
 声の立腹具合を加速させるように、彼女の乗った船は浮上するどころか、ゆっくりと移動さえ始めていた。
『もう一発だ、もう一発落雷させて焼き付くせ!この場所ではもう半日待たないといけないだと!?そんな調子でよくお披露目しようと思ったな白衣野郎!』
 声の内容を聞くに、落雷の心配はもうないようだ。それに、『係留気流』とか言うもののおかげで、落下する心配もないらしい。
 だが、この船はどこに向かっているのだろう。
『行き先はどこだ!?セントラ研究島!?』
 ジェインの疑問に応じるように、飛行船からの声がそう言った。
『警備団を向かわせ…できないだと!?研究島の自治を認めたのは私だ!そのぐらい覚えている!』
 声を荒らげながら彼は続けた。
『ギゼティアとセントラ研究島に連絡して奴を捕らえさせろ!絶対に取り逃がさせるな!いいか!何のために資金や材料を与え、連中を使ってやってるか思い出させてやるのだ!』
 ジェインの乗る飛行船の勢いが徐々に加速し、声が遠ざかっていく。振り返ると、逃走を繰り広げた建物の列はおろか、祭りの会場があった浮島からも離れていく。一瞬少し離れた箇所から立ち上る煙が見えたが、すぐにジェインの視界から消えていった。
 もっと首をひねるか、船尾に向かえば浮島全体の様子が見えたのだろうが、ジェインからそんな余裕は消滅した。
「お、おぉぉ…!」
 風を受けぶるぶると震える舵輪を握りしめながら、ジェインは思わず声を漏らす。
 彼女の前方には、いつの間にか大きな塔を備えた浮島が待ちかまえており、見る見るうちに彼女の視界の中で大きくなっていく。このままでは激突する。だが、震える舵輪を懸命に回してみても、飛行船の舳先は微動だにしなかった。
「飛び…降りるか…!?」
 風を顔面に受けながら、ジェインは呟いた。島に激突して砕け散る船と運命をともにするぐらいなら、タイミングを見計らって島へ飛び降りた方が千倍は安全だ。それに、震える舵輪を回せども舳先が動かないと言うことは、舵輪を手放して回るがままに任せたところで飛行船の進路が変わることはないと言うことだ。
 ジェインは腹を決めると、舵輪から手を離した。直後、取っ手を幾つも備えた木製の輪は勢いよく回転を始めた。ジェインは顔を前方に向けると、浮島への接近が変わらないことを確認し、強風の吹き荒れる甲板を這うように、船の縁へと向かった。
 中央に塔を備えた浮島は、どうやら庭園のようなものを備えているらしく、茂る緑が見えた。うまい具合に樹木に飛び降りるか、庭園のどこかにあるかもしれない池に飛び込むことができれば問題はない。
「よ…っと!」
 ジェインは腕を伸ばし、船の縁を囲む欄干を握りしめた。舳先の方に顔を向ければ、浮島はかなり大きくなっていた。下手すれば、先ほどの祭りの会場があった島などより大きいかもしれない。
 ジェインが心の一角で浮島の大きさに圧倒される間に、飛行船はついに島の上に入った。樹木が規則正しく植えられた庭園を眼下に、飛行船が滑空していく。彼女は眼下を流れていく木々を睨みながら、意を決した。
「うぉぉぉぉぉっ!」
 一つ声を上げ、ジェインは飛行船の底を擦りそうなほどの挙僕に向けて飛び降りた。一瞬の浮遊感が彼女を襲うが、ジェインは右足を触手に展開させて、樹木の枝を捉えた。
 瞬間、彼女の触手の一本に衝撃が加わり、遅れて枝がへし折れる。吸盤を通じて感じられる樹木の破砕感に、ジェインは新たな枝に向けて触手を伸ばした。
 枝を握ると同時に砕け、砕けると同時に新たな枝に触手を伸ばす。一呼吸の間に五度のペースで、ジェインは枝をつかんではへし折っていった。そして、彼女の体から勢いが消え、ついにやや太めの枝を捉えた触手が、枝をへし折ることなく踏みとどまった。木の幹や地面に叩きつけられることなく、止まることができたのだ。
「はぁ…って、船は…!?」
 ジェインは一息つこうとしたが、首を振って空を仰ぎ見た。飛行船は思いの外前方に進んでおり、まさに塔にぶつからんとしていた。だが、その木の葉のようにも見える船体が塔にふれる遙か手前で、その舳先が不意に真上を向いたのだ。そして塔の表面に沿うように、飛行船は上へ上へと進んでいき、塔の頂上のさらに上空まで飛んだところで、渦にとらわれたかのようにぐるぐると回転を始めた。そしてしばし飛行船は回転したところで、粉々に砕け散った。
