落日の暗殺団
中央教会の支配下、人間達が肩を寄せて暮らす街があった。
レスカティエには劣るものの、それなりに規模は大きい。
そして街の一角、大きな屋敷が並ぶ区域に、広々とした屋敷があった。大きな窓をいくつも備え、風通しを良くしたその造りは、砂漠の国でよく見られる様式だった。
屋敷の庭や、庭に面した部屋や廊下には、目つきの鋭い男が要所要所に立っている。どうやら、身分ある人物の邸宅のようだ。
しかし屋敷の奥に進むと見張りの姿はなくなり、代わりに妙に甘ったるい匂いが立ちこめていた。
屋敷のほぼ中心部、どの窓や入り口からも離れた一室に入ると、四人の男がいた。
三人は円筒形の容器を囲んで座っており、容器から延びるチューブを口に咥えていた。子供の背丈ほどの容器の蓋からは、か細く甘ったるい匂いを放つ煙が立ち上っている。
そして、三人から少し離れたところで、もう一人の男が彼らを見ていた。ひげを生やし、精悍な顔つきをした若い男だ。
男は、三人が容器から煙を吸っては吐き出すのを見つめていたが、ふと彼らの向こうに目を向けた。
そこには祭壇のようなものが設けられており、その上に小さな像が一体乗せてある。一般的によく見られる聖人像ではなく、探検を片手に握った男の像であった。
「どうだ?」
不意に部屋の入り口から声がかかり、男がそちらに向き直ると、ちょうど壮年の男が一人入ってくるところだった。
裕福な商人然とした装いだが、首には教団のシンボルが下げてあり、彼が教団関係者であることを示していた。
「はい、もうすぐ『出来上がる』かと」
「そうか」
壮年の男は彼の言葉に頷いた。
「今度こそ失敗は許されぬぞ」
「心得ております」
若い男はそう頷くと、三人の方に歩み寄った。
「もういいだろう。立て」
「はい…」
三人の男は、口に当てていたチューブを床に置くと、立ち上がった。
「師長さまの前に立て」
「はい…」
三人は、一瞬よろめきながらも容器の傍を離れ、壮年の男の前に並んだ。
「お前たちは正義の者か?」
「私達は正義の者です」
師長の言葉に、三人が口をそろえて答えた。
「お前達の正しさは何によって証明される?」
「私たちの正しさは主神教団、暗殺団グリーカ・ルファベトの一員であることによって証明されます」
「主神教団の正義の証は?」
「主神への信仰と、天より吊るされた糸のごときまっすぐな行いこそが証です」
「お前達の手には何がある?」
「祝福された聖なる短剣です」
「お前達はそれで何をしようとしている?」
「魔に屈し、主神に仇なす愚かなる裏切り者、アスーム・ムジャの抹殺です」
「よろしい。行って来い」
「はい」
三人の男は、部屋の入口に向けて駆け出して行った。
壮年の男と、髭の若者は、彼らを静かに見送った。
『ベドラムを出た後は手の震えも完全に治まり、妻と完治を喜びました。今はポローヴェの一角に部屋を借り、妻と暮らしています。
ポローヴェに御用の際は、是非お立ち寄りください。夫婦ともども、歓迎いたします』
「ええい、またか!」
広げられた便箋を、机に叩きつけながら壮年の男は声を荒げた。
三人の男を放って一月過ぎたところで、手紙が届いたのだ。手紙の内容は、暗殺には失敗したが、伴侶を手に入れ幸せに暮らしている、と言う物だった。
「まさか、三人とも一度に敗れるとは…」
「三人には別々ルートで対象に接近するよう命じていたのですが…」
師長の机の上の、三通の手紙を見ながら、髭の若い男はそう続けた。
「一体何が起こっている?これで六度目、二十人の優秀な暗殺者が、魔物どもに敗れたのだぞ!?教団の秘密の刃、暗殺団の精鋭が、二十人も!」
苛立ちも露わに、師長は声を上げた。
すると、部屋のドアからノックの音が響き、ドアが薄く開いた。
「失礼します…」
頭を剃りあげた若い男が、ドアから禿頭を覗かせた。
「なんだ?」
「六幹部の方が揃いました。皆さま師長をお待ちです」
「そうか、そんな時間か。ジファー、行くぞ」
「はっ」
壮年の男は若い男、ジファーに声を掛け、席を立った。
ジファーは机の手紙を手早くまとめると、師長に続いて部屋を出た。
そしてしばし二人は廊下を進み、広間に入る。広間には長いテーブルが一台置いてあり、既に六人の男が腰を下ろしていた。
男達はいずれも、中年から初老に足を踏み入れたほどの年代で、商人風から軍人、あるいは傭兵風まで様々な格好をしていた。
「諸君、遅くなってすまない。よく集まってくれた」
師長は六人の男に向けて労いの言葉を口にすると、テーブルの空いた席に腰を下ろした。
「堅苦しい挨拶は抜きにして、本題に入ろう。諸君らもご存じのとおり、魔物どもに教区の街が陥落されている。これが、単に攻め入って滅ぼされたのならばまだ納得がいく。問題なのは、信徒が嬉々として主神を裏切り、魔物に寝返っていることだ」
嘆かわしい、といった様子で師長が首を左右に振ると、六幹部もそれに頷いた。
「教団の調査の結果、どうも魔王に寝返った街には、魔物の好む食物や魔力の込められた装飾品が多く運び込まれていたことが分かった。卑怯にも魔物どもは、裏切り者の商人であるアスーム・ムジャを抱き込んで、ゆっくりと侵略していたらしい。そこで教団上層部は、秘中の秘である我々に、報復としてムジャの暗殺を命じたのだ。だが…ジファー」
「はっ」
ジファーは師長の言葉に、手に持っていた手紙を取り出し、数枚ずつ六人の幹部に手渡していった。
「これまでに六度、二十人の精鋭を送り込んだが、一人残らず返り討ちにあった。これで死体が送られてくるのならば、まだ死地に赴いた彼らも浮かばれるだろう。だがこともあろうに魔物どもは、彼らを洗脳し、魔物を妻として当てがって、幸せに暮らしているなどと言うふざけた手紙を送りつけて来たのだ」
「なんと…」
「そんなことが…」
ジファーによって配られた便箋に目を走らせ、口々に声を漏らす。
「教団上層部でもごく一部の者しか知られず、影から教団を守る刃であった我々グリーカ・ルファベトが、商人一人仕留められずにいる!今回集まってもらったのは、この異常事態を以下にして解決するか、知恵を出してもらうためだ」
師長は六人の幹部をぐるりと見まわしてから、続けた。
「何か、妙案はないだろうか?」
しかし、幹部達から返ってきたのは、重い沈黙だった。
「諸君、今の今まで何も知らなかった、わけではないのだろう?グリーカ・ルファベトの六幹部が、まさか今の今まで何も考えていなかった、と言うわけではあるまい」
黙する六人に、師長はそう求めた。
しかし、にわかに妙案が浮かぶはずもなく、六人の男達は沈黙を返す他何もできない。
「ええい、それほど困難な事態なのか、我々が無能なのか…」
「あの、よろしいですか?」
苛立つ師長に、ジファーが小さく手を上げた。
「なんだ?」
「私にこの場で発言権がないのは、重々承知していますが、一つ思いついたことがありまして…」
「構わん。こうして七人が雁首そろえても、ほとんど何の案も出ないのだ。今回は位階に関わりなく、自由に発言をすることを認めよう」
「ありがとうございます」
ジファーは一礼した。
「今回の、送り込んだ暗殺者がことごとく返り討ちにあった原因としては、失礼を覚悟で言わせていただきますが、我々のやり方が時代遅れになったのではないか、と考えられます」
「時代遅れ?」
「連綿と続く暗殺の技術が時代遅れとは、何と言うことを…」
「まあ待ちたまえ、最後まで聞いてみようじゃないか」
ジファーの言葉に色めき立つ幹部を、師長は押しとどめた。
「ありがとうございます、師長。魔王の交代に伴う魔物の変化により、魔物が変化したことは皆さんご存じのはずです。全ての魔物が人めいた姿を取り、知恵を手に入れたと聞きます」
六幹部は頷いた。
「恐らく、この変化により魔物どもは新たなる戦闘技術を獲得し、昔ながらの手法に囚われている我々が対応できていないのではないのでしょうか」
彼は一度言葉を切ると、六幹部と師長を見回して続けた。
「そこで、私は新たな暗殺技術の開発、獲得を提案します」
「確かに、我々も技術革新は必要だ」
「しかし、どうやって技術獲得をするんだ?一朝一夕に思いつく物でもないのだろう」
ジファーの提案に、六幹部がそう口にする。
確かに、今現在暗殺団で用いられている技術、ナイフに塗る毒から尋問術まで、全ては長い期間を掛けてコツコツと積み上げて来たものだ。
「ご安心ください。既に、技術革新のための方法は考えております」
自分の提案が、無責任な思いつきでないことを六幹部に説明する。
「異国の暗殺組織に、ムジャの暗殺を依頼するのです。そして、我々は彼らの暗殺技術を学びとるのです」
「他の組織に依頼!?」
「既にあたりは付けています。ジパングのニンジャと呼ばれる一団で、連絡方法も確保してあります」
「しかし、そんな恥知らずな…」
「だが他に方法があると言うのか?」
六人の幹部が言葉を交わし、ジファーの提案をベースにどうにか活路を見出そうとする。
しかし、いくら言葉を交わせども、ジファーの物以上の案は出なかった。
「さらなる妙案があると言う者は、今この場で発言せよ」
六幹部の言葉が途切れた瞬間、師長がそう口を開いた。しかし、口を開く者はいなかった。
「どうやら、今回はジファーの案に乗らざるを得ないようだな…」
師長はそう呟くと、ジファーをまっすぐに見つめながら続けた。
