獄囚録 |
若年層の流出によって緩やかな人口減少にある港町。
その海から最も近く、街からは最も遠く、切り立っている断崖絶壁の上に施設はあった。 施設と言うには大きすぎて、大きな堀の先で厚く高い壁にその殆どを覆っている建造物。 カモメたちが朝だと叫んで起床させ、寒い海風のうねりに身を縮込ませて夜を凌ぐ。 更に新人がこの場所に入ると、まずは潮騒のけたたましさに耐えなければならない。 「時間だ」 仄暗い牢屋。 3畳程度の独房の外から、牢番が声を掛ける。 檻の中では一人の男が一枚の薄布を気怠そうに捲り、上体を起こした。 ジャラリ、と金環がぶつかり合う音がする。 それは杖であり、また囚人を罰する為の秤棍についた装飾から出る音だ。 「イヌナキ、朝だぞ、起きないか」 ボリボリと頭垢を散らしながら、端整な顔立ちの男は隈深い目を看守に向ける。 イヌナキというのは、独房の主であるこの青年の事だった。 薄褐色の肌に、香油で丁寧に手入れされた濡羽色の髪。 ピジョンブラッド・ルビーの様な目が、囚人を睨み付けていた。 彼女はアヌビス。 規律と由緒に正しく、この監獄に置いては同族を見ない魔物である。 表情を窺い知る事の出来ない典麗な顔と、視線が結ばれた。 「挨拶」 硬い表情を湛えたままに、牢番は朝の礼儀を諭した。 「...御早う」 「歓心。早々に身支度を調え、朝食を摂るように」 颯爽と踵を返して牢番は去っていく。 頭痛と耳鳴りに苛まれているが、それらは寝不足の為であった。 人が頭を預けるには硬すぎる枕を惜しむように、一つの長い欠伸をした。 早く私に付いて来いという意思表示は、イヌナキが確かに受け取っていた。 彼は疲れが取れず、また新しい一日を明かしている。 岩の様に重い腰を上げ、イヌナキは出房した。 牢獄に入っているという事は、つまり、罪人であるという事。 罪人であるという事は、つまり、何かしらを犯した者であるという事。 青年の罪は、度重なる脱獄と強盗、暴力、無銭飲食。 そして、数十件にも及ぶ殺人未遂。 イヌナキは国で最も有名な犯罪者のひとりであった。 それらの罪には、それぞれ真っ当な動機に基づく結果としてあるのだ。 しかしその全ては結局の所、正しい選択ではなかったのである。 朝食を済ませた青年は、他の受刑者達と共に整列し、体操を始めた。 無意味を感じさせる体操の後、受刑者達は二手に分かれる。 「1-10棟の受刑者は私に付いて来い」 看守のひとりであるダークプリーストが集団へ声を掛け、工房へと進んだ。 日用品や家具を作って提携先の業者に売り、監獄の運営費を稼ぐのである。 「該当しない者はこちらへ」 先程のアヌビスがイヌナキを見ながら残った集団を先導し、食堂を出て行った。 イヌナキは作業服に着替え、獄衆分だけの自給自足の農耕を行うのである。 アヌビスの監視の下、着替えたイヌナキ等は重い扉を開いてガーゴイルの守る門を潜った。 「これより昼食まで農耕を行う。慣行であるが怪我の無きよう注意せよ」 農耕に於けるイヌナキの仕事は、その大半が土を盛る為に猫車を押すといったものだ。 厚壁に囲まれた斜面の昇降は閉塞感を目一杯見せ付けられ、疲弊速度も異常だった。 角形に刻まれた空は雲を低く伸ばして、余計に箱の中の住人だと意識させられる。 イヌナキが圧迫感で目眩を酷く感じていた時。 「うわッ」 囚人のひとりが悲鳴を上げた。 イヌナキはその声を聞いて作業を中断した。 ゆっくりと悲鳴の方へ目を遣ると、彼の足を植物種の魔物が捉えていた。 何の気無しに管理員を見遣ると、他の看守や飛来してきた有翼の魔物と談笑している。 他に遣る事もあるだろうに、と悪態を吐く声が遠くから聞こえた。 溜息を吐いて背筋を伸ばしていると、周囲の囚人達の会話が耳に入った。 「またアルラウネか」 「マンドラゴラよかマシってもんだ」 「明日にでも犠牲になった分の蜜を貰うとしよう」 囚人達は他人事だとばかりに男が植物の中へ引込まれていく様を眺め、作業に戻った。 この土地は清純であった過去もあるのだろうが、今は魔物の蔓延る半魔界である。 魔物の好き嫌いに関わらず、囚人にとって気の休まる時は一刻として存在しない。 それから、イヌナキは黙々と土で出来た大きな山を3つほど拵えた。 季節を無視したかのような蒸し暑さに慣れてきた頃、アヌビスが笛を吹いた。 昼食の合図である。 囚人らはのっそりと、城のような監獄へと戻った。 イヌナキはその男衆の中でもゆっくりとした足取りで歩く。 「イヌナキ、機微に動いてくれないか」 アヌビスが背後から歩幅を合わせて声を掛けた。 イヌナキの顔を睨むように見て、不満な表情を露わにする。 