狩人録 |
「クソッ!! またか!!!」
男は叫ぶ。 木陰から彼を覗いていた青い髪の少女は、その大声に少々戸惑ったようで、首を傾げていた。 「お前来んなっつったろうがアァアァアアア!!!」 男は若く、山登りをする格好とはまた違う、あらゆる狩猟道具を身につけていた。 一方で少女の格好は男のそれとは違う。濃藍の薄い生地で体を覆っている程度なのだ。紺青から花浅葱へ彩られたグラデーションの潤い豊かな長髪が、その表面積の小さい肌着に吸い付いている。 新緑で覆いつくされた山でも、ここは水場から距離がある。彼女は男を追って川から出て来たのだろう。 川から出てくるという表現に一般人は首を捻るだろうが、当然だろう。 二人の仲は、男と少女のたったふたりだけの秘密であった。 冬間は雪女が出ると噂されているために入山できないものの、その山は絶好の狩猟場であった。 幸いそのことを発見したのが男だけであったため、山の存在を仲間に知られることもなく成果を上げる事が出来た。 そんな山に関わる事になって早五年。最初は少年期を越えたばかりであった男も、十分にたくましく成長した。 手に持った猟銃が、小さな川が流れる急斜面の林に立つシカの群れに向けられる。 男の風上に立つシカは狙撃される事に気付く事もなく、トリガーが弾かれた数瞬後には地面に叩きつけられた。 「...はぁ」 まだ透明に成りきれていない呼気を吐き出しながら、草木と一体化していた男は群れが遠ざかるのを見ていた。 とりあえず、春になってから初めての収穫だった。 最近は野生動物も男を警戒するように学習してきた。山菜も手を加えないとお目当てのものが手に入りにくくなりつつある。 男は猟銃を構えたまま立ち上がり、服についた泥を払う。 「獲れにくくなったもんだ」 シカとその周辺に気を配る。 また、腹を空かしているであろう起き抜けの大熊に対処できるよう大口径高火力の銃器を携える。 猟師と獲物の距離は川を挟んでいるため、男はその増水した急流を渡ることができる場所を探した。 高い山の麓付近のためだろう。既にその川は轟々と音を立てて飛沫が舞い上がっていた。 男も初めて見るほどの水量であり、尖った岩の多いこの山では足を滑らせたが最期、という事になるだろう。 これはちゃんとした橋を迂回した方がいいかな、と考える。 猟師は、川沿いを少し離れる程度の位置で山を下っていくことにした。 やはり、思ったよりも時間がかかる。 山の主が既にシカを連れ去っているかも知れない。あの熊ならやりかねない。 男がぶつぶつと大熊に対する愚痴を呟いていると、川岸にひとりの人間が居る事に気付いた。 遠目から見ると、全身血だらけであり、手足が潰れて枝や泥で見れたものではない。 猟師は驚いた。 すぐさま道を横に逸れて岩場を降り、被害者の下に駆け寄ろうとする。 「おい!! 大丈夫か!?」 被害者は少女らしい。 肩や唇が動いているため息はしているらしく、しかし、どうしてこんな危ない山に入ってきたのか。 その服装は肩口や太ももを大きく開かせた密着型のネグリジェに近い。 少なくとも男の知るネグリジェよりは生地が厚そうだった。 もしかすると川に飲まれたときに他の衣類は全て切り刻まれたのかもしれない。器用な川だと思いつつも、今はそんな冗談じみた事を考える状況ではなかった。 「おい!! お嬢さん!! 大丈…夫…」 少女の下にたどり着いた男は、次第に少女の正体に気がつく。 「まじかよ」 生まれてこのかた初めて見るが、こりゃ魔物だ。 しかし魔物とてこの激流に身を沈めようものなら、無事で済むとは思えない。 男は魔物を介抱することにした。 あの山の主なら魔物も食べてしまうかもしれない。 それならシカを捧げておけば、当分ここに来る事はないだろう。 そう考えての諦めだった。 「…おや、気付いたか」 「...」 少女が目覚めると、猟師は薬酒を魔物に渡す。 「クラっとするかも知れんが、まあ魔物なら大丈夫だろう」 はっと少女は全身を見回した。 腕や足には所々包帯が巻かれ、自慢の腹部の薄い鱗も破れかかっていたのか補強されている。 魔物は布団の上に寝かされていたらしい。 「体中痺れてたら、軟膏が効いてる証拠だから我慢してくれ」 「...」 「あー、ここは山の中腹にある小屋だ」 魔物は周囲を確認し、胸を撫で下ろしたようだった。 