chapter 1
音楽に導かれて足を進めると、ジェインはいつしか浮島の縁にたどり着いていた。島の縁には腰ほどの高さの欄干がぐるりと備え付けてあり、通行人の落下を防ぐようになっている。そして欄干の一角の切れ目から、通りと同じ幅の橋が隣の島へと続いていた。音楽は、隣の浮島から響いているようだった。
ジェインは浮島の縁でしばし立ち止まってから、橋へと足を踏み出した。橋の欄干の向こうに見えるのは何処までも続くような青空と、何処までも広がる青い海、そして二つの青が描き出す水平線だけだった。どうやらこの浮遊都市ナムーフは、海の遙か上空を漂っているらしい。
下が水とは言え、落下するのはごめんだ。
ジェインは石畳で舗装された橋一つ下の遙かな青が、橋や靴を通り抜けて足裏から体内に染み込んでいくような感覚を覚えながら、足早に音楽の響く浮島に移った。
「よし、と…」
空に浮かぶという点では橋と同じだが、土台の厚み分安心感のある浮島に立つと、彼女は今きた道を振り返った。建物の合間から立ち上る煙は薄くなっており、煙と青空を背に『14番街改装間近!』という横断幕が島の土台に張られているのが見えた。道理で人がいないわけだ。
「さて…」
ジェインは無人の浮島から、顔を島の奥へと続く通りに向けた。町並みは、先ほどの無人の浮島と変わらぬようだったが、人の気配があった。建物の窓や商店の扉が開かれており、窓辺におかれた鉢植えに水をやる女や、店先を掃除する男の姿が見える。しかし彼女は軽率に人々に近づく真似はせず、視線だけを左右に向けながら足を進めていった。
「そこのお嬢さん!感謝祭特別価格だよ!」
店の前を通るジェインに向け、雑貨屋の店員が声をかける。彼女は顔を向けてみるが、並べられているのは箒にバケツにと日用品レベルの雑貨ばかりだった。少なくとも、今のジェインに必要な品物ではない。
「ほらほら、ランプの芯はちびてないかな?今なら玉磨きもつけるよ!」
立ち去ろうとするジェインを引き留めようと、男はランプの替え芯と手入れ道具を両手に声を上げる。だが、ジェインはそもそもランプ自体を持っていないのだ。
「悪いね」
そういい残して、彼女は立ち去ろうとした。
「ああ、ちょっと待って、ちょっと待って!」
男はそう、視線を前に向けようとしているジェインにすがるように言うと、手にしていた替え芯の束と手入れ道具を同時に宙に放り投げた。
「ほらほら、今なら上質のランプオイルも二つで一つ分の値段にしておくから!」
彼は薄く色付いた液体の入った小瓶を手に、そうジェインに言った。彼の行動に、ジェインは足を止めていた。割引価格ではない。彼が放り投げた商品二つが、落下することなく浮いていることに気がついたからだ。
「ほら、替え芯と上質オイル!この二つで玉磨きと上質オイルがもう一つ…」
彼女の耳に、店員の声は届いていなかった。ふわふわと、まるで水面に浮いているかのように漂う二つの商品が、彼女の意識を捕らえて離さないのだ。
魔術か?それとも手品か?
彼女の脳裏で疑問符が舞う。
「ん?おっとお嬢さん、どうかご安心を!」
店員の男は、ジェインの視線に気がついたのか口上を断ち切ると、ふわふわと浮かぶ芯の束と小瓶を示しながら続けた。
「こいつはセントラ印の『クラーケン』のジルだよ!それに『治癒』ジルも飲んでるから、安全だ。ほら!あそこに空き瓶がおいてあるだろ?」
店員の男は店の奥の棚を指さす。するとそこには、彼の言うとおり二つの瓶が並んでいるのが見えた。丸みを帯びた体に、長い首を備えたガラス瓶。距離と店の奥の暗がりのため、よくラベルは読めないが、それでも『クラーケン』と『治癒』という字は読めた。
「ジル…?」
「ああ、本家本元、本物のジルだからご安心を!それで今なら…」
「ああ、ありがとう。また今度に」
ジェインは話を切り上げると、踵を返して足早に店の前を離れた。
「……」
足を進めながら、彼女は通りに並ぶ建物に目を向けた。先ほどの雑貨屋店員の手品に対し、反応している者は誰もいなかった。
浮かぶ商品。クラーケン。ジル。
どうやらその三つは何らかのつながりがあり、ここナムーフではごくありふれたものらしい。一体先ほどの現象がなんなのか。それを理解しないと、聞き込みどころではない。
ジェインは足を進めながら、雑貨屋店員が見せたものと同じ手品を誰か使っていないか探していた。だが人々は、この街が空の上にあることを忘れさせるほどに、ごく当たり前の行動をしているばかりだった。
その辺の通行人を捕まえ、路地の暗がりに連れ込んで締め上げれば、多少は何か聞き出せるかもしれない。
ジェインの胸中で、治安維持組織に追い回されるリスクより、情報を得ることへのメリットが大きくなってきたところで、彼女は浮島の中央部に近づいたことを悟った。陽気な音楽があたりに響きわたり、通りの向こうの広場に多くの人々がいるのが見えた。彼女が顔を上げると、建物と建物の間に横断幕が張られているのが目に入る。
『ナムーフ生誕十周年祭』
横断幕にはそんな文字が踊っており、その向こうの広場にはいくつもの屋台が並び、人々が行き交っている様子が見えた。
引き返そうか。
この街に馴染むには十分な情報を得られていない彼女が、少しだけ今きた通りを振り返る。だが、ここで人混みを避けるように移動するのは不自然だ。一度祭りの会場に入って、別の通りへ抜けていった方がよいのではないか。それに人混みで交わされる会話を耳にすれば、それなりに情報が得られるかもしれない。
ジルに最終兵器にナムーフの過去。おそらく、今日はこのナムーフが空に飛んでから十周年の記念日なのだろう。そしてこのナムーフだけにあふれるジルとやらが最終兵器に関わる何かかもしれない。ここに来るまでに得られた断片的な情報からでも、全体像を推測することは可能だ。
ジェインは意を決すると、横断幕の下をくぐり、広場に近づいていった。
太鼓とラッパが紡ぐ行進曲を思わせる音楽は、耳にした者の心をうきうきとさせる明るさに満ちていた。並ぶ屋台も、黄色やオレンジ、赤など明るい色を積極的に使っており、目に鮮やかであった。
「いらっしゃいいらっしゃい、スティックポテトはどうかね!」
手のひらほどの大きさの紙袋に入った、細く切った芋を揚げたものを掲げて見せながら、恰幅のよい男が客を呼ぶ。
「さあさあ射的だ!いつもなら矢が三本のところを今日は五本!豪華景品が待ってるよ!」
小さな弓と、鏃の代わりにボールを先端につけた矢を手に、射的の屋台へと客を招く声がする。
「救いの手だよ!ナムーフの救いの手で、飴を救おうじゃないか!」
「おじさん!一回やらせて!」
行き交う人々の間から響いた声に彼女が目を向けると、丁度一人の子供が髭面の店主に小銭を渡しているところだった。
「はいよ坊ちゃん、チャンスは一回だ。『ここだ!』ってところで取っ手を引きな」
「よーし」
店主の言葉に、子供は袖をまくり上げる真似をしながら、屋台のカウンターに置かれた取っ手を握った。屋台の奥に目を向けると、人一人が横になれるほど大きな台が見えた。台の上には飴が積まれており、大小さまざまな山をいくつか築いていた。そして、台の上をナムーフを構成する浮島の模型が一つ浮いていた。ただし、模型の上には屋台の天井裏へと続く縄が数本ついており、模型の下部からは人の手を思わせる先端を備えた棒が二本生えていた。
