後継録 |
とある盆地の端にある深い森にある孤独な家。
その場所こそが、感性を操る魔物の住み着く家だ。 青年が1人、古錆びた門戸を叩かずに進入する。 一軒だけ廃屋のように佇むその小屋には、魔法が充満していた。 階段を軋ませて上り、全室の壁を取り払って広いアトリエと化した2階に踏み込む。 そこで男は初めて柱を叩き、存在を伝えた。 「失礼」 「えっ」 窓際の近くにあるキャンバスと、高座椅子。 小さな子供の声と共に椅子の上でプリズムが光った。 その家に住むにはあまりにも小さすぎるが、彼女こそが家の主だ。 「ありゃりゃ?」 男の声で初めて来客があったと気付いたようで、彼女は虹色の羽で飛んでくる。 画家や陶芸家のような、職人気質の人間が着ていそうな茶色の服装。 オレンジ色の絵の具で彩られた無邪気な顔や、桃色に輝く髪、椛のような掌。 妖精から派生した種族らしいが、彼女自身の発生について男は何も知らない。 「6代目じゃないのさ。いったいどーしたってゆーのさ?」 「頼み事があって、智慧を拝借しに」 こんなナリをしていても、青年の最低5,6倍は生きている。 彼女は代々男の家の相談役であり、その6代目である男にとっては友人だった。 「頼むよ。リルウェル=ダンデリオン」 リルウェルと呼ばれた魔物は屈託無く笑う。 「いーよ。オーヴァイス。何があったのさ」 - - - - 森を抜けて平野に出ると、また一軒の綺麗な家がある。 若き企業家のオーヴァイスが住む家だ。 世界的に有名な寝具ブランドを生産する場所としては、あまりにも生活感に溢れた家だった。 「あっ、ヴィス! おかえり!」 「ただいまエリー」 男の妻である白いワーシープのアリエスが玄関から跳ねる。 アリエスはオーヴァイスの妻であり、羊毛を生み出すビジネスパートナーでもある。 彼女から毛を刈り取って数週間が経過しているので、もう羊毛は生え揃って。ふかふかだ。 当然のように服が邪魔になるので、この姿になるとアリエスは大抵の服を嫌う。 その日はラズベリー・カラーに染め上げられたフリル・スカートのみを着用し、羊毛の所々に鈴やリボンをあしらっていた。 男はその心地よい感触と、その奥から押しつけられる弾力を感じた。 「その匂い...御主人殿。リルの所に行っていたのですか」 次にはリビングから黒いワーウルフが鼻をひくつかせながら現れる。 警備員のマーナガルムだ。 「正解」 「先に声を掛けて頂かなければ困ります。探しましたよ」 「んむ? 何か用があったかい」 「いえ。用と言うより馬鹿羊が寂しがっていたので」 「ちょっとマァ! 言わないでよ!」 「数時間程度のことだろうに」 オーヴァイスは家に上がり、ソファに座った。 対面に狼が腰を掛け、足を組んだ。 アリエスが紅茶を3杯淹れ、テーブルに置く。 そして男の横に、頭2つ分ほど小さな温かい綿雲のように座り込んだ。 羊はオーヴァイスに角を擦り付け、彼の膝に頭を乗せる。 「あまり良いとは思えません」 「ん、何が?」 「彼女はリャナンシー。私達とは大きく違う」 マーナガルムは鋭い視線を男に送り、諭す。 「リャナンシーに憑かれた場合。血や精気を引替えに人を惹くものを作ることは出来ます。 事実。彼女に血を捧げ名を貸し与えられてダンデリオン家は存在します」 「そうだな」 「今やその恩恵と現当主の御主人殿により安定したブランド力を誇っています」 「よせやい照れる」 「...彼女の血に頼るような事はもう必要無いと思いますが」 マーナガルムは心配していた。 彼女はオーヴァイスとアリエスを最終期に喰い殺す役割も担っているが、それを快く思っていない。 寧ろ、今の時間をずっと生きていきたいと思う優しい狼だった。 