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君主 |
迷宮においてボスの待ち構えている最深部は、決まって大空洞になっていると聞く。事実このダンジョンもその例に漏れないらしく、揺ら火のみにより照らされた通路と打って変わった光を纏うその一室は、成程確かにボス・ルームとしての相応しさに与うる広さであった。
しかし、その燭台ひとつ見つけられずとも明るい光景に目を疑うよりも早く、わたしは大広間の奥にたったひとり異形の影を見つけ、その風格に思わず息を殺した。 「あるじさま、戻りました」 「おう、おかえり」 扇状に開かれた後光の如き穂艶は岩天井の隅々に深い光明を与えるほか、否応なく視線を集中させるその存在感は一種の武器を想起させる。一室全体を黄金の間とさえ見紛えるその高貴さには絶句する事が正解と思えてならず、加えて白衣に包まれた人間大の身体には一度として実物を相見舞えた事が無いにせよ聖者特有の空気を纏わせているとしか感じ得ない。岩窟の最奥に潜む壇造りに身体を預けて半ば胡坐を掻いて居るといえども、金白の気を流すにはこれ以上無い堂々とした佇まいであった。 「客人、山へようこそ」 ダンジョン・ボスから言葉を投げかけられた途端にわたしの体は硬直した。指先に脈動を感じ、肩やら首やら腰やらに相変わらずの重苦しさを覚え、頭痛だって疼きどおしだと言うのにも関わらず、ただ一言だけでわたしという対象の運動機能を麻痺させたのだ。 一般的にダンジョン・ボスは他の魔物と一線を画した力を持つと言われるが、それ以上に、恐らくはそのボスらの中においてもこの目前の魔物の力は並大抵のものではないだろう。このボスの支配する不可思議を魔法と表現するに役不足を覚える程の威圧、言うなれば神通力が光となって一室ひいては岩窟迷宮全体に行き届いているのだ。 「成程。照明代わりに狐火か」 わたしはボスに返事にならない言葉を返す。 その一方で、わたしはどうにか口は回るようだと安堵した。口さえ動けば最悪の事態は免れる事も可能であるし、ある程度鬱憤も晴らせる。 「狐火もおれ達の仲間だ。正しい表現じゃあないな」 「まさか山の主が化け狐とは思わなかった」 狐の魔物はわたしを見据えた。何分距離があって視覚だけでの正確な判別は難しいものの、冷たくも熱くもある力強い視線がそれを充分に悟らせた。 獣族の魔物とはいかにも山らしいが、あれだけ巨大かつ特徴的な尾をもつ狐となると東洋の種族だろう。更には咲分け尻尾という特徴に加えて魔力ならぬ神通力を垂れ流しているとなると、わたしの知識の中からはたったひとつの予想だけが浮かび上がって来る。 種族を妖狐。歩く魔界とまで恐れられるリリムや空と岩窟の覇者たるドラゴンに比肩する魔物だ。尻尾の咲分けが多いほど格が高いとうたわれ、現在確認できている最大数は9の筈だ。この時点において神と称される者々と遜色無い力を有しているらしく、史実として国を治め、崩したものも居たと聞く。また、見初められた場合は到底逃げられる存在ではない事など至極当然の上、捕縛以降は心身遠く思わせる程の時間を愛と肉に費やすとも指南書の記載にあった。 然らばと、わたしは妖狐の背の先を見遣る。 「尾房の数が気になるかい。近くで確認してもいいんだぜ」 そういえば、互いに良く声が届いているなと思う。わたしの普段使っている寝台二十台分の距離はゆうにあろうというのに、咽喉を張らずして会話が成立していた。