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満月 |
少女がひたすらの無言を守っている最中。
私は疎眠る頭で、この声との記憶の源流を辿る事にした。 数年前の朝の偶然だったのだ。 「いってきます」 独り暮らしになったにも関わらず、そう言ったのだ。 逆に、そう成ったばかりであったからなのかも知れない。 必要性を感じずとも、何となく口から出てしまっていた言葉だった。 「…いってらっしゃい」 返ってきた声が、少女のそれだったのだ。 これが馴れ初めであり、今に至る重要な起点だ。 習慣化してしまった現状を鑑みるに、当時は衝撃の割に悟っている心持ちだったのか。 幾度と無く問答が繰り返され、私が狂ったかと思った頃もある。 しかしここで、私にとって私自身に於ける不思議の一つが展開されたのだ。 何故私は、少女を認めたのか。 何故こんな幻聴とも思えそうな、私なら思って当然の現象を、見逃さなかったのか。 私は少女の声に、どこか幼少期を思い出す懐かしさの様なものを感じたのではなかろうか。 「待てよ」 遡る。 少女との記憶はもっと昔にある気がする。 脳の最奥に霞んでしまった電気信号を呼び起こす。 幻に近い記憶。 夢の記憶。 丁度、今日の朝に薄靄の様な記憶を見ていた。 思い至ったところで、がつん、ごおん、と音が響き渡る。 隣の家との狭い路地に置いてあった大きなバケツに何かがぶつかり、倒れた音である。 私はそちらに気を逸らさず、呆然と天井を眺めたままだった。 「お前、ずうっと」 私自身が驚く程に声が掠れており、その事を知って初めて酷い喉の渇きに気付いた。 両手の指を、ベッドでピアノの演奏するかの様にシーツに食い込ませ、そして弾ませる。 呂律の回りきらない大きな怒声が、外から寝室に響き渡った。 身体が瞬間だけ跳ねた。 「ずっと前から、俺を知っているのか」 それは質問であり、自問であった。 姿を覚えているわけでもない。 ましてや、声なんて。 声だけだなんて。 「昔も、遊んだんだのか」 私は言いながら、身体を起こした。 儚げな記憶だけを頼りに紐解き、言葉を紡いでいった。 「いつも隠れていたよな」 それは次第に鮮明に、克明に。 内心に刻みつけられていたと知り、更にその記憶を辿ろうと深みに嵌って。 気付けば、その記憶の淵から抜け出せなくなっていた。 自然と涙が零れていく。 プラズマ、幻聴、反響音。私はこれらを肯定し、絶賛し、奨励する。 とある少女に出会って、若干の知識を披露して、褒められた事が嬉しくて。 もっと彼女に特別扱いをして欲しかった事が切っ掛けで。 そうやって私は生きてきたし、この土台の上において様々な記録を築き上げてきたと思う。 しかしその少女は、十何年も前から行方知らずで。 当然それ以来は一度も彼女を見ている訳もない。 「そうか。お前はまだ隠れていたのか」 ゴースト、ナイトメア、ドッペルゲンガー。私はこれらを否定できない。 そうやって私は生きていたし、それも今ある生活の下敷きだった。 その基盤として大きく関わったのは、他でもない。 幼少時に一ヶ月に一度しか遊べなかった、少女だ。 この声の、幼い女の子だった。 「ごめん。気付かなかった」 彼女たちの事を忘れていた。 私の胸中に滾る感情を何かと訊かれると、何も答えられなかった。 元々言葉数の多い方ではなかった。語彙知識を深めようと努める事も殊更だ。 ただ、どうしようもなかった。 今朝感じた何かしらを諦めるという気持ちが蘇る。 本当は、あれは焦げたトーストに反映されるべきものではなかったのかも知れない。 正に、今に使うべき後悔だったのかも知れない。 「…でも、会えたのだって」 柔らかくもどこか涼しげな声が、耳を打った。 ふわりとした、優しい日陰に咲く花の匂いを感じ取る。 「…月の出ない夜だけに限って、でしょう?」 私は匂いを辿り、枕の方からすると知って振り向いた。 彼女はそこにいると判っていたが、しかしやはり私には見えなかった。 黒々とした影を部屋の隅に集めて固めたような、そんな存在が縮こまって座っていた。 月影を照り返す水面によく似た色の肌だけが、ただ眩しい。 「…久しぶり」 そして滔々と、それは口を開いたのだった。 |