綿打録 |
どんなに足下の木々が煩わしくとも、強い日差しが瞼に降りかかろうとも、決して目を覚まさない。
ただ生まれた時から風に乗り、空気中に霧散する魔力を吸って生きていた。 男の精気を嗅ぎ取り、自身に最も合う存在を見つける旅。 魔物は悠々と空に浮かんで夫を探す。 「何だろう。変な匂いが近づいてくる」 最初に気付いたのはマーナガルムだった。 彼女は紺色の下地に灰色のワンピースを纏う黒毛のワーウルフだ。 ベリーショートで快活そうな顔に、しなやかな筋肉を持つ。 「マァ、どうしたの」 「空からかな。嗅いだことのない魔物の匂いだ」 狼の愛称を呼ぶ声が近くにあった。 マーナガルムと共にいた、彼女の親友のワーシープのアリエスだった。 体は金色の混じる白い毛に包まれ、柔らかく豊かな胸も隠れている。 申し訳程度に着ているワインレッド・カラーのパレオからは艶のある脚が伸びる。 「エリー。向こう側に何か見える?」 「あれのこと? うんと...ケサランパサランかも」 「ケサラン...何だって!? 急いで御主人殿に教えなければ」 「ヴィスを呼んでもどうしようもないんじゃないかなぁ」 「とっ。とにかく。私呼んでくる」 ふたりはとある盆地にぽつんと建つ一軒家の庭にいた。 夏真っ盛りとあって、ガーデニングは綺麗に咲き揃っている。 狼が家の主を呼びに行く間、アリエスは快晴の空を見続けた。 「ヴィスは見えるかな」 風上遠くに、1匹だけ白い魔物が浮かんでいる。 アリエスは、狼がよく匂いを判別したものだと感心した。 焦点を絞り、集中すると輪郭が見える。 褪せた緑色の髪に、幼い体。 恐らくは羊と知り合いのリャナンシーよりも子供の体格だ。 局部のみが綿毛に隠されており、おむつを着けた乳児を連想させる。 そこから出ている足も小さく、僅かにふらふらと動いていた。 「ケサランパサランは!?」 家主のオーヴァイスが、家から叫び混じりに飛び出した。 彼の後を追うようにして、マーナガルムも続いて家から出てくる。 普段は自室に籠もって難しい本ばかりを読んでいる男だが、運動も良くできる人間だ。 アリエスの夫であり、マーナガルムと契約して身辺警護等を頼んでいる張本人でもある。 「あっち」 羊は風上を指さし、オーヴァイスに見えるかどうかを訊いた。 男は首をかしげつつその方角をテレスコープで探す。 「強くなってる。雨とはまた違う雲の匂いに似てる」 「もうちょっとで見つかるはず」 「待て待て、どこだ」 狼と男は視認できず目を動かすが、やはりその影は見当たらない。 羊は黙ってふたりを伺いつつ、魔物がやってくる様を見ていた。 もう既にかなり近い。 上空に吹く風の強さを考えると、羊は眉をひそめた。 やっと見つけたと狼が言った。 アリエスは、予想よりずっと低く魔物が飛んでいるのでは、と考える。 急降下して、この家を目指しているということだ。 微かな予感を胸にしまって、観察を続ける。 「おっおぅ、やっと見つけた」 オーヴァイスが喜んだ。 草原の向こうから、漂ってくる。 「夢にまで見た、幸せの綿毛だ」 - - - - 男と狼はいつも通りのソファに座っていた。 ケサランパサランも、テーブルの近くで泣いている。 「どうなることかと思ったよ。ありがとう、エリー」 「素直に感謝する。私も自分が後れを取るとは思わなかった。ありがとう」 アリエスの予感は的中した。 綿の魔物が家主に接近すると、会話もなく細かな綿を振り撒き舞った。 羊は即座に自身の腕でオーヴァイスの頭を包み、狼に捕獲するよう指示した。 羊毛で綿の粒子を塞がれた男は正気を保っているものの、狼は違う。 今まで嗅いでいたそれより数段濃い魔力を吸って、眼光を明滅させていたのだ。 マーナガルムは首を激しく震わせて即座に魔物を捕らえた。 綿の魔物が小さく嗚咽を漏らす。 とりあえず、男はケサランパサランを狼に掴ませながら家に入れた。 「褒めてくれるのは嬉しいけど、今はこの子に泣き止んでもらわないと」 アリエスは4人分のハーブティーを、冷ましたてのクッキーと一緒にテーブルに置く。 客人は狼の持ってきた化粧台用の小さな椅子に乗って泣いている。 