嫌でも彼女の鼻に付く、青年に染みついた火薬の匂いに眉を潜めたのだ。 「...断る」 イヌナキは面倒だとばかりに一言却下した。 より遅く、外気を体中で浴びるようにゆらり歩んだ。 「これじゃあ、何の為に私が居るのか...判らなく成ってしまうではないか」 「...好都合だ」 「等と言って、足早に成ってくれて居るな」 「...風の塩気にいい加減嫌気を覚えた、それだけだ」 穏やかな笑顔と仏頂面のふたりは、静かに門を潜った。 昼食と小休止を終え農耕作業を日暮れまで続けると、本日の作業終了の笛が鳴った。 それまでにまた囚人がふたり、魔物に捕らえられていた。 囚人ほぼ全員が三度集合し、夕食を採る。 この時、囚人の中で5人の男が発狂した。 するとアヌビスやダークプリーストが食堂から姿を消した。 彼女たちは番兵のゾンビやスケルトンを引き連れ、それぞれを男達に会わせる。 すると連れてこられた魔物達は歓喜し、男達の手を取って食堂を後にする。 男達は魔物達に即座に連行されて以降、彼らは戻って来なくなった。 囚人の誰もがそれを恒例行事と見て、一部は恐れ、一部は羨み、黙って傍観していた。 こうしてイヌナキ達は食事を終える。 終えた途端、一部の囚人は急ぐように食堂を出る。 また、意固地に食堂の席に座る者もいた。 食事当番である囚人以外は、結局食事終了から10分も経たない内に食堂から出る。 その後は合図されるまで各自の自由時間なのである。 厳密に言えば、それは魔物達の自由時間だ。 魔物が食堂から出てくる男達を黙って待ち構える。 スケルトン、ゾンビ、ゴーレムなどの門番や警備役を担う魔物。 教職や看守を担うダーク・エンジェルやダークプリーストなどの魔物。 わざわざこの時の為に遊びに来る淫魔やゴースト。 囚人は次々に捕捉され、それぞれの檻や外へ連れ出された。 捕まってその場で“食される”風景も珍しくない。 イヌナキはそれらをかわし、尻目でその場を去った。 そのまま、監獄の門近くの影になっている場所まで歩く。 「またいつもの場所かい、旦那?」 不意に、門番のガーゴイルがイヌナキに話し掛ける。 「...あぁ。呉々も内密にな」 「へへっ。了解了解」 ガーゴイルははにかんで頷き、また退屈そうに同じ姿勢に戻った。 青年は彼女に見向きもせず、普段固く閉ざされている扉を開けた。 看守用通路を越え、暗い階段を上る。 錆びた金属の扉を開く。 すると、監獄の外から普段見えている場所まで出る。 厚壁より高いその場所は、まさに城の頂上の部屋である。 部屋に入ると、その脇で布の擦れる音がした。 既に魔物が居たのだ。 「遅いぞ」 「...御前が勝手に来ているだけじゃないか」 「良いだろう? 其れ位は」 「...遠慮して貰いたいものだが」 「良いだろう? 其れ位は」 「...好きにしろ」 「有難い」 青年は部屋の窓近くにある椅子に腰掛けた。 木製の簡素で肘掛けもなく、古いがしっかりした造りの椅子だ。 アヌビスは部屋の隅のベッドから離れ、イヌナキに近づいた。 じゃらりという音がしないため、杖や剣はベッドの横にでも置いたのだろう。 彼女に目もくれず、男はただ黙って外の月を眺めていた。 海に面している窓だが、風も弱く、静かな風景だけが目に映った。 「この眺めが本当に好きなんだな」 「...あぁ」 「結局、此処がイヌナキの帰る場所に成るんだ」 「...そうだな」 「今はもう昔を見る影も無いが、其れでもイヌナキは此処に居るべくして居るんだ」 「...」 「我らが王家の血を引く者よ」 「...そう言って、これだから、脱獄したくもなるんだ」 「許して欲しい。今は智慧が足り無いのだ」 この土地は元来清純であるべき場所だった。 古い時代、この監獄は真に王族の城であったのだ。 今は、ダークマターによって荒らされ、ノームによって変質した土壌である。 虫・植物種や飛来系統の魔物が押し寄せる場所となってしまっているのだ。 ここを閉鎖し、世間で“不要”と判断された人間等を投獄する。 そして、否応なしに順次魔界へと連れ去られていく。 一部の魔物と囚人は“駆け落ち”するが、それも暗黙の了解として認められていた。 そういった、人間から見ると滅茶無茶苦茶な場所と変わり果てていた。 「...日々体の節々を痛めて過ごす生活のどこに、王の証がある」 「仕方無い事だ。今や既に男性が囚人身分以外に此処に立ち入る場所等、無い」 青年が窓から視線を外し、アヌビスを見る。 ピジョンブラッド・ルビーの双眼がイヌナキの瞳孔を射抜くように見ていた。 時に、頭上に大きく立っている黒い耳がふるりと動く。 月明かりだけに照らされた彼女は恐ろしい程に美しく。 