「では、イム・ジファー師範。そなたにアスーム・ムジャの暗殺を、ジパングのニンジャを用いて実行することを命じる」
「かしこまりました」
「そなたの正義に、主神の加護の有らんことを」
「グリーカ・ルファベトに主神の加護のあらんことを」
ジファーはそう七人に返すと、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
数日後、とある町の一角に、ジファーと禿頭の男の姿があった。
二人とも商人風の衣装を纏い、どこか緊張した面持ちで、何かを待っていた。
「しかし、ジファー師…その、ニンジャというのは本当に現れるのでしょうか…?」
禿頭の男が、微かな不安を滲ませながらそうジファーに尋ねる。
「ジパングの暗殺組織だと言うのに、新聞に広告を出すぐらいで…」
「現れる。なぜならこの街に、すでに彼女らの支部があるからだ」
「彼女…?」
禿頭の男が、ジファーの言葉に声を漏らした。
「実は、ニンジャとの連絡手段は幾つか確保していたつもりだったが、どこもクノイチと呼ばれる女のニンジャとしか通じなかったのだ」
「なるほど、それで…」
禿頭の男は頷いた。
「クノイチが現れても、動揺を見せるな」
「了解しました」
「打ち合わせは終わりかしら?」
二人が言葉を交わしたところで、不意に横から声が掛けられた。
「っ!?」
一切の気配を放たず、声だけが現れたことに、二人の暗殺者は思わず声をあげそうになった。
「ジパング産包丁の買い取り広告を出してくれた、ジファル・イマー?」
二人の視線の先に立っていたのは、砂漠の民族のような白い衣装とフードを被った女だった。
「ああ、そうだ…ムラマサ文化包丁を九本とキテツ果物ナイフを一本、用意できるか?」
ジファーは女の問いかけに応え、取り決めてあった言葉を口にした。
「ええ、今すぐにでも…仕事の話に入りましょうか」
フードの女はやり取りを確認すると、フードを下ろした。
すると、ジパング人特有の黒髪が白い布の下から溢れだした。しかし同時に、髪の間から覗く妙にとがった耳も、二人の暗殺者の前に晒された。
「あ…」
「標的は、行商のアスーム・ムジャだ。奴をあなた方の流儀で『暗殺』してほしい。ストレートにいえば、妻を亡くして長いあの男に、新しい嫁をプレゼントしてほしいのだ」
禿頭の男が何かを言う前に、ジファーは女に向けて言った。
ジファーの言葉に、禿頭の男はますます混乱し、パクパクと口を開閉するばかりになった。
「ふむ…ムジャは私も知っているけど…彼は親魔物派じゃないかしら?」
「確かにそうだ。あの男はあちこちの街に、魔力の籠った品を卸している。しかし、奴が教団の関係者と金品のやり取りをしていた、という事実もある」
これは事実だ。ジファーと禿頭の男は直接関わっていないが、ムジャが圧倒的に有利になる商取引を、教団を通じて行ったのだ。
多少調べれば、教団からムジャに献金したように見えるだろう。
「我々としては、ムジャが確実に『こちら側』であるという証が欲しい。だから、あなた方に彼の『暗殺』を依頼したいのだ…」
「ふむ…」
女は口元に手を当て、しばし考え込んだ。
「…分かったわ。ムジャが独り身を貫いてきた理由も含めて下調べをして、仕事に取り掛かるとするわ」
「それはありがたいが、後もう一つあるんだ」
やや申し訳なさそうに、ジファーは女に続けた。
「こうして会う前に、既に下調べしているとは思うが、我々は教団にとって不都合な連中を暗殺する部署にいる。だが、時代と共に忘れ去られ、今の時代では幹部も組織も隠れ蓑の商取引ばかりが主軸になりつつあるんだ」
「ふぅん…」
何か思うところがあるのか、女が目を細める。
「もはや教団が忘れ去ってしまったのならば、我々も仕え続ける義務はない。そこで、魔物の手下として働くことにしたのだが、我々の技術は既に時代遅れだ。だから、あなた方ニンジャの技術を見学させてもらって、胸を張れる技術を身につけたいのだ」
「…残念ながら、仕事の現場を他人に見せたりはしないわ」
女は小さく首を振った。
「でも…あなた達が勝手に私についてくるのは、止めたりしないわ」
「それは、助かる」
ジファーが表情を緩ませた。
「ムジャについて裏が取れたら、連絡するわ。報酬はその時に」
「分かった」
ジファーが頷くと、女は再びフードを被った。そして、二人に背を向けて通りの向こうへと歩き出した。
「ジファー師…先ほどの話は…?」
女の姿が見えなくなったところで、禿頭の男が小声で、ジファーにも届くかどうかといった大きさの声で尋ねた。
「全てではないが、事実だ。彼女達ニンジャ…クノイチは依頼人の嘘を許さない」
「しかし、我ら暗殺団が魔物共に寝返るなどと…」
「そう言ったのは私だ。罰せられるとしたら、私だけだ」
ジファーは女が立ち去ったのとは別の方向に向き直ると、歩きだした。
「さあ、戻るぞ」
禿頭の男は、遅れてジファーについて行った。
数日後、広く人の目には触れるが符丁を知らぬ者にはただの宣伝にしか見えない新聞広告で、クノイチが依頼を引き受けたことと、報酬の支払い方法をジファーに伝えた。
ジファーは指定された方法で、報酬を支払い、師長に契約成立の旨を報告した。
そして更に数日後の夜、アスーム・ムジャの屋敷を屋敷を臨む住宅街の一角に、一つの影が舞い降りた。
建物の屋根に屈んでいるのは、黒い衣装に身を包み、黒髪を夜風になびかせる女の姿だった。
彼女は月に照らされるムジャの屋敷を見つめ、侵入経路を探っていた。
「お待ちしていました、先生」
黒装束の女が、横からかかった声に身体を小さく跳ねさせた。太ももに差していた、ごく短い短剣のような刃物を引き抜きつつ振り返ると、屋根の縁に黒い影が三つ立っていた。
「…」
「失礼しました、ジファル・イマーです」
ジファーは偽名を名乗りながら、顔を覆っていた布を外し、女に顔を晒した。
「約束通り、我々で勝手に先生の仕事を見学させてもらいます」
「……そうだったわね…」
見学の条件込みで依頼を受けたことを思い出したのか、女は覆面の下で小さく表情を変えた。
「それで…なぜここが…?」
見学する代わりに、とばかりに彼女はジファーに問いかけた。
「この場所は、ムジャの屋敷を見るのに最も適した場所です。ですからここで待っていれば、いずれ先生が現れるのではないかと」
「……」
女はジファーの言葉に、静かに納得した。
「それでは、私とこの二人で見学いたします。お邪魔はしませんので、どうかご自由に」
彼女はため息をつくと、ジファーから視線を離し、屋根から跳躍した。
彼女の身体は軽々と屋根と屋根の間を舞い、隣家の屋根に着地すると同時に、ムジャの屋敷に向けて駆け出した。
「行くぞ」
「はい」
ジファーの呼びかけに二人が低く応え、三人は遅れてクノイチの後を追った。
助走を付けて屋根の縁から跳ぶが、飛距離は彼女ほどなかった。ジファー達もある程度訓練を積んでいるとはいえ、さすがに魔物の脚力にはかなわない。
跳躍と疾走を繰り返すうち、少しずつ三人と一人の距離は開いて行く。
「お前達は、下からムジャの屋敷に先回りしろ。私はこのまま追う」
「了解しました」
二人の男が、ジファーの言葉に頷き、屋根から屋根へ飛び移る際に道へと飛び降りていった。
そしてジファーは、やや遅い二人が居なくなったことで、一気に速度を上げた。建物一軒分以上、もうすぐ二軒分は引き離されようとしていたクノイチとジファーの距離が、徐々に詰まっていく。
すると、二人の前にこれまで駆け抜けて来た建物より高い家屋が聳えていた。最低でも一フロア分は高く、ただ跳躍して屋根に飛び移ることは出来そうにない。
「……」
クノイチはちらりと背後のジファーを一瞥すると、建物の縁に達した瞬間、両脚をたわめて高く跳躍した。
彼女の身体は軽々と宙を舞い、建物の屋根の上に着地した。
「なるほど…もう少し鍛える必要があるな…」
クノイチの身体能力に舌を巻きながら、ジファーは懐から鉤の付いたロープを取り出した。鋼線をより合わせて作ったロープを小さく回転させ、勢いをつけて鉤ごと投擲する。まっすぐ前方ではなく、やや斜めにだ。
彼の放った鉤は建物の屋根の縁に引っ掛かり、軽い手ごたえをロープからジファーに伝えた。
そして、彼は建物の縁から跳躍した。一瞬の浮遊感ののち、彼の両脚が建物に触れる。壁面にだ。手の中のロープを握りしめ、彼は壁を駆けのぼった。大きく弧を描きながら、彼の身体は壁面を上り、やがて屋根の上に降り立つ。同時に、屋根の縁から外れた鉤を、ロープごと手元に手繰り寄せた。
「ほう…」
屋根の半ばまで達していたクノイチが、ちらりと振り返りながら小さく声を漏らす。
どうやら彼女の想像以上に、ジファーが動けたことに感心しているらしい。
やがて二人は、いくつかの家屋を駆け抜け、ついに屋敷を囲む塀の内側に飛び込んだ。
「……」
庭の植え込みの間からジファーが左右に目を巡らせると、数人の見張りが立っているのが見えた。無理もない。六度も暗殺者を送り込んだから、警備が厳重になっているのは当たり前だ。しかし、彼らの間に緊張感はそこまでなかった。どうやら、連日の警戒態勢で疲労しているらしい。
このまま植え込みに隠れていれば、見張りを数度やり過ごすこともできるだろう。しかし、それではムジャの下まで行くことは出来ない。
(さて、どう動く…?)
