連載小説
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白い果て
登場人物

アイオン
 主神教団の元戦士だった青年。
 妖精の国を目指し、仲間たちと旅を続けている。

ガーラ
 アイオンと共に旅を続けているハイオークの魔物娘。
 世話焼きで快活、そして性欲が強い。

ノチェ
 アイオンとガーラによって盗賊から救われた妖精。
 好奇心が強く、時折返答に困るような質問をする。

カルタ
 ノチェを奪おうとしたケット・シーの魔物娘。
 色々あり、今はアイオンと旅をしている。

ティリア
 かつてアイオンが所属していた教会のシスターである女性。
 アイオンの幼馴染でもあり、彼に対する執着を自覚する。





 アイオンのサーガ 〜白い果て〜



 序 仄暗い記憶

 ……吹きすさぶ吹雪の中で、影が舞う

 人と魔物が、殺し合っている

 振り上げられた剣が、魔物の胴へめり込み紅い花が咲く
 魔物の爪が、牙が、人に喰いこみ叫びとともに紅い雨がふる

 アタシもいかなきゃ

 武器を取り、雄叫びをあげ、影の中へと突き進む
 手にした斧を振るい、目の前の人をたたき割る

 ぱっと、紅い雪が目の前に舞う

 アタシは嗤う

 仲間も嗤う、人は啼く

 もっと、もっと

 人間が叫び、剣を、槍を、斧を振り上げ、魔物に挑む
 魔物は嗤い、砕き、折り、弾き飛ばして、人間を討つ

 顔にかかった血が舌の上に広がる

 なんて、甘いのだろう

 人間は、弱い
 魔物は、強い

 アタシは嗤う、紅い丘の上で

 心が満ちる、これが世の理だと

 仲間の悲鳴があがる

 一匹の人間が、魔物の首を刎ねた
 その人間は疾く、風のように舞い、魔物を討つ
 紅い花が、戦場に咲き乱れる

 紅い風が、アタシの前に吹く

 コロシテヤル

 互いに、そう叫んだ

 人間の剣が、魔物の大斧を打つ
 今までの人間と違う、重い一撃
 怒りと憎しみに満ちた、復讐の刃

 紅い丘の上で、二つの影が舞う

 人間も、魔物も、叫び、剣を、斧を、打ち付け、切り裂き、血を流す

 嗚呼、楽しい

 魔物は嗤う

 何故嗤う

 人間が問う

 うれしくて、かなしいからさ

 何故

 お前には、もう会えない

 魔物の斧が、人間の肩を砕く
 打ち砕かれ、地に伏した人間の肩から血が流れる

 だからかなしいのさ

 魔物は嗤う

 化け物がっ

 うずくまり、人は啼く

 倒れ伏した人間を掴み、その顔を砕こうと手をかける
 若い男の顔が、目が、憎悪が魔物に向けられる

 頭を押さえ、動きを封じ力を籠める
 みしりと、心地よい音と悲鳴が鳴る
 苦痛に満ちた男の瞳に、醜い魔物の顔がうつる

 じゃあ、さようなら

 ぺろりと、その顔を、額をなめる

 戦士の顔が歪み、ゆっくりとつぶれていった


















 ……ぱきり。

 焚き木の薪が割れる音でガーラは目を覚ます。
 荒い息を吐き、周囲を見渡す。薄暗い、ほら穴の中で、ガーラはアイオンを抱きしめ、その身を毛皮に包んでいた。そのアイオンの腕の中に、ケット・シーのカルタが鼻息を鳴らしながら眠りに落ちている。ガーラからは見えなかったが、妖精のノチェもアイオンの胸の中か、カルタの毛皮の中で眠っているに違いない。
 冬の足音がすぐそばにまで迫り、寒さが堪えるようになったために、眠る時は一番大きいガーラがアイオンを、アイオンがカルタとノチェを抱きしめるようにして眠るようにしていた。

 ガーラは外を見る。暗く、ただ冷たく吹き抜ける風の音だけが響いてくる。まだ日の出には遠い。
 震える手を、自らの顔に当てる。じっとりとした、冷たい汗が指先を濡らした。そのまま目の前にいる、寝息を立てるアイオンに手を伸ばし、その顔に触れる。

 恐る恐る、砕いてしまわないように

 ガーラの手のひらが、アイオンの頬を包む。しっかりとした、温かい肌と、硬い骨の感触。何ものにも代えがたい、大切な存在。

 思い出す、あの感触を
 肉へ爪を喰いこませ、骨を押し潰す
 大切なものが、こわれる

 あたしが こわれ る

 ガーラの目から、涙が零れ落ちる。
 ひどく恐ろしい夢。
 仄暗い血の、魔物の記憶。綿々と刻まれた、獣の血。それが溢れ出たかのような夢。訪れたかもしれない現在。

 醜い獣の顔を思い出す。愛する人が見た、最後の獣。
 あれが自分だと、認めたくない。
 だが、ガーラの中の、血が叫ぶ。あれはお前だ、もう一つの、在りし日の理なのだ。かつて、この世界は二分されていた。人の世と、魔物の世、この二つの世界は交わるたびに血と死によって分かたれてきた。それがこの世の理であった。
 だが、理は変わった。今や魔物は、人を喰らい、戯れに命を奪う悪意に満ちた存在ではない。ガーラのように、不器用ながらも人を愛し、共に生きたいと願う。それが今の魔物である。

 だが、この大地は違う。

 この大地は今なお、古き理の中にある。あまりにも、多くの血が、死が、想いが、この大地に刻まれ過ぎた。

 仄暗い血の記憶が、今なお、人と魔物に絡みつく。
 まるで、永劫の時をその身に閉ざす氷のように。
 解けることなく、その魂を縛る。
 ありし日をへと導くように。



 第一 冬の足音

 ……翌朝、ほら穴の中でアイオン達は目を覚ます。焚き木の火はすっかり弱まっていたが、まだちろちろと蛇の舌のように燃えている。ほら穴の中に吹き込む冷え込んだ空気が、冬の訪れを感じさせた。
 外に出ようと入り口へと向かうと、突き刺すような冷気がアイオンの頬に触れる。朝日に照らされた荒涼とした平原はまだ雪化粧を施されておらず、茶色の地面がむき出しとなっていた。

 旅を続けて数月、実りの季節は終わり、全てが氷に閉ざされる冬が迫る時季であった。

 「うぅ……さぶい」
 外を眺めるアイオンの横から、カルタが顔を出す。ふわふわした自前の毛皮に覆われ、さらに毛皮のマントを羽織っていてもなお冷え込むのか、プルプルと震えながら目を細めていた。その頭の上には、ノチェがちょこんと乗っかりカルタと同じく小さくふるふると震えていた。
 カルタはともかく、ノチェは寒いだろうとアイオンが手を伸ばし小さな妖精の姫君をいつもの席へと案内する。
 「ありがとう、アイオン」
 鈴声でお礼を言うと、ノチェはアイオンの胸元にもそりと納まる。いつもの朝であったが、少しばかり様子が違うとアイオンは振り返る。いつもならば、ガーラも同じように出てくるはずであったが、今日は未だにほら穴の中にいたからである。
 「ガーラ、どうした」
 焚き木の前で、丸くうずくまっていたガーラがぴくんと反応する。
 「アイオン……」
 ガーラの表情は暗く、アイオンの顔を見ると心配そうに伏せる。アイオンはガーラの傍に腰掛けると、その肩を抱く。一瞬、拒むかのように強張ったガーラであったが、すぐにふっと力が抜け柔らかくアイオンの体の方へと寄りかかる。少しばかり重い、むちっとした肉体がアイオンに押し付けられる。その心地よい重さを感じながら、アイオンはガーラに問う。
 「何かあったか?」
 「……いいや、なんでもないさ」
 悪い夢を見た、そう言いたかった。しかし、夢は夢である。現実ではないとガーラは口の中で呟く。

