羊飼録 |
「やっと着いた」
海路を渡って、長閑な盆地の田舎へと帰る青年が居た。 広大な敷地に少し贅沢な家が一軒のみ建っており、そこが彼の実家であった。 夏真っ盛りのプラントゲートをくぐり、玄関に入る。 すると、先で待ち構えていた可愛げのある女が男の胸に飛び込んできた。 「おっおぅ、エリー、ただいま」 「おかえり! 新聞読んだよ。充分高く売れたみたいだね」 疲れ顔の主人を出迎えたのは、ワインレッドのシャツとジーンズのホットパンツに身を包む露出度の高い若妻である。 顔には幼さが残り、喜びに溢れるといった表情だった。 その妻は得意げに新聞の見出しを暗唱してみせる。 「『第84回国際友好オークション 最高落札価格は今年もブランド・ダンデリオン』」 ダンデリオン・ブランドの寝具は最高級のものとして認識され、国外からも注文が殺到する。 その中でも希少価値の高いものは、オークションで価格高騰するのも当然だ。 男はそのダンデリオン・ブランドを経営・維持する優秀な若き事業主であった。 苦笑いを浮かべた青年は妻に荷物を渡してリビングへと入り、ソファに腰をかける。 若妻は大きなバッグを部屋の隅に置くと、ダイニングへと進みコーヒーを用意した。 「あぁ。まあ疲れたよ」 「お疲れ様」 「実行委員会は出品者への気遣いとか、もっとして欲しいもんだね」 「私は一回で行きたくなくなったもんね」 「俺もエリーをあんな所で寝かせたくないしな」 家主である彼はオーヴァイスといい、その妻はワーシープのアリエスと呼ばれた。 エリーというのは、オーヴァイスがアリエスに付けた愛称である。 オーヴァイスは服の襟近くを持って上下に動かし、服の中に涼しい空気を送り込む。 「もうっ、そうやってすぐ喜ばせるようなこと言わないの」 「羊が鳴くならメェ~でしょ」 夫婦の居る部屋に、ベリーショートの女が入ってくる。 青年の妻のような白い髪とは対照的な、艶の良い黒髪であった。 彼女はオーヴァイスの正面にあるソファに軽く腰を掛け、ふふんと鼻を鳴らす。 「マァはうるさい!」 「御主人殿。おかえり」 「えっ、私は無視なの?」 「ただいま、マァ。髪切ったのか」 彼女の名前はマーナガルム、通称マァというワーウルフである。 オーヴァイスと契約し、この土地並びに妻であるアリエスを護衛している。 「...それより御主人殿、ひとつ報告が」 「何だい」 「またエリーの馬鹿が花壇壊しやがりました」 「ば、馬鹿って言うな! 羊だもん!」 「...花壇、ねぇ」 男は呟いてアリエスに目を向けるが、彼女は即座に視線を落とす。 家主はこの家でマーナガルムと共に、花壇を始めとするガーデニングを楽しんでいた。 その花壇が壊されて、勿論いい思いはしない。 オーヴァイスと羊は幼少期より共に育ってきた中であるが、彼女の性格が臆病であることに変化はなかった。 今回のことでも、愛する夫に叱られることを恐れているらしい。 「ご、ごめんなさい」 「木より落ちた雛を巣に戻そうとしたとか」 アリエスは僅かに肩を震わした。 彼女は一応狼から一度きつく絞られているのだろう。 そのお陰か、黒髪の魔物自身は花壇の件を許しているようだった。 無表情の内心で面白がっているだろうマーナガルムが、顛末の説明を始める。 「雛?巣なんてできたんか」 「だから可哀相だなって思ったんだけど、小鳥を戻したら...今度は自分が落ちちゃって」 「角で煉瓦を破壊しちゃったようです」 アリエスはオーヴァイスより2頭身分低いという小柄であるが、オーヴァイスの数倍は頑丈な体である。 殊に彼女の頭に角は、特別屈強な魔物の一種であるワーウルフの牙よりも硬い。 煉瓦など容易く割ったことだろう。 「それで、怪我はなかったのかい」 「怪我は大丈夫でした!」 「そうか。よかった」 「はい」 「仕方ない、許すとしよう」 「...本当?」 「あぁ。今度煉瓦を買いに行こう」 「うん。わかった!」 羊の笑顔の後ろで、呆れ顔の狼からため息が漏れた。 - - - - 「ねえねえヴィス」 「どうした? エリー」 日が暮れ夕飯の過ぎたころ、家主は再びソファに深く腰を預け、小難しい古文書を読んでいた。 若妻は既に家事を済ませ、愛する者の隣に体を丸めてくっつくように座っている。 狼は外の護衛に出ている時だった。 甘く蕩けた至福の顔を浮かべながら、アリエスは夫に告げる。 「久しぶりに、しあわせ」 オーヴァイスも本から目を離し、彼女の視線に合わせて微笑んだ。 「そうだな」 「あんまり長く居ないと、淋しいよ」 「ついて来てもいいんだぞ」 「あそこ、魔物差別がひどいから、嫌だもん」 「俺も嫌だ」 「...