子供は台の上を前後左右に移動する模型を見つめながら、とある山の上で取っ手を思い切り引いた。直後、浮島の模型を吊していた縄が伸び、下方に積まれた飴の山に迫っていく。そして飴の山の頂と模型の底部がふれた瞬間、模型の腕が曲がって飴を抱き寄せた。
「大当たり!」
バラバラと飴をこぼしながらも、いくらかの飴を抱いたまま浮かび上がる模型を背に、店主は声を上げた。そして屋台の内側においてあった紙製のカップを手に取ると、『ナムーフ』の抱える飴をざらざらとその中に受け取った。
「はいよ、坊ちゃん!また来てくれよ」
「わーい」
子供は店主から飴のはいったカップを受け取ると、満面の笑みを浮かべながら人混みの中へと消えていった。
「……」
いつしか足を止めてしまっていたジェインは、『ナムーフの救いの手』の屋台から目を離すと、人の流れに沿って歩いていった。行き交う人々は老若男女様々で、皆祭りを楽しんでいるようだった。
「ナムーフ生誕十周年祭か…」
広場を囲む建物から吊された布や、屋台の壁面に貼られたポスターを見ながら彼女は呟いた。文字を額面通りに受け止めるなら、この浮遊都市ができてから十年だ。よくもまあこんな巨大なものが地上の人々に見つかることなく、宙をさまよい続けたものだ。
「海の上に浮いてるからだろうな…」
大陸沿岸から外海に出れば、ほとんど人の目はないに等しい。それならば、十年間この街が浮かび続けることもできるわけだ。もっとも、街から飛んで無事海面に降りたとしても、陸地に至るまで一苦労必要だということだ。
「さあ始まるよ!世紀のジル・ショウが始まるよ!」
ジル。呼び込みの声に含まれていた単語に、彼女は声の源へ目を向けていた。そこには、ほかの屋台とは明らかに違う、急ごしらえの仮設ステージのようなものが据えてあった。人垣の合間からのぞき込むと、ジェインの目にステージの上に立つ男の姿が目に入った。
「さあさあよってらっしゃい、見てらっしゃい!今日は本物の奇跡を目にするよ!」
礼服を身にまとった小柄で太った男が、白塗りの顔に満面の笑みを浮かべながら客寄せの口上を述べる。
「本日みなさまにご覧いただくのは、ジル!みなさんご存じ、ここナムーフを一変させたセントラ生まれの奇跡の滴だ!」
男は高々と手を掲げつつ続けた。
「指先に火を灯し、手のひらから電光を生み、遠くの物をも浮かして招き寄せるジル!ジルがナムーフの暮らしを一変させた!」
そこまで述べたところで彼は言葉を切り、ぱちんと音を立てて胸の前で手のひらを打ち合わせた。
「まずは『サンダーバード』!嵐の中でしか見ることのできなかった稲妻が、こうして我々の手の中に!」
男がゆっくりと胸の前で合わせていた手を離すと、バチバチという小さな破裂音と共に、彼の指先や手のひらをつなぐように青い稲光が幾本も橋を渡していた。落雷の瞬間、目の裏に一瞬だけその影を焼き付かせるだけだった雷が、小柄な男の手の中に捕らえられ、身悶えしている。
「続いて『サラマンダー』!ほんの火花から火柱まで思いのまま!夜道の相棒に、台所のお供にと引っ張りだこ!」
瞬間的に稲光が消え去り、彼の手の中の空気が燃え上がった。火の玉が二つ、右手と左手に浮かび、ゆらゆらと揺れている。よく見れば火は彼の肌に接していないようだが、それでも男は涼しい顔で手の中の火を振り回し、時折大きく燃え上がらせた。
「そして傑作『クラーケン』!海に巣くう魔物の力があなたの手に!」
口上と共に男の手のひらから火が消える。だが、ジェインは彼の手に何かが宿っているのを感じていた。
「どこまでも伸び、巨船をもまっぷたつにするその怪力の片鱗が、今こうして我々の元に!どこまでも伸びる力が、少しだけ手の届かない場所での作業を可能にしました!」
男は舞台を囲む人垣を見回し、ある方向に顔を向けた。
「そこの坊ちゃん!少し帽子を拝借!」
彼が手を人垣の一角に向けると、そこにいた少年が被っていた帽子が、ふわりと浮かんだ。風に巻き上げられたわけでもなく、ただ目に見えない誰かが持ち上げたかのように帽子だけが浮かんだのだ。
「離れた場所の道具も思いのまま!小柄な坊ちゃんでも、気軽に柱時計のゼンマイだって巻けます!」
男はしばし空中で帽子をもてあそぶと、そっと持ち主の少年の頭に戻した。
「ジル!ナムーフでの暮らしを劇的に便利にさせたこの奇跡の滴!もはや持っていない方などいらっしゃらないでしょう!そして今、セントラから、新たなジルがイアルプにお住まいの皆様に発売されました!それこそがこちら、技術ジル!」
男がそう言いながら舞台袖に手をかざすと、まっすぐに赤い液体の入った小瓶が飛んできて、彼の手の中に収まった。まるで舞台袖の助手が的確なコントロールで投げたようだが、先ほどの『クラーケン』を使ったのだろう。
「皆さん!皆さんのうち、逆立ちができる方はいらっしゃいますかな?逆立ちできる方は、どれほど練習したか覚えていますかな?もし、つらい練習の日々を過ごすことなく、誰もが逆立ちができるようになるとしたら?そんな『もし』を現実にするのが、この『技術ジル』です!魔物の力の一部を取り入れるように、達人の技の一部を取り入れられるのが『技術ジル』!さあ皆さん、ご覧ください!」
男はその場で軽くひざを曲げると、えいやっとばかりに宙返りの要領でジャンプした。だが、太り気味の体型のせいか、彼は空中で一回転するどころか、舞台の上で仰向けにひっくり返ることとなった。
「ごほっ…はははは!ご覧ください!このように今の私では宙返りはできません!ですがこの『軽業師』のジルがあれば…」
舞台から起きあがりつつ、彼は小瓶の蓋を外し、中身をくいと飲んだ。一口に満たない量の赤い液体が彼の体内に消えると、彼の小太りの体がぶるぶると震えた。
「か…は…!」
目を見開き、大きく開いた口から舌を突き出しながら彼が喘ぎ、直後彼の全身の緊張が解ける。
「お、お待たせしました…それでは!」
男は言葉を絞り出すと、呼吸を整えてから軽く膝を屈めた。直後、男が舞台を蹴ると同時に、彼の体は軽やかにその場で一回転した。そしてジャンプした位置より一歩後ろの場所に、彼はすたんと足をそろえて着地する。
「おおお!」
舞台を囲む観衆が、一斉に歓声と共に手を打ち鳴らした。運動が得意そうに見えない太り気味の小男が宙返りをするだけでも、十分喝采に値するからだ。だが、素直に手を打ち鳴らす観衆の中、ジェインだけはどこかぎこちない面もちで、拍手をしていた。
小男が宙返りの技術を身につけたのを、素直に受け止められないわけではない。逆に彼女は、技術ジルなる液体の効能を信じてしまっていた。そう、あれがあれば、宙返りのみならず様々な技術や対術を手軽に身につけることができるだろう。宙返りができるならば、格闘術の体裁きや、剣術の型や弓矢の扱いなど容易に身に付くはずだ。どれほどの技術を伝えられるかはわからないが、それでもそこらにいくらでもいるような素人を一年かけて訓練するより手軽に武器の扱いを教え込めるかもしれない。そしてその兵士に、魔物の力をもたらすというジルを飲ませたら。
小瓶一本分の液体を飲ませるだけで、超常的な力を持つ兵士が一人生まれる。いくらでも武力を生み出すことができる可能性に思い至ったジェインの背中を、冷たい物が滑り落ちた。
「こいつだ…」
ナムーフの最終兵器。それこそこのジルに違いない。ジルを入手し、この浮遊都市から脱出しなければ。そうすれば、人知れず空に浮かぶナムーフの存在を地上に知らしめ、彼らの武器であるジルへの対抗策を作り出せるかもしれない。
だが、どうやってジルを手に入れ、この浮遊都市から脱出する?