 「僕だけのけ者なんてひどいよ! 入れて入れて」
 アイオンの膝の上に、カルタがするりと滑り込む。
 「おい!」
 せっかくの逢瀬を邪魔されたガーラがカルタを睨む。
 「へっへーん! あったかーい!」
 しかし、意に介することなくカルタはアイオンの膝の上でごろごろと体を擦り付け自慢げにガーラに笑いかける。その様子にアイオンは微笑みながらカルタを撫でる。アイオンの手に体を擦り付けながら、カルタはごろごろと喉を鳴らす。ふわりとした、猫特有の日なたのようなかおりが漂う。
 僅かな幸福。
 しかし、これがいつまでもつのか、アイオンにはわからなかった。今はまだ、食料の調達もなんとかできており、少しながらも備えへと回すこともしているが冬を越すには不十分過ぎる量であった。旅を続けるのには問題がないが、いずれ訪れる冬を越すには足りない。
 それに、食糧の問題がよしんば解決したとして、次の問題があった。
 寒さをしのぐ術が、アイオン達にはなかった。今程度の寒さであれば、小さなほら穴にでも籠り火を熾せば乗り切れるだろう。しかし、冬の寒さは今以上に厳しいものとなる。風は皮膚を切り裂き、大河を凍らせ、木々は樹氷と化す。
 かつての戦いの折、飛び散った血が大地に落ちる前に凍ったとさえ伝えられる極寒である。晴れた日中はともかく、夜や、雪が降る日は動くことすらもままならない冷気が大地を閉ざす、そんな中を無理やりにでも突き進むのは魔物でさえも厳しいものがあり。その魔物よりも脆い、人の身であるアイオンではなおさら厳しく、危険な道である。
 (どうしたものか……)
 ノチェの示した場所は遠い。たとえ羽が生えたとしても一昼夜休まずに飛び続けてようやく冬の前にたどり着くかどうか、というほどの距離である。徒歩での旅路で、道を違えることなく進んだとしても件の場所に着くまでに冬が明けるかどうか、という時期になるだろう。だが、それほどの距離を地図もなしに、道を違えることなく進めるであろうか。
 「アイオン?」
 今度はガーラが、心配そうに声をかける。いつの間にか不安が顔に出ていたようであり、アイオンは力を抜くと軽く微笑んで何でもないと首を振る。
 「そろそろ発とう、まだ先は長い」



 第二 追われるもの、追うもの

 ……ほら穴を出て暫く。アイオン達は荒涼とした平原を進む。肌寒いものの、日が出ているおかげで陽気があり、進みやすい旅となった。
 遠方には連なる山々と、すそ野に広がる森が見えかなり景色が良いとも言えた。また、町が近いのか小さな集落のような家々もまた同様に存在しており、ごくたまに人の姿も見えたのである。
 遠目から見てもわかるほどせわしなく動いている人々を見れば、残り僅かとなった冬が訪れるまでの間にできる限りの備えをしようと、奔走していることがわかる。
 そうした民草の人々と比べれば、かつて教会に属していたアイオンは恵まれた方だったのかもしれない。教会に保護されたアイオンが一番驚いたのは、黙っていても冬を越えるだけの備えが《支給》されることであった。かつて狩人であった兄が必死に集め、また自分もできる限り集めた食糧よりもさらに多く、余裕のある備えが冬の前には教会の倉庫に届いたのである。
 当然、これらの食糧や備蓄品といったものは備えが不十分であった民の為に配られるという想定の下支給されるものであったが、それでも幼いながらにアイオンは主神教団の持ちうる《力》というものを痛感していた。
 その力の庇護からは離れ、無援の旅に出たことを後悔しているかと問われれば、後悔はなかった。確かに厳しい旅になるが、それ故に自身の本質的な成長をアイオンは感じていたし、ガーラやノチェ、カルタといった教会に身を置いていたならば決して交わることない者たちとの触れ合いは、今となってはかけがえのない経験でもある。それ故に、あの日あの時の《選択》を悔いたことはない。
 だが、アイオンはふと考えることがある。

 もしもあの時、魔物の首を刎ねていたら?

 戦士として、己の務めを果たしていたら、果たして今見ていた世界はどのような景色だっただろうかと。復讐、ただそれだけがアイオンのすべてであった。だが、その復讐は空虚なものであったと知ってなお、戦士として、教会の剣としての務めを果たしていたならば。
 今の自分はどのような存在になっていたのだろうか。

 ふと歩みを止めて空を見上げる。
 荒涼とした澄み渡る空が、広がっている。心に浮かぶは、今も炎のようにたなびくあの赤毛と、父の穏やかな微笑みであった。ただ唯一悔いること、それは教会の《家族》を捨てたこと。それだけが、癒えることのない傷としてアイオンの心の内にあった。
 (すまない、ティリア……)
 あの時、呑み込んだ言葉。できることならば、傍に、伴に生きたかった。
 アイオンは瞼を閉じ、前を向く。その歩みは僅かな迷いを見せたものの、すぐに迷いを捨てるかのように確かな足取りへと戻り、前へと進む。
 ただ荒れ野を行く、魔物と共に歩む者として。



 ……ただどこまでも、水面のような蒼い空が広がっている。古く寂れた旅道でティリアは空を見上げながら想う。

 アナタはどこにいるの?

 冷たい風が、赤毛を撫でる。追いつく冬の吐息に、ティリアの愛馬が小さくいななきその身を震わせる。
 一組の、男と魔物。ただそれだけの情報を頼りにいくつもの町を、村を、宿場を回ってきた。だが、そんな不確かな、どこにでもありふれた堕落者の特徴などで見つけられるほど甘くはなかった。だが、ティリアは諦めなかった。
 一度折れかけた心を再度奮い立たせ、ただ彼を追う。ただ一人、女身での旅。知識はあるし、道具もあったがやはり野宿は慣れなかった。だが、町さえ見つけられればシスターとしての身分が役に立った。大抵の教会は、そうした旅をする信徒、特に神官やシスターのために一晩の宿を供することを義務にしており快く迎えてくれたからだ。それに、険しい道でありながらもティリアの愛馬はよく耐えてくれていた。
 そっと、愛馬を撫でる。若い雌の駿馬で、父からの贈り物。アイオンにも贈られた、牡馬の番でもあった。
 (ごめんなさい、スリヴァ……)
 別たれてしまった自分とは違い、仲睦まじい二匹を引き裂いてしまったことへの呵責が心に宿る。だが、長い旅の供としてこれほど頼もしいものもいなかった。早く、頑強な馬ほど珍重されるものはない。だが、これからの旅はより過酷さを増していくだろう。それにもうすぐ訪れる冬についても考えなければいけない、冬の旅は今まで以上に備えを厚く慎重にしなければならず、場合によっては長い足止めとなってしまう懸念があった。
 (……けれどもアイオン、貴方はそれでも進むのでしょう?)
 不確かな、それでいてはっきりとわかる不思議な確信。ティリアは感じていた、愛する男は冬の息吹の中であっても進むのだろうと、あの魔物を連れて。誰からも、決して見つからない場所を探して、北の大地を行くのだろうと。

