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越境 |
最初は甘いにおいだった。
「ちょっと、ねえ、大丈夫ですか」 「へんじがない。ただのしかばねのようだ」 「縁起でもない事言わないで下さいよ。ねえってば、襲っちゃいますよ」 次に、気の軽くなる様な、聞いただけで元気になるような声がした。 快活で悪戯染みた感のある少女達のそれは、人付き合いの薄いわたしが聞き覚えのあるものであり、わたしは薄ら瞼を開いた。 「あ、起きた」 わたしの変化にいち早く少女達は気付いたらしい。 久しく外光を取り入れた瞳孔は暈けた視界のみを展開させ、虹彩と眼球裏に潜む神経に疼痛を生んだ。しかしてわたしを起こしたものが誰なのかを確認せねばなるまいと眼窩の震えを抑えつつ凝らして見遣るや、何やら上下の反転した有翼の魔物と小さな蛞蝓の2体がわたしを覗き込んでいるらしい。暫く黙って資格の回復を待つと、有翼の魔物の目にはわたしの眠たい顔が反射されていると判った。そして彼女の肩に佇む大蛞蝓の奥に映る背景は、他ならぬわたしの家の天井だと言う事も理解した。 声を出そうとしたが喉が上手く機能しないらしく、息しか出来ない。未だ夢心地にあるらしいわたしの神経に喝が入れられたのは、有翼の魔物の羽が頬に触れてからの事と相成った。 「おま、へ、ら」 一言喋らずとも猛烈に顎が痛かった。強すぎる歯軋りをどれだけしたのか。 それだけに飽き足らず、生まれて初めて舌が重いと感じ、歯茎が歯を圧迫している。 わたしの身体に何が起きた。どんな悪夢を見ていたと言うのだろうか。 「おはようございます」 「おまえらーだと。とんだご挨拶頂いちゃったよ。失礼しちゃう」 耳の中に水が詰まっているらしく、少女達の声はくぐもった音になって頭に響く。 何が何やらとわたしは辺りを見回すが、生憎頭迄もが兜を被ったかと錯覚する程矢鱈に重く、梃子でも動いてくれようとしない。 「よかった。目が醒めてほっとしましたよ」 「あと少しで襲う心算だったらしーぞ」 「そりゃ危なかった」 「今夕方だぞ。何日間こんな床に寝転がっていたのさ」 「それより先ず、これは一体どういう経緯で」 わたしは状況の確認をしようとした。 今寝ていたのは我があばら家のリビングだ。様々な魔術が重ねられている以外は何の変哲も無い板張りの床で、丸太作りの梁が頭上を通っている。かような場所で一晩でも寝たものなら体の節々が痛くなるものだが、どうやら今回はその例に漏れたらしい。しかしながら起き上がるべく腕を床から立てようとするもその力が入らない。体が上手く扱えない焦燥感に苛立ちを覚え投遣りになると、首の後ろから暖かさが込み上がってきた。有翼の魔物の柔らかでそれ以上に強い張りのある腿肉が、わたしの頭にその生命熱を優しい脈動に合わせて伝えていたのだ。甘いにおいの正体についても、どうやら有翼の魔物から発せられているものだったらしい。 「何だこれ」 「気に障られましたか。失礼しました」 「手ぇ冷え切ってたんだぞー。どうやって暖めてたと思う」 大蛞蝓がからから笑ってわたしに問いかけ、有翼の魔物が少しばかりはにかんだ。眼球だけを動かして左手を見ると、少しばかり濡れているらしい。わたしは何があったかを深く考えずにその問いかけを無視する事にし、執りあえず有翼の魔物の介助をもって初めて天井から壁に視界を移した。有翼の魔物の熱から離れると、聊かながら部屋の冷え込んだ空気に身震いする。 