(83)ドラゴン
真っ白な四角いリングが、光を浴びて煌々と輝いていた。
リングの上にいるのは、ブーツと肌にフィットするパンツだけを身につけた男が二人。そしてリングを男に女に子供に老人に人に魔物にと、幅広い観客が取り囲み、口々に歓声と声援を上げていた。
「・・・!」
「・・・!」
観客の声はリング上の男の耳に届くが、その意味までは意識が及ばない。今、意識を向けるべきなのは観客ではなく、目の前の対戦相手だからだ。
対戦相手の大男は、男より頭一つ大きい。だが、これまでに男が幾度も打ち込んだ蹴りや張り手のダメージが蓄積しているためか、どこかふらふらと頼りない。
「ウォォオオオ!」
男は一つ吠えると姿勢を低くし、大男に向けて突進し、臆することなくぶつかった。
男の肩と大男の腹、肉と肉の激突する鈍い音が響き、大男の体が揺れる。
だが、大男の体が吹き飛ぶことはなかった。激突の瞬間、男が大男の肩と太股をがっちりつかんでいたからだ。
「!!」
大男は慌てたように男の手首をつかむが、もう遅い。
「ふん・・・!」
男はその場に屈み、首の後ろ、両肩の上に大男の体を引き落とした。
彼の両足に、二人分の体重が加わる。男は歯を食いしばると、全身に力を込めた。
すると、重量挙げの要領で、大男の体がゆっくりと持ち上げられていく。
「うぉ、おぉ!!」
大男は逃れようと手足をバタつかせた。重心が揺れ、ともすれば転倒しかねないほどバランスが危うくなるが、男は歯を食いしばりつつ堪えて、大男の体を持ち上げていく。
彼の背筋がまっすぐに伸び、屈められていた足を立てる。
そして、男の両腕の筋肉が一回り膨れ上がった瞬間、大男の体が彼の肩から浮かび上がった。
「・・・!・・・!・・・!」
リングに投げかけられる無数の声が、同じ調子で何事かを紡ぐ。
しかし、男の耳ではごうごうと血液の流れる音が響いており、全く聞こえていなかった。
そして、男はついに両腕をまっすぐに伸ばし、自分よりも遙かに重い大男を高々と持ち上げていた。
男の時間が、大男の時間が、観客の時間が、男の成し遂げた偉業に一瞬止まる。
直後、男は掲げた大男を、眼前のマットに向けて勢いよく振り落とした。
大男の体が加速され、男の手を放れた直後、衝撃を吸収するマットに沈む。
「がぁぁぁああああああッ!」
マットどころかリング全体、下手すれば会場全体が揺れるような衝撃と音が辺りに響き、大男の口から絶叫がほとばしる。
そして、倒れ伏したまま男の方に手を伸ばし、その手が力なく落ちた。
すると、リングの隅の方にいた、正装した犬のような耳をはやした女が倒れる大男のそばまで飛び出し、指を一本立てた。
「・・・!・・・!・・・!」
女が何事かを叫ぶのにあわせ、彼女が指を一本ずつ立てていく。
そして、その指が両手合わせて十本になった瞬間、男は両腕を掲げながら叫んだ。
「うぉぉぉぉぉおおおおお!」
彼の叫びに答えるように、観客が歓声を上げる。
そして、興奮によって蓋がされていた男の耳に、ようやく声が届いた。
「勝者、スマッシャージェイソン!」
「ジェイソン!ジェイソン!ジェイソン!」
試合の勝者を高らかに読み上げるアナウンスと、勝者の名を口をそろえて呼ぶ観客の声。
男の耳に最初に届いたのは、彼自身の名前だった。
リングを降り、簡単に医師の診察を受けてからシャワーを浴び、着替える。着替えると言っても普段着ではなく、試合用のパンツだ。
しかし彼が向かうのはリングではなかった。
「スマッシャージェイソンの登場です!」
アナウンスに従い、先ほど死闘を繰り広げた試合会場に足を踏み入れると、そこはだいぶ様変わりしていた。
リングは会場の隅に押しやられ、代わりにテーブルとイスが用意されている。
そして、イスを挟んだテーブルの向こうには、百人に及ぶ行列ができていた。
男は笑顔で行列に向けて手を振ると、用意されていたイスに腰を下ろした。
「それでは幸運なファンのみなさん、握手会を開始します」
司会の言葉に行列の間から歓声が上がった。
「ジェイソンさん、今日の重量落としも絶好調でしたね!」
「ハハハ、俺はいつでも絶好調だからな」
一人目の男の手を握りながら、彼は笑顔で返す。
「ジェイソンさん、これからもがんばってください!」
「おうよ!応援ありがとうな!」
二人目の女には、少しだけ手を握る力を弱めてやる。
「ジェイソン!何食べたらそんなに強くなるんだよ!」
「好き嫌いせず何でも食え!野菜もだぞ!」
生意気そうな子供にも、彼はそう答えてやる。
「ジェイソン!結婚してくれ!」
「悪いな!もう嫁さんがいるんだよ!勝利の女神って名前のな!」
褐色の頬を赤らめた、やや筋肉質な女(確か前にアマゾネスとか言っていた)の求婚にも、軽く返してやる。
「がんばってください!」
「応援してます!」
「重量落とし、見事でした!」
人は変われども、ほぼ同じ内容の応援の言葉。だが、そこに込められたファンの気持ちは本物だった。
手を握っては一言返事し、一言返しては手を握る。
そんな調子で、行列の半ばほどまでを消化したところで、一人の女の子がジェイソンの前に立った。
髪の間から短い角を生やし、ほっぺたに小さな鱗を生やした魔物の子供だ。
(確か、リザードマンだったか・・・?)
ジェイソンが脳裏で、彼女の種族を類推したところ、彼女は机の上に手を差し出した。
ただ、それは握手を求める手ではなく、肘を机に突けて腕を立てる、腕相撲の姿勢だった。
「勝負だ」
魔物の少女は男に向けてそう言うと、子供らしからぬ獰猛な笑みをニヤリと浮かべた。
「ハハハ、面白れえ!挑戦者か」
「ああ、お嬢ちゃん気持ちはありがたいけど、今日は普通の握手だけでね・・・?」
笑うジェイソンの隣で、整理係が少女をなだめるように言った。
「いい、大丈夫だ」
「でも時間が・・・」
「なぁに、普通の握手と同じぐらいの時間で勝負をつければ、時間も大丈夫だろ?」
「そうですが・・・」
「だったら司会、マイクを貸せ」
「はぁ・・・」
彼は司会からマイクをひったくると、残る行列に向けて呼びかけた。
「ファンのみんな!ここから先、腕相撲の挑戦をしたければ受けてやるぜ!ただし負けたからって泣くんじゃないぞ!」
ジェイソンの宣言に、行列から歓声があがった。
「これでよし・・・じゃあ嬢ちゃん、勝負だ」
「へへへ・・・」
鱗に覆われ、先は丸めてあるものの猛獣のような爪の生え揃った指を備える手を、男は机に肘を突きつつ握った。
少女の年齢からすればやや大きい手ではあるが、それでも男の手より遙かに小さい。うっかり握りつぶしてしまわぬよう、力を加減しなければ。
「よーい・・・ドン!」
男の合図と同時に、少女が腕に力を込める。
男は魔物とはいえ子供の力、とやや力を落としていたが、彼の想像以上の圧力が腕にかかった。
「!?」
一瞬、机の下から大の男が腕を出しているのではないか、と錯覚するが、男が握る手は少女の衣服の袖へと続いていた。
「お、お・・・!?」
なかなかの力に、男の手の甲が机に迫る。そして、もう少しで完全に手の甲が木の板に触れる、というところでジェイソンは腕に力を込めた。
「っ!?」
目前に迫っていた勝利に、微かな笑みを浮かべていた少女の顔が強ばる。
だが、ジェイソンは構うことなく、少女の腕を押し返した。
大きく傾いていたジェイソンの腕が起きあがり、一瞬開始直前の状態を通り抜け、ついに少女の鱗に覆われた手の甲を机に押しつけた。
「く・・・!」
驚きに気を取られ、力を抜いていた訳ではない。全力で抵抗したにも関わらず、彼女の腕は机に押しつけられたのだ。
「俺の勝ちだ」
目を見開く魔物の少女に、ジェイソンはニヤリと笑みを浮かべた。
「だが、お前も結構すごいな。ほらよ・・・」
彼は少女の腕から手を離すと、机越しに両腕を伸ばし、彼女をひょいと抱き上げた。
「あ・・・」
「ハハハ、軽いなあ!こんなに軽いのにどこにあんな力を隠してたんだ?」
少女の体を抱き抱えながら、彼はイスを立ち上がった。
「みんな、聞いてくれ!この挑戦者第一号はすげえ力持ちだったぞ!どうだ、お前もう少しデカくなったら、俺のいるジムに来ないか?鍛えればきっとスゲエレスラーになれるぜ!」
突然抱き上げられた少女は、自分が何をされているのかいまいち理解していないらしく、きょろきょろと目を泳がせていた。
「さあ、残りの挑戦者に俺を驚かせてくれる奴はいるか?いたら大歓迎だ!ハハハハハ!」
魔物の少女を抱き抱えたまま、ジェイソンはそう笑った。
寒さに目を開くと、いつの間にか空が白んでいた。
「うう、寒・・・いてて・・・」
身体を起こすと、石畳の上で寝ていたためか身体の節々が痛んだ。
酒を買い求め、飲みながら歩いていたのは覚えている。しかしここはどこだろうか?
「ええと・・・あ、ああ!」
彼は周囲に目をやり、自分のそばで横たわっていた酒瓶を見つけた。
声を上げて拾い上げるが、すでに中身は一滴も入っていない。
「くそ・・・」
瓶を逆さにして上下に振りながら、男は昨夜のうちに自分が全部飲み干したことを祈った。
そして一通り祈りを捧げたところで、男は酒瓶を放り捨て、代わりにすぐそばに転がっていた杖に手を伸ばした。
「帰って寝直すか・・・」
杖を支えに、男は右足を曲げて地面を捉え、杖に体重をかけながらゆっくりと立ち上がる。
そして、身体が十分持ち上がったところで、左足を地面につけた。
「・・・っ」
男は一瞬顔をしかめるが、構うことなく石畳の上に立った。
杖を突き、いくらか背中が曲がっているとはいえ、男の身の丈はかなり大きい。
そして汚れたコート越しでも分かるほど、彼の体格は立派だった。
「適当に歩いていれば、オモテに出られるか・・・」
男はそうつぶやくと、杖を突きつつ、左足を少し引きずるようにしながら、ゆっくりとつい先ほどまで寝転がっていた路地を後にした。
その背中に、かつてスマッシャージェイソンと呼ばれていた頃の力強さはなかった。
ジェイソンがリングを離れたのは、五年前のことだった。
移動中の事故で左膝を壊し、しばらく入院することになったのだ。
医者の見立てでは、日常生活が行える程度に回復することは可能だが、リングに戻ることはできないということだった。
ジェイソンはその診断に、最低限歩けるようになるリハビリまでやったところで病院を出た。
リングにあがることができないのなら、多少早足で歩けるようになったところで、ジェイソンにとっては意味がないからだ。
ジェイソンは所属していたジムを離れ、大きな自宅を売り飛ばして金を作り、細々と生きることにした。
しかし、リングの上の栄光の日々との別れは、彼に巨大な虚無感をもたらした。
ベッドに入って目を閉じるだけで、不安感が身体をジリジリと焦がす。だからジェイソンは寝る前に、一杯酒を飲んでからベッドに入るようになった。
日常のふとしたときに「このまま生きてなんになる?」という疑問が胸中に沸き起こるようになる。だからジェイソンは常に酒のポケット瓶を持ち歩き、疑問が沸き起こったら一口含むようになった。
やがて、ベッドに入る前の一杯が二杯三杯と量を増し、昼間持ち歩くのも小さなポケット瓶ではなく酒瓶になっていった。
ジェイソンの意識は、常に酩酊か二日酔いのどちらかをさまようになった。酔ってる間なら虚無感は忘れられるし、二日酔いの頭では不安も疑問も生じる隙はない。
徐々に増えていく酒と、二日酔いで痛む頭を彼は徐々に受け入れていった。
しばしの間道を進んでいると、男の足が止まった。
小さなアパートの玄関先に、若い男が数人たむろしていたからだ。
「おい、じゃまだ。ちょっと退いてくれねえか?」
「あ?」
ジェイソンの言葉に、若い男が顔を上げ、疑問とも威嚇とも付かない声を漏らした。
「何だおっさん」
「もの頼むにはそれなりの態度ってモンがあるだろ?」
「ああすまんな。じゃあちょっと退いてくれませんかね、ぼっちゃんがた」
ジェイソンの言葉に、若者たちはヘラヘラと笑った。
「その態度気に入ったぜ」
「ただここを通すには通行料が必要なんだ」
ヘラヘラしながら、若い男の一人がナイフを手にした。
「ほらおっさん、財布出せよ。こんな時間から酒飲めるんだから、金持ってるんだろ?」
「へ」
男はあきれたように声を漏らすと無造作に若者のナイフを握る手を掴んだ。
「あ・・・あがだだだだだだ・・・!」
ジェイソンの握力に、若者の口から悲鳴めいた苦痛の声があふれ出す。
「あのなあ、こういうときにナイフはだめだろうが」
「っだだだだだだだ・・・!」
「男なら拳で戦えよ。それに人数いるんだから、俺ぐらいどうにかなるだろ?」
痛みに悶える若者を捕らえ、後込みする彼の仲間たちを一瞥しながら、ジェイソンは笑って手にしていた杖を側に放り捨てた。
「ただ、俺はお前らが父ちゃんのキンタマに入っている頃から、殴りあいぶつかり合いの世界にいたがな」
彼は握りしめていた男の手を、仲間たちの方へ放るようにしながら離し、両手で拳を作った。
「大丈夫か!?」
「いで、いでぇよ・・・」
「ちっ・・・おい、行くぞ!」
涙をにじませる若者を支えながら、彼らはちらちらとジェイソンをにらみつつ、ゆっくりその場を離れていった。
「・・・・・・ふぅ・・・」
ジェイソンは彼らを見送ってからため息をつくと、なるべく左足を曲げぬように屈み、先ほど放り捨てた杖を拾い上げる。
「あいたたた・・・」
膝からの軋みに顔をしかめながら、ジェイソンは姿勢を直した。
そして、杖を突きながらゆっくりとアパートの階段を上り、一番手前の一室の鍵を開いて中に入った。
無言で入ってきた男を、部屋が無言のまま、湿った臭気で迎える。
「ふぅ・・・」
ジェイソンは空の酒瓶や、串焼きの串が転がる床の上を進み、テーブルの上のまだ半分ほど中身の入った酒瓶を取り上げて、いすに腰を下ろした。
左足を前に投げ出すようにしながら、腰を落ち着ける。
そしえ、瓶のふたを外して、彼は口を付けようとした。
「・・・ん?」
彼が酒瓶に口を付ける寸前、ノックの音がジェイソンの耳を打つ。
一瞬気のせいではないかという考えが浮かぶが、あまり間をあけることなくノックが響いた。
「誰だ?ドアは開いてるぞ!」
こんな自分に誰が何の用だろう、と首を傾げながら、彼はドアに向けて声を上げた。
すると、ノックの音が止み、直後ドアが開く。
「失礼する」
何かを押し殺したように低い、女の声とともに部屋に入ってきたのは、一体の魔物だった。
髪の間から鋭い角を天井に向けてのばし、両手両足を分厚い鱗で覆った、ドラゴンだった。
「・・・・・・」
「何だ?べっぴんさんがこんなところに何の用だ?」
眉をひそめ、部屋の中を見回すドラゴンに向け、ジェイソンは声を上げた。
「酒屋のツケを取り立てにきた、とかいう嘘はつくなよ。俺はこう見えていつもニコニコ現金払いだからな」