「…降りてよかった…」
 ジェインはまるでおもちゃのようにもみくちゃにされるちっぽけな船体が飛び散っていく様を見ながら、遅れてやってきた安堵感に胸をなで下ろした。
 だが、あまりほっとしてばかりもいられない。そろそろ下に降りて、脱出方法を見つけなければ。
「それと…ジルだけが最終兵器じゃないみたいだしな…」
 ジェインは先ほど、飛行船を打ちのめした小規模の雷を思い出していた。ジルこそがこの浮遊都市の兵器だと思っていたが、天候操作もかなりの驚異である。まだ未完成なのかもしれないが、自在に天候を操ることができれば、豊作も飢饉も思いのままだ。
「だけど…どう調べりゃいいんだ…?」
 そうつぶやきながら、ジェインは触手を操って枝をつかみつつ、ゆっくりと木を降りていった。
 ジルはだいぶ普及していたが、天候操作は今日が初公開だと飛行船の男は言っていた。だとすれば、その辺りを探して容易に手に入るものではないだろう。唯一の手がかりは、あの男の罵倒だ。
『何のために資金や材料を与え、白衣野郎どもを使ってやってるか思い出させてやるのだ!』
 彼の口振りからすると、ここセントラ研究島で天候操作の研究などを行っているようだ。
 天候操作に必要な機材は無理だとしても、研究資料を奪うことぐらいはできるだろう。それに、この島はどうやら警備団の範囲の外らしいから、ジェインの手配情報が届くまで多少自由に行動できるかもしれない。
「とりあえず…あの塔に向かってみるか」
 木々の間からのぞく巨塔を目指し、ジェインは草の茂る地面を進んでいった。すると不意に草が途切れ、石畳の通路が現れた。木々の間を右に左にとうねりながら続く通路は、どうやら遊歩道のようだった。
「…突っ切るか?」
 行く先の見えない遊歩道を見通してから、ジェインは呟く。このまま道沿いに進むよりも、見える巨塔を目指した方が楽かもしれない。
 だが、ジェインが歩道を横切り、反対側の木々に足を踏み入れようとしたところで、不意に声がかけられた。
「ああ、植物に入らないで」
「っと…!」
 今まさに草を踏みつけようとしていた足を振りあげ、たたらを踏みながら彼女は石畳の上に戻った。顔を横に向けると、いつの間にそこにいたのか、白衣の男が立っていた。
「危ない危ない。一見すると散歩向きの小道に見えるが、れっきとした実験植物園なのだ」
 男はジェインに向け、そう説明した。だが、ジェインの意識は男の言葉の内容より、彼の顔に集中していた。
「お前は…」
「うん?私の顔に何か?」
 そう怪訝そうに尋ねる彼の顔に、ジェインは見覚えがあった。
 ジェインが『クラーケン』のジルを手に入れた酒場で、彼女の左側の席に座っていた男だ。服装こそ明らかに違うが、彼の姿を間違えようがなかった。
「お前…何でここに…」
 あの酒場があった浮島と、この浮島はそこそこの距離があるはずだ。だというのにこの男は着替えをすませ、彼女の前に先回りしていた。
「ふむ…私の顔に見覚えがあるようだが…」
 男は顎に手を当てると、うーんと呻いて見せた。すると男より向こう側、木々の向こうへと折れ曲がっていく歩道の向こうから新たな声が響いた。
「トッド、何かあったの?」
「ああ、レブ。お客さんだ」
 男ートッドが振り返りながら応えると、木々の向こうから白衣を羽織る女が現れた。彼女の姿に、ジェインは再び目を見開く。そこにいたのが、あの酒場でジェインにジルを渡した、女の店員そのものだったからだ。エプロンと白衣の違いはあるが、目鼻の位置は記憶の中の店員と完全に一致していた。
「ふむ…珍しいわね、このセントラ研究島にお客さんだなんて」
「お、お前たちは…え、何で…?」
 女店員と左隣の男。二人はジェインの声に顔を見合わせると、不思議そうな表情を浮かべた。
「どうやら、彼女は私たちのことを知っているらしい」
「そのようね。彼女の反応は私たちと顔見知り…だけどそこまで親しくはなかったようね」
 ジェインのことなど知らない、といった様子で、二人はそう言葉を交わした。
「おい待て、お前たちはさっき…」
 そこまで言葉を紡いだところで、ジェインは口を閉ざした。果たしてこの白衣の男女は、ジェインが知るあの男女と同一人物なのだろうか?
