Jackryさんおめでたう
職場からの帰路、男はため息をついた。
職場で嫌なことがあったわけではない。むしろ何もなかった。
だが、そのなにもなかったが問題なのだ。今日は、誕生日だというのに。
皆に祝ってほしいわけではないが、それでも特に何事もなく一日が過ぎ去るのは、少しさみしい。
朝方家を出る時も、彼の嫁はいつものように行ってらっしゃいと声を掛け、ほっぺに唇を触れさせただけだった。
もしかしたら、誕生日を忘れているのかもしれない。
長く過ごすうち、幸せな毎日に特別な日が埋没してしまうことはよくある。
だから男は、わざわざ今日が誕生日であることを嫁に告げて、彼女を困らせるようなことはしたくなかった。
「今日は、普通の日だな」
そう、今日はいつもと同じ、普通の日。
彼は自信でもそう思い込むことにした。
やがて、男は自宅の玄関前に立った。鍵を取出し、扉を開く。
「ただいまー」
「お帰りなさーい」
玄関をくぐる男に、高く透き通った声が返ってくる。
遅れて、家の奥から割烹着を身に付けた一体の妖狐が姿を現した。
「おかえりなさい、じゃーさん」
「ただいま」
妖狐と顔を合わせて、改めて挨拶を交わす。
いつもと同じ、平坦な口調に穏やかな表情。一見すると、対して男の帰宅を喜んでいないようにも見えるが、腰から生える三本の尻尾は揺れていた。
「ご飯もうすぐできるから、先にお風呂に入って下さらない?」
「分かった。ありがとう」
男はそう言うと、靴を脱いで家に上がった。
妖狐はいそいそと台所へ引っ込み、男は自分の部屋へと向かった。
カバンを置き、上着をハンガーに掛けると、用意されていた着替えを手に、風呂場へ移動する。
そして台所そばを通る際に、男がちょっと妻の様子を見てみる。すると、妖狐が尾を揺らしながら皿に何かを盛りつけ、時折鍋をかき回しているのが見えた。
「ふふふ〜ん…あら?」
男の視線に気が付いたのか、彼女は彼に目を向けた。
「もう少しかかりますけど、冷めちゃうからお風呂早くお願いしますよ」
「ああ、分かった」
男は名残惜しげに台所を離れると、まっすぐ風呂場に向かった。
脱衣所で、身に着けていた衣服を洗濯かごに放り込み、タオル一枚を手にして風呂場に入る。
風呂の蓋を開けると、男好みの熱々の湯から湯気が立ち上って、彼を優しく包んだ。
「よっこらしょっと…はぁ…」
風呂場の椅子に腰を下ろし、疲労からの溜息をつきながら、男は手桶で湯を身体にかけた。温もりが彼の肌を撫で、強張った筋肉を緩ませる。
そして、彼は石鹸をタオルに塗ると、身体を擦り始めた。
以前ならば、妖狐が一緒に入って背中を流してくれたのだが、最近は先に風呂を済ませているか、料理の準備をしているかで、余り一緒に風呂に入ってくれない。
また、男が帰って来た時も「ご飯にします?お風呂にします?それとも…」などと問いかけてくれたのだが、最近はそれもない。
考えてみれば、男が仕事で忙しいため、帰りが若干不規則になっていることに一因もあった。
今の仕事がひと段落ついたら、働き方を考えなければ。
身体を覆う泡を洗い流し、男は湯船につかる。
男は天井に向けて湯気が立ち上っていくのを見上げながら、身体の芯に熱が染み込んでいくのに身を任せた。
物を考えるのを極力抑え、身体が温まるまで頭の片隅で数を数える。
そして、妖狐が入ってくることもなく、男は浴室を出た。
柔らかい乾いたタオルで身体を拭い、下着と寝間着に袖を通すと、彼は食堂に向かった。
テーブルには既に料理が並べられており、湯気を立てながら男を待っていた。
だが、妖狐の姿がなかった。
「あれ…?」
男が妻の姿を求めて、彼女を呼ぼうとした瞬間、彼の視界が急に真っ暗になった。
後ろから目隠しをされたのだ。
