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山峰 |
久しい巡回も午後分も終え、大蛞蝓をいつもどおりの方法で山側に放り返した後の事。
わたしは昼方一旦家に戻った際に準備していた極々簡素な野菜スープに火を掛け直し、温まった段階で牛腿肉の燻製を薄めに切って投入し、表面に浮く油の色が変わった時を見計らってクリームを足し混ぜる。ふつふつと音が発ち始めた頃合から、鍋からは徐々に芳しい乳白色が昇り始めていく。甘みを帯びた暖気は一日中鈍痛を訴えていた頭に幾許かの余裕を生み、始終張り詰めていた喉元から息の塊が極自然に解れて零れていく。時間と体力に余裕が無い事から随分簡略化した手順によるものだったが、しかしてそれでも栄養満点で体力の回復を考えるには絶好のシチューが完成したのである。 「やびゃあああああああああああああああああああああああああああ」 後に残した事が食器の準備を整えるだけであったというところで、わたしの家の中は外からがちがちと雷に撃たれた樹木が火花を伴って爆ぜる様な炸裂音と、凡そ普段の生活の中では聞く事が無いであろう壮絶な断末魔で木霊した。その大音量は自然と家を軋ませ、棚に閉まってある食器が鈴の如く鳴り始める。わたしはそれらをおどろおどろしく思いながらも聞き流した。 このタイミングで思い切りの良い絶叫が玄関口からしたという事は、恰も今迄を悠然と待ち構えてわたしの動向を図り、ここぞという時に叫び始めた様にも思えた為であった。 「ああああぁぁぁぁぁ」 叫声のボリュームが砂山を崩す様に絞られて遂に途切れると、わたしは黙って鍋の火を落としてゆっくりと肩を回し、依然身体に居座る筋肉のしこりを和らげてから戸口まで向かって歩き出した。 どうやら有翼の魔物というものは、昨晩相対したばかりであろうがその来訪スパンに関係無く、シチューさえあれば家に来るらしい。本日学習した事として日記にでも書き留めて置こうと思う。わたしは、最早これは絶対必然の理だか何だかとしか言い得無い法則めいたものなのだろうと頭を抱えた。そして頭を抱えた序でに、羽根着き少女を家の前に鎮座する切り株から引き擦り離して、グラスに注いだ冷たい井戸水を喉に流し込む。 「いやぁ、ありがとうございます。危なく死んでしまうところでした」 「いやぁじゃねえよ。おまえ本当にいつか死ぬぞ」 それから暫くして目を醒まし、最早定型句と化した言葉を照れくさそうに笑って吐き出した魔物に、わたしは思わず悪態を吐き返した。濡れ羽色の毛髪はちりぢりにパーマされずに相変わらず綺麗なものだが、腕より生える羽毛が発する特別変なにおいにただただ眉を顰めた。この外に満ちる焦げ臭さは熊でも逃げ出す程にたまったものではない。 「昨日焦げてなかったと思うが。まさか一日経ってもう忘れたのか」 「いやあ、昨日は目印があったので」 「目印か」 「はい。真っ赤で小さいポイントでした。危うく踏み潰すところでしたが」 赤頭巾の蛞蝓が目印かと、わたしは予想しつつも首を捻った。 しかしかなりどうでも良い事だろうと思いなおし、疑問を頭の隅から外に放り出す。 「一応訊くけど、おまえ昨日の今日で何か用事があったか」 「え、折角お呼ばれされたんですから来たまでですよ」 「呼んでないが」 「あれれ、そうでしたっけ」 「シチュー作ってただけだが」 「やっぱ呼んでるじゃないですか。あなたのシチューは私の大好物なんですから」 「流石に対岸越えて匂い嗅ぎ付けたとか言わないよな」 「そのまさかですよ」 「ええおい嘘だろ」 「まあまあ」 有翼の魔物はにこやかをもって露骨に話を流し、一見華奢に見える体をわたしの脇から抜けて家の中へと滑って行った。