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来客

 魔法生物の生息範囲内だけあって治安も良いとは決して言えず、人里からも遠く離れているこの辺境の玄関を叩くものが現れたのは、日も暮れてから大いに時間を置き、わたしがひと風呂浴びてから水魔の研究をしている時であった。

「すいません」

 夜の来訪者とは相当珍しい。
 その珍しいという内の大半は有翼の魔物であるのだが、戸の向こう側で立つものは男の声でわたしに呼びかけている。これには一体何がどうしたのだとより一層に驚く外無い。とりあえず水魔を木箱の中に押し遣ってから炊口に隠し、それから扉の前に立って、しかし開けずに声に向かって問う。

「一つ。人間で間違いないか」
「人間です。夜分遅くにすいません」

 声からして男という事は、つまるところ訪問者が人間である事を示している。
 そうと判っていても、億に一つ魔物が男の声色を使っていないとも限らない。そもそも男に化ける魔物の存在も剰り耳にしないのだが、いつ何時現れたとしても魔物の性質上から十分得心が行くものだろう。その為に充分用心しつつ扉を開け、目前に立つものを確認すると果たして、眼鏡を掛けた男、確かに人間である様だった。
 何故こんな時間にとも思ったが、それこそこんな時間に見知らぬ男が態々わたしに用あって訪ねて来たとは思い難く、少なくともそれなりの距離を歩く人間である事は抱え背負う装備からも判り得た。

「こんな辺鄙な場所までようこそ。
 こう暗くなると蛇が湧いて危険ですし、どうぞお入りください」
「是非ともお言葉に甘えさせていただきます。
 ああ、いや、寧ろその為に訪ねさせていただいたのですが」

 わたしは疲れの混じる朗らかな笑いが背負う大きなバックパックが屋内に進んでいくのを見つつ戸を閉めて鍵を掛け、戸口に棒石灰で結界を張りなおしてからリビングに戻る。
 リビング中央で落ち着ける場所が無く立ち往生している男と目が合い、少々待つように指示をする。男の為に椅子の背に掛かった季節外れの防水合羽を壁に下ろし、テーブルに雑座した多種多様の食糧や器具、雑貨類を棚に移して普段より余計にひとり分の席を開ける。即席に疲れているだろう男を座らせてからは淹れてそれほど時間の経っていないコーヒーをコースター付で差し出した。

「あ、砂糖もミルクも結構です」

 即座に言ってくるあたり、なかなかこの男は図太い性格をしているらしい。とりあえずコーヒーで眼鏡を曇らせ一息ついた時点を待ち、わたしは彼の話を聞く事にした。

「さて、早速ですが国境警備員として伺いたい。
 あなたは一体如何様な理由を持って国境まで参られましたか」

 この家には大きな表札が掲げられているのだが、それが示している内容は家主が国境警備の仕事に就いている人間であるという事であった。この仕事は極力関わる事を避けられる職業である。国境警備員とは現在では形骸化してこそいるものの、本来的には魔物から国民を守る以上に国民の不法入出国を取り締まる立場にある為である。したがってこの表札は人避けとなるケースが多く、我が家を訪れるという事は、例え夜だとしても否応無く表札を目にして居る筈だった。
 この男は十中八九国境を越えにやって来ているのだ。一応とは言え理由を訊かぬ訳にはいかなかった。

「ああ、これは失敬仕りました。いや私はフリツヴェラと申します。
 中央でとある研究職に就いておりまして、縁有って山に登る事になりました」

 中央。
 この国の繁栄を極めた都のひとつとして数えられ、その周囲を高く分厚い何十もの城壁で覆っている要塞都市であり、世界有数の先進都市である。わたしの住む田舎とは比べるべくも無い見聞きすらせぬ技術の粋が集まっており魔法魔術とは似て非なる論理によって発展しているらしい。何でも蛇口を捻るとカラクリ仕掛けで浄化された水が流れ、牛馬を使わず水と油によって走る車があるという。半ば単純な過程を態々複雑化させた変態的な方面も多いと聞いている。
 そんな都市の研究職、つまるところ学者であるというのだから如何程の権威持ちであるのか想像が及ばない。

