連載小説
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プロローグ
 パチパチパチと、何かが爆ぜる音がする。遅れて熱気と臭いが彼女の鼻をくすぐった。
 何かが燃えているのだ。自分のすぐそばで。
「う、うぅぅ…」
 彼女は目を開くと、ゆっくりと身を起こした。どうやら石畳の上に転がっていたらしく、手に触れるのは平たく硬い石の感触だ。ぼやける目に意識を集中させ、彼女は半ば気合で焦点を結んだ。
 すると彼女は、自分がどこにいるのかを改めて認識した。
 左右に三階建てほどの建物が並ぶ通りの真ん中だ。建物は石造りで、ガラスの窓が等間隔に嵌まっている。そして綺麗に敷き詰められた石畳に転がる彼女の前方には、燃える木片や布切れが落ちている。
 何か事故でもあったのだろうか?
 そう考えながら彼女が背後を見ると、もっと大きな何かが燃えているのに気が付いた。
 それは船だった。十数人は乗れそうな漁船のような何かが通りの真ん中で横倒しになり、炎に包まれている。
 船が?何故?
 彼女の脳裏で疑問が沸き起こるが、同時に危機感が芽生えた。このままここにいてはいけない。ここにいるところを、人に見られてはいけない。
 彼女はとっさに顔を振り上げ、辺りの建物を見た。だが、船が通りの真ん中で炎上しているにも拘らず、顔を覗かせる者はいなかった。人がいないのか、それとも船が道の真ん中で燃えることなど日常茶飯事なのか。
 彼女はどちらとも結論付けることはできなかったが、ふらつく手足を操りながら燃え上がる船の側を離れて、建物の合間に身を滑り込ませた。向こうから人が来ればすれ違うこともできない細い路地を通り抜け、彼女は隣の通りに出た。
「はぁ…」
 一つ溜息をついてから、彼女は振り返って空を仰ぎ見た。並ぶ建物によって切り分けられた青空に向け、黒い煙が立ち上っている。これで炎に巻き込まれる心配はない。だが、もう少し離れた方がいいだろう。
彼女は呼吸を整えつつ、通りに沿って歩き出した。数歩と進まぬうちに呼吸は落ち着き、足取りもごく普通の物になる。ズボンに作りのしっかりした上着というスタイルは女性にしては妙だが、旅人だと納得してもらえるだろう。
 そこまで考えたところで、彼女はふと疑問に行き当った。
 そもそもここはどこで、一体自分は何のためにいるのだろう。
「ええと…確か…」
 彼女は少しだけ痛む頭に意識を向け、彼女は思い返した。
「オレは…ジェイン・イルジチオ…職業は何でも屋で、人探しとかやってて…」
 まずは思い出せることから。ジェインは記憶を掘り起し、並べて行った。
「最近の仕事は…最近何やったっけ?とにかく、あまり繁盛はしてなくて…でも、やっと最近仕事を依頼されて…」
 そう、仕事を依頼されていた。依頼者は思い出せないが、依頼内容は思い出せる。
「『最終兵器を奪ってきてくれ』」
 その一つだけだ。
「…うん、なかなか無茶苦茶な依頼だな…」
 ジェインは改めて思い出した依頼内容を口にし、思わずそう呟いていた。だが、同時に彼女は思い出していた。
『困難な依頼だが、報酬はそれに見合うものだ』
 彼女の脳裏で、声だけが響く。
『報酬は容赦。君の重ねた罪を全て許し、なかったことにしてやる』
 姿は思い出せぬが、依頼者の言葉だけが再生される。
『君が積み重ねたすべての罪を、ひとつ残らずだ。あのレスカ…』
「う…っ…」
 記憶を呼び起こす途中で、彼女は不意に吐き気に襲われた。
歩調が少しだけ遅くなり、喉の奥に酸っぱいものが浮かんでくる。これ以上は、思い出したくない。
 肉体の拒否反応に、ジェインは依頼者の言葉を思い返すのを中断した。だが、ここまでで十分だ。
 依頼成立。交通手段の確保。夜空を舞い、ゆっくりと地上に降りてくる一隻の船。
 断片的な記憶と光景が、彼女の脳裏に浮かんだ。マストには帆の代わりに大きな布袋が結わえつけられ、下方からの炎によってパンパンに膨れ上がり、自在に空を飛ぶ。そんな空を飛ぶ船が、ジェインを迎えに来てくれたのだ。だが、船は墜落してしまい、今まさに燃えている。
彼女はおぼろげながら、その後のことを思い出してきた。
「…ふぅ…最終兵器の奪取ねえ…」
 吐き気が収まるのを待ってから、彼女は依頼内容を繰り返した。正直、自分には荷が重すぎる気がするが、報酬は十分それに見合うものだった。
 容赦。その二字だけで十分だ。
 ジェインの脳裏に、様々な出来事が浮かび上がった。朝から便器にかじりつき、何も入っていない胃が痙攣するままに嘔吐を繰り返したり、夜中に悪夢で飛び起きたりと、断片的な記憶ばかりが浮かぶ。それらが何に根差しているのかを考えるだけで気分が悪くなりそうだ。だが、この仕事を成功させれば、それから解放される。
もう、悩まされるのは嫌だ。
 手がかりはほぼないに等しいが、彼女はこの仕事をやり遂げると腹を決めた。
「さて…」
 決意も新たに、彼女は辺りを見回した。だが、人気のない通りは変わらず続いており、彼女の他に人影は無い。
