理想的な恋の相手方を頭や砂地に描いたことは、正直言って一度たりともない。
　私たちの種族は生殖行為に急ぐ必要があるほど短命ではないためである。
　弓術を始めとする武芸や、魔法や知識を蓄える事で自分を高める方が大事なのだ。
　そうやって心技体が成熟と認められれば、そこで私たちは大人として扱われた。
　生後から10年で大人になったものも居れば、300年経ってもなれないものも居た。
　厳格な規律ではあったが、わたしたちが当然守り抜いてきた生活である。
　奪われて結果的に喜ぶ同胞が居たなんて、思いもよらなかった。

　男に優しくされてしまってから、数ヶ月が経過した。
　内心の、最早疼痛と過言無い衝動に、耐え難きに耐え忍ぶ辛い日々であった。
　しかしそれ以上にも幸せな日々であったと思う。

「どうだったの」
「ンン、上々」

　今日も男が麻袋を肩から提げて緑の庵に戻ってきた。
　帰りの挨拶などは無く、ただ私は何を持ってきたのかを確認する。
　布を重ねて厚手に仕上がっている麻袋の中は、殆どが成果に応じて買い集めた日用品で埋まっていた。
　しかしどうやら上々と言うだけあって成果も良いらしく、機嫌が良いらしい。
　男は気怠げな鼻歌を混じらせて物品食料消耗品を掻き出した。
　パンに干し肉に炭酸入りの蒸留酒。
　野菜類は私が用意できる分、男は好き勝手に食料を買い揃えている。
　ことに、男にとって酒とは水の代わりらしく、飲み物ではそれ以外を口にしている様子は無かった。
　稀に見る上機嫌の原因は、登山の途中で先に少し飲んでいたためであろう。
　男はこれで存外、不平不満をのたまう様な男ではなかった。
　自分から私に大して何を求めるふうでもなく、享受出来るものに感謝をする人間だ。
　自由意志に基づいて無限の選択を行い、その結果を受け止めた上で楽しむ事ができる人間だ。

「何ぞ言ゥンネェ」

　男が鼻歌を止めて、それでもなお気怠げで上機嫌な声で言った。
　若干呆けていた事もあり、はっとして男に顔を向ける

「何ですか」
「今“いいなあ”て呟いとッたンお前ヤンか」

　私は男を見ているうちに、無意識で呟いていたらしい。

「...そう」

　男のまわりに怪訝な雰囲気をうかがい知ることが出来る。
　相変わらず鼻の奥にまとわりついてくるようなにおいに半ば酔った錯覚を、かぶりを振って振り払った。
　私に対する男の興味はそれで尽きたらしく、子気味の良い音を出す男は再び荷物の整理を始める。
　それが無性にやるせない気持ちを加速させた。

「貴方は結界を破って此処へやって来たし、此処から出て行ける」

　整理の音が止まったのは、もしや全てが片ついたからなのかもしれないし、違うかもしれない。
　何しろ視界を失ってからというものの、状況把握にはてんでとろくなってしまっている。
　乗じて、男に出会ってからこそ判った事であるが、感情の抑えも緩やかになっていた。
　コントロール不能となった私には、自身を止める術をも忘れていた。
　男は言葉の先を求めていない。
　それは百も承知だったが、主張をしたくて仕方がなかった。
　私を知ってほしいという欲求に、私の自律は負けたのだ。

「これを自由と言わないで、何を自由だって言うのかしら」

　私は何を言っていたのかと気付いた途端、何が次の句になるのか混乱して言葉が詰まった。
　ただ、自然に手に力が入った。

「俺ァ逃げてッだきャァぞ」
「全部知っているわよ」

　あえて口には出す様なつもりもなかったのだが。
　次の句の吐き場を見つけてしまった後は、胎から言葉を出すばかりでしかなかった。
　止まらない事や、それ以外の感情も相まって自分自身に打ちのめされる。
　泣きたくなる。

「ゾンビじゃないわよね。グールに好かれている様子だけれど。
　貴方に纏わり憑いている死臭、剰りの強烈さに最初は頭痛がしたわ」

　男は呆気にとられたのか、ただ私を静観しているようだった。
　その姿勢たったひとつだけでも、心は揺すられて拠り所から遠ざかっていく。
　理解はできなかったが、自分自身への同情はできる気がした。
　なんと情けないことか。
　エルフの自分がこの有様なのである。
　どれだけ駄目なんだと、余計に泣きたくなる。