「……」
ジェインは胸中で自問し、辺りを見回した。舞台の上では、未だ太った小男が宣伝文句を紡いでいる。聞くところによると、もうすぐ発売だからここに在庫はないらしい。ならば用はない。
「さあ、続いてはロプフェル行政長による、ジルのもたらした偉大なる未来についてのお話です!」
小男の声に背を向け、ジェインはジルの瓶を求めて歩きだした。これまでの様子を見たところ、どうやらジルはナムーフに広まっているらしい。ならば、どこかに専門店があるはずだ。場合によっては、この祭りの会場にも屋台があるかもしれない。
「ロプフェル行政長の登場です!」
背後からの歓声に一瞥もくれず、ジェインは人の合間を縫うように通り抜けていった。軒を連ねる屋台に目を走らせるが、小瓶の姿は見えなかった。
「どこかにきっとあるはず…」
菓子、飲み物、ゲーム、食べ物、おもちゃ。地上でも見覚えのある屋台の前を素通りしながら、彼女はジルを求めていた。やがて、ジェインはいつしか会場の縁に至っていた。目を向けると、祭り会場に入ったのとよく似た、それでいて並ぶ建物の異なる通りが彼女の前にあった。並ぶ店は、酒場に料理店と、食品を提供する物が多かった。
「…ん?」
ジェインが通りに並ぶ看板を眺めていると、妙に引っかかる物を感じた。改めて通りに並ぶ看板に目を向ける。
『ガンガ食堂』
『喫茶&酒 フィルペ兄弟の店』
『酒 バックラン亭』
『串焼き専門 カン屋』
一文字一文字、並ぶ文字を読み解くうちに、ジェインは違和感の正体に思い至った。一軒だけ、看板の空白が妙に広いのだ。彼女が目を凝らしてみると、看板の文字が一部塗りつぶされていることがわかった。看板の背景色にあわせて文字を塗ったためか、微妙な濃淡の差がかつて書かれていた文字を彼女に教えた。
「『酒とジル バックラン亭』…」
塗りつぶされてしまっていた文字を加えて、ジェインは看板を読んだ。そう、ここだ。この店ではかつてジルを売っていたのだ。どういう理由かはわからないが、今ではジルから手を引いているのだろう。
「経営が傾いたのか…?」
赤字が続いて、売れ行きのよくない商品の扱いをやめるなどよくあることだ。おそらくここも、そうやってジルを扱うのをやめたのかもしれない。
ジルという文字を見つけたにも関わらず、その道筋は絶たれてしまった。かのように見えたが、ジェインの目に諦めの光はなかった。むしろ逆に、彼女の足はバックラン亭に向けて進められていた。
開け放たれた戸をくぐり、薄暗い店内に入る。複数種類の酒の匂いと共に、幾対もの視線が彼女に向けられた。バックラン亭にいたのは、祭りの会場を歩き回るのに疲れたと思しき、男たちだった。女性客はお洒落な喫茶店へ、子連れは家族向けの料理店にでも行っているのだろう。
「通してくれ」
ジェインは、自身に向けられる好奇の視線を無視しながら、カウンター席に向かった。そして三つ連なる空席の真ん中に腰を下ろした。
「らっしゃい」
カウンターの向こうで、男がジェインに向けていう。
「何にする?」
「ええと、何か冷たいものを」
彼女は自分の体の欲するまま注文した。ここにくるまで歩き通しだった上、船の墜落現場では目が覚めるまで火に当たっていたからだ。
「…あいよ」
店主の男は、ジェインの曖昧な注文に一つうなづくと、彼女に背を向けた。そして壁に並ぶ瓶の一本を手に取ると、グラスにその中身をそそぎ込み、軽く左手でグラスを握った。
……ィン……
一瞬、ジェインは何か甲高い音が聞こえたような気がした。
「お待ち」
ジェインが音の源を探ろうとしていると、店主は彼女に向き直って、手にしていたグラスをおいた。
「なあ、オレは冷たいものを注文したんだけど」
瓶から注いだだけの飲み物のどこが冷たいのか。彼女がそう抗議しようとすると、店主はぶっきらぼうに短く言った。
「冷えてるよ」
ジェインがグラスに目を落とすと、透明なグラスが少しだけ曇りを帯びているのに気がついた。曇りはいつしか大きな滴となり、まるでグラスが汗をかいているかのように、木板に向けて滴を垂れさせた。
「ごゆっくり」
「あ、ああ…」
店主の言葉にぎこちなく応じつつ、ジェインはグラスに触れた。冷たい。いったいどうやったのだろうか。ジェインは脳裏に浮かんだ予想を確かめるべく、ちらりとカウンターの奥に目を向けた。すると、彼女の目当てのものはすぐに見つかった。
丸みを帯びた胴に、細長い首を備えたガラスの瓶。胴に貼られたラベルには『ゆきおんな』と記されている。
ゆきおんな。東の方に生息するという、冷気を操る魔物だ。ジェインの予想では、ゆきおんなかグラキエスのジルを使っているはずだという予想があったが、その通りだった。
「やっぱりな…」
この店にはジルがある。かつてジルを扱っていたのなら、その在庫が残っているはずだ。また、完全に在庫も空っぽだとしても、仕入先を教えてもらえるかもしれない。
「なあ」
「何だ?」
ジェインがふと思いついたようにカウンターの奥に声をかけると、店主の男は訝しげに返答した。
「看板にジルって書いてあったけど…」
「書いてあった、な。今はもう止めちまったよ」
店主は過去形であることを強調してから、軽く肩をすくめて見せた。
「何でだ?」
「そりゃあお客さん、ジルを使ってあんなことが起こっちまったら…まあ、今では『治癒』があるからどうってことないが、もう扱う気はないな」
「そうか…なあ、ジルが何か残ってないか?」
「あん?」
店主はジェインの問いに、眉を片方上げた。
「ジルはもうないね」
「一本ぐらいは」
「一本も、だよ…というかお客さん、あんたジルを欲しがってどうしたんだ?」
「そりゃ…」
「悪いことは言わない。あんたに売るジルはここにはないし、ナムーフを探しても売ってくれるやつなんざいないよ」
ジェインを諭すように、店主は言った。
「今日はめでたい日だ。よくないことを考えてるなら…一度家に帰って、腹一杯食って寝な」
「何を…」
「その一杯は俺のおごりだ。飲んだら帰るといい」
店主は、ジェインを諭すようにそう言葉を連ねると、彼女の前から離れていった。
「…何なんだ…」
販売拒否ならまだしも、諭された上、飲み物をただにしてもらった。いったい何が問題なのだろう。ジェインは汗をにじませるグラスに目を落とし、自問した。
ジルを扱うには年齢制限があったり、免許が必要だったりして、彼女はそれから外れていたのだろうか。それに、ジルを使って起こったという『あんなこと』も気になる。
「お困りのようだ」
ふと、考え込むジェインに向けて声が降り注いだ。彼女が顔を上げると、カウンターの内側に女が一人立っていた。髪を後頭部で結った、ジェインより一回りほど年かさの女だ。先ほどの店主と同じエプロンを身につけているところをみると、店員だろうか。
「ジルが欲しいのか」
店員と思しき女の続く言葉の代わりに彼女の耳を打ったのは、左隣の席からの男の声だった。空席一つ挟んだ向こうから、男が顔をジェインの方に向けている。
「残念だが、あなたにジルを売ってくれる場所などどこにもない」
「ジルを買うのは諦めた方がいい」
二人はあらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、ジェインにそういった。淀みなく続いた二人の言葉に気味の悪いものを感じたジェインは、それとなくあたりの様子を伺った。だが、テーブルに向かう客はおろか、カウンター席に並ぶ客さえもが男女を気にすることなく飲食や雑談を続けていた。
「…なんでジルを売ってないんだ?」
ひとまずジェインは、二人に対する気味の悪さを押し隠し、そう尋ねた。
「ジルの販売は続いている」
「ただあなたに売る者がいないだけ」
「何でオレには売ってくれないんだ?もしかして、オレがよそ者だと見抜かれているからか?」
「それは…」
「止めておこう。私と私が言ったところで、あなたに直せる問題ではないのだから」
返答しようとする男を押しとどめ、カウンターの内側の女が言った。
「はぁ…参ったなあ…」
ジルが入手できない。ナムーフの最終兵器を持ち出すことができないという状況に、ジェインはため息をついた。これでは依頼を達成できないではないか。依頼をこなして、報酬を得なければならないというのに。
「あなたに売るジルはない」
「ただ、ジルはナムーフのどこにでも存在する」
困り果てているジェインに向け、男女が言葉をかけた。
「売る者がいなくても、ジルを入手する方法はいくらでもある」