「いや違う・・・あー、お前はスマッシャージェイソン・・・だな?」
「昔はそう呼ばれてたな。今はこの膝のおかげで、ただのジェイソンだ」
ドラゴンの問いかけに、男は左太股の膝近くを軽くたたいて見せた。
「もしかしてスマッシャーのファンか?だったら幻滅したろう。サインぐらいは書いてやるから、とっとと帰りな」
「実は仕事を依頼されて、お前を捜していたんだジェイソン」
「仕事?」
「そうだ。お前のとあるファンから、お前を再びリングにあげるよう依頼された」
「へへへ、その口振りからすると、適当に俺を叩きのめしてリングに引きずりあげるって意味じゃなさそうだな」
「そうだ。彼女が求めていたのは、お前の復活だ」
ドラゴンは酒瓶の間を慎重に進み、ジェイソンの向かいに腰を下ろした。
「どうか、彼女のためにも今一度リングにあがってくれないか?」
「へ!無理な話だ。医者にリングにあがることは止められてるんだよ。仮にどうにか上がれたとしても、完全復活は無理だ」
「分かっている。医師の診断書を見させてもらった」
「じゃあ何でだ?」
もうリングに上がれないことは承知の上だろうに、なぜわざわざここにきたのか。
そんなジェイソンの問いかけに、彼女は彼をまっすぐ見ながら答えた。
「お前に、改めて引退試合をした上で、引退を表明してもらいたいんだ」
「はぁ?」
「五年前の事故の後、お前はリングから姿を消した。だが、当時のファンの間には、事故のことを知っていてもお前がリングに帰ってくることを期待している連中がいるんだ」
ドラゴンは目を閉じ、一瞬間を挟んで続けた。
「恥ずかしながら、私もその一人だった。診断書を見たにも関わらず、そこのドアをくぐるまでお前が完全復活するのではないか、という期待を抱いていたんだ」
「だけど、俺の腐りっぷりを見ちまって、とっとと引導を渡した方がいいと思ったのか。へへへ」
「違う。ファンの気持ちにけじめを付けてほしいんだ。それはもちろん、依頼主の意図とは違う形で依頼を遂行してしまうことになるが、彼女もきっと納得する。だから・・・」
「このぼろぼろのおっさんをリングにあげて、ボコボコに負かして『スマッシャージェイソンの壮絶なる最後!』って引退しろってか?」
彼はハハハ、と笑い声をあげると、手にしたままだった酒瓶に口を付けた。
「ああ・・・!」
「お断りだね。そんな笑いものにされるぐらいなら、ここで大人しく腐っていった方がましだ」
「大丈夫だ、私がトレーナーとしてお前について、全盛期は無理にしてもそれなりまで鍛え直してやる」
「それで今度は何だ?それなりに鍛えた俺でも勝てるような、接待試合で最後を飾ってやろうってか?」
男は顔に浮かべていた自嘲的な笑みをかき消し、ドラゴンに告げた。
「帰れ」
「い、いや・・・」
「帰れ!帰れって言ってんだろこのアマ!」
中身の入った酒瓶を振りあげ、投げつけそうになりながらも、彼はどうにか腕を押しとどめた。
「帰れよ。出ないと叩き出すぞ」
「私はドラゴンだ。お前の腕力程度では・・・」
「そうだな。だが、もみ合いになってうっかり力がこもって、俺の方がどうにかなっちまうかもしれないぞ?」
「・・・・・・!」
ジェイソンの、自分の衰えぶりを理解した上での脅しに、ドラゴンは目を見開いた。
「さ、嬢ちゃん帰ってくれ・・・この膝じゃ椅子から立ち上がるのも辛いんだ」
「・・・・・・また来る。気が変わったら、次に会ったときに言ってくれ」
ドラゴンはどうにかそう言葉を紡ぐと、椅子から立ち上がった。
そして、空き瓶の合間を通り抜け、玄関から出ていった。
「・・・・・・」
やや足早に階段を下りる音を聞きながら、ジェイソンは杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
そして、部屋を横切り窓に近づくと、薄汚れたガラスから外を見た。
「ち・・・」
窓の外、眼下に広がるアパート沿いの通りに、ドラゴンが立っているのが見え、彼は思わず舌打ちした。
あの場所は、ちょうどアパートの入り口もこの窓も見える位置だ。これでは外出の度に捕まってしまう。
「管理人のババアに、裏口使わせてもらうか・・・」
噂好きの管理人に何を言われるか覚悟しながら、彼はそう算段をつけた。
そして、ジェイソンは窓際を離れるとベッドに歩み寄り、上着を脱ぎ捨ててその上に寝転がった。
「はぁ・・・・・・」
天井を見上げながら、彼はため息をついた。二日酔いの頭を落ち着かせるため、横になったのだ。
迎え酒という手もあったが、正直今はそんな気分ではない。
さっきのドラゴンのせいだ。
「・・・・・・」
男の脳裏に、五年前、膝を壊すより前の日々が浮かび上がった。
同時に、あのドラゴンにジェイソンの復活を依頼した人物に対しての疑問も浮かぶ。
「誰だろうな・・・」
鈍痛の残る脳味噌を動かしながら、ジェイソンはつぶやいた。
ドラゴンは依頼主を彼女と呼んでいたから、女だろう。そしてわざわざ復活を願うのだから、筋金入りのファンに違いない。
ジェイソンの脳裏に、かつてファン感謝イベントや握手会などで会ってきた人物の顔が現れた。
「一番ありうるのは、あいつかなあ・・・」
試合に必ず顔を出し、握手会に何度も現れて、『結婚してくれ』と毎度言い放ったアマゾネス。あの時は、『自分の嫁は勝利の女神だ』などと言ってしまったが、勝利の女神から見放されている今をねらっているのだろうか。
ジェイソンの脳裏で、女たちの顔が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
そして、取り留めもない妄想めいた推理をするうち、彼の意識はまどろみに沈んでいった。
ふと気がつくと、リングの上に立っていた。
まばゆい光がリングを照らし、観客席は闇に沈んでいる。だが、闇の中に誰もいないことは、息づかい一つ聞こえないことから分かった。
「・・・?」
練習試合だろうか。それにしてはリングが立派すぎるし、そもそも対戦相手は?
そんな疑問を胸に抱きながらきょろきょろと辺りを見回すと、男の目の前にひときわ巨大な影が舞い降りた。
「うぉ・・・!」
リングを揺らす衝撃に、男は声を漏らす。
彼の目の前にたっていたのは、ブーツにパンツを身につけた、筋肉質の男だった。顔は強烈な光のため、よく見えない。
「・・・?」
対戦相手の素性を思い出そうとしていると、対戦相手は不意に声を上げた。
そして腰を落としながら、レスラーに向けてつっこんできた。
体力も有り余っている序盤でのタックルは、非常にダメージが大きい。
男はとっさに向かってくる対戦相手を交わそうとした。だが、彼の身体は思ったより動かなかった。
「なに・・・!?」
目を向けると、薄汚れたズボンの下で、左足がまっすぐ伸びていた。
それに足にはいているのは履き古した靴で、羽織っているのは汚れた上着だった。
こんな格好で試合に臨むなんて、衣服を掴んで投げてくれ、と言っているに等しい。いや、そもそもなぜ自分はこんな格好なのか?
男の脳裏をいくつもの疑問が飛び回った直後、対戦相手のタックルが彼に激突した。
「・・・!」
肺から空気が絞り出され、対戦相手ごと男の身体が宙に浮く。
そして、背中からリング上に叩きつけられ、対戦相手は男の上に馬乗りになった。
「・・・・・・・・・・・・!」
対戦相手が何事かを叫び、マウントポジションからの張り手を男に向けて振り下ろした。
男はとっさに腕をかざすが、対戦相手の一撃一撃は容赦なく衝撃を彼に伝えた。
そして、十発ほど衝撃が男を襲い、彼の意識が朦朧としてきたところで、腹の上の圧迫感が消えた。
「?」
衝撃に濁る男の意識の中、どうにか目を開くと対戦相手が状態を屈め、男に手を伸ばしているのが見えた。
直後、衣服の襟首とズボンを捕まれ、彼の身体を対戦相手は楽々と掲げた。
「うお、お・・・!」
浮遊感が全身を支配し、不安感が胸中で膨れ上がっていく。
そして、対戦相手の腕が男を高々と持ち上げたところで、彼は男をリングに向けて投げつけた。
落下の際の浮遊感が背筋をくすぐり、激突への恐怖が全身を冷やす。
そして、何もかもの動きがゆっくりとなる中、男は初めて対戦相手の顔を見た。
ジェイソンが目にしたのは、怒りをにじませる自身の顔。スマッシャージェイソンの顔だった。
全身を衝撃が打ち据え、鈍い痛みが意識を覚醒させる。
「うぉ・・・!」
左膝への衝撃による痛みが意識に突き刺さり、彼の意識を明確にした。
「おいオッサン、玄関開いてたぜ」
「不用心だな、へへへ」
耳に入ってきた声に、彼が目を開くと、ニヤニヤと笑みを浮かべる幾人もの若者の姿が目に入った。
「お前ら・・・」
見覚えのある彼らの顔に、ジェイソンは記憶をたどり答えを見つけた。
アパート前にたむろしていた連中だ。
「さっきは世話になったな」
ジェイソンが腕をつかんだ若者が、彼を見下ろしながら口を開いた。
「あんまり腕が痛いから病院行ったけど、何ともなかったぞ。全く、診察代無駄に払っちまったよ」
「だから、その分オッサンから酒とか金とかもらっていくからな」
「ついでに、治療費の払いがいのある怪我もさせてやる」
若者たちは一斉に笑った。
「この・・・!」
ジェイソンはベッドの縁に手をかけ、そこを支えに立ち上がろうとした。
しかし、彼の尻が床から浮いたぐらいで、若者の一人の足が跳ね上がり、ジェイソンのベッドを掴む腕を蹴った。
「があ・・・!」
腕の痛みと尻餅、そして衝撃により左膝に響く痛みに、ジェイソンはうめき声を漏らした。
「おい、このオッサン本当に強いのか?」
「ああ、昔おやじと一緒にこのオッサンの試合見に行ったぜ」
「でも、そのスマッシャージェイソンも、形無しってわけか」
つま先でジェイソンを小突きながら、若者たちは言葉を交わした。
「・・・!」
床に横たわって、わき腹など弱い部分を守りながら、ジェイソンは歯を食いしばった。
自分がスマッシャージェイソンだったなら、彼らなど一人で叩きのめせ他だろうに。いや、そもそもあのころの体ならば、この若者も仕返しに雇用だなんて夢にも思わなかったはずだ。
だが、今はどうだろう。膝のおかげで立つこともできず、こうして小突かれることしかできない。
寝ている間に酒が抜けたためか、妙に冴えている頭で、ジェイソンは己の情けなさに涙を滲ませた。
「おい、オッサン泣いてるぞ?」
「へへへ、ついこないだまで親父の金玉に入ってたようなガキに負けて、情けないんだろうよ」
若者たちは、涙をこぼすジェイソンに手加減するどころか、ますます嗜虐心を燃え上がらせながら足を動かした。
つま先でつつく程度だった蹴りに、徐々に体重が上乗せされ、痛みが大きくなっていく。
だが、ジェイソンは若者たちの蹴りに対し、あらがうどころかただ身体を丸めて耐えるばかりだった。
「ダンゴ虫みてえに丸くなりやがって・・・」
「おい、何とか抵抗して見ろよ!」
背中に靴底を降り注がせ、わき腹を蹴りあげながら若者たちが声を上げる。
だが、彼はただじっと耐えていた。
「おい、何をしている!?」
不意に玄関のドアが音を立てて開き、高い声が響いた。
「ドラゴンだと!?」
「ヤベ・・・!」
「お前ら、離れろ!」
若者たちの蹴りが止み、ドラゴンの声が近づく。
「ずらかるぞ!」
「あ、こら!待て!」
若者たちと思しき複数の足音が響き、遠ざかっていく。するとドラゴンは、逡巡を経てジェイソンの方に歩み寄った。
「大丈夫か!?」
「へ・・・大丈夫、だ・・・」
若者たちの追跡ではなく、ジェイソンの介抱を選んだ彼女に、彼は低い声で応えた。
「こちとら、殴る蹴るには慣れてるんだ・・・」
「しゃべるな。病院へ連れていく」
ドラゴンは彼の身体をひょいと抱えあげると、部屋を飛び出していった。
青空と、緊張した面もちの彼女の顔を見上げながら、ジェイソンは自分がゆっくりと意識を手放していくのを感じた。
そして予想通り、彼は失神した。
ふと気が付くと、ジェイソンはベッドの上に横になっていた。
アパートの自分の部屋の薄汚れたベッドではない。清潔なシーツに包まれたベッドだ。
鼻をくすぐる消毒液の香りに、彼は自分が病院にいることを悟った。
「気が付いたのか」
視界の端から、ドラゴンが顔を覗かせ、ほっと息を付く。
「気を失ったときは心配したが、そう重傷じゃなかった。よかったな」
彼を安心させるように、ドラゴンが微笑んだ。
「ここは・・・?」
「お前のアパートの近所の病院だ」
「そうか・・・」
ジェイソンは低く応えると、しばし沈黙した。
「ええと、その・・・ジェイソン・・・?」
「何で、助けた?」
「何でって・・・多勢に無勢だと思ったからだ」
ドラゴンは、ジェイソンの問いかけに、戸惑いながらも答える。
「若者が五人で、お前は一人。確かに診断は打ち身がいくつかといった程度の負傷だったが、それでももっとひどい怪我をしてもおかしくないほどだった。だから、助けた」
「へえ・・・俺が反撃に出て、あのガキどもをどうにかするとは考えなかったのか?」
「・・・正直言うと、お前が一人でどうにかできるようには見えなかった」
「だろうな」
ドラゴンの返答に、ジェイソンは自嘲を含んだ低い笑い声を漏らした。
「たぶん、ガキが二人か三人でも俺は負けてただろうな。それが俺なのに、嬢ちゃんはそんな俺をリングに引っ張りあげたいという」
「・・・何が言いたい?」
「わかんねえのか?俺はもうリングに上がれる身体じゃねえ、ってことだ」
彼は低く笑い、続けた。
「膝はガタガタだし、酒のおかげで腹ん中もいくらかぶっ壊れている。その上、トレーニングとは殆ど無縁の生活のおかげで、身体も年相応だ。若いのを一から鍛えた方が、数倍は楽だぞ?」
「・・・・・・そうだな、私もそう思う・・・」
ドラゴンは、ジェイソンの言葉に間をおいて頷いた。
「しかし、私はお前のトレーナーを勤めさせてもらう」
「何だと?」
「依頼主と話をしたんだ」
ドラゴンは、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「依頼主にとって、お前は憧れで、理想で、目標だった。だが、お前は突然いなくなってしまい、依頼主はその亡霊を追い続けていたんだ。だが、こうして私がお前・・・スマッシャージェイソンを見つけた」
「元、だがな」
「とにかく、依頼主の意向としては、スマッシャージェイソンの引退を確かなものにし、彼女の胸の中にいる亡霊を消し去ってほしい、ということだ」
「へ・・・勝手にあこがれて、勝手に幻滅して・・・そのまま放っておきゃいいのにな」
「まあ、お前にも責任の一端はあるんだがな・・・」
彼の自嘲に、ドラゴンが低い声で添えた。
「責任の一端?」
「依頼主の思い出話だ。忘れてくれ。とにかく、私としてはこのチャンスを逃すことなく、お前を鍛える」
