藪椿録 |
硬い岩盤に囲まれた鬱屈厳然とした洞穴で、ミナモは目を覚ます。
少しでも頭を動かすと、脇にある尖った岩が纏めてある長髪に引っ掛かり絡みつく。 指を使ってそれを解こうとすると、若干の距離を取っていた大きな魔物がぴくりと動く。 重たい空気にもたついているかの様に、巨体を引き摺る音が響いた。 ぶわ、と、それは欠伸をする。 洞窟内の空気が薄くなり、ミナモは多少の息苦しさを覚えた。 しかしそれは直ちに、途轍無い密度の高い空気の塊が吐出された事で解消される。 「おお、起きたのか」 のっそりと動き出した巨躯はミナモを見るや、ぎらり笑う。 見る者に好戦的な印象を与え、実際非常に非情で血気盛んな存在であった。 災厄の元締めとすら云われる程にその力は強大危険なものである。 人は、彼女を牛鬼と呼んでいた。 「起きたからには、休憩も充分だな」 満を持していたと言わんばかりに、牛鬼は期待に唇の端を上げている。 「どれ、それじゃあもう一勝負」 「...御願いします」 ミナモは静かに一礼する。 不動の牛鬼から距離を取り、刀を構えた。 一息の間。 牛鬼は黒毛に覆われた両腕で容易く岩を刳抜き、それを割って二回に分けて投げる。 人に直撃すると、瀕死を免れないような一溜まりも無い攻撃である。 一投目を大きく動いてかわし、続いた二投目を紙一重で避けた。 投げられた岩は勢いそのままに洞窟の壁に激突し、ばらばらと上から石を振らす。 牛鬼は更にもう一度同じように岩を作り出した。 それを4回に小分けして投げる。 ミナモは3つまでの岩を大きな素振りでかわしつつ、前進を重ねる。 4つ目。 牛鬼は天蓋に向けて最も強く投擲する。 落盤の危険を考えていないどころか、それは全くの逆意であり、落盤を狙ったのだ。 気付くのに遅れたミナモは全力で飛び退き、背後の出口に向かった。 しかし、時間は待たない。 岩の命中箇所から振動が伝わったのか、崩れた箇所から均衡が取れなくなったのか。 がたがたと。 ごろごろと。 洞窟は壊れ始めた。 「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」 牛鬼の豪快な喚声が、轟音の中から響いて染みる。 その大音声に負けじと競うように、岩は崩落の勢いを増していく。 「呆気無いもんだねえ」 間一髪で間に合わなかった。 牛鬼は腕を振り上げてゆるく覆い被さる様に、ミナモを岩から守っていた。 重量は幾らあるのか、山一つを背負って居るのと同じであろうが、最早想像の外だ。 それでいて彼女は一切の重みも感じさせないような面持ちでミナモに接していた。 ぱらり岩小石が牛鬼の脇から零れ落ちる。 牛鬼は6つの足で地面を捕らえ、迫る岩盤は腕二本と背中で支えている。 残る蜘蛛の二本足は、ミナモを抱き留めていた。 そのミナモに、にやけ顔で顔を近づけ、言い放つ。 「寧ろ最後まで頑張ってたら、殺したろうけどな」 悪戯に目を見開き、面白可笑しそうに茶化す。 あと少しでも牛鬼を頼らずに走ったのなら、逆に岩雪崩に見舞う心算だったのだ。 流行病の速さすらも身体に反映されているせいだろう。 牛鬼は相当に俊敏駿足であり、同時に鬼の怪力を携え、また病を吐き出す力がある。 ミナモとの戦闘は欠伸の最中であったとしても、結局温い遊びなのであった。 「感謝しろよな、人間」 「んと、ありがとうございます」 「そうそう。素直に言っとけば俺の気分も悪くはなるまい」 きしし、と、少女の声で笑う。 「駄賃ぐらい寄越せ」 言うと同時に、牛鬼はミナモの頬に浮かぶ汗を舐める。 猫の様にざらついた舌はミナモのそれよりも大きく、蛞蝓に似た粘性を持っていた。 彼女に撫でられる度に、身体が変調をきたしてゆく。 その頬に残る唾液が染み込んでいき、芯や髄から心臓を揺さぶり掛けてくる。 身体は骨まで発火の如く火照り、震えは治まらず歯をがち鳴らす事しかできない。 焦点もずれていき、牛鬼の舐めずる幽かなぴちゃぴちゃとした音だけが耳に残る。 これも牛鬼の司る病の一種なのか。 そんな事すらも考えられない程に、ミナモは追いつめられていた。 