それを含め彼女達ワーウルフに代々体術や魔法を教えているのは、紛れもなくリャナンシーである。 親代わりとはいえ、マーナガルムはオーヴァイスとリャナンシーの接触を恐れていた。 リャナンシーと関わることで、必要以上に死期を早めることを嫌がっているのだ。 オーヴァイスは横たわり甘える妻を撫でつつ、紅茶を一気に飲み干した。 「大丈夫だ、問題ない」 「...しかし」 「芸術とかあんまり関係無い話だから、まぁあんま心配すんな」 「要らぬ心配でしたか。それでは」 狼は立ち上がり、家の周りを散策するために部屋から出て行った。 元来よりマーナガルムは散歩を趣味としているため、護衛も楽しんでやっているようだ。 オーヴァイスの膝上で甘えつつ様子を伺っていたアリエスが起き上がる。 彼女の目には怯えも心配も、そういった感情は何もない。 「私は馬鹿だから、ヴィスとマァの会話はいつもよくわかんない」 「そうみたいだねえ」 「...でも、無理はしないでね」 アリエスはオーヴァイスの額に触れ、耳から頬に手を伝わせる。 そしてその手が顎に到達すると、静かに近づき唇を重ねた。 羊は長く軽い接吻を終えると、小さく息を吐く。 「私も、マァだって、ヴィスがいないと寂しいんだよ」 「じゃあ、俺を寂しませるようなことはしないでくれよ」 「私、何かそんなことしたっけ」 「いや、このままで居てくれってこと」 「御主人殿。客人が」 不意に、散策をしに出掛けたはずのマーナガルムが帰ってくる。 その顔には明らかに不機嫌を見て取れた。 「誰だい」 護衛としての狼が露骨に厭な顔をする時は、大体にして彼女が快く思っていない者の進入を許さざるを得ない情況の時だ。 例えばそれは、中高生が部屋に突然やってくる親のような。 「リルウェル」 狼は顔を背けて、誰が着たかを伝えるや否や再び散策に戻った。 オーヴァイスはやれやれと呟き、不安げに男の様子を窺う羊を撫でて立ち上がる。 マーナガルムの言うとおり、玄関口には小さな妖精が羽ばたいていた。 視認すると同時に、リルウェルはオーヴァイスに飛び込んでくる。 彼女にしっぽがあるならば、きっと振りまくりの状態だろう。 「やほー。6代目ー」 「やほーじゃないッス。リル、どうして来たの」 「そりゃあ言うこと出来たからに決まってんじゃん」 リャナンシーの服装は数時間前と変わりない。 ただ、鼻に付いた絵の具が青色に変わっていた。 オーヴァイスは客人を屋内に招き、愛妻に席を外すよう願い出る。 するとアリエスは一瞬だけ眉をうっすらしかめ、自室へと戻った。 リャナンシーを普段男と妻が座るソファに座らせ、炭酸飲料を出した。 オーヴァイス自身は狼の座るソファに腰を下ろす。 「して、何か思いついたから早速ってことでいいのか」 「そーだねー」 「じゃあ、知りたい」 深刻な顔持ちで、依頼の答えを。 「あちきは何をするのが好きでしょーか?」 「絵を描いて、売る」 「せーかい。うーんと、じゃーヤオビクニって知ってるかー?」 「八百比丘尼って...人魚の血肉を食べた人間だっけ」 「せーかい。じゃーじゃーあちきが絵を売るには何をするー?」 「旅に...もしかしてメロウに伝手があるのか」 メロウとは人魚の一種で、その血を最も多く流出させている魔物だ。 外交を行う魔物であれば、人間には入手しがたいその血も手に入れ易いだろう。 しかしリルウェルは舌をリズミカルに鳴らし、人差し指もそれに併せて振る。 「それいじょーのヤツ」 これから言うことに自信があるらしく、その表情は男を期待させた。 「海の神官。超希少種のシー・ビショップと仲が良かったりして」 「な、なんと...」 