そして、じっと猟師の顔を見つめた。 「...」 「さっきから無口だが、そういうモノなんかね?」 「...」 「喉は潰れてないみたいだし」 「......」 「命を助けたんだ。命を刈るのはお嬢さんたちの中でも無粋だろ?」 猟師は身の危険を感じ取り、目の前のヒトガタに野生動物には届かない精神論をぶつけてみる。 それでも魔物は男に熱い視線を送り続け、次第に瞳を潤ませていった。 「...」 男はこれが怒りや悲しみや怒りや怒りや怒りを表しているのではないかと危惧する。 魔物とは言え女。 髪が命とも言われるその美しく長い頭髪を短く切っていたのだ。 猟師は手当ての邪魔だからと、また泥や枝が絡まっていて戻すのが面倒だった為でもある。 「や、や、おい」 「...」 「勘弁してくれ子供の扱いなんか慣れてないぞ俺」 無言の少女は目を見開く。 男は内心身構える。 「...ぅぇぇ」 泣き出しやがった。どうすりゃいいんだ。 猟師は嘆いた。 勘が言っている。とにかく泣き止ませた方がいいと。 「...うぇぇ」 徐々に大きくなっていく泣き声を抑えるべく、男はとりあえず少女の頭を優しく撫でた。 魔物はもはや唇を波打たせ、目から何故零れないのかというほどまでに涙目である。女になれていないこの猟師にとって、その端正な顔で情をアピールされると、魔物相手にもたじろぎが生じてしまう。 しかし、その戸惑いによって男は気付く。 これは猟師は自分の保身に気を削ぎすぎていたゆえの鈍さだった。 相手が魔物ということを考えると当然だろうが、見た目少女のこの魔物はあの激流に揉まれていたのだ。 怖くなかったと、人間目線では考えられたものではない。 仮に、この魔物がその見た目の年頃の少女と同じ精神年齢だったとしたら? このとき、猟師は目前の異形を一人の少女としてしか認識出来なくなった。 「おーよしよし」 男は中腰になって少女を抱き寄せ、頭に続けて背中も擦った。 「怖かったろう」 少女はまだ嗚咽を漏らす。 「泣きたいなら安心するまで泣くといい」 「...うぇぇえぇえええ」 少女は猟師の背中を人間とは大きく異なる掌で強く抱きしめる。 彼女は泣きながら足を布団から抜き出し、男のひざ裏で交差させた。 子供をあやす事に慣れていない猟師は、何もおかしいと思わない。気付かない。 「うぇええええええええ」 少女は撫でられている事を心地よく思った。 他人に大切にされた事など、今までは無かったことだったのである。 小さい体を上下に揺らし、猟師の体に摺り寄せる。 男はあくまで暢気だった。彼女の嗚咽が小さくなっていくことを、泣き止んできたと思っただけである。 少女は男を引いて仰向けに、抱き合ったまま布団に向かって倒れこむ。 猟師は少女が急に倒れこんだ事に驚いたが、咄嗟、少女の頭を保護するようにより一層深く抱え込んだ。 「...ひっく」 少女は嬉しかった。 自身をここまで想ってくれる人など、今後現れるか? 彼女は男を強く強く抱きしめた。 「んー、どうした。もう大丈夫なのか」 「...うぅ」 彼女は魔物としての力を使って上下を逆転させる。 流石に男もハッとしたらしく、その表情が少女を興奮させる。 「...すき」 「あ? んぶっ」 猟師は体を押さえつけられ、きつく閉じた唇も舌をねじ込まれて口腔を無理やり貪られる。 男は突然の事に目を白黒させながら、それでもつとめて冷静に打開策を考えようとする。 顔中を舐めつくされ、再び舌を交わす時には先ほどよりも大量の唾液を流し込まれた。 「...逃がさないよ」 少女の眼光は鋭く、目の直ぐ先の獲物を狩ろうとするその雰囲気に男は同業者と同じ性質を感じた。 細心の注意を払って鋭い爪で衣服のみを切り裂き、男の身の回りにある武器を退ける。 「一体どうしたってんだ…」 少女の瞳孔はぐるぐると回っているようにも見え、それは彼女自身が熱狂の渦に飲み込まれている証拠だった。 舌を這わす顔から徐々に高潮していき、それでも体を執拗に猟師に擦り付ける。彼女自身の秘部を男のその部分にあて、それでも満足しないと自らで慰めていた。 それでも不足と感じたのか、苦悶を表情に浮かべた彼女はもう片方の手だけでその細い首を締め付けた。 今か? 男は左手が自由になったと同時に少女と自分の間に腕を立てた。