「こげな埃くさい床に張り付くなんて、ばかじゃん」 「何があってそんな眠りこけてたんですか」 掌大の大蛞蝓はわたしを茶化したが、有翼の魔物は至って真剣な面持ちでわたしを見つめて来る。恰も睨みつけられているのではと錯覚する程の鋭い眼光はしかし一介の警備員である自身を心配しているという心情から沸いて浮かび上がった表情であるのだと思うと、複雑な感を覚える他無い。 半ば呆気に取られつつ未だ何を訊けばいいのか具体的に整理仕切れないでいると大蛞蝓と目が合い、それを皮切りに大蛞蝓は表相に浮かぶ笑顔を削ぎ落としながら喋り始める。 「まあお陰様であたしも結構楽々川渡り出来たんだけどさ。 でも数年続いてた結界警備ってのが急に終わりってのは結構不可解じゃん。 こりゃ何かあんなって様子見に態々こっち来ても返事無いし夜も無点灯だし。 てあんたの気配はちゃんと家から漂ってくるんだから余計心配になって家張ってさ」 「おお、おう」 「もー3日間も放置プレイされちゃうし、こんな健気な少女にひどいと思わないかねえ」 何処の誰が少女だって、とわたしは心の中だけで呟いた。しかしそう思う反面、手乗り大の蛞蝓がひとり捲し立てて普段以上に語りだしたのは、恐らくずっと対話をしていなかった為、またそれ以上に安否に不安を感じていた為の反動だろうと気付く。蛞蝓も有翼の魔物と同様にわたしに対して今迄では色々言い足りない事があったのだと思い立つと、今回の心配を掛けた点について純粋に申し訳無く、それが敵方相手に向けて思っている事実に心底情けなくなった。 「そいで私が此処に遊びに来た時にじいっとしていたこの子を見つけましてね。 あなたの様子が変らしいと相談されまして、仕方無く家の中にお邪魔したという訳です」 有翼の魔物は肩に乗る大蛞蝓を優しげに見た。彼女と一部の大蛞蝓との間には深い親交がある、と以前から耳にしていた。ただ、有翼の魔物は兎角、大蛞蝓に到ってはわたしの様子を見に来る程の良好な敵対関係を築いていた輩が居た記憶など無い。更に言えば、最もわたしに対立していなければならない筈の最小蛞蝓である魔物が何故普通に遊びに来る感覚でわたしの家に入っているのか。 そういったこの家にふたりが揃っている理由について不明瞭だった部分は、今この場で何となく解消されたのだと納得した。が、同時に新たな疑問が生じていた。 「お邪魔ったってどうやって」 「今私達の話はどうでもいい些末事です。それよりも、あなたの事の方が重大です」 いや、どうでもいいなどと言う事は決して無い。 有翼の魔物は大層真剣に凄んだ声色でわたしを責めるが如く問いただそうとするが、この件については流石にわたしも納得出来ない。 わたしの家は例えわたし自身が家内に居るとしても施錠を徹底させている。施錠するとは即ち家全体を何重もの結界で守りに守った状態にしていると言う事になる。それが如何にして侵入を許したというのだろうか。そもそも施錠し忘れていたという事は最後に帰宅する方法から考えても考え難い。外部からの転移術は家の中に飛ぶ様仕掛けていた上に、例え水魔同伴の珍事が起きたからといっても日課の警備で世情を忘れるなど有り得ない。 考え詰めるとその結論は疾うと出てしまうが、剰りにわたしに残酷な答えである。 兎角、寝起きでパニック気味の脳をクールダウンするべく、諸々を脳の隅に追い遣って現状迄の整理をしよう。 ひとつめ。わたしは旅人を一泊させた。 ふたつめ。わたしは水魔と警備を巡ることになった。 みっつめ。水魔が転びかけた。 「ん」 ふと、そこで湿気不足に喉が渇いていると気づく。本来であれば違和感など覚えなかろうが、一瞬不可解に思った後にその原因を容易に探り得た。