「や、や...ぃや」 ミナモは震える唇は少しずつ音を掴むような早口で喋った。 「やめて、ください」 「断る」 ぴしゃり即座に返される。 それでもミナモには耐えられなかった。 「やぐら、やめて」 口に出した言葉は単純。 牛鬼の名前だ。 それを聞いた瞬間牛鬼はぴたり動きをやめ、恨めしそうにミナモから顔を離す。 ミナモの荒い息を面倒臭そうに見遣り、溜息を吐いた。 「んだよお、わざわざ助けてやったってのに」 「先ずは...外に」 やぐらは絶え絶えに肩を震わせるミナモを半ば乱暴に下ろす。 そしてミナモを抱えていた二本の足を前に突き、そのまま岩窟を抉って押し出した。 落盤時よりは小さな轟音であったが、耳元での鈍音は先程よりも強く鼓膜を打つ。 目を瞑っている間に、瞼の表が明るくなった事が判る。 もういいぞ、との声が聞こえるまで、ミナモは呆然と身を縮めていた。 この国において明るい光の下で見る牛鬼は珍しい。 牛鬼はやぐらしか存在せず、その彼女に至っては切立った崖下の岩蔵に棲んでいる。 移動するにしても、人間が出歩く事の無い深夜である。 彼女がミナモを気に入ってからは、大体にして牛鬼伝説として語られる様になった。 そう伝えられる程に彼女は外を歩かないのだ。 ミナモは大きく伸びをするやぐらを見る。 彼女の肌は、透き通る白に、川藻の緑を極々薄く延ばした色合いと似ている。 烏羽色の毛に覆われた蜘蛛の下半身は、ところどころに刺青をあしらっている。 その毛色と同じ頭髪は長く纏まってぼさつき、硬い印象にして実際は柔らかい。 目は円く鼻と唇も小さいために小顔だが、この長髪でその印象を半減させている。 実際そうにでもしないと、蜘蛛の姿に見合わない調律となってしまうのだ。 自分の事を最大限に魅せる術を、彼女は永きに渡る生の中で会得して居るらしい。 ミナモは竹を加工して漆で塗装した薬筒から、塩を出して少し舐める。 そして苦そうな顔をしたあたりで、やぐらは一息つき終えた。 「さて、再開。楽しくなければ刑罰だ」 「...はい」 乗り気ではないらしいミナモを差し置き、早速牛鬼は唾を飛ばした。 加減して投げていた岩の投擲に比べて、こちらは多少の力を入れているらしい。 恐らく彼女の一割程度の力だ。 しかしその次元で、ほぼ全ての人間が太刀打ち出来る範疇を越える。 たかが唾だろうとたかを括っていては、牛鬼には決して敵わないのだ。 ミナモは素早く刀を傾け、最早弾と呼ぶに相応しい唾を切っ先で受け流す。 唾は刀に触れた途端、蒸発したかの様に音を発てて消え失せた。 牛鬼は続けざまに地面を足で抉り、その勢いで上に飛散する小石を一目見た。 岩窟を突き破った足で、その小石等を蹴り飛ばす。 剛速球の散弾である。 すぐさまミナモは脇に転がり、近くの岩に身を潜めて移動した。 やぐらは再び、更に強く地面を蹴る。 小石よりも更に小さな砂利や砂までが、高く高く打ち上げられた。 ミナモは刀を地に刺して右裾から短い竹筒を取り出して腕の装着部に取り付けた。 ひも付きの蓋を外して右腕を振ると、竹筒は徐々に細くなって伸びていく。 最後に鉄網を掛けて腰近くの帯びに垂れる紐を引くと、竹筒は傘の様に開いた。 開いて身を隠したと同時、ミナモの周囲には砂の霰弾が降り注いだ。 その中で、ミナモは左腕の小さな仕込み弓をきりきり引く。 「おお、変わった傘だ」 牛鬼は感心して、そして岩窟から岩を削って投げつけた。 砂利の雨など痛くも痒くもないらしい。 ミナモは刀を引き抜いて再び岩を走ってかわし、少しだけ牛鬼との距離を詰めた。 やぐらは片腕を構えて、刑罰予定対象目掛けて何かを投げつける。 ミナモはその瞬間で弾道を見極め、刀をすっと微動させる様にして弾く。 蒸発せずに分断されたその弾が、身体の横ぎりぎり掠めない場所に通り抜けた。 じっと、空気の擦れる気配すら捉えられる弾速だった。 その正体を横目で見ると、牛鬼は雑草を握力のみで潰して丸めた玉を投げたらしい。 音が後で付いて来て、ミナモは残る衝撃で吹き飛ばされた。 砂利霰弾の中に飛ばされ、思わず頭を覆った。 