「山と言いましても、此処では国境を越えた先の山脈しかありませんが」
「ええ、その丁度川向かいの山脈です」
「成程。相当突飛な調査とお見受けしました」

 お気の毒に。
 わたしは恐らく身分が自身より上位に居るであろう学者に対して畏敬以上に心中憐憫を持って呟いた。先日来訪してきた有翼の魔物から、山中において魔物たちですらもなかなか面倒だと思うような場所に厄介極まりない新参の精霊が現れたと聞いていた。山中が普段以上に緊張状態にあるといってもいい現状で男単身特攻するなど、正気の沙汰とは思えなかった。
 まあ、恐らくその類に関する調査のための態々ご足労、という事なのだろうが。

「それならば越境許可証は」
「ええ。こちらに、ええと、このカードですが」
「ああ中央製の越境証明書ですか。こりゃあ初めて見ましたわ」
「警備員さんともあろう方がそんな事で宜しいのですか」
「ええまあ。どうせ警備員放って越境する輩の方が随分多いですし」
「...にゃあ」

 笑い混じりの軽い雑談の最中、ふと異な声がした。
 その猫の声を真似たらしい幼き声に、わたしとフリツヴェラは顔を見合わせる。彼はその音の発信源を探し出そうと耳を澄ます一方、わたしは焚口を注視して水塊が出てくるのを危惧し、事実木箱から這い出てきた事を確認してから目を閉じた。視覚部を袖状の手で擦っているスライムは、ふにい、と再び声を上げて学者の目を釘付けにする。

「これは驚きました」

 何を言われるものやらと危惧していたところに呆気取られていた学者は暫く経ってから目を光らせて呟いた。

「スライムですよね。図鑑でですら見た事の無い種類です」
「え、ええ。実は先程迄これの組織研究をしていたんですよ」
「組織研究ですか」

 フリツヴェラの席を立ってまじまじとスライムを見遣るという意外な反応に驚きながらも、わたしは口八丁半分で説明してみる。

「一応記憶喪失らしいので、保護している魔物です。
 成長次第では人への被害件数が抑えられる効果も期待出来ますね。
 ついでに保護観察を兼ねてちゃっかり研究もしている、といったところです」
「ええ、ええ。話を聞いた覚えがあります。
 魔物との接触機会から人界と魔界の区別を図ろうとする方法ですよね」

 学者曰く、数ヶ月前に発表された何とやらという有名な魔法関連の研究書で掲げられた手段のひとつであったらしい。自分で言うのも何な話だが、随分と阿呆な研究書があったものだと思う。その程度の魔法生物対策ならば、魔物の形が変わった直後から着想されて当然の課題ではなかろうか。今更になる迄発表の一切がないという事は、穴があるという事だろうに。さりとてわたしは自分の口から出した言葉を批判し返す芸当を持ち合わせて居る訳でもなく、またそんな研究書は知らないと馬鹿正直に言い返す度胸も無いため、ただ曖昧に笑うだけだ。

「...だれぞ」
「客人だ。おまえはいいから寝てなさい」
「いやいや、寧ろそんな」

 急に学者は嬉しそうにわたしを手振りで抑止した後、水魔にまで摺り足で近寄った。
 外に出た臆病な家猫のように警戒を解かないスライムに、変わらぬ笑顔のまま相対してしゃがみ、目を合わせた学者は頭を下げる。

「初めまして。フリツヴェラといいます。遠方の人間です」
「...にぅ」
「ああフリツヴェラさん、間違ってもそいつに触れないで下さいよ」

 わたしの注意に学者は笑って了承し、それから少しの間は中腰姿勢でスライムと会話を楽しんでいた。学者は暫く和やかそうにその時間を過していたが、水溜りは睡魔の誘惑に負けたらしく、頭部をうつらうつら揺らした眠気アピールを繰り出してきた為に幕引きとなった。
 それ迄の間に、わたしはする事も無いので黙々と翌朝分の身支度を整えた。来客があると、どうしても朝の準備は朝にしようとしても滞る為である。