 なんて愚かな……

 暗色の炎が、心に宿る。なぜ、それほどの覚悟を自分に向けてくれなかったのか、なぜ、あの魔物に対してそれを向けるのか、ティリアには理解できなかった。
 それは嫉妬……死をもいとわぬ旅を、愛を、ただあの魔物が一身に受けているという事実に対する憎悪。その愛を、受け取れなかったという羨望を、覆い隠すように燃え上がる憤怒。それは乱れ狂い咲き誇る、紅い花。紅い紅い、愛憎の花。
 (必ず、必ず見つけ出すわ)
 冷たい風の中に、赤毛がたなびく。まだ道は遠い、先を急がねばとティリアは馬を駆り、道を進む。次の目的地となる村はすぐそこであった。



 そこは、村というにはやや寂れたところであった。ただ、周辺の町村の木材を賄うための林業所でもあったために寂れた場所ながらも人はそれなりに多く、少数ではあるが兵士も駐屯していた。時期的に今はもうないが、夏になれば近くの町へ向けて木材や薪を輸送するための荷馬車の往来もそれなりにあるという。今は冬支度の為に多くの労働者は町へと引き上げており、より閑散としているようであった。
 このような場所柄であるため、それなりの人通りはあったが、旅人となると話は別であった。基本となる旅路から外れていることもあり、わざわざこの村を目的地にしている以外で道すがらこの村を訪ねる旅人自体は珍しい存在と言えた。だが、そんな村にわざわざティリアが訪れたのは、とある気になる噂を聞いたからである。
 《一晩魔物と戦って生き延びた、病気の妻を連れた男》が、この村を訪れたと。そしてその男は、酒場の主人の頼みを聞き入れ、人食い砦と呼ばれた砦を占拠していた野盗を討伐したということであった。別段、腕の良い医者を探すための旅というのは珍しいことではない。巡礼者の中にも自らや親しいものの病を治すべく、各地の教会と町を巡る者がいるぐらいである。だがティリアが気にしたのは《魔物と戦って生き延びた》という点であった。
 戦い慣れたものでない限り、ただの旅人が魔物と戦い生き延びる、すなわち魔物に勝利することなど滅多にあることではない。しかも噂になるほどである、件の魔物は厄介な手合いであった可能性が高い。それと一晩戦い抜いたというだけでも、その男が優れた戦士であるといってもよかったが、それに加えて野盗の集団さえも討伐している。並の兵士はおろか戦士ですら難儀と感じるようなことを僅か二日にも満たない時でやってのけている。ただの戦士ではない。
 (それに……病気の、妻を連れた人がそんな危険を冒すかしら?)
 よほどの、それこそ物語の中の聖騎士や聖戦士のように正義感に溢れた人物でもなければ、普通はそんなことはしない。それだけに、ティリアには直感めいたものがあった、病気の妻、というのは男が咄嗟に着いた嘘ではないかと。病気、がどのようなものかは分からないが、何かを隠す必要があったのではないかと、ティリアはそう確信していた。だからこそ、その噂の詳細を調べるべく村までやってきたのである。
 (ここが、その村ね)
 周囲を塀に囲まれた、小さな村。門のところには兵士がおり、ティリアへと目を向ける。今の季節には珍しい旅人であるのと、ティリアの容姿に好奇の目を向ける。しかし、ティリアの胸元に輝く主神の印を目にすると小さく咳払いをして目を逸らすのであった。
 その様子にティリアは軽く安堵する。この村はまだ信心深い方であると、場所によっては相手がシスターであろうがお構いなしに、女とわかれば詰め寄り、酷ければ犯そうとする男が後を絶たない。そしてそうした男はどの層にも、それこそ貴族だろうが兵士だろうが、場合によっては聖職にすら関係なくいるものであった。特に、ティリアのように人並み以上の容姿を持つ者にとっては、異性の目というものは常に危険をはらんでいた。それ故に、ティリアは旅に出て以来、片時も自らの腰に降ろした剣と短刀を手放すことはしなかった。沐浴の時でさえ、手の届く位置に置き決して目を離さなかった。それほどの警戒をしなければならないほど、女の一人旅は危険に満ちていたのである。
 兵士に軽く会釈を行い、ティリアは村の中へと入る。そのまますぐに村の中心にある教会へと向かうと、その戸を叩く。すぐに、教会を管理する神官が顔を出し、ティリアの訪問を歓迎した。
 「ようこそ、シスター・ティリア 貴女に主神の御加護がありますように」
 「ありがとうございます、ブラザー・ステファ 貴方にも主神の御加護がありますように」
 互いに主神の印を手で描き、信徒の礼を終える。
 「それにしても、このような時期に貴女のような方がここへ訪ねに来るのは珍しい 何か訳ありですかな?」
 寡黙な様相ではあったが、柔和な表情で神官はティリアに尋ねる。実際のところ、旅人の類は偶にあれども、信徒が訪ねてくるというのは珍しいことであった。特に目立った聖地も、巡礼地もこの付近にはないからである。それに、そもそもとして冬の旅は北の大地では全く推奨されていないというのもあった。
 「……人を探しております その者かもしれない者がこの村を通ったかもしれないと、ここの噂を聞いて思い訪ねてまいりました」
 「ここの、噂? ……もしや、魔物と一晩戦ったという男の話ですかな?」
 ティリアは頷く。
 「……ふむ、あくまで又聞きで申し訳ないですが 確かに件の男はこの村を通ったでしょう、魔物と一晩戦い抜いたと聞いた時は真かと疑いましたが、誰もが恐れていた砦を見知らぬ店主の為に調べ巣食っていた盗賊どもを一網打尽にしたのは間違いないことです 実際に、男が旅立った後に兵士たちが調べに行ってみれば、多くの盗賊どもが……死者を含め大量にいたのですから ……所業はどうあれ、優れた戦士であることは間違いないでしょう ただ、この村の兵士たちが彼の妻に対し無礼を働いたというのが、私としては残念でなりませんが」
 「……無礼というのは?」
 「何でも、あまりにひどい臭いがしたので疫病かと思い村から追い出したそうです なんとむごいことを……なのに彼はこの村のもののためにその身を砕いてくれたのです、仇を受けながらも恩で報いてくれたその心は賞賛されるべきでしょう」
 そう語った神官は、神妙な顔つきで目を細める。
 そしてティリアは、神官の話から、件の男がアイオンで間違いないだろうと、ほぼ確信していた。ひどい臭い……それは間違いなくあの魔物の体臭だろう、そう判断するもまだ確実ではなかった。
 「その兵士と、話をできますか?」
 「……うむ、残念ながらその無礼を働いた兵士は町へと戻ってしまいましたが、彼と一緒に男を見たという兵士はまだ村におります 彼に話を聞けば……シスター? どうしましたか?」
 燃えるような、ティリアの表情に神官はただならぬものを感じ、彼女に声をかける。恐れるような神官の声に、ティリアは我に返ったように表情を繕うと、微笑む。
 「いえ、少しばかり その、男を見たという兵士と話をすることはできますか?」

