頂は遠く、白銀にたなびく雲に黒々と照り返す岩肌が見える。
　登頂制覇上を諦めて数年、降りることに飽きて数十年が経過している。
　この高山での暮らしにも慣れてきた頃である。
　確かに幾らかの不便はある。
　しかし、我慢できないほど私も子供ではなく、問題もその程度のものである。
　時間はあるが、持て余す暇の使い方は自然と覚えていた。
　高知に棲む小動物と対話し、雄大なる大地に賛美しては歌を詠む。
　そして日夜欠かす事無く武芸の稽古に励み、葉から集めた僅かな水で禊を行う。
　また、下界の暮らしを風景として眺めることも、ひとつの楽しみであった。
　昼は点の浅黄や紺が緑に点滅し、時に蟻の様な黒い行列もあった。
　夜は暗く、占星術の小休止に地上の星を眺めた。
　年に三度程、人里の中から大火を見ることも出来た。
　飽く事が決して無い、充実した生活だった。

　それは最早、何年ここに居るかを忘れてしまう程に。





「こいつァ驚いたネェ」

　普段と変わらぬ生活をしていた私が、本来であれば気の付かない筈も無い。
　自然の中の異質感知は、私達の得意分野であった。
　その異質を感じ取れなかったなどとのたまえば、種族の沽券に関わってしまう。
　しかし、私の勘が鈍っていないのであるならばと考える
　そうすると私に対して不意に話しかけてきた彼は、剰りにも自然と共に在った。
　超自然体とでも表現しようか、とにかく気配を絶つ技術には滅法腕の立つ様子である。

「随分と別嬪サンが居たもんだネェ？」

　酷く潰れた喉を労わる様子も無く、無造作に言葉を吐き出す。
　厭世観の漂う声が印象的だった。

「誰」

　この声の主によって、自身ひいては種族のプライドが脅かされている。
　その意識が隠れきれず、私はぶっきらぼうな物言いを男に投げ掛けてしまった。
　しかし、その物言いは男にとって些事として気に留める事ではなかったらしい。
　雰囲気を一切として崩さずに、またもや男は吐き捨てる。

「人間」

　若干の沈黙により、この男が私に対して答えを求めている事に気付く。
　何処か皮肉を楽しむ様に、更に私を倣ってか、彼も端的に切り返してきたのだ。

「それ位は判るわ」
「そう言うアンタは見ないタイプだが、エルフで良いンかネェ」
「だったら、何よ」
「道理で綺麗なワケだァネ」

　臆面も無く、男は口上をもって私を賞賛した。
　しかし、礼で答える必要を感じさせず、私は気怠い空気に言葉を預ける。
　私が無言で居ると、男は布を擦らせてその場に座り込んだらしい。
　男はとってつけた笑顔にシニカルな目を濁らせたような声で唸り、無精髭を指で摩った。
　汗くさく泥くさかったが、どこか高級な香水の香りもする。
　それ以上に、また別のにおいがする。
　そのにおいが、私の鼻に纏わりついて不快にさせる。

「ンで、何しとォネ」

　話に脈絡は無かった。
　ただ彼は訊きたかったのであろう事を私に訊ねてきた。

「貴方にはこれがどう見えるのかしら」
「油で髪の手入れをしてン様に見える」
「判っているなら訊かなくてもいいじゃない」

　私はどうやら忘れてしまったらしい。
　ひととの対話の方法を最後にしたのは、どれほど前のことであっただろうか。
　覚えていない程に昔であったつもりはなかったのだ。
　以前、私はどのように対話を行っていたのか。
　思い出すには時間が開き過ぎたなんて、考えたくなかった。

「にしテもサァ。あんたも辺鄙なトコに棲み腐ってンなァ」

　男ががさつに頭を掻くと、細い金属線が折れた音に近い響きが伴った。
　その頭髪の不潔さと剛毛さが予想できる。
　腰を見れば、きっと旧皮屑が疎らに見えることだろう。

「住み易くて良い場所なのよ」

　男の言い分である、辺鄙な場所というところには納得がいく。
　人間には辛いかもしれない。
　しかし、それはつまりエルフにとっての聖域に成り得る場所だということだ。
　これには何より、その辛さゆえに人が来ないという最大の長所がある。