空気が乾燥しているという事は、水魔がこの場に居ない証拠であった。 「あいつ、何処行った」 ひとりごちた筈の言葉に、すかさず有翼の魔物が反応する。 「スライムちゃんの事ですか」 「ああ」 この状況で水魔が現れていないのは少々どころではない気懸かりになる。 原因の一端にわたしがいるとしても、此度の一連の発端は水魔によるものだった。仕事をしたいと言われ、了承し、夜になる迄歩いて、水魔が転び、咄嗟にわたしが支え、水魔が暴走し、塩を投じて家に帰還した。そうだ。わたしの左腕は骨折していた筈だったのだ。軋む首を傾けて壁から左腕へ移し見遣り、異常に重い左手首に外傷が無い事と痺れ力が抜けていながらも指が動く事を確認する。左腕が何事も無かったかの如く内出血ひとつしないでこうも機能する理由に心当たりは無かったが、しかし今重要なのは謎の根源たる水魔の行方だ。問質す事すら値わないのであれば話にならない。 そこで、わたしは現状に至るまでの経緯をふたりに話す事にした。わたし自身が話す分だけあって多少の歪みは生じようが、第三者からの客観的な状況判断と魔法生物的立場からの見解が欲しかった。その間有翼の魔物はずっとその肩に蛞蝓を乗せて平然としていたが、気持ち悪くないのだろうかという疑問は取り払った。 「うん。わからんわ」 単純明快至極快活に答えたのは大蛞蝓だった。 「すいません。私もうまく整理出来ません。 研究を重ねていたあなたがスライムちゃんについては一番の理解者なんでしょうし」 「そりゃ一応そうなるだろうが」 「因みにスライムちゃんがどろどろに溶けるってどういう事でしょうかね」 「ああ、そりゃ塩の効果だ。見た事無かったか」 「ありませんね。塩をあげてた事は知ってましたけど」 「そうだったか。まあ簡単に言えば塩で細胞膜が破れて中身が全部出てくるって事だ」 スライム種は基本強かであると同時に、その幼生期にとてもデリケートな一面を持つ。 単細胞生物における環境変化対応型の突然変異種を多産させたる理由とはただ単調な増殖方法ゆえであるが、その適応環境が特異なものであったり、適応出来なかったりした場合には非常に呆気無く脆い末路を辿る事も侭ある。しかし、魔法生物の単細胞系は必要に応じて手ずから変異を“催す”。一度細胞を溶かし、環境に合わせて再構成する調整本能を持つのだ。これにより水魔は常に環境に応じた体に作り変えることが可能であり、清めの塩はそれを強制的に促すものである。変調への反応パターンに乏しいそれら単細胞系の魔物は、この強制的な変化に対する反応を偶然にも快感と捉えているのだ。 と、わたしひとりが研究の中で考えている。 「ンじゃ今そのスライムは新しい環境ってのに適応したから居ないのかな」 「理由の一つには数えられるがな、実際適応したからと言って外に行く動機はなかろう」 「でも水がもっと欲しいーって感じに変化しちゃったってのはアリじゃないの」 「突然変異という点では有得る話だ。 しかし正直、魔法生物の進化システム上そんな変化が起きる気がしねえわ」 「何でじゃ」 「おまえらの突然変異ってのが悉く環境への最適化以上のスペックを叩き出すからだ。 状況に即した合理的な適応において急場凌ぎででも水を要するなんて、そりゃ変だろう」 「よく判らないけど、とりまあたしらは人間よか強いってことでえーのか」 「一応そういう学説はある。魔法生物よりも頑丈で狡猾なものはそういない」 「ならあたしら人間食べ放題じゃん」 「おまえ何度川に投げ捨てられているか数え切れるのか。 