 件の兵士は、門のところにいた。神官に連れられたティリアを見ると、はっとしたような表情で居住まいを正す。
 「フィリップ、こちらのシスターが話を聞きたいそうだ よろしいかね?」
 「は、はっ! 大丈夫であります!」
 上擦った声で兵士は返事を返す。その落ち着きのない様子に神官とティリアは怪訝な表情をするも、慣れていないだけだと気が付くと兵士が落ち着くまで静かに待つ。
 普段から、信心深いわけでは無いがこれでも主神の信者である。神官から直々に声を掛けられるというのは、教会以外ではそうあることではないだけに、突然の訪問に驚いてしまっていた。隣に美しいシスターを連れていればなおさらであった。
 「ではフィリップ、お前が見たという男性について、彼女に話してさしあげなさい」
 「はいっ! 男は旅の者、という出で立ちでした! 病気の女……妻を連れていました!」
 緊張しているのか、唾を撒くように喋る兵士を、宥めるように神官は手を差し出す。落ち着くように諭し、話の続きを促す。
 「男は、その ただ旅をしていると告げました、それを怪しんだセバスが……仲間の兵士ですが それが顔を隠し続けている女の方に手を伸ばした時です 女がその手をはらいのけたと同時に凄まじい異臭がしたのです! まるで鼻の奥までにこびりつくかのような、強烈な悪臭でした それで、その あまりにひどい臭いだったので我々は寄ることさえ難しいほどでした ……その時、男が女のことを妻と呼び、病気のため医者を探す旅をしていると 疫病かと訝しんだ私は、私たちはそのぉ……男と女を追い出しました」
 神父の刺すような視線を感じ、兵士は顔を伏せる。
 「……そのあと、一晩経った頃に……男は戻ってきました 血の匂いがしていました 警戒する我々に男は砦のことを伝えると、そのままどこかへと旅立っていきました 男の言った砦に行ってみると、後は噂の通りです 砦に巣食っていたと思わしき野盗の集団が……半死半生の状態でいたのです 中には死人も……」
 そう喋り終えた兵士の顔は、いまだに信じられない、とでもいうように畏怖の感情で固まっていた。恐らく、男がその気になれば、この村を守る兵士など簡単に斬り伏せることができたのだと、思い知ったからであろう。
 「……その男が連れていた女性は、どんな方でしたか?」
 ティリアの、涼やかな声。
「それは、その 全身を衣服で覆っていてよくわかりませんでしたが、黒……褐色の肌色をした かなり大柄な女性でした」

 ヤツダ

 ティリアの目が確信に見開かれる。
 「……どちらに向かいましたか?」
 「ああ、あちらの……件の砦がある方向へと、向かっていきました この村から北西の方角です」
 ティリアの目が遠く泳ぐ。
 「……? シスター・ティリア、どうされました?」
 「いえ、なんでも……」
 「……フィリップ、礼を言います 職務に戻ってもよろしいですよ シスター・ティリア、今日はもう遅い、私の教会にお泊りになられるとよろしいでしょう」
 「ええ、ありがとうございます……ブラザー・ステファ でもその前に、砦の方に行ってまいりたいと思います」
 そう呟くと、ティリアはすっと音もなく門の外へと向かう。空では日が傾き、夕闇へと掛かろうとしていた。
 「いけません! シスター・ティリア! 危険ですよ!」
 神官がティリアを制止するように声をかける。いくら野盗の集団が討伐されたとはいえ、山奥の寒村である。決して治安が良いと言えるような場所ではない。それに砦を守るだけの兵士はおらず、もうすでに砦は放置されている。何か良くない者が棲みついている可能性は十分にあった。
 「大丈夫です……すぐに戻りますので」
 だが、そんな神官の制止を全く意に介さないように、ティリアは歩み出す。止まろうとしないティリアに、神官は手を片にかけ止めようとするも、すぐにその手をはなす。
 「シスター……ティリア!」
 澄み渡る情念、そうとしか言えない瞳の色に神官は恐怖を感じる。凡そ、主神を信奉するものが見せて良い表情ではない。一瞬だが見えたその恐ろしい瞳を、神官は見間違いだと思うように首を振る。

 既にティリアは、砦へと歩き始めていた。



 日が傾いた頃、夕焼けで紅く染まった砦が見えた。
 石柱が立ち並ぶ古い崖の上に建つ、古い砦。いつごろか、誰かが名付けた《人食い砦》であった。
 多くの野盗が巣食い、そして一人の男によって壊滅させられた、そう噂される砦はまるで変わらぬように、静かに佇みその身に時を刻み続けている。
 ゆっくりと、砦の方へと歩み寄る。古く、数多の戦いを経たのであろう、壁に刻まれた傷跡が多くの時を物語る。だが、そうした砦としての責務は遥か昔に失われて久しいのは、噂に聞いた通りであった。

 ここに、彼が……アイオンがいたのかしら

 ティリアの目が、しんと熱くなる。

 ヤツトイッショニ

 ティリアの心が、しんと冷たくなる。

 冷え切った風が、ティリアを撫ぜる。
 (もう、戻らなくては……)
 その時であった、不快な気配がティリアの肌に刺さる。複数の、何かが、がさがさと無遠慮に砦の正面の森から出てくる。嫌な臭いをさせた、野盗たちであった。
 「ひひっ! お嬢さん、こんなところに一人でどうしたかね?」
 下賤な笑い声が辺りに響く。無遠慮な、欲望に塗れた視線にティリアは怖気立ち、吐き気を催す。すぐにその場から離れようと、身を翻すも既に周囲は複数の野盗たちによって囲まれており、にたにたとした視線がティリアの肢体へと注がれる。その不快な視線に、嫌悪を隠すことなくティリアは野盗たちを睨みつける。
 そんなティリアの様子に山賊はより欲情を煽られたのか、より一層その顔を醜く歪め欲望を隠すことなく詰め寄ってくる。
 やはり、この砦は何かと野盗や山賊といった無法者にとっては過ごしやすい場所なのかもしれない。少なくとも、獲物を待ち伏せするのに適した場所なのであろう。
 「へ、へへ! ちょうど人肌寂しいと思っていた所にこんな上玉が来るとはなぁ! ついてるぜ!」
 「おぉう、腰から剣なんかぶらさげちゃって……おらっ! こっちこいよ!」
 げらげらと、下卑た笑いが辺りに響く。ティリアは口を結び、気丈に睨みつけるも、野盗たちは気にすることなくじりじりと囲いを縮め、ティリアをモノにせんとその手を伸ばす。

 所詮は女、剣をぶら下げていた所で何もできまい。

 野盗の一人が、舌なめずりをしながらティリアを抱きしめようとその手を伸ばした瞬間であった。

 とすり

 何かが突き刺さるような音が、響いた。

 「あ、が ごっぽこぉ」
 声にならない、音が響く。赤黒い血が、首から滴り落ちている。白くしなやかな指に絡みついた短剣。その一突きは、正確に野盗の喉を抉っていた。血が喉に、肺に流れ込み、息が詰まる。

 「ふれるな」

 吹き渡る、風のように透き通った音が響く。紅い夕日よりもさらに紅く、咲き誇る花。あまりにも紅く、凍てつくように咲く花。それが倒れ伏す野盗の見た最後のうつしよであった。

 凍り付いた、その時をティリアは翔る。しゃらりと、抜き放たれた剣が野盗の腹を裂く。そのまま踊るように、流れた刃が野盗の胸を断ち切り、赤い鮮血が宙へと舞う。
 理解する間もなく、三人の野盗が死んだ。