「いやあ、なかなか貴重な体験をさせていただきました。
 こんなにいい子で、しかも研究しがいがあるなんて羨ましいです」
「いえ、まあ。そうですか。あ、はは」
「それで、その研究成果は製本冊子で売り出すか。
 あるいは学会に売り込むか…どちらを考えておいでで?」

 学者が折り指を顎に添えた含みある表情で訊ねてくる。
 わたしはその言葉を聞いて自然と目を丸くし、唖然し、先ずは魔法生物の研究に対して一体何時頃から目標を失って居たのだろうかと思った。
 金が欲しいと一口に言っても、論文なりの研究文を書き上げるにしても、何を媒体にするかを失念していた。これは普通在り得無いあるまじき事だ。そうすると今書いている文をどう処理すると良いのかという判断が必要になる。わたしが漠然と考えていた構想どおりに論文を書くとしても、推敲資料として書を重ねるには書量は未だ圧倒的に足りず、故に書籍化にも早過ぎる。そもそも魔族研究に終わりなど無いが故に、適当な切り上げ口を見出す事は必須事項だった。そんな出口を見ても居なかったものに対する文尻の引き方など、研究職の経験もまともな教育を受けてきた訳でも無い。まして何がしかの文字を書くに当たっての才も無いわたしが一体どうしてどうやってそのようなものを見つけられようか。
 完全な迷走をわたしはどれ程間気付かずに居たというのだ。

「ええと、厚さは兎角一冊程度の出版を考えています。
 ですがそれに至るまでの事の運び方については実は未だ決めかねておりまして」
「おお、まさか一冊分とは思いませんでした。ボリュームのある研究だったのですね」

 幸いにも書量が足りないという事は得心を持って論述綴り終えるだけの情報を集積させきっていないという事だ。儲け一点を目的とするならば無論一冊分認める必要があるものの、その前口としての論文を学会誌に提出し、事前注視されておく方が良い筈である。それから学者は地方で執筆活動する難儀さをとくとく垂れた上で、都合が良ければ助言させて欲しいと言い出した。わたしは思わぬ介助の手に一礼し、学者に申し訳程度の客間を貸し与えつつ、構想を修正する案について考えて残る一夜を過ごす事となった。

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「いやあ、どうもすいません。お陰で一晩無事に過せました。ありがとうございます」

 フリツヴェラの想像以上に早い起床と出発に、わたしは少々焦りの朝を迎える事となった。今日分に要する最低限以上の身支度は昨晩既に終わらせていたが、何分早め早めに行動していた都会の学者様には後れを取るばかりであると寝ぼけ眼ながらに痛感する。

「今の山は勢力の均衡状態が悪いようですので、存分に注意してください」
「ええ。マタンゴが暴れ回っていると聞いておりますので」

 会話半ばに今にも出ようかと玄関の前に立った学者にわたしは耳を疑って聞き返す。

「失礼。マタンゴですか」
「? はい」

 さも当然であると言わんばかりに学者の顔は不思議そうにわたしを見返した。

「そうでしたか。
 マタンゴが発生しているとは恥ずかしながら知りませんでした。
 しかし最近、山では他の新種も出現しているようですので、殊更お気を付け下さい」

 学者は最近勢力を上げているというマタンゴの調査に出るらしい。研究に関わる仔細について秘匿されるきらいがあった昨今において、昨晩学者と彼の携わる研究分野をネタに話し込む訳も無かった為、今この別れのときをもってわたしは初めて彼が何の為に越境してまで調査に向かったのかを知った。
 それにしてもマタンゴの報せなどというものは有翼の魔物からも聞いて居ないのだが。

「注意序でですがこれをお渡しします。消耗品ですが護身となりましょう」

 別れの挨拶に、わたしは塩込め筒3本の入った布袋を餞別として学者に託した。
 中身の効果を説明すると学者は大層喜んだが、これから諦観的決意を胸に淫獄に向かう男に対して「あなたが昨夜仲良くしていた水魔には効かない等といった例外も、恐らく多く存在している」という事実を話す程迄わたしは鬼ではなかった。