んぅ」 若妻は目を閉じて顔を差し出し、家主も本をテーブルに置いてそれに応えた。 オークションの出張で離れていた3週間、堪りきったフラストレーションに火が点きそうになる。 長旅で疲れきった体にアリエスの軽やかな重みは薬になるが、それ以上は毒になってしまう。 しかし、次第に情熱的な接吻へと移行していくことを止められない。 両手で互いの顔を固定して貪り尽くす。 息の荒くなって数分の後に、やっとふたりの顔が離れた。 アリエスは既にこれ異常ないほどに顔を赤らめ、桃色の小さな唇を濡らしている。 普段の子供染みた所作とは対照的にひどく官能的で、幾度となく同じ局面に立っても慣れない。 羊はふたりの間に掛かった糸を舌で舐め取り、軽いため息を吐いた。 「毛を刈り取ってから3週間と3日もお預けなんだよ」 「そうだよなぁ」 「でも、今日は疲れてるでしょう?」 「あぁ。クタクタだ」 夫をもつ魔性の羊は、精力の供給がないと羊毛を伸ばすことができない。 また、彼女たちは羊毛がなければ常に色欲に苛まされてしまう。 3週間と3日間は彼女にとって疼きが止められない地獄の日々であったに違いない。 そんな妻を解放してあげたいとも思うが、オーヴァイスにはそんな体力など残されていないのだ。 しかしその一方で、オーヴァイス自身が獣のように狂いたい衝動にも駆られている。 夫は本能が決壊しないよう、一生懸命に古文書を思い出して塞き止める。 「明日で完全回復しよう。明後日まで待ってくれないか」 「...いいよ」 「助かる」 オーヴァイスは胸を撫で下ろし、同時に後悔や軽い自己嫌悪に陥る。 なぜこんな愛しい人の自由にできないのか。人間の脆さを悔いた。 追い討ちに、妻は無邪気に笑いかける。 「お預けが苦しいよ」 「...許せ」 「でも、今晩はちょっときつく抱きしめさせてね」 「いいよ」 「よかった。寒くて仕方ないの」 「はは。そんな軽装だから」 「布団に入っても、寒いんだよ」 「俺も同じだったさ」 自分より大きなものを抱きしめると心地よく眠れるのは、昔からのアリエスの癖だ。 その夜のお供であった大きくな抱き枕がオーヴァイスに代わるのはお互いが気付かないほど自然で、そしてこれは確認するまでもなくふたりが最も幸せに眠りに落ちることのできる方法となっていた。 「俺もエリーを抱きしめて眠りたい」 家主がそう告げると、その妻は堪らず体を捻って飛び込むように抱きつき、その鼻を夫の胸に押し付けた。 そのまま潜り込むように首を振り、強く夫の匂いを吸って呟く。 「少しだけ」 思わずオーヴァイスも連鎖的に爆発する。 愛妻の頭に生えた角を両手で強く握り、彼女の生え際に歯を立てる。 温かく柔らかみのある白い肌、金色の混じる髪が伸びているその場所から、彼女の匂いが体に行き渡る。 はう、アリエス眉を上げて唸り、魔物は必死に舌を伸ばしてオーヴァイスを味わおうとする。 角を解放すると、アリエスが首筋を狙って噛み付く。そして歯形やキスマークが残るように、一箇所一箇所を丹念に濡らしていく。 アリエスの大きめな双峰がオーヴァイスの胸板との間で水風船のように弾む。 羊は体を前後させるようにその感触を強調した。 彼女の唾液が、男の鎖骨に流れる。 オーヴァイスがソファに座り、更にその上に対面するようアリエスが座っていた。 密着することで猛りを共有し、興奮をより昂ぶらせていく。 ふたりは横に倒れこみ、とても強く抱きしめあう。 魔物の力で背中が圧迫されても、夫は幸せに包まれていた。 そのとき、目が合う。 興奮と衝動で目が回っているのが、お互いに認知できる。 ただ、優しい羊には継続してもいいのか否かという迷いがあるようだった。 「...やめよう」 「...うん」 ふたりは呼吸を整えて興奮を抑えるよう促した。 すると、次には笑いがこみ上げてくる。 「たのしいね」 「そうだな」 「...お風呂、入らなきゃ」 「そうか。行ってきなさい」 「...ちぇーっ」 アリエスは子供っぽく悪態をついた。 そして彼女は夫に自身の起伏に富んだ体を擦り付けるようにして起き上がり、シャワールームへと続くソファ裏の廊下へと早足で消えていった。 オーヴァイスはというと、首を回してその影を見送ってもなお、ずっと横になったまま余韻に溺れていく。 腰が抜けて動けない、という表現もあながち間違っていない。 「おや御主人殿。あの馬鹿はお風呂ですかね」 ふいに、外回りを終えた狼が気配のないまま家主に声をかけた。 「うおっ。吃驚させるなよマァ」 「その割には余裕綽々で寝ていらっしゃるようですが。