傭兵録 |
シグは起床すると、顔を洗って体を鍛える。
その妻のスミルナは、愛する夫の気合の入った声で目を覚ます。 スミルナは大きなベッドから出ると、白く丈の短いネグリジェのまま朝食の準備をする。 欠伸をしつつ包丁で野菜を切る音が家の中から聞こえ、シグは妻が起きた事を知る。 「おはようシグ、朝の用意ができたわ」 「ん。ありがとう」 シグはスミルナに連れられて、家の中に入る。 キッチン近くに置いてある小さめだが上品な意匠を凝らした木造テーブルには、窓からの朝日が降りてきている。 その光に包まれていたのは、魔牛製ミルクとパン、バターにベーコン、目玉焼きだ。 スミルナは部屋に戻るなり自分の席に着き、夫に朝食を急かすよう微笑んだ。 シグも応じて着席し、大地に感謝を述べてからパンを頬張った。 「本当にスミルナは料理がうまいな」 「そう。ありがと」 パンもバターも、妻が隣国のホルスタウロスから分けてもらい、自分で作ったものだ。 スミルナはその大雑把な性格に反するほどの繊細な料理の才能があった。 「夜も言ったけど今日は非番だし、例の平野に行きたいな」 「わかったわ。今日は晴れみたいだし、行けるわね」 「よし、今日こそ勝ってやる」 朝食が済むと、シグとスミルナは共に食器の片付けをし、ついでに昼食のサンドを作った。 ふたりは着替えをしたが、その服装には差があった。 妻はワンピースという薄着でありながら、夫の鎖帷子装着を手伝っているのだ。 夫婦は着替え終わると、家に一着しかない寝巻き類を天日干しにした。 剣を携える重装備とバスケットを片手に持つ軽装という異様な井出達で、夫婦は家に鍵をかけた。 目的地は住宅街からかなり歩いて深い森を抜けた先にある山の迷路洞窟。 この国でも有名な竜の巣窟であり、余程の運が無ければ生きて帰る事は無いといわれている。 したがって国民は誰も近寄らず、魔物にとっては冒険者たちの拉致、死に場所となっている。 しかし、シグにとってこの洞窟は最優良な鍛錬場であった。 洞窟に到着し中に入ると、すぐさまシグとスミルナは様々な魔物に囲まれた。 ダンジョン内は魔物の火によって明るく照らされていた。 その光を頼りに姿を確認すると、ゴブリンやスライム、ラージマウスなどが見えた。 「こんにちはスミルナさん!お元気です?」 「スッ、スミルナさんじゃないですか!お久しぶりです!」 「おおい、スミルナさんが帰ってきたぞ!」 「え、姐さんだって!?」 「あらみんな、おはよう。ちょっと通らせてね」 その魔物は皆、軽装のスミルナをとても慕っていた。 スミルナも満更ではないらしく、常に楽しげに旧友たちと言葉を交わして奥へと進む。 いつのまにかシグとスミルナは行進の先頭を歩くようになっていた。 その最深部に着くと、中には赤鬼がひとり座っていた。 赤鬼は侵入者をスミルナと視認すると、目を見開いて飛び上がった。 「よおスミルナ!久しぶりじゃないか!」 「セツ、しばらく振りね!」 「シグも元気にしてたか?この間また勲章貰ったんだってな!」 「つい最近なのによく知ってますね。流石」 「それにしても、シグ連れて来るってことは、あれかい?」 「そうなの。よろしくお願いできるかしら?」 赤鬼は満面の笑みで当然と答え、チビと呼んだ。 すると、足を箱に隠したままのミミックが跳ねてやってくる。 「何ですかセツさん」 「チビスケ、こいつらをまた通してくれ」 「あいよお」 ミミックは機嫌よく答え、先に行ってると夫婦に声をかけて来た道を戻っていった。 妻はおもむろにワンピースを脱いで手提げ籠の中に入れた。 