それが擬似的に策の役目を果たし、彼女と男の密着する部分は格段に減った。 しかし、偶然とは言えそのつっかえ棒が抑えたのは、少女の小さな膨らみであった。 少女は興奮のあまり顔を真っ赤にし、この世の始まりを歓ぶが如く絶叫した。 「うっひゃああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああ ああ あ あ ああ あ あ あ あ あ っあああああ!!」 少女は大きく歪な指を男の口の中に突っ込み、もう片方の手で未だ猛りを知らない猟師のそれをまさぐった。 男は顔こそ青くしなかったものの、内心ゾッとしていた。 そんな狂いきった姿に興奮など出来るはずも無く、彼女のやりたいこともわかるが恐怖がそれどころじゃないと訴える。 それ以上に男は焦っていた。そんな大声を出すと、山の主たる大熊が寄って来るのだ。 「何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で????」 そんな男の冷や汗のことなど露知らず、少女は濡れて光る顔を苦痛にゆがめて絶叫を繰り返す。 それがどこか滑稽だと思う猟師も、しかし生殖本能は反応しない。 男は立てた腕を折り曲げ、起き上がって魔物を抱きしめた。 「!? ...!? ...!?」 魔物は抱き寄せてきた男の腕の中で天を仰ぎ、ひとり喘いで涙していた。 彼女はもはや声を上げる事すら出来ないほど混乱と興奮に苛まれているらしい。 その体は絶えずビクビクと激しく痙攣しており、その肌は最初に見た泥色とも、体を拭いた時の白い肌と同じものかと訊きたくなるほど桃色に染まりきっていた。 「もちつけ」 噛んだ。 「…落ち着け、どうした。殺すとか言わない限り逃げないから」 もっとも装備もゼロで小屋から逃げ出したところで、山々を縄張りにしている森の主に会った瞬間に[終わる]だろうが。 猟師は少女の頭を撫で、額に浮かぶ汗を拭い取った。 第一に優先すべきはやはり彼女の沈静化だった。 「...ゎぅ」 少女の涙腺は決壊した。 「…もういいかい」 「...」 少女は息をひとつ飲み込んでから、うん、と呟いた。 それから魔物はぽつり、ぽつりと身の上話を始めた。 要するに、 他の魔物や人間から虐められて逃げてきた山の川に流されたのだった。 そして、それを救ってくれた王子様に恋をした。 それだけだ。 男はため息をついた。 「おまえなぁ、基本的に川のにおいがするんだよ」 「...」 「川のにおいが川の無いトコでしてみろ、動物だって不審に思うぞ」 「...ん」 「でさぁ、動物こっちに警戒するだろ?? 俺に気付くだろ?? 逃げるだろ??」 「...」 少女はこくん、こくんと小さく頷く。 「山菜や魚だったら寧ろ一緒のがいいけどさ、こればっかりはおまえは駄目よ。俺の領分よ」 「...ん」 少女ははにかんだ。 猟師が呆れているのにも関わらず、[一緒がいい]という単語だけに無邪気に喜んでいた。意図せず発した言葉に対してこうも喜ばれるのは、どうにもむず痒い気持ちになる。 随分と懐かれてしまったものだと猟師は他人を見るような目で評価する。 懐かれるのは動物であれ魔物であれ構わないというこの猟師だが、魔物に懐かれるという事はどういうことか、という事をはっきりとは判っていない。 契りを交わしたのは初めて会った日の一度きりだが、彼女は常時虎視眈々と猟師を狙っているのだ。勿論その視線には男も気付いてはいる。 つまり男が山に入ると、獲物を狙おうが狙わなかろうが彼自身が狩られようとしているのは自覚した上なのである。 もちろんこの山の主をよく知る男はそれを良いと思わず、常にガードを硬くして己が身を守ろうとする。 「で、おまえのせいで今日はもう駄目だ。俺の勘が言ってるのね」 「...ごめんなさい」 「わかればいい」 男は笑顔を取り戻した。 少女はその顔を見るや否や真っ赤になる。 「...せきにんとる」 「…あ? んぶっ」 少女が男の胸に飛び込むようにして、急に唇からその奥を貪ろうとした。 猟師はかろうじて口付け程度でそれを避け、再度説教を始める事となる。 男の説教の招待が愛の証だと魔物に気付かれるまで、あと数度の季節を繰り返す。 |
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