「...ねぇ」

 学者が出て行ってから乾パンを齧っていたわたしに向かって、起きたばかりの水魔がおはようと炊口からのろのろ這い出て挨拶した。わたしが菌糸類の魔法生物が山に現れたという事に対処法の無さを絶望しつつ挨拶を返すと、奥の壁を歪み透かしてみせる水魔は佇まいをそのままに、例によって定位置である金盥に移動する。それから暫くの時間を置いてから、水魔はぽつり散歩がしたいと呟いた。常日頃言っている事を守るってなら勝手に行けばよかろうと、わたしは研究手帳を片手に酸味の強いコーヒーを飲んで魔物を見ずに言い返す。

「...ちゃう」.
「何」
「...いっしょにおしごとしたい」

 水魔は俯きがちに訴えた。
 気恥ずかしいと思う感情が単細胞魔物に有されているとは考え難い。
 スライムの掛け合いに猶も食いついて来る姿勢は慣れに慣れていたものだが、これはちょっとばかり意外な発言だった。一般的な魔物ともすれば当然の娘子のような懐き方には覚悟していたところのあるわたしでさえも息を詰まらせコーヒーを鼻に通してしまう。それ程迄に言わば可愛らしく破壊力のある変化球であったのである。

「そもそもおまえ歩く足なんぞ持ってないだろ」
「...む」

 金盥の中で鎮座したスライムにはどこがしかに不貞腐れた様が見受けられた。その不機嫌の指標は視線かそれとも態度からか、極自然と水妖の感情機微を把握するに至る迄慣れを来たしてきたわたしでさえもよく判っていない。
 しかし外に出たいなどとでも言うならば監禁などしている訳でも無いので返す言葉もあったものだが、わたしの警備に同行してみたいと宣うとは想定の範囲外である。その実、どうやら思い付きの発言らしさが水魔の雰囲気や態度から滲み出ているのが判り得たので、何とも急な話であった。

「...つくるよ。あし、つくればいいんでしょ」

 水魔は最近覚えたらしい上目遣いの姿勢から、拗ねた口調で言い迫る。
 わたしはその大方の相貌のつくりがよく判る様に成ってきつつある顔を細目で見下ろし、嘆息して唸る。右手人差し指で額をつつき、これについてどの様な対応を図るべきかを閉目し考えた。

「それはそうとしても住民の目がある分流石に下流には連れて行けん」

 かと言ったところで、午後に響く様な事を午前にしたくも無い。

「...だめなの」
「ん、んん」

 それから水溜まりは黙り続け、わたしは依然椅子に負担を掛けるような斜座りを構えながら唸る。
 水魔が金盥の中で揺れ、水の跳ねる音を家の中に響かせる。

「仕方ないか。これから下流回って、午後に上流にしてみよう」
「...どゆこと」
.「まあ午後からなら連れてってやるって意味だ。
 本来の巡回どおりじゃないからトラブル対処が遅れ易いんだ。
 偶に気紛れで順序入れ替える事もあるけどそれは日を見計らってだし」
「...いいの」
「まあな」
「...ほんとのほんとなの」
「ん、んん」

 わたしは残りの少なくなった温いコーヒー全てをマグカップから喉に流し込み、渋々水魔に頷いた。

「別に面白い事なんぞひとつたりともありゃせんが」
「...ふわぁ」

 相当伸びやかだった故に奇天烈となった感嘆が聞こえ、わたしは目を開いて水魔の方を見遣る。この許可が余程嬉しい事であったのか、普段から溶けている顔が殊更に蕩けていた。それからのスライムは盥の中から這い出て、いそいそとわたしの午前警備の支度を手伝おうとした。
 わたしは水魔の手伝いによって逆に手間取りながら早々に解放されるべく普段よりも半刻以上早めに家を出た。