何らかの風の魔法か、あるいはその様な仕組みがこの一室にあるのかは判らないが、少なくとも金色で粉状の魔力に満ちているこの部屋ではおよそ総ての事が可能なのかもしれない。 例えばわたしの体の緊張が瞬く間に解れ、更にひとりでに空を飛んだりしても、それは奇跡でも何でもないのだ。 「見掛けによらず重たいな、きみ。おれならそんな装備を準備するだけで疲れちまうぜ」 わたしの体を非物理的に持ち上げた狐の魔物は、口に折り指を当てて品定めするように視線を送ってくる。有翼の魔物と空を飛んだときとは大きく違う自由に似た浮遊感は、わたしが何にも支えられずに中空で浮いているからだろう。不安定ではある事には違いないがそれも有翼の魔物との飛行体験よりも随分穏やかだ。綿雪の様に漂い狐の魔物に向かって流れている状態が、何とも揺籠か乳母車を錯覚させた。 しかし何とも気分が悪いのは、得体の知れない魔物に全身を委ねてしまっている状態である為だ。先程の緊張とは打って変わって、どうやら身体を極端に弛緩させられているらしく一切の力が入らない。 そしてこんな事態に直面するわたしが咄嗟に思う事なぞ、大体にして単純だ。 何だこれは。 反則じゃないか。 「きみもこっちへ来ないか」 狐はわたしをよりも壁際を見つめ、その先に居る有翼の魔物に語りかけた。 若干の逡巡らしき間を置いた有翼の魔物は、しかし単調な返事の上でわたしの背後から現れてそのまま追い抜いていく。わたしはその姿を見つめたが彼女とは最後まで目が合わず、その毅然とした主の前たる態度に半ば感心した。とりあえず、横目すら交わせないとなれば、ただ浮遊する事も聊か手持ち無沙汰である。そこで、わたしは狐の尾を数える事にした。 「八房さ」 が、わたしの心のうちを読んだのであろう狐が極々静かに囁いた。 「きみの予想より一房少ないみたいだが、残念だったかな」 「意外なだけだ。魔物はどこまで威圧的に成れるものなのかと思ってね」 「威圧的、ふむ。そういう風が好みだったかな」 「いや、充分だ」 結構、と目を細めた狐に近づいたわたしは、そうしてやっと浮遊感から解放される。魔物相手に不自由な思いをする事は職業柄地獄染みた思いをする事と同意なのだから、解放の瞬間は至福のひとときであり、同時に自分自身が目前の魔物を相手取っても如何し様も無い程度の存在であると歯痒くも脳髄の手前に熱を覚える。 一目見舞えれば確かに魔物だと判る、人間では数限り無く少ない美麗の容姿と雰囲気。 更に、白い衣に包まれて猶負けない白帯びた光を放つ肌艶に、黄金や白金すらも翳ませる毛色。視線が結ばれれば黒檀のような深い瞳に吸い込まれそうになり、瞳に反射する銀光が足元を浚いに掛かる。結局、彼女を見て目を休める場所が何と服の朱の色であるのだから、如何せぬ眩しさに俄然半目する他無い。 こんな強大な魔力に盛った魔物を、何人が打ち負かせるものか。 「妖狐なんぞこの地方に居る魔物ではなかったと思ったが」 「おいおい、きみはひどい事言いなさんね。 おれはこれでも妖狐じゃない。列記とした稲荷だぜ」 威厳そのままに山の主らしからぬ子供然と拗ねた態度を見せた魔物に、わたしは妙な違和感を覚えて戸惑った。 稲荷。 妖狐より東方に住まう豊穣神であり、その使いでもあると聞く。妖狐の悪名高さに反して神聖視される存在であり、拝み崇め奉られている筈だ。確かに、両者は共に莫大な神通力を有しているほか、咲分け尻尾の成長の仕方も同じである。 「じゃあ何故こんなに魔力を漂わせているんだ」 「魔力の操作は十八番だぜ」 「何故こんな場所に居る。