「貴方が来てからというもの、夜は聖域の外に何か居るわよね。
　私の加護って、要は私はアレから守って居たと言う訳かしら。
　そうよね。
　此処に来る前にどれだけ憑かれて居たか何て知りたくも無いけれど。
　きっとアレから逃げたくなるような眼にあったんでしょうね。
　それこそ、何十日、否、何年身体を洗っても消えない死臭に憑かれて居るもの」
「...俺ャンぞどォだッてよかロォや」

　聞き取りにくく、通った声が私の耳を撫でた。
　先ほどまでの上機嫌は翼をつけてそのまま天まで飛んで行ったらしい。
　男は普段通りの憮然とした吐き捨てるような言い方で、私に控え目に訴えた。
　自分に非が少なからずあるところを、まるで認めている様だった。
　しかしどんな悪いことをしたのか、男は大方にして理解していない。
　私自身が、私の訴えている内容に脳髄を介した血液を使えていないのだ。
　ただ、どれだけ混乱していても男の言葉への反応は充分過ぎた。
　止まる事ができなかった。

「どうでもいいわけが」

　男のそばに歩み寄る。
　よせ、と唸るような声が耳を掠めて空に消えた気がした。

「どうでもいいなんて言わないで」

　敷簾に座り込んでいる男の正面に中腰で屈み、男の両肩に手を伸ばす。
　男の言葉を失った魚と相違ない口の動きをしているらしい。
　呼吸が聞こえる近さに居る事など、これまでは経験していなかった。

「どうでもよくない」

　これ以上情けないことがあろうかと、内心冷めた目で私は私の心臓を見やる。
　生を受けてから最も熱く高鳴り始めた警鐘は、私の意識までも明滅に追いやる勢いだった。
　何故かこの時ばかりは、それすらもかなぐり捨てていた。
　男は私の額に片腕を当てて、私から少しだけ距離を設けた。

「なしたァ」
「...森に」

　涙ぐむことも許して欲しい。
　弱音を吐くのも許して欲しい。
　私はこのとき、ただただ故郷を奪われた身でしかなかった。

「森に帰りたい」
「戻れヤ」
「戻れない」
「...そりャご苦労なこッて」
「だから！」

　次の瞬間、私は男の腕を乱暴に取り払ってがっぷり食らい付く。
　貪欲に、自分がどこかで求めていたことを自身が勝手にしていたのだ。
　我ながら酔狂な行動に、思わず目を見開いた。
　そしてその瞬間、視力が戻った。
　目の前に居る男は顔を青ざめていたが、切り傷だらけで圧迫感のあるものだった。
　ばくばくと無意味に口を開閉し、言葉を探そうとして居る様であった。
　男には、これから始まる事にトラウマ級の経験が過去にあるように思えた。
　そもそも思い返せば私は男への当り散らし方が凄まじい。
　意味が伝わる事も無いだろう。
　許しだって求めていたことへの謝罪なのかすら、自分で理解できないのだ。

「嫌だ」

　言葉は男の唇が模るものだったが、私の心の言葉でもあった。
　しかし、顔は再び重なった。
　舌が男に這入り込んで行った。

「いやだいやだいやだいやだ」

　男の口の中で私は声を出す。
　冷えた目で私の向こう側を観る男を間近で見て、涙が遂に溢れた。
　私自身の身体であるというのに、本能が意思の邪魔をして動かない。
　男の口腔の奥に奥にと私は入り込み、男が窒息しかけていた。
　そして勢いよく顔を離したかと思うと、私は男の首を締めあげるように掴んだ。

「ねえ！　助けて！」

　涙で前髪は頬に張り付き、男の唾液で鼻頭を濡らし、汗で全身が濡れていた。
　火照る以上にぞっとしていたし、寒い以上に暑苦しかった。
　私は男の首を軽く締めながら再び口を潜り、首から手を離しては男の背後に腕を回す。
　がしり固めて両腕の中に男を納めると、それからはかなりの時間をかけて男の口を弄ったと思う。
　私は鼻頭に限らず男で濡れていた。
　口から溢れた私の涙などと混ざり合った男の唾液は、男の顎横にある傷跡に沿って首に伝い、鎖骨の窪みに留まって光る丸になった。
　徐々に鼻息が荒くなっていく男から、私は舌を引っ張り出して吸いついた。
　口の中で熱く凍る男の舌は、微細な痙攣をしつつも私の存在を認めるかのように優しい気配がした。
　それは正しく錯覚に違い無かったと思う。