 「ひっ!」

 声をあげた次の瞬間、振り下ろされた刃が野盗の顔を削ぐ。あまりにも無情な、命を奪うための一撃。
 武器を構えた野盗の胴を、赤い刃が刺し抜く。迸る絶叫の代わりに、血が口から吹き出す。胴に突き刺さった剣とは、逆の手に握られた短剣が喉を裂いたのである。
 そのまま無造作に引き抜いた剣を、振り返るように打ち下ろす。

 ぱかり

 紅い花が咲く。

 六人が、死んだ。

 「あっあっ! はっ!」
 へたりこみ、小便を漏らす。そんな無様な姿に、何の感慨もないように赤黒く汚れた刃が野盗の鼻先に押し付けられる。野盗は仰向けに、仰ぐように倒れ両手を広げて許しを請う。
 「はぁーっ! はっはっ! へっひへっ、ゆっ許して、くれぇ!」
 ぴくりとも、ティリアは表情を変えない。ただ、冷たく澄んだ色のない瞳で野盗の顔を見つめていた。

 「おまえ、この砦のことを知っていますか?」
 ぶすりと、切っ先が鼻に突き刺さる。
 「うぐぁ! 知ってる! 知ってる!」
 「話しなさい」
 「ひぃっひぃ! お、俺たちはその砦をねぐらにしてたっ! してたんだっ! 今は違う!」
 「なぜ?」
 剣が、より深く鼻を裂く。
 「ぎぃーっ! やっやられたんだ! 男だ、女だっ! 馬鹿みてえに、腕が、あっ! 立つ奴らだった!」
 「どんな者たちでした?」
 「お、男は剣を持っていた! 戦士だ! あれは戦士だっ! 鋭い眼をした! 女は魔物だった! 馬鹿力で仲間を圧し折りやがった! 黒い肌のっ、魔物だ!」
 間違いない、ティリアは確信する。アイオンと、アイオンを奪った憎いケモノ。

 「どこへいった?」

 「知らない! 知らないぃぃッ! 俺はッ逃げたッ 逃げたからしらないっ!」
 心からの、野盗の叫びにティリアは剣を引く。

 助かった

 そう野盗が思った時であった、すらりとした白い輝きが野盗の目にうつる。

 どさりと、野盗の首から頭が転がり落ちた。とくとくと、赤い赤い血が、とくとくと、流れ落ちていった。



 全ての野盗を始末した後、ため息を一つ、ティリアはつくとその場にへたり込む。
 血と肉、そして内臓から流れ落ちた汚物の臭いに、ティリアはたまらず嘔吐する。吐しゃ物が、ティリアの眼前に広がっていく。

 日が落ちる。
 ただ風だけが、さらさらと周囲を舞っていた。



 第三 冷たい月の下で

 ……ぱちりと、暗い廃墟の中で火が爆ぜる。
 崩れ落ちた隙間から入り込む冷たい夜風がアイオン達を取り巻き、渦を巻くように包み込んでいた。ひゅうっと、吹き抜ける風は焚き木の温もりさえも容易く奪っていく。そのため、アイオン達は僅かな衣服を全身に巻きつけるようにしてその身を包み、何とか夜を越そうとしていた。
 しかし、到底耐えられような寒さではなく、アイオン達は互いに身を寄せ合って火を見つめるようにして何とか暖を取り、冬の夜をしのごうとしていた。
 また、今日は良くないことに食糧の調達に失敗しており、仕方がないこととはいえ水筒に入った水と、僅かな塩だけを齧って食事を終えていた。そうしたひもじさもあり、より一層寒さが身に堪えるのであった。
 「ううぅ、寒いよ〜」
 「うるせぇ」
 アイオンの腕の中で、カルタが呻き、アイオンの後ろからガーラが怒る。僅かな間に幾度となく繰り返された問答にアイオンはたまらずため息をつく。吐き出された息は白く舞いながら闇夜の中に溶けていった。だいぶ夜も更け、何とか眠りにつこうとしても、その身に突き刺す寒さによって目を覚ましてしまい悶々とした状態が続いていた。
 だが、それでもまだ焚き木が燈っているだけましと言えた。それに、一番寒いであろう位置をガーラが引き受けてくれていたこともあり、アイオンは言うほど寒さに苦しめられることはなかった。それはカルタも同様のはずであったが、駄々をこねる子どものように寒いと呻いては、一番寒いであろうガーラの怒りを買うのであった。
 「カルタ、静かにしよう」
 アイオンは子どもをたしなめるように、カルタの顔を撫でる。ふわりとした、柔らかい灰色の毛皮がさわさわとアイオンの肌を楽しませる。アイオンの手の感触に、ごろごろとカルタは喉を鳴らし、すぴすぴと鼻息を荒くしながら甘えるように体をこすりつける。
 「おい、カルタ なにやってやがる」
 「むっ、変なことは何もしてないよ! 少しぐらい甘えたっていいでしょ!」
 「……頼むから静かにしてくれ……」
 わちゃわちゃと二匹と一人が騒ぐ中、小さな妖精は一人、戦士の胸の中で寝息を立てていた。
 やがて、夜もさらに更けるとともに風も収まり、しんとした静けさが支配するようになったころ、ただ焚き木の音だけが響くようにアイオン達を眠りの淵へと誘っていった。



 ……あまりにも静かな夜、ふと目が覚める。

 焚き木が燃える音だけが響く、静かで冷たい夜。アイオンは目を覚ます。何も音がしない、静かな世界。だが、違和感があった。
 「ガーラ? ……カルタ? ノチェ?」
 彼女たちがいない。確かに、先ほどまでいたという確かな感触があった。しかし、アイオンが目を覚ました時にはいなくなっていた。アイオンはすぐに身を起こすと、剣へと手を伸ばす。剣を握ると同時に、じゅっと焼き付くような痛みが走る。
 「っ!」
 だが、すぐにジンとした冷たさが手に広がる。
 (……冷えすぎて痛みと錯覚したのか)
 手に剣を握り、アイオンは一人立つ。焚き木の音がやけに大きく響く。暗闇の中に、何ものかが潜んでいる気配はない。ただ空虚な、静寂だけがアイオンの周囲に広がっていた。

 冷たく、蒼く、静かな世界。

 じくりとした、小さな恐怖がアイオンの中に広がる。
 (……みんな)
 孤独、突如訪れた感情の波にアイオンは小さく呻く。足元が揺らぎ、たまらずアイオンは壁に手をつく。冷え切った壁が、確かにそこにあった。だが、何時もあったあの温もり、薫りはどこにもない。何とも思わなかった闇が、今はやけに恐ろしく感じる。
 「外へ……様子を、状況を掴まなくては」

 返事はない。

 わかっている、声を出したところで返事を返してくれるものなどいない。いたはずの、彼女らは、いなくなってしまった。
 (どこへ?)
 わからない、ただただ全てが混濁し混ざり合う。意識が揺れ、恐怖におびえる。体は動かず、震えが止まらない。いくら息を吸っても、肺に入っていかない。アイオンはただただ、怯えていた。
 (外へ……)
 外に行かなくては、ただそう感じアイオンは廃墟の中をふらつく足取りで進む。

 焚き木の音が、何もない廃墟の中に響く。

 一歩、一歩と歩み、闇の中へと入る。出口はすぐそこにあった。蒼い光が、差し込んでいる。

 外に出る。ただ、蒼い世界が目の前に広がっていた。

 虚空の中に広がる、蒼い月明かり。風もない、澄んだ世界。ただただ美しい、それだけの世界があった。その世界に、アイオンは一人だった。
 ただ黙って、蒼い世界に一人立つ。月に見守られ、空を見上げる。不思議なまでに、心が落ち着いていく。そのままぽつりぽつりと、歩き始める。