「誰かの忘れ物とか、その辺に置いてある物とか」
「ちなみにこれは」
「私と私の忘れ物だ」
女がどこから取り出したのか、一本の瓶をジェインの目の前に置いた。丸みを帯びたのガラス瓶の上部、細長い首に腰から下に何本もの触手を備えた女の装飾が施されている。そして瓶のラベルには『クラーケン』と記されていた。
祭りの会場にはいる前に見かけた雑貨屋の店主が使っていた物と同じだ。
「これ…」
「深くは聞かない方がいい」
「私たちも深くは聞かない」
二人は言葉を断ち切ると、彼女から視線をはずした。男は顔を正面に向け、女はカウンターを離れて店の奥に引っ込んでいった。
見知らぬ男女に話しかけられ、ジルを譲ってもらった。夢だったのではないかという自らに対する不信がジェインの内にあったが、彼女の目の前に『クラーケン』のジルは確かにあった。
ジルが手に入った。あとはここから脱出するだけだ。だが、ジェインの胸中にはそれを良しとするだけの余裕はなかった。突然彼女の目の前に現れ、ジルを譲ってくれた男女。その二人に対する不信感のような物が、彼女の胸中にあったのだ。
「…なんなんだ、あんた等は…」
ジェインから視線を逸らした男に向けて問いかけるが、返答はなかった。どうやら、向こうとしては話はそれで終わりらしい。これ以上しつこく話しかけて、ほかの客の目を引くのも面倒だ。ジェインはため息をつくと、目の前のグラスの中身を飲み干して、店を出ようと考えた。
「おい、姉ちゃん」
すると不意に、右方向の席から声がかけられた。
「その瓶…ジルじゃねえか…?」
「ん?ああ、まあね」
男の睨むような視線に後込みすることなく、ジェインは軽く頷きつつ、瓶を振って見せた。だが、それがいけなかったらしい。
「し、浸食主義者だ!」
男が表情を強ばらせ、声を上げた。直後、バックラン亭の席を埋める客たちの視線が、彼女に集中した。ある者は席を立ち、ある者はいすをひっくり返して通路に出て、ジェインを見ていた。
「な、何だ…」
「こいつ、ジルを一瓶まるごと持ってやがる!浸食主義者だ!」
右側の席に座っていた男が、状況を理解し切れていないジェインを指さしながらそう喧伝する。
「誰か!警備隊を!」
「逃げろ!人を呼べ!」
「取り押さえるんだ!みんなでかかれ!」
客たちが口々に怒号をあげ、ジェインから離れようとする者、ジェインを取り押さえようとする者とで入り乱れ、ぶつかり合った。
「おい…!」
ジェインは左側に座っていたさっきの男を捜そうと群衆を見回すが、彼の姿はなかった。似た服装の、さっきの男より年をとった中年の男から視線を引き剥がすと、彼女はカウンターを振り返った。だが、店員の女は姿を見せず、代わりに店主と思しき男が奥の部屋から顔だけのぞかせ、やれやれとばかりに頭を振った。
味方はいない。どうにかしてこの場を逃れなければ。ジェインはカウンターに手を突くと、床を蹴ってその内側に飛び込んだ。
「隠れたぞ!」
「ジルを使う気だ!」
「使わせるな!」
怒号とともに、グラスや酒瓶がカウンターを飛び越え、壁にぶつかって砕けた。ジェインは降り注ぐガラスの破片から顔をかばいつつ、逃走経路を脳裏に思い浮かべた。
カウンターを飛び出し、正面出入り口から出ていく?カウンターの向こうの連中が多すぎるし、警備団の連中と鉢合わせするかもしれない。
店の奥に入り、裏口から出ていく?可能ではあるが、店の奥の間取りが不明な上、カウンターから出ていく際に姿が見えてしまう。
何か、連中をひるませる方法があれば。ジェインは自問すると、手の中の瓶の重みに目を落とした。そこにあるのは、店員の女と隣席の男から渡されたジルだ。ジェインがすぐにどこかに隠すか、そもそもあの男女が差し出さなければこんな騒ぎにはならなかったはずだ。
だが、これは使えるかもしれない。ジェインの脳裏に、雑貨屋の店主の姿が浮かんだ。飛んでくる酒瓶を受け止めて投げ返せば、連中をひるませるかもしれない。
「…仕方ない…試してみるか…!」
ジェインはカウンターの中でそうつぶやくと、瓶の首に足を絡ませるクラーケンの装飾をつかみ、引いた。きゅぽんっ、と小気味いい音とともに蓋が外れ、ほのかな酒精にも似た香りが広まった。
「…よし」
ジェインは立ち上る匂いを嗅いで覚悟を決めると、瓶の口に唇を寄せ、丸みを帯びた胴を高く掲げた。瓶の奥から彼女の口内へ、液体が流れ込む。液体は数種類の薬草や魚の肝をつけ込んだかのように薬臭く、生臭く、苦かった。だが彼女は口内に広がる味を無視し、液体をのどの奥へと流し込んでいった。
「んっ…んっ…んっ、げほっ!」
瓶の半ばほどまでを飲み干したところで、彼女は不意にこみ上げてきたままにせき込んだ。手元が狂い、ジルのボトルが彼女の手から落ちる。カウンター内の木板の上で、ガラス瓶は粉々に砕けた。だが、流れ出していく液体に気を配る余裕などジェインにはなかった。腹の奥、肺の底からこみ上げてくる咳が、彼女の背筋を丸め、のどを幾度も痙攣させた。
「げほっ、ごほ、げほ…!」
腹の奥に熱が生じ、熱が血の流れに乗って全身に広がっていく。そして、一度広がった熱は彼女の右足へと流れ込んでいった。一瞬、彼女の足を痛みが走る。直後、ジェインは涙の滲む目で、ズボンに包まれた自信の右足が膨れ上がるのを見た。太腿や膝、ふくらはぎの区別などなく、右足の腿の半ばより下が膨張する。ズボンの生地が張りつめ、一瞬のきつさを挟んでから一気に裂けた。長らくズボンに守られていた彼女の右足の肌が、外気に直接撫でられる。だが、ジェインの目がとらえたのは、彼女の足などではなかった。
太腿半ばから裂けたズボンの下にあったのは、数本の触手だった。片側に吸盤を備えた、先細りになっていく触手が数本、彼女の太腿の半ばから足の代わりとばかりにうねっていた。白く、ぬらぬらとぬめる表面で店内の明かりを照り返すそれは、一本一本が彼女の足ほどの太さもあった。そして触手の一本の先端に、彼女が履いていた靴が引っかかっていた。ズボンの中に足を数本つっこめば、生地が破れるのは当たり前だ。ジェインは混乱しつつも、意識の一角でどこか冷静に納得していた。
そして意識の別の一角で、彼女はこの白い物が自分の足の訳がないと否定し、その証明をするべく軽く足の指を曲げて見せた。だが、彼女の否定とは裏腹に、触手はジェインの思った通りに丸まって見せた。いや、足の指一本一本が腕のように長く、しなやかに動く。その自由なうごめきは、彼女の想像以上だった。
「ほら、咳がやんだぞ!」
「追い込め!」
ふとジェインは、自身が取り囲まれていたのを忘れていたことに気がついた。そう、この手も足も出ない状況を打開するために、ジルを飲んだのだ。ジェインは床に手を突いて立ち上がろうとし、自分の片足が体重を支えるには柔らかすぎることに思い至った。
「こりゃ、走れないな…」
グラスが飛んできては砕けて降り注ぐ中、彼女はそうつぶやきつつ支えになりそうな物を探した。カウンターの縁が目に入る。そうだ、あれがいい。
彼女がカウンターに向けて手を伸ばそうとしたところで、半ば彼女の意識の外にあった触手がひょいと持ち上がった。触手は吸盤の並ぶ一面をカウンターに当てると、そのしなやかな三角錐を構成する筋肉を縮ませた。腕などより遙かにしっかりと彼女の体が支えられ、上半身が持ち上げられる。
「おっ!?」
ひょいと姿を現したジェインに、彼女思っていたより遠巻きにカウンターを囲む男たちが声を漏らす。そして彼女とともにカウンターから姿を現した幾本かの触手に、瓶を振りかぶっていた者は動きを止めた。
「ジ、ジルを…」
「使いやがった…!」
男たちの目に動揺と恐れの色が滲む。一瞬の沈黙が酒場を支配し、その重圧に耐えられなくなった男が、手にしていたグラスを降りかぶった。
「うああああ!」
声とともに投げられたグラスは、ジェインに向けてまっすぐに飛んでくる。危ない。ジェインは飛んでくるグラスから身を守るべく、右足から生えた触手の一本を自身の前にかざした。半ば無意識のうちにつきだした触手は、飛んできたグラスを吸盤で吸いつけつつ、柔らかく受け止めた。ガラスの器が、砕けることなく彼女の触手の中に収まる。その丸みと微妙な冷たさを、彼女は足の指の感覚の延長で受け止めていた。
「や、やっつけろ!」