テンプルにでも居るべきじゃないか」 「此処がおれの神域に近い場所だからさ」 「神域なんぞと神妙に言ったところで、ただ気に入った住処というだけだろ」 「当たり前だろう。厭だと思う場所に苦い思いをして留まり続けるのは人間位だ」 「稲荷はダンジョン・ボスとして相応しくないだろう」 「誰がおれをダンジョン・ボスと言ったかねえ。おれは一度たりとも言っちゃねえぜ」 狐は左手で背後から煙管を取り出し、その口元を細い指でなぞった。すると、わたしと同じく岩壇の下に立っていた有翼の魔物が壇上に登り、何処からとも無く薬包紙を手に取ってその煙管の中へと刻み煙草を滑らせた。更にはマッチ箱大の墨色の石に紫色の陣を描き、石の角から火種らしき魔法を注ぐ。そうして火を注ぎ終わると、その場で平らになおって壇から下がり、すくとわたしの左に立った。有翼の魔物が行った諸々の動作には一切の空きが排除されており、初見の着火方法であったが洗練された所作である事と紛い無く実直な忠誠心がよく見て取れた。 しかし改めて黒い翼を持つ魔物と白い衣を纏う魔物が組み合わさると、妙に絵面としてもしっくり様になって見える。流石に狐に勝りこそしないが、有翼の魔物も相当の可憐さを持っている。言うなれば、狐が千切れ往く群雲の如き儚さを含む美しさ担当であり、有翼の魔物は未だ酸いも甘いも知りきらぬあどけなさを持った愛らしさ担当といったところだろうか。 狐は煙管から紅色に光る唇をはなし、一息つく。 「何が客人の気を立たせるのか知りたいとも思わんのだが、そろそろ本題と行こうか」 凛と耳立てて睨むに近しい視線を注ぐや否や、狐は幽かに、けれども確かに笑って言った。片やわたしと言えば、顰め面を構えるだけで精一杯だった。艶色の前に、奥歯を磨り潰す衝動に駆られ、これを堪える事に渋んでならなかった。 「これから話す魔物について、何か知って居る事があれば教えて欲しい」 研究成果を交えて水魔の事を語るわたしは、どんな顔をしていたのだろうか。 少なくとも狐という魔物が笑顔でこの話に耳を傾けて居るという事実は、わたしが憎からぬ思う水魔への心持を表情に出してしまっていたからだろう。恰も彼女の信徒を見守るかの様な慈悲らしきものに満ちた狐の眼差しは、わたしの心の奥底を見透かしているのかとも感じた。しかし、わたしは水魔の事をそれは面白おかしく、学会での受けを狙った熱意の侭に語り込んで止まることが無かった。 それは狐の魔物が呆れ、もういいと右手を振らせる迄に及んだのである。 「まさかこんな惚気を聞く事になるとは思っても見ていたが」 「見ていたなら驚かないで欲しいが、何か判るか」 「じゃあ、スライムの言った事を真に受けて検証しようか。 何なら検証序でにきみの仮説を答え合わせしちゃってもいいんだぜ」 「有難い。魔物の意見が聞きたかった」 「そうだろうよ」 狐はにやり笑う。今度は先の笑顔と違った完全な笑顔だった。恐らくわたしの長話に少しばかり気を好くしたのだと思う。魔物を肯定する人間の話は総じて面白く聞こえるのだと、依然有翼の魔物から聞いた事がある。しかし、どうだ。この語りの間に当の有翼の魔物が笑って居たかと言うと、そう言う訳でもなかった。寧ろ終始視線を地に注ぎ、心成しか心許無い影を身に下ろしていた様に見受けられる。しかしてこれをわたしが如何こう出来る話かと言えば、そんな訳も無い。デリカシーを踵で踏み躙る行為なのだから、当然だろう。 今、水魔について嬉々として語り終えたわたしが彼女に対し可能である行動とは、彼女が敬愛する主の話に耳を傾ける事しか無かったのだ。 「先ず何の供給も無しに生き永らえる事は無理。