 と、いうところ迄が昨晩と今朝の話である。

「...まってぇ」

 下流警備を終え速攻で軽い昼食を採り、水魔を連れて上流へと足を運ぶ。
 それが午後に入って直ぐの事であった。

「...ねぇえ」

 それが今やどうだ。既に夜ではないか。水魔の動きが鈍いものだとは知っていたが、よもやこれ程迄とはと肩を落としたのは今日に入って何度目だろうか。
 わたしは正直辟易しつつ水魔を見遣る為に振り返り、渋々光源を後方へと照射した。すると、魔物はわたしの現在の立ち位置からそれなりの距離のある場所に立って居た。透明だが人間仕様の姿に整った水魔はぎこちなく歩き続けるが、一投足が成程遅い。注視しなければ足に装着しているブーツとボール核以外が周囲の闇に溶け込んでしまい、奇妙な光景となってしまう。そんな透き通ったものが、天高く張られた綱を渡る芸人か、あるいは船首で潮風を一身に受けたがる夢見がちな大人のように手を広げ、平均台上を進む子供のような危うい足取りでわたしを追いかけているのだ。これは一種のホラーにでも例えられるのではなかろうか。

「早くしろ」
「...にぅ」
「もう深夜だってのに、さっき折り返したばかりなのは流石にまずいぞ」

 わたしは呻いた。
 結界警備の仕事において、実際のところその警備規模や時間、巡回周期はマニュアル化されている訳ではない。その“立場上”から何らかの規定が成されていても終局無意味となる為だ。つまり、最低限の条件である人間領の魔法生物不可侵を務め上げる事さえ守れば良いのである。自身で設けた効率良好な巡回警備も本来的には何時間継続したところで誰から咎められる訳も無く、逆に家に篭もりどおしで居たとしても付近に住む人民と衝突を起こさない限り誰か彼かから怒られる事も無い。
 つまりわたしが参っている理由とは。

「寝る時間が無くなるのだけは勘弁してくれ」

 体調維持に支障を来たす事を防ぎたいが為に尽きるのだ。
 スライムがわたしに追い着くのをしこたま辛抱して待ってから、わたしは出来るだけゆっくりと再び歩き出す。可能な限り疲れない歩き方は開発済みであるが、それにしても思わぬ心労を無駄に背負った一日ではないかと頬を掻く。

「...くらいにぅ」
「こんな事なら今日だけ特別に4分の1の距離に設定しておきゃあ良かったわな」
「...ごめんね」
「せめて次からはもっと早く言ってくれよ。事前準備が必要だって事を思い知らせた」
「...ん」

 少しだけ嬉しそうな色を帯びた魔物の声に、わたしは空を見上げた。

「せめてもの救いかね。いい月夜だ」
「...よるって、きもちいねぇ」

 ぽつり魔物が呟いた言葉のとおり、この川辺は夜風に包まれていた。
 雲一切の無い快晴に、欠け月と無数の星にそれらを連ねる川が浮かんでいて非常に綺麗であった。とは言ったものの、その光量は道を照らすには不十分であり、道に慣れぬ水魔が昼間よりも大きくよろめき歩いている事に数分前からの変わりは当然として無い。僅かな月明かりすらも反射させる透明質の、その剰りに儚げな存在感を示す水魔には、数ヶ月前からも一向に今も変わらず息を呑ませられる姿を見せ付けられる。

「そうかい」

 わたしは極自然と月から移していた水妖への視線を切って、単調な言葉を投げる。

「...けど、みちはなんもみえんよ」
「夜目ぐらい利くだろ、おまえ」
「...やめってなに」
「暗くても見えないことは無い筈だって事」
「...ひょぇ」
「寧ろ今こそ光ってくれ。おまえが輝く好機だぞ」
「...むりにゃぁ」
「ホントおまえ何の為に魔法生物やってんだよ」
「...と」

