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昔02 山賊団長 |
流れる雲を下にして、上る空気を払いのける精霊の聖域。
上に座るは聖域の主にして孤独。 下に立つは破天荒なる新人シーフ。 出会いは不意に取っ掛かり、願いは唐突に降りかかった。 それを叶える事は、伝説として取り扱われていた自分への義理に基づいていた。 「あら」 今し方対話していた老狐が私に囁く内容は、男が麓の森から現れた事だった。 男は動物から愛されない性質らしく、狐は男を邪険に扱って去る。 狐と喧嘩中であった老隼が、私の腰元近くで一声啼いた。 私は隼を宥めて狐に手を振ってから男に顔を向ける。 奇妙にもあの男はこの聖域を帰る場所と定め、その許可を私に願った。 男に願われた私がその声を聞き入れたのは、少しばかり前のことである。 隼が言うには、ゆるりとしつつも毅然とした足取りで、山を登ってくるらしい。 ―嗚呼、何たる忌々しさか。 彼奴の足は山を汚してもなお毒を落とす。 踏まれた土壌は枯れ腐り、触れた蔓葉は爛れておる。 老隼はそこまで悪態に悪態を重ねて嘆いた。 風に伝った男のにおいが、彼の影より先んじて届く。 苦味や渋みのある人間一般のにおい。 更に、それを上回っているとあるにおいを隠す、高級な香料のにおいだ。 こんな普通の男が、聖域の何を穢すのか。 草木の主たる私にでさえ察知できない領分に変化があるのか。 隼にその変化を知覚したのかと訊こうとしたが、それは数枚の羽を残して飛び去ってしまった。 結局、あの二匹がしている喧嘩の仲裁は日を改めて行う事になったのである。 「帰りよォたらン大抵そこ座ッてンネェ」 じゃらじゃらりと金物のぶつかる音がした。 やってきた男は、伸張した麻袋に何かを入れているらしい。 出遭った時とは粗変わらないながら、男は若干の小奇麗さに変化があった。 私が指摘を繰り返し、男の気が滅入るまで身嗜みについて説き伏せたゆえだ。 「それ隼ン羽かァ、綺麗なモンだナァ」 「頭にでもつけると良いわ。襲ってくれるわよ」 「うヘェ、そりャ良いこッて」 「今日はどこへ行っていたの」 「里ン近くにャる御家サネェ」 山の麓には森があるが、その先には人の住む場所がある。 それを私は規模に応じて里や村、集落から小国や都と分けて区別している。 里は山から見える範囲では比較的小規模の住戸群であり、御殿が三つほど建っている。 その内のひとつどころあたりから、男は何らかの働きをしたのだろう。 私は首を回して一息ついた。 「その袋の中は何」 実体を指さずとも何に向けて問うているかなど、男には判る。 「いやァ、今日ン稼ぎャア売りよォて拵えた物サァ」 どさり腰を落としてその袋を漁る男から、とあるにおいが鼻にまとわりつく。 この男の動物への嫌われようは凄いものだ。 それもこれも、このにおいのせいであろうことは容易に想像できた。 男は気味の良い音を出す細い鉄柵を組み立てて、簡易棚を作りたてた。 「アンモニア、炭素石灰、塩硝石ィ...硫黄弗素に燐鉄珪素ット」 更に、麻袋のポケットらしきところから粉や固形物の入った梱包袋類を木箱にしまい分ける。 悉く手入れ不十分な木箱の一部は焼け焦げているらしく、以前は更に危険なものを入れていたのかもしれない。 「ッとン、バーナコンロ、薬缶、漏斗、乳鉢、黒臼、硝子玉」 「何、アンデットでも作るレシピに聞こえるけれど」 「ヤァ、身代わりさねネェ」 「身代わりとは、これから呪いでも受ける予定が御有りの様で」 「ンンン、そンリャ遅いネェ。とォに付き纏われトォわ」 「随分悪事を働いているようですし、お気の毒様」 「心にも無いッてかァ。厳正たァこの上無ェなァ...よォし、完了」 男は空になった麻袋の縫い目を切り裂いて、即席棚の上に覆い被せる。 それから、男は緑の庵に眠るために這入っていく。 薬屋とはまたひとつ違う雰囲気を風で洗い流し終わる頃、私もまた緑の庵にいた。 新たな聖域の住人のために用意した棲家の手入れをしていたのだ。 伸びる蔓触れ指を折り、爪で葉を取り広さを開ける。 