「お断りだ。ンなこと言われても・・・」
「言っておくが、ここの入院費は誰が出していると思う?」
ドラゴンの一言に、ジェイソンは思わず言葉を詰まらせた。これまでの話の流れからすると、依頼主とやらが出しているのだろう。
「わかった。俺が依頼主に入院費は返す。だから・・・」
「依頼主はお前の引退試合を見たがっている。断るようなら、入院費と併せて引退試合のキャンセル料金まで請求するらしい」
「そんな・・・」
「それに、この病院はかなりいい病院らしいな。入院費がいくら掛かるか知ってるか?私としては、入院費だけでも支払いは勘弁してもらいたいところだ」
ドラゴンの言葉に、ジェイソンは迷った。確かに手元には、いくらか金がある。だが、それもここ数年のおかげでいくらか目減りしている。
この病院の費用がいくら掛かるかは知らないが、依頼主の請求に応えられる自信はなかった。
「わかった・・・引退試合の話、引き受けよう」
「それは助かる」
とりあえず、費用請求から逃れるためにジェイソンはドラゴンの求めに応じた。
「だが言っただろう・・・俺は、もう身体がガタガタで・・・」
「医師の診断結果によれば、肝臓以外はほとんど健康らしいな」
ジェイソンの逃げ道を、ドラゴンが塞ぐ。
「筋肉もいくらか萎んでいるが、多少トレーニングすれば筋肉も回復するそうだ。肝機能も、酒をしばらく断てば問題ない。というわけで、これからしばらくは私がお前に付きっきりになる」
「ちぅ・・・」
ジェイソンは低く舌打ちした。
それから、ジェイソンはしばらく入院した。
主な目的は、酒と粗悪な食事でくたびれた内蔵の回復だった。量が少なく、味付けも若干薄い病院の食事は、ジェイソンとしては大いに不満があった。
だが、日々を追うごとに体の調子がよくなっていくのを彼は自覚していた。
しかしいくら体が健康になっても、酒を飲みたいという欲求は紛れない。
隙あらば病院を抜け出し、酒を手に入れようとした。だが、昼間はドラゴンが付きっきりになっており、夜は魔物の看護婦たちが目を光らせているため、ジェイソンに脱走する隙はなかった。
「くそ・・・」
「ほら、口を動かす暇があったら、体を動かせ」
病院の一角、室内運動場の隅に陣取り、ジェイソンはドラゴンの指示を受けながらトレーニングをしていた。
ランニングのような大きな運動はできないが、膝のリハビリとともに腕立て伏せや腹筋、縄跳びなどの簡単で基礎的なトレーニングを日々繰り返していた。
「畜生・・・」
「何だ?不満があるなら言って見ろ」
「おおありだ・・・」
ドラゴンの求めに、ジェイソンは腕立て伏せを続けながら、声を絞り出した。
「いったいなにが悲しくて、足の折れてたジジイがのそのそ歩き回っている横で、こんなトレーニングをしなきゃ・・・」
「私からしてみれば、骨折で萎えた足の筋力回復も、お前の全身の筋力回復も同じだ」
肘を降り曲げ、胸を床板につける寸前で止めたジェイソンの背中に、ドラゴンの声が降り注ぐ。
「むしろ、日常動作に必要な筋力が残っている分、お前の方が楽なもんだ」
「楽なら、俺と交代しろってんだ・・・!」
肘を伸ばし、身体を床からはなしながら、彼は声を漏らした。
「そんなことしても意味がないし、仮に依頼主にばれて見ろ。最低でも今日までの入院費が降り懸かってくるぞ」
「言っただけだ・・・!」
「次からは胸の内に留めておいてくれ」
ドラゴンが言葉を断ち切り、ジェイソンは黙々と腕立て伏せを続けた。
そして、それからもう数十回身体を上下させてから、ドラゴンは手をたたいた。
「よし、そこまで」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・」
ドラゴンの終了の合図に、彼は荒い呼吸を重ねながら、ごろりと床に突っ伏した。
「さて次は・・・と言いたいが、お待ちかねの休憩だ。十分後に、腹筋からトレーニング再開だ」
「ああ、そうかい・・・」
呼吸を落ち着け、床に座り込むよう身を起こしながら、ジェイソンはドラゴンに応えた。
「さて、私は小用で席を外すが・・・逃げるなよ?」
「逃げるって、見張りがいるのにどうやって・・・」
「ならば大人しく身体を休めて、汗を拭っていろ」
ドラゴンはそう言ってジェイソンのそばを離れると、室内運動場の監視をしている看護婦に一声かけ、そのまま出ていった。
「・・・・・・」
まだ微かに乱れた呼吸で、彼はドラゴンの背中を見送る。
彼女が言ったとおり、逃げ出すなら今がチャンスだ。しかし・・・
「・・・・・・」
ジェイソンがちらりと、監視役の看護婦に目を向けると、彼女と目があった。それどころか、彼女は軽く手を掲げ、小さく振って見せたのだ。
「くそ・・・」
ジェイソンの口から、悪態が漏れた。
こんなことならば、入院初日に断っておくべきだった。引退試合のキャンセル料も請求すると依頼主は言っていたそうだが、しかるべき場所に訴えれば、キャンセル料ぐらいは払わなくていいかもしれない。今となっては後の祭りだが。
「がんばってますねえ」
不意に、ジェイソンに女が声をかけた。顔を上げると、つい先ほどまで室内運動場の一角にいた監視役の看護婦が、すぐ側に立っていた。
「こっちとしては・・・手加減してもらいたいんですけどねえ・・・」
「そうですか?我々から見たら、かなり理想的な運動量だと思いますけど」
「はぁ・・・?」
看護婦の言葉に、彼は思わず声を上げた。
「いえ、確かにあなたからすると辛いかもしれませんけど、筋肉を回復させるという観点から見れば、緻密に計算された運動量なんですよ」
「そんなもん・・・ヘトヘトになるまでやれば一緒じゃないんですか・・・」
「違いますよぉ」
ジェイソンの言葉に、看護婦は顔を左右に振った。
「あんまり過剰なトレーニングは、かえって筋肉の縮退を招くんです。ですけど、あのドラゴンさんは筋肉が増大しやすいところで、トレーニングを切り替えているんです」
「・・・・・・」
そういえばそうだ。ジェイソンは看護婦の言葉に、ドラゴンのトレーニングが適度なタイミングで切り替えられていることに気が付いた。
「きっと、あなたのことをよく考えていらっしゃるんでしょうねえ」
「俺を鍛えるのが、あいつの仕事ですから・・・」
そう、あくまで彼女の目的は依頼主が欲する引退試合の達成だ。
「そんなことないですよ。だって、あのドラゴンさん、患者さんが運び込まれた後、つきっきりでしたし」
「そんな・・・きっと、依頼主がそれだけ怖いんですよ」
「またまた」
看護婦がくすくすと笑ったところで、ふとジェイソンは胸中に違和感が芽生えるのを感じた。
何か、おかしい。
ジェイソンは、違和感の正体を探ろうと、一瞬これまでの会話を振り返った。
「どうしました?」
「いや・・・ちょっと、疲れて・・・」
だが、ジェイソンが違和感の正体にたどり着く前に、看護婦の一言が彼の思考を断ち切った。
「あ、ドラゴンさん戻ってきましたよ」
「もうか」
十分休憩のはずなのに、まだ五分ぐらいしか経っていない。
「休めたか?」
看護婦に一声かけてから、ドラゴンはジェイソンにそう問いかけた。
「おかげさまで、な」
「そうか。まだ時間はあるから、これでも飲んでもう少し休め」
そう言ってドラゴンが差し出したのは、水のボトルだった。
受け取ると、よく冷えているのがわかった。
「ああ、ありがとう」
「気にするな」
自然とこぼれたジェイソンの礼の言葉に、ドラゴンは何事もないように応じた。
それから、男はドラゴンの指導の下病院でのトレーニングを続け、退院する頃には入院前とは比べものにならないほどになっていた。
トレーニングと平行して行っていたリハビリにより、杖を突かずとも歩けるほどに膝は回復していた。
長らく世話になった病院の玄関をくぐる。
「・・・っ・・・」
部屋の窓や病院の庭で幾度も浴びてきた日の光に、彼は目をすぼめた。
改めて退院してみると、妙に日の光がまぶしく感じられたからだ。
「どうした?」
「何でもない」
ジェイソンはドラゴンの問いかけに短く応じると、まぶしさを紛らわすように続けた。
「それで、どこに行くんだ?俺のアパートか?」
「違う。トレーニングジムだ。そこで、お前は試合まで寝泊まりしてもらう」
ジムに寝泊まり。現役時代、まだまだ無名だった頃はそうして朝から晩までトレーニングに明け暮れていたが、まさかこの年になってまでそんなことをするとは。
そうしたところで、先にあるのは引退試合だというのに。
ジェイソンは未来もないのに、若者と同じようなトレーニングをする自分の姿を脳裏に描き、苦笑した。
「なにがおかしい」
「いや、俺みたいな引退寸前を受け入れてくれるジムがあるなんて、と思ってね」
誤魔化すための言葉だったが、半分以上は本心だった。
ジェイソンが所属ジムを辞めた頃、あのジムはかなり盛況だった。
あそこに戻ることはないにしても、元有名人の自分を受け入れるところがあるとは思えなかった。
「そこは・・・まあ、色々あったということだ」
珍しく、ドラゴンが言葉を濁した。
「何かあるのか?」
「行けばわかる」
道を進みながらのジェイソンの問いかけに、彼女は短く応じた。
それから、二人はしばらく歩き続けた。
すると、あたりの景色が、徐々にジェイソンにとって見慣れたものに変わっていく。
「おい、この辺りって・・・」
「もう予想はついているだろう」
ドラゴンは角を曲がったところで足を止め、通りに面した建物を示した。
「あそこだ。あそこで、お前のトレーニングを行う」
「あれって・・・」
ドラゴンの指の先にあったのは、男にとって馴染み深い場所。かつてジェイソンが所属していた、ジムだった。
「あそこか・・・」
「イヤならやめてもいいんだぞ?入院費とジムの料金を払えるのなら」
「もう払ってるのか」
ドラゴン、いや依頼主の動きに、男は呻いた。
「入院費もそうだったが、ジムの料金もすごかったぞ。私の金ではないとはいえ、胸が痛むほどにな」
「そうか・・・」
どうやら、ジェイソンにかかっている金額は、相当なレベルにまで膨れているらしい。
「とにかく、入るぞ」
ドラゴンとジェイソンは、ジムに歩み寄り、玄関を押し開いた。
すると、独特な汗の香りとともに、サンドバッグやミットを打つ音、トレーニングのかけ声が二人を迎える。
しかし、数年ぶりにジェイソンを迎えたそれらは、彼にとって馴染みのあるものではなかった。
「おい・・・なんだ、これは・・・」
ジムの中央に置かれたリングを囲むように、トレーニングに励む魔物の姿に、ジェイソンは呆然とした。
魔物が増えただけなら問題はない。トレーニングしているのが、すべて魔物だというのが問題だった。
「ジェイソン?ジェイソンか!」
ジムの奥の方から、魔物たちの間を縫って、男が一人出てきた。
体格の立派な、ジェイソンより一回りは年上の男だ。
「久しぶりだなあ、ジェイソン!」
「お久しぶりです、トレーナー」
数年ぶりに顔を合わせた、ジェイソンの現役時代のトレーナーに、彼は頭を下げた。
「話は聞いたぞ。引退試合をやるんだってな?」
「まあ、無理矢理ですがね」
トレーナーの問いかけに、ジェイソンは傍らのドラゴンに視線を向けつつ答えた。
「しっかし、お前は現役の頃と変わらないなあ」
「入院中、膝のリハビリついでに私が鍛えたんだ」
感心するトレーナーに、ドラゴンが胸を張る。
「それでは所長、約束通り、しばらくやっかいになる」
「ああ、こちらとしても馴染みの顔は大歓迎だ」
ドラゴンの呼びかけからすると、ジェイソンが離れている間に、トレーナーはジムの所長にまでなったらしい。
「それに、引退試合もやるんだからな。古い試合形式になるだろうが、きっと客は・・・」
「古い・・・?」
ジェイソンは、トレーナーの唇からこぼれた、一つの単語を繰り返した。
「トレーナー、ちょっと待ってくれ。古い試合形式って、どういうことだ?」
「・・・なにも聞いてないのか?」
トレーナーは少しだけ驚いたような調子でつぶやくと、ドラゴンに目を向ける。
「話そうと思ってはいたが・・・タイミングを逃して・・・」
「ああ、そうだな。確かにいい辛いもんなあ」
トレーナーは、ドラゴンの言い訳に苦笑した。
「いったい何の話だ?」
「お前がリングを離れていた間、レスリングになにが起こったか、だ」
「いつまでも玄関先ではあれだ。奥へ来るといい」
トレーナーは、ジェイソンとドラゴンに付いてくるよう示した。
「・・・」
ジェイソンは、できればこの場でドラゴンに話の続きを聞き出したかったが、そろそろトレーニングに励む魔物たちの視線が気になってきた。
衆目を避けるためにも、彼はトレーナーに続いた。
二人が通されたのは、ジムの奥の事務室だった。所属する選手やレスラーを管理し、試合のセッティングを行ったりするための一室だ。
「そこに座るといい」
トレーナーに言われるがまま、ジェイソンは事務室の一角、衝立で区切られたスペースに設けられた、応接スペースのソファに腰を下ろした。
「飲み物を用意してくるから、しばらく待ってろ」
そう言い残して、彼は衝立の内側から出ていった。
「さて・・・さっきの続きを聞かせろ」
ドラゴンと二人きりになったところで、ジェイソンは低い声で彼女に尋ねた。
「俺が酒浸りになっている間、なにがあった?」
「・・・簡単に言うと、魔物が流入したんだ」
ドラゴンが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「好戦的な魔物が、有り余る体力と戦闘衝動を発散するため、レスリングを始めたんだ。初めのうちは細々と、時折魔物同士の試合がくまれる程度だった。だが、人間との異種交流試合が開かれるようになるまで、そう時間はかからなかった」
彼女は、一度言葉を切った。
「魔物は強かった。人では太刀打ちできないほどにだ。たまに、人間の選手が魔物に勝つこともあったが、試合後に選手の元に対戦した魔物が嫁として押し掛けた。そして新聞で、そのことが大々的に取り上げられ、夫を求める魔物がレスリングを始めた。
最初のうちは、レスリング業界はどんどん増えていく強力な魔物を喜んだ。しかし、結婚したレスラーと対戦するのを魔物がいやがるようになったな。魔物にしてみれば、レスリングは旦那を選ぶ大切な出会いの場だ。既婚の男と組み合っても、何の意味もないからな。
おかげで、異種交流試合は徐々に衰退した。魔物同士の試合も結婚ねらいの魔物がいやがるから減り、人間同士の試合は迫力がないと言うことで人気が落ちた。
そして、今では結婚した人間と魔物が夫婦でリングに上り、組み合っているのを見せていると言うところだ」
ドラゴンは、そこまで説明すると、ため息を挟んだ。
「これが、今のレスリングだ」