幾ら単細胞とて魔物生物、生き物だ」 「だろうな」 「が、盥生活ならば食糧は塵や埃か、きみから発せられる精気位のもんだ。 きみは至って一般的な人間だし、当然空気中に流す残滓程度の精気に特別性など無い」 「何となく引っかかる物言いだが判る」 「塵や埃に栄養があると思うかい」 「無いのか」 「ある訳あるかよ。仙女じゃあねえんだぞ。 バブル・スライムですら住処にもっとましな栄養源があるぜ。かなり豊富にな。 まあ、そしてその栄養は偶然にも清めの塩にあったからこれに頼る事になったと」 「ああ」 「頼ったと言う事はその清めの塩とやらに魔力が宿っていると言う事だ。 きみ、勿論今日だってそれを持ち歩いているんだろう。出して、おれに見せろよ」 「そりゃあ構わないが」 何ともまあわたしは至って平静だったが、少しばかり驚いていた。少なくとも此処迄はわたしの数ある予想の内のひとつふたつに違わないのだから、わたしも研究者としてそれなりに正しい回路を持っていたらしい。 わたしは革ベルトに下げた袋から塩筒を取り出して手を伸ばす有翼の魔物に渡す。有翼の魔物がすかさず狐に献上し、狐は筒を取ってふむと唸り、徐に蓋を開ける。筒と長い睫の距離を縮めて舐める様に見た後、その中に人差し指を挿して中身を捏ね繰り回し、その指の腹で掬い取って再度眺め、最後にちらり小振りの唇から覗かせた舌に乗せ、軽く唸って斜め上を見遣る。 「高位の魔力が詰まった代物だぜ、これ。蛇族の旨そうなにおいがする。 スライム以外じゃどんな子達に掛けて使っていたのか、一応訊いときたいんだが」 「…研究外のプレーン・スライムやレッド、バブル・スライム、大蛞蝓位か」 川渡りをして迄わたしに姿を見せる魔物でこれ以外のものは、実際の問題として剰り塩を撒いても届かない場合が多い。有翼の魔物を初めとする空を飛ぶ魔物、兎やコカトリスなどの俊足を持つ魔物は、その羽なり足なりで塩から逃げ果せられる為であった。 「水分が多い上に大概保有魔力の少ない魔物ばかりじゃないか。 そんな奴らに高位の魔物なんか上げちまったら大変だぜ。痺れる程満足しちまうって」 狐が言うところでは、今迄わたしが散布していた相手方には高い魔力と強烈な快感を与えていた、との事らしい。しかも塩一撒きで数日分のエネルギーを得られるらしく、なかなか御馳走としても上等との事である。確かにこれも予測したケースでこそあるが、あくまで根拠の薄い予想である上に挿げ替えの対策も立て辛かった為、俄かには信じ難い。しかしながら、一部の大蛞蝓の様な常連然とした魔物が居た事も事実だった。 「それと、件のスライムの生まれだが、これについては考える迄もねえな。 人間を食べた経験が無いなら、かなり強力な魔力を帯びた魔界出身って事だ」 「…何故魔界生まれだと判断出来る」 「単純明快って言ってんだろ阿呆。 スライムは基本的に保有魔力が少ない代わりに、対環境適応能力が最も高い。 つまり魔力が湯水の如く溢れる超大な魔界なら、食事せずとも生きてけるってこった」 無色透明である事も環境に適応した為と言う事かと、わたしは右手で首の裏を掻いた。 「しかし、そんな魔界出身のスライムが態々こんな田舎に来るものか」 「おれ達にとって此処が乳と蜜の流れる場所であればどこからだって駆けつけるぜ」 「そのカナンの地を陥落させる為にか」 「どうどう。落ち着けよ。 どの道この近辺にそんなでけえ魔界なんぞ無えし、嵐にでも乗じたんだろう」 「記憶喪失というケースを考えた事があるんだが、それはどうだ」 「どうだかねえ、申告無いなら知らんよ。