 軽い会話の途中、水魔は拙い足取りから伸びる危うい均衡を崩して前に倒れかかる。

「と、て」

 別段水魔が地面に転がろうが研究に差し障りも無く本来どうでもいいというのに、わたしの咄嗟の反応はどうやら違ったらしい。わたしは半身回旋し、防水を施したコートの左腕でスライムの、ヒトの腹部に当たる部分を押さえたのだ。瞬間、肘から手首までがその透明な水状の固体に包り、涼しい感覚と共に背中の汗腺が開いて髪が浮き立つ思いになる。その左腕は柔らかな緩衝に勢いを止めると思いきや、そのままゆるり水魔の急所であるボール核に触れる。

「...んぅ」

 短く声を発てる水魔に一瞬飛び退きたい気持ちであったが、水魔は形のはっきりした両手を前に突き出し受身を取ろうとしていた為、その腕に自然とわたしの左腕が掴まれてしまう。これでは動けない為、直ぐに水魔の体重の殆どが自身の腕に圧し掛かってくる感覚に囚われ、負荷に眉を顰めつつも違和感を覚える。

「...んむ」

 目を凝らす。
 正直に驚くが、同時に焦りから喉が詰まった。
 わたしの唯一無二の左腕が水魔の核に飲み込まれていたのだ。
 感覚を失った訳でもなく、食われていない左手首の上から指ですら確りと動く。しかしながら、何をどうしてもボール核はわたしの腕を貫通している様にしか見えなかった。

「何」
「...う」

 水魔の声に、わたしは再度言葉を詰まらせる。

「...い、ぁ」

 水妖は何をしたのか。
 呆然と、恍惚と、陶酔して居る様に魔物が呻く。
 その音波は左腕から信じられない程骨身全てに伝播し、芯から振動が込み上がる囁きだった。天女の羽衣の中に篭っていると錯覚する心地良さと数年来一滴の水も口にしていないかの様な渇きに同時に襲われたわたしは、その思わぬ衝動から咄嗟に右手で塩袋を突いて無造作に塩一握分を取り出した。焦燥感に只管駆られ、即刻体勢を立て直すべく水魔の圧し掛かる逆方向に足腰を使って反発する。しかし、体の痺れと水魔の重量から思わずして片膝を地に着けてしまう。だが却って足に泥をつけた甲斐あって獲得した均衡感覚から、わたしは右手拳をスライムの胸に突き刺した。首筋の隙間から水魔の気配が這入り込んでいるらしい感覚煮無視を決めて右手を開き、塩を魔物の中に直接開放する。

「...ゃう、や。あ、め」

 効果覿面と水魔が喘ぐ。これで異常事態からは回避できるかと半ば安堵したが、水魔がいつもの変調と違う反応を見せている事に気付いた。
 普段であればその吐息も冷たい筈だが、何故か熱を持っていた。しかしながらもわたしはこの事態にきて初めて見せる観察対象の数々の変化を記録する暇がないと惜しむ余裕すら無く、次の衝動に脂汗を自然噴出させざるを得なかった。やはりと言えばそうなのだが、魔物に触れて無事で済む訳が無いらしく、左腕には激痛が走ったのである。更には右手も水魔にそのまま囚われてしまい、これでまともに動く事すら侭成らない体勢が完成してしまった事になる。
 わたしは水魔の重みから無理矢理体を捻って重心を移動し、可能な限り楽な姿勢をとってその左腕を水魔の頭で透かして見る。

「...や、ぃや、やぁ」

 何度となく水魔が声を発てる。
 実を言えば、水魔の体に直接塩を注入する事は耐水妖グローブを使っても試した経験が無かった。だが、容易な想像として絶大な反応を示す点に於いては真実であったらしく、水魔は悶絶という言葉に相応しい踊りを見せた。ただしその絶倒ものの衝撃を受けても猶、スライムはヒトとして形作り耐えている。これは今かなりの珍妙不可思議に直面して居るのだと強く思うに十分な状況だった。

「ふざけるなよ。せめて家に」

 着いてからにしてくれよ。
 わたしは声を荒げたが、それは思った以上にくぐもって夜の冷ややかな空気に溶ける。魔物の発する熱と音だけが夜の空気にいつまでも残留し続けて、成す術の見つからないわたしの意識を如何ともし難く攪乱する。
 わたしの視界には既にぼやけが生じ始めていた。