わたしは切り株を一瞥してからぴこぴこ揺れるはねっかえりの強い癖毛を見つつ、続き様に家へ戻って錠を掛けなおす。 わたしは有翼の魔物を定位置である椅子に座らせてから、木皿や安っぽい陶磁器をひとり分多く棚から取り出し、若干片付けたテーブルに並べる。鍋敷を果物缶の山から引っ張り出して、火から上げられ煮立つ直前の鉄鍋をその上に乗せる。湯気が有翼の魔物の備考を擽ったらしく、閉目し恍惚な表情を浮かべて方から下を捩じらせた。ちゅるり舌なめずりをして、わたしの方を上目で見遣る。 「鼻下伸びてるぞ」 「ええ、いただいてもよろしいでしょうか」 「残念だったな。開店準備中だ」 「席に案内してからその言葉ですか」 「待ってろや」 「なんでですか! いけずですね!」 「怒るなよ」 「こんなかわいい美少女捕まえておいてスープ一匙くれないだなんて!」 「おまえ毎回毎度ひとのスープ全部掻っ攫っといて更に欲しがるとか何様のつもりだよ」 「ふふん、聞いて驚いてください」 有翼の魔物は目を閉じたまま息を吸って、吐いた。 一連の動作は悉く胸を強調するもので、わたしは彼女の着るカット・シャツに載る薄く細い橙色のスプライトが間隔を伸ばしていく様を見ていた。薄生地であった分、下着のラインまでくっきりと目に入る。ゆっくりと息を整えた様子の少女は、さも当然と言わんばかりに真顔で言った真顔になる。 「お客様です」 「帰れ」 わたしはオーブンからパンを取り出し、焦茶色の木皿に載せて机に置いた。 それからわたし自身もオレンジ・ティーの入ったマグカップをふたつ持って席をつき、そのひとつを有翼の魔物に与える。更に日毎の糧に感謝し黙祷を済ますと、木匙を手に取った有翼の魔物がこの瞬間を数時間も待ち侘びていたかの様にスープへ飛びかかる。 「やった開店だ」 「残念。緊急閉店だ」 「えええ、いきなり何ですか」 「冗談だ。食いながら聞いてくれ」 「ん、はあ、じゃ遠慮なく」 有翼の魔物が目を輝かせ、白い指で支える匙にさらり栄養満点の白を乗せる。 彼女の種族的にもアイデンティティとなる黒い翼はその華奢な体の中に格納しているというが、剰りに跡形の無い消え様には極自然と生じてくる違和感を拭えない。 わたしは頭を軽く振ってからシチューを一口含み、喉の奥まで流してから話す事にした。 「山に行こうと思う。おまえの上司に会いに」 「っ、むぶ、ふ」 目の前に座る少女は最初に手を中空に止め、次に少しずつ目を丸くした。そして、足元から燃え上がる様に赤くなり、そのままの勢いで咽せ込んだ。奇跡的に胃袋に流されていたシチュー等までが吹き零れる事は無かったものの、真っ赤に染めあがった顔には大粒の涙が乗っている。間近でシチューを飲み乾さんとしていた為にその前髪が蒸気で少しばかり濡れているので、最早食卓を前にする様相とは程遠く見えた。 「凄い咽方だ。もう何か芸術的な感じだぞ」 「心配してくださいよ」 「どうせおまえ大丈夫だろう」 有翼の魔物は胸に手を当てて溜息をつき、わたしに批難の視線を送って来た。 「ひどいじゃないですか。 私に全然食べさせる気無いですよねその話題」 「そんな事もなかろう」 「いいえあります。美味しいシチューをより美味しく食べるなら尚更です」 有翼の魔物は舐めて光る木匙をわたしに向かって突くが如く指した。その深夜に騒ぐ猫すらも黙らせる鋭い眼差しと雪原で唯一霜の降り忘れた鉄管の様に迫力を乗せた気勢に、わたしは少女が人ならざるものである事を再確認する。しかし、熱心にもじいと見られると、何と無しにも目を逸らしてしまいたくなるのが人情だが、ここで敢えて意地になるのがわたしの職業である。