地面に叩き付けられる所を、身を翻す事によって何とか回避する。 小石が額の横に掠り傷を見舞いして、砂利霰は上がった。 「...ううん」 ミナモは唸った。 刀も傘も手元から離れてしまった。 腰に差してある小刀を抜き、横に構えて体勢を考える。 やぐらにはぼさついた頭髪から太く長い二本の大曲な角が抜き出ている。 その猛烈な頭を突き出し、ミナモへと六本の足で猪張りに勢いよく走ってくる。 「貰った」 笑って頭突きをしようとする牛鬼の角を、ミナモは小刀の背で思い切りかち上げる。 勢いを殺さないように軌道をずらした為、やぐらの巨躯は自然と天を仰いだ。 そこまでして初めて見える柔らかな蜘蛛の腹の下に、矢を撃ち込んだ。 刃物にも傘にも鏃にも、薬筒の塩を溶かした油が塗ってある。 この準備によって、討魔の武器として効果を発揮するのである。 一部を除くほぼ全ての妖怪変化に対して牽制出来、事実強力な浄化作用があるのだ。 ただし、仕込み弓の小矢だけでは牛鬼は倒れない。 大斧に塩油を塗って抉っても、悉く回復してしまう治癒力の高さを持っている為だ。 それでも効果が無い訳では無い。 たった一発の小矢だが、それだけでも一瞬の隙をやぐらから奪う事が可能となった。 ミナモは下から上に小刀を振り上げて牛鬼を捌いた。 素焼きの瓶を懐から出して、そこから流れる血を入れる。 「おうン?」 牛鬼は体勢を立て直すべく、ミナモを押し潰さんとばかりにのし掛かろうとする。 ミナモは素早く足間から逃れてそれを回避し、懐から別の硝子の小瓶を取り出した。 その硝子瓶の栓を開け、中に入っていた塩油を素焼きの瓶の中に入れる。 栓をし、振り回してかき混ぜる。 やぐらは足でミナモを蹴り上げようとするが、ミナモは巧みにそれを避け続けた。 空になった硝子瓶が汗まみれの手元から滑り落ち、割れた。 ミナモは素焼瓶の中身を口に含み、牛鬼の背に乗った。 振り払おうと暴れ馬状態だった牛鬼の胸を、後ろから強く握る。 暴動は止まった。 大きく、張り艶に富んでいた。 ミナモはやぐらの左脇から、彼女の首を支柱にして回り込む。 そして強く口付けた。 中の液を送り込む。 牛鬼の血液には、恐ろしい程の妖怪の力が溜め込まれている。 そのままであると人間に対して強い催淫性等を引き起こす有毒物質である。 しかし塩油を加える事で浄化作用が働き、強い活力剤としての効用を生み出すのだ。 更にそれは人間にとっての限定下であって、妖怪変化にとっては超強力な毒となる。 蟲毒を用いて殺人性を高めた蠍のそれよりも、誇るものは大きい。 牛鬼の高い治癒力の前では結局のところ押し負けるにしても、だ。 ミナモとやぐらは舌を絡め合わせる。 やがて一時の痺れがやぐらの全身に回ると、彼女は足を投げ出した。 「やめやめ。やってらんない」 「ありがとうございました」 「嬉しそうだな。機関仕込みの発想は悪くなかったぞ」 やぐらは紅潮した顔のまま、今回の稽古を振り返る。 ミナモにとって、やぐらとは修行を付けて貰う師匠に当たるのだ。 ふたりは気が遠くなる程の昔に出逢い、やぐらがミナモを気に入って現在に至る。 今となっては互いが相棒であって、大切な存在となっていた。 但し種族の能力差がある為に、生活には支障が出る。 師匠を解消すべく、普段は別々に暮らし、週に一度会うだけと決めているのだ。 能力差を埋める為にも、その週一度の日には厳しい訓練を積んでいる。 事細かに今日の修行を振り返り、幾つもの反省点を起こし上げる。 反省点を練り直して具体的な良策を考える。 そうして小一時間続いた反省会も終わる頃には、太陽が赤くなり始めていた。 ふたりはのんびりと夕焼けを見た。 烏が鳴き、巣に戻っていく。 突然、やぐらは満面の笑みで言い放つ。 「褒美をやろう。口を開けな」 牛鬼に言われたとおりミナモが口を開けると、彼女は即その口を塞ぎに踊り掛かる。 休憩を重ねた上で終わった戦闘訓練は、消化メニューのひとつでしかないのだ。 つまり、まだまだ鍛錬は続く。 「んあ」 拗音を発てているが、いずれは色気づいた声が混ざる事であろう。 ミナモの基礎体力はこれから鍛えられる。 |
|