人間が能力の勝るものに何ら対処法を見つけていない訳無かろう」 「襲い放題じゃないじゃんか」 「おまえの事はいいから一先ず真面目に考えてくれないか」 「ひとつだけ、手掛かりはありますけど」 半ば雑談と化していた大蛞蝓との議論に一石を投じたのは有翼の魔物だった。 筋肉が限界を超えて高密度になったかの様なぎちぎちとした軋みを放つが、有翼の魔物の言葉を真に受けたわたしは言葉どおり有翼の魔物へと身を乗り出した。 「辛そうですが大丈夫ですかほんと」 「措け。どんな手掛かりだ」 おお怖いと大蛞蝓が呟いた。 わたしの形相が苦痛に歪んでいるのか無闇矢鱈と必死なのか、自分自身ですら判らない。ただ、怖がられる顔であった事は確かだろう。有翼の魔物はそんなわたしの顔を避けるように床を見つめ、落ち着きのある小さな声で極々静かに歌い出す。 「あなたの積んだ苦労を台無しにするかも知れません。 でも、もしもあなたの身に何かあるなら、それも判る筈でしょう」 妙に伏せ目がちに渋る魔物は、手乗り蛞蝓が乗っていない方の肩に頭を傾ける。 とどのつまり、有翼の魔物の眼はわたしの身体に変化を見ているらしい。 口に出す程迄に体の不調を億劫としてはいないものの、有翼の魔物は傍から表情なり姿勢動作なりを見て我が身に生じた違和感に対する四苦八苦を感じ取ったのだろう。ただ、それだけで斯様な事を宣うものなのか。一級の詐欺師ならば容易にして存外珍奇な言い回しを以てわたしを揺さぶるだろう。しかしそれが有翼の魔物であって彼女のわたしに対する性質を踏まえた時、わたしは彼女の言葉の一切を単なる戯言だと一蹴出来なくなる。それはこの魔物が水魔に比肩する一直線具合を何より如実な特徴とする性格であり、虚偽を好まない事に起因していた。 覚悟を心に決められずとも、わたしは敵ながら信頼に足る有翼の魔物に向かい合う。 「何か判るなら、先ずは言って欲しい」 「あくまで仮説ですし、わたしも進んで信じたくありません。 たった今この場で、しかもわたしの口からというのは正直告げかねます」 話の続きは山にある。 視線を合わせようともせず即時きっぱり答えられたところで、有翼の魔物にも何がしかの事情があるのだろうとわたしは悟った。そこで彼女の立場を思い、山に答えがあるのではないかと至ったのである。彼女は山の統治者を補佐するという重役を担っている分、他の一般的な魔物よりも多くの事を知っている身であろう。また、それ故により多くの制約が与えられていたとしても何ら不思議ではなかった。 判り得たわたしは考え、山に行かねばならないのかと訊ねた。言葉の代わりに視線を合わせた有翼の魔物から慎み深く重々に頷かれると、後は空気の塊が喉から出るのみであった。 「少し考える時間が欲しい」 回答の意味はこの一言によって十分魔物に伝わったらしく、同時にわたしは言い様の無い確信めいた未来を予見した。現状ではわたしだけで今迄に得た情報から水魔の行方を探るにしても何ひとつとして思いつくものが無い。とりあえずわたしにはひとりになって逡巡する時間が必要だろうと考え、魔物らへ外の見回り頼んだ。言葉どおりの二つ返事で聞き分けた魔物たちが家を出てから、わたしは未だ鈍らな筋肉の張り付く体を揉み解して立ち上がる。たったそれだけの事で脳の軸が撓み、首が伸び、目が眩み、背筋がぶれる。それから重々しくもゆらり寝台に赴き、再度眠り直しての体力回復を待とうと階段を上る。 丁度一夜を明かしたものの、脳が水魔の幻影ばかりを映し出す謎電波なり怪電波なりを受信していた為、結局一睡も出来なかった。 この時から、既に悪態をつく気力すら失っていた。 