ジファーがクノイチの様子をうかがっていると、彼女は見張りの視線が逸れた瞬間、植え込みを飛びだし、建物の壁面に駆け寄った。そして、平らなはずの壁面をするすると登って行き、窓の一つから建物の中に入った。
「なるほど、ああやって入るのか…」
グリーカ・ルファベトでは、変装して侵入を試みていた。正々堂々と玄関や裏口から入ろうとすれば、多少のチェックはあるが、切り抜けられるだろうと考えていた。しかし、この辺りも見直す必要がありそうだ。
ジファーはしばしの間、繁みの間に身をひそめ、見張りが通り過ぎるのを待った。
そして、クノイチに遅れて彼も飛び出すと、建物に駆けより支柱の凹凸に指を掛けて這い登って行った。
男は窓から建物の中に転げこむと、脳裏に建物の見取り図を思い浮かべながら、ムジャの寝室目指して進み続けた。
やがて、ジファーはムジャの寝室の前に至る。柱の陰に身をひそめ、通路を伺うと、寝室の扉が薄く開いているのが見えた。
見張りは、扉の左右に崩れ落ちている。
「死んで…いないな」
薄く上下する見張りの胸に、二人がただ眠っていることをジファーは悟った。辺りの空気に甘いにおいが微かに残っているところを見ると、催眠性の香か何かを焚いたのだろう。
ジファーは懐から布を出すと、口元を覆って寝室に歩み寄った。
布越しの甘い香りを極力吸わぬよう、呼吸を低くしながら、そっと薄く開いた扉を覗きこんだ。すると、上等そうな大きなベッドの上で、重なり合う二人分の人影が見えた。
寝室の闇は色濃いものであったが、一つがすらりとした女の影で、もう一つが肥満した男の影であることは容易に分かった。先に屋敷に入ったクノイチと、アスーム・ムジャだ。
クノイチ達の『暗殺』方法については、彼女達の正体と共にある程度知識があったため、ジファーにそこまでの驚きはなかった。
だが、ジファーにとって最大の驚きであったのは、自身も含めてクノイチが容易にムジャのところまで到達できたことだった。
「一体なぜだ…」
ジファーは口中で低く呟くと、寝室の扉から顔を離した。
ジファーに興味があったのは、あくまでクノイチの暗殺技術だ。寝室の技術などどうでもいいし、のぞき見する趣味はない。
「しかし、なぜ…?」
自分はこうして容易にムジャの寝室にたどり着けたのに、過去六回の暗殺者は失敗したのか。
ジファーの胸中に疑問符が渦を描く。
だが、いつまでもこの場で考え込んでいる暇はない。この場は退くとしよう。
脱出ルートを脳裏に思い描きながら、彼は二人の見張りを残したまま、寝室から遠ざかって行った。
「それで、結局分かったことは、『分かりませんでした』か?」
ジファーの報告に、師長は拳で机を叩いた。
「異国の暗殺組織に頭を下げて、大金を支払い、標的のすぐ目の前まで近づいておきながら、『分かりませんでした』だと…!?」
「言い訳のしようもありません…」
ジファーは師長の叱責に、ただそう応えるほかなかった。
「それで、この始末はどうつけるつもりだ?六幹部の前で大見得を切っておきながら、アスーム・ムジャは生きており、最新の暗殺技術の習得もできなかった。この始末は、どうつける?」
「……暗殺団のおきてに従い、私の命を持って贖います…」
搾りだすように、ジファーはそう口にした。
「しかし、今ひとたびチャンスを下さい!」
「なんだ?この期に及んで命乞いか?」
心底不機嫌そうな視線をジファーに向けながら、師長がそう尋ねる。
だがジファーは、師長の視線を浴びながら、まっすぐな声音で続けた。
「私自身が、暗殺団の技術を持ってムジャの暗殺を図り、一体何がいけなかったのかをこの身を持って吟味します!」
「ジファー、お前…」
師長の目が、驚きに見開かれた。
「お願いします!この命を持って今回の失敗を贖うのならば、暗殺団の未来の礎となるよう捧げたいのです!」
「……」
命乞いの言葉ばかりを予想していた師長は、しばし考え込んだ。
「……よかろう…」
間をおいて、師長が口を開く。
「主神と暗殺団グリーカ・ルファベトの掟に置いて、イム・ジファーに命ずる。裏切り者の商人、アスーム・ムジャを主神の御前へ送り、正当なる裁きを与えよ」
「はっ!」
ジファーは短く、しかし力強く応えた。
屋敷のほぼ中心部、どの窓や入り口からも離れた一室に、二人の男がいた。
一人は円筒形の容器を前に座っており、容器から延びるチューブを口に咥えていた。子供の背丈ほどの容器の蓋からは、か細く甘ったるい匂いを放つ煙が立ち上っている。
そして、彼から少し離れたところで、もう一人の壮年の男が彼らを見ていた。
「アスーム・ムジャは、最近結婚した女と旅行に出るらしい」
壮年の男、師長がチューブを咥え、煙を吸い込むジファーにそう話しかける。
「護衛もつけず、二人で乗合馬車に乗り、ジパングへ向かうそうだ。どうも妻の実家に向かうつもりらしい」
ジファーは師長の言葉に応えず、耳だけで聞いていた。
今このとき、ジファーがすべきことは、師長の言葉に応えるのではなく、煙を吸うことだからだ。数種類の乾燥した薬草を燻し、煙を水にくぐらせたハシシと呼ばれる物を吸う。
その煙は、人の思考を鋭く研ぎ澄ませ、その一方で感情による揺らぎを極力抑え込んでしまう、ちょうど酒と正反対の効能を持っていた。
このハシシの煙こそ、暗殺団グリーカ・ルファベトにおいて最古の、そして最高の暗殺技術に関わる発明であった。
「暗殺のタイミングはお前に任せるが、暗殺の瞬間はこやつに見届けさせる」
すると師長の傍らに、男が一人歩み寄った。禿頭の男だ。彼は師長とジファーに一礼すると、姿勢を正した。
「お前の暗殺技術の全てを持って、ムジャに挑むがよい」
師長がそう告げると同時に、ジファーが口元からチューブを離した。
彼の意識は鋭く研ぎ澄まされており、彼の内側に感情の揺らぎはほとんどなかった。
ジファーはチューブを置いて立ち上がると、師長の前へ移動した。
「お前たちは正義の者か?」
師長が、幾度も繰り返した質問を、ジファーに放った。
「私は正義の者です」
師長の言葉に、ジファーはこれまで数度応えたことのある返答をした。
「お前の正しさは何によって証明される?」
「私の正しさは主神教団、暗殺団グリーカ・ルファベトの一員であることによって証明されます」
口に出した言葉が耳から入り、ジファーの意識に染み込んでいく。
「主神教団の正義の証は?」
「主神への信仰と、天より吊るされた糸のごときまっすぐな行いこそが証です」
そう。自分の信じて来たことと、自分の成すことが正しい。ジファーは自身に言い聞かせた。
「お前の手には何がある?」
「祝福された聖なる短剣です」
実際のところ、手の中に短剣はない。だが、短剣とはジファーの持つ暗殺技術のことであり、主神の後ろ盾を得た正当な者である。
「お前はそれで何をしようとしている?」
「魔に屈し、主神に仇なす愚かなる裏切り者、アスーム・ムジャの抹殺です」
今までに六度、二十人の暗殺者たちが繰り返した言葉を、ジファーは繰り返した。
「よろしい。行って来い」
ジファーは踵を返すと、まっすぐに歩きだした。
その歩調に、揺れは一切ない。ジファーは今、一本の刃となっていた。
街の一角、幅広の通りに数台の馬車が停まっていた。
乗合馬車から、個人所有の馬車までが集うこの場所は、公共の馬車停留所だった。
そして、乗合馬車を待つ人々がベンチに腰掛ける前を、一組の男女が歩いていた。
太った中年の男と、つややかな黒髪の若い女だ。若い女は、この街では珍しい東方系の平坦な顔立ちであり、彼女がジパングの出身であることを示していた。
「ちょっと…もう少し、ゆっくり…」
中年の男が歩調を落としながら、呼吸も荒く女にそう声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
女は心配した様子で足を止め、男の背中をさすった。
「すまない…机仕事や馬車での移動ばかりで、足がどうも…」
「運動不足ですね…これからは気をつけませんと」
男の呼吸を落ち着かせながら、女はちらりと後ろを見た。
すると、二人の数十歩は後ろを歩いていた禿頭の男が、馬車待ちの行列に身を滑り込ませた。
女は、禿頭の男に見覚えがあった。クノイチである女に、アスーム・ムジャの『暗殺』を依頼した二人組の片方だ。だが彼女は、夫、アスームの背中をさすりながら続けた。
「ジパングまではしばらくかかります。私の両親に会うまでに、少しずつ身体を馴らして行きましょうね」
女は尾行に対して特に反応しないことにした。もうすぐムジャ所有の個人馬車に乗るうえ、港に出ればムジャの船でジパングまで向かう。
それに、多少の襲撃があったところで、暗殺技術も未熟な組織の刺客ならば、クノイチである彼女は楽に防ぐことができる。
「ありがとう…落ち着いたよ…」
額に汗を滲ませながら、ムジャは丸めていた背筋を伸ばした。
「それでは、もう少しゆっくり参りましょう」
夫の手を取りながら、彼女は微笑んだ。船の出航まで十分余裕はある。
周囲を警戒しながら、彼女は夫の歩調に合わせて歩きだした。
人の声に混ざり、背後から行列を離れる足音が一つ響く。
前を中心に視線を左右に巡らせるが、馬車待ちと思われる身なりの良い男女一組と、その向こうでベンチに腰掛る帽子を目深に被った白いドレスの女ぐらいしかいない。クノイチの目に不審な者は映らなかった。
背後に意識を向けるが、禿頭の男は二人から付かず離れず、距離と速度を維持したままゆっくりと歩いているだけだった。
ムジャの馬車までもう少し。一番注意を向けるべき相手は、馬車の御者ぐらいか。
クノイチはそう判断しながら、身なりの良い男女の脇を通り抜けた。
(でも、背後の禿頭の男の目的は…?)