「なるほど・・・お見合いの席代わりに使われて、ペンペン草も生えないほどに荒らされた、ってことか・・・」
「だが、お前の引退試合は、ちゃんとしたものにする。対戦相手も探して・・・」
「人間同士は迫力がない。魔物を相手するにも、向こうは旦那探しが目的。そんな状況で、まともな試合ができるか?」
ジェイソンの問いかけに、ドラゴンは思わず口をつぐんだ。
「引退試合をするつもりが、適当な魔物にボコボコにされて、俺の葬式に。勝てば勝ったで、引退試合の直後に結婚式か。どちらにせよ、古いレスリングは終わった、って宣言するようなもんだな」
ジェイソンの苦笑に、ドラゴンはなにも言い返さなかった。
「・・・図星か」
「・・・必ず、必ず、最高の試合にするから・・・」
「俺とお前がその気でも、観客はどう思うんだろうな?それに依頼主はどうだ?もしかしたら、俺とレスリングが終わったことを宣言するのが目的かもしれないぞ?」
「そんなことは・・・」
「依頼主に言っておけ。時代は変わったのは事実だし、俺ももう終わりだ。だが、時代が変わったと言いたいんだったら、最初からそう言ってくれ」
ジェイソンはドラゴンに向けて、そしてその背後にいる依頼主に向けてそう言うと、ソファから立ち上がった。
「ジェ、ジェイソン・・・どこへ・・・」
「便所だ。お前は依頼主だとかに、俺の台詞を伝えておけ」
「ま、待て・・・!」
「ああ、あと依頼主に、どういう試合にしたいかリクエストを聞いておいてくれ。お望みの試合にしてやるから」
ジェイソンはそう言い残すと、応接スペースをでて、事務室を通り抜けた。
「お、ジェイソン」
お盆に器を二つ乗せたトレーナーが、ジェイソンの姿に驚いたように声を漏らす。
「トレーナー・・・じゃなくて、所長」
「どっちでもいいさ。それで、どうした?」
「レスリングの話を聞きました」
「そうか・・・」
複雑な表情を浮かべ、トレーナーは頷いた。
「正直、若干混乱してるところです。ちょっと、頭を冷ましたいので、この辺歩き回ってきます」
「そうか。で、あのドラゴンは?」
「もうすぐ依頼主と話をしに行くそうです。俺のことは、便所にいるとでも伝えておいてください」
「わかった。早めに戻れよ?」
「はい」
ジェイソンは頷くと、事務室を出ていった。
そして、リングの傍らを通り抜け、ジムを出る。
いくらか建物が建て変わっているが、懐かしい通りだ。
彼は、通りに沿って歩き始めた。
昔は仲間とともに、トレーニングの一環で走った通りを、ゆっくり歩いていく。
膝のリハビリにより、杖なしでの日常的な動作は可能だが、駆け足などは無理だ。
微かに違和感の残る膝をゆっくり曲げ伸ばししながら、彼は通りを進んでいった。
すると、通りの一角に小さな食料品店があった。
何の気はなしに、彼はふとその入り口をくぐった。店員の声が響くと、久々に店に入ったことに彼は気が付いた。
ここしばらくの入院生活の間、買い物とはほぼ無縁の生活を送ってきたからだ。
「久しぶりだな・・・」
棚に並ぶパンや菓子を眺めながら、彼はそう呟いた。上着のポケットに手を入れると、小銭の感触が指に触れた。どうやらドラゴンは、ジェイソンの金だということで手を着けなかったらしい。
久々に何か買ってみようか。
病院食で濃い味付けに飢えた舌が、並ぶ食べ物によって唾液にまみれていく。
可能ならば、惣菜やらを買い込みたいところだが、そこまでの金はない。
せいぜい、パンが二つが限度だろう。よく考えて選ばないと。
「んー・・・」
ジェイソンが悩みながら棚の間を歩いていると、ふと視界の端を何かがかすめた。
妙に引きつけられるものを感じ、ジェイソンはそちらに目を向ける。すると、その棚に並んでいたのは、酒だった。
立派な大瓶から、ポケット瓶。そこそこの贅沢気分を味わえる品から、酒であればそれでいいというレベルのものまで。
種類こそ少ないが、そこそこの幅の酒が取りそろえてあった。
ジェイソンの目は、並ぶ酒に釘付けになった。
入院中、一滴も彼は酒を飲んでいない。おかげで体調は良好で、頭も冴えているが、不意の禁酒はジェイソンにかなりの苦痛だった。
もう酒はやめる、と宣言して最後の一杯を口にした上での禁酒なら、まだ我慢できただろう。
だが、なし崩し的に禁酒に突入したため、ジェイソンにはその心構えができていなかった。
酒を飲みたい。酔っぱらいたいわけでも、二日酔いを紛らわせたいわけでもなく、彼は単純に酒を欲していた。
ジェイソンはふらふらと棚に歩み寄ると、ポケットの小銭と相談し、小さい瓶の一つを手に取った。
値段と量を天秤に掛け、ぎりぎり手が届く範囲の酒。安物の蒸留酒だった。
彼は酒瓶を手に店員の元へ行くと、金を支払った。
「ありがとうございましたー」
店員の声を背に、店を出る。
焦燥感のようなものがジェイソンをじりじりと焦がす。酒を飲みたい。蓋を開けて、瓶に唇をつけたい。
だが、彼は衝動を押し留め、通りに面する建物の間から、路地に入った。
狭い道を足早に、膝が耐えられる程度に抜けていく。
そして、身体が動くままに路地を進み、曲がり、通り抜けると、彼は建物の合間の小さな公園に出た。
遊具も花壇もなく、ベンチがいくつかおいてあるだけの、小さな広場だ。
ジェイソンは足早にベンチの一つに歩み寄ると、腰を下ろした。
震える手で瓶の蓋をつかみ、ひねる。封が破れる音が響き、直後蓋がはずれた。
瓶の口から酒精の香りが立ち上り、ジェイソンの鼻をくすぐった。
「・・・!」
彼は酒瓶の口に唇を押し当て、瓶を煽った。酒が彼の口内に入り込み、のどを滑り落ち、熱を生じさせる。
「ご、ごほ・・・!」
久々の酒にのどを焼かれ、初めて酒を口にしたときのようにせき込みながら、ジェイソンは酒瓶を口から離した。
焦ってはいけない。ほんの少ししかないのだから、ちびちび楽しまなければ。
「げほ、ごほ・・・はぁ・・・」
のどの熱が収まり、心地よい胃袋の温もりを感じながら、ジェイソンはため息を付いた。
入院以前ならば、これっぽっちの酒では酔えなかっただろうが、今の感触からすると十分酩酊できそうだ。
そう判断した直後、ジェイソンの脳裏をジムで聞いた話がよぎった。
だが、彼は浮かび上がりそうになる事実から目を背けると、二口目の酒を唇から注いだ。
「・・・ん・・・」
口中で酒を転がし、味わってから飲み込む。
すると少しだけ意識がぼやけ、意識のそこで渦巻いていた感情や記憶がおぼろになっていった。
やはり、酒はいい。手軽に色々と忘れられる。
ジェイソンは、青空の下酒をちびちびと楽しんだ。
公園には彼のほかに人影はなく、誰かが来る心配はなかった。
ずっと昔から、この公園に彼以外の者がいた試しがないからだ。
ジェイソンがまだまだ若く、子供といってもよかった頃、トレーニングに耐えかねてジムを飛び出し、この公園ですすり泣いたことがあった。
一人きりになれるこの公園で、彼は心を落ち着かせ、ジムへと戻っていくのだった。
あのころのように、ジェイソンは今も公園に一人でいた。だが、彼は泣くのではなく酒を飲んで気を紛らわせていた。そして、子供の頃のように可能性を抱えているわけでもなかった。
実質引退しているに等しいジェイソンを引っ張り出そうとしたところで、気が付くべきだったのだ。
もう人間の時代は終わり、魔物の時代が始まっている。
レスリングもそう言った時代の移り変わりに飲み込まれ、ジェイソンは消えていく側に立っているのだ。
酒を口に含み、飲み込むと、ジェイソンの脳裏に海が浮かび上がった。
ぼろぼろの船が波に揺られながら、ゆっくりと沈んでいく。
舳先を空に向け、船尾から船が海に飲まれていく。ジェイソンは傾く甲板に必死にかじり付き、船首を目指して這い進んでいた。
だが、船首にたどり着いても沈むのを待つばかりだ。海に飛び込んで泳ごうにも、船の沈没による渦に囚われるだろう。もう逃げ場はない。
ジェイソンは、脳裏で必死に舳先にしがみつく自分の姿に、笑いだした。
船が回り、目が回り、気分が回っていく。もう、笑うしかなかった。
すると、彼の頬を不意に衝撃が打ち抜いた。
「やっと見つけたぞ!バカ!」
衝撃と頬に残る痛み、そして聞き覚えのある声に、ジェイソンはふと正気に返った。
彼がいるのは公園のベンチで、手には半分以上中身の減った小さな酒瓶があり、ジェイソンの目の前にはドラゴンが立っていた。
「これはこれは、俺のトレーナー様・・・」
怒りのためか、小さく体を震わせるドラゴンに、ジェイソンはニヤリと笑った。
「以来主様との交渉はお済みでしょうか?」
「・・・終わった・・・だが、ジェイソン、これは何だ?」
「酒だ」
ジェイソンは手にしていた瓶を軽く振りながら、ドラゴンの言葉に応えた。
「何でそんな・・・せっかく、酒をやめたのに・・・」
「飲まなきゃやってられないんだよ・・・何だ、久しぶりにジムに帰ってみれば、魔物ばっかりで・・・俺たちの頃と、試合が変わっちまっていて・・・何だ?俺たちは見せ物だったっていうのか?」
「・・・それは・・・」
徐々に嘆くような口調になっていくジェイソンの言葉に、ドラゴンは何かを言おうとした。だが、ジェイソンは彼女に入り込む隙を与えず、続けた。
「見せ物だよ。俺たちのやってきたことは、全部見せ物だ」
「・・・っ・・・」
ジェイソンの言葉に、ドラゴンが小さく震えた。
「だけどなあ・・・見せ物だからこそ、俺たちは懸命だったんだ・・・見栄えがするよう体を鍛えて、迫力が出るよう全力で殴りあって・・・真剣に、見せ物をやってたんだよ・・・だってのに、人間同士の試合は迫力がなくて、魔物は旦那探しのついでにリングにあがって・・・なあ、俺たちがやってきたことは、旦那探しの片手間に劣ってたのか・・・?」
ジェイソンは、ぼろぼろと涙をこぼしながらドラゴンを見た。
彼の瞳に、ドラゴンは一瞬たじろぐ。
「なあ、答えてくれ・・・俺達は劣ってたのか・・・?」
「そ、それは・・・」
「俺の引退試合は、劣った俺達が消え去るのを祝うための試合なのか・・・?だったら、俺はどう振る舞えばいいんだ?全力でボコボコにやられりゃいいのか?無様にリングを逃げ回って、捕まればいいのか?なあ、以来主に聞いてきたんだろ?教えてくれよ・・・」
「く・・・」
ドラゴンは、一度ジェイソンのすがりつくような目から視線を離すと、一つ深呼吸した。
そして、再び真正面から、ジェイソンを見据えた。
「依頼主のことを、お前に教える・・・」
何かを決心したような光を目に宿し、彼女は口を開いた。
「依頼主はドラゴンで、お前のファンだった。そして、十年前の試合の後、ファン感謝祭イベントに参加した・・・覚えているか?まだまだ子供のドラゴンが、お前に腕相撲を挑んだはずだ」
「腕相撲・・・あ・・・」
ジェイソンの脳裏に、テーブルに肘を突いた子供の姿が浮かんだ。
「依頼主は、リングの上で最強だったお前を気に入っていたが、自分の方が強いと思っていた。だから腕相撲で勝負を挑んだんだ。だが、結果は・・・」
そう。一瞬ジェイソンは驚いたものの、ドラゴンの子供に勝った。
「依頼主は、まさか自分の両親以外の者に敗れるとは思っていなかった。そしてその敗北は彼女にとって初めての敗北で、お前の強さを印象づけたんだ」
ふふ、と笑みを短くこぼしてから、ドラゴンは続ける。
「知っているか?ドラゴンは自分より強い者に惚れ込む性質がある。たとえ腕相撲勝負であっても、ドラゴンにしてみれば自信の敗北であり、打ち負かした者への恋慕は発生するものなんだ。そりゃ、年から考えると、初恋みたいなものだ。だけど、初恋であっても真剣だった。その上、お前に『俺のいるジムに来ないか?』と言われたんだ。お前を追いかけるのは、当たり前のことだろう?」
問いかけるように、彼女は語尾を上げた。だが、ジェイソンの返答は期待していなかったのか、すぐに言葉を続ける。
「とにかく、その一言と恋心を胸に六年かけて我流の鍛練を積み、十分に成長したところでお前が所属していたジムの玄関をたたいたんだ。だが、お前はいなかった」
「その一年前に、事故で膝を壊したからな・・・」
「そうだ。お前に会うことばかり考えていたから、かなりショックを受けたな・・・ここであきらめていれば、淡い初恋が破れたという、ありがちな話になるんだろうが・・・あきらめが悪かった」
「レスリングをあきらめて、俺を捜したのか?」
「そうだ。病院や、元自宅を訪ね、人に話を聞き・・・お前の行方を探した。その合間に、リハビリやトレーニングの勉強をして、お前のサポートができるよう知識を身につけた。そして、四年かけてやっと・・・」
「俺を見つけた」
「ああ」
ドラゴンが頷いた。
「アパートの扉を開くまで、胸が張り裂けそうなほど高鳴っていたんだ。だが、部屋にいたのは顔が似ていてガタイがいいだけの、杖突きオヤジだ。私は、意識の底が冷えて行くのを感じたよ」
「やっぱり幻滅してたんだな」
「いや、違う。頭の底が冷えてはいたけど、胸はドキドキしてたんだ。やっとお前に会えた。だけど、十年前に私を打ち負かしたお前じゃない。だから、あの日の強かったお前を取り戻さなければ。冷静にそんな気分になっていたんだ」
彼女は両手でジェイソンの肩をつかむと、続けた。
「分かるか?『こんなに強い男に、私は負けたんだ』って、お前の側で胸を張りたいんだ。ただの事故で膝を壊して、燃えカスがくすぶるように消えてほしくないんだ!もう一度、もう一度だけ強かったお前に戻って、『これでおしまい』と気持ちよくみんなに手を振ってほしいんだ!だから・・・」
ドラゴンの声は徐々に震え、意味を成さなくなっていき、彼女がジェイソンの胸元に顔を押しつけたことで完全に途絶えた。
「・・・一つ、聞きたい・・・」
言葉を断ち切り、しゃくりあげるドラゴンに、ジェイソンが問いかける。
「俺の・・・いや、人間の試合は、楽しかったか・・・?」
「・・・ひぐっ・・・うん・・・」
ジェイソンの胸の中で、ドラゴンが頷く。
「もう一度、見たいか・・・?」
「・・・う、ん・・・」
「でも、それで俺は永遠にリングとお別れだぞ?」
「このまま・・・消えていくより、ずっといい・・・」
くぐもった声が、ジェイソンの胸元から響いた。
「・・・そうだな。確かに、じわじわくすぶるのは、性に合わねえ」
ジェイソンは、ドラゴンの頭に手を触れながら言った。
「分かった。引退試合、やるぞ」
「・・・本当、か・・・?」
ジェイソンの胸元から顔を離し、彼を見上げながらドラゴンが尋ねる。
「ああ、スマッシャージェイソンと、古いレスリングの最期を飾る、最高の試合をやってやる」
ジェイソンはそう頷き、両腕で最高のファンを抱きしめた。
いつの間にか酒の小瓶を手放しており、小瓶が地面に転がって酒ををこぼしていたが、ジェイソンには酒を惜しむ心は残っていなかった。