拘束は既に解かれているが、怯えているようだった。 両手で涙を拭き声を上げて泣く様は、見る者に罪悪感をもたらした。 アリエスは夫の横に腰を下ろさず、子どもの前で屈み、やれやれと呟く。 片腕で自らの膝小僧を抑えて、テーブルの上のクッキーを渡した。 「ほら、泣いてないで、ね? このクッキー美味しいよ」 「あぐっ...むん?」 「どうかな?」 「...おいしー」 ケサランパサランはクッキーを削り取るように少しずつ食べる。 すると数秒置いて、全身をむち打たれたようにビクついた。 先程までとは打って変わったように目を輝かせる。 「あはは なにこれ? おいしー!」 「そ、そう? そっか。もっとあるから食べてもいいよ」 「御主人殿。ひとつ良いですか」 「何だい」 「もしかするとですが。この子。他人との接し方を知らないのでは」 「...ふむ」 子どもはどうやらクッキーを気に入ったようで、涙目ながら頬張っている。 「...ケサランパサランは謎の多い魔物だ。可能性はある」 目撃例自体が少なく、研究対象になるほどの危険性もない魔物だ。 青い鳥や4つ葉のクローバーなどといった幸せの象徴と同様に扱われる程度の存在。 「ねえ、名前はなんて言うのかな?」 「? ないよ?」 「じゃあじゃあ、どうして態々こっちへ来たの?」 羊は問うた。 その質問に応ずる前に、綿の子は恥ずかしそうに紅潮する。 家主の男を見て、すぐさま目をそらしてはにかむ。 至極実直で判り易い、微笑ましい子どもの反応だった。 「だんなさんに なってもらおうかなあって」 魔物は顔を両手で覆った。 しかし、耳まで赤くなっているので表情が容易に想像できる。 子どもは恥ずかしそうに体をゆすり、クッキーを齧った。 狼は口笛を吹き、羊は沈黙し、夫の隣に腰を沈めた。 羊から見た男の顔は、少し申し訳なさそうに口元を下げている。 「...私としては複雑なんだけど、ヴィスは運がいいね」 「そうだなぁ。運がいいとしか言えない」 狼が鼻を鳴らしてクッキーを一口に食べる。 オーヴァイスは前のめりになって手を組み、子どもに話しかけた。 「俺と一緒に生きようか」 男の言葉に、子どもは首をかしげながら、ゆっくりと頷いた。 頬は桃色に染まり、しかし何も判っていない表情だ。 羊と狼は黙って家主と客人の様子を見守った。 オーヴァイスは頭を掻き、背中にあるクッションを取り出して言葉を重ねる。 少女はこれから何をするのか、と期待に光る円い目を男に向けた。 「俺達は、例えば、こういうクッションって物を作ったりしてるんだ」 「? かっこいいね」 「...ありがとう。それで、君にも手伝ってほしいことがある」 「うん?」 「先ずは、皆で一緒に暮らしていこう」 「このひとたちはだれ?」 「俺の大事な宝物。だから君も大切にしてね」 「わかったよ!」 「そうか。じゃあ、よろしく」 男は挨拶に手を差し出した。 綿の魔物はその腕をじっと眺め、クッキーを食み続ける。 一度伸ばした手前、男は苦笑いを浮かべて腕を宙に浮かせていた。 狼は耳を立てて子どもを窺い、そして呆れ顔で溜息を吐いた。 「羊さん。私達は部屋を出ましょうか」 「えっ、何で? 狼さん私わかんない」 「いいから」 マーナガルムは立ち上がり、羊を引っ張る。 羊は一瞬抗い、しかし観念したかのように声を上げる。 「ヴィス! 私が名付けてもいい?」 「いいよ」 「それじゃあ考えとくね!」 「ほら。馬鹿羊...さっさとしなさい」 「じゃあ、これからよろしくね!また後で!」 狼と羊は男の背後に回って、扉をくぐって行く。 男の耳には2階に上がっていく足音と、気付いたクセに、と呟く狼の声が聞こえた。 オーヴァイスは耳の裏を掻き、差し出す腕をどうしようか悩んだ。 クッキーを大人しく食べる様はよく躾けられた人の子を思い浮かばせる。 男は指を動かした。 ぴくり、と魔物が反応を見せる。 「もぐもぐ」 「...」 もう一度、指を軽く曲げる。 少女はクッキーを口に放り込むと、その腕目がけてダイブした。 オーヴァイスに噛付き、その指を口の中で舐め回す。 家主には意味が判らない。 ケサランパサランは特別好色な魔物ではないと、少ない史料にあった筈だ。 