足を進めながら、クノイチは胸中で自問した。
依頼の時点では、クノイチの暗殺技術を学びたいなどと言っていたが、結局彼女に追いついたのは一人だった。
概ね、一人が寝室に追いついた程度では、暗殺技術を学ぶことなどできなかったのだろう。
だとすると禿頭の男は、暗殺技術を学ぶために彼女の一挙一動を監視する役割をしているのだろう。
そして、暗殺に関わる技術を出させるため、何らかの襲撃があるかもしれない。
(金で雇ったゴロツキか、傭兵か、それとも…)
白いドレスと帽子の女を斜め前方に見ながら、襲撃について考えていると、不意に二人の前方から風が吹いた。
その瞬間、クノイチの目が見開かれた。
「っ!」
クノイチはとっさに、手を取っていた夫を突き飛ばした。
「うぉ!」
突然の彼女の行動に、ムジャが声を上げながら道の上に転げる。そして、彼の声に辺りにいた人々が、クノイチに目を向けた。
二人の背後の身なりの良い男女は驚きに目を見開き、白いドレスと帽子の女はベンチから立ち上がりつつあった。
クノイチはその場に屈みこむと、スカートの裾から自身のすねに手を伸ばし、皮のベルトで左右の脛に巻き付けていたジパング特有の短剣、クナイを両手に引き抜いた。
そして、屈んだ姿勢から立ち上がる勢いを利用して地面を蹴り、帽子を目深に被った白いドレスの女に躍りかかった。
下段から、斬りあげるクノイチのクナイに、女は背後から手をかざした。
直後、鈍い金属音が辺りに響いた。
「まさか、気がつかれるとは…」
帽子の下、女にしては不自然に幅広な肩の上で、男が静かな声で呟いた。
髭を剃り落としているが、よくよく見れば禿頭の男と共にクノイチに依頼をし、寝室まで追いついた男、ジファーだった。
ジファーは、ベンチと尻の間に隠していたと思しき大ぶりのナイフで、クノイチのクナイを受け止めていた。
「…今の今まで、全く、気付きませんでしたよ…」
クナイを一度引き、夫を守るためクノイチは跳躍して退いた。
白ドレスを纏ったジファーは帽子を脱ぎ捨てながら、屈めていた腰をまっすぐにのばし、ベンチから完全に立ち上がった。
ベンチに腰掛け、肩をすくめることで体型をごまかしていたらしく、こうして立って見るとやはり完全に男だった。
「……」
彼は一瞬クノイチを一瞥してから、ゆらりと身体を揺らし、彼女に向けて直進して上段からナイフを振り下ろした。
クノイチはクナイをかざし、迫りくるジファーのナイフを弾き、逸らす。
ジファーはナイフに全体重を乗せていたためか、クノイチが軽く攻撃をいなしただけで、彼女の傍らに転倒した。いや違う、わざと転げたのだ。
腕を丸め、転倒しつつも無理やり前転に持ち込み、彼女の脇を通り抜ける。クノイチの背後にいるのは、夫のムジャだ。
「く…!」
ジファーの狙いを一瞬忘れてしまっていたことを悔やみながら、彼女は左右の手に握るクナイを、ジファーに向けて投げ放った。
前回り受け身を取り、姿勢を整えつつあったジファーの腕と太ももに、クナイが突き刺さる。
「ぐ…!」
ジファーの口から苦しげな声が溢れるが、手に握るナイフはこぼれず、彼が倒れることもなかった。
しかし、痛みによるものか一瞬男の動きが止まり、ジファーの視線がムジャからクノイチに向けられる。
「……」
「……」
ナイフはあるものの手足を負傷したジファーと、クナイを失ったクノイチの視線が交錯した。
「…参り、ました…」
しかし、ジファーの口から紡がれたのは、敗北を認める言葉だった。
「待ち伏せを見破られ、襲撃の先手を取られ、手負いとなった今、私は暗殺者として完全にあなたに敗北しました…」
一片の口惜しさもにじませず、地面に血液を滴らせながら、ジファーが続ける。
「ですが、どうか最後に…なぜ私の待ち伏せに気が付いたのか…それを教えていただきたいのです…」
少しだけ、ほんの少しだけ言葉を震わせながら、彼はそうクノイチに問いかけた。
「…あなた達が暗殺の前に吸う、ハシシの香りがしたからよ…」
ベンチに腰掛けるジファーから、風に乗って届いた甘ったるい香り。
一陣の風がなければ、クノイチもジファーに気が付けなかっただろう。
「なるほど…我らが最大の武器だと思っていた物が、我々の足を引っ張っていたわけですか…」
薬物の効果により、感情の揺らぎが極限まで抑え込まれているはずにもかかわらず、ジファーは自嘲気味に笑った。
「ははは…ご教授、ありがとうございました…!」
ジファーはナイフを掲げると、高らかに続けた。
「グリーカ・ルファベト万歳!」
そして、自身の胸に彼はナイフを振り下ろした。
肉厚の刃が白いドレスの胸元を貫き、胸板に食い込む。
「しまっ…!」
胸元にジワリと赤い染みを広げながら、ジファーはその場に倒れ伏した。
そして、クノイチは一度背後を振り向き、野次馬にまぎれて目を見開く禿頭の男を睨みつけてから、ジファーの下へ駆け寄った。
数日後、屋敷の奥の一室で、師長は机に向かっていた。
だが、書類仕事をするわけでもなく、彼は頭を抱えているだけだった。
それもそのはず、ジファーが命と引き換えに手に入れた情報が、『ハシシを使うこと自体が時代遅れ』という物だったからだ。
恐怖心を消し去り、集中力を高めるハシシの煙こそが、グリーカ・ルファベトの最大の武器だったと言うのに、これからどうすればよいのだろう。
師長の脳裏をめぐっていたのは、その疑問ばかりだった。
「考えても仕方ない…とりあえず、表の仕事だ…」
グリーカ・ルファベトが隠れ蓑として使っている、表の稼業を進めるため、師長は届けられていた書類や手紙のチェックを始めた。
しかし、彼の手が封筒の一つを手に取ったところで止まった。
「これは…」
封筒の宛名に並ぶ文字に、師長は見覚えがあった。
だが、まさか。
脳裏に浮かんだ可能性が実現しないよう祈りながら、師長は封筒を破り、便箋を取り出した。
そして、一心に並ぶ文字を読んでいく。
すると、師長の表情に驚きが浮かび、それが徐々に怒りに塗りつぶされていく。
「生きて、おったか…!」
便箋を握り、ぶるぶると手を震わせながら、彼は声を上げた。
「おのれイム・ジファーめ!生き恥を晒しおって!」
手を負傷していたおかげで自害しそこない、二十一人目になったというジファーの手紙に、師長はやり場のない怒りに身体を震わせた。
レスカティエには劣るものの、それなりに規模は大きい。
そして街の一角、大きな屋敷が並ぶ区域に、広々とした屋敷があった。大きな窓をいくつも備え、風通しを良くしたその造りは、砂漠の国でよく見られる様式だった。
屋敷の庭や、庭に面した部屋や廊下には、目つきの鋭い男が要所要所に立っている。どうやら、身分ある人物の邸宅のようだ。
しかし屋敷の奥に進むと見張りの姿はなくなり、代わりに妙に甘ったるい匂いが立ちこめていた。
屋敷のほぼ中心部、どの窓や入り口からも離れた一室に入ると、四人の男がいた。
三人は円筒形の容器を囲んで座っており、容器から延びるチューブを口に咥えていた。子供の背丈ほどの容器の蓋からは、か細く甘ったるい匂いを放つ煙が立ち上っている。
そして、三人から少し離れたところで、もう一人の男が彼らを見ていた。ひげを生やし、精悍な顔つきをした若い男だ。
男は、三人が容器から煙を吸っては吐き出すのを見つめていたが、ふと彼らの向こうに目を向けた。
そこには祭壇のようなものが設けられており、その上に小さな像が一体乗せてある。一般的によく見られる聖人像ではなく、探検を片手に握った男の像であった。
「どうだ?」
不意に部屋の入り口から声がかかり、男がそちらに向き直ると、ちょうど壮年の男が一人入ってくるところだった。
裕福な商人然とした装いだが、首には教団のシンボルが下げてあり、彼が教団関係者であることを示していた。
「はい、もうすぐ『出来上がる』かと」
「そうか」
壮年の男は彼の言葉に頷いた。
「今度こそ失敗は許されぬぞ」
「心得ております」
若い男はそう頷くと、三人の方に歩み寄った。
「もういいだろう。立て」
「はい…」
三人の男は、口に当てていたチューブを床に置くと、立ち上がった。
「師長さまの前に立て」
「はい…」
三人は、一瞬よろめきながらも容器の傍を離れ、壮年の男の前に並んだ。
「お前たちは正義の者か?」
「私達は正義の者です」
師長の言葉に、三人が口をそろえて答えた。