リングの上にいるのは、ブーツと肌にフィットするパンツだけを身につけた男が二人。そしてリングを男に女に子供に老人に人に魔物にと、幅広い観客が取り囲み、口々に歓声と声援を上げていた。
「・・・!」
「・・・!」
観客の声はリング上の男の耳に届くが、その意味までは意識が及ばない。今、意識を向けるべきなのは観客ではなく、目の前の対戦相手だからだ。
対戦相手の大男は、男より頭一つ大きい。だが、これまでに男が幾度も打ち込んだ蹴りや張り手のダメージが蓄積しているためか、どこかふらふらと頼りない。
「ウォォオオオ!」
男は一つ吠えると姿勢を低くし、大男に向けて突進し、臆することなくぶつかった。
男の肩と大男の腹、肉と肉の激突する鈍い音が響き、大男の体が揺れる。
だが、大男の体が吹き飛ぶことはなかった。激突の瞬間、男が大男の肩と太股をがっちりつかんでいたからだ。
「!!」
大男は慌てたように男の手首をつかむが、もう遅い。
「ふん・・・!」
男はその場に屈み、首の後ろ、両肩の上に大男の体を引き落とした。
彼の両足に、二人分の体重が加わる。男は歯を食いしばると、全身に力を込めた。
すると、重量挙げの要領で、大男の体がゆっくりと持ち上げられていく。
「うぉ、おぉ!!」
大男は逃れようと手足をバタつかせた。重心が揺れ、ともすれば転倒しかねないほどバランスが危うくなるが、男は歯を食いしばりつつ堪えて、大男の体を持ち上げていく。
彼の背筋がまっすぐに伸び、屈められていた足を立てる。
そして、男の両腕の筋肉が一回り膨れ上がった瞬間、大男の体が彼の肩から浮かび上がった。
「・・・!・・・!・・・!」
リングに投げかけられる無数の声が、同じ調子で何事かを紡ぐ。
しかし、男の耳ではごうごうと血液の流れる音が響いており、全く聞こえていなかった。
そして、男はついに両腕をまっすぐに伸ばし、自分よりも遙かに重い大男を高々と持ち上げていた。
男の時間が、大男の時間が、観客の時間が、男の成し遂げた偉業に一瞬止まる。
直後、男は掲げた大男を、眼前のマットに向けて勢いよく振り落とした。
大男の体が加速され、男の手を放れた直後、衝撃を吸収するマットに沈む。
「がぁぁぁああああああッ!」
マットどころかリング全体、下手すれば会場全体が揺れるような衝撃と音が辺りに響き、大男の口から絶叫がほとばしる。
そして、倒れ伏したまま男の方に手を伸ばし、その手が力なく落ちた。
すると、リングの隅の方にいた、正装した犬のような耳をはやした女が倒れる大男のそばまで飛び出し、指を一本立てた。
「・・・!・・・!・・・!」
女が何事かを叫ぶのにあわせ、彼女が指を一本ずつ立てていく。
そして、その指が両手合わせて十本になった瞬間、男は両腕を掲げながら叫んだ。
「うぉぉぉぉぉおおおおお!」
彼の叫びに答えるように、観客が歓声を上げる。
そして、興奮によって蓋がされていた男の耳に、ようやく声が届いた。
「勝者、スマッシャージェイソン!」
「ジェイソン!ジェイソン!ジェイソン!」
試合の勝者を高らかに読み上げるアナウンスと、勝者の名を口をそろえて呼ぶ観客の声。
男の耳に最初に届いたのは、彼自身の名前だった。
リングを降り、簡単に医師の診察を受けてからシャワーを浴び、着替える。着替えると言っても普段着ではなく、試合用のパンツだ。
しかし彼が向かうのはリングではなかった。
「スマッシャージェイソンの登場です!」
アナウンスに従い、先ほど死闘を繰り広げた試合会場に足を踏み入れると、そこはだいぶ様変わりしていた。
リングは会場の隅に押しやられ、代わりにテーブルとイスが用意されている。
そして、イスを挟んだテーブルの向こうには、百人に及ぶ行列ができていた。
男は笑顔で行列に向けて手を振ると、用意されていたイスに腰を下ろした。
「それでは幸運なファンのみなさん、握手会を開始します」
司会の言葉に行列の間から歓声が上がった。
「ジェイソンさん、今日の重量落としも絶好調でしたね!」
「ハハハ、俺はいつでも絶好調だからな」
一人目の男の手を握りながら、彼は笑顔で返す。
「ジェイソンさん、これからもがんばってください!」
「おうよ!応援ありがとうな!」
二人目の女には、少しだけ手を握る力を弱めてやる。
「ジェイソン!何食べたらそんなに強くなるんだよ!」
「好き嫌いせず何でも食え!野菜もだぞ!」
生意気そうな子供にも、彼はそう答えてやる。
「ジェイソン!結婚してくれ!」
「悪いな!もう嫁さんがいるんだよ!勝利の女神って名前のな!」
褐色の頬を赤らめた、やや筋肉質な女(確か前にアマゾネスとか言っていた)の求婚にも、軽く返してやる。
「がんばってください!」
「応援してます!」
「重量落とし、見事でした!」
人は変われども、ほぼ同じ内容の応援の言葉。だが、そこに込められたファンの気持ちは本物だった。
手を握っては一言返事し、一言返しては手を握る。
そんな調子で、行列の半ばほどまでを消化したところで、一人の女の子がジェイソンの前に立った。
髪の間から短い角を生やし、ほっぺたに小さな鱗を生やした魔物の子供だ。
(確か、リザードマンだったか・・・?)
ジェイソンが脳裏で、彼女の種族を類推したところ、彼女は机の上に手を差し出した。
ただ、それは握手を求める手ではなく、肘を机に突けて腕を立てる、腕相撲の姿勢だった。
「勝負だ」
魔物の少女は男に向けてそう言うと、子供らしからぬ獰猛な笑みをニヤリと浮かべた。
「ハハハ、面白れえ!挑戦者か」
「ああ、お嬢ちゃん気持ちはありがたいけど、今日は普通の握手だけでね・・・?」
笑うジェイソンの隣で、整理係が少女をなだめるように言った。
「いい、大丈夫だ」
「でも時間が・・・」
「なぁに、普通の握手と同じぐらいの時間で勝負をつければ、時間も大丈夫だろ?」
「そうですが・・・」
「だったら司会、マイクを貸せ」
「はぁ・・・」
彼は司会からマイクをひったくると、残る行列に向けて呼びかけた。
「ファンのみんな!ここから先、腕相撲の挑戦をしたければ受けてやるぜ!ただし負けたからって泣くんじゃないぞ!」
ジェイソンの宣言に、行列から歓声があがった。
「これでよし・・・じゃあ嬢ちゃん、勝負だ」
「へへへ・・・」
鱗に覆われ、先は丸めてあるものの猛獣のような爪の生え揃った指を備える手を、男は机に肘を突きつつ握った。
少女の年齢からすればやや大きい手ではあるが、それでも男の手より遙かに小さい。うっかり握りつぶしてしまわぬよう、力を加減しなければ。
「よーい・・・ドン!」
男の合図と同時に、少女が腕に力を込める。
男は魔物とはいえ子供の力、とやや力を落としていたが、彼の想像以上の圧力が腕にかかった。
「!?」
一瞬、机の下から大の男が腕を出しているのではないか、と錯覚するが、男が握る手は少女の衣服の袖へと続いていた。
「お、お・・・!?」
なかなかの力に、男の手の甲が机に迫る。そして、もう少しで完全に手の甲が木の板に触れる、というところでジェイソンは腕に力を込めた。
「っ!?」
目前に迫っていた勝利に、微かな笑みを浮かべていた少女の顔が強ばる。
だが、ジェイソンは構うことなく、少女の腕を押し返した。
大きく傾いていたジェイソンの腕が起きあがり、一瞬開始直前の状態を通り抜け、ついに少女の鱗に覆われた手の甲を机に押しつけた。
「く・・・!」
驚きに気を取られ、力を抜いていた訳ではない。全力で抵抗したにも関わらず、彼女の腕は机に押しつけられたのだ。
「俺の勝ちだ」
目を見開く魔物の少女に、ジェイソンはニヤリと笑みを浮かべた。
「だが、お前も結構すごいな。ほらよ・・・」
彼は少女の腕から手を離すと、机越しに両腕を伸ばし、彼女をひょいと抱き上げた。
「あ・・・」
「ハハハ、軽いなあ!こんなに軽いのにどこにあんな力を隠してたんだ?」
少女の体を抱き抱えながら、彼はイスを立ち上がった。
「みんな、聞いてくれ!この挑戦者第一号はすげえ力持ちだったぞ!どうだ、お前もう少しデカくなったら、俺のいるジムに来ないか?鍛えればきっとスゲエレスラーになれるぜ!」
突然抱き上げられた少女は、自分が何をされているのかいまいち理解していないらしく、きょろきょろと目を泳がせていた。
「さあ、残りの挑戦者に俺を驚かせてくれる奴はいるか?いたら大歓迎だ!ハハハハハ!」
魔物の少女を抱き抱えたまま、ジェイソンはそう笑った。
寒さに目を開くと、いつの間にか空が白んでいた。
「うう、寒・・・いてて・・・」
身体を起こすと、石畳の上で寝ていたためか身体の節々が痛んだ。
酒を買い求め、飲みながら歩いていたのは覚えている。しかしここはどこだろうか?
「ええと・・・あ、ああ!」
彼は周囲に目をやり、自分のそばで横たわっていた酒瓶を見つけた。
声を上げて拾い上げるが、すでに中身は一滴も入っていない。
「くそ・・・」
瓶を逆さにして上下に振りながら、男は昨夜のうちに自分が全部飲み干したことを祈った。
そして一通り祈りを捧げたところで、男は酒瓶を放り捨て、代わりにすぐそばに転がっていた杖に手を伸ばした。
「帰って寝直すか・・・」
杖を支えに、男は右足を曲げて地面を捉え、杖に体重をかけながらゆっくりと立ち上がる。
そして、身体が十分持ち上がったところで、左足を地面につけた。
「・・・っ」
男は一瞬顔をしかめるが、構うことなく石畳の上に立った。
杖を突き、いくらか背中が曲がっているとはいえ、男の身の丈はかなり大きい。
そして汚れたコート越しでも分かるほど、彼の体格は立派だった。
「適当に歩いていれば、オモテに出られるか・・・」
男はそうつぶやくと、杖を突きつつ、左足を少し引きずるようにしながら、ゆっくりとつい先ほどまで寝転がっていた路地を後にした。
その背中に、かつてスマッシャージェイソンと呼ばれていた頃の力強さはなかった。
ジェイソンがリングを離れたのは、五年前のことだった。
移動中の事故で左膝を壊し、しばらく入院することになったのだ。
医者の見立てでは、日常生活が行える程度に回復することは可能だが、リングに戻ることはできないということだった。
ジェイソンはその診断に、最低限歩けるようになるリハビリまでやったところで病院を出た。
リングにあがることができないのなら、多少早足で歩けるようになったところで、ジェイソンにとっては意味がないからだ。
ジェイソンは所属していたジムを離れ、大きな自宅を売り飛ばして金を作り、細々と生きることにした。
しかし、リングの上の栄光の日々との別れは、彼に巨大な虚無感をもたらした。
ベッドに入って目を閉じるだけで、不安感が身体をジリジリと焦がす。だからジェイソンは寝る前に、一杯酒を飲んでからベッドに入るようになった。
日常のふとしたときに「このまま生きてなんになる?」という疑問が胸中に沸き起こるようになる。だからジェイソンは常に酒のポケット瓶を持ち歩き、疑問が沸き起こったら一口含むようになった。
やがて、ベッドに入る前の一杯が二杯三杯と量を増し、昼間持ち歩くのも小さなポケット瓶ではなく酒瓶になっていった。
ジェイソンの意識は、常に酩酊か二日酔いのどちらかをさまようになった。酔ってる間なら虚無感は忘れられるし、二日酔いの頭では不安も疑問も生じる隙はない。
徐々に増えていく酒と、二日酔いで痛む頭を彼は徐々に受け入れていった。
しばしの間道を進んでいると、男の足が止まった。
小さなアパートの玄関先に、若い男が数人たむろしていたからだ。
「おい、じゃまだ。ちょっと退いてくれねえか?」
「あ?」
ジェイソンの言葉に、若い男が顔を上げ、疑問とも威嚇とも付かない声を漏らした。
「何だおっさん」
「もの頼むにはそれなりの態度ってモンがあるだろ?」
「ああすまんな。じゃあちょっと退いてくれませんかね、ぼっちゃんがた」
ジェイソンの言葉に、若者たちはヘラヘラと笑った。
「その態度気に入ったぜ」
「ただここを通すには通行料が必要なんだ」
ヘラヘラしながら、若い男の一人がナイフを手にした。
「ほらおっさん、財布出せよ。こんな時間から酒飲めるんだから、金持ってるんだろ?」
「へ」
男はあきれたように声を漏らすと無造作に若者のナイフを握る手を掴んだ。
「あ・・・あがだだだだだだ・・・!」
ジェイソンの握力に、若者の口から悲鳴めいた苦痛の声があふれ出す。
「あのなあ、こういうときにナイフはだめだろうが」
「っだだだだだだだ・・・!」
「男なら拳で戦えよ。それに人数いるんだから、俺ぐらいどうにかなるだろ?」
痛みに悶える若者を捕らえ、後込みする彼の仲間たちを一瞥しながら、ジェイソンは笑って手にしていた杖を側に放り捨てた。
「ただ、俺はお前らが父ちゃんのキンタマに入っている頃から、殴りあいぶつかり合いの世界にいたがな」
彼は握りしめていた男の手を、仲間たちの方へ放るようにしながら離し、両手で拳を作った。
「大丈夫か!?」
「いで、いでぇよ・・・」
「ちっ・・・おい、行くぞ!」
涙をにじませる若者を支えながら、彼らはちらちらとジェイソンをにらみつつ、ゆっくりその場を離れていった。
「・・・・・・ふぅ・・・」
ジェイソンは彼らを見送ってからため息をつくと、なるべく左足を曲げぬように屈み、先ほど放り捨てた杖を拾い上げる。
「あいたたた・・・」
膝からの軋みに顔をしかめながら、ジェイソンは姿勢を直した。
そして、杖を突きながらゆっくりとアパートの階段を上り、一番手前の一室の鍵を開いて中に入った。
無言で入ってきた男を、部屋が無言のまま、湿った臭気で迎える。
「ふぅ・・・」
ジェイソンは空の酒瓶や、串焼きの串が転がる床の上を進み、テーブルの上のまだ半分ほど中身の入った酒瓶を取り上げて、いすに腰を下ろした。
左足を前に投げ出すようにしながら、腰を落ち着ける。
そしえ、瓶のふたを外して、彼は口を付けようとした。
「・・・ん?」
彼が酒瓶に口を付ける寸前、ノックの音がジェイソンの耳を打つ。
一瞬気のせいではないかという考えが浮かぶが、あまり間をあけることなくノックが響いた。
「誰だ?ドアは開いてるぞ!」
こんな自分に誰が何の用だろう、と首を傾げながら、彼はドアに向けて声を上げた。
すると、ノックの音が止み、直後ドアが開く。
「失礼する」
何かを押し殺したように低い、女の声とともに部屋に入ってきたのは、一体の魔物だった。
髪の間から鋭い角を天井に向けてのばし、両手両足を分厚い鱗で覆った、ドラゴンだった。
「・・・・・・」
「何だ?べっぴんさんがこんなところに何の用だ?」
眉をひそめ、部屋の中を見回すドラゴンに向け、ジェイソンは声を上げた。
「酒屋のツケを取り立てにきた、とかいう嘘はつくなよ。俺はこう見えていつもニコニコ現金払いだからな」
「いや違う・・・あー、お前はスマッシャージェイソン・・・だな?」
「昔はそう呼ばれてたな。今はこの膝のおかげで、ただのジェイソンだ」