新たな庵の中には一切の風が吹かず、草木と一心に向き合えた。 不思議なものである。 草木に囲まれることに離れていたが、風を受けないだけでこうも心の持ちようが変わるとは。 私は草木に対してのみ愛情を注いで笑うことができた。 男の作った薬棚が庵の隅には置かれており、草木はその存在を気に掛けている。 また、隼の嫌ったとおり鼾を鳴らして眠る男は草木にですら歓迎されていないらしい。 それらの不満は聞き飽きているところであるが、草木の成長に影響は無い。 「随分と、まあ、おはよう」 月が幾許かの闇を残して照らしている宵の中、緑の庵から出る影があった。 緩やかに山頂から降りる風に逆らって、男のにおいは私にまで届く。 私は男の動きを察知し、木の上で小高に編んだハンモックから声をかける。 「起きたンか」 乾きに乾いた声は驚きの色も無い。 普通、緑に包まれる緑の庵は喉が渇くような環境ではないが、男は鼾が煩かった。 慣れるまでは願いを聞き入れたことに後悔するほど煩かった。 そのダミ声は寝ている間に喉の使いすぎに因るものではないのか。 起きている時の男に悪態をついた程である。 流石に、そんなん知るかと一蹴されてしまったが。 「貴方幾ら洗ってもにおうもの。そりゃ起きるわ」 「そンなクサかねェ筈だがナァ」 「今日はどこかへ行くの」 「ンン、ァあ」 事も無げの吐きっ放しに、男は言う。 ぼりぼり頭を掻き、深呼吸をひとつつく。 がらがら喉を鳴らして首を回す。 鼾自体は仕方ないと考慮しても、この喉にまで対する放り癖は如何なものか。 「降りて大山行ッて来ラァ」 「大山」 男は息を吸い込み、私は深呼吸を次いでするかと思ったが欠伸をする。 ハンモックから降りて二本の足で着地すると、男は私に甘苦い視線を向けた。 その視線はふたりの生活に慣れてからも、ずっと心を火照らせた。 「ご立派な山賊がいるって、貴方言ってたじゃない」 聖域のある山は周囲の国や地方を分断する境界であるが、周囲には他の山もある。 この地域で聖域のある山以外を指す大山といえば、山賊山である。 山賊山は文字通り山賊の一派がアジトを構えており、厭われる場所だ。 しかし、その景観においては美しさ極まりなく、初見では名に聴く聖域の山として見間違えるほどであるとのことらしい。 四季折々の花咲く麓から山腹は緑で覆われ、山頂は凍土に隙間無く雪が降り積もる。 トレッキングやクライムに有名である聖域の山。 遠目で長観するのに有名である山賊の山。 両者一面では入山憚れる場所であり、他面において愛され崇められる場所である。 と、男からは聞いていた。 たったひとりからの見聞ではまったく信憑性に欠ける。 「マァ、明後日ぐれェ迄遊ンで来ラァ」 ぼやきと同様に言い捨てて、男は用意した薬棚から特段何も出さずに丸腰で歩き出す。 夜にその音はすぐさま溶け込んでしまい、私の耳を持ってしても影を絶ち続けた。 それから一週間は、男のにおいに鼻を苛められる事は無くなった。 7日間である。 「翌々日とか言ってた筈なんだけど。聞き違いか思い違いかしら」 「知ッタァこッカネェ。ンなンよかァ紹介じャァ」 「やっと死んだかなとか思わせといて、これですからね。 本当に思わせ振りですありがとうございましたとしか言えないわ」 「ひでェ事言ィやる伝説もあッたモンだネェ、草木の主様ヨォ」 「それより、また誰か勝手に聖域に侵入させたの」 「まァ良かろォ、一人だきャアて。 元々此処が崇められちョッた事ンすたァ知らンかッタァた癖にネェ」 緑の庵手前に作ったゲートを背後にして、私は約束を破った男を嗜めた。 鼻につくこの厭なにおいを久しぶりに嗅いで、何故か心が落ち着いた。 「...犬鳴と申します。以降御見知り置きを」 男に催促されるまま、高背で冷淡な声の持ち主が話しかけてきた。 端正な雰囲気もあるが、纏う気配に嘆観や諦観が感じられる。 私の場合、昼夜を問わずして存在を知覚できる分、露骨にそれが判った。 何かから逃げているのは判る。 この男共は、揃も揃わせ二人して既に痕跡がある。 逃げ果せると思っているのかもしれないが、諦めたらどうだろうか。 男は途中だが、青年に至ってはそれがありありと残っている。 