おどろおどろしい程に魔物で、それを包括しても尚、たったひとりの女に見えた。 青年は徐々に接近してくるアヌビスの、普段と若干異なる気配を察する。 察して、片手を突き出した。 「...待て」 「む」 「...名前を呼ばない限り、其れは無いと約束しただろう」 「んむ」 「...この部屋で、お前は俺を管理出来る立場には無いからな」 「判って居る。あぁ。判って居るとも」 アヌビスは耳を小刻みに震わせながら、顔を一層硬くした。 しかし彼女の尻尾はゆらりくらりと宙を掻き回し、空間に静止を与えなかった。 王族は一瞬思案する。 今はほぼ一方的な魔物の自由時間だ。 その中でこうして自分に付き添っているという事は、家臣の身だと自覚しているという事。 イヌナキをそう認めているのは、監獄に於いてあまりに少ない。 ガーゴイル達や一部のサキュバス、そして目の前のアヌビスだけなのだ。 獄外に出れば吸血鬼やバフォメットの知り合いが居たりするものだが、その縁も今や薄い。 その事実の上でこうして連れ立つ彼女に、イヌナキは一種の愛着を寄せていた。 この感情に気付いたのは、つい最近の事だが。 「...判った。おいで、シトラ」 途端、シトラは座ったままの男に食らい付いた。 一瞬のことで対応が遅れるが、イヌナキも彼女に応えた。 幾度となく柔らかな唇で啄むようにキスを交わす。 首筋から肩に、肩に互いの手を伸ばす。 イヌナキが椅子の背もたれから体を浮かすと、その間に手が滑り込む。 アヌビスは自然、イヌナキの膝の上に乗って体を密着させた。 がっちりと抱え合ったまま、それでも手の動きは互いの背を這いずり廻った。 イヌナキがアヌビスの背筋を上から下になぞると、彼女は大きく震えた。 「んぅ」 甘い声を漏らし、一度顔を背ける。 シトラの吐息が首筋に掛かった。 長く黒い尻尾がふたりを一緒に締め付けるようにイヌナキの体にまとわりつく。 彼女はイヌナキの肩胛骨の辺りを押さえつけていた。 肉球と柔毛のついた彼女の手は、人のそれよりも冷たく、感触も心地良い。 2,3枚の布越しに、シトラの女である部分が押さえつけられる。 くっつき、離れる事を繰り返す。 そうすることで、控えめながらもそのふくらみは充分に存在を主張していた。 密着を少し開き、互いの顔を見る。 「ん?」 「...その顔は反則だろう」 今度はイヌナキが食いついた。 貪るが為、アヌビスの口を無理矢理こじ開けた。 唇を交わして開き、舌をイヌナキの口腔へ潜り込ませる。 男もシトラの歯の裏や舌の裏を愛撫する。 アヌビスは唾液を大量に絡ませ、泡立て、吸い取り、飲み込んでいく。 わずか数十秒だったが、アヌビスは顔を離して満足そうに舌なめずりした。 魔力の覇気が漲っている、嬉しそうな顔だった。 そのままゆっくりと再び顔を近づけ、イヌナキの頬を舐める。 時間を掛けて丹念に舐め、そして次第に舌先を唇に移行させる。 アヌビスなどのウルフ種、イヌ科の生物の愛情表現だ。 ただし、この行為はイヌナキに限っては意味合いも変わる。 彼は火薬のきつい匂いを放っているのだ。 その体に染みついた匂いを洗い流すように、アヌビスは全身を毎日のように舐め回す。 丹念に舌で涎をすり込むその必死な顔からは、シトラの強い恋慕を知る事が出来る。 自分の匂いを移すそれは、マーキングと変わらない行為だった。 彼女は独占欲の強い魔物なのであり、そういう女なのだ。 ぴちゃぴちゃと、濡れきった顔が音を発て始めていた。 唇を舐められながら、イヌナキは口を開く。 「...また寝床に移動するのが辛くなりそうだ」 囚人として日々を過ごしている為、寝床は独房なのだ。 青年だけを特別扱いさせるものは、現状この部屋を利用出来るという程度でしか無い。 それでも、他の罪人達よりは遙かに好待遇なのかも知れない。 「肩は貸す。だから、今は私に借りを作らせて欲しい」 「...そうだな」 彼女は器用にも舌を動かしながら答えた。 イヌナキは彼女の背中に巻き付かれているチューブトップを、上にずらした。 露わになった掌大程度のそれは青白い月光の照り返しで、淡く輝いている。 イヌナキはゆっくりと熱い息を吹きかけ、揉み、吸い付き、舌で転がし、弄んだ。 彼女の小粒を吸っても何も染み出てこないが、仄かなしょっぱさを覚える。 シトラがとても小さく喘ぎ、声を堪えるように閉じられた口で啼いた。 穢れたノームの土地で出来た、穢れた食物を食べているのだ。 耐魔性の体でも、影響を全く受けないという事はない。 当然、夜も長くなる。 |
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