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下弦 |
家はどこまでも寂しく私を出迎えた。
独りで住む家に挨拶をしても反応がない事は、本来当たり前である筈だ。 私は当たり前を昔に感じて懐かしむ程に、少女に慣れていたのだ。 うろうろと意味も無く家中を彷徨いながら語りかける。 「お前、ドッペルゲンガーっていう魔物なんだってな。 かなり譲歩して言っても、この国じゃあ信じ難い存在だ」 答えも変わらずさっぱりとしてしんみりだ。 構わず、続ける。 「ドッペルゲンガー、お前の好きな人間は誰なのか、教えて欲しい」 部屋は今朝出て行った時と一切違わず、変わらず、それが当然である。 その無人家へ問いかける人間がいるなんて、精神病院へ搬送されても可笑しくない。 独り言にしても気味が悪いほどよく喋る。 そんな状況に苦悩せずにはいられない。 「昨夜のは単なる食事だったのか、知りたいんだ」 気配はする。 ただ黙って私を見ている、そんな気がしていた。 少女の姿を見ているのは、過去を含めて考えても夜だけだった。 やはり、その例に倣って日が暮れるのを待ってからにしようか、私がそう考えていた時。 ひとり食卓の席に座って、私の目の前に現れる影があった。 黒いワンピースに華奢な体躯。間違えようもなく、私の信じていた姿で現れた。 少女は刃毀れしたかの様な笑顔を見せる。 「…呼んだ?」 閑散を感じさせるか弱い声で、炭に光る火焔色の瞳で、少女は私を待っていた。 「呼んだ」 「…答えを聞いてどうするの?」 「考えてない。本心のままに動こう」 「…いかにも人間らしいね」 「人間らしいか」 「…うん。 …人間らしい、だよ。 …挨拶だけで喜んだり。 …欲望に駆られやすいし。 …それに抵抗したりするし。 …ほんと、ばかみたいだよ、て、思うよ」 「ドッペルゲンガー、お前はしかし」 「…そう。わたしはそんな人間に憧れを抱いてしまう魔物なの」 ふ、と少女の目が細くなり、そのまま瞼を下ろした。 少女は床に届かず宙に浮く足を揺らしながら、閉眼したままため息をついた。 そして深呼吸を数度行い、意を決したらしい視線を私に向けてきた。 「…すき」 強烈。 私の心をじんわりと打ちつける言葉が、小さな口から届いてきた。 「…それで、どうするの」 私の脳内で、唐突に答えが導かれた。 同時に心臓から熱血が体を廻り、爪先から髪の毛先まで緊迫する。 自分勝手な世界観で成り立っていた傍若無人な感情を、これから結論付けてぶつけるのだ。 事を急いては仕損じると言うが、急がば回れと言うが。 思い立ったが吉日だと、奮った。 「俺は」 単純明快、一目瞭然。 きっかりと浮き彫りになっていた。 何が、非科学を否定したくないから、だ。 何が、友人達を家に入れたくないから、だ。 少女を隠していたのは、誰でもない私自身だった。 少女が見えなかったのは、私もダメな人間であったから。 言い訳がましい理由をとってつけて並べたてても、無駄なのだ。 少女は隠れていたのではなく、私が見ていなかったのだ。 あまりにも醜い心が自然、外に露呈していたのだ。 独占欲という性悪で非道で、利己的な心だ。 それもこれも、本当にいつの間にか。 単なる噂で一介の都市伝説に。 暮らしを共にした声に。 恋をしていた。 だから。 「好きだ」 後には退けなかった。 使えるには十分かもしれないが、ひどく優しくない言葉だ。 こんな想いの伝え方をする心算は無かったが、もう遅い。 私の知る少女ならば咎める事をしないにしても、私の心は後悔一色である。 上司からの話を聞いて、確信していた事もあったからだろう。 私は少女の答えを待たずして現段階を見る余裕があった。 意地汚くも、これからの大方の予想まであった。 「…ありがとう」 私の立てたその予想通り。 少女は仄かな笑みを湛えてゆっくりと立ち上がり、私に近づいた。 腹中の意地汚い想定の事など、二人暮しをしていた少女ならばきっと判っている。 しかし、どうやら許されたのか、それすらも好きでいてくれるのか。 少女は私の胸下に頭をこすりつけ、背中に細腕をまわしてきた。 ただそれに応える為に、きゅっと少女を抱きしめる。 私の鼻孔には、影場に咲く花の香りだけに満ちていった。 |