「エルフゆうたァ魔法ちモン得意と聞いたンがネェ。
　ここラァ結構な標高の割ャア低地の草花ばァかじャ。
　差し詰みァアンタがそーゆー魔法ってモンに長けてッてェとッかァ、ネェ？」

　辺鄙と歌いながらもこの山に現れた異質な男は、独特な訛混じりに喋りだす。
　座り込んだ侭に勝手な講釈を垂れ、私を見つつも視線を感じさせなかった。
　私は髪梳きを終え、櫛を懐に仕舞い、座す岩上に手を置いた。

　そもそも、此奴はどうしてここに現れたのか。
　ここは周辺で最も標高の高い山だ。
　登山するにもちゃんとしたルートがあるし、当然この場所は経路ではない。
　まず、この男がそんな装備をしている様子もない。

「貴方は一体、誰かしら」
「ンン、盗賊サァ」

　さして答える意味も無いのか、先ほどまでの言葉遣いより鮮明な投げやりだった。

「別に珍しくもないのね。でも、シーフにはもっと切り立った渓谷がお似合いよ」
「ジョブチェンジしたばっかだン、お堅い事ァ言うなや」
「つまるところ、此処は貴方にとって初級の山という認識かしら」
「そういうこッたナァ」

　男はくしゃくしゃと笑う。
　確かに初級と言うだけあって、この山には私を除く魔法使役者がほぼ存在しない。
　つまり、人間が考えうる倒すべき人外の敵が居ないのである。
　冒険者の足腰を鍛えるという意味でなら、初級どころか一日体験の域といって過言でない。
　危険を恐れるどころか、そういったものを考慮せず攻略に来たのかもしれない。

「そんなダンジョンで私に話しかけて、どうする気かしら」

　私は耳を澄まし、空気中微かに漂う男の精気を読もうとした。
　しかし、読み始めた瞬間それは終了に追いやられてしまう。
　精気を見たことで、男の異質がより極まったのである。
　私の眉間には、きっと皺が寄っていることだろう。

「イヤァ、長年の独りも寂しかろうてナァ」

　若干の時間をもって、男が私の様子を見るような口取りで言い放つ。
　その実、嗜め茶化しているようにしか聞こえない。

「それは素敵なお世話様」

　自然、苛立ちが募る。

「私の何を知ってるの。貴方は何者なの」
「麓で聴いた話ャア確かンに来たァ運の悪ィ盗賊じャア」
「...話」
「ァア、草木の主たァ聴いたンがネェ」
「大層な事」
「アンダンこッだろーがンネェ」

　男は、此処が精霊だか神類だかのおわす場所だと言うのだ。
　まずこの高山は麓から４分目が深い森で、それ以上は岩山と化している。
　にも関わらず、ある時を境に中腹越えて８分目に緑の生い茂る場所が発生した。
　奇跡だと持て囃され、時間を掛けて緑の伝説に仕立て上げられているとのこと。
　確かに緑を生やしたのは私だ。
　というか、元々麓の森にはエルフが棲んでいた。
　エルフの聖域がすぐそこにあった故、精霊のおわしていた場所ではある。
　私に至っては、山を登ろうと家から出て、結局此処に居るだけだ。
　今でこそエルフと人間との交流は断絶している。
　しかし、昔のこの地域では、エルフと人間の里の間に道があったものなのだ。
　ふうむ。
　形骸化した文化すら消えた後の民話ならば、考えられなくも無い話である。


　それにしても、成程。


「草木の主か。悪くない響きね」

　低地の住民には崇められる存在らしい。
　そうと聴けば、気分の悪くなる話ではない。
　男の、私に対する知った風な口の利き方も、合点が行く。

「おやマ、厳正なエルフ様がそンな事言うてもイイんかネェ」
「別に、いいでしょ」

　男は依然笑い、そして立ち上がったらしい。

「しかし何も見えンと、山の生活も辛かろうてナァ」
「...それも伝説かしら」
「見りャア判ンだろ」

　高揚しつつあった空気が、男の一声と共に勢いよく跳ね除けられた。
　更に、剣呑な雰囲気を宿した欠伸が聞こえ、私は男に顔を向ける。
　ふすん鼻を鳴らした男は意地の汚さがありありと見える様な薄笑いを流した。
　しかし、笑い声を端に発する時間はすぐ終わり、侮蔑混じりのため息が聞こえる。