ドラゴンの問いかけに、男は左太股の膝近くを軽くたたいて見せた。
「もしかしてスマッシャーのファンか?だったら幻滅したろう。サインぐらいは書いてやるから、とっとと帰りな」
「実は仕事を依頼されて、お前を捜していたんだジェイソン」
「仕事?」
「そうだ。お前のとあるファンから、お前を再びリングにあげるよう依頼された」
「へへへ、その口振りからすると、適当に俺を叩きのめしてリングに引きずりあげるって意味じゃなさそうだな」
「そうだ。彼女が求めていたのは、お前の復活だ」
ドラゴンは酒瓶の間を慎重に進み、ジェイソンの向かいに腰を下ろした。
「どうか、彼女のためにも今一度リングにあがってくれないか?」
「へ!無理な話だ。医者にリングにあがることは止められてるんだよ。仮にどうにか上がれたとしても、完全復活は無理だ」
「分かっている。医師の診断書を見させてもらった」
「じゃあ何でだ?」
もうリングに上がれないことは承知の上だろうに、なぜわざわざここにきたのか。
そんなジェイソンの問いかけに、彼女は彼をまっすぐ見ながら答えた。
「お前に、改めて引退試合をした上で、引退を表明してもらいたいんだ」
「はぁ?」
「五年前の事故の後、お前はリングから姿を消した。だが、当時のファンの間には、事故のことを知っていてもお前がリングに帰ってくることを期待している連中がいるんだ」
ドラゴンは目を閉じ、一瞬間を挟んで続けた。
「恥ずかしながら、私もその一人だった。診断書を見たにも関わらず、そこのドアをくぐるまでお前が完全復活するのではないか、という期待を抱いていたんだ」
「だけど、俺の腐りっぷりを見ちまって、とっとと引導を渡した方がいいと思ったのか。へへへ」
「違う。ファンの気持ちにけじめを付けてほしいんだ。それはもちろん、依頼主の意図とは違う形で依頼を遂行してしまうことになるが、彼女もきっと納得する。だから・・・」
「このぼろぼろのおっさんをリングにあげて、ボコボコに負かして『スマッシャージェイソンの壮絶なる最後!』って引退しろってか?」
彼はハハハ、と笑い声をあげると、手にしたままだった酒瓶に口を付けた。
「ああ・・・!」
「お断りだね。そんな笑いものにされるぐらいなら、ここで大人しく腐っていった方がましだ」
「大丈夫だ、私がトレーナーとしてお前について、全盛期は無理にしてもそれなりまで鍛え直してやる」
「それで今度は何だ?それなりに鍛えた俺でも勝てるような、接待試合で最後を飾ってやろうってか?」
男は顔に浮かべていた自嘲的な笑みをかき消し、ドラゴンに告げた。
「帰れ」
「い、いや・・・」
「帰れ!帰れって言ってんだろこのアマ!」
中身の入った酒瓶を振りあげ、投げつけそうになりながらも、彼はどうにか腕を押しとどめた。
「帰れよ。出ないと叩き出すぞ」
「私はドラゴンだ。お前の腕力程度では・・・」
「そうだな。だが、もみ合いになってうっかり力がこもって、俺の方がどうにかなっちまうかもしれないぞ?」
「・・・・・・!」
ジェイソンの、自分の衰えぶりを理解した上での脅しに、ドラゴンは目を見開いた。
「さ、嬢ちゃん帰ってくれ・・・この膝じゃ椅子から立ち上がるのも辛いんだ」
「・・・・・・また来る。気が変わったら、次に会ったときに言ってくれ」
ドラゴンはどうにかそう言葉を紡ぐと、椅子から立ち上がった。
そして、空き瓶の合間を通り抜け、玄関から出ていった。
「・・・・・・」
やや足早に階段を下りる音を聞きながら、ジェイソンは杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
そして、部屋を横切り窓に近づくと、薄汚れたガラスから外を見た。
「ち・・・」
窓の外、眼下に広がるアパート沿いの通りに、ドラゴンが立っているのが見え、彼は思わず舌打ちした。
あの場所は、ちょうどアパートの入り口もこの窓も見える位置だ。これでは外出の度に捕まってしまう。
「管理人のババアに、裏口使わせてもらうか・・・」
噂好きの管理人に何を言われるか覚悟しながら、彼はそう算段をつけた。
そして、ジェイソンは窓際を離れるとベッドに歩み寄り、上着を脱ぎ捨ててその上に寝転がった。
「はぁ・・・・・・」
天井を見上げながら、彼はため息をついた。二日酔いの頭を落ち着かせるため、横になったのだ。
迎え酒という手もあったが、正直今はそんな気分ではない。
さっきのドラゴンのせいだ。
「・・・・・・」
男の脳裏に、五年前、膝を壊すより前の日々が浮かび上がった。
同時に、あのドラゴンにジェイソンの復活を依頼した人物に対しての疑問も浮かぶ。
「誰だろうな・・・」
鈍痛の残る脳味噌を動かしながら、ジェイソンはつぶやいた。
ドラゴンは依頼主を彼女と呼んでいたから、女だろう。そしてわざわざ復活を願うのだから、筋金入りのファンに違いない。
ジェイソンの脳裏に、かつてファン感謝イベントや握手会などで会ってきた人物の顔が現れた。
「一番ありうるのは、あいつかなあ・・・」
試合に必ず顔を出し、握手会に何度も現れて、『結婚してくれ』と毎度言い放ったアマゾネス。あの時は、『自分の嫁は勝利の女神だ』などと言ってしまったが、勝利の女神から見放されている今をねらっているのだろうか。
ジェイソンの脳裏で、女たちの顔が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
そして、取り留めもない妄想めいた推理をするうち、彼の意識はまどろみに沈んでいった。
ふと気がつくと、リングの上に立っていた。
まばゆい光がリングを照らし、観客席は闇に沈んでいる。だが、闇の中に誰もいないことは、息づかい一つ聞こえないことから分かった。
「・・・?」
練習試合だろうか。それにしてはリングが立派すぎるし、そもそも対戦相手は?
そんな疑問を胸に抱きながらきょろきょろと辺りを見回すと、男の目の前にひときわ巨大な影が舞い降りた。
「うぉ・・・!」
リングを揺らす衝撃に、男は声を漏らす。
彼の目の前にたっていたのは、ブーツにパンツを身につけた、筋肉質の男だった。顔は強烈な光のため、よく見えない。
「・・・?」
対戦相手の素性を思い出そうとしていると、対戦相手は不意に声を上げた。
そして腰を落としながら、レスラーに向けてつっこんできた。
体力も有り余っている序盤でのタックルは、非常にダメージが大きい。
男はとっさに向かってくる対戦相手を交わそうとした。だが、彼の身体は思ったより動かなかった。
「なに・・・!?」
目を向けると、薄汚れたズボンの下で、左足がまっすぐ伸びていた。
それに足にはいているのは履き古した靴で、羽織っているのは汚れた上着だった。
こんな格好で試合に臨むなんて、衣服を掴んで投げてくれ、と言っているに等しい。いや、そもそもなぜ自分はこんな格好なのか?
男の脳裏をいくつもの疑問が飛び回った直後、対戦相手のタックルが彼に激突した。
「・・・!」
肺から空気が絞り出され、対戦相手ごと男の身体が宙に浮く。
そして、背中からリング上に叩きつけられ、対戦相手は男の上に馬乗りになった。
「・・・・・・・・・・・・!」
対戦相手が何事かを叫び、マウントポジションからの張り手を男に向けて振り下ろした。
男はとっさに腕をかざすが、対戦相手の一撃一撃は容赦なく衝撃を彼に伝えた。
そして、十発ほど衝撃が男を襲い、彼の意識が朦朧としてきたところで、腹の上の圧迫感が消えた。
「?」
衝撃に濁る男の意識の中、どうにか目を開くと対戦相手が状態を屈め、男に手を伸ばしているのが見えた。
直後、衣服の襟首とズボンを捕まれ、彼の身体を対戦相手は楽々と掲げた。
「うお、お・・・!」
浮遊感が全身を支配し、不安感が胸中で膨れ上がっていく。
そして、対戦相手の腕が男を高々と持ち上げたところで、彼は男をリングに向けて投げつけた。
落下の際の浮遊感が背筋をくすぐり、激突への恐怖が全身を冷やす。
そして、何もかもの動きがゆっくりとなる中、男は初めて対戦相手の顔を見た。
ジェイソンが目にしたのは、怒りをにじませる自身の顔。スマッシャージェイソンの顔だった。
全身を衝撃が打ち据え、鈍い痛みが意識を覚醒させる。
「うぉ・・・!」
左膝への衝撃による痛みが意識に突き刺さり、彼の意識を明確にした。
「おいオッサン、玄関開いてたぜ」
「不用心だな、へへへ」
耳に入ってきた声に、彼が目を開くと、ニヤニヤと笑みを浮かべる幾人もの若者の姿が目に入った。
「お前ら・・・」
見覚えのある彼らの顔に、ジェイソンは記憶をたどり答えを見つけた。
アパート前にたむろしていた連中だ。
「さっきは世話になったな」
ジェイソンが腕をつかんだ若者が、彼を見下ろしながら口を開いた。
「あんまり腕が痛いから病院行ったけど、何ともなかったぞ。全く、診察代無駄に払っちまったよ」
「だから、その分オッサンから酒とか金とかもらっていくからな」
「ついでに、治療費の払いがいのある怪我もさせてやる」
若者たちは一斉に笑った。
「この・・・!」
ジェイソンはベッドの縁に手をかけ、そこを支えに立ち上がろうとした。
しかし、彼の尻が床から浮いたぐらいで、若者の一人の足が跳ね上がり、ジェイソンのベッドを掴む腕を蹴った。
「があ・・・!」
腕の痛みと尻餅、そして衝撃により左膝に響く痛みに、ジェイソンはうめき声を漏らした。
「おい、このオッサン本当に強いのか?」
「ああ、昔おやじと一緒にこのオッサンの試合見に行ったぜ」
「でも、そのスマッシャージェイソンも、形無しってわけか」
つま先でジェイソンを小突きながら、若者たちは言葉を交わした。
「・・・!」
床に横たわって、わき腹など弱い部分を守りながら、ジェイソンは歯を食いしばった。
自分がスマッシャージェイソンだったなら、彼らなど一人で叩きのめせ他だろうに。いや、そもそもあのころの体ならば、この若者も仕返しに雇用だなんて夢にも思わなかったはずだ。
だが、今はどうだろう。膝のおかげで立つこともできず、こうして小突かれることしかできない。
寝ている間に酒が抜けたためか、妙に冴えている頭で、ジェイソンは己の情けなさに涙を滲ませた。
「おい、オッサン泣いてるぞ?」
「へへへ、ついこないだまで親父の金玉に入ってたようなガキに負けて、情けないんだろうよ」
若者たちは、涙をこぼすジェイソンに手加減するどころか、ますます嗜虐心を燃え上がらせながら足を動かした。
つま先でつつく程度だった蹴りに、徐々に体重が上乗せされ、痛みが大きくなっていく。
だが、ジェイソンは若者たちの蹴りに対し、あらがうどころかただ身体を丸めて耐えるばかりだった。
「ダンゴ虫みてえに丸くなりやがって・・・」
「おい、何とか抵抗して見ろよ!」
背中に靴底を降り注がせ、わき腹を蹴りあげながら若者たちが声を上げる。
だが、彼はただじっと耐えていた。
「おい、何をしている!?」
不意に玄関のドアが音を立てて開き、高い声が響いた。
「ドラゴンだと!?」
「ヤベ・・・!」
「お前ら、離れろ!」
若者たちの蹴りが止み、ドラゴンの声が近づく。
「ずらかるぞ!」
「あ、こら!待て!」
若者たちと思しき複数の足音が響き、遠ざかっていく。するとドラゴンは、逡巡を経てジェイソンの方に歩み寄った。
「大丈夫か!?」
「へ・・・大丈夫、だ・・・」
若者たちの追跡ではなく、ジェイソンの介抱を選んだ彼女に、彼は低い声で応えた。
「こちとら、殴る蹴るには慣れてるんだ・・・」
「しゃべるな。病院へ連れていく」
ドラゴンは彼の身体をひょいと抱えあげると、部屋を飛び出していった。
青空と、緊張した面もちの彼女の顔を見上げながら、ジェイソンは自分がゆっくりと意識を手放していくのを感じた。
そして予想通り、彼は失神した。
ふと気が付くと、ジェイソンはベッドの上に横になっていた。
アパートの自分の部屋の薄汚れたベッドではない。清潔なシーツに包まれたベッドだ。
鼻をくすぐる消毒液の香りに、彼は自分が病院にいることを悟った。
「気が付いたのか」
視界の端から、ドラゴンが顔を覗かせ、ほっと息を付く。
「気を失ったときは心配したが、そう重傷じゃなかった。よかったな」
彼を安心させるように、ドラゴンが微笑んだ。
「ここは・・・?」
「お前のアパートの近所の病院だ」
「そうか・・・」
ジェイソンは低く応えると、しばし沈黙した。
「ええと、その・・・ジェイソン・・・?」
「何で、助けた?」
「何でって・・・多勢に無勢だと思ったからだ」
ドラゴンは、ジェイソンの問いかけに、戸惑いながらも答える。
「若者が五人で、お前は一人。確かに診断は打ち身がいくつかといった程度の負傷だったが、それでももっとひどい怪我をしてもおかしくないほどだった。だから、助けた」
「へえ・・・俺が反撃に出て、あのガキどもをどうにかするとは考えなかったのか?」
「・・・正直言うと、お前が一人でどうにかできるようには見えなかった」
「だろうな」
ドラゴンの返答に、ジェイソンは自嘲を含んだ低い笑い声を漏らした。
「たぶん、ガキが二人か三人でも俺は負けてただろうな。それが俺なのに、嬢ちゃんはそんな俺をリングに引っ張りあげたいという」
「・・・何が言いたい?」
「わかんねえのか?俺はもうリングに上がれる身体じゃねえ、ってことだ」
彼は低く笑い、続けた。
「膝はガタガタだし、酒のおかげで腹ん中もいくらかぶっ壊れている。その上、トレーニングとは殆ど無縁の生活のおかげで、身体も年相応だ。若いのを一から鍛えた方が、数倍は楽だぞ?」
「・・・・・・そうだな、私もそう思う・・・」
ドラゴンは、ジェイソンの言葉に間をおいて頷いた。
「しかし、私はお前のトレーナーを勤めさせてもらう」
「何だと?」
「依頼主と話をしたんだ」
ドラゴンは、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「依頼主にとって、お前は憧れで、理想で、目標だった。だが、お前は突然いなくなってしまい、依頼主はその亡霊を追い続けていたんだ。だが、こうして私がお前・・・スマッシャージェイソンを見つけた」
「元、だがな」
「とにかく、依頼主の意向としては、スマッシャージェイソンの引退を確かなものにし、彼女の胸の中にいる亡霊を消し去ってほしい、ということだ」
「へ・・・勝手にあこがれて、勝手に幻滅して・・・そのまま放っておきゃいいのにな」
「まあ、お前にも責任の一端はあるんだがな・・・」
彼の自嘲に、ドラゴンが低い声で添えた。
「責任の一端?」
「依頼主の思い出話だ。忘れてくれ。とにかく、私としてはこのチャンスを逃すことなく、お前を鍛える」
「お断りだ。ンなこと言われても・・・」
「言っておくが、ここの入院費は誰が出していると思う?」