魔物は不必要に嘘吐かないし」 「騙しが性分の魔物は数多いぞ。それこそ狐も人を化かすじゃないか」 「狐が化かさずして誰が化かすんだ。狸なんぞにゃ負けんぞ」 「狸の話は聞いてない。 兎に角コアがあると言う事はダーク・スライムレベルの精神構造だろ」 「感情やら思考能力やら情報処理能力やら面倒なもんは直接訊けば良かろうに」 「さっきも説明したが当の水魔は居ないんだ。 行方を捜しに旅立つ心算は無いが、行動パターン位は知っておきたい」 「ああ言っていたな。見当たらないとか何とか」 狐が天井を見つつ思い起こす様に言った。 その片胡坐のまま左手の甲を軽く口元に当てて目を細める姿には、確実な人惑いに特化した惹かれて已まない魅力があった。耳を垂らして微笑まれれば相手を異形だと忘れ、そのまま金色の空気に溶けるまどろみの泥舟に乗りかける。が、有翼の魔物が手に触れて気の緩みを正させ、わたしを幾許一歩のところで踏み止まらせる。今現在わたしは魔物の前に立って朦朧として居るのだと、魔物からの介助があったこの段階に至って初めて気が付いた。 「いやあ、確かに見当たりゃあせんわな」 「…何が言いたい」 「じゃあ、きみの体調は良好かな。でも、少なくとも奇妙な違和感はある筈だ。 加えて言うなら、体が凄く重いくせに前以上に動けるように成ったんじゃないか」 話が合わないまま、狐は得てせずしてわたしの不調を探り始めた。 だが、わたしに不調があることは確かで否定出来たものではない。寧ろそれも知りたい事に数えられる大きな謎のひとつであった為、じいと狐を見返して言葉無碍にする。 「概ねそうだが、この不調とあの魔物に関連性があるのか」 「んん、此処に至る迄の間誰もきみに教えてないとか、まさかだろう」 狐と共に有翼の魔物の顔を見遣ると、彼女は眉に薄く皺を浮かせつつも狐を見て、一瞬のみわたしに横目送っては伏せ、それから言葉にする事を憚る様に口をただただ開閉した。有翼の魔物は魔物らしからぬ戸惑いを顔に浮かべ、前髪に手を伸ばそうとして途中でなおる。堪らずわたしは有翼の魔物に左腕を伸ばしたが、その動作は中空で静止した。 「私の憶測でものを話すには、少々事が大き過ぎると思いました故」 有翼の魔物から、苦虫と判っているものを噛み潰す瞬間の横顔が見て取れた。そして狐はその表情を見てからより一層に破顔して、わたしの方を面白可笑しそうに見る。山の主たる狐にとっては人っ子ひとりの人生ひとつなど取るに足らないものなのだろうが、絶えず口角を上げているのはただ楽しんでいるだけとは違う風が滲んでいた。 「しかし、きみもまた鈍感だな」 じいと見つめ、にやついたまま狐は膝立ちになった。 輝く長い髪がふわり身体前面に流れ、剰りの華奢と勘違いする程の細い身形かと思えば、起伏豊かなラインだと衣越しでもよく見えた。すとんと狐はそのまま四肢這いになってわたしに顔を近づけ、香水とも樹花とも菓子とも異なる甘い匂いを髪から通じて漂わせる。わたしの先には潤みを帯びた目と、俯瞰した際に見える際よりも開かれた胸元があった。 見るまいとするか、否か。 当然わたしは重力に感謝して眼福を拝見たい気持ちに駆られたが、そういう訳にもいくまいと狐の顔を睨む。狐にとってこの体勢はわたしに近づく為の行動であり、よりわたしの深い場所を見透かす為の視線だったのだから、屈する事など出来ようものか。 「ふふ、ヘンな子」 「変で結構」 「ンじゃあ互いにお似合いか」 わたしは、わたしの言いたい事と狐の発言に食い違いが発生していると感じた。 