迷波録 |
ざあ。
ざあ。 ゆらり。 悠々と進むは大海原の宵の中。 一艘の小船が男を独り乗せて漂っていた。 大船ならば観光船なり貿易船なりと考える。 小船ならば今時珍しい古文化の漁法かと考える。 或いは、遭難船である。 男は正しく遭難していた。 急に荒れた波間から何を間違えたか潮に乗り、泳ぐ暇無く一晩を越えた。 明るくなって見渡せば、一面が美しき青世界である。 方角も知らずどうしろというのだ。 感嘆の句を述べる訳無く潮を読んだが、荒波に櫂を奪われている。 漕ぎ手もあらずどうしろというのだ。 昼は暑い日差に肌を焼かれ、夜は寒い風に嬲られるだけではないか。 ゆえに、男は昼夜問わずして編み藁へと体を隠し、身を守る。 ざあ。 ざあ。 ゆらり。 魚を食べ始めてからゆうに一月は経っただろう。 今も心細い竿を船先からは垂らしているが、餌は3日も前に尽きている。 生魚の身を食い体液を啜れば生き延びられると言うが、最早しようが無いのである。 最終手段として身を海に投げ入れ、魔物に助けを求めようかと思った。 が、生憎鱶が見張り続けているのである。 誰かに助けを求める事も諦めていた。 ふざけている。 どうして俺がこんな目に。 神はとうに死んでいたのか。 枯れろ食われろとは非道の極みでなかろうか。 と、悪態を吐く力も出ない。 寧ろ縋るものを求めざるをえない。 なにゆえ鱶が泳いでいるのだ。 男にはそれすらも考える力が無い。 流れ舟という話を淡々と思い出しているだけであった。 ざあ。 ざあ。 ゆらり。 ふわり。 夜だというのに、藁の向こうが明るくなった。 妙に暖かい、久しく肌に優しい光であった。 男は体を起こす気力も失っている身であるが、目だけは藁間の先を見据えた。 光の精霊であった。 男にはそれが漠然とした天使か、神のようなものに見える。 輪郭はぼやけている上にゆらゆらと、聖なる火の柴のように光っている。 じっと目が合う。 精霊が腕を伸ばす。 その揺らめく掌が、編み藁に掛かる。 ざあ。 ざあ。 ゆらり。 火はさほど熱さを感じさせずに男の首の横に触れる。 「と、言うのが始まりか」 「まるで恋仲の相手との馴れ初めじゃないの」 「…近く見えて案外遠い例えにしたいな」 勝気そうな女は呆気にとられていた。 海に消えた伴侶が、5ヶ月もの後に熊とよく似た無精髭を生やして帰ってきたのだ。 しかも、奇妙な幽霊を引き連れて。 ただし本霊曰く「精霊」とのことで、しかし女にとっては何も変わらない。 「妖怪なら仕方ないかも知れんけどさあ、一応お前さんアタシの旦那だよ」 「でもコイツ俺の命の恩人…恩霊だぜ」 女にとって夫の生還とは嬉しいものだ。 「確かに」 しかし女は腕を組んで首を傾げる。 憮然と、釈然としないような顔をもってして精霊を見遣る。 「やっぱり純粋に喜べないなあ。 他国の女と結婚したやからがその女引連れて帰ってきたようなもんでしょ」 「まあそう言うな。お前を忘れた日など一度も無かったぞ」 「アタシは忘れようと頑張ってたんだけどねえ」 「そりゃ殺生な」 「自分勝手なんだからなあ、もう」 帰ってきた以上は叩き出せない。 渋々と言う訳でもないが、女は精霊を家に招かざるを得なかった。 妙な関係が一つ屋根の下で展開される事となったのである。 |
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