「たすけて！　ねえ、ねえ、ねえ！　身体がまともに動かない！」

　片腕のロックを外して男の顔を胸に押付けた私は、男の髪に顔をうずめた。
　残る手持無沙汰になったと思った片腕は、男の脚絆と下着を解いていく。
　固まったままの男は焦点の定まらない目で、私にやめてくれと呟いた。
　無いに等しい抵抗も敢無くして、男の下半身を露出させる。
　男を露出させた私の片腕は、そのまま私の下着を片側に寄せて屹立を宛がった。
　私は今度こそ天を仰いで泣き叫んだ。

「いやだあ！　ちがう！　ちがうちがうちがうちがう！」

　男への魔力供給は口付けでの充分だった。
　過去に塗り替わってしまった種族としての食事を、本能のもとに執行しようとしていた。
　無情に消えていく私の意思は、既に口からしか主張できるところは無かった。
　腰を沈めていくと、自然。

「いやだああああああああああああああああああああああああ！」

　涙で顔をぐちゃぐちゃにしても、声を振り絞って絶叫しても、どうしようもなかった。
　一度奥で止まり、男を納めてから少しだけ時間をもった。
　その時間は全て男の口を貪る事に費やし、ある程度胎が落ち着いた次第で腰を上下に振った。
　男の中で咽び、嗚咽をどうどうと流す。
　男は一切の涙を流して居なかったが、私はふたり分より多くの涙を流していたと思う。
　糸を引き、絡めて啜り嚥下する。
　頬の裏がぐちゃぐちゃになって端から涎がこぼれおち、男の服にしみをつける。
　私の中に男がいる。
　私の中に男がいる。
　私の中に男がいる。
　意識そっちのけで、それだけが体に刻み込まれていく。
　烙印は私の奥深く掘り込まれていき、それが呼吸困難に陥らせる程興奮させる。

「ひぐ、うぐっ。　うう。　うあ、うう」

　言葉ではなかったが、言葉以上に男へ訴えていた。
　動けない。私じゃない。
　これは私ではない。

「めあっ　んぃん。　...んぶむ、ぅじゅ」

　妄りに尻を振り、貪りにふける私を見てもなお、本当の私を見てほしい。
　身体がほしいだなんて、思ってはいない。
　度台無理な話だ。
　絶望せざるを得ないが、その余裕はなかった。
　そんなときだった。
　ただ、乱れる私に打って変って静かであった男は、次第に落ち着きを取り戻したらしい。
　男は私の両肩を持って引き剥がし、じっと私の目を観たのだ。
　引き剥がされたとき、私の爪は男の腕に血をにじませた。
　無理やり押さえつけられたため、腰の動きもおさまった。

「...ちがうの！　信じてちがうこれは、ちがうぅぅっの...っ」

　見据えられて初めて交差する視線に一瞬だけ遅れをとり、私は堰を切って訴える。
　その言葉尻すぼみに小さくなり、やがて消えた。
　じっと見られている間も、ぼろぼろと涙が止まらない。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

　男の目を見られずに小さく呟いて懺悔する。
　そんな私に、男はすっと顔を寄せた。
　そして、私の涙で濡れた頬に軽く唇で触れた。
　茫然自失して男を観ると、顔を離した男は緩い笑顔で言い放つ。

「安心しィね。俺ァここだし、お前もここだァ」

　優しい顔だった。
　その顔が、私を見てくれている。
　それは無性に嬉しく得難いものであった。
　喜びは大きく膨らみ続け、また同時に増長する快楽に変換されていった。
　同時にこれは攻守交替の合図でもあった。
　男は私を仰向けに寝かせ、そのまま覆い被さるようにして私に打ち据えた。
　不器用で痛みすら走る力強い動きであった。
　痛みも何もかもを包括して、私は幸せだと思った。
　そしてそのまま。
　私はやっと涙を流し終えた。

　次に目覚めるときには最早、例え神にですら良い悪いを選ぶ権利は無かった。
　私は既に生まれ変わっていて、男を愛し続けるのだ。
　つまり、この日。
　私に恋われた、祝うべき最初の日になったのである。