「ふふふ、誰でしょう?なーんて」
柔らかな掌と声により、男はすぐに声の正体に思い至ったが、彼が答えを口にするより先に掌が外される。
「もう、ちょっぴり長風呂すぎますよ、じゃーさん」
「ごめんごめん、念入りに身体洗っていたら、ね」
「お料理が冷めちゃいますから、早く早く」
男の手を取り、食卓に向かって引っ張る。
「どうしたの?今日は何か妙に急がせるけど」
「今日の料理は自信作なんです。ですから、美味しいうちに召し上がってもらいたくて」
導かれるまま男は、妖狐とテーブルを挟んで向い合せに腰掛けた。
「おお、美味しそうだなあ」
肉の和風照り焼きに、透き通ったコンソメスープ、サラダにご飯と、テーブルの上には和洋の品を取りそろえてあった。
「さ、どうぞ」
男は妖狐と共に両手を合わせ、口を開いた。
「いただきます」
「いただきます。それと…じゃーさん、お誕生日おめでとうございます」
合わせていた両手を離し、箸を取ろうとしていた男が動きを止めた。
「一年間、大きな怪我も病気もせずに、私と一緒に過ごしてくれて、ありがとうございます」
妖狐は言葉を続けた。
「じゃーさんとの毎日が楽しくて、去年の誕生日から今日が来るまではあっという間でした。だから、御馳走と言う程でもないけど、ささやかにお祝いさせてください。じゃーさん、お誕生日おめでとう」
「…覚えていてくれたのか…あ、あれ…?」
男は不意に、目頭が熱くなったのを感じた。手を目元に当ててみると、なぜか涙が溢れそうになっていた。
「な、何で、俺…」
「ふふふ、誕生日のこと忘れてたと思ってました?忘れるはずないじゃないですか」
妖狐は一度席を立つと、男の傍らに移動し、彼の頭を優しく抱いた。
「でも、少しとは言え不安にさせてしまってごめんなさい」
「ああ…仕事場でも何も言われなくて、帰っても一言もなかったから、忘れられたと思ってた…」
「忘れませんよ、じゃーさん」
湿り気の残る男の髪を撫でながら、妖狐は囁く。
「来年は、そういうドッキリも一切なしで、ちゃんと祝いますから…だから」
一度言葉を絶ってから、彼女は続けた。
「もう一年、怪我も病気もせず、元気でいてくださいね、じゃーさん」
「ああ…約束する。だから、お前も約束してくれ」
男は、自身を抱く手にそっと触れながら、そう応えた。
「今度のお前の誕生日も、来年の誕生日も、その次も祝いたいから、お前もずっと元気でいてくれ」
「…はい、約束します」
妖狐が、小さく頷いた。
そして互いに体温を分かち合いながら、この温もりが長く感じられるように、と二人は胸の内で願った。
「それじゃあ、じゃーさん…そろそろいただきましょうか」
「そうだね」
妖狐は男の頭から手を解くと、自分の席に戻った。
「それでは改めて、いただきます」
「いただきます」
そう言葉を交わして、二人は料理に手を付けた。
「ん、照り焼き美味しいな」
「ふふ、気に入ってもらってよかった。お隣の奥さんから、タレの作り方を教えてもらったんです」
「お隣って、ネコマタの?」
「そっちじゃなくてカラステングさんの方です」
「へえ、カラステングって精進料理のイメージがあったけど…」
「精進料理なのは修行中の間だけで、花嫁修業では肉料理も学ぶそうですよ」
「そうなんだ。あぁ、スープも美味しい」
「そっちはいつもと変わり映えの無い味付けで…すみません」
「いや、俺大好きよ、この味」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
料理をつまみ、言葉を交わし、互いに微笑む。いつもと同じ食事を二人はしていた。
誕生日だというのに、いつもと同じ夕食。
だが、男は幸せだった。
次の誕生日まで、この毎日が続くと約束できたのだから。