 冷たい空気が、アイオンを包み込む。芯まで凍えるような、凍てついた世界。それでも、彼にとっては唯一の世界だった。

 誰かがいたような気がする

 ふと、手が重くなる。

 そういえば……

 手の方を見る。剣が握られていた。あの時から……思い出せないあの時から握っていた大事な剣。何ものにも代えがたい、大事な剣。
 また、前を向き歩き始める。

 誰も、いないのか ……そうだ

 思い出す。なぜ誰もいないのか。

 奪われた

 家族を、仲間を、あいつらに、ゆっくりと底から染み出してくるように、記憶が蘇る。憎き魔物の群れ。家族を、仲間を奪った存在を。

 復讐を

 そう誓ったのだ、復讐を遂げると。目を閉じ、思い出す。

 ぬるりと、手がぬめる。

 目を開け、手の方を見る。鮮やかな紅色が、大地に広がっていた。蒼い蒼い世界の中に、一飛沫、紅い色が散る。誰かが倒れている。首がない。

 やりとげた

 心に虚無が広がる。引き返すことのない、引き返せない血の色が広がる。やりとげた、そのはずなのに、心が空しくなる。それどころか、言いようのない渇きが広がっていく。

 蒼い世界に、首が一つ落ちていた。

 髪を振り乱した、醜いケモノの首。それを拾う。
 月下の中で、その首を晒す。己のすべてを奪った、憎き相手の顔を、覚えるために。

 嗚呼

 ただ、ただ嘆息する。これが、この顔が、長く夢見た復讐の果てなのかと。そして、これがこの者が、これから始まる旅路を、血と骨の道を指し示す篝火なのかと。

 なぜ

 涙が頬を伝う。どうしてか、止まることなく溢れてくる。

 わらっているのか、なぜ

 穏やかに、微笑んだ首が彼を見つめる。

 そんなにも、さびしげに、ほほえみかけるのだ

 寂し気に、悲し気に、ただ満足そうに微笑んだ首が、彼の手の内に抱かれる。

 冷たい月の下で、一つの想いが、一つの夢が、一つの道が、一つの言の葉が、成就する。



 選択はなされた









 ……柔らかな、小さな手が頬に触れる。温かく優しい手のひらの感触で闇の淵からアイオンは起き上がる。
 「……アイオン?」
 鈴のような声。心配そうに、涙をぬぐう小さな手。いつの間にか胸元から抜け出し、肩に座り込んだ妖精の姫君はそっと、流れ落ちていく雫をその手で払う。
 夜明けが近いのだろう、空が白くなり始めていた。
 「……ノチェか?」
 その優しい、小さな手の感触にアイオンは安堵のため息を漏らす。深く、深く吐き出された苦悶の残り香に、ノチェは心配そうにアイオンを見上げる。
 「どうしたの? アイオン、あなたはとても悲しそうな顔をしていたわ」
 温かい燐光が、アイオンの頬を包む。冷え切った体に温もりが戻ってくるかのようであった。肩に乗ったノチェは、慰めるようにアイオンの顔をその小さな体で抱きしめると、ゆっくりと歌うようにアイオンをあやす。
 「大丈夫よアイオン 何を見たのかはわからないけれども、夜のとばり 夢魔の時は過ぎ去ったわ……

 あおい夜にてる月は ひとつしずかに空のなか しずかにしずかにみおろして
 森のかやに 花まくら 川のせせらぎ 星かたり
 しずかにしずかにみまもります
 あなたの夢をみまもります

 あおい夜のお月さま
 わたしのいのりをとどけてください
 あなたがすこやかなに眠れるようにと

 ……」

 小さな、鈴の音が響く。優しく、心の隙間に落ちていくような音色がひび割れたアイオンの苦痛を埋めて癒していく。夜のとばりのように、黒い髪と瞳を持った妖精の姫君はその小さな喉を鳴らし、自らを守る戦士の為に歌う。
 それが、何一つ与えることのできない姫の、戦士の忠誠に報いる方法だった。巨大な雌猪のように力強く勇猛にはなれず、猫の魔導士のような身軽さや狡猾さもない。あるのはほんの少しの魔力と、鈴のようだと褒められたこの声しかない。

 だから妖精の姫君は歌う。
 それで彼女の騎士が満たされるなら、癒されるなら。
 ただただ、その喉を鳴らす。

 柔らかな、その歌声に包まれるうち、ゆっくりと瞼が落ちていく。
 戦士は眠りに落ちる。夢のとばりは冷たく刺すものではなく、温かく穏やかなものとして、彼を迎え入れる。

 眠れる戦士が悪夢を見ることはなかった。



 第四 黒煙、昇る

 ……朝、アイオン達は目を覚ます。
 妖精の子守歌のおかげか、今までの目覚めよりも遅い時間に起きることとなったが、いつも感じていた、染み込むような疲れはなく心地よさすら感じる目覚めであった。
 ただ、残念だったのは朝食として用意できるものが何もないという事実であった。昨日の夜にかけての空きっ腹が恨めし気に響く。
 だが、仕方のないことでもあった。少しでも、一日でも長く旅を続けるために、命をつなぐための蓄えを、備えを用意しなければならなかったからだ。ただ、今から十分な食料を得るのはとても難しいと言えたが、やるだけのことはやる必要があった。
 「……せめて兎の一匹でも捕まえられりゃあな」
 ガーラが残念そうに、焚き木の火を消しながらつぶやく。鼻の利くガーラでさえ、ここ最近はまともに獲物を見つけられなくなってきていた。そもそも、今進んでいる旅路、広く乾燥した荒野という場所を進んでいるというのも条件を悪くしていたにせよ、なかなか獲物はおろか他の生き物を見つけることさえも難しくなりつつあった。
 「仕方がない ないものねだりはできないからな……先を急ごう、ガーラ」
 火が完全に消えたのを確認したのち、アイオンは立ち上がる。
 なんとなしに、アイオンはガーラの方を見る。灰色の髪がふわりと舞い、健康的な褐色に彩られた豊満な肉体がゆさりと揺れていた。ふっと、アイオンはガーラに近寄るとその体を抱きしめる。熱く、柔らかく、こちらから抱き着いているのに、逆に抱きしめられているかのような錯覚を覚えるほど大きな体。ガーラの薫りが、肺に満ちる。
 「アイオン?」
 突然の抱擁に驚くガーラであったが、すぐに嬉しさを隠すことなくアイオンを抱きしめ返す。ぎゅっと肉に包まれ、その逞しさにアイオンは息を詰まらせる。
 ふと、視線が絡みつく。ガーラの大きな、黄金色の両眼がアイオンの瞳を映す。どちらかともなく、口づけを合わせる。肉厚の舌が、むっちりとした唇をかき分けてアイオンの中に入り込み舌を捕らえる。巻きついた舌から、ねっとりとした唾液が流れ込み、それと交換するようにアイオンの口の中から涎がさらわれていく。
ちゅっと、たっぷりと、時間をかけて行われた口交が終わる。とろりと、ガーラは興奮した様子で舌なめずりをする。
 「……どうしたんだい」
 だが、アイオンの目の中に暗い色を見つけると、心配そうに抱きしめる。何時もであれば、軽口を叩いた後に離れようとするが、アイオンはただ黙ってガーラの抱擁を受ける。そんなアイオンをガーラはただじっと抱きしめ、守るようにその身を包む。
 朝、静かな時が流れていった。