「参ったな」 そしてその朝、わたしは巡回に序で水魔の足跡を探し、その最中で呟いた。 川沿いの道の結界は大蛞蝓の言っていたとおりすっかり途切れており、既に普段一日分として警備に用いている塩袋を3つ分も上流の巡回だけで消費している。わたしは何日眠っていたのかの判断材料を警備路の状態に託していたのだが、長丁場に降っていたらしい雨によってそれら材料は一切溶かし流されきっていたのである。未だ鉛弾が埋め込まれたかの様に張り詰める肩を上げて痒い頭を掻き乱し、塩を撒いていた沿線に視線を乗せた。 長雨は3日間降り続けていたとも大蛞蝓から聞いていた。その話を信ずるならば、少なからずその間は眠りとおしていたという事になる。だが、昨夕目覚めてからは一向に睡眠欲が失せない上に事実眠りにつく暇を自然と無意識かで探しているという非常に朦朧とした精神状態にある今現在では、剰り日数については考える必要性を感じなかった。 「こりゃあ、思ってたよりもずっときついな」 面倒な結界作成業務を最後にしたのは、数年前の流行り病で倒れた時だった筈だ。あの時は随分苦労して、余計な時間を掛けて結界を張ったものだった。そんな苦験を活かすときが来たとでも言うべきか、今回は当時よりも高効率で結界の再配置が出来ていると感じている。とは言え、いくら簡潔にしても元より途方の無い作業である上に気分が最悪なので前回よりもずっと辛い。 わたしは嘆息溜飲して当時を思い返す。 あれ程迄に心が弱くなり、わたし自身の脆さを思い知った機会も無かった。吾身閑寂に駆られ、骨身が凍る様な孤独に苛まれ、咳をしてもひとりと胸に刻み付けられたものだ。それを考えるとたかが数ヶ月の生活だったが、水魔との暮らしは想像していた以上に彩りあるものであった。その分だけわたしも心が弱くなったのだろう。昨日目が醒めたときの有翼の魔物の腿の暖かさが、今も首の裏に残っているかの如くわたしを支えているのだ。敵方に此処迄身を寄せるとは、数ヶ月前のわたしが見たら塩塊を頭に投げつけて来る事受けあいだ。 「しかしひとりもつまらないと思う様になってしまった」 「あたし普段からスライムよりも付き合いあったと思うんだけどなー。 だのにひとりだったって、あたしに失礼だとか思わない訳なのかねぇ」 「敵役だろう、おまえ」 「そりゃーそーだろーねー。そーじゃなきゃこんな小っこくなってないもんねー」 「まさかおまえに仕事振りを褒められるとは」 「褒めてないよ。割とマジで褒めてないよ」 この数日振りの警備において、わたしはお供として大蛞蝓を連れていた。否、正確には大蛞蝓に玄関で待伏せされ、それから常にわたしの歩く先を行っていると表現すべきだろう。この大蛞蝓は家や川沿いに施されている結界を何故か身をもって学習し続けており、恐らくわたしよりも結界そのものの穴について詳しい。故に、何かと理由をつけては結界の綻びに現れてその場所を言外にして的確に教示してくるのだ。 つまり、最初から家を張っていたと言う事はどこもかしこも結界崩れの甚だしい状態であったという事だった。 「こんだけ協力してあげてるんだから今日は塩撒きやめてよね」 せかせか進む大蛞蝓は元気な声で言った。 本来小さな体躯である分動きも速くせねばなるまいに、大蛞蝓は一見では悠々とすら見える程にわたしの歩みよりも幾分か早く先へ滑っていく。 「まあそう言うな。それとも振りか」 「やだよ違うよ勘弁してよ」 「折角もう少しで飼育ケースに入るサイズになるんだ。勿体無いとか思わないのか」 「斬新過ぎるプロポーズは引かれるだけだよ」 「おまえ今のプロポーズに聞こえたのか。