「下顎の右奥歯、右の小指の爪、左の耳朶と、へえ、髪櫛とロケットの中にもか」 しかしその齟齬が如何と話す迄も無く、狐は吟味し終えたかの様に呟いた。 その言葉は氷となってわたしの背筋を滑り、わたしは堪らず息詰まって目を見開いた。それは、これらの部位の羅列がわたしにとってのみ特別端然とした意味ある場所であった為に他ならない。空気が冷えた様に思えたのはわたしの錯覚だろうが、人間の感情の機微などは八尾の魔物に察知されては掌中で転がされる程度のものだ。有翼の魔物が片目でわたしを捉え、狐は両目でわたしを見据える中で、わたしは結局狐から決まり悪くも目を逸らさずに居る事以外何も出来なかった。 「だったら、何だ」 「無駄だぜ。その毒、スライムが疾うに抗体生成済みだ」 狐の語るその箇所をわたしに当て嵌めるならば、寸分違わずして有機・無機毒の類を籠め隠している場所だった。これを的中させたるは稲荷の神通力の成せる読心技か、それとも狐は鼻が利くと言うが、よもや鼻につく訳の無い無臭毒を匂ったと宣ってくれるのか。 どうにせよ、嗚呼、見悟られた、これは追い込まれているのだと漠然に思う。 「何時どうやって」 「寝込み襲ったとかじゃあないぜ。もっと単純だ。 何なら今新しく毒を作って服用しても同じ結果だとも言っちまおう」 「いや、待ってくれ。言うな」 「くひひ。何から待ってそれから如何するんだね、きみは、おい」 本来知りもしない毒の在り処を見定めた狐が、これらを無毒化済みだと言う。それはつまり、可能な限り肌身離さず着けているこれらについてわたしの与り知らぬ手段で接触さしているという事だ。いや、或いは抗体生成済みというからには、わたしの身体に直接免疫を作っていると言う事か。しかし免疫を作るならば多少の熱は出るものだろう。生憎身体は潰れる程重たく感じるのだが、熱などは一切無い。それでは抗体はどこで作成している。また、わたしの毒に接触する方法は何だ。わたしが見ていない間に、わたしが知らない間に、わたしが気づかない間に。水魔に眠りを邪魔されて以来寝台には人間防護の魔方陣を描いていると言うのに、その間に這入って迄休憩中のわたしに及ぶ事が解毒だとでも考えさせる心算なのか。 水魔は何処でわたしを見ているのか。 何処に隠れていると言う心算なのだ。 そこまで考えて、わたしの推理線は限りなく細いがとても頑丈な一本のみに絞られた。 「そうなのか」 わたしの今考えている事は、あくまでも仮説のひとつだ。 悪魔が想像する様な想定の話であって、これから稲荷の話す言葉はわたしがぶち当たった真実とは違う筈だ。故に、わたしに降りかかるべき事では無い。あってはならない。幾ら大方の国境警備員の末路を知っていようが無関係だ。 わたしには未だ、きっと早すぎる。 「いやまさか、あいつは」 動機は止まったかの様に身体が凍りつき、声が上ずった。 狐は口角に湛えた悠然たる微笑を解き、そのどこか冷徹と思える視線をわたしに送る。 「彼女は」 次の言葉を聞きたいと呟く心が興味本位で騒ぎ立てている。次の言葉を聞きたくないと叫ぶ心が本心から縮籠まっている。脳内会議の傍観すら難しくなったわたしは、どうやら背骨とも違う軸心の所在を失ってしまったらしい。 が、狐は冷徹な目を融かし、改めて思い切り笑ってわたしを祝福する様に言う。 「きみの中だ」 毛髪が逆立つ様な劇的なものは何一つ無い、つまり剰りにも呆気無い言葉だった。 わたしはここ数日間のうちに溜め込まれた苛烈について今こそ声を押し殺してでも叫び捨てる好機かと思ったが、その数瞬手前になって不意に虚しくなり、押し黙ったまま肩の力を抜いた。 |