学者録 |
フリツヴェラの恋人が行方を晦まして早数ヶ月が経った。
何と、彼女はフリツヴェラに会いに行こうとして彼の研究室に向かっている途中で消えたというのだ。 そんな長く続いている非常事態を悲観しつつも、彼は最近不穏になりつつある地域の探索へと赴くこととなる。 研究機関曰く、その地域に『マタンゴの集落』が出現したらしい。その地へ往く者全員が帰ってこないこの現状が、何よりも重要な証拠であるとその機関は豪語していた。 確かに男女問わず帰ってこないという事例は『マタンゴの集落』出現以外にはあまり考えられない。 幸い小さな村での出来事であるため、今のところ被害人数も少ないらしい。 さらに機関は過去に対植物系魔物用のスプレー式枯葉剤を開発していたため、フリツヴェラはその地域へ足を運ぶことができるというわけである。 十二を超える街を過ぎ、野山をくだり、禿山を登り、丘を登って崖を迂回し川を渡って山を登る…彼は既に旅立ち初日から数日を掛けて歩いていた。 やっと小村が目前に姿を現したとき、「やっと着いた」とつい独り言を呟く。 何度も休息を挟んだが、足は既に枯れ木の枝のように疲れきっていた。学者という身分になってからというもの、碌に運動をしていなかったためである。 集落地域周辺では、既に胞子の付着が確認されていない村民が全員退避していた。 マタンゴの胞子は洗っても焼いても体から落ちないと言うが、なんと魔物に襲われていない村民全員がマタンゴ胞子の被害に遭っていないらしい。これは不幸中の幸いといえる。 残されたものは、人を失った寂れた村だけだ。 「こんなんなっちまえば…揺籠も墓場もねえよなあ」 小さな村は真昼だというのに暗い雰囲気が漂っていた。無人の廃墟とよく似た感覚であるが、それともまた違う。 「これ、魔物特有の気配だよなあ…」 とある家を見れば、弱りきったイヌが門に紐で繋がれたままの状態だった。マタンゴの胞子が一切確認されていないということを踏まえて、彼はそのイヌについて考える。 ― 恐らく、村を出てからではイヌを飼えないだろうと家主が置いていったのだろう。それなら最初から動物を飼育しなければ良いだろうなんて動物保護団体からには言われそうだが、どうにもならないときだってある。今回もその一例で、まさか家族総出で村を出ることになるとは何とやら、ということか。 辛気臭い村にありながらも、建てたたばかりであろう大きな家を通り過ぎたとき、その家の塀に動く影が見えた。 なんだあれはとフリツヴェラが塀の先を凝視する。しかし、その正体が一向に解らない。マタンゴには黒色種もいるし、なによりもとより日陰に『ソレ』がいる分黒く見えてもおかしくはない。しかし、マタンゴはそこまで動かない。 旅の途中で手に入れた『魔物の力を弱める薬の入った筒』と枯葉剤を両手に握り締め、慎重に塀へ近づいた。そして勢いよく影を直視しようと体を張ったが、そこには何もない。 「…なんだってんだ」 愚痴っては見るものの、安堵した。 そして彼は周囲を確認する。 「『マタンゴの集落』には、他の魔物もやってくるだろうし、危ねえっちゃ当然だよなあ」 そして、手に持った粉筒を眺めて、肩を落とした。 「そういやあこれ、どうやって使えばいいんだろうか」 その日学者は村中を捜索したが、マタンゴどころか他の魔物がいた痕跡すら見つけりことが出来なかった。 やがて日が沈み始めるものの、今晩宿泊する宿や民家など、近くにはない。山を戻って川を渡りなおさなければ、人の住む家は無いのである。 生憎小雨も降り始めており、雲行きから考えても、フリツヴェラは十分な雨宿り場所を確保する他無かった。 