 ジルを使用し、酒場から逃走した後、ジェインはしばらく逃げ回った。だが、それっぽっちの時間で、あの船体が粉々になるような速度の『係留気流』に乗った飛行船に追いつかれることなく、ジェインに先回りできるだろうか?
「なあ…あんたたちに、その…双子の兄弟とかいるか?」
「双子はおろか兄弟はいないね」
「でも、似た人ぐらいはいるかもしれないわ」
 二人はジェインの問いかけに、そう応じた。
「そうか…すまない。知り合いに似ていると思ったが、気のせいだった…」
 そう、酒場の男女に似ている気がしたが、気のせいだろう。ジルを使用したときのショックや、落雷や落下の衝撃で少々記憶が混乱しているのかもしれない。何せ、飛行船の墜落事故のおかげで、この浮遊都市にどうやってやってきたのか未だにはっきりと思い出せないのだ。そのぐらいの記憶の混同があってもおかしくはない。
 ジェインはそう、自分自身を納得させた。
「それで、お客さん。先ほど飛行船が一隻、係留気流に巻き込まれて空中分解していたが、君はあれに乗っていたのかね?」
 男がふとジェインに尋ねた。
「ああ。塔にぶつかると思って、飛び降りたんだ」
「結局、研究塔にぶつかりはしなかったけどね」
「でも乗っていたらあまり変わらない結果になっていたわよ」
「どちらにせよ」
「よかったわね」
 男と女は、そう交互に言った。
「それで、お客さん。これからどうするんだ?」
「不法侵入者なら、警備団に引き渡さなければいけないけれど?」
「不慮の事故で紛れ込んだんだ。勘弁してほしい」
 まだ手配中の情報は来ていないらしいが、それでも警備団の世話になるのは勘弁してもらいたい。ジェインはそう真実すべてではない返答をした。
「ふむ、そういうことなら仕方ないな」
「来訪者身分で滞在してもらって、定期飛行船で帰ってもらうしかないわね」
 ジェインの言葉に、二人は顔を見合わせてうなづいた。
「助かった…それで、お二人が手続きだとかをやってくれるのか?」
 二人がついてきたりするとこの浮島を自由に動き回れなくなるが、それでもジェインはあえて問いかけた。
「残念だが、私には仕事がある」
「私にも仕事があるから、あなたの案内はできないわ」
 すると二人は、ジェインの予想通り答えた。植物の世話は以外と手間がかかる。特に、研究用の植物ともなれば、持ち場を離れて誰かを送り届けるなどと言う暇はない。
「場所を教えておくから、後はあなた一人で行くといいわ」
 女は白衣の懐から手帳を取り出すと、なにやらページにさらさらと書き込み、一枚破った。
「はい、この場所に行って、定期飛行船の出発まで待機すればいいわ」
「え?オレの来訪者身分とか、そういうのは…」
「すでに申請済みだ」
 地図を受け取りながらのジェインの問いに、男が応じる。
「セントラ研究島の大ジルが、私たちの申請を受理している」
「これであなたは来訪者身分として、このセントラ研究島をある程度自由に見学できるわ」
「ただし、仕事場を見られるのを嫌う研究者もいるから」
「通報されないよう、気をつけなさい」
 男女はそう、互いの言葉を引き継ぎながら、ジェインに向けて説明した。手が込んでいる割に、二人は台詞を重ねることもなく、途切れさせることもなかった。もしかしたら以外と事故による来訪者というのは多く、二人はその対応になれているのかもしれない。
「ああ、ありがとう…で、こっちに行けばいいのか?」
 ジェインは二人に礼を告げると、曲がりくねった遊歩道の先を指さした。巨塔までだいぶ距離があるように見えるが、これからの見学を思うと二人から離れた方がいい。
「いや、その必要はない」
「もう迎えを呼んでいるわ」
 二人がそう告げた瞬間、ジェインは音のような物を聞いた気がした。飛行船だろうか?