「目ン玉かッ開いとらんつうに、厭でも判ろうさネェ」

　私は一寸の間理解が追いつかなかった。
　そして、言葉の裏にあるものを捕らえたとき、初めて憤慨した。
　自身の状態から乗じた愚弄をされ、あまつさえ自分の至らない部分を指摘されたのだ。
　生まれてこの方人間から侮蔑を受けた事など覚えが無い。
　人間に、蔑まれた。
　それは種族の誇り高さ故に、剰りにも心骨に響く。
　響き過ぎて、その振動で骨が粉になってしまう勢いだ。
　私は腿から足先が冷え渡り、脳天から頬にかけて滾り行く熱を感じた。

「貴様に、私の、何が判る」

　心無しに冷徹な声だった。
　しかしながら、体は強張る事無く緩い筋のままであった。
　抜けた肩の力は、落胆した事実を認めざるをえないものであった。
　結局、先ほどの浮かれた気分は数瞬しか保たれなかったのである。

「貴様は何を知っている」

　次は出たのは涙に霞みつつある声だった。
　私自身が驚いたが、存外私は打たれ弱いらしい。
　迫力欠けの訴状を聴いて、男は甲高い口笛を吹いた。

「興味あン事ァ、大概ャ知ン通しだが」

　面白おかしそうに。
　まるで愉快に。
　久しくひととの会話をしていなかった私の感情を弄ぶ。
　免疫が落ちたのかもしれないし、男が感情を揺さぶる事に秀でているのかもしれない。
　とかく今この瞬間の私は、私の前でこの男が楽しそうに会話することを嫌がった。
　知ってか知らずか、しかし切度どの道同様に、男は笑って切り返す。

「デラごッツ輩が此処に来た事ァ知ッとらァ。
　ボッチなンエルフ様よォ。
　仲間はドコぞに行きよッたァ？
　どォせ淫魔ン犯せッて破綻しゃアしたンだろォ。
　独り耐え忍ォて、種族ン矜持保ゥンて、...だらしちャンナァ」

　男の放つ言葉は舌足らずとも妙に違い、太く掠れた声の後半はほぼ聞き取れなかった。
　ただし、男が何を伝えたいのかは私にも判った。
　それに答えるべく私が喋ろうとしたとき、突如として強風が麓から山頂へと吹いてゆく。
　この現象は聖域にとって、とても珍奇な現象であった。
　私は麓に向かって前を向き、男と相対している。
　自然、空気の塊とさえ言えよう重圧に私は体を仰け反らせる。
　しかしながら現地に住む私が体を揺らすのに対して、男は微動だにしなかった。
　強風の中に、綺麗な髪だという一言呟きが漏れて聞こえた。
　様子を見る事すら余裕であったらしい。
　男の小声を私に残して、すぐに風は通り抜けていった。

「ダァら、“損な”アンタに、頼みテェ事があンだよナァ」

　乱れた髪を手で直す私に、突拍子も無く言い出した。
　強風に仰がれたばかりのものに頼むというタイミングや、態度。
　この男には気兼ねの心が欠如しているのか、前後の話と噛む気がしない。
　しかしそれでも、依然として強い視線がより強くなった。
　恐らく、険しい目をして凄んでいるのだろう。
　まるで勇猛果敢な戦場を駆り抜けた心身屈強な男ではなかろうか。
　実際は知る由もないが、そう思える熱い視線で貫かれているのを感じていた。

「手短に」

　男が静かに言った。
　心揺らざる水面の如く、視線盛る焔か凍てつく氷柱の如くといった声だ。
　元はといえばそれなりの喉を持っていたのだろう。
　その声を聴けばゆるり緊張を溜飲し、ほどなくして寝心地を誘っただろう。
　何があったかは知る必要も無いが、その精悍な声を聴いて私は思った。
　浅く息を吸って、男は続ける。

「俺の導になッてくれンか」
「は？」
「もッと言やァ、俺に加護をくれ」

　どの様なものに言われたかはとかく。
　私が乞われた、記念すべき日であった。