職場で嫌なことがあったわけではない。むしろ何もなかった。
だが、そのなにもなかったが問題なのだ。今日は、誕生日だというのに。
皆に祝ってほしいわけではないが、それでも特に何事もなく一日が過ぎ去るのは、少しさみしい。
朝方家を出る時も、彼の嫁はいつものように行ってらっしゃいと声を掛け、ほっぺに唇を触れさせただけだった。
もしかしたら、誕生日を忘れているのかもしれない。
長く過ごすうち、幸せな毎日に特別な日が埋没してしまうことはよくある。
だから男は、わざわざ今日が誕生日であることを嫁に告げて、彼女を困らせるようなことはしたくなかった。
「今日は、普通の日だな」
そう、今日はいつもと同じ、普通の日。
彼は自信でもそう思い込むことにした。
やがて、男は自宅の玄関前に立った。鍵を取出し、扉を開く。
「ただいまー」
「お帰りなさーい」
玄関をくぐる男に、高く透き通った声が返ってくる。
遅れて、家の奥から割烹着を身に付けた一体の妖狐が姿を現した。
「おかえりなさい、じゃーさん」
「ただいま」
妖狐と顔を合わせて、改めて挨拶を交わす。
いつもと同じ、平坦な口調に穏やかな表情。一見すると、対して男の帰宅を喜んでいないようにも見えるが、腰から生える三本の尻尾は揺れていた。
「ご飯もうすぐできるから、先にお風呂に入って下さらない?」
「分かった。ありがとう」
男はそう言うと、靴を脱いで家に上がった。
妖狐はいそいそと台所へ引っ込み、男は自分の部屋へと向かった。
カバンを置き、上着をハンガーに掛けると、用意されていた着替えを手に、風呂場へ移動する。
そして台所そばを通る際に、男がちょっと妻の様子を見てみる。すると、妖狐が尾を揺らしながら皿に何かを盛りつけ、時折鍋をかき回しているのが見えた。
「ふふふ〜ん…あら?」
男の視線に気が付いたのか、彼女は彼に目を向けた。
「もう少しかかりますけど、冷めちゃうからお風呂早くお願いしますよ」
「ああ、分かった」
男は名残惜しげに台所を離れると、まっすぐ風呂場に向かった。
脱衣所で、身に着けていた衣服を洗濯かごに放り込み、タオル一枚を手にして風呂場に入る。
風呂の蓋を開けると、男好みの熱々の湯から湯気が立ち上って、彼を優しく包んだ。
「よっこらしょっと…はぁ…」
風呂場の椅子に腰を下ろし、疲労からの溜息をつきながら、男は手桶で湯を身体にかけた。温もりが彼の肌を撫で、強張った筋肉を緩ませる。
そして、彼は石鹸をタオルに塗ると、身体を擦り始めた。
以前ならば、妖狐が一緒に入って背中を流してくれたのだが、最近は先に風呂を済ませているか、料理の準備をしているかで、余り一緒に風呂に入ってくれない。
また、男が帰って来た時も「ご飯にします?お風呂にします?それとも…」などと問いかけてくれたのだが、最近はそれもない。
考えてみれば、男が仕事で忙しいため、帰りが若干不規則になっていることに一因もあった。
今の仕事がひと段落ついたら、働き方を考えなければ。
身体を覆う泡を洗い流し、男は湯船につかる。
男は天井に向けて湯気が立ち上っていくのを見上げながら、身体の芯に熱が染み込んでいくのに身を任せた。
物を考えるのを極力抑え、身体が温まるまで頭の片隅で数を数える。
そして、妖狐が入ってくることもなく、男は浴室を出た。
柔らかい乾いたタオルで身体を拭い、下着と寝間着に袖を通すと、彼は食堂に向かった。
テーブルには既に料理が並べられており、湯気を立てながら男を待っていた。
だが、妖狐の姿がなかった。
「あれ…?」
男が妻の姿を求めて、彼女を呼ぼうとした瞬間、彼の視界が急に真っ暗になった。
後ろから目隠しをされたのだ。
「ふふふ、誰でしょう?なーんて」