ジェインがグラスの感触を味わっている間に、ほかの男たちも硬直を説いたらしく、それぞれ手にしていた物を投げてきた。酒瓶、皿、フォーク、そしてイス。力の限り、とりあえずジェインの方に向けて投げ放たれたそれを、彼女は触手で受け止めようとした。すると白くぬめった細長い三角錐は、彼女の思い描いたとおりに延び、飛んできた物を受け止めた。痛みはない。重みもあまり感じられない。イスさえもがまるで小石を握っているかのようだ。
「…」
彼女はちらりと店の窓を見やると、触手をしならせ、握っていたグラスや酒瓶を投擲した。
「うわ!」
「投げ返してきたぞ!」
山なりの緩やかな弧を描くグラスに、男たちは過剰に反応し、鳶のいて距離をもうけた。カウンターから店の大きな窓まで、ほぼ一直線に道が開く。彼女は線上に誰もおらず、誰も飛び込む気配がないことを確かめると、握りしめていたイスを全力で投げつけた。
イスはグラスや酒瓶が切り開いた人と人の間の道をまっすぐに進み、ガラス窓を突き破って表へと転がり出ていった。ジェインは、イスが一度石畳にぶつかって跳ね返る間に、触手を伸ばした。どこまで、というねらいはない。彼女の内には、触手がどこまでも伸びていく自信があった。そして事実、白い触手は彼女の足の長さの十倍以上に伸び、店の床板に先端を触れさせた。
これで逃走できる。
ジェインは、瓶やグラスを受け止める際に無意識のうちに行っていた、吸盤に力を込める動作を意識的にした。直後、彼女は限界まで伸びきった触手に力を込め、縮める。床板をがっしりととらえた吸盤は、彼女の触手の力に剥がれるどころか、逆にジェインの体を窓のそばへと一気に引き寄せていった。迫る窓枠に彼女は臆することなく、触手をいっそう強い力で縮めた。そして吸盤から力を抜くと同時に、彼女の体は割れた窓から店外へと打ち出された。
「…っ!」
通りの中央に放り出され、ガラスの破片が散らばる石畳に転がりそうになるのを踏みとどまる。そして、通りに並ぶ人々が突然飛び出した彼女に目を丸くしている隙に、ジェインは再び右足の触手を伸ばした。今度は向かいの建物の壁面に向けてだ。
一階と二階の境目に触手を一本吸い付かせ、自信の体を持ち上げる。続けて二階と三階の境目、三階と四階の境目、と彼女は自信を引き上げ、ついに屋上へと至った。
「今の…!」
「警備隊!警備隊を!」
驚愕の放心状態から我に返った通行人たちが、ようやく騒ぎだした。だが、人々の指さす先にジェインの姿はなかった。
ただ、建物の縁と青い空だけがあった。
ジェインは浮島の縁でしばし立ち止まってから、橋へと足を踏み出した。橋の欄干の向こうに見えるのは何処までも続くような青空と、何処までも広がる青い海、そして二つの青が描き出す水平線だけだった。どうやらこの浮遊都市ナムーフは、海の遙か上空を漂っているらしい。
下が水とは言え、落下するのはごめんだ。
ジェインは石畳で舗装された橋一つ下の遙かな青が、橋や靴を通り抜けて足裏から体内に染み込んでいくような感覚を覚えながら、足早に音楽の響く浮島に移った。
「よし、と…」
空に浮かぶという点では橋と同じだが、土台の厚み分安心感のある浮島に立つと、彼女は今きた道を振り返った。建物の合間から立ち上る煙は薄くなっており、煙と青空を背に『14番街改装間近!』という横断幕が島の土台に張られているのが見えた。道理で人がいないわけだ。
「さて…」
ジェインは無人の浮島から、顔を島の奥へと続く通りに向けた。町並みは、先ほどの無人の浮島と変わらぬようだったが、人の気配があった。建物の窓や商店の扉が開かれており、窓辺におかれた鉢植えに水をやる女や、店先を掃除する男の姿が見える。しかし彼女は軽率に人々に近づく真似はせず、視線だけを左右に向けながら足を進めていった。
「そこのお嬢さん!感謝祭特別価格だよ!」
店の前を通るジェインに向け、雑貨屋の店員が声をかける。彼女は顔を向けてみるが、並べられているのは箒にバケツにと日用品レベルの雑貨ばかりだった。少なくとも、今のジェインに必要な品物ではない。
「ほらほら、ランプの芯はちびてないかな?今なら玉磨きもつけるよ!」
立ち去ろうとするジェインを引き留めようと、男はランプの替え芯と手入れ道具を両手に声を上げる。だが、ジェインはそもそもランプ自体を持っていないのだ。
「悪いね」
そういい残して、彼女は立ち去ろうとした。
「ああ、ちょっと待って、ちょっと待って!」
男はそう、視線を前に向けようとしているジェインにすがるように言うと、手にしていた替え芯の束と手入れ道具を同時に宙に放り投げた。
「ほらほら、今なら上質のランプオイルも二つで一つ分の値段にしておくから!」
彼は薄く色付いた液体の入った小瓶を手に、そうジェインに言った。彼の行動に、ジェインは足を止めていた。割引価格ではない。彼が放り投げた商品二つが、落下することなく浮いていることに気がついたからだ。
「ほら、替え芯と上質オイル!この二つで玉磨きと上質オイルがもう一つ…」
彼女の耳に、店員の声は届いていなかった。ふわふわと、まるで水面に浮いているかのように漂う二つの商品が、彼女の意識を捕らえて離さないのだ。
魔術か?それとも手品か?
彼女の脳裏で疑問符が舞う。
「ん?おっとお嬢さん、どうかご安心を!」
店員の男は、ジェインの視線に気がついたのか口上を断ち切ると、ふわふわと浮かぶ芯の束と小瓶を示しながら続けた。
「こいつはセントラ印の『クラーケン』のジルだよ!それに『治癒』ジルも飲んでるから、安全だ。ほら!あそこに空き瓶がおいてあるだろ?」
店員の男は店の奥の棚を指さす。するとそこには、彼の言うとおり二つの瓶が並んでいるのが見えた。丸みを帯びた体に、長い首を備えたガラス瓶。距離と店の奥の暗がりのため、よくラベルは読めないが、それでも『クラーケン』と『治癒』という字は読めた。
「ジル…?」
「ああ、本家本元、本物のジルだからご安心を!それで今なら…」
「ああ、ありがとう。また今度に」
ジェインは話を切り上げると、踵を返して足早に店の前を離れた。
「……」
足を進めながら、彼女は通りに並ぶ建物に目を向けた。先ほどの雑貨屋店員の手品に対し、反応している者は誰もいなかった。
浮かぶ商品。クラーケン。ジル。
どうやらその三つは何らかのつながりがあり、ここナムーフではごくありふれたものらしい。一体先ほどの現象がなんなのか。それを理解しないと、聞き込みどころではない。
ジェインは足を進めながら、雑貨屋店員が見せたものと同じ手品を誰か使っていないか探していた。だが人々は、この街が空の上にあることを忘れさせるほどに、ごく当たり前の行動をしているばかりだった。
その辺の通行人を捕まえ、路地の暗がりに連れ込んで締め上げれば、多少は何か聞き出せるかもしれない。
ジェインの胸中で、治安維持組織に追い回されるリスクより、情報を得ることへのメリットが大きくなってきたところで、彼女は浮島の中央部に近づいたことを悟った。陽気な音楽があたりに響きわたり、通りの向こうの広場に多くの人々がいるのが見えた。彼女が顔を上げると、建物と建物の間に横断幕が張られているのが目に入る。
『ナムーフ生誕十周年祭』
横断幕にはそんな文字が踊っており、その向こうの広場にはいくつもの屋台が並び、人々が行き交っている様子が見えた。
引き返そうか。
この街に馴染むには十分な情報を得られていない彼女が、少しだけ今きた通りを振り返る。だが、ここで人混みを避けるように移動するのは不自然だ。一度祭りの会場に入って、別の通りへ抜けていった方がよいのではないか。それに人混みで交わされる会話を耳にすれば、それなりに情報が得られるかもしれない。
ジルに最終兵器にナムーフの過去。おそらく、今日はこのナムーフが空に飛んでから十周年の記念日なのだろう。そしてこのナムーフだけにあふれるジルとやらが最終兵器に関わる何かかもしれない。ここに来るまでに得られた断片的な情報からでも、全体像を推測することは可能だ。
ジェインは意を決すると、横断幕の下をくぐり、広場に近づいていった。
太鼓とラッパが紡ぐ行進曲を思わせる音楽は、耳にした者の心をうきうきとさせる明るさに満ちていた。並ぶ屋台も、黄色やオレンジ、赤など明るい色を積極的に使っており、目に鮮やかであった。
「いらっしゃいいらっしゃい、スティックポテトはどうかね!」
手のひらほどの大きさの紙袋に入った、細く切った芋を揚げたものを掲げて見せながら、恰幅のよい男が客を呼ぶ。
「さあさあ射的だ!いつもなら矢が三本のところを今日は五本!豪華景品が待ってるよ!」
小さな弓と、鏃の代わりにボールを先端につけた矢を手に、射的の屋台へと客を招く声がする。