とうとうマゾの境界線すら飛び超えたな」 「何であー言えばこー言うかねこのおっさんは」 わたしはおっさんと言われる程年齢を重ねてはいないのだが。 左手だけに嵌めたグローブをわきわき動かし、減らず口をどう叩こうかと考えた。 「案外あるんじゃないかと思うがね、そんな関係の夫婦とか」 「そんな魔物ライフ聞いたこと無い」 「おまえらが籠中から話のネタを飛ばせるってなら魔物の耳に入る事もあろうがな」 「成程そりゃないわ。大抵旦那様に夢中になってからっきし音信普通になるもん」 若干寂しそうな声だった。 大蛞蝓は仲間意識が強い種族だったかといえば、別にそういうことも無い筈だ。しかしそれでも感情を揺さぶるものがあるのだから存外優しい性格なのかもしれない。わたしを最も早く気遣ったのが彼女だったというし、今もこうして前を進んでいるのだから。 では、大蛞蝓はどれだけ若い男が好みなのだろう。盛りの着いた少年からは石で磨り潰されそうな気がするのだが、そこのところこの魔物は判って居るのだろうか。すりつぶされる事を好む生き物など前代未聞なのではと考えたところで、この輩はその手のものを考えないと気付いた。同時に、わたしは何を考えているのだと頭を捻った。 「でも何でこんな簡単に壊れる結界なんぞ使ってるのさ。 昨日言ってたとおり対策が一杯あるなら何もこんなめんどいもの使う必要ないしょ」 大蛞蝓はわたしに振り返って言う。 赤頭巾で顔の半分に影が掛かっていたが、その見え得る片方の顔からは簡単な会話の短所を見つけようとしている目が見得ていた。何を今更とでも返そうかと思っていたが、そういう健気風な目を見てしまったのだ、どうせ大した理由をもってしての質問でもなかろうし、変に掘り下げない程度の話でもしようかと考え直す。 「下級警備員への配当はそこまで大層なもんじゃないって事だ」 「ふーん」 返し言葉は鼻を抜けた実に興味無さ気な声であった為、わたしも心なしか気落ちした。 「結界そのものにだって魔術的要素が在ると信じれば在るし、無けりゃ結局無いもんだ」 「曖昧だ」 「曖昧で結構。 簡潔に言えば魔術ってのは素養の無い人間が扱い易い様に緩く出来てんだよ」 「けけ。魔術とか実にみみっちいよね。弱っちくて可愛らしいわ」 「魔法はおまえ等の専門だろうが、魔術は本来こちら側の領分だろう。 あんまり兎や角言われる筋合い覚えも無いんじゃないかとか思うがね」 「あたしひとりを焼き殺せない程度のもんに胸張ってるのは侘しいでしょう」 大蛞蝓は妙に誇らしげに言った。 確かにヒトの行使する魔術とは、魔法生物の技術から所謂パクリと称される参考を積み重ねた果てに出来上がったものであり、大抵が魔法を削り取って作り出している為に劣化品である。その性質上魔物を常に圧倒できるかと言えば閉口するしか道が残されていないものの、十分実用的な技術である為に日々研鑽されている。盗用に厳しい倫理観やら道徳心やらを持ち合わせた聖人君子が憚らないご時世に建前を持ってして贋作放出を横行させる人々が居る以上、前提におけるある程度の問題は無いと結論付けて差し障りなかった。 また、斯様な経緯上の結果だろう、常に圧倒せずとも極単純に魔物の息を奪う魔術があるかと訊かれた場合は、話も変わる。わたしでさえ答えに首肯するし、実演だって可能である。 では何故反魔物派の間でですら折衝が盛んに叫ばれないのか。 理由は魔物の強靭な肉体と巧みな連携による報復行為を恐れての事だった。魔法生物一匹を捕らえるためには莫大なコストを要するうえ、その足止めを幾ら構えようが仲間を召還しては同じ目的を掲げて攻略に勤め上げるその姿勢は圧倒的な兵力差を種族格差として感じるほか無い。