「お前達の正しさは何によって証明される?」
「私たちの正しさは主神教団、暗殺団グリーカ・ルファベトの一員であることによって証明されます」
「主神教団の正義の証は?」
「主神への信仰と、天より吊るされた糸のごときまっすぐな行いこそが証です」
「お前達の手には何がある?」
「祝福された聖なる短剣です」
「お前達はそれで何をしようとしている?」
「魔に屈し、主神に仇なす愚かなる裏切り者、アスーム・ムジャの抹殺です」
「よろしい。行って来い」
「はい」
三人の男は、部屋の入口に向けて駆け出して行った。
壮年の男と、髭の若者は、彼らを静かに見送った。
『ベドラムを出た後は手の震えも完全に治まり、妻と完治を喜びました。今はポローヴェの一角に部屋を借り、妻と暮らしています。
ポローヴェに御用の際は、是非お立ち寄りください。夫婦ともども、歓迎いたします』
「ええい、またか!」
広げられた便箋を、机に叩きつけながら壮年の男は声を荒げた。
三人の男を放って一月過ぎたところで、手紙が届いたのだ。手紙の内容は、暗殺には失敗したが、伴侶を手に入れ幸せに暮らしている、と言う物だった。
「まさか、三人とも一度に敗れるとは…」
「三人には別々ルートで対象に接近するよう命じていたのですが…」
師長の机の上の、三通の手紙を見ながら、髭の若い男はそう続けた。
「一体何が起こっている?これで六度目、二十人の優秀な暗殺者が、魔物どもに敗れたのだぞ!?教団の秘密の刃、暗殺団の精鋭が、二十人も!」
苛立ちも露わに、師長は声を上げた。
すると、部屋のドアからノックの音が響き、ドアが薄く開いた。
「失礼します…」
頭を剃りあげた若い男が、ドアから禿頭を覗かせた。
「なんだ?」
「六幹部の方が揃いました。皆さま師長をお待ちです」
「そうか、そんな時間か。ジファー、行くぞ」
「はっ」
壮年の男は若い男、ジファーに声を掛け、席を立った。
ジファーは机の手紙を手早くまとめると、師長に続いて部屋を出た。
そしてしばし二人は廊下を進み、広間に入る。広間には長いテーブルが一台置いてあり、既に六人の男が腰を下ろしていた。
男達はいずれも、中年から初老に足を踏み入れたほどの年代で、商人風から軍人、あるいは傭兵風まで様々な格好をしていた。
「諸君、遅くなってすまない。よく集まってくれた」
師長は六人の男に向けて労いの言葉を口にすると、テーブルの空いた席に腰を下ろした。
「堅苦しい挨拶は抜きにして、本題に入ろう。諸君らもご存じのとおり、魔物どもに教区の街が陥落されている。これが、単に攻め入って滅ぼされたのならばまだ納得がいく。問題なのは、信徒が嬉々として主神を裏切り、魔物に寝返っていることだ」
嘆かわしい、といった様子で師長が首を左右に振ると、六幹部もそれに頷いた。
「教団の調査の結果、どうも魔王に寝返った街には、魔物の好む食物や魔力の込められた装飾品が多く運び込まれていたことが分かった。卑怯にも魔物どもは、裏切り者の商人であるアスーム・ムジャを抱き込んで、ゆっくりと侵略していたらしい。そこで教団上層部は、秘中の秘である我々に、報復としてムジャの暗殺を命じたのだ。だが…ジファー」
「はっ」
ジファーは師長の言葉に、手に持っていた手紙を取り出し、数枚ずつ六人の幹部に手渡していった。
「これまでに六度、二十人の精鋭を送り込んだが、一人残らず返り討ちにあった。これで死体が送られてくるのならば、まだ死地に赴いた彼らも浮かばれるだろう。だがこともあろうに魔物どもは、彼らを洗脳し、魔物を妻として当てがって、幸せに暮らしているなどと言うふざけた手紙を送りつけて来たのだ」
「なんと…」
「そんなことが…」
ジファーによって配られた便箋に目を走らせ、口々に声を漏らす。
「教団上層部でもごく一部の者しか知られず、影から教団を守る刃であった我々グリーカ・ルファベトが、商人一人仕留められずにいる!今回集まってもらったのは、この異常事態を以下にして解決するか、知恵を出してもらうためだ」
師長は六人の幹部をぐるりと見まわしてから、続けた。
「何か、妙案はないだろうか?」
しかし、幹部達から返ってきたのは、重い沈黙だった。
「諸君、今の今まで何も知らなかった、わけではないのだろう?グリーカ・ルファベトの六幹部が、まさか今の今まで何も考えていなかった、と言うわけではあるまい」
黙する六人に、師長はそう求めた。
しかし、にわかに妙案が浮かぶはずもなく、六人の男達は沈黙を返す他何もできない。
「ええい、それほど困難な事態なのか、我々が無能なのか…」
「あの、よろしいですか?」
苛立つ師長に、ジファーが小さく手を上げた。
「なんだ?」
「私にこの場で発言権がないのは、重々承知していますが、一つ思いついたことがありまして…」
「構わん。こうして七人が雁首そろえても、ほとんど何の案も出ないのだ。今回は位階に関わりなく、自由に発言をすることを認めよう」
「ありがとうございます」
ジファーは一礼した。
「今回の、送り込んだ暗殺者がことごとく返り討ちにあった原因としては、失礼を覚悟で言わせていただきますが、我々のやり方が時代遅れになったのではないか、と考えられます」
「時代遅れ?」
「連綿と続く暗殺の技術が時代遅れとは、何と言うことを…」
「まあ待ちたまえ、最後まで聞いてみようじゃないか」
ジファーの言葉に色めき立つ幹部を、師長は押しとどめた。
「ありがとうございます、師長。魔王の交代に伴う魔物の変化により、魔物が変化したことは皆さんご存じのはずです。全ての魔物が人めいた姿を取り、知恵を手に入れたと聞きます」
六幹部は頷いた。
「恐らく、この変化により魔物どもは新たなる戦闘技術を獲得し、昔ながらの手法に囚われている我々が対応できていないのではないのでしょうか」
彼は一度言葉を切ると、六幹部と師長を見回して続けた。
「そこで、私は新たな暗殺技術の開発、獲得を提案します」
「確かに、我々も技術革新は必要だ」
「しかし、どうやって技術獲得をするんだ?一朝一夕に思いつく物でもないのだろう」
ジファーの提案に、六幹部がそう口にする。
確かに、今現在暗殺団で用いられている技術、ナイフに塗る毒から尋問術まで、全ては長い期間を掛けてコツコツと積み上げて来たものだ。
「ご安心ください。既に、技術革新のための方法は考えております」
自分の提案が、無責任な思いつきでないことを六幹部に説明する。
「異国の暗殺組織に、ムジャの暗殺を依頼するのです。そして、我々は彼らの暗殺技術を学びとるのです」
「他の組織に依頼!?」
「既にあたりは付けています。ジパングのニンジャと呼ばれる一団で、連絡方法も確保してあります」
「しかし、そんな恥知らずな…」
「だが他に方法があると言うのか?」
六人の幹部が言葉を交わし、ジファーの提案をベースにどうにか活路を見出そうとする。
しかし、いくら言葉を交わせども、ジファーの物以上の案は出なかった。
「さらなる妙案があると言う者は、今この場で発言せよ」
六幹部の言葉が途切れた瞬間、師長がそう口を開いた。しかし、口を開く者はいなかった。
「どうやら、今回はジファーの案に乗らざるを得ないようだな…」
師長はそう呟くと、ジファーをまっすぐに見つめながら続けた。
「では、イム・ジファー師範。そなたにアスーム・ムジャの暗殺を、ジパングのニンジャを用いて実行することを命じる」
「かしこまりました」
「そなたの正義に、主神の加護の有らんことを」
「グリーカ・ルファベトに主神の加護のあらんことを」
ジファーはそう七人に返すと、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
数日後、とある町の一角に、ジファーと禿頭の男の姿があった。
二人とも商人風の衣装を纏い、どこか緊張した面持ちで、何かを待っていた。
「しかし、ジファー師…その、ニンジャというのは本当に現れるのでしょうか…?」
禿頭の男が、微かな不安を滲ませながらそうジファーに尋ねる。
「ジパングの暗殺組織だと言うのに、新聞に広告を出すぐらいで…」
「現れる。なぜならこの街に、すでに彼女らの支部があるからだ」
「彼女…?」
禿頭の男が、ジファーの言葉に声を漏らした。