「何がしたいんだ?」 テーブル脇に少女の唾液が滴り落ちる。 魔物は指の間、爪、手のひらを順々に湿らせていった。 「まさか」 男は閃く。 「こりゃあ、握手知らないな」 ケサランパサランには何も聞こえていない。 綿の魔物は十分に濡れた手を、自身の綿の中へ導いた。 オーヴァイスの愛妻とは違う感触。肌理が細かくしっとりとした綿雲だった。 男はもう片方の腕で彼女の頭を撫で、腕を雲間から抜き取る。 今にも融けそうな程に恍惚した顔が少しだけ曇った。 「どうしたの?」 「どうやら、君には教えなきゃいけない事が一杯あるみたいだ」 「いっぱい? たくさんおしえるの?」 「あぁ。沢山。だから、これから色々なことを覚えていこう」 「うん!」 「いいこいいこ」 「ふみゃあ」 オーヴァイスと魔物は笑いあう。無邪気な笑顔に後光すら錯覚して見える。 「とりあえず、読み書きか」 相変わらず男は苦笑いだった。 「よみかき?」 「そう。ちょっと待ってろよぉ」 男は一度自室に戻り、白紙のノートと古い絵本を取り出した。 それを少女に与えると、初めて玩具を貰ったかのように喜んだ。 もしかすると結婚指輪相当のものと思ったのかもしれないが、男は敢えて何も訊かなかった。 先ずはペンの持ち方、使い方を教えた。 次に、オーヴァイスはノートを開いて一文字すつ丁寧に書いていく。 魔物にはその上を緑色のペンでなぞらせる。 一通りの文字を教えていく。 時には歌を交えることで、面倒な文法も簡単に吸収していった。 彼女は物覚えの速い個体らしく、教育開始から2時間で母語をマスターした。 少女は続く1時間で、数字と足し算を覚えた。 3時間も休憩なしに教師をしていると、流石に肩が重くなる。 しかし、綿の子どもはまるで疲れていないようだった。 覚えたての童謡を口ずさみながら、ノートの一面に絵を描いている。 小休止にハーブティーを淹れながら、オーヴァイスは少女の知能を考えた。 少女一人だけで種族としての知能の高さは見極められない。 低い声で唸っていると、リビングの扉からノックの音が部屋に響いた。 返事をすると、アリエスが顔を出した。 「そろそろおゆはんにしたけど、準備してもいいかな?」 「エリー、この子凄いわ。一週間もしたらお前より頭良くなるぞ」 「そっ、そんな馬鹿な!」 「それは置いといてさ、今日は何だい?」 「置いとけないよ...。えっと、今日はマァがミートパイ食べたいって」 「ミートパイか。歓迎パーティには丁度良いな」 「見回りとか言ってたけど、今は多分ジュース買いに行ってるよ」 「あいつホントに素直じゃないなあ」 「でもそこがかわいい」 「だな」 「とにかく、パイつくるから家庭教師の続きしててね」 「はいよ」 羊がキッチンに入ると、家主は食卓に移動してカップぎりぎりまでお茶を注ぐ。 そして淹れたてのお茶を啜り、渋い顔を浮かべた。 「薄いな」 「ヴィスはお茶淹れるの上手くないからねえ」 「お前だってコーヒーまともに淹れられない癖に」 「ヴィスも一緒でしょ!」 「...だなぁ。コーヒー以外の大抵の料理はお前にゃ敵わんわ」 「へっへーん。料理の腕だけは誰にも負けてやらないんだから」 「おっおぅ。強く出たな」 早速、アリエスは白い粉を取り出した。 オーヴァイスは首と肩を回してソファへと戻る。 2ページ目に移行した絵は写生らしく、窓の外の風景が描かれていた。 底の知れない綿の子に絶句した家主は羊に声をかける。 「そういえば、この子の名前は決まったか?」 「んん? 決まってるけど、今言った方がいい?」 「教えるときに名前呼べないのはちょっと辛いからな」 「んじゃ、教えてあげましょう」 羊は綿の魔物に近寄り、頭を撫でる。 少女は緑色のペンを握ったまま、キョトンとした目で羊を見上げた。 アリエスは屈み、柔らかく笑む。 その笑顔に合わせるように、少女も顔を輝かせる。 彼女はクッキーを貰えると思ったのかも知れない。 「私はアリエス。今日からよろしくね、セラ」 セラと呼ばれた少女は、笑顔のまま首を傾けた。 |
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