 ふと頭上を見上げると、ジェインは空に妙な物が浮いているのに気がついた。
 それは、イスだった。肘掛けのついたそこそこ立派なイスが、背もたれにくくりつけた大きな傘のような物を広げ、ジェインと男女の間にふわりと降りて来た。
「セントラ研究島は広い。ゆっくり走っていては、研究の時間が足りない」
「だから、ここではチェアを使って移動するの」
「さあ、座りなさい」
「あ、ああ…」
 ジェインは二人に向けて頷くと、言われるがままに傘付きのイスーチェアに腰を下ろした。すると彼女は、座面の左右に幅広のベルトが垂れ下がっているのに気がついた。
「ベルトを締めて」
「肘掛けをしっかり握って」
「ちょ、ちょっと待って…」
 片方のベルトの金具にもう片方を通して腰の辺りを締めると、ジェインの手は肘掛けを握りしめた。木材は微妙に凹凸しており、指を食い込ませるのにちょうど良さそうな配置だった。
「行き先を入力しよう」
「繰り返して、『定期飛行船発着ターミナル』」
「言うだけでいいのか?」
 ジェインは目を丸くするが、男女はそれに応えることなく先を促すように頷いて見せた。
「…『定期飛行船発着ターミナル』」
 言われたがまま、ジェインは繰り返した。すると、彼女の頬を風がなでた。正面からの風ではない、左から右へと横なぎの風だ。
(いや…横風じゃない)
 ジェインは後頭部でまとめた髪が揺れる感触に、自身をなでているのが横風ではなく、自分を中心とする渦状の風だと気がついた。彼女を中心とする渦は徐々に強まる。そしてついに、チェアがふわりと浮かび上がった。
 人や魔物が操作するわけでもないのに、言葉が通じる。浮遊都市や右足を触手に変えたジルのおかげでいくらか麻痺した彼女にとって、彼女の座るチェアが飛ぶことよりも、言葉だけで動くことの方がオドロキだった。
「では、落ちぬように気をつけて」
「よい旅を」
 空へと浮かんでいくジェインに向け、白衣の男女が彼女を見上げながら言った。
「ああ、いい忘れた」
「飛行中にジルを使うと危険よ」
「あぁ、ご忠告ありがとう…え…?」
 小さくなった二人の最後の言葉に応じてから、ジェインは不審を覚えた。なぜ、ジェインがジルを扱えることを知っているのだろう。
 彼女は肘掛けを握りしめて下方を見るが、すでにチェアは木々の梢を越えるほどの高さに浮いており、二人の姿は見えども声など届きそうになかった。
「…落ちてくるところを見られたのか?」
 右足を触手に変え、木の枝を折りながら落下の勢いを殺そうとする彼女の姿を見たのなら、ジルが扱えることを知っていてもおかしくない。もしくは、ここナムーフにおいてジルはかなり浸透しているのかもしれない。初対面の人同士でも、相手がジルを使っていること前提で話を切り出せるほどにだ。
 そうやってジェインが自身を納得させようとしているうち、チェアはいつしか塔の半ばほどの高さに浮かんでいた。
 飛行船に乗っているときは、操縦や脱出の準備でじっくり眺める余裕などなかったが、こうしてみてみるとなかなか立派な作りだ。距離や大きさのせいもあるだろうが、等間隔に無数の窓を整列させた表面は、なでればつるりとしそうなほどなめらかに仕上がっていた。そして並ぶ窓に紛れて、やや大きな穴があいていた。どうやら、あの穴から塔の中に入れるらしい。
 ジェインの乗ったチェアは上昇を止めると、まっすぐに塔の表面にうがたれた穴に向けて進んでいった。親指の爪ほどの大きさにしか見えなかった窓が、彼女の両手を広げても足りぬほどの幅になり、チェアがくぐれるかと不安に感じるほどの大きさに見えていた穴は、チェアが四台ずつ縦と横に並んでも通れるほどの大きさを備えた。
 そしてジェイン乗ったチェアは、ついに青空の下から薄暗い穴の中に入った。穴の中は薄暗かったが、出口からはやや薄い光が射し込んでいた。そしてジェインとチェアを包むつむじ風のたてる音が、穴の中で反響するのを聞きながら、彼女は穴を通り抜けた。
 ジェインを迎えたのは、吹き抜けだった。ほぼ塔の中身を丸ごとくり貫いた吹き抜けが、上下に続いていた。
 吹き抜けの内壁には、等間隔に桟橋のような物が突き出ており、それぞれに何らかの文字が並んでいた。
「えーと…『第八食堂』『リィド研究員室』…」
 吹き抜けの中を移動しながら、ジェインは桟橋に掲げられた文字を読んだ。どうやら階段や廊下の代わりに、チェアで移動できるようにすべてが設計されているらしい。逆に言えば、チェアがなければ移動など不可能だということだ。
「にしても、たくさんあるな…」