白く細い腰、ヒップよりも豊満な胸、紫がかった髪、スミルナの総てが冷たい洞窟の空気に調和する。 シグにとってそれはひどく妖艶で、スミルナが生きた宝石のように見えた。 「それじゃ、預かっててね」 「へいへい」 「あ、バスケットの中のお酒はあげるけど、他のものは許さないわよ」 「やっぱりこの匂いはサケだよな!スミルナはわかってる!」 「どういたしまして」 「いやあ。この地方のサケはやっぱりあたしにゃ合わないからねえ、こりゃあ嬉しいわ」 赤鬼は嬉々として籠を開け酒の封を切った。 夫婦はそれを見届けてから、ミミックが跳ねていった道を歩いた。 慣れた歩きでミミックのいる場所へ到着すると、そこは洞窟で最も広い空間となっていた。 ここは今でこそミミックなど魔物たちの育児場であるが、元々はスミルナの場所だった。 魔物たちは広場の端々に身を潜めて、事の成り行きを見守った。 スミルナは広場の中央に立ち、出入り口付近にいるシグに声をかける。 「準備はいいかい」 「いつでもいいよ」 「そう。じゃあ、死なないでね」 するとスミルナの体に変化が訪れた。その変化にはいろいろな音を伴った。 硬い骨が歪む音、黒い翼が肩甲骨から突出る音。皮膚のちぎれる音。 シグはこの音が嫌いなのだが、今はそのような事を考えずに一本の剣を構えた。 音がやむと、とてもいい香水のような獣臭さが洞窟を充満させた。 洞窟上部に巣を作る魔物の火が、その全体像を映し出す。 太く鋭い爪の生えた緑の巨躯。人間にとっても魔物にとっても驚異的存在なドラゴンである。 竜が尾を振った。 シグは転がるように屈んでそれを避け、その際に竜の尾に剣を当てた。 硬い鱗に守られた鎧は、まったく通用しない。 次に竜は火球を吐き出すが、シグもその火を避けきった。 すると今度は頭上からの爪撃が襲い掛かる。 剣士は竜の真下に潜り込むような形で回避した。 その真下にも剣を突き立てようとするが、刃が竜に沈まない。 シグは蹴られて吹き飛ばされるが、剣で衝撃を吸収して上手く立ち直った。 またもや大木のような尾が横殴りに飛んでくる。 周囲の魔物たちの熱烈な応援が洞窟内を響かせる。 シグは汗すらも絶え絶えになるほど疲労困憊していた。 一度の昼食休憩を終えてからも勝負は再開され、右胸を保護する鎖が壊れている。 鎖帷子だけではない。靴も焦げ、防護服も切り裂かれた跡がついている。 赤鬼のセツはそんな剣士と竜の決闘を見守りつつ、ちびちびと酒を飲んでいた。 シグが走り回って竜の後ろを取った。 竜は振り向きざまに火球を五つ放つ。 剣士は三つを交わした。そして四つ目の火球に剣を構える。 命中する直前まで動かない。 すると、火の強い光が竜の大きなの目に反射したのだ。 シグの思い通り緑の巨躯は目を眩ませる。 しかし、その四つ目の火の玉をかわす時に、腕を守る帷子が切れてしまった。 鎖が洞窟の硬い岩肌に落ちるが、シグは五つ目の火球に集中していた。 剣の切先を火に当てると、その球は剣に吸収された。 刃がオレンジ色に光る。 シグは駆け、剣をドラゴンの尻尾に降り降ろした。 尾は剣に食い破られるかのように裂かれ、重々しい音を立てて地面に落ちた。 スミルナの叫び声に応じるが如く、観衆の声援が最大音量になる。 シグがすぐに竜から離れると、竜は既に火を口内に集めて今にも吐き出さんとしていた。 巨躯が火を吐き出し、剣士も受けきれず動けないその瞬間。 「はい 終了」 セツが大きな掌で火を受け止め、シグを守って一言宣言を下したのだ。 興奮した状態から醒めないままのドラゴンがセツに襲い掛かる。 