 ……少しの間、縋るようにガーラを抱きしめていたアイオンはそっとその身を離す。触れ合った肌が熱く火照り、互いの存在をまるで残り火のように燻らせていた。
 「アイオーン!」
 ただそのまま、じっと見つめ合っていたアイオンとガーラだったが、先に外に出ていたカルタの叫び声を聞くと、はっと跳ねるように廃墟の外へと駆け出していく。
 「カルタ! どうした⁉」
 ノチェを頭の上に乗せたカルタが、真剣な面持ちでアイオンの方を見て遠くを指さす。アイオンとガーラがその方向を見ると、黒煙が一つ、空へと昇っていた。
 いや、一つどころではなかった。よくよく見れば複数、細虫のように空へと伸び風で揺らいでいる。
 (野火か? いや、それにしては……)
 アイオンはじっと思案をする。
 「……様子を見に行こう」
 「良いのかい?」
 「ああ」
 言葉少なに、アイオンは黒煙の方へと向かう。その後を追うようにガーラたちも動くのであった。



 ……近づくにつれ、焦げ付いた臭いがアイオンの鼻につく。焦げ付いた、木材と土の臭い。かつて己も、このような臭いをかいだ。脳裏によぎる、幼き日の記憶。魔物の群れに襲われ、滅び去った故郷の村。それとよく似たにおい。
 「アイオン、気を付けて」
 隣で、かつて村を襲った魔物がアイオンを守るように前に出る。その目は鋭く黒煙の方を睨み、顔をしかめていた。

 「血の匂いがするよ」

 ……そこは、恐らくは小さな集落だったのであろう、小さな家々の集まりであった。周囲には農地が広がり、家畜もいたのであろう。冬の蓄えもあったに違いない。だが、それを狙われたのであろう、荒らされ破壊しつくされたこの場所に残っていたのは無残にも命を奪われた住民の亡骸と、黒煙を放ちながら燃え盛る残骸のみであった。
 「ひどい……」
 黒煙にむせながら、ノチェが惨状を前に呟く。必死の抵抗を試みたのであろう、戦いの形跡もあった。だが、相手が悪かったようだ、僅かばかりの抵抗は相手の怒りを買ったのであろう。
 「かわいそうに、なんでこんな……」
 カルタが、小屋の影から子どもの……少女の亡骸を見つける。痛々しく切り裂かれた体がうつ伏せに倒れ、恐怖に歪んだその瞳は虚ろを見つめていた。
 大切に育てられていたのであろう、手作りの精一杯可愛らしく仕立てた服に縫われた、名前入りの丁寧な刺繍が母の愛情を物語っていた。
 「……せめて、できる限り丁寧に弔おう」
 アイオンが少女を抱きかかえたその時、ぽとりと腕から人形が落ちる。ボロ布で作られた簡素な人形、だがとても大切にされていたのであろうことがうかがえた。その身を屈め、人形を拾おうとしたその時、頭が傾いて少女の頭を覆っていたフードがはらりと落ちる。
 最早動くことのない口元から覗く小さな牙と、フードで隠すように覆われていた尖った耳。少女は魔物であった。
 アイオンは、近くに突き刺さった矢を抜き放つ。野盗の使うものとは違う、しっかりとした造りの矢。
 (……そういう事か)
 やるせない、小さな怒りと無念。このような辺境に居を構えていた理由。故あって、彼ら、彼女らはここにいたのだ。それと同時に、かつて己が歩もうとしていた道を、アイオンは自覚する。
 ガーラが、家屋の中から年老いた老人の亡骸を抱えて出てくる。歩くこともままならない状態だったのだろうことが、やせ細った足から伺えた。堕落者の一族など、どうせ最後は処刑されるのだから、今ここで死のうと変わるまい……そういうことなのだろう。
 (これが、かつて目指していた道だというのか……)
 華々しいものばかりと思っていた、戦士の道の影。追われる身、堕落した身となって……いや、果たして逆の立場で立った時、アイオンは斬れただろうか。今腕に抱いた少女を、同じように斬り捨て亡き者にできるだろうか、できただろうか。
 「大丈夫?」
 胸元から、ノチェが心配そうに声をかける。
 アイオンの目の前に、次々と亡骸が並べられていく。こうしてみれば、人も魔物もそう変わるまい。皆一様に無念と恐怖を顔ににじませ、死んでいる。耐えきれず、視線を外す。
 視線を外したその先に、火を放つために投げられたのであろうたいまつが目に入る。その瞬間、アイオンの脳裏に違和感が芽生える。
 (たいまつ…… 思えば、ここを襲ったであろう一団はなぜ火を放ったのだろう、いや……放とうとしていた……)
 辺りを見回す。確かに、いくつかの建物には火が点いて燃え上がっていた。しかし、全てではない。ごろつきや傭兵崩れの野盗でもない限り、いや、ごろつきや傭兵崩れであっても夏ならばともかく、冬が迫ろうとしているこの時期に貴重な種火を使ってまで拠点となりうる場所に意味もなく火を放つということなどはしない。そうでない者たち……兵士や戦士がここに討伐に来たというならば火を放つ理由は一つ、全ての痕跡を葬り去るという事。ここに魔物がいたという痕跡を、全て火で清めるためである。
 「ガーラ! カルタ……! 気を付けろ、ここを襲った奴らはまだそばにいる!」
 放火を途中でやめた理由はただ一つ、こちらに気づき隠れたに違いなかった。そして隠れた理由はただ一つ、アイオン達をこの集落の仲間と思い、隠れて奇襲を行い一網打尽にするためである。
 「ええっ! そんなぁ!」
 慣れた様子で武器を構えるガーラの横でカルタはびくつき、不安げに周囲を見回す。その様子に、アイオンは一抹の不安を覚える。
 (思えばカルタは戦闘の殆どをゴーレムに任せていたな……)
 先の戦いにおいても、カルタ自身が戦うところは見たことがない。アイオンはカルタに問いかける。
 「カルタ、武器はあるか?」
 「え、いや 僕のどこを見れば武器があるって思うのさ!」
 「そうか……いや、武器がなくとも、魔法で戦うことはできないか?」
 「エッ! あ、え〜っと ……あぁ、その、ごめん…… 僕、そんなに……魔法、使え……ない」
 耳をしおらしくぺたりと倒すカルタ。その唐突な告白に、アイオンは衝撃を受ける。
 「なんだって⁉ いや、まて……何度か使っていただろう 小さな火球を放ったり……大きな火球を放てないのか?」
 旅の間に、何度かカルタの魔法で火を熾したりはしていただけに、全く魔法が使えないわけでは無いとアイオンはわかっていた。だが、カルタはばつが悪そうに答える。
 「ぅ……ごめん、小さい火の玉とかは、出せるんだけど……大きいのは、無理 というか、僕……得意な、戦いに使える魔法はゴーレム術しか、ない……」
 「なら、ゴーレムを作ればいい できるだろう」
 「……触媒が……ないの、ないと、作れない……」
 いつもの強気な態度はどこへやら、といった感じでしぼんでいくカルタ。
 「……本当にごめんね 僕、役立たずで」
 すっかりしょげてしまったカルタを前に、アイオンはため息をつきつつもその頭を撫でる。なんとなく思っていたことではあったが、やはりカルタ自身に戦闘能力は無いようであった。ならば、守るしかない。戦えぬものにまで無理はさせられない、それは戦士としてアイオンが持つ意地でもあった。
 「……ノチェを連れて後ろに下がって隠れていろ 無理はするな」
 「わかったわ、アイオン……」
 「カルタ、任せたぞ」
 「う、うん」
 もそもそと、ノチェがカルタのマントの中に隠れる。カルタの目に不安な色が宿る。
 小柄なカルタとノチェであれば、すぐに隠れ場所を見つけられるだろう。だが、一番の問題は一面に開けた、この場所で多数を相手取り戦うというのは難しいものがあるということであった。もしも兵士の一団であれば少数で魔物に襲い掛かることは決してしない。そんな多数の兵士たちに円陣を組まれ、集落を囲うように襲われたらひとたまりもない。できることならば杞憂で済むことを願うも、アイオンの予感は的中した。