本来ならば村外で魔除けの陣を自然物で組みあげ、その中で眠るといい。 しかし雨となってはこれもまた仕方なしと、彼は影の動いた村一番の屋敷で一夜を明かすことにした。 手持ちの魔除け道具を並べ立て、お札を抱いて眠りに付く。 恋人を失ってから、彼はよく夢を見るようになった。 男は闇の中をさ迷い歩き、やがて倒れる。男は潰れたかのように体を起こすことなく、そのまま衰弱して死んでしまう。そんな酷く虚しく学者の心中を投影する夢だ。 うなされて起きると、朝焼けを見ることが多い。 そしてその暁に向かって、学者はいつも恋人の名前を口にするのだ。 小雨も止まず、村外へ出かけては何の収穫も無しに屋敷へ戻り床に就く。そんな日が幾日か過ぎた頃である。食糧も尽きかけ、そろそろ村を離れようかと学者は考えた。 その夜、マタンゴ胞子の検出を確認するために彼は屋敷の水場へを足を運んだ。その水は井戸水ではなく上流からの清水を直通で貯蓄し、一度煮沸させて消毒されている。 フリツヴェラは座り込んで体に泥を付けて冷水で流し、その泥水を集めて観察した。しかし、この数日の結果同様魔物の痕跡となりうる物的証拠は何一つ無かった。 「…マタンゴ、いねぇな」 学者は安堵した。 そして、よし、と勢いよく立ち上がった。 一息つき、肩をまわし、首を回した。 「どーんっ!」 彼は周囲に対する注意を損なっていた。 唐突、声と同時に学者は前のめりに倒れたのである。 「フリッツ!フリッツ!」 女が学者にフリッツと叫びながら学背後から突進を仕掛けてきたのだ。 村に人が居ないことを数日間で完全に把握していたため、学者の驚きは並大抵のものではなかった。 彼は馬乗りされたままの状態で体を回転させ、その女を確認する。 闇夜を仄かに照らす灯火でその姿を見て、学者は目を疑った。 「み…」 ― 数ヶ月前に忽然と姿を消したミラが、何故ここに居る。 疑う余地は無かった。フリツヴェラは再会に喜ぶよりも早く、現実を知ってしまったのだ。 「酷い顔ね!わたしを覚えてないの?!ミラよ!!」 フリッツとは、彼女が多用した恋人の愛称だった。 ミラは無垢に喜んでいた。再会の奇跡に歓喜していた、ように見えた。 その体は夜の水場に見合うような、全裸。凹凸の控えめな体躯は相変わらずで、薄く青の掛かった黒目も、小さな顔も、真っ赤になって笑うときに決まって出る笑窪も、首の付け根の右側にある小さな黒子だってそのままだった。 そんな彼女はフリツヴェラの上で小さい火の灯りに体を照らし、上気しているのだ。 「ミラ、どうして、こんなところに」 「そんなこと、決まってるじゃない!フリッツに会いにここまでここまで来たのよ!」 「俺を探して…。最近はずっとここにいたんだね」 「そうなの!わたしやっぱり方向音痴で…、でもフリッツがそばに居るってことはずっと感じてた!ずっとずっと会いたかった!!」 背中の黒く巨大な球体が、学者の恋人を絡めとっていた。 フリツヴェラは彼女の存在について確信した。 あまりにも稀少すぎて、学術試験で一度たりとも出題されない魔物。 学者間では有名極まりない存在でありながら、世間には余り知られていない魔物。 古文書のみに登場し、数百年の歴史においては全く名前を聞くことの無い漆黒の魔物。 それほどまでに謎に包まれている、絶えることの無い色欲の魔物。 「…どうしてそんな姿に」 「いやぁ、実はわたしもよくわかんないんだけどさあ!とにかく、気づいたら山の中で」 ミラは興奮を抑えて深呼吸を繰りかえし、恋人の顔に接近して艶美に笑う。 「…ずっとあなたを探していたのよ」 ― 何も変わっていないじゃないか。