ドラゴンの一言に、ジェイソンは思わず言葉を詰まらせた。これまでの話の流れからすると、依頼主とやらが出しているのだろう。
「わかった。俺が依頼主に入院費は返す。だから・・・」
「依頼主はお前の引退試合を見たがっている。断るようなら、入院費と併せて引退試合のキャンセル料金まで請求するらしい」
「そんな・・・」
「それに、この病院はかなりいい病院らしいな。入院費がいくら掛かるか知ってるか?私としては、入院費だけでも支払いは勘弁してもらいたいところだ」
ドラゴンの言葉に、ジェイソンは迷った。確かに手元には、いくらか金がある。だが、それもここ数年のおかげでいくらか目減りしている。
この病院の費用がいくら掛かるかは知らないが、依頼主の請求に応えられる自信はなかった。
「わかった・・・引退試合の話、引き受けよう」
「それは助かる」
とりあえず、費用請求から逃れるためにジェイソンはドラゴンの求めに応じた。
「だが言っただろう・・・俺は、もう身体がガタガタで・・・」
「医師の診断結果によれば、肝臓以外はほとんど健康らしいな」
ジェイソンの逃げ道を、ドラゴンが塞ぐ。
「筋肉もいくらか萎んでいるが、多少トレーニングすれば筋肉も回復するそうだ。肝機能も、酒をしばらく断てば問題ない。というわけで、これからしばらくは私がお前に付きっきりになる」
「ちぅ・・・」
ジェイソンは低く舌打ちした。
それから、ジェイソンはしばらく入院した。
主な目的は、酒と粗悪な食事でくたびれた内蔵の回復だった。量が少なく、味付けも若干薄い病院の食事は、ジェイソンとしては大いに不満があった。
だが、日々を追うごとに体の調子がよくなっていくのを彼は自覚していた。
しかしいくら体が健康になっても、酒を飲みたいという欲求は紛れない。
隙あらば病院を抜け出し、酒を手に入れようとした。だが、昼間はドラゴンが付きっきりになっており、夜は魔物の看護婦たちが目を光らせているため、ジェイソンに脱走する隙はなかった。
「くそ・・・」
「ほら、口を動かす暇があったら、体を動かせ」
病院の一角、室内運動場の隅に陣取り、ジェイソンはドラゴンの指示を受けながらトレーニングをしていた。
ランニングのような大きな運動はできないが、膝のリハビリとともに腕立て伏せや腹筋、縄跳びなどの簡単で基礎的なトレーニングを日々繰り返していた。
「畜生・・・」
「何だ?不満があるなら言って見ろ」
「おおありだ・・・」
ドラゴンの求めに、ジェイソンは腕立て伏せを続けながら、声を絞り出した。
「いったいなにが悲しくて、足の折れてたジジイがのそのそ歩き回っている横で、こんなトレーニングをしなきゃ・・・」
「私からしてみれば、骨折で萎えた足の筋力回復も、お前の全身の筋力回復も同じだ」
肘を降り曲げ、胸を床板につける寸前で止めたジェイソンの背中に、ドラゴンの声が降り注ぐ。
「むしろ、日常動作に必要な筋力が残っている分、お前の方が楽なもんだ」
「楽なら、俺と交代しろってんだ・・・!」
肘を伸ばし、身体を床からはなしながら、彼は声を漏らした。
「そんなことしても意味がないし、仮に依頼主にばれて見ろ。最低でも今日までの入院費が降り懸かってくるぞ」
「言っただけだ・・・!」
「次からは胸の内に留めておいてくれ」
ドラゴンが言葉を断ち切り、ジェイソンは黙々と腕立て伏せを続けた。
そして、それからもう数十回身体を上下させてから、ドラゴンは手をたたいた。
「よし、そこまで」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・」
ドラゴンの終了の合図に、彼は荒い呼吸を重ねながら、ごろりと床に突っ伏した。
「さて次は・・・と言いたいが、お待ちかねの休憩だ。十分後に、腹筋からトレーニング再開だ」
「ああ、そうかい・・・」
呼吸を落ち着け、床に座り込むよう身を起こしながら、ジェイソンはドラゴンに応えた。
「さて、私は小用で席を外すが・・・逃げるなよ?」
「逃げるって、見張りがいるのにどうやって・・・」
「ならば大人しく身体を休めて、汗を拭っていろ」
ドラゴンはそう言ってジェイソンのそばを離れると、室内運動場の監視をしている看護婦に一声かけ、そのまま出ていった。
「・・・・・・」
まだ微かに乱れた呼吸で、彼はドラゴンの背中を見送る。
彼女が言ったとおり、逃げ出すなら今がチャンスだ。しかし・・・
「・・・・・・」
ジェイソンがちらりと、監視役の看護婦に目を向けると、彼女と目があった。それどころか、彼女は軽く手を掲げ、小さく振って見せたのだ。
「くそ・・・」
ジェイソンの口から、悪態が漏れた。
こんなことならば、入院初日に断っておくべきだった。引退試合のキャンセル料も請求すると依頼主は言っていたそうだが、しかるべき場所に訴えれば、キャンセル料ぐらいは払わなくていいかもしれない。今となっては後の祭りだが。
「がんばってますねえ」
不意に、ジェイソンに女が声をかけた。顔を上げると、つい先ほどまで室内運動場の一角にいた監視役の看護婦が、すぐ側に立っていた。
「こっちとしては・・・手加減してもらいたいんですけどねえ・・・」
「そうですか?我々から見たら、かなり理想的な運動量だと思いますけど」
「はぁ・・・?」
看護婦の言葉に、彼は思わず声を上げた。
「いえ、確かにあなたからすると辛いかもしれませんけど、筋肉を回復させるという観点から見れば、緻密に計算された運動量なんですよ」
「そんなもん・・・ヘトヘトになるまでやれば一緒じゃないんですか・・・」
「違いますよぉ」
ジェイソンの言葉に、看護婦は顔を左右に振った。
「あんまり過剰なトレーニングは、かえって筋肉の縮退を招くんです。ですけど、あのドラゴンさんは筋肉が増大しやすいところで、トレーニングを切り替えているんです」
「・・・・・・」
そういえばそうだ。ジェイソンは看護婦の言葉に、ドラゴンのトレーニングが適度なタイミングで切り替えられていることに気が付いた。
「きっと、あなたのことをよく考えていらっしゃるんでしょうねえ」
「俺を鍛えるのが、あいつの仕事ですから・・・」
そう、あくまで彼女の目的は依頼主が欲する引退試合の達成だ。
「そんなことないですよ。だって、あのドラゴンさん、患者さんが運び込まれた後、つきっきりでしたし」
「そんな・・・きっと、依頼主がそれだけ怖いんですよ」
「またまた」
看護婦がくすくすと笑ったところで、ふとジェイソンは胸中に違和感が芽生えるのを感じた。
何か、おかしい。
ジェイソンは、違和感の正体を探ろうと、一瞬これまでの会話を振り返った。
「どうしました?」
「いや・・・ちょっと、疲れて・・・」
だが、ジェイソンが違和感の正体にたどり着く前に、看護婦の一言が彼の思考を断ち切った。
「あ、ドラゴンさん戻ってきましたよ」
「もうか」
十分休憩のはずなのに、まだ五分ぐらいしか経っていない。
「休めたか?」
看護婦に一声かけてから、ドラゴンはジェイソンにそう問いかけた。
「おかげさまで、な」
「そうか。まだ時間はあるから、これでも飲んでもう少し休め」
そう言ってドラゴンが差し出したのは、水のボトルだった。
受け取ると、よく冷えているのがわかった。
「ああ、ありがとう」
「気にするな」
自然とこぼれたジェイソンの礼の言葉に、ドラゴンは何事もないように応じた。
それから、男はドラゴンの指導の下病院でのトレーニングを続け、退院する頃には入院前とは比べものにならないほどになっていた。
トレーニングと平行して行っていたリハビリにより、杖を突かずとも歩けるほどに膝は回復していた。
長らく世話になった病院の玄関をくぐる。
「・・・っ・・・」
部屋の窓や病院の庭で幾度も浴びてきた日の光に、彼は目をすぼめた。
改めて退院してみると、妙に日の光がまぶしく感じられたからだ。
「どうした?」
「何でもない」
ジェイソンはドラゴンの問いかけに短く応じると、まぶしさを紛らわすように続けた。
「それで、どこに行くんだ?俺のアパートか?」
「違う。トレーニングジムだ。そこで、お前は試合まで寝泊まりしてもらう」
ジムに寝泊まり。現役時代、まだまだ無名だった頃はそうして朝から晩までトレーニングに明け暮れていたが、まさかこの年になってまでそんなことをするとは。
そうしたところで、先にあるのは引退試合だというのに。
ジェイソンは未来もないのに、若者と同じようなトレーニングをする自分の姿を脳裏に描き、苦笑した。
「なにがおかしい」
「いや、俺みたいな引退寸前を受け入れてくれるジムがあるなんて、と思ってね」
誤魔化すための言葉だったが、半分以上は本心だった。
ジェイソンが所属ジムを辞めた頃、あのジムはかなり盛況だった。
あそこに戻ることはないにしても、元有名人の自分を受け入れるところがあるとは思えなかった。
「そこは・・・まあ、色々あったということだ」
珍しく、ドラゴンが言葉を濁した。
「何かあるのか?」
「行けばわかる」
道を進みながらのジェイソンの問いかけに、彼女は短く応じた。
それから、二人はしばらく歩き続けた。
すると、あたりの景色が、徐々にジェイソンにとって見慣れたものに変わっていく。
「おい、この辺りって・・・」
「もう予想はついているだろう」
ドラゴンは角を曲がったところで足を止め、通りに面した建物を示した。
「あそこだ。あそこで、お前のトレーニングを行う」
「あれって・・・」
ドラゴンの指の先にあったのは、男にとって馴染み深い場所。かつてジェイソンが所属していた、ジムだった。
「あそこか・・・」
「イヤならやめてもいいんだぞ?入院費とジムの料金を払えるのなら」
「もう払ってるのか」
ドラゴン、いや依頼主の動きに、男は呻いた。
「入院費もそうだったが、ジムの料金もすごかったぞ。私の金ではないとはいえ、胸が痛むほどにな」
「そうか・・・」
どうやら、ジェイソンにかかっている金額は、相当なレベルにまで膨れているらしい。
「とにかく、入るぞ」
ドラゴンとジェイソンは、ジムに歩み寄り、玄関を押し開いた。
すると、独特な汗の香りとともに、サンドバッグやミットを打つ音、トレーニングのかけ声が二人を迎える。
しかし、数年ぶりにジェイソンを迎えたそれらは、彼にとって馴染みのあるものではなかった。
「おい・・・なんだ、これは・・・」
ジムの中央に置かれたリングを囲むように、トレーニングに励む魔物の姿に、ジェイソンは呆然とした。
魔物が増えただけなら問題はない。トレーニングしているのが、すべて魔物だというのが問題だった。
「ジェイソン?ジェイソンか!」
ジムの奥の方から、魔物たちの間を縫って、男が一人出てきた。
体格の立派な、ジェイソンより一回りは年上の男だ。
「久しぶりだなあ、ジェイソン!」
「お久しぶりです、トレーナー」
数年ぶりに顔を合わせた、ジェイソンの現役時代のトレーナーに、彼は頭を下げた。
「話は聞いたぞ。引退試合をやるんだってな?」
「まあ、無理矢理ですがね」
トレーナーの問いかけに、ジェイソンは傍らのドラゴンに視線を向けつつ答えた。
「しっかし、お前は現役の頃と変わらないなあ」
「入院中、膝のリハビリついでに私が鍛えたんだ」
感心するトレーナーに、ドラゴンが胸を張る。
「それでは所長、約束通り、しばらくやっかいになる」
「ああ、こちらとしても馴染みの顔は大歓迎だ」
ドラゴンの呼びかけからすると、ジェイソンが離れている間に、トレーナーはジムの所長にまでなったらしい。
「それに、引退試合もやるんだからな。古い試合形式になるだろうが、きっと客は・・・」
「古い・・・?」
ジェイソンは、トレーナーの唇からこぼれた、一つの単語を繰り返した。
「トレーナー、ちょっと待ってくれ。古い試合形式って、どういうことだ?」
「・・・なにも聞いてないのか?」
トレーナーは少しだけ驚いたような調子でつぶやくと、ドラゴンに目を向ける。
「話そうと思ってはいたが・・・タイミングを逃して・・・」
「ああ、そうだな。確かにいい辛いもんなあ」
トレーナーは、ドラゴンの言い訳に苦笑した。
「いったい何の話だ?」
「お前がリングを離れていた間、レスリングになにが起こったか、だ」
「いつまでも玄関先ではあれだ。奥へ来るといい」
トレーナーは、ジェイソンとドラゴンに付いてくるよう示した。
「・・・」
ジェイソンは、できればこの場でドラゴンに話の続きを聞き出したかったが、そろそろトレーニングに励む魔物たちの視線が気になってきた。
衆目を避けるためにも、彼はトレーナーに続いた。
二人が通されたのは、ジムの奥の事務室だった。所属する選手やレスラーを管理し、試合のセッティングを行ったりするための一室だ。
「そこに座るといい」
トレーナーに言われるがまま、ジェイソンは事務室の一角、衝立で区切られたスペースに設けられた、応接スペースのソファに腰を下ろした。
「飲み物を用意してくるから、しばらく待ってろ」
そう言い残して、彼は衝立の内側から出ていった。
「さて・・・さっきの続きを聞かせろ」
ドラゴンと二人きりになったところで、ジェイソンは低い声で彼女に尋ねた。
「俺が酒浸りになっている間、なにがあった?」
「・・・簡単に言うと、魔物が流入したんだ」
ドラゴンが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「好戦的な魔物が、有り余る体力と戦闘衝動を発散するため、レスリングを始めたんだ。初めのうちは細々と、時折魔物同士の試合がくまれる程度だった。だが、人間との異種交流試合が開かれるようになるまで、そう時間はかからなかった」
彼女は、一度言葉を切った。
「魔物は強かった。人では太刀打ちできないほどにだ。たまに、人間の選手が魔物に勝つこともあったが、試合後に選手の元に対戦した魔物が嫁として押し掛けた。そして新聞で、そのことが大々的に取り上げられ、夫を求める魔物がレスリングを始めた。
最初のうちは、レスリング業界はどんどん増えていく強力な魔物を喜んだ。しかし、結婚したレスラーと対戦するのを魔物がいやがるようになったな。魔物にしてみれば、レスリングは旦那を選ぶ大切な出会いの場だ。既婚の男と組み合っても、何の意味もないからな。
おかげで、異種交流試合は徐々に衰退した。魔物同士の試合も結婚ねらいの魔物がいやがるから減り、人間同士の試合は迫力がないと言うことで人気が落ちた。
そして、今では結婚した人間と魔物が夫婦でリングに上り、組み合っているのを見せていると言うところだ」
ドラゴンは、そこまで説明すると、ため息を挟んだ。
「これが、今のレスリングだ」
「なるほど・・・お見合いの席代わりに使われて、ペンペン草も生えないほどに荒らされた、ってことか・・・」
「だが、お前の引退試合は、ちゃんとしたものにする。対戦相手も探して・・・」