 振り返ってみれば、船が焼けていた場所は遠くなったらしく、黒い煙は少々離れた場所に見えた。
 これほど離れてしまえば、あの煙と自分に関わりがあるなどと思われないだろう。だが、人通りが無いのは困った。
「誰かいないもんかねえ…」
 ジェインは足を進めつつ呟き、辺りを見回す。だが、商店さえも門戸を閉ざしており、ガラス戸に映り込む銀髪の女だけが、彼女の歩行に合わせて手足を動かしていた。髪を後頭部の辺りで適当に結い上げた女を、ジェインは数秒見つめてから、前方に目を戻した。
 通りは広場と思しき場所に続いており、そこから音楽のようなものが途切れ途切れに聞こえる。通りの真ん中で船が燃えているのに、人ひとり現れないときは不安を覚えたが、ジェインは完全に無人ではないことに安堵した。
 仕事を行う上で、人に話を聞くのは重要だ。この街がどこなのか、最終兵器とはなんなのか。聞くべきことはたくさんある。広場を中心に放射状に道が伸びているらしい。広場に出れば、音楽のような音の源も分かるだろう。
 やがて彼女は通りを抜けて広場に入った。樹木が数本植えられ、ベンチが置かれたちょっとした公園も兼ねた広場だ。変わらず人通りは無いが、聞こえてくる音楽はその方向を明らかにした。
 だが、彼女は音楽の方に向けて足を進めるわけでもなく、立ち止まってしまった。座り込むわけでも、歩き出すわけでもなく、彼女は広場の一角に立ったまま、空を見上げていた。
「…なんだあれ…」
 ジェインの口から、言葉が漏れる。彼女の視線の先にあったのは、建物だった。
 レンガ造り、あるいは石組みの建物がいくつも身を寄せ合うようにして並んでいる、ごく普通の町並みが見えていた。ただ、その町並みだけが切り取られたように浮かんでいた。
 比喩表現でもなんでもなく、町の一角が青空に浮いているのだ。
 建物が並ぶ地面が丸ごと切りとられ、その下に膨れた紡錘型の袋がいくつも結わえつけられていた。袋の下方では火が燃えており、火の勢いに合わせて袋が膨張と収縮を繰り返していた。
「……」
 ジェインは言葉もなく、目を横に向けた。するとその先の青空にも、別の町が浮かんでいた。その隣にも町が浮かんでおり、その向こうにも、その隣にも浮かんでいる。よく見れば上空にも、かなり大きな島が浮いているのが見える。建物を数軒乗せた岩の塊が、青空に十数個も浮かんでいた。そして町を乗せた島と島の間を、帆の代わりに袋をマストに括り付けた船がゆっくりと進んでいる。まるで、海に浮かぶ数隻の巨大な船の間を行き交うゴンドラのようにだ。おそらくこの街では、船が海に浮かぶのと同じぐらい、島が空に浮かぶのも普通なのだろう。
もしかして、ここも?
 彼女が胸中にそんな考えを浮かべると同時に、彼女は足元がふらつくのを感じた。一瞬眩暈を覚えたのかと思ったが違う。広場に植えられた木々の葉が、風に撫でられる時とは全く違う動きで揺れている。葉っぱが擦り合わさられ、騒々しい音を立てていた。ジェインの足元がふらついたのではない。彼女の立つ地面が傾いて足がふらつき、葉っぱが揺れたのだ。
 だが、地面はその傾きがそれとわかるほど傾く前に平行になったらしく、ジェインのふらつきは止まった。
「何だここは…」
 ジェインの口から、思わず声が溢れた。
 空に浮かぶ島に、ふらつく足元。それらから、彼女は自身が目覚めた時に、なぜ通りの真ん中に船が転がっていたのかを察した。
 彼女は燃えていた船に乗っており、事故か何かで墜落した拍子に投げ出されたのだ。船が島に墜落してくれたことに、ジェインは心の奥底で感謝した。
「それにしても…」
 建物の向こうに見える島々を見上げながら、彼女はつぶやいた。
「脱出が面倒くさそうだ…」
 陸上の街なら陸路で、絶海の孤島でも船で脱出できる。しかし、空飛ぶ街からどうやって逃げればいいのだろうか。
「とりあえず、人を探すか…」
 ジェインは自身に言い聞かせるようにつぶやくと、広場をぐるりと一瞥し、音楽の聞こえてくる方へと歩いて行った。
 すると、ジェインの視界の端を何かが霞めた。横目で確認すると、それは色あせたポスターだった。
 『守ろう 我らのナムーフを』という文字が空に浮かぶ島々の上で踊るポスターだ。
 そう、ここはナムーフ。
 ジェインはようやく、この街の名を思い出していた。
13/11/30 21:00更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
『ナムーフ一周年記念スピーチ』抜粋

「このように、我々は天上にて安住の地を得た。
 敵国に脅かされることも、魔物を怖れることもない、安住の地をだ。
 だが我々は心しなければならない。この楽園で安穏と暮らすのではなく、我々の手で世界を導かねばならないことを。
 人と魔物が共生する、正しき世界を作らねばならないのだ」
ナムーフ歴1年 ロプフェル行政長

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