柔らかな掌と声により、男はすぐに声の正体に思い至ったが、彼が答えを口にするより先に掌が外される。
「もう、ちょっぴり長風呂すぎますよ、じゃーさん」
「ごめんごめん、念入りに身体洗っていたら、ね」
「お料理が冷めちゃいますから、早く早く」
男の手を取り、食卓に向かって引っ張る。
「どうしたの?今日は何か妙に急がせるけど」
「今日の料理は自信作なんです。ですから、美味しいうちに召し上がってもらいたくて」
導かれるまま男は、妖狐とテーブルを挟んで向い合せに腰掛けた。
「おお、美味しそうだなあ」
肉の和風照り焼きに、透き通ったコンソメスープ、サラダにご飯と、テーブルの上には和洋の品を取りそろえてあった。
「さ、どうぞ」
男は妖狐と共に両手を合わせ、口を開いた。
「いただきます」
「いただきます。それと…じゃーさん、お誕生日おめでとうございます」
合わせていた両手を離し、箸を取ろうとしていた男が動きを止めた。
「一年間、大きな怪我も病気もせずに、私と一緒に過ごしてくれて、ありがとうございます」
妖狐は言葉を続けた。
「じゃーさんとの毎日が楽しくて、去年の誕生日から今日が来るまではあっという間でした。だから、御馳走と言う程でもないけど、ささやかにお祝いさせてください。じゃーさん、お誕生日おめでとう」
「…覚えていてくれたのか…あ、あれ…?」
男は不意に、目頭が熱くなったのを感じた。手を目元に当ててみると、なぜか涙が溢れそうになっていた。
「な、何で、俺…」
「ふふふ、誕生日のこと忘れてたと思ってました?忘れるはずないじゃないですか」
妖狐は一度席を立つと、男の傍らに移動し、彼の頭を優しく抱いた。
「でも、少しとは言え不安にさせてしまってごめんなさい」
「ああ…仕事場でも何も言われなくて、帰っても一言もなかったから、忘れられたと思ってた…」
「忘れませんよ、じゃーさん」
湿り気の残る男の髪を撫でながら、妖狐は囁く。
「来年は、そういうドッキリも一切なしで、ちゃんと祝いますから…だから」
一度言葉を絶ってから、彼女は続けた。
「もう一年、怪我も病気もせず、元気でいてくださいね、じゃーさん」
「ああ…約束する。だから、お前も約束してくれ」
男は、自身を抱く手にそっと触れながら、そう応えた。
「今度のお前の誕生日も、来年の誕生日も、その次も祝いたいから、お前もずっと元気でいてくれ」
「…はい、約束します」
妖狐が、小さく頷いた。
そして互いに体温を分かち合いながら、この温もりが長く感じられるように、と二人は胸の内で願った。
「それじゃあ、じゃーさん…そろそろいただきましょうか」
「そうだね」
妖狐は男の頭から手を解くと、自分の席に戻った。
「それでは改めて、いただきます」
「いただきます」
そう言葉を交わして、二人は料理に手を付けた。
「ん、照り焼き美味しいな」
「ふふ、気に入ってもらってよかった。お隣の奥さんから、タレの作り方を教えてもらったんです」
「お隣って、ネコマタの?」
「そっちじゃなくてカラステングさんの方です」
「へえ、カラステングって精進料理のイメージがあったけど…」
「精進料理なのは修行中の間だけで、花嫁修業では肉料理も学ぶそうですよ」
「そうなんだ。あぁ、スープも美味しい」
「そっちはいつもと変わり映えの無い味付けで…すみません」
「いや、俺大好きよ、この味」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
料理をつまみ、言葉を交わし、互いに微笑む。いつもと同じ食事を二人はしていた。
誕生日だというのに、いつもと同じ夕食。
だが、男は幸せだった。
次の誕生日まで、この毎日が続くと約束できたのだから。
12/11/24 00:16更新 / 十二屋月蝕