「この前も会ったから、多分今でも貰えると思うよー」 「ちょっと待って。リルの言うこの前ってどれ位のもんなんだ。 今でもって事は、もう貰ってんだよな。それどうしたの」 「んー? えっとね、飲んで、あとは絵の具に使っちゃったー」 にゃはは、とリャナンシーは笑う。 常に子供くさい...場合によれば乳くささすら感じるようなリルウェルだが、確かに芸術に掛けるその腕は超一流だ。 リルウェルは主に魔物相手の商売をするが、彼女の絵は大人気ときく。 利益を優先するような相手は少なく、よって彼女のような旅商いの魔物も多いのである。 聴くに、リルウェルの絵をシー・ビショップが血で買い取り、とある夫婦に贈ったらしい。 「その海の神官さんにはどうやったら会えるかな」 「それを教えにきたのさ」 「助かる」 「ぶっちゃけあんたら人間と魔物の夫婦だし、丁度良いしさ」 「つまり、儀式ってのも受けるのか」 「そーゆーこと」 リャナンシーは人魚と会うための方法をオーヴァイスに事細かく教えた。 男の予想以上、ずっと簡単に望みは叶えられそうだった。 ブランドや財力にモノを言わせる交渉をせずに済むだろうことに、喜びが込み上げてくる。 その顔を見るリャナンシーも、嬉々とした表情になった。 リルウェルは足の間に腕を入れて体を支え、そのまま足をぶらぶらと揺らした。 「にしし、喜んでくれたならあちきも嬉しいさ」 「何か俺に出来ることがあれば、お礼したいけど。何がいい?」 「いやぁ、それはいいよ。思い出した程度で解決しちゃっただけだし」 「でも俺単独では到底無理なルートでの問題解決だ。新しい枕でも作ろうか」 気分を良くした男は、現在練っている妖精サイズの特殊な枕をプレゼントに提案する。 それも欲しいけど、とリャナンシーは前置きして、 一度黙った。 リルウェルは目を光らせ羽をばたつかせ、歯を見せて笑う。 「んじゃーねー。6代目の命を削って貰おうかな」 「言い方が酷いけど、それでいいなら」 男は上着を脱いでシャツのボタンを外し、左上半身を露出させた。 リャナンシーは対面のソファから飛び、その左腕に抱きついた。 掴み、頬ずりし、その腕を鑑定する。 「いい筋肉してんなー」 「鍛える環境がありますから」 「にしゃしゃ...久しぶり過ぎて加減できないけど、許せよー」 そう言うと、リルウェルは男の腕にかぶりついた。 オーヴァイスは反射的に筋肉を強ばらせるが、それを解く。 リルウェルは噛みついたまま男の腕に舌を這わす。 血の味を思い出しながら丹念に嘗め回す。 男はぬらり、ねとりとした感触を肌に受けながら、リルウェルから送られる魔力と格闘していた。 リャナンシーの魔力により、感性が磨かれていく気がした。 低身長な魔物用の寝具のアイディアも整理され、新しく浮かんだ。 しかし、その発想を頭に留め、かつ全身に走る衝動に耐えることの両立は難しい。 目の前の少女を滅茶苦茶ににしてやりたい、という願望が浮かび、蔓延る。 オーヴァイスが歯を食いしばって耐えていると、リルウェルも鼻息を荒くして一度腕から離れた。 男も、一時休戦には賛成だった。 「凄く美味しい血だねー」 「そりゃリルが人間の血を断っていたからじゃないのか」 「そーかもねー」 「ただ、ひとつ判ったよ」 「なーにー?」 オーヴァイスはソファに座ったままだが、地面に足をつけ立つリルウェルよりも目線が高かった。 子供相手に目線を同じ高さにするように、彼は屈めて言う。 「リルウェルの魔力は俺をサドにするみたい」 「普段からSの気ありそうな雰囲気の人間が何を言うかね」 「伝わる魔力からその魔物の性格が判るって俺に教えたのはリルウェルだぞ」 「んーと、そだね」 「それで、エリーは狂おしく、マァは優しくして貰いたがると知った」 「そーなのかー」 「そーなんス。