しかし、赤鬼は竜の懐に颯爽と入り込み、下顎を勢いよくかち上げてその巨躯を吹き飛ばした。 竜はその一撃で洞窟に倒れこみ、やがて体から青白い炎を上げ始める。 炎が燃え尽きると、傷一つ負っていない元気なスミルナが現れた。 呆気に取られた剣士は、しばらくしてから立ち上がり、セツに感謝を述べた。 スミルナも鬼と言葉を交わすが、シグはその会話の中で“まだ顎が痛い”という妻の感想を聞き取る事しかできなかった。 外はもう太陽が沈む頃だ。 決闘が終わってから、シグは人に戻ったスミルナから怪我の治癒を受けた。 アルラウネやハニービーなどの蜜を混ぜて作った治療薬で、体の傷は直ぐに癒えた。 夫婦は迷路洞窟の魔物たちに感謝をして、帰路についた。 「今回は尻尾を落としたぞ」 「まあ尻尾なんて、また変わったときに再生するけどね」 「…それにしてもセツさんも相当強いよな」 「そりゃあ、この私があの洞窟を任せるぐらいなんだから。相当よ」 「なんでこんなところに居るんだろう。遠い土地の魔物だろ」 「武者修行ってそんなものよ。ただ私があそこに留まるようお願いしてるだけよ」 住宅地の家に帰ると、一度夕立にでも遭ったのか、干しておいた筈の寝巻き類が逆にぐっしょりと濡れていた。 ふたりは顔を見合わせて笑い、また明日干しなおそうとその服らを家にとり込んだ。 夕食は朝方に作っておいたスミルナ特製のシチューであり、食事の準備ができた頃には温かな匂いが家を包み込んでいた。 朝食と同じように糧の恵みに感謝をし、極上の一品で口腔を満たす。 そして夕食が済み次第、ふたりで食器を洗う。 「あの防具の修繕もまたあのサイクロプスに頼むか」 「当たり前じゃない」 「少しぐらい修繕費出すべきだろ。今回はかなりボロボロだぞ」 「そうねえ。あなたに任せるわ」 「じゃあ好きにさせて貰おう」 「そんなことよりシグ、わかってるわね」 最後の皿につく水滴を拭き取ったスミルナが、微笑んだ。 シグは蛇口を捻って水を切り、愛妻の髪に触れた。 「ああ。とりあえず風呂に入ろう」 シグはスミルナの額の生え際に口付けをして、肩を抱く。 夫婦は一緒に風呂に入って体を清めると、余分な水を拭きそのままの姿で二階の寝室へ向かう。 湿った足跡を木の階段に刻みながら、シグがぼやいた。 「いつまで続くんだろうな。この生活は」 「どうしたの。何かあったかしら」 「もしお前が人間としての生活に飽きたら、また俺を戦死扱いにするんだろ」 「当然じゃない」 「そして洞窟生活に飽きたら、また人間の生活か」 「そうそう」 「あのダンジョンを任せられるぐらいのセツさんみたいな強い魔物なんて、そういないと思うけどな」 「だったら、それまで洞窟で暮らせばいいだけじゃないの」 「まあ、それもそうだ」 シグが寝室の扉を開けた。スミルナが部屋へ入る。 夫が戸を閉める頃には、妻は既に下半身を布団の中へと潜り込ませていた。 「永遠の命なんていくらでもあげるわ。シグと私は、ずっと一緒よ。」 彼女は愛する夫に笑い掛け、彼に両手を差し伸べる。 シグはその両手を取り、布団の中へ入っていった。 手を握り合った夫婦は何度も唇を重ね、その最後には舌を絡め口腔を弄りあう長い接吻をした。妻は既に大きな瞳を潤ませて上気している。 恍惚とした表情のスミルナから唇を離し、シグはそっと囁いた。 「しがない夫だが、その願いぐらいは叶えてやるよ」 傭兵は明日も非番である。 |
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