御主人殿がソファでそう横になることなど珍しい」 狼はわざとらしく笑いながら、玄関に最も近い位置にあるソファに座る。 それはマーナガルムのお気に入りのソファで、オーヴァイスとアリエスが座るような大きいものではなく、一人用のものだ。 座って腕を組んだ彼女は、とても自分の主人を見るような目ではない視線をオーヴァイスに送りつける。 「ちょっと体がへばってね」 「屁垂れですね」 「起こしてくれ」 「腑抜けですね」 マーナガルムは一度立ち上がり、家主をソファに座りなおさせるように介抱した。 青を連想させるほどに透明感のある彼女の手は、氷に触れていたかのように冷たかった。 夜風の強い外で少々冷えたのだろう。鼻も少しだけ赤く染まっている。 「今しがた、少々甘いお時間を過ごされた様で」 「判るかい」 「そりゃあ、鼻は良いので」 「抱擁が激しすぎた。背中が軋むよ」 「...間抜けですね」 狼がソファに深く沈み、軽い欠伸を見せる。 彼女がリラックスしている合図だった。 「それにしても。今回のオークションは大変だったようで」 「そうなんだ。旧世界のオーパーツや今亡きスターの形見だけなら例年通りで良かったんだがね」 「まさか金色のドラゴンの遺骸...しかも変化していないものと来た」 「本来の価値自体は確実に向こうの方が上だよな」 「実際に触られたのですか」 「あぁ。特別に触ってみたが、ありゃ本物だった」 狼はへぇ、と興味を惹いている声を発した。 「まあ、高価値過ぎて価格高騰になる前にドラゴンの研究学会が持っていっちゃったしね」 「一部は腐敗していてコレクションにするのも難しかったのでしょう?」 「あれは臭くないんだよな、実は。竜特有の高貴さとか、壮厳さって言うのかな。それが匂いになってるというべきか」 「結局。このご時世は夜伽の枕が最も人気なんですね」 「...そうみたいだなぁ」 「これだから人間は」 オーヴァイスは狼の顔を見て、つくづく呆れ顔の似合う女であると思った。 細い眉をハの字に顰めて、唇を開けば鋭利な犬歯が見える。 ラピスラズリの長い下地に、エプロンのような灰色のワンピース。組んだ足は筋肉質だが細く、途中から生える黒い体毛も充分な手入れがされていた。 アリエスがふわふわした印象に対し、こちらはとげとげしい。 家主はそれ位が護衛としても丁度いいだろうと考える。 「魔物だって同じだろうに」 「それはそうと、御主人殿」 「ん、何だ」 「今回はなぜエリーの髪を剃らなかったのですか」 「いや、流石に嫌がっているところを無理やり毎回ってのは可哀相だろう」 「しかし全部刈り取らなければ。数年に一度生えてくる金色の羊毛も手に入りませんよ」 「まあ、それはそれ。今回は準備も手間取っていたからね」 「作業の遅れで私の楽しみを奪わないで下さい」 マーナガルムは頭を掻きながら溜息を吐く。 「毎度の楽しみだったのでしたが。それは極めて残念」 「次回は善処しよう」 「...全部聞こえてるんだけどな」 オーヴァイスが振り向くと、バスタオルに身を包み湯気と微かな怒りを放つアリエスの姿があった。 やはりもこもこしていた頭部の毛も濡れていて、頭のラインがよくわかるような軽いウェーブになっている。 そんな彼女は普段と違う鋭い視線で夫と護衛を睨み付ける。 狼は自分が優位であると茶化すように、羊に笑いかけた。 「おや羊さん。シャワーは気持ちよかったかい」 「ねえ狼さん、私は耳がいいんだよ。この悪巧みみたいなお話も聞こえてるんだよ」 「でも羊さん。君は御主人殿に喜んで貰いたいのだろう?」 「そりゃあもちろんそうよ」 「それなら。金色の毛を生やさないとねえ」 「えっ...え?」 「その角の生え替わる前に一度全部刈り取らないと。金毛は生えないだろう?」 「うん...」 「しかも。あと少しで角が落ちる時期だ」 「そっ、そうだけど」 「じゃあ。刈り取らないとね」 「...うう」 「...言い包めるのが楽でいいね。やっぱり馬鹿羊だ」 「んなっ。ばっ、馬鹿って言うな!」 羊と狼はぎゃあぎゃあと騒ぐ。 正確には狼が羊を騒がせている。 マーナガルムはそれでいて泣かすことのない程度の弄り具合で、これはオーヴァイスには真似の出来ない器用な芸当だった。 よく羊と狼が取っ組み合いを始めるが、これもじゃれ合いの一つだ。 いつも羊は受け手、狼が攻め手と役割分担まで自然とされている。 実はオーヴァイス、このふたりの漫才を見て初めて実家に帰った気分になる。 |
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