そして、リルは焦らして貰いたがる」 「...いやー、確かにそーなのさ。でもね」 リルウェルは流れ出る血を口で受け、歯を赤くして笑みを零す。 「あちきは生まれてこのかた、そんな経験したこと無いからねー」 「...は? 嘘だろ?」 「何、そんなにあちきの言ったこと可笑しかったかにぇ?」 「だって、リルウェル。お前何歳なんだ」 「...言っていーこと、悪いこと、判ってるかー?」 勢いよく傷口から血を捻り出すよう、彼女は口をすぼめて吸い付いた。 お仕置きしてやろう、とでも言いたげな、激しい吸引だった。 その強さは、キスマークが出来るどころの騒ぎではない。 再び男に電撃が走る。 「初代当主とは...何も無かったわけなの?」 「デイビッド? あいつは単なるパートナーさー」 「...へぇ」 「しかもねー、憑く前に死んじまったのさー」 「...ダンデリオン家の養子制度って、まさかそこから」 「そだねー。あちきはそれ以来なんとな−く長生きして、今は6代目の面倒見てやってるわけ」 喋りながらも器用に舌と唇で傷を抉り、流血を促す。 既に魔力の麻痺効果で快感にすら変換される痛みは、男を侵食する。 が、オーヴァイスは楽欲に溺れきれずに、1つのことを考えていた。 「リルは初代当主のこと、好きだったのかい」 「...どーだろー? もう忘れちまったさー」 オーヴァイスは想像する。 初代当主にしてリルウェルより姓を与ったデイビッド=ダンデリオン。 彼はどのようにして彼女と出会い、そして寝具ブランドを立ち上げたのだろう。 顔や声すら知らない。どう死んだかも知らない。 当時の情勢は、人間にとっても魔物にとっても良いものではなかったらしい。 彼はどう生きたのだろう。 「あちきは今を生きたいのさー、しょーねん」 「もう少年って年齢じゃないけどね」 「あちきから見りゃー小童同然さー」 「...否定できないなぁ」 リャナンシーが帰った後、オーヴァイスはソファに座りなおしてお茶を飲んでいた。 その様子を察知し、アリエスがリビングに戻る。 いつもと同じように柔らかい物腰と表情で歩いていた。 普段通り紅茶を用意して男の脇に座ると、普段よりも大人しく一層優しい声でぽつり呟く。 「近々、シー・ビショップに会えるんだね」 「やっぱ聴いてたか」 「はは。そりゃあ、聞こえてるよ」 「内容は判ったかい」 男が愛妻の頭を撫でると、アリエスはその肩に凭れ掛かった。 太陽の匂いが鼻腔を擽る。 冷たい角が涼をもたらす。 「うん。みんなが笑っていられる世界を作るんだね」 「話はデカイけども、当たり」 「先に一言欲しかったなあ」 「サプライズの方が喜ぶくせに」 「先にばれちゃったら惨めなもんだね」 「それを言うなよ」 「おゆはん用意したいけど...マァは遅いなあ。何作ろうか訊けないや」 「仕方ないさ」 男は窓の外を見る。 ガーデニングで整った淵から、白い雲と真っ青な空が見える。 暑さよりも、日差しの強さがよくわかる色だ。 遠くに見えるリルウェルの棲む森も、緑と黒で描ききれそうなコントラストだった。 原色で囲まれた世界は、リルウェルのキャンバスとよく似ている。 外の世界が、まるでリャナンシーのパレットから始まっていると錯覚する程だ。 オーヴァイスとアリエスは、同時に大きな欠伸をした。 顔を見合わせ、少し困った顔をして笑いながら男は言う。 「マァは絵の具の匂いが嫌いだもんな」 |
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