「救いの手だよ!ナムーフの救いの手で、飴を救おうじゃないか!」
「おじさん!一回やらせて!」
行き交う人々の間から響いた声に彼女が目を向けると、丁度一人の子供が髭面の店主に小銭を渡しているところだった。
「はいよ坊ちゃん、チャンスは一回だ。『ここだ!』ってところで取っ手を引きな」
「よーし」
店主の言葉に、子供は袖をまくり上げる真似をしながら、屋台のカウンターに置かれた取っ手を握った。屋台の奥に目を向けると、人一人が横になれるほど大きな台が見えた。台の上には飴が積まれており、大小さまざまな山をいくつか築いていた。そして、台の上をナムーフを構成する浮島の模型が一つ浮いていた。ただし、模型の上には屋台の天井裏へと続く縄が数本ついており、模型の下部からは人の手を思わせる先端を備えた棒が二本生えていた。
子供は台の上を前後左右に移動する模型を見つめながら、とある山の上で取っ手を思い切り引いた。直後、浮島の模型を吊していた縄が伸び、下方に積まれた飴の山に迫っていく。そして飴の山の頂と模型の底部がふれた瞬間、模型の腕が曲がって飴を抱き寄せた。
「大当たり!」
バラバラと飴をこぼしながらも、いくらかの飴を抱いたまま浮かび上がる模型を背に、店主は声を上げた。そして屋台の内側においてあった紙製のカップを手に取ると、『ナムーフ』の抱える飴をざらざらとその中に受け取った。
「はいよ、坊ちゃん!また来てくれよ」
「わーい」
子供は店主から飴のはいったカップを受け取ると、満面の笑みを浮かべながら人混みの中へと消えていった。
「……」
いつしか足を止めてしまっていたジェインは、『ナムーフの救いの手』の屋台から目を離すと、人の流れに沿って歩いていった。行き交う人々は老若男女様々で、皆祭りを楽しんでいるようだった。
「ナムーフ生誕十周年祭か…」
広場を囲む建物から吊された布や、屋台の壁面に貼られたポスターを見ながら彼女は呟いた。文字を額面通りに受け止めるなら、この浮遊都市ができてから十年だ。よくもまあこんな巨大なものが地上の人々に見つかることなく、宙をさまよい続けたものだ。
「海の上に浮いてるからだろうな…」
大陸沿岸から外海に出れば、ほとんど人の目はないに等しい。それならば、十年間この街が浮かび続けることもできるわけだ。もっとも、街から飛んで無事海面に降りたとしても、陸地に至るまで一苦労必要だということだ。
「さあ始まるよ!世紀のジル・ショウが始まるよ!」
ジル。呼び込みの声に含まれていた単語に、彼女は声の源へ目を向けていた。そこには、ほかの屋台とは明らかに違う、急ごしらえの仮設ステージのようなものが据えてあった。人垣の合間からのぞき込むと、ジェインの目にステージの上に立つ男の姿が目に入った。
「さあさあよってらっしゃい、見てらっしゃい!今日は本物の奇跡を目にするよ!」
礼服を身にまとった小柄で太った男が、白塗りの顔に満面の笑みを浮かべながら客寄せの口上を述べる。
「本日みなさまにご覧いただくのは、ジル!みなさんご存じ、ここナムーフを一変させたセントラ生まれの奇跡の滴だ!」
男は高々と手を掲げつつ続けた。
「指先に火を灯し、手のひらから電光を生み、遠くの物をも浮かして招き寄せるジル!ジルがナムーフの暮らしを一変させた!」
そこまで述べたところで彼は言葉を切り、ぱちんと音を立てて胸の前で手のひらを打ち合わせた。
「まずは『サンダーバード』!嵐の中でしか見ることのできなかった稲妻が、こうして我々の手の中に!」
男がゆっくりと胸の前で合わせていた手を離すと、バチバチという小さな破裂音と共に、彼の指先や手のひらをつなぐように青い稲光が幾本も橋を渡していた。落雷の瞬間、目の裏に一瞬だけその影を焼き付かせるだけだった雷が、小柄な男の手の中に捕らえられ、身悶えしている。
「続いて『サラマンダー』!ほんの火花から火柱まで思いのまま!夜道の相棒に、台所のお供にと引っ張りだこ!」
瞬間的に稲光が消え去り、彼の手の中の空気が燃え上がった。火の玉が二つ、右手と左手に浮かび、ゆらゆらと揺れている。よく見れば火は彼の肌に接していないようだが、それでも男は涼しい顔で手の中の火を振り回し、時折大きく燃え上がらせた。
「そして傑作『クラーケン』!海に巣くう魔物の力があなたの手に!」
口上と共に男の手のひらから火が消える。だが、ジェインは彼の手に何かが宿っているのを感じていた。
「どこまでも伸び、巨船をもまっぷたつにするその怪力の片鱗が、今こうして我々の元に!どこまでも伸びる力が、少しだけ手の届かない場所での作業を可能にしました!」
男は舞台を囲む人垣を見回し、ある方向に顔を向けた。
「そこの坊ちゃん!少し帽子を拝借!」
彼が手を人垣の一角に向けると、そこにいた少年が被っていた帽子が、ふわりと浮かんだ。風に巻き上げられたわけでもなく、ただ目に見えない誰かが持ち上げたかのように帽子だけが浮かんだのだ。
「離れた場所の道具も思いのまま!小柄な坊ちゃんでも、気軽に柱時計のゼンマイだって巻けます!」
男はしばし空中で帽子をもてあそぶと、そっと持ち主の少年の頭に戻した。
「ジル!ナムーフでの暮らしを劇的に便利にさせたこの奇跡の滴!もはや持っていない方などいらっしゃらないでしょう!そして今、セントラから、新たなジルがイアルプにお住まいの皆様に発売されました!それこそがこちら、技術ジル!」
男がそう言いながら舞台袖に手をかざすと、まっすぐに赤い液体の入った小瓶が飛んできて、彼の手の中に収まった。まるで舞台袖の助手が的確なコントロールで投げたようだが、先ほどの『クラーケン』を使ったのだろう。
「皆さん!皆さんのうち、逆立ちができる方はいらっしゃいますかな?逆立ちできる方は、どれほど練習したか覚えていますかな?もし、つらい練習の日々を過ごすことなく、誰もが逆立ちができるようになるとしたら?そんな『もし』を現実にするのが、この『技術ジル』です!魔物の力の一部を取り入れるように、達人の技の一部を取り入れられるのが『技術ジル』!さあ皆さん、ご覧ください!」
男はその場で軽くひざを曲げると、えいやっとばかりに宙返りの要領でジャンプした。だが、太り気味の体型のせいか、彼は空中で一回転するどころか、舞台の上で仰向けにひっくり返ることとなった。
「ごほっ…はははは!ご覧ください!このように今の私では宙返りはできません!ですがこの『軽業師』のジルがあれば…」
舞台から起きあがりつつ、彼は小瓶の蓋を外し、中身をくいと飲んだ。一口に満たない量の赤い液体が彼の体内に消えると、彼の小太りの体がぶるぶると震えた。
「か…は…!」
目を見開き、大きく開いた口から舌を突き出しながら彼が喘ぎ、直後彼の全身の緊張が解ける。
「お、お待たせしました…それでは!」
男は言葉を絞り出すと、呼吸を整えてから軽く膝を屈めた。直後、男が舞台を蹴ると同時に、彼の体は軽やかにその場で一回転した。そしてジャンプした位置より一歩後ろの場所に、彼はすたんと足をそろえて着地する。
「おおお!」
舞台を囲む観衆が、一斉に歓声と共に手を打ち鳴らした。運動が得意そうに見えない太り気味の小男が宙返りをするだけでも、十分喝采に値するからだ。だが、素直に手を打ち鳴らす観衆の中、ジェインだけはどこかぎこちない面もちで、拍手をしていた。
小男が宙返りの技術を身につけたのを、素直に受け止められないわけではない。逆に彼女は、技術ジルなる液体の効能を信じてしまっていた。そう、あれがあれば、宙返りのみならず様々な技術や対術を手軽に身につけることができるだろう。宙返りができるならば、格闘術の体裁きや、剣術の型や弓矢の扱いなど容易に身に付くはずだ。どれほどの技術を伝えられるかはわからないが、それでもそこらにいくらでもいるような素人を一年かけて訓練するより手軽に武器の扱いを教え込めるかもしれない。そしてその兵士に、魔物の力をもたらすというジルを飲ませたら。
小瓶一本分の液体を飲ませるだけで、超常的な力を持つ兵士が一人生まれる。いくらでも武力を生み出すことができる可能性に思い至ったジェインの背中を、冷たい物が滑り落ちた。
「こいつだ…」
ナムーフの最終兵器。それこそこのジルに違いない。ジルを入手し、この浮遊都市から脱出しなければ。そうすれば、人知れず空に浮かぶナムーフの存在を地上に知らしめ、彼らの武器であるジルへの対抗策を作り出せるかもしれない。
だが、どうやってジルを手に入れ、この浮遊都市から脱出する?