「実は、ニンジャとの連絡手段は幾つか確保していたつもりだったが、どこもクノイチと呼ばれる女のニンジャとしか通じなかったのだ」
「なるほど、それで…」
禿頭の男は頷いた。
「クノイチが現れても、動揺を見せるな」
「了解しました」
「打ち合わせは終わりかしら?」
二人が言葉を交わしたところで、不意に横から声が掛けられた。
「っ!?」
一切の気配を放たず、声だけが現れたことに、二人の暗殺者は思わず声をあげそうになった。
「ジパング産包丁の買い取り広告を出してくれた、ジファル・イマー?」
二人の視線の先に立っていたのは、砂漠の民族のような白い衣装とフードを被った女だった。
「ああ、そうだ…ムラマサ文化包丁を九本とキテツ果物ナイフを一本、用意できるか?」
ジファーは女の問いかけに応え、取り決めてあった言葉を口にした。
「ええ、今すぐにでも…仕事の話に入りましょうか」
フードの女はやり取りを確認すると、フードを下ろした。
すると、ジパング人特有の黒髪が白い布の下から溢れだした。しかし同時に、髪の間から覗く妙にとがった耳も、二人の暗殺者の前に晒された。
「あ…」
「標的は、行商のアスーム・ムジャだ。奴をあなた方の流儀で『暗殺』してほしい。ストレートにいえば、妻を亡くして長いあの男に、新しい嫁をプレゼントしてほしいのだ」
禿頭の男が何かを言う前に、ジファーは女に向けて言った。
ジファーの言葉に、禿頭の男はますます混乱し、パクパクと口を開閉するばかりになった。
「ふむ…ムジャは私も知っているけど…彼は親魔物派じゃないかしら?」
「確かにそうだ。あの男はあちこちの街に、魔力の籠った品を卸している。しかし、奴が教団の関係者と金品のやり取りをしていた、という事実もある」
これは事実だ。ジファーと禿頭の男は直接関わっていないが、ムジャが圧倒的に有利になる商取引を、教団を通じて行ったのだ。
多少調べれば、教団からムジャに献金したように見えるだろう。
「我々としては、ムジャが確実に『こちら側』であるという証が欲しい。だから、あなた方に彼の『暗殺』を依頼したいのだ…」
「ふむ…」
女は口元に手を当て、しばし考え込んだ。
「…分かったわ。ムジャが独り身を貫いてきた理由も含めて下調べをして、仕事に取り掛かるとするわ」
「それはありがたいが、後もう一つあるんだ」
やや申し訳なさそうに、ジファーは女に続けた。
「こうして会う前に、既に下調べしているとは思うが、我々は教団にとって不都合な連中を暗殺する部署にいる。だが、時代と共に忘れ去られ、今の時代では幹部も組織も隠れ蓑の商取引ばかりが主軸になりつつあるんだ」
「ふぅん…」
何か思うところがあるのか、女が目を細める。
「もはや教団が忘れ去ってしまったのならば、我々も仕え続ける義務はない。そこで、魔物の手下として働くことにしたのだが、我々の技術は既に時代遅れだ。だから、あなた方ニンジャの技術を見学させてもらって、胸を張れる技術を身につけたいのだ」
「…残念ながら、仕事の現場を他人に見せたりはしないわ」
女は小さく首を振った。
「でも…あなた達が勝手に私についてくるのは、止めたりしないわ」
「それは、助かる」
ジファーが表情を緩ませた。
「ムジャについて裏が取れたら、連絡するわ。報酬はその時に」
「分かった」
ジファーが頷くと、女は再びフードを被った。そして、二人に背を向けて通りの向こうへと歩き出した。
「ジファー師…先ほどの話は…?」
女の姿が見えなくなったところで、禿頭の男が小声で、ジファーにも届くかどうかといった大きさの声で尋ねた。
「全てではないが、事実だ。彼女達ニンジャ…クノイチは依頼人の嘘を許さない」
「しかし、我ら暗殺団が魔物共に寝返るなどと…」
「そう言ったのは私だ。罰せられるとしたら、私だけだ」
ジファーは女が立ち去ったのとは別の方向に向き直ると、歩きだした。
「さあ、戻るぞ」
禿頭の男は、遅れてジファーについて行った。
数日後、広く人の目には触れるが符丁を知らぬ者にはただの宣伝にしか見えない新聞広告で、クノイチが依頼を引き受けたことと、報酬の支払い方法をジファーに伝えた。
ジファーは指定された方法で、報酬を支払い、師長に契約成立の旨を報告した。
そして更に数日後の夜、アスーム・ムジャの屋敷を屋敷を臨む住宅街の一角に、一つの影が舞い降りた。
建物の屋根に屈んでいるのは、黒い衣装に身を包み、黒髪を夜風になびかせる女の姿だった。
彼女は月に照らされるムジャの屋敷を見つめ、侵入経路を探っていた。
「お待ちしていました、先生」
黒装束の女が、横からかかった声に身体を小さく跳ねさせた。太ももに差していた、ごく短い短剣のような刃物を引き抜きつつ振り返ると、屋根の縁に黒い影が三つ立っていた。
「…」
「失礼しました、ジファル・イマーです」
ジファーは偽名を名乗りながら、顔を覆っていた布を外し、女に顔を晒した。
「約束通り、我々で勝手に先生の仕事を見学させてもらいます」
「……そうだったわね…」
見学の条件込みで依頼を受けたことを思い出したのか、女は覆面の下で小さく表情を変えた。
「それで…なぜここが…?」
見学する代わりに、とばかりに彼女はジファーに問いかけた。
「この場所は、ムジャの屋敷を見るのに最も適した場所です。ですからここで待っていれば、いずれ先生が現れるのではないかと」
「……」
女はジファーの言葉に、静かに納得した。
「それでは、私とこの二人で見学いたします。お邪魔はしませんので、どうかご自由に」
彼女はため息をつくと、ジファーから視線を離し、屋根から跳躍した。
彼女の身体は軽々と屋根と屋根の間を舞い、隣家の屋根に着地すると同時に、ムジャの屋敷に向けて駆け出した。
「行くぞ」
「はい」
ジファーの呼びかけに二人が低く応え、三人は遅れてクノイチの後を追った。
助走を付けて屋根の縁から跳ぶが、飛距離は彼女ほどなかった。ジファー達もある程度訓練を積んでいるとはいえ、さすがに魔物の脚力にはかなわない。
跳躍と疾走を繰り返すうち、少しずつ三人と一人の距離は開いて行く。
「お前達は、下からムジャの屋敷に先回りしろ。私はこのまま追う」
「了解しました」
二人の男が、ジファーの言葉に頷き、屋根から屋根へ飛び移る際に道へと飛び降りていった。
そしてジファーは、やや遅い二人が居なくなったことで、一気に速度を上げた。建物一軒分以上、もうすぐ二軒分は引き離されようとしていたクノイチとジファーの距離が、徐々に詰まっていく。
すると、二人の前にこれまで駆け抜けて来た建物より高い家屋が聳えていた。最低でも一フロア分は高く、ただ跳躍して屋根に飛び移ることは出来そうにない。
「……」
クノイチはちらりと背後のジファーを一瞥すると、建物の縁に達した瞬間、両脚をたわめて高く跳躍した。
彼女の身体は軽々と宙を舞い、建物の屋根の上に着地した。
「なるほど…もう少し鍛える必要があるな…」
クノイチの身体能力に舌を巻きながら、ジファーは懐から鉤の付いたロープを取り出した。鋼線をより合わせて作ったロープを小さく回転させ、勢いをつけて鉤ごと投擲する。まっすぐ前方ではなく、やや斜めにだ。
彼の放った鉤は建物の屋根の縁に引っ掛かり、軽い手ごたえをロープからジファーに伝えた。
そして、彼は建物の縁から跳躍した。一瞬の浮遊感ののち、彼の両脚が建物に触れる。壁面にだ。手の中のロープを握りしめ、彼は壁を駆けのぼった。大きく弧を描きながら、彼の身体は壁面を上り、やがて屋根の上に降り立つ。同時に、屋根の縁から外れた鉤を、ロープごと手元に手繰り寄せた。
「ほう…」
屋根の半ばまで達していたクノイチが、ちらりと振り返りながら小さく声を漏らす。
どうやら彼女の想像以上に、ジファーが動けたことに感心しているらしい。
やがて二人は、いくつかの家屋を駆け抜け、ついに屋敷を囲む塀の内側に飛び込んだ。
「……」
庭の植え込みの間からジファーが左右に目を巡らせると、数人の見張りが立っているのが見えた。無理もない。六度も暗殺者を送り込んだから、警備が厳重になっているのは当たり前だ。しかし、彼らの間に緊張感はそこまでなかった。どうやら、連日の警戒態勢で疲労しているらしい。
このまま植え込みに隠れていれば、見張りを数度やり過ごすこともできるだろう。しかし、それではムジャの下まで行くことは出来ない。
(さて、どう動く…?)