いつだったか、ひとりの教徒を火種とする反魔法生物運動を展開していたどこぞの国の平和都市だか軍事都市だかが、一夜にして淫獄と化したと耳にした事がある。その決定的な原因は魔族に暴行が振るわれたからではないかと言われているのだ。 「まあ、発明品ってのは編み出した輩が一番使い熟せるとも限らんからなぁ。 他に魔術を上手に扱えるもんが居るなら、人間も疾うに他の技術を身にするさ」 「言ってる事はよく判らんけど、人間って非力だねぇ」 「だから足掻くんだよ」 そうこうしているうちに家に着く。何時の間にか午前の巡回が終わっていたのだ。 わたし達は互いに会話を軽く流し合い、家門に立つ色深い丸太柱を見た。よくもまあ、こじんまりとしながらも立派な門である。曇天灰色に落ち影をふんだんに加えた風景と廃墟然とした警備小屋を前にすると、こんな焦げ茶にすら華やかさを感じるのだから薄ら寒い。 わたしは身体を伸ばそうと、重々しい体幹を捻って軋ませた。一向に体が言う事を聞かないのは積年の疲れがどっと溢れ出ているからだろうが、ここまで溜まっていたとはと驚かざるを得ない。 「で、さ。どうなの」 大蛞蝓はわたしの方を向いて呟いた。 「どうって、何が」 「昨日の今日で悪いけど、最後の答えは決まったの」 大蛞蝓の口をついて出てきた言葉はいたって素朴な疑問である。 わたしも他人話でありさえするならば興味を惹いた事だろう。だが自分事なのだから身の上話もへったくれも無く、見る場所を求めて視線を大蛞蝓から逸らす。 「最後の、ねえ」 呟きによってはぐらかし切れない領域に至るが、後の祭りだった。わたしは罰が悪かったとばかりに喉の奥を鳴らし、腕を組んだ。 「あたしが訊く道理は無いかもだけど」 「いや。一端関わっているだけあって聞く分にはいいんじゃないか」 「なら教えてよ」 「む」 頭を掻いて唸ると、大蛞蝓が口を尖らせて甲高い声を上げる。 「ほら教えてくれないじゃん」 「言い難いんだ」 「それ答え決まってんじゃん」 「口に出すにはやや憚る」 今し方の勢いは何処吹く風に流されたのやら、ふうんと大蛞蝓はゆるり鼻から息を吐いた。赤頭巾から何処か醒めているその双眸がわたしを見据えていた。 「やっぱよく判らんけど。あたしばかだし」 「おまえって、ほんとばか」 「うっさいなぁ。何で復唱っぽい事したし」 「何となく」 わたしの茶化しは手乗り蛞蝓の目に少しばかりの熱を灯せたらしい。再びけけと笑う蛞蝓を見て、わたしは一瞬だけ相手が敵方であると忘れ口角が上がる。その言葉の小突き合いはわたしにとって相当心地良く、次の句をなかなか如何とも仕難き最悪な毒に塗り替える下地になった。 「でも、やっぱそれが答えなんじゃないの」 現実に突き落とされたのか突き放されたのか、よく判らない声が耳元で水音の様に弾けて消えた。その抑揚の無いあくまで暢気な返答に対して、わたしは掻いていた頭に爪を立て硬直した。 家と門の間で風が渦を巻き、黄色に乾いた木の葉が低く打ち上がる。 「て、あたしは思うんだけどさ」 大蛞蝓が自身の言葉を付け加え、それから少しばかりの沈黙が許されると、わたしはおもむろに大蛞蝓を左手のグローブでつまみ上げた。当然大蛞蝓はむにむにとした軟体動物特有の奇妙奇天烈な動きで抵抗し、その形にそぐわない叫び声を発て始める。わたしはそんな何処かコミカルな敵役を顔前まで吊るし上げる。そして、ひとつふたつの答えを籠めて笑った。 「ああ、そうだな。とりあえず午後も頼むぞ」 |