あまり手出しはされないだろうが、しかし逃げ切れるものではない。 魔物の痕跡は厄介なものなのだ。 私はそう思いつつも、彼らの対して何も言わない。 「この男は結構厄介だけれど、貴方も中々難儀な側面をお持ちのようね」 「...ボスの付き人に比ぶれば問題も小さかろう物です」 「付き人ねえ、憑き死人なら理解できるけど」 私は溜息をつく。 いっそのこと、先日持ってきた元素類で本当にアンデットを作って。 自業自得の勝手気儘に呪われて欲しいものである。 男はその場に座り込んだらしく、欠伸をひとつついて呟く。 「死人は勘弁して欲しいもンだナァ」 「そんなにおい出しておいて良く言うわ」 「洗っても消ェンだンネェ、コレが」 「でしょうね」 「...じゃあ、俺は、これにて失礼」 「おォ、気ィ付けろナァ」 「死人に食われないように精々、ね」 苦い沈黙を一瞬だけ抱えた犬鳴は、男に礼をして踵を返し、山を下り始めた。 自分で言って結果に妙な感を覚える事も幾らか恥ずかしさを思う。 しかし、何せ機嫌が悪い。 夜の山道は危ないと相場が決まっており、特にこの登山道でもない聖域までの道など登降に困難な事この上、幾らかだ。 大人気ないというか、エルフはもう少し優しくあるべきだったかもしれない。 そう思い直した時には既に犬鳴の音は何も無く、男も庵へ戻っていた。 「まあいいか」 あの青年も男ほどではないにしろ、音や気配を絶つ事に秀でている。 だからこそ私は男が戻ってくる時に、青年の存在に気付きもしなかった。 手練の人間と考えられる。 男曰く顔見せ程度に着いてきたらしく、彼はどうやら山賊山の副将だったらしい。 納得がいく。 その大将は男と山賊らしくも無く正々堂々と戦い、首を討ち取られたのだという。 山賊は場所を移すことなく男の配下につくものとして扱われる。 緑の庵で、久々の寝床に深呼吸する男は言った。 一週間がどれほど一瞬的に過ぎ去ったか。 唾棄するかの様に恍惚と語る。 「貴方は遊びで他人の首を体から切り離す人間だったのね」 「ンン、ありャアそれが望ン花道だァね」 「義理だとか浪漫だとか、そういうのはよく解らないけれど」 「解ン日何ぞ直ぐ来ラァ」 長々と喋る男は、これまでに無いほど興奮を内に秘めている様子であった。 途切れぬその回想にまた、私も同様に引き込まれていった。 たった七日の出来事を回想しきるまで、一夜を要する。 それほどまでに私と男は会話をした。 朝方には男の体も相当疲れているだろう。 私も、聞き慣れぬ世界の話に大分疲れていた。 朝焼けが緑の庵に射し込むまで喋っていたのだから、眠さも半端ではない。 小鳥が囀る。 火が焚かれる。 麓の家では生活を再起させるものも出たことだろう。 ただ、私はそれらと比べるべくも無く、眠かった。 「ンォ、起きよォたか」 耳元で聞こえた言葉に、私は寝呆けから急覚醒で飛び起きる。 心臓が飛び出るかと思ったが、代わりに毛皮布団が飛んでいった。 草の庵に設けてある畳の寝床には、男が横たわっている。 「あンた良い顔で寝るネェ」 男は笑って言う。 「まるでドコゾの女神様だッたワァ」 「め、女神じゃなくても、仮にもひとりの聖域の主です」 「知ッてラァ」 いつの間にか私は眠っており、男は布団の毛皮を掛けてくれたらしい。 男に対する申し訳なさや自分の破戒振りに、思わず顔が火照る。 どうやら視線も注がれているらしく、余計に体中が熱くなる。 芯が溶けて足の指先から流れ出ていく気がする。 首の後ろから湯気になって体が昇っていく気がする。 私は左の掌で顔を煽ぎ、右の手で服の左上を掴んだ。 男は終始穏やかな雰囲気を漂わせているばかりだ。 両者は動かず、暖かな昼下がりの空気をただ享受していた。 その間は無言が続いていたが、寧ろそれが心地よかった。 においがこれでなければ良かったのに、と思ってしまった。 はっとその考えを振り切り、私は男に思い切り訊ねる。 「何か私にっしししししたしましたのかかしら」 自分の気が強くないことは承知済みであったが、舌がここまで回らなくなるとは。 まさかの噛み具合に泣きたくなった。 というか、涙目だ。 