わたしと魔物は暫くの間威嚇めいた雰囲気の鍔迫り合いをした。 「大熊や大鹿の縄張りでもありますから、私達ですら全域が絶対安全とは限りませんが」 一息ばかり目を閉じて吐き出す魔物は、肩を落としながらに睨むとも似て非なる、そのどこか真摯な眼差しを向けて喋りだす。 「山は私どもの領地、謂わば魔力に漲っていないだけの魔界です」 「熊鹿なぞ河渡りの常連だが、して、それが何だってんだ」 「本当ですか初耳なんですけど」 「おまえ何の為に襤褸コートで重装備してると思ってんだよ」 つっけんどんな返し言葉では当然怯む事無く、彼女は目力の手加減を忘れてわたしを見据える。つい先程まですっかり上気していた表情はどこかへ姿を消しており、一介の魔物らしさ漂う冬の井戸桶の金輪を思わせる静寂の強要に、わたしは米神を疼かせた。 「魔術武装の話はいいです。それより山に入ってからあるじさまと何を話そうと」 「あるじさま、か」 「はい。あるじさまと、です」 「水魔の件だ」 少しだけだったが、確かに有翼の魔物の目尻に反応があった事をわたしは確認した。 わたし自身としては努めて平静な視線を送っていたが、継ぎの句を待っているのか黙ったままの魔物の様子をもって、これを好機であるとして続けて口を開く事にする。 「あれ程迄にひとつの事に命を掛けて生き生きしたのは久しぶりどころか初めてだ。 自分事ながら、かの伝説の熱血漢シューゾですら仰天させる打ち込み様だったろう。 その丹精磨いた研究が満足の目処すら立たずに終わるなぞ、腹をかかずにいられるか」 「だからって、幾らなんでも正気を疑いますよ。 こんな辺鄙な場所に居を構えてインキュバスになるのは嫌だと常々言っている癖に」 「半魔界程度なら国境警備員の研修で体験済みだ。如何とでもなる」 「甘い」 常日頃に有翼の魔物が纏う雰囲気とは大きく違っている事は重々承知の上だったが、ぴしゃり一言で切り落としに掛かって来た鬼気がより一層に濃くなって顔面に現れる。 悪魔でも静かに、しかし“ドスの利いた”とはこういうものかと納得する程の威圧の篭った声で魔物は反論する。 「こちとらたかだか旅行ひとつの経験で行ける場所と思われては困ります。 指南統率権謀術数に長じ一騎当千の力を有し、更に容姿端麗華美荘厳。 そしてその底知らずの慈悲と圧倒性、とても人間が如何こう出来るお方ではありません」 「随分な讃美だが、生憎おまえの敬愛する山の主がどれ程の存在かは知らんでな。 まるで、その山の主がおまえの側で透明化して聞き耳でも立てている様に聞こえるぞ」 「とんでもない。あるじさまはそんな下賤事をせずとも総て見通されておいでです」 「そりゃ随分恐ろしい。どうせならこの国境警備の効率化をご教示願いたいものだが」 見通す、それはつまりどういう事だろうか。 ひと目見た事すら無いわたしの今後が如何にして揺れ動いてゆくかすらをも容易に想像でき、その一本道の先々に待ち受けている様々をどう対処するのか疾うに知っている、そんな物見遊山が与うるだけ力を有し、神に等しくもなお世界に愛された存在なのか。 だとすると、そんなものが何故一介の山脈の主君となっているのか。魔族にとってあの山がごっつ恐ろしい曰付きの物件なのか、はたまた霊験あらたかな聖地なのか。 「しかしどうしてそこまで食って掛かるんだ。 おまえに住処の大事を思う気持ちがあるなら、普通は人間の入山を歓迎するだろう」 「普通じゃないんですよあなたの場合」 「確かに徒に絡め取られる心算は無いが、おまえ等にとっちゃ結局普通じゃねえの」 「違います。 