「...ん、んあ、い、あ、あぁう」

 魔物からかちかちと聞いた事の無い鉱物同士の衝突音に似た声が上がり始める。
 動物的以上に生物的な危機感をここにきて苛烈な迄に覚えたわたしは、脳を明滅させる囁きと左腕への獰猛な痛みを差し置かせ、僅かだが残す事の出来た思考回路を脳の前面に引っ張り出し、持ち得る限りのエネルギーと血中酸素を使って最善策を探し出す。

「魔力」

 閃く間も無く外套右側から極短く垂らした似非犬笛に体を小さく振って噛み付き、唇を閉じずに息を吸う。

「貸せ」

 状況の打破には結局凡そヒトの通力では適わない力を用いるしかない。移動魔法、転移呪文、召喚といった要素を持つ魔術を仕込んだ笛に、左腕と右手から直接水魔の魔力を吸い取って喉から口先に回す。熱蜜に似た魔法生物特有の魔力が血管を這い巡る感覚に奥歯をかみ締める思いで耐え忍びつつ、口を閉じて笛を吹いた。

「...うぅ、ぁあああ」.

 似非犬笛は準マジックアイテムである。
 傍に居る魔物の魔力を消費して作動させる効果を持つものであり、家前の切り株に施された護法魔術と同様の友人が残したものだった。仕事柄必ず見える“逃げなければならない場面”へと陥った際に使うのだが、如何せん大量のコストを消費する。直に触れた魔物の力を流用して魔術起動に使用する事で、わたしも避難出来るうえに魔物へもある程度の負荷を与える事による行動制限を掛けられるという一石二鳥の代物である。
 更に、魔物と雖も移動呪文にはそれなりの魔力を消費するものである。加えてその消費が前触れ無く唐突に起こるのだから、水妖にとっては予想だにしない急激な負担だろう。

「...ぁ、ぁう」

 ただし、わたしは水魔に移動魔術を仕掛けた事は一度として無い。故にこれがどのような反応を呼び、どのような結果を生むのかは知るところではなかった。
 この状況は剰りにも初めての出来事が頻発しておりそれら全てが同時に幾重ものブラックボックスとなって目の前で展開されようとしていたのである。

「クソが」

 だが、それがどうしたというのだ。
 水魔は痙攣しつつわたしの背中に倒れている。
 わたしは笛を吹く。
 足ものが光る。
 無音の笛を強く鳴らす。
 少しずつ白い光が足から昇ってくる。
 その少しずつ行われていく転移に息継ぎを行う。
 魔物が水に成り始め、首元からコートの中に這入り込んでいく。
 背中の汗が舐められているような気がしたわたしは、更に背筋を凍らせる。

「...ぃ、ゃ」

 膝が土に塗れてからどれ程の時間をおいた事だろうか。
 一瞬の焦燥であったと思う一方で、永劫の苦痛であった気がした。
 わたしは目の前が全て白になるとほぼ同時に家の中に着いた。転移完了を確認した後は直ぐ様消耗仕切った水魔を金盥に移す作業に取り掛かる。熱を持ちどろり蕩けきっている今迄の中で最も液体然とした水魔を背中から盥の中に零していく。そのまま右手を水妖の体から引き抜こうとすると未だ強い抵抗があり、肩を使って思い切り抜き取る。思わぬ負荷が掛かったせいか、熱に浮かれた左腕から聞いたことの無い音が頭蓋の内側と木張りの部屋に反響した。

「...うあぅ、ぅぅぅ」

 わたしは左腕を見てその音の意味を悟る。
 水魔はヒトの形を完全に崩して猶呻き震えて居たが、また異なる意味から震えを止めきれぬわたしは氷然と澄み渡る四感の冴えに、併せてこれ以上無い程完全に言葉を失った意識白濁の境中で、水魔の溢れる金盥へと沈んでいった。


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10.08.07 次回は多忙なため1ヶ月先です。

12.10.05 まさか年単位での更新なんて2年前は思ってなかったな…

12/10/05 20:29 さかまたオルカ

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