 無数のように感じられる桟橋を見上げ、見下ろしながら、ジェインは呟いた。この中からジルに関する部屋や、天候操作に関わる部屋を見つけることなど不可能なのではないか。だが、こうして定期飛行船ターミナルなる場所へ向かうまでの間に、何かが手がかりになりうる物が見えるかもしれない。ジェインはその一抹の可能性に賭け、あちこちを眺めていた。
 しかし、いくら彼女が遠くや近くの桟橋の文字をみたところで、人名と研究室を併記したものばかりだった。
「…ん?」
 不意にジェインは、遙か上方の桟橋に掲げられた文字に目を留めた。『ジル』の二字が見えたからだ。目を凝らし、わずかに揺れながら移動するチェアをものともせず、ジェインは並ぶ文字を見た。
『ジル基礎展示室』
「あれか…」
 あそこなら、ジルについて何かわかるかもしれない。そうジェインが確信したところで、チェアの揺れが変わった。程なくして、ジェインを乗せたチェアは、塔の内壁に設けられた桟橋の一つに近づき、着地する。
 到着しました、の一言もなかったが、ジェインは頬や髪を撫でていた風が止んだことに、到着したことを悟った。
「……」
 辺りを見回すが、迎えの者はおろか通りすがりが現れる気配もなかった。ベルトをゆるめてチェアを立ち、一人で奥まで来いということなのだろう。
 だが、ジェインは奥へ進むよりも試してみたいことがあった。
「えーと…『ジル基礎展示室』…」
 定期飛行船ターミナルを目指したときのように、ジェインは司会を通り過ぎた部屋の名を口にした。すると、遊歩道から浮かび上がったときのように、チェアを中心とする渦が生じて、再びイスが地面から離れた。
 塔の中央の吹き抜けへと移動し、上方へと浮遊していく。内壁から吹き抜けへと突き出す幾つもの桟橋が、ジェインの視界を上から下へと通り過ぎていった。
 この調子なら、何の問題もなく『ジル基礎展示室』に到着しそうだ。いくらか心理的なゆとりが生まれた彼女は、通り過ぎていく部屋西線を向けた。桟橋から部屋へと続く通路の多くは扉によってふさがれていたが、いくつか扉が開かれている、あるいは扉そのものがないため部屋の中を見通すことができた。書籍がうず高く積まれた部屋や、机の上に幾つものガラス瓶やフラスコが並べられた部屋、単に大きなテーブルとイスだけがおかれた部屋などが見える。
 そして、『ジル基礎展示室』まであと少しと言うところで、ジェインはある部屋に目がすい寄せられた。一瞬、彼女の視界を通り過ぎたのは机が二つおかれ、奥の壁に絵掲げた部屋だった。だが、掲げられていた絵は風景画や肖像画などではなく、黒い丸が四つと白い四角が描かれたものだった。
 いや、違う。描かれていたのは、四分の一が切り取られた円が四つ並べられているだけだ。白い四角に見えたのは、黒い丸の配置のせいだ。
 ジェインは、存在しない四角を見てしまったことに気がつき、内心でそう訂正した。そしてすぐに、彼女は脳裏から黒い丸の絵のことを追い出した。ジェインの乗ったチェアが、『ジル基礎展示室』の桟橋に降り立とうとしていたからだ。
 チェアがゆっくりと、四本の足を桟橋におろし、纏っていた風を消失させた。ジェインは肘掛けを握りしめていた指をゆるめ、腰の辺りを締めるベルトを外すと、立ち上がった。自身の足で踏みしめるしっかりとした足場は久々のように感じられた。
「いや、ゆっくり感動している場合じゃないな…」
 ジェインはそう呟くと、桟橋の奥、内壁にもうけられた扉に目を向けた。扉は薄く開いており、鍵がかかっていないことがわかった。
 何か、手がかりがあればいいが。
 ジェインは扉に歩み寄ると、ゆっくりと押し開き、『ジル基礎展示室』に入っていった。
13/12/03 22:45更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
ナムーフ三周年記念スピーチ抜粋

諸君、我々がこの天上の都市を築いて三年が経過した。
この三年間、地上では様々なことが起こった。
幾つもの人里が魔物の手に落ち、魔物の思うがままに人々が蹂躙されているのだ。
諸君、我々は魔物との共生を果たしたいと考えている。しかし魔物は我々を浸食し、取り込まんとしている。
我々がこの天上の都市にいる限り、我々は魔物から襲われることはない。
だが、我々が安らかな日々を過ごす傍ら、地上では人々が魔物に浸食されているのだ。
地上を救うため、魔物との共生を果たすため、我が同胞ギゼティアはセントラ研究島において日々研究を続けている。
諸君、ギゼティアとセントラ研究島の同胞たちを支えようではないか

ロプフェル行政長 ナムーフ歴三年

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