私の予想をあるじさまが当てられてしまえば、私の居場所が無くなってしまうんですよ」 徐々に少女の眼光は鈍くなり、再び顔は紅潮し、それ以上に両目が潤ってきていた。 わたしは即座にこれはまずい状況になってしまったと判断するが、如何せん空気の壊し方が判らない。 「何かおまえ、いや、何考えてんだ」 「私かなり頑張ってアピールしてるじゃないですか。 でもあなた舌噛み千切ってでも魔物女房はお断りって決心してたじゃないですか」 有翼の魔物の声は徐々に潤いを含んでいき、最後には溺れそうにも思える音となった。 喉元で抑揚を抑え、胸の内から込み上がって来るものを宥めようとするその顔は眉を僅かに吊り上がらせている。更に瞼が伏され、彼女はわたしに長い睫の震えを見せる。すらり高い鼻にも少しばかりの皺が寄り、きゅっと端を結んだ桃色の唇も僅かに震えていた。 わたしは後頭部を掻き乱し、喉を鳴らして勘弁してくれと訴えた。 「泣くのはずるくないか」 「ええそうですずるいですよ。ずる過ぎです」 「そんな凄い勢いで認められても困る」 「違いますあなたが、いえ、それ以上にスライムがずるいんです」 少女の顔に一筋ばかり、左目から頬にかけて光が伝った。 「何の為にアプローチしてたんですか、私」 「再三に渡って無碍にしてきたこっちに訊くな」 「あなた、凄い失礼なんですよ。私がここまで好きだって言ってるのに」 「遂にはっきり言ったな」 有翼の魔物の心がわたしにどう向いているのか、流石に知らなかった訳が無い。 わたしは遂にこの時が来てしまったかと項垂れる気持ちを隠して肩を張る。 魔物に情を掛けてはならないとは、一神教の経典にあった言葉だったか。 「これで私も晴れて最悪な敵対関係ですか」 「随分前から知っていた分、今後のおまえ次第だろうな」 「でも、私は何も無茶言っていたりする訳でも無いですよね。 ただあなたが周りの誰も彼もを一切見ないで私の一番近くにいて、 どんな横槍もどんな邪魔も受けずにたくさんたくさんたくさん愛し合って、 かわいい赤ちゃんをいっぱいいっぱいつくって皆で静かに暮らしたいだけですよ」 「無茶言うなよ」 「はい」 「はいじゃねえよ何に対しての返事だよ」 突然の捲し立てに空目するも、わたしは自分の為に用意したシチューを一掬い飲んだ。有翼の魔物の言葉が想像以上に重く感じたのは、錯覚ではなかったと思うのだが。忘れようにも失礼すぎるが忘れてしまいたい告白の羅列ではなかっただろうか。魔物は須らく同じ考え方なのかといえばそうではなかろうが、しかし耳にずんと来るものがあった。 「でも、私が居なくなってしまえば独り身のあなたには大変貴重な話し相手を失いますね」 「仕方ないだろう。こっちだって何時覚悟を噛み潰す事になるか心配だ」 目を瞬かせてわたしを見遣る魔物は眉を顰めて口を開き、そして何も言わずに閉じる。 そう言えば、有翼の魔物に対してわたしの奥歯に劇薬が込められている事なぞ話した記憶が無い。国境警備員が何の組織に属し、何によって律せられているどういった存在であるのかを相当考えていなければ、不意の初耳を訝しむ事も無く、何らかのもっと遠い意味を持つ比喩なのだろうと勘違いして不思議でない内容だろう。 ただ、流石に頭の回転が速いだけの事はある。その表情を見るに、どうやらたった一言で勘繰られてしまったらしい。 「なあ」 わたしは少女の下瞼に曲げ指で触れると、彼女は俯いた。 長い睫毛からわたしの指に涙が移り、有翼の魔物は指に涙を優しく擦り付ける。顔が動き、それに乗じて滑る指が頬に残る涙の線をなぞっていく。わたしはそこで指を離し、少しばかり冷えているが柔らかな頬を摘んだ。 魔物の頬は、とても柔かくよく伸びた。 「ふゃい」 歪まされ回らなくなった口から、中途半端な返事が漏れる。