男に泣き顔を見せすぎだ。 「何ぞ、バグりョオてからに」 悔しさに震えそうな私を見て、男は言う。 意外だったことがひとつ生じた。 男は普段の吐き捨てるような言い方よりも幾分か優しく茶化したのだ。 これまで共に暮らしてきただけあって、この雰囲気にこの言動は違和感の塊であった。 「寝込みャア襲ォ趣味何ぞネェよ」 「それは、...うん、よかった」 「それとン、ァあ、襲ォて欲しか趣味ありよォたかァ」 「無い」 「あるとか言ゥてそォな顔だがネェ」 「無い」 厭らしい笑いを含めて、男は私を追及する。 最早男と会話するだけで、体の熱がどんどん上がっていくのがわかる。 単純な問答が少しだけ続いた後、男は立ち上がる。 どうやら食事を始めるらしい。 領主と借り人である私と男は同じ食事を取らないため、男は稼ぎ分で里から買って貯蓄しているのである。 男が食べ始める前に、今日の私はまずするべきことがあった。 「その、まあ、寝る場を借りてしまいすいません。 聖域の主であるにしても、ひとの領域を侵してしまうなど立つ瀬も無い」 「何ねェ下らン」 男は干し肉を折って口に放り込む。 葡萄酒のにおいも漂っている事から、飲み物として飲んでいるのだろう。 葡萄のにおいで胸が満たされる頃には視線を再び注がれ、私はどうにも身の竦む思いになった。 この葡萄酒は特段の生り年のものでもなく、寧ろ不味不作不出来の三重苦の年に作ったものだ。 しかし、そんな葡萄から作った酒も、この男はそれは美味だと言わんばかりに飲み干す。 男は意図せずして、私を優しく扱うのだ。 それに気付いてからは出逢いからの日の浅さも関係ない。 私は男に慣れとも違う親しみを抱いていた。 更に私は優しさを享受してしまったとき、途轍も無くもどかしく堪らなくなるようになった。 心体リンクの証拠かだろうか、私はもどかしく思うときには鼻が痒くなるようになっていた。 そして、男と居るときは初中後鼻を撫でるようになっていた。 先日男に指摘されるまで、気がつかなかった癖である。 「別嬪ン寝顔ァ拝めて謝られン筋合いなンぞネェや」 男はのんびりと言った。 投げっぱなしの口調ではあったにせよ、その声は本当に緩やかで優しいものであった。 いつもとは違う雰囲気の男は、干し肉を噛みながら私を見据える。 私に至っては行儀の悪さに気を使う暇も無い。 羞恥心なり罪悪寒なり、また若干のよく解らない何なりが体を縛り付けて動けなくなっている。 ただ体中が湯気になりそうだというのに、心はどんどん冷えていった。 寒く寂しいような、不安な孤独感に苛まれた。 何故か泣きたくなる。 とうに色々な意味で泣きたいのだから、堪えるのは大変だ。 「最近何かッしャあ悩ンどォみてェだァネェ」 「...そうかしら。どうしたの、急に」 「ヤァの。辛気ン貌になットォンしナァ。よォ判る顔だァ」 その原因は多分にして明解である。 この不快なにおいの主に、心を揺り動かされ始めている。 気に入るところまではボーダーラインぎりぎりだが、それ以上は踏み込めない。 これでふいにしてしまえば、この何十年は何のための逃亡生活であったのか。 何のための監禁生活であったのか。 心に堅固な牢を設けて、不可侵の領域を定めていたのに。 私の努力をこの男は、思えば初見で踏み躙られていた。 ぐるぐると感情が回る。 質の悪い葡萄酒の酒気に中てられたのか、酔ってしまい気持ち悪くなる。 余計に泣きたくなるが、どうにか堪えた。 「今日ァ気分良かネェ。 俺にャア何が出来ットァンなァ」 困りごとがあるならば、助けない事もないから言ってのけろ、と。 私の雁字搦めにされた胸中を知る由もなく、男は平然と吐き捨てる。 普段とまったく違う言葉を声に出し、私に優しさを吹っかける。 不意の事に思わず、唖然の境地にまで追いやられてしまった。 あんまりの意外さに涙も熱も引っ込んでしまった。 男はらしくもなく気さくに笑う。 「...折角だけど、遠慮しておくわ」 一言に翻弄され、周囲ばかりか自身も見失ってしまう事が悔しかった。 少しだけでも感情に抵抗したかった。 しかし、頬が乾いて鼻が疼く。 私が請われた、思い出すべき日であった。 |