ジファーがクノイチの様子をうかがっていると、彼女は見張りの視線が逸れた瞬間、植え込みを飛びだし、建物の壁面に駆け寄った。そして、平らなはずの壁面をするすると登って行き、窓の一つから建物の中に入った。
「なるほど、ああやって入るのか…」
グリーカ・ルファベトでは、変装して侵入を試みていた。正々堂々と玄関や裏口から入ろうとすれば、多少のチェックはあるが、切り抜けられるだろうと考えていた。しかし、この辺りも見直す必要がありそうだ。
ジファーはしばしの間、繁みの間に身をひそめ、見張りが通り過ぎるのを待った。
そして、クノイチに遅れて彼も飛び出すと、建物に駆けより支柱の凹凸に指を掛けて這い登って行った。
男は窓から建物の中に転げこむと、脳裏に建物の見取り図を思い浮かべながら、ムジャの寝室目指して進み続けた。
やがて、ジファーはムジャの寝室の前に至る。柱の陰に身をひそめ、通路を伺うと、寝室の扉が薄く開いているのが見えた。
見張りは、扉の左右に崩れ落ちている。
「死んで…いないな」
薄く上下する見張りの胸に、二人がただ眠っていることをジファーは悟った。辺りの空気に甘いにおいが微かに残っているところを見ると、催眠性の香か何かを焚いたのだろう。
ジファーは懐から布を出すと、口元を覆って寝室に歩み寄った。
布越しの甘い香りを極力吸わぬよう、呼吸を低くしながら、そっと薄く開いた扉を覗きこんだ。すると、上等そうな大きなベッドの上で、重なり合う二人分の人影が見えた。
寝室の闇は色濃いものであったが、一つがすらりとした女の影で、もう一つが肥満した男の影であることは容易に分かった。先に屋敷に入ったクノイチと、アスーム・ムジャだ。
クノイチ達の『暗殺』方法については、彼女達の正体と共にある程度知識があったため、ジファーにそこまでの驚きはなかった。
だが、ジファーにとって最大の驚きであったのは、自身も含めてクノイチが容易にムジャのところまで到達できたことだった。
「一体なぜだ…」
ジファーは口中で低く呟くと、寝室の扉から顔を離した。
ジファーに興味があったのは、あくまでクノイチの暗殺技術だ。寝室の技術などどうでもいいし、のぞき見する趣味はない。
「しかし、なぜ…?」
自分はこうして容易にムジャの寝室にたどり着けたのに、過去六回の暗殺者は失敗したのか。
ジファーの胸中に疑問符が渦を描く。
だが、いつまでもこの場で考え込んでいる暇はない。この場は退くとしよう。
脱出ルートを脳裏に思い描きながら、彼は二人の見張りを残したまま、寝室から遠ざかって行った。
「それで、結局分かったことは、『分かりませんでした』か?」
ジファーの報告に、師長は拳で机を叩いた。
「異国の暗殺組織に頭を下げて、大金を支払い、標的のすぐ目の前まで近づいておきながら、『分かりませんでした』だと…!?」
「言い訳のしようもありません…」
ジファーは師長の叱責に、ただそう応えるほかなかった。
「それで、この始末はどうつけるつもりだ?六幹部の前で大見得を切っておきながら、アスーム・ムジャは生きており、最新の暗殺技術の習得もできなかった。この始末は、どうつける?」
「……暗殺団のおきてに従い、私の命を持って贖います…」
搾りだすように、ジファーはそう口にした。
「しかし、今ひとたびチャンスを下さい!」
「なんだ?この期に及んで命乞いか?」
心底不機嫌そうな視線をジファーに向けながら、師長がそう尋ねる。
だがジファーは、師長の視線を浴びながら、まっすぐな声音で続けた。
「私自身が、暗殺団の技術を持ってムジャの暗殺を図り、一体何がいけなかったのかをこの身を持って吟味します!」
「ジファー、お前…」
師長の目が、驚きに見開かれた。
「お願いします!この命を持って今回の失敗を贖うのならば、暗殺団の未来の礎となるよう捧げたいのです!」
「……」
命乞いの言葉ばかりを予想していた師長は、しばし考え込んだ。
「……よかろう…」
間をおいて、師長が口を開く。
「主神と暗殺団グリーカ・ルファベトの掟に置いて、イム・ジファーに命ずる。裏切り者の商人、アスーム・ムジャを主神の御前へ送り、正当なる裁きを与えよ」
「はっ!」
ジファーは短く、しかし力強く応えた。
屋敷のほぼ中心部、どの窓や入り口からも離れた一室に、二人の男がいた。
一人は円筒形の容器を前に座っており、容器から延びるチューブを口に咥えていた。子供の背丈ほどの容器の蓋からは、か細く甘ったるい匂いを放つ煙が立ち上っている。
そして、彼から少し離れたところで、もう一人の壮年の男が彼らを見ていた。
「アスーム・ムジャは、最近結婚した女と旅行に出るらしい」
壮年の男、師長がチューブを咥え、煙を吸い込むジファーにそう話しかける。
「護衛もつけず、二人で乗合馬車に乗り、ジパングへ向かうそうだ。どうも妻の実家に向かうつもりらしい」
ジファーは師長の言葉に応えず、耳だけで聞いていた。
今このとき、ジファーがすべきことは、師長の言葉に応えるのではなく、煙を吸うことだからだ。数種類の乾燥した薬草を燻し、煙を水にくぐらせたハシシと呼ばれる物を吸う。
その煙は、人の思考を鋭く研ぎ澄ませ、その一方で感情による揺らぎを極力抑え込んでしまう、ちょうど酒と正反対の効能を持っていた。
このハシシの煙こそ、暗殺団グリーカ・ルファベトにおいて最古の、そして最高の暗殺技術に関わる発明であった。
「暗殺のタイミングはお前に任せるが、暗殺の瞬間はこやつに見届けさせる」
すると師長の傍らに、男が一人歩み寄った。禿頭の男だ。彼は師長とジファーに一礼すると、姿勢を正した。
「お前の暗殺技術の全てを持って、ムジャに挑むがよい」
師長がそう告げると同時に、ジファーが口元からチューブを離した。
彼の意識は鋭く研ぎ澄まされており、彼の内側に感情の揺らぎはほとんどなかった。
ジファーはチューブを置いて立ち上がると、師長の前へ移動した。
「お前たちは正義の者か?」
師長が、幾度も繰り返した質問を、ジファーに放った。
「私は正義の者です」
師長の言葉に、ジファーはこれまで数度応えたことのある返答をした。
「お前の正しさは何によって証明される?」
「私の正しさは主神教団、暗殺団グリーカ・ルファベトの一員であることによって証明されます」
口に出した言葉が耳から入り、ジファーの意識に染み込んでいく。
「主神教団の正義の証は?」
「主神への信仰と、天より吊るされた糸のごときまっすぐな行いこそが証です」
そう。自分の信じて来たことと、自分の成すことが正しい。ジファーは自身に言い聞かせた。
「お前の手には何がある?」
「祝福された聖なる短剣です」
実際のところ、手の中に短剣はない。だが、短剣とはジファーの持つ暗殺技術のことであり、主神の後ろ盾を得た正当な者である。
「お前はそれで何をしようとしている?」
「魔に屈し、主神に仇なす愚かなる裏切り者、アスーム・ムジャの抹殺です」
今までに六度、二十人の暗殺者たちが繰り返した言葉を、ジファーは繰り返した。
「よろしい。行って来い」
ジファーは踵を返すと、まっすぐに歩きだした。
その歩調に、揺れは一切ない。ジファーは今、一本の刃となっていた。
街の一角、幅広の通りに数台の馬車が停まっていた。
乗合馬車から、個人所有の馬車までが集うこの場所は、公共の馬車停留所だった。
そして、乗合馬車を待つ人々がベンチに腰掛ける前を、一組の男女が歩いていた。
太った中年の男と、つややかな黒髪の若い女だ。若い女は、この街では珍しい東方系の平坦な顔立ちであり、彼女がジパングの出身であることを示していた。
「ちょっと…もう少し、ゆっくり…」
中年の男が歩調を落としながら、呼吸も荒く女にそう声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
女は心配した様子で足を止め、男の背中をさすった。
「すまない…机仕事や馬車での移動ばかりで、足がどうも…」
「運動不足ですね…これからは気をつけませんと」
男の呼吸を落ち着かせながら、女はちらりと後ろを見た。
すると、二人の数十歩は後ろを歩いていた禿頭の男が、馬車待ちの行列に身を滑り込ませた。
女は、禿頭の男に見覚えがあった。クノイチである女に、アスーム・ムジャの『暗殺』を依頼した二人組の片方だ。だが彼女は、夫、アスームの背中をさすりながら続けた。
「ジパングまではしばらくかかります。私の両親に会うまでに、少しずつ身体を馴らして行きましょうね」
女は尾行に対して特に反応しないことにした。もうすぐムジャ所有の個人馬車に乗るうえ、港に出ればムジャの船でジパングまで向かう。
それに、多少の襲撃があったところで、暗殺技術も未熟な組織の刺客ならば、クノイチである彼女は楽に防ぐことができる。
「ありがとう…落ち着いたよ…」
額に汗を滲ませながら、ムジャは丸めていた背筋を伸ばした。
「それでは、もう少しゆっくり参りましょう」
夫の手を取りながら、彼女は微笑んだ。船の出航まで十分余裕はある。
周囲を警戒しながら、彼女は夫の歩調に合わせて歩きだした。
人の声に混ざり、背後から行列を離れる足音が一つ響く。
前を中心に視線を左右に巡らせるが、馬車待ちと思われる身なりの良い男女一組と、その向こうでベンチに腰掛る帽子を目深に被った白いドレスの女ぐらいしかいない。クノイチの目に不審な者は映らなかった。
背後に意識を向けるが、禿頭の男は二人から付かず離れず、距離と速度を維持したままゆっくりと歩いているだけだった。
ムジャの馬車までもう少し。一番注意を向けるべき相手は、馬車の御者ぐらいか。
クノイチはそう判断しながら、身なりの良い男女の脇を通り抜けた。
(でも、背後の禿頭の男の目的は…?)