すぐ子供っぽくなるところも、急に深呼吸を繰り返しては俺にこう笑いかけてくれるところも!長い睫もすこし癖のある前髪も、何ひとつ!! フリツヴェラはミラの下に居ながら、彼女を強く抱擁した。 「そうか。ありがとう。本当に」 「何言ってんの!当然でしょ!!」 女は恋人にどうしてこんな山に居るのかと訊いた。 学者は君に会いに来たと泣くのを堪えているかのように笑った。 「会いに来てくれて嬉しいけど…、研究はどうしたの?大丈夫?」 「どうやらクビにされたみたいでね」 「え?」 「その餞に、この旅をプレゼントして貰ったワケだ」 「…あなた国王直属の研究機関の魔術学のホープでしょ!!そんなのって…!!」 彼は愕然とした。恋人が自分の立場を知っていないような立ち振る舞いだからである。 ミラは行方不明以前と同じように、魔術学者フリツヴェラを心配したのだ。自分の立場が今までと変わっていないと認識しているとしか見えない。 「…俺たちの国では、魔物は忌み嫌われているよね」 「そうね。でも急にどうしたの?」 「ここは隣国との境界線なんだよ。どの国も本来領土権を所有してない場所だ」 「えぇ?!ここって国境なの?!なんでわたしそんな遠くに居るの?!」 ミラは驚き、そして何も知らないながらにも、恥ずかしそうに自分がここに居たことを詫びた。 フリツヴェラは彼女と国の中心近くの都に同棲していた。その都市とこの山は、馬を走らせ乗り継いだとしても数日掛かるほど遠いのである。 「まあ聞けよ。でも国境って言っても、俺たちの国はこの山も実効支配してる」 「へぇえ」 「…多分、どっち道逃げられねえなあ」 「ねぇ。何があったの?何から逃げられないの?」 「…いや、ミラ。好きだ。愛してる」 「嬉しいけど、本当にどうしたの?大丈夫??」 「何でもねえよ」 学者は嘆きと激情をひた隠しながらミラを退けて起き上がり、散らかしたままであった対魔物道具を握った。 道具を手に取ったはいいが、元々マタンゴ胞子の検査も道具結界の中で行っていた筈だった。結界が成功していたかは目に見えるものではないため判らない。しかし、どの道この類は彼女に効果が無いであろうと学者は知っていた。だからこそ、彼は自棄になっていた。 フリツヴェラはありったけの『魔力を弱める粉』を口に突っ込み、飲み込んだ。口の中が強烈な辛さに打たれ、続いて経験したことの無い感覚に陥った。彼は、恐らく火炙りが最もこれに近いだろう客観視できるほど冷静に相手を見ていた。 「くっそぉぉぉ、しょっぺぇぇぇぇ」 「…何やってんの」 「何でもねえよ!来いミラ!相手してやんよ」 学者は腕を広げ、ミラを呼んだ。恋人は嬉しそうに彼の胸に飛び込む。 フリツヴェラはミラの蟻の腹に似た黒球も、一緒に抱き込んだ。 大きな山とその麓を流れる川、その近くの小さな平野にある一軒家を訪ねる男が居た。 面倒くさそうな顔をした家主が戸を開けると、その訪問者の顔を見るなり数週間ぶりだと再会を喜んだ。家主は男を家に入れ、自家製の酒を振舞った。 そして、その男はこれから姿を消すと告げた。 家主は理由を訊ねた。 男は言った。 「大事な女を殺して、自身も人間から変質してしまった」 「しかし、今俺が生きているのはあなたのお陰だ」 「感謝の印に、何かしたい」 家主は死人のように静かな男を一晩泊めたが、明くる朝には消えていた。 それから数ヶ月の後、ひとりの学者がフィールドワーク中に失踪したと報道された。さらに、その報道は国境のとある山にある一つの山村が消滅したと続いていた。 |
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