「人間同士は迫力がない。魔物を相手するにも、向こうは旦那探しが目的。そんな状況で、まともな試合ができるか?」
ジェイソンの問いかけに、ドラゴンは思わず口をつぐんだ。
「引退試合をするつもりが、適当な魔物にボコボコにされて、俺の葬式に。勝てば勝ったで、引退試合の直後に結婚式か。どちらにせよ、古いレスリングは終わった、って宣言するようなもんだな」
ジェイソンの苦笑に、ドラゴンはなにも言い返さなかった。
「・・・図星か」
「・・・必ず、必ず、最高の試合にするから・・・」
「俺とお前がその気でも、観客はどう思うんだろうな?それに依頼主はどうだ?もしかしたら、俺とレスリングが終わったことを宣言するのが目的かもしれないぞ?」
「そんなことは・・・」
「依頼主に言っておけ。時代は変わったのは事実だし、俺ももう終わりだ。だが、時代が変わったと言いたいんだったら、最初からそう言ってくれ」
ジェイソンはドラゴンに向けて、そしてその背後にいる依頼主に向けてそう言うと、ソファから立ち上がった。
「ジェ、ジェイソン・・・どこへ・・・」
「便所だ。お前は依頼主だとかに、俺の台詞を伝えておけ」
「ま、待て・・・!」
「ああ、あと依頼主に、どういう試合にしたいかリクエストを聞いておいてくれ。お望みの試合にしてやるから」
ジェイソンはそう言い残すと、応接スペースをでて、事務室を通り抜けた。
「お、ジェイソン」
お盆に器を二つ乗せたトレーナーが、ジェイソンの姿に驚いたように声を漏らす。
「トレーナー・・・じゃなくて、所長」
「どっちでもいいさ。それで、どうした?」
「レスリングの話を聞きました」
「そうか・・・」
複雑な表情を浮かべ、トレーナーは頷いた。
「正直、若干混乱してるところです。ちょっと、頭を冷ましたいので、この辺歩き回ってきます」
「そうか。で、あのドラゴンは?」
「もうすぐ依頼主と話をしに行くそうです。俺のことは、便所にいるとでも伝えておいてください」
「わかった。早めに戻れよ?」
「はい」
ジェイソンは頷くと、事務室を出ていった。
そして、リングの傍らを通り抜け、ジムを出る。
いくらか建物が建て変わっているが、懐かしい通りだ。
彼は、通りに沿って歩き始めた。
昔は仲間とともに、トレーニングの一環で走った通りを、ゆっくり歩いていく。
膝のリハビリにより、杖なしでの日常的な動作は可能だが、駆け足などは無理だ。
微かに違和感の残る膝をゆっくり曲げ伸ばししながら、彼は通りを進んでいった。
すると、通りの一角に小さな食料品店があった。
何の気はなしに、彼はふとその入り口をくぐった。店員の声が響くと、久々に店に入ったことに彼は気が付いた。
ここしばらくの入院生活の間、買い物とはほぼ無縁の生活を送ってきたからだ。
「久しぶりだな・・・」
棚に並ぶパンや菓子を眺めながら、彼はそう呟いた。上着のポケットに手を入れると、小銭の感触が指に触れた。どうやらドラゴンは、ジェイソンの金だということで手を着けなかったらしい。
久々に何か買ってみようか。
病院食で濃い味付けに飢えた舌が、並ぶ食べ物によって唾液にまみれていく。
可能ならば、惣菜やらを買い込みたいところだが、そこまでの金はない。
せいぜい、パンが二つが限度だろう。よく考えて選ばないと。
「んー・・・」
ジェイソンが悩みながら棚の間を歩いていると、ふと視界の端を何かがかすめた。
妙に引きつけられるものを感じ、ジェイソンはそちらに目を向ける。すると、その棚に並んでいたのは、酒だった。
立派な大瓶から、ポケット瓶。そこそこの贅沢気分を味わえる品から、酒であればそれでいいというレベルのものまで。
種類こそ少ないが、そこそこの幅の酒が取りそろえてあった。
ジェイソンの目は、並ぶ酒に釘付けになった。
入院中、一滴も彼は酒を飲んでいない。おかげで体調は良好で、頭も冴えているが、不意の禁酒はジェイソンにかなりの苦痛だった。
もう酒はやめる、と宣言して最後の一杯を口にした上での禁酒なら、まだ我慢できただろう。
だが、なし崩し的に禁酒に突入したため、ジェイソンにはその心構えができていなかった。
酒を飲みたい。酔っぱらいたいわけでも、二日酔いを紛らわせたいわけでもなく、彼は単純に酒を欲していた。
ジェイソンはふらふらと棚に歩み寄ると、ポケットの小銭と相談し、小さい瓶の一つを手に取った。
値段と量を天秤に掛け、ぎりぎり手が届く範囲の酒。安物の蒸留酒だった。
彼は酒瓶を手に店員の元へ行くと、金を支払った。
「ありがとうございましたー」
店員の声を背に、店を出る。
焦燥感のようなものがジェイソンをじりじりと焦がす。酒を飲みたい。蓋を開けて、瓶に唇をつけたい。
だが、彼は衝動を押し留め、通りに面する建物の間から、路地に入った。
狭い道を足早に、膝が耐えられる程度に抜けていく。
そして、身体が動くままに路地を進み、曲がり、通り抜けると、彼は建物の合間の小さな公園に出た。
遊具も花壇もなく、ベンチがいくつかおいてあるだけの、小さな広場だ。
ジェイソンは足早にベンチの一つに歩み寄ると、腰を下ろした。
震える手で瓶の蓋をつかみ、ひねる。封が破れる音が響き、直後蓋がはずれた。
瓶の口から酒精の香りが立ち上り、ジェイソンの鼻をくすぐった。
「・・・!」
彼は酒瓶の口に唇を押し当て、瓶を煽った。酒が彼の口内に入り込み、のどを滑り落ち、熱を生じさせる。
「ご、ごほ・・・!」
久々の酒にのどを焼かれ、初めて酒を口にしたときのようにせき込みながら、ジェイソンは酒瓶を口から離した。
焦ってはいけない。ほんの少ししかないのだから、ちびちび楽しまなければ。
「げほ、ごほ・・・はぁ・・・」
のどの熱が収まり、心地よい胃袋の温もりを感じながら、ジェイソンはため息を付いた。
入院以前ならば、これっぽっちの酒では酔えなかっただろうが、今の感触からすると十分酩酊できそうだ。
そう判断した直後、ジェイソンの脳裏をジムで聞いた話がよぎった。
だが、彼は浮かび上がりそうになる事実から目を背けると、二口目の酒を唇から注いだ。
「・・・ん・・・」
口中で酒を転がし、味わってから飲み込む。
すると少しだけ意識がぼやけ、意識のそこで渦巻いていた感情や記憶がおぼろになっていった。
やはり、酒はいい。手軽に色々と忘れられる。
ジェイソンは、青空の下酒をちびちびと楽しんだ。
公園には彼のほかに人影はなく、誰かが来る心配はなかった。
ずっと昔から、この公園に彼以外の者がいた試しがないからだ。
ジェイソンがまだまだ若く、子供といってもよかった頃、トレーニングに耐えかねてジムを飛び出し、この公園ですすり泣いたことがあった。
一人きりになれるこの公園で、彼は心を落ち着かせ、ジムへと戻っていくのだった。
あのころのように、ジェイソンは今も公園に一人でいた。だが、彼は泣くのではなく酒を飲んで気を紛らわせていた。そして、子供の頃のように可能性を抱えているわけでもなかった。
実質引退しているに等しいジェイソンを引っ張り出そうとしたところで、気が付くべきだったのだ。
もう人間の時代は終わり、魔物の時代が始まっている。
レスリングもそう言った時代の移り変わりに飲み込まれ、ジェイソンは消えていく側に立っているのだ。
酒を口に含み、飲み込むと、ジェイソンの脳裏に海が浮かび上がった。
ぼろぼろの船が波に揺られながら、ゆっくりと沈んでいく。
舳先を空に向け、船尾から船が海に飲まれていく。ジェイソンは傾く甲板に必死にかじり付き、船首を目指して這い進んでいた。
だが、船首にたどり着いても沈むのを待つばかりだ。海に飛び込んで泳ごうにも、船の沈没による渦に囚われるだろう。もう逃げ場はない。
ジェイソンは、脳裏で必死に舳先にしがみつく自分の姿に、笑いだした。
船が回り、目が回り、気分が回っていく。もう、笑うしかなかった。
すると、彼の頬を不意に衝撃が打ち抜いた。
「やっと見つけたぞ!バカ!」
衝撃と頬に残る痛み、そして聞き覚えのある声に、ジェイソンはふと正気に返った。
彼がいるのは公園のベンチで、手には半分以上中身の減った小さな酒瓶があり、ジェイソンの目の前にはドラゴンが立っていた。
「これはこれは、俺のトレーナー様・・・」
怒りのためか、小さく体を震わせるドラゴンに、ジェイソンはニヤリと笑った。
「以来主様との交渉はお済みでしょうか?」
「・・・終わった・・・だが、ジェイソン、これは何だ?」
「酒だ」
ジェイソンは手にしていた瓶を軽く振りながら、ドラゴンの言葉に応えた。
「何でそんな・・・せっかく、酒をやめたのに・・・」
「飲まなきゃやってられないんだよ・・・何だ、久しぶりにジムに帰ってみれば、魔物ばっかりで・・・俺たちの頃と、試合が変わっちまっていて・・・何だ?俺たちは見せ物だったっていうのか?」
「・・・それは・・・」
徐々に嘆くような口調になっていくジェイソンの言葉に、ドラゴンは何かを言おうとした。だが、ジェイソンは彼女に入り込む隙を与えず、続けた。
「見せ物だよ。俺たちのやってきたことは、全部見せ物だ」
「・・・っ・・・」
ジェイソンの言葉に、ドラゴンが小さく震えた。
「だけどなあ・・・見せ物だからこそ、俺たちは懸命だったんだ・・・見栄えがするよう体を鍛えて、迫力が出るよう全力で殴りあって・・・真剣に、見せ物をやってたんだよ・・・だってのに、人間同士の試合は迫力がなくて、魔物は旦那探しのついでにリングにあがって・・・なあ、俺たちがやってきたことは、旦那探しの片手間に劣ってたのか・・・?」
ジェイソンは、ぼろぼろと涙をこぼしながらドラゴンを見た。
彼の瞳に、ドラゴンは一瞬たじろぐ。
「なあ、答えてくれ・・・俺達は劣ってたのか・・・?」
「そ、それは・・・」
「俺の引退試合は、劣った俺達が消え去るのを祝うための試合なのか・・・?だったら、俺はどう振る舞えばいいんだ?全力でボコボコにやられりゃいいのか?無様にリングを逃げ回って、捕まればいいのか?なあ、以来主に聞いてきたんだろ?教えてくれよ・・・」
「く・・・」
ドラゴンは、一度ジェイソンのすがりつくような目から視線を離すと、一つ深呼吸した。
そして、再び真正面から、ジェイソンを見据えた。
「依頼主のことを、お前に教える・・・」
何かを決心したような光を目に宿し、彼女は口を開いた。
「依頼主はドラゴンで、お前のファンだった。そして、十年前の試合の後、ファン感謝祭イベントに参加した・・・覚えているか?まだまだ子供のドラゴンが、お前に腕相撲を挑んだはずだ」
「腕相撲・・・あ・・・」
ジェイソンの脳裏に、テーブルに肘を突いた子供の姿が浮かんだ。
「依頼主は、リングの上で最強だったお前を気に入っていたが、自分の方が強いと思っていた。だから腕相撲で勝負を挑んだんだ。だが、結果は・・・」
そう。一瞬ジェイソンは驚いたものの、ドラゴンの子供に勝った。
「依頼主は、まさか自分の両親以外の者に敗れるとは思っていなかった。そしてその敗北は彼女にとって初めての敗北で、お前の強さを印象づけたんだ」
ふふ、と笑みを短くこぼしてから、ドラゴンは続ける。
「知っているか?ドラゴンは自分より強い者に惚れ込む性質がある。たとえ腕相撲勝負であっても、ドラゴンにしてみれば自信の敗北であり、打ち負かした者への恋慕は発生するものなんだ。そりゃ、年から考えると、初恋みたいなものだ。だけど、初恋であっても真剣だった。その上、お前に『俺のいるジムに来ないか?』と言われたんだ。お前を追いかけるのは、当たり前のことだろう?」
問いかけるように、彼女は語尾を上げた。だが、ジェイソンの返答は期待していなかったのか、すぐに言葉を続ける。
「とにかく、その一言と恋心を胸に六年かけて我流の鍛練を積み、十分に成長したところでお前が所属していたジムの玄関をたたいたんだ。だが、お前はいなかった」
「その一年前に、事故で膝を壊したからな・・・」
「そうだ。お前に会うことばかり考えていたから、かなりショックを受けたな・・・ここであきらめていれば、淡い初恋が破れたという、ありがちな話になるんだろうが・・・あきらめが悪かった」
「レスリングをあきらめて、俺を捜したのか?」
「そうだ。病院や、元自宅を訪ね、人に話を聞き・・・お前の行方を探した。その合間に、リハビリやトレーニングの勉強をして、お前のサポートができるよう知識を身につけた。そして、四年かけてやっと・・・」
「俺を見つけた」
「ああ」
ドラゴンが頷いた。
「アパートの扉を開くまで、胸が張り裂けそうなほど高鳴っていたんだ。だが、部屋にいたのは顔が似ていてガタイがいいだけの、杖突きオヤジだ。私は、意識の底が冷えて行くのを感じたよ」
「やっぱり幻滅してたんだな」
「いや、違う。頭の底が冷えてはいたけど、胸はドキドキしてたんだ。やっとお前に会えた。だけど、十年前に私を打ち負かしたお前じゃない。だから、あの日の強かったお前を取り戻さなければ。冷静にそんな気分になっていたんだ」
彼女は両手でジェイソンの肩をつかむと、続けた。
「分かるか?『こんなに強い男に、私は負けたんだ』って、お前の側で胸を張りたいんだ。ただの事故で膝を壊して、燃えカスがくすぶるように消えてほしくないんだ!もう一度、もう一度だけ強かったお前に戻って、『これでおしまい』と気持ちよくみんなに手を振ってほしいんだ!だから・・・」
ドラゴンの声は徐々に震え、意味を成さなくなっていき、彼女がジェイソンの胸元に顔を押しつけたことで完全に途絶えた。
「・・・一つ、聞きたい・・・」
言葉を断ち切り、しゃくりあげるドラゴンに、ジェイソンが問いかける。
「俺の・・・いや、人間の試合は、楽しかったか・・・?」
「・・・ひぐっ・・・うん・・・」
ジェイソンの胸の中で、ドラゴンが頷く。
「もう一度、見たいか・・・?」
「・・・う、ん・・・」
「でも、それで俺は永遠にリングとお別れだぞ?」
「このまま・・・消えていくより、ずっといい・・・」
くぐもった声が、ジェイソンの胸元から響いた。
「・・・そうだな。確かに、じわじわくすぶるのは、性に合わねえ」
ジェイソンは、ドラゴンの頭に手を触れながら言った。
「分かった。引退試合、やるぞ」
「・・・本当、か・・・?」
ジェイソンの胸元から顔を離し、彼を見上げながらドラゴンが尋ねる。
「ああ、スマッシャージェイソンと、古いレスリングの最期を飾る、最高の試合をやってやる」
ジェイソンはそう頷き、両腕で最高のファンを抱きしめた。
いつの間にか酒の小瓶を手放しており、小瓶が地面に転がって酒ををこぼしていたが、ジェイソンには酒を惜しむ心は残っていなかった。
12/11/24 22:34更新 / 十二屋月蝕
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