足を進めながら、クノイチは胸中で自問した。
依頼の時点では、クノイチの暗殺技術を学びたいなどと言っていたが、結局彼女に追いついたのは一人だった。
概ね、一人が寝室に追いついた程度では、暗殺技術を学ぶことなどできなかったのだろう。
だとすると禿頭の男は、暗殺技術を学ぶために彼女の一挙一動を監視する役割をしているのだろう。
そして、暗殺に関わる技術を出させるため、何らかの襲撃があるかもしれない。
(金で雇ったゴロツキか、傭兵か、それとも…)
白いドレスと帽子の女を斜め前方に見ながら、襲撃について考えていると、不意に二人の前方から風が吹いた。
その瞬間、クノイチの目が見開かれた。
「っ!」
クノイチはとっさに、手を取っていた夫を突き飛ばした。
「うぉ!」
突然の彼女の行動に、ムジャが声を上げながら道の上に転げる。そして、彼の声に辺りにいた人々が、クノイチに目を向けた。
二人の背後の身なりの良い男女は驚きに目を見開き、白いドレスと帽子の女はベンチから立ち上がりつつあった。
クノイチはその場に屈みこむと、スカートの裾から自身のすねに手を伸ばし、皮のベルトで左右の脛に巻き付けていたジパング特有の短剣、クナイを両手に引き抜いた。
そして、屈んだ姿勢から立ち上がる勢いを利用して地面を蹴り、帽子を目深に被った白いドレスの女に躍りかかった。
下段から、斬りあげるクノイチのクナイに、女は背後から手をかざした。
直後、鈍い金属音が辺りに響いた。
「まさか、気がつかれるとは…」
帽子の下、女にしては不自然に幅広な肩の上で、男が静かな声で呟いた。
髭を剃り落としているが、よくよく見れば禿頭の男と共にクノイチに依頼をし、寝室まで追いついた男、ジファーだった。
ジファーは、ベンチと尻の間に隠していたと思しき大ぶりのナイフで、クノイチのクナイを受け止めていた。
「…今の今まで、全く、気付きませんでしたよ…」
クナイを一度引き、夫を守るためクノイチは跳躍して退いた。
白ドレスを纏ったジファーは帽子を脱ぎ捨てながら、屈めていた腰をまっすぐにのばし、ベンチから完全に立ち上がった。
ベンチに腰掛け、肩をすくめることで体型をごまかしていたらしく、こうして立って見るとやはり完全に男だった。
「……」
彼は一瞬クノイチを一瞥してから、ゆらりと身体を揺らし、彼女に向けて直進して上段からナイフを振り下ろした。
クノイチはクナイをかざし、迫りくるジファーのナイフを弾き、逸らす。
ジファーはナイフに全体重を乗せていたためか、クノイチが軽く攻撃をいなしただけで、彼女の傍らに転倒した。いや違う、わざと転げたのだ。
腕を丸め、転倒しつつも無理やり前転に持ち込み、彼女の脇を通り抜ける。クノイチの背後にいるのは、夫のムジャだ。
「く…!」
ジファーの狙いを一瞬忘れてしまっていたことを悔やみながら、彼女は左右の手に握るクナイを、ジファーに向けて投げ放った。
前回り受け身を取り、姿勢を整えつつあったジファーの腕と太ももに、クナイが突き刺さる。
「ぐ…!」
ジファーの口から苦しげな声が溢れるが、手に握るナイフはこぼれず、彼が倒れることもなかった。
しかし、痛みによるものか一瞬男の動きが止まり、ジファーの視線がムジャからクノイチに向けられる。
「……」
「……」
ナイフはあるものの手足を負傷したジファーと、クナイを失ったクノイチの視線が交錯した。
「…参り、ました…」
しかし、ジファーの口から紡がれたのは、敗北を認める言葉だった。
「待ち伏せを見破られ、襲撃の先手を取られ、手負いとなった今、私は暗殺者として完全にあなたに敗北しました…」
一片の口惜しさもにじませず、地面に血液を滴らせながら、ジファーが続ける。
「ですが、どうか最後に…なぜ私の待ち伏せに気が付いたのか…それを教えていただきたいのです…」
少しだけ、ほんの少しだけ言葉を震わせながら、彼はそうクノイチに問いかけた。
「…あなた達が暗殺の前に吸う、ハシシの香りがしたからよ…」
ベンチに腰掛けるジファーから、風に乗って届いた甘ったるい香り。
一陣の風がなければ、クノイチもジファーに気が付けなかっただろう。
「なるほど…我らが最大の武器だと思っていた物が、我々の足を引っ張っていたわけですか…」
薬物の効果により、感情の揺らぎが極限まで抑え込まれているはずにもかかわらず、ジファーは自嘲気味に笑った。
「ははは…ご教授、ありがとうございました…!」
ジファーはナイフを掲げると、高らかに続けた。
「グリーカ・ルファベト万歳!」
そして、自身の胸に彼はナイフを振り下ろした。
肉厚の刃が白いドレスの胸元を貫き、胸板に食い込む。
「しまっ…!」
胸元にジワリと赤い染みを広げながら、ジファーはその場に倒れ伏した。
そして、クノイチは一度背後を振り向き、野次馬にまぎれて目を見開く禿頭の男を睨みつけてから、ジファーの下へ駆け寄った。
数日後、屋敷の奥の一室で、師長は机に向かっていた。
だが、書類仕事をするわけでもなく、彼は頭を抱えているだけだった。
それもそのはず、ジファーが命と引き換えに手に入れた情報が、『ハシシを使うこと自体が時代遅れ』という物だったからだ。
恐怖心を消し去り、集中力を高めるハシシの煙こそが、グリーカ・ルファベトの最大の武器だったと言うのに、これからどうすればよいのだろう。
師長の脳裏をめぐっていたのは、その疑問ばかりだった。
「考えても仕方ない…とりあえず、表の仕事だ…」
グリーカ・ルファベトが隠れ蓑として使っている、表の稼業を進めるため、師長は届けられていた書類や手紙のチェックを始めた。
しかし、彼の手が封筒の一つを手に取ったところで止まった。
「これは…」
封筒の宛名に並ぶ文字に、師長は見覚えがあった。
だが、まさか。
脳裏に浮かんだ可能性が実現しないよう祈りながら、師長は封筒を破り、便箋を取り出した。
そして、一心に並ぶ文字を読んでいく。
すると、師長の表情に驚きが浮かび、それが徐々に怒りに塗りつぶされていく。
「生きて、おったか…!」
便箋を握り、ぶるぶると手を震わせながら、彼は声を上げた。
「おのれイム・ジファーめ!生き恥を晒しおって!」
手を負傷していたおかげで自害しそこない、二十一人目になったというジファーの手紙に、師長はやり場のない怒りに身体を震わせた。
12/10/04 17:50更新 / 十二屋月蝕