「……」
ジェインは胸中で自問し、辺りを見回した。舞台の上では、未だ太った小男が宣伝文句を紡いでいる。聞くところによると、もうすぐ発売だからここに在庫はないらしい。ならば用はない。
「さあ、続いてはロプフェル行政長による、ジルのもたらした偉大なる未来についてのお話です!」
小男の声に背を向け、ジェインはジルの瓶を求めて歩きだした。これまでの様子を見たところ、どうやらジルはナムーフに広まっているらしい。ならば、どこかに専門店があるはずだ。場合によっては、この祭りの会場にも屋台があるかもしれない。
「ロプフェル行政長の登場です!」
背後からの歓声に一瞥もくれず、ジェインは人の合間を縫うように通り抜けていった。軒を連ねる屋台に目を走らせるが、小瓶の姿は見えなかった。
「どこかにきっとあるはず…」
菓子、飲み物、ゲーム、食べ物、おもちゃ。地上でも見覚えのある屋台の前を素通りしながら、彼女はジルを求めていた。やがて、ジェインはいつしか会場の縁に至っていた。目を向けると、祭り会場に入ったのとよく似た、それでいて並ぶ建物の異なる通りが彼女の前にあった。並ぶ店は、酒場に料理店と、食品を提供する物が多かった。
「…ん?」
ジェインが通りに並ぶ看板を眺めていると、妙に引っかかる物を感じた。改めて通りに並ぶ看板に目を向ける。
『ガンガ食堂』
『喫茶&酒 フィルペ兄弟の店』
『酒 バックラン亭』
『串焼き専門 カン屋』
一文字一文字、並ぶ文字を読み解くうちに、ジェインは違和感の正体に思い至った。一軒だけ、看板の空白が妙に広いのだ。彼女が目を凝らしてみると、看板の文字が一部塗りつぶされていることがわかった。看板の背景色にあわせて文字を塗ったためか、微妙な濃淡の差がかつて書かれていた文字を彼女に教えた。
「『酒とジル バックラン亭』…」
塗りつぶされてしまっていた文字を加えて、ジェインは看板を読んだ。そう、ここだ。この店ではかつてジルを売っていたのだ。どういう理由かはわからないが、今ではジルから手を引いているのだろう。
「経営が傾いたのか…?」
赤字が続いて、売れ行きのよくない商品の扱いをやめるなどよくあることだ。おそらくここも、そうやってジルを扱うのをやめたのかもしれない。
ジルという文字を見つけたにも関わらず、その道筋は絶たれてしまった。かのように見えたが、ジェインの目に諦めの光はなかった。むしろ逆に、彼女の足はバックラン亭に向けて進められていた。
開け放たれた戸をくぐり、薄暗い店内に入る。複数種類の酒の匂いと共に、幾対もの視線が彼女に向けられた。バックラン亭にいたのは、祭りの会場を歩き回るのに疲れたと思しき、男たちだった。女性客はお洒落な喫茶店へ、子連れは家族向けの料理店にでも行っているのだろう。
「通してくれ」
ジェインは、自身に向けられる好奇の視線を無視しながら、カウンター席に向かった。そして三つ連なる空席の真ん中に腰を下ろした。
「らっしゃい」
カウンターの向こうで、男がジェインに向けていう。
「何にする?」
「ええと、何か冷たいものを」
彼女は自分の体の欲するまま注文した。ここにくるまで歩き通しだった上、船の墜落現場では目が覚めるまで火に当たっていたからだ。
「…あいよ」
店主の男は、ジェインの曖昧な注文に一つうなづくと、彼女に背を向けた。そして壁に並ぶ瓶の一本を手に取ると、グラスにその中身をそそぎ込み、軽く左手でグラスを握った。
……ィン……
一瞬、ジェインは何か甲高い音が聞こえたような気がした。
「お待ち」
ジェインが音の源を探ろうとしていると、店主は彼女に向き直って、手にしていたグラスをおいた。
「なあ、オレは冷たいものを注文したんだけど」
瓶から注いだだけの飲み物のどこが冷たいのか。彼女がそう抗議しようとすると、店主はぶっきらぼうに短く言った。
「冷えてるよ」
ジェインがグラスに目を落とすと、透明なグラスが少しだけ曇りを帯びているのに気がついた。曇りはいつしか大きな滴となり、まるでグラスが汗をかいているかのように、木板に向けて滴を垂れさせた。
「ごゆっくり」
「あ、ああ…」
店主の言葉にぎこちなく応じつつ、ジェインはグラスに触れた。冷たい。いったいどうやったのだろうか。ジェインは脳裏に浮かんだ予想を確かめるべく、ちらりとカウンターの奥に目を向けた。すると、彼女の目当てのものはすぐに見つかった。
丸みを帯びた胴に、細長い首を備えたガラスの瓶。胴に貼られたラベルには『ゆきおんな』と記されている。
ゆきおんな。東の方に生息するという、冷気を操る魔物だ。ジェインの予想では、ゆきおんなかグラキエスのジルを使っているはずだという予想があったが、その通りだった。
「やっぱりな…」
この店にはジルがある。かつてジルを扱っていたのなら、その在庫が残っているはずだ。また、完全に在庫も空っぽだとしても、仕入先を教えてもらえるかもしれない。
「なあ」
「何だ?」
ジェインがふと思いついたようにカウンターの奥に声をかけると、店主の男は訝しげに返答した。
「看板にジルって書いてあったけど…」
「書いてあった、な。今はもう止めちまったよ」
店主は過去形であることを強調してから、軽く肩をすくめて見せた。
「何でだ?」
「そりゃあお客さん、ジルを使ってあんなことが起こっちまったら…まあ、今では『治癒』があるからどうってことないが、もう扱う気はないな」
「そうか…なあ、ジルが何か残ってないか?」
「あん?」
店主はジェインの問いに、眉を片方上げた。
「ジルはもうないね」
「一本ぐらいは」
「一本も、だよ…というかお客さん、あんたジルを欲しがってどうしたんだ?」
「そりゃ…」
「悪いことは言わない。あんたに売るジルはここにはないし、ナムーフを探しても売ってくれるやつなんざいないよ」
ジェインを諭すように、店主は言った。
「今日はめでたい日だ。よくないことを考えてるなら…一度家に帰って、腹一杯食って寝な」
「何を…」
「その一杯は俺のおごりだ。飲んだら帰るといい」
店主は、ジェインを諭すようにそう言葉を連ねると、彼女の前から離れていった。
「…何なんだ…」
販売拒否ならまだしも、諭された上、飲み物をただにしてもらった。いったい何が問題なのだろう。ジェインは汗をにじませるグラスに目を落とし、自問した。
ジルを扱うには年齢制限があったり、免許が必要だったりして、彼女はそれから外れていたのだろうか。それに、ジルを使って起こったという『あんなこと』も気になる。
「お困りのようだ」
ふと、考え込むジェインに向けて声が降り注いだ。彼女が顔を上げると、カウンターの内側に女が一人立っていた。髪を後頭部で結った、ジェインより一回りほど年かさの女だ。先ほどの店主と同じエプロンを身につけているところをみると、店員だろうか。
「ジルが欲しいのか」
店員と思しき女の続く言葉の代わりに彼女の耳を打ったのは、左隣の席からの男の声だった。空席一つ挟んだ向こうから、男が顔をジェインの方に向けている。
「残念だが、あなたにジルを売ってくれる場所などどこにもない」
「ジルを買うのは諦めた方がいい」
二人はあらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、ジェインにそういった。淀みなく続いた二人の言葉に気味の悪いものを感じたジェインは、それとなくあたりの様子を伺った。だが、テーブルに向かう客はおろか、カウンター席に並ぶ客さえもが男女を気にすることなく飲食や雑談を続けていた。
「…なんでジルを売ってないんだ?」
ひとまずジェインは、二人に対する気味の悪さを押し隠し、そう尋ねた。
「ジルの販売は続いている」
「ただあなたに売る者がいないだけ」
「何でオレには売ってくれないんだ?もしかして、オレがよそ者だと見抜かれているからか?」
「それは…」
「止めておこう。私と私が言ったところで、あなたに直せる問題ではないのだから」
返答しようとする男を押しとどめ、カウンターの内側の女が言った。
「はぁ…参ったなあ…」
ジルが入手できない。ナムーフの最終兵器を持ち出すことができないという状況に、ジェインはため息をついた。これでは依頼を達成できないではないか。依頼をこなして、報酬を得なければならないというのに。
「あなたに売るジルはない」
「ただ、ジルはナムーフのどこにでも存在する」
困り果てているジェインに向け、男女が言葉をかけた。
「売る者がいなくても、ジルを入手する方法はいくらでもある」
「誰かの忘れ物とか、その辺に置いてある物とか」
「ちなみにこれは」
「私と私の忘れ物だ」
女がどこから取り出したのか、一本の瓶をジェインの目の前に置いた。丸みを帯びたのガラス瓶の上部、細長い首に腰から下に何本もの触手を備えた女の装飾が施されている。そして瓶のラベルには『クラーケン』と記されていた。
祭りの会場にはいる前に見かけた雑貨屋の店主が使っていた物と同じだ。
「これ…」
「深くは聞かない方がいい」
「私たちも深くは聞かない」
二人は言葉を断ち切ると、彼女から視線をはずした。男は顔を正面に向け、女はカウンターを離れて店の奥に引っ込んでいった。
見知らぬ男女に話しかけられ、ジルを譲ってもらった。夢だったのではないかという自らに対する不信がジェインの内にあったが、彼女の目の前に『クラーケン』のジルは確かにあった。
ジルが手に入った。あとはここから脱出するだけだ。だが、ジェインの胸中にはそれを良しとするだけの余裕はなかった。突然彼女の目の前に現れ、ジルを譲ってくれた男女。その二人に対する不信感のような物が、彼女の胸中にあったのだ。
「…なんなんだ、あんた等は…」