わたしは彼女の頬から指を離し、表情を終始変化させないよう努めて普通を取り繕った。 「おまえは笑っとけ」 「だえが泣かぇたとおぉってれぅでしゅかね」 「何言ってるか全然判らんぞ」 「むぃ。んう、誰が、泣かせたと、思って、るんですか、ねえ」 「勝手に泣いただけだろ」 「ふへ、ほんなこと言っひゃうんでしか」 一旦わたしの指から逃れた頬は再度捕らえられ、ふと何が可笑しいのか顔を綻ばせた。 あえて表現すると、にへら。有翼の魔物は涙濡れながらに、確かにそう笑った。 妙にすっきりとしたらしい少女は、ただ笑った。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「掻い摘んで話しときます」 有翼の魔物がそう言って山に帰った後の朝。 未だ夜の帳が上がらず刺々しい寒気を湛えた外の井戸から冷たい水を汲み取ったわたしは、針のように硬い細草に足を濡らしつつも滑らないよう家に戻り、その一部を盥にあけて顔を洗って口を漱ぎ、吐き出した。続いては歯を磨きながら薬缶を火に掛けて暖炉に木をくべ、欠伸をしたところで後頭部の疼きを掻き散らした。灰の掻き出しもそろそろ必要かと考えながら肩を回し、大方重みが馴染んできた体の調子を確認する。 わたしは緊要品である十得ナイフで貴重な生ハムを薄切りに分け、暖炉上の薬缶の横に敷いていた銀紙に載せて温めていたパンを取った。 「我ながらつくづく」 行動が早い。 昨日の今日で、どうしてこうも段取り良く事を進めているのか。 わたしにとって、あのスライムは命を賭ける程に価値のある研究素材なのか。 俄研究者なぞ衒学家と比較にもならない滑稽さだろうに、わたしは何を擲って打ち込む必要があるのか。 もっと醒めた目で省みる必要があるのではないか。 あのスライムは、わたしにとって結局何なのか。 「いや」 ひとりごちて考える事を止めた。 この思案の先には何が待ち受けているのか、わたしは疾うに予見している。さりとて職業柄見止める訳にもいかないし、万に一つ確定した未来であったとしても認めてはならない。何よりわたしがわたし自身の為を思うならばこその、踏み込んではならない領域であった。 ただ言える事は、一夜明けたところで結局水魔は顔を見せに戻らなかった事ぐらいだ。 でも、それが、どうしたというのだ。わが身可愛いわたしの人生に於いて、それが。 わたしは頭を振って両肩と腰に湿布を張り付けてからフェイク・シルクの下着に厚手の雑綿着を着込んで、数人分は在ろうかという重量の鋼糸編みマフラーを首に巻きつけ、裏地に物騒な鉄塊等々を整然と留めているレザー・ジャケットを羽織り、更に厚い黒ベルトを腰に巻く。そして、がらら音を出す無数のポシェットを押さえつけ、襟を折って一息ついたところで、こつん、こつんと戸を叩く音が耳に入った。 それは迎えと出発の合図であり、わたしはたんまり塩を詰め込んだ3袋の革紐をベルト側面に吊るす。 わたしが乾パンと缶詰、魔法瓶に火薬、油、高所用簡易テントを詰めたバックパックを背負いながらに外へ出ると、妙に佇まいを整えている有翼の魔物が待ち受ける。三日連続で相対した事は長い付き合いとは言え初めてであったが、それにしても随分と小洒落たと言うか、異様に実務的な機能を揃えているとでも言得る格好だ。影の降りた七竈色が印象的なネクタイに純白のカット・シャツと白口のホット・パンツ、長いブーツ・タイプと身を固めており、白い肌やシャツは薄暗い外気に良く映えたものだったが、黒い髪や翼が明け方の闇に融け気味で不気味な雰囲気を醸し出していた。 「おはようございます。用意はよろしいですか」 「ああ、おはよう。今朝は叫ばなかったんだな」 「暗いうちは慎重になりますよ。鳥目ですし」 どうやら魔物は切り株に触れずに済んだらしく、道理で焦げ臭いにおいは漂わせていなかった。昨日の事もある為わたしに対して幾らか身を引いた行動を取る事は想像に難くなかったが、しかして実際思っていた行動とはどこか斜め上といった感じで様子が違う。対応に困っている以上に、あからさまな余所余所しさと硬い表情だった。 つまるところは、わたしの知っている顔ではなかった。 彼女は今、山という組織の一副官だった。 「まあわたしの事はいいですよ。お手伝いしますからさっさと朝の警備しちゃいましょう」 「ん、おう」 「ほら、じゃあ、さっさと行きましょう。さっさと」 実際一瞬で終わったとしてもまだ暗みがかった時間帯に訪れるのはいかがなものかと思うものの、有翼の魔物はわたしと異なる考えを持っているらしい。 「そう急かすな」 わたしは半ば渋りつつも、最終的には共同作業での警備業務を始めた。しかしながらどうしてか、これがまた何ともけったいでわたしにとっては面白いものだった。わたしが有翼の魔物に塩の塊を投げ渡すと、魔物は羽を巧みに使って風を操り、器用にも遠く迄細長く続くソルト・ラインを形成していく。さっさとを強調するだけあってぱっぱと仕事を片付けていく様は見ていてとても総会なのだが、ある意味に於いてわたしは立つ瀬が無いので顔を引き攣らせざるを得なかった。 兎角ソルト・ラインが普段よりも数段早く完成すると、わたしと有翼の魔物は山を目指す事となる。案内役を買って出ていた有翼の魔物は空を経由しようとしていたらしく、わたしは彼女にベルトを下げて貰い、そこに体を留めて命綱とした上で彼女の足首を掴んだ。 有翼の魔物の足は猛禽類の蹴爪と良く似ている構造であり、その上を掴むのだから非常に手にしっくり来る。 「落ちないで下さいね」 「落とさないでくれよ」 そう言い合って足を浮かし始め、次に足に支えが着いたのは大体にして30分後である。 普段より急場凌ぐ方法を掴み取る為にも身体は鍛えていたものの、流石に30分もの間を可能な限り動かず一心に足首を掴み続けるとなると、正直きついものがあった。会話するにも川沿いや山の空は風のうねりが酷い為に声の疎通が侭ならず、只でさえ厳しい体勢の中でその面倒な風どもに揺るがされているのだから、必死に足を掴み続ける他に何かしら思考をこねくり回して迄する事が無い。確かに太陽が昇っていく時間を空の中で過ごせた事は非常に貴重な経験になったし、気象状況も味方してのあれ程迄に綺麗な光景はそう見られるものではなく、有翼の魔物とて幾許かの心揺さぶられた雰囲気があった。 が、至極真っ当にこの状況下においての強風は余裕を制圧するのだからいただけない。雰囲気も何もあったものじゃない体勢に加えて、疲労が尋常でないわたしを他所にしても普段と勝手が違う空駆りに苦戦していた有翼の魔物もまた疲弊調度が見受けられていた。わたしと少女は山麓九分目辺りの大木の上で一度休憩し、それから度々休憩を挟みながらも再び飛び発ち、結局2時間近くもの時間を掛けて山の上に到達する事と相成った。 「着きましたよ」 「いや、お疲れ。ありがとう」 「ええ、ほんとに疲れました。へとへとです。シチュー何皿分でしょうか」 わたしも最近体が重く感じるから猶の事、有翼の魔物も相当な苦労を掛けてしまった。飛んでいるさなかで一瞬彼女の住処にでも連れて行かれてしまえば、わたしの言葉通りの人生という二文字は終わっていたのだ。それが結局、彼女がこうして未だ山の主まで案内する気でいるという事だから、少女はやはり信用に足る存在であったという事になる。