ジェインから視線を逸らした男に向けて問いかけるが、返答はなかった。どうやら、向こうとしては話はそれで終わりらしい。これ以上しつこく話しかけて、ほかの客の目を引くのも面倒だ。ジェインはため息をつくと、目の前のグラスの中身を飲み干して、店を出ようと考えた。
「おい、姉ちゃん」
すると不意に、右方向の席から声がかけられた。
「その瓶…ジルじゃねえか…?」
「ん?ああ、まあね」
男の睨むような視線に後込みすることなく、ジェインは軽く頷きつつ、瓶を振って見せた。だが、それがいけなかったらしい。
「し、浸食主義者だ!」
男が表情を強ばらせ、声を上げた。直後、バックラン亭の席を埋める客たちの視線が、彼女に集中した。ある者は席を立ち、ある者はいすをひっくり返して通路に出て、ジェインを見ていた。
「な、何だ…」
「こいつ、ジルを一瓶まるごと持ってやがる!浸食主義者だ!」
右側の席に座っていた男が、状況を理解し切れていないジェインを指さしながらそう喧伝する。
「誰か!警備隊を!」
「逃げろ!人を呼べ!」
「取り押さえるんだ!みんなでかかれ!」
客たちが口々に怒号をあげ、ジェインから離れようとする者、ジェインを取り押さえようとする者とで入り乱れ、ぶつかり合った。
「おい…!」
ジェインは左側に座っていたさっきの男を捜そうと群衆を見回すが、彼の姿はなかった。似た服装の、さっきの男より年をとった中年の男から視線を引き剥がすと、彼女はカウンターを振り返った。だが、店員の女は姿を見せず、代わりに店主と思しき男が奥の部屋から顔だけのぞかせ、やれやれとばかりに頭を振った。
味方はいない。どうにかしてこの場を逃れなければ。ジェインはカウンターに手を突くと、床を蹴ってその内側に飛び込んだ。
「隠れたぞ!」
「ジルを使う気だ!」
「使わせるな!」
怒号とともに、グラスや酒瓶がカウンターを飛び越え、壁にぶつかって砕けた。ジェインは降り注ぐガラスの破片から顔をかばいつつ、逃走経路を脳裏に思い浮かべた。
カウンターを飛び出し、正面出入り口から出ていく?カウンターの向こうの連中が多すぎるし、警備団の連中と鉢合わせするかもしれない。
店の奥に入り、裏口から出ていく?可能ではあるが、店の奥の間取りが不明な上、カウンターから出ていく際に姿が見えてしまう。
何か、連中をひるませる方法があれば。ジェインは自問すると、手の中の瓶の重みに目を落とした。そこにあるのは、店員の女と隣席の男から渡されたジルだ。ジェインがすぐにどこかに隠すか、そもそもあの男女が差し出さなければこんな騒ぎにはならなかったはずだ。
だが、これは使えるかもしれない。ジェインの脳裏に、雑貨屋の店主の姿が浮かんだ。飛んでくる酒瓶を受け止めて投げ返せば、連中をひるませるかもしれない。
「…仕方ない…試してみるか…!」
ジェインはカウンターの中でそうつぶやくと、瓶の首に足を絡ませるクラーケンの装飾をつかみ、引いた。きゅぽんっ、と小気味いい音とともに蓋が外れ、ほのかな酒精にも似た香りが広まった。
「…よし」
ジェインは立ち上る匂いを嗅いで覚悟を決めると、瓶の口に唇を寄せ、丸みを帯びた胴を高く掲げた。瓶の奥から彼女の口内へ、液体が流れ込む。液体は数種類の薬草や魚の肝をつけ込んだかのように薬臭く、生臭く、苦かった。だが彼女は口内に広がる味を無視し、液体をのどの奥へと流し込んでいった。
「んっ…んっ…んっ、げほっ!」
瓶の半ばほどまでを飲み干したところで、彼女は不意にこみ上げてきたままにせき込んだ。手元が狂い、ジルのボトルが彼女の手から落ちる。カウンター内の木板の上で、ガラス瓶は粉々に砕けた。だが、流れ出していく液体に気を配る余裕などジェインにはなかった。腹の奥、肺の底からこみ上げてくる咳が、彼女の背筋を丸め、のどを幾度も痙攣させた。
「げほっ、ごほ、げほ…!」
腹の奥に熱が生じ、熱が血の流れに乗って全身に広がっていく。そして、一度広がった熱は彼女の右足へと流れ込んでいった。一瞬、彼女の足を痛みが走る。直後、ジェインは涙の滲む目で、ズボンに包まれた自信の右足が膨れ上がるのを見た。太腿や膝、ふくらはぎの区別などなく、右足の腿の半ばより下が膨張する。ズボンの生地が張りつめ、一瞬のきつさを挟んでから一気に裂けた。長らくズボンに守られていた彼女の右足の肌が、外気に直接撫でられる。だが、ジェインの目がとらえたのは、彼女の足などではなかった。
太腿半ばから裂けたズボンの下にあったのは、数本の触手だった。片側に吸盤を備えた、先細りになっていく触手が数本、彼女の太腿の半ばから足の代わりとばかりにうねっていた。白く、ぬらぬらとぬめる表面で店内の明かりを照り返すそれは、一本一本が彼女の足ほどの太さもあった。そして触手の一本の先端に、彼女が履いていた靴が引っかかっていた。ズボンの中に足を数本つっこめば、生地が破れるのは当たり前だ。ジェインは混乱しつつも、意識の一角でどこか冷静に納得していた。
そして意識の別の一角で、彼女はこの白い物が自分の足の訳がないと否定し、その証明をするべく軽く足の指を曲げて見せた。だが、彼女の否定とは裏腹に、触手はジェインの思った通りに丸まって見せた。いや、足の指一本一本が腕のように長く、しなやかに動く。その自由なうごめきは、彼女の想像以上だった。
「ほら、咳がやんだぞ!」
「追い込め!」
ふとジェインは、自身が取り囲まれていたのを忘れていたことに気がついた。そう、この手も足も出ない状況を打開するために、ジルを飲んだのだ。ジェインは床に手を突いて立ち上がろうとし、自分の片足が体重を支えるには柔らかすぎることに思い至った。
「こりゃ、走れないな…」
グラスが飛んできては砕けて降り注ぐ中、彼女はそうつぶやきつつ支えになりそうな物を探した。カウンターの縁が目に入る。そうだ、あれがいい。
彼女がカウンターに向けて手を伸ばそうとしたところで、半ば彼女の意識の外にあった触手がひょいと持ち上がった。触手は吸盤の並ぶ一面をカウンターに当てると、そのしなやかな三角錐を構成する筋肉を縮ませた。腕などより遙かにしっかりと彼女の体が支えられ、上半身が持ち上げられる。
「おっ!?」
ひょいと姿を現したジェインに、彼女思っていたより遠巻きにカウンターを囲む男たちが声を漏らす。そして彼女とともにカウンターから姿を現した幾本かの触手に、瓶を振りかぶっていた者は動きを止めた。
「ジ、ジルを…」
「使いやがった…!」
男たちの目に動揺と恐れの色が滲む。一瞬の沈黙が酒場を支配し、その重圧に耐えられなくなった男が、手にしていたグラスを降りかぶった。
「うああああ!」
声とともに投げられたグラスは、ジェインに向けてまっすぐに飛んでくる。危ない。ジェインは飛んでくるグラスから身を守るべく、右足から生えた触手の一本を自身の前にかざした。半ば無意識のうちにつきだした触手は、飛んできたグラスを吸盤で吸いつけつつ、柔らかく受け止めた。ガラスの器が、砕けることなく彼女の触手の中に収まる。その丸みと微妙な冷たさを、彼女は足の指の感覚の延長で受け止めていた。
「や、やっつけろ!」
ジェインがグラスの感触を味わっている間に、ほかの男たちも硬直を説いたらしく、それぞれ手にしていた物を投げてきた。酒瓶、皿、フォーク、そしてイス。力の限り、とりあえずジェインの方に向けて投げ放たれたそれを、彼女は触手で受け止めようとした。すると白くぬめった細長い三角錐は、彼女の思い描いたとおりに延び、飛んできた物を受け止めた。痛みはない。重みもあまり感じられない。イスさえもがまるで小石を握っているかのようだ。
「…」
彼女はちらりと店の窓を見やると、触手をしならせ、握っていたグラスや酒瓶を投擲した。
「うわ!」
「投げ返してきたぞ!」
山なりの緩やかな弧を描くグラスに、男たちは過剰に反応し、鳶のいて距離をもうけた。カウンターから店の大きな窓まで、ほぼ一直線に道が開く。彼女は線上に誰もおらず、誰も飛び込む気配がないことを確かめると、握りしめていたイスを全力で投げつけた。
イスはグラスや酒瓶が切り開いた人と人の間の道をまっすぐに進み、ガラス窓を突き破って表へと転がり出ていった。ジェインは、イスが一度石畳にぶつかって跳ね返る間に、触手を伸ばした。どこまで、というねらいはない。彼女の内には、触手がどこまでも伸びていく自信があった。そして事実、白い触手は彼女の足の長さの十倍以上に伸び、店の床板に先端を触れさせた。
これで逃走できる。
ジェインは、瓶やグラスを受け止める際に無意識のうちに行っていた、吸盤に力を込める動作を意識的にした。直後、彼女は限界まで伸びきった触手に力を込め、縮める。床板をがっしりととらえた吸盤は、彼女の触手の力に剥がれるどころか、逆にジェインの体を窓のそばへと一気に引き寄せていった。迫る窓枠に彼女は臆することなく、触手をいっそう強い力で縮めた。そして吸盤から力を抜くと同時に、彼女の体は割れた窓から店外へと打ち出された。
「…っ!」
通りの中央に放り出され、ガラスの破片が散らばる石畳に転がりそうになるのを踏みとどまる。そして、通りに並ぶ人々が突然飛び出した彼女に目を丸くしている隙に、ジェインは再び右足の触手を伸ばした。今度は向かいの建物の壁面に向けてだ。
一階と二階の境目に触手を一本吸い付かせ、自信の体を持ち上げる。続けて二階と三階の境目、三階と四階の境目、と彼女は自信を引き上げ、ついに屋上へと至った。
「今の…!」
「警備隊!警備隊を!」
驚愕の放心状態から我に返った通行人たちが、ようやく騒ぎだした。だが、人々の指さす先にジェインの姿はなかった。
ただ、建物の縁と青い空だけがあった。
13/12/02 19:38更新 / 十二屋月蝕
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