有翼の魔物という存在が彼女で良かったとは思わずにいられないが、結局帰りも同様に頼む事になるのだと思えば、恐らく道中手を滑らせる事になるだろうわたしと先程ふらつきに乗じて墜落すら危うくなった彼女の調子も鑑みる中で、恨み節を買うことも当然予想の範囲内に収めておくべきであるし、シチュー数日分を献上せねばなるまい。 「しかし、ひとまずシチューはいいです。あるじさまと会っていただきましょう」 有翼の魔物はわたしから顔を背け、一旦地面を見下ろしてから毅然な態度で歩き始める。 若干の時間を歩いて過ごした後に着いたのは、わたしのあばら屋からは決して見る事の出来ない山陰の部分に当たる場所の、大きな岩窟であった。恐らくは竜の口より大きく開かれたその洞穴は当然のように奥深いのだと、点在し揺らぐ松明の火が証明している。 これが、所謂、ダンジョンというものか。 わたしは漠然と驚いた。 成程普段より見慣れていたとは言え、大きな連峰に主を据えた魔物社会が築かれているとなれば、ダンジョンが無いのだと言う方がおかしい。否、恐らくは斯様な場所があるのだろう事は想像していたものだが、実際に見るとあばら骨の奥あたりが軋む思いになる。有翼の魔物は“山の魔物”であり、“ダンジョンの魔物”である気配は一切見せていなかった。あくまで組織立った行動を見せられていなかった分、彼女の彼女による自称でしか組織の存在を知る術が無かったのだ。わたしが彼女から情報を引き出そうと思えば可能だったのかも知れなかろうが、山の組織が人里に雪崩れ込むと言う事はわたしに対処できる範疇を容易に越えている為に知っていたところで何の得にもならなかったのだから、知っていたところで全く意味が無いし、寧ろ知りたくなかった事であった。 山の主が最深部で待っているとするならば、恐らくはこの連峰の中でも最も巨大かつ攻略が難しい場所なのだろう。人間ひとりで突入してしまえば確実に帰って来られない魔窟然とした威圧感がある。 そそくさとわたしの心持を気にする様子も無く中へと入って行く少女を見失わないように、生唾を飲み込みつつ影に踏み込む。途端、言い知れぬ寒気が背筋から脳天に突き刺さる。深部から届く冷気によるものだろう。更に乗じて流れてきた魔力の気帯に、今度は両腕が生暖かさで包み込まれ、脇下まで撫でられる感覚に捉えられる。鳥肌が立ち、また一歩進む。心なしか、視界が暗い以上に、紫がかって見えてくる。 「あるじさま」 ふと岩壁を響かせる有翼の魔物の声で、わたしは目を醒ました。 登山をしている最中に歩きながら眠ってしまう危なっかしい高等技術を持つ人がいるとは聞いたことがあったが、一切の記憶が無く洞窟の最奥部に達してしまったのだから、どうやらわたしもそのタイプに含まれていたらしい。結局どんな魔物が生息しているノ化などという事は判らなかったが、当ダンジョンの中ボスが仲間で且つ先行してもらっていなければ、こうも行かなかっただろう。 目の前には大きな岩の扉があった。両端に大きな松明をあしらって居る様に見えたが、意外、目を凝らして見直せば燃やす為の木枝が見得無かった。魔法の火かと思って今迄歩いてきた道を振り返ると、点在していた灯りも須らく木の枝なるものが無い。恐らく、これらは総て威厳を見せようとするダンジョン・ボスが管理している筈だろう。そして辺りに漂うどころか充満している甘ったるい魔力の濃さからも、少女の壁向こうへの呼び掛けからも、先に居るものがボスである事は明白だった。 「入れ」 わたしの人生に於いてこれまで聞いたことが無い静けさを湛えた返事が響いてから、これを受けた有翼の魔物は重々しく石の扉に手を掛けて、わたしの視界を開かせていく。 |