 「来るよ アイオン」

 複数のいななきと、鎧の音。馬に乗った騎士とその侍従らしき集団と、軽装の鎧を着こんだ兵士たちが隊列を組んでこちらへと向かって来る。
 この近辺の領主の一団であろう、その脇にはかつてアイオンが属して者たちが数名、控えていた。主神の印を掲げ、対魔物の訓練を積んだ者たち……《戦士》の一団である。
 (……数にしておおよそ二十数人ほどか この規模の討伐にしては多く感じるな)
 馬を引き連れ、弓兵も用意し、さらに少数とはいえ戦士も引き連れている。十人にも満たない集落を襲撃するにしては過剰ともいえる戦力に思えた。
 「はっ! ぞろぞろと……相手はずいぶんと臆病者のようだね!」
 「……恐らく、貴族か何かがいるんだろう あの中の数人はそいつ専属の護衛だろうな」
 二人対二十数人と十倍以上もの戦力差を前に、ガーラは臆することなく奮起し、鼻息荒くその身を震わせる。これだけの人数を引き連れて討伐に赴くということは恐らくは領主か、それの親族か近しい間柄の人物だろうとアイオンは予想する。
 こういった王族貴族の中には、魔物討伐の際に自ら指揮を執り、教団への忠誠と自らの武勇を示す人物もいる。とはいえ、そういった人々の武勇伝の大半はこうした《安全な獲物》との戦いを脚色している場合が殆どであった。本当に危険な魔物との戦いは、殆どの場合は教団の兵団か戦士によって行われるが、それら戦士の活躍は民草の伝説となれば良い方で、大抵の場合はそのまま時と共に忘れ去られる場合が殆どである。
 「アイオン……!」
 「カルタ! 隠れていろ!」
 「矢だ! 隠れな!」

 ガーラの叫びと共に、風を切る音を響かせながら矢が撃ち込まれる。素早く建物の壁に身を隠したアイオンとガーラを追うように矢が射かけられる。鋭く弾けるような音と共に矢が壁や地面に突き刺さる。
 「貴族様ってのは、黙っていきなりに矢を打つのがお好きなのかい?」
 尤も、石造りの頑丈な壁を撃ち抜くことはなく、砕ける音と共に矢は弾かれ大地へと落ちる。ガーラは蔑むように声をあげると、敵の様子を伺うように顔をのぞかせる。
 「カルタ!」
 アイオンが叫ぶと、先ほど亡骸を並べた広場の隅からカルタの声が響く。アイオン達とは別の小屋に身を隠したようであった。無事な様子に安心したアイオンは、ガーラと同じように敵の様子を伺う。
 「あいつらは馬鹿だね まっすぐ突っ込んでくるよ」
 「……彼らと同じ農民だと思われているのだろう」
 「なら、それが間違いだって教えてあげなきゃね……っ!」
 種族が違うと言えども、一方的に虐殺されたであろう魔物とその家族の亡骸を前にした影響か、ガーラは怒りに身を震わせていた。そしてそれは、アイオンも同じであった。ガーラの怒りが全てを圧し折り砕く燃えたつ大斧であれば、アイオンの怒りは氷の刃のように鋭く冷酷に断ち切るものである。

 そして、不運にも勇猛な雄叫びをあげ、獲物を追い立てる興奮に目を眩ませた兵士たちはその怒りに気づくことができず、また大きな思い違いもしていた。彼らは決して怯え逃げ惑うような小獣ではなく、その身に爪と牙を持つ猛獣であると。

 兵士が集落へと差し掛かったその瞬間、咆哮と共に石造りの壁が吹き飛ばされる。吹き飛んだ飛礫は数人の兵士の体へと強かに打ち付けられ、その身と意識を砕き飛ばす。突然、目の前の仲間が吹き飛ばされ怯んだ兵士を、一薙ぎの突風が吹き飛ばす。
 高らかに打ち上げられた兵士は大地に叩きつけられ、そのまま呻き声をあげて倒れる。
 「なんだっ!」
 「おい! どうなってるんだ!」
 叫ぶ兵士。それに答えるかのように粉塵を纏った突風が二つ、前に躍り出る。一つ目の風は黒く、巨大であった。手にした大斧をためらうことなく兵士の横っ腹へと叩きつけると、そのまま力任せに振り切り兵士を打ち飛ばす。もう一陣の風は、石火の如き速さで兵士の前に舞うと兵士が咄嗟に構えた刃を腕ごと打ち払い、返す一刃でその身を断つ。戦場に、兵士の叫びと紅い花が咲く。
 「ひえひゃぁぁ!」
 突然の仲間の死、その事実に狂乱するかのように叫びをあげた兵士の喉に鋭い白刃が突き刺さる。迸る悲鳴と共に血が噴き出し、もがく様に倒れ落ちていく。
 「きっ貴様!」
 「陣形を組め! くめぇ!」
 だが、奇襲の効果はここまでであった。先陣を切った仲間がやられたとみるや、後続の兵士たちは即座に陣を組んで盾を構え攻撃へと備える。
 「弓兵!」
 隊長格と思われる兵士が叫び、それに続くように後方の弓兵が弓を構える。
 「退くぞ、ガーラ!」
 そう叫び、横に躱すように集落へと退くアイオンとガーラ。数発、矢が撃ち込まれるもその矢が彼らを捉えることはなかった。
 「くそ! 馬鹿な……奴らは何者だ!」
 「あんな魔物がいるなんて……!」
 「ちくしょう、聞いてないぞ……!」
 「馬鹿者! 早く陣を組め! 包囲しろ! 奴らは少数だぞ!」
 だが、先ほどの奇襲で恐怖を覚えた兵士たちは陣を組めども、遅々として進もうとはしなかった。いくら数の上で優勢であるとはいえ、猛獣に対し無策で攻撃を仕掛けられるほど愚かというわけでもなかった。
 そうした兵士の士気の低さはアイオンにとっては有利であったが、問題もあった。後方にいる弓兵に対する攻撃手段も、防御手段もなかったのである。士気が低いとはいえ、前衛となる兵士よりもはるかに安全な位置にいるのだ、落ち着いてアイオン達を狙う余裕は十分にあるといってよかった。下手に飛び出せば簡単に狙い撃ちにされてしまうだろう。
 矢が尽きるまで躱し続けるという手もあるが、相手の矢を躱すには兵士連中が邪魔であった。それに相手には戦士までいる。実力のほどはどうあれ、魔物に対して有効打となりえる矢を温存するように提言していてもおかしくはなかった。
 そして厄介なことに、どうやら相手側はこうした戦いに慣れているようであった。数名の騎兵と弓兵、そして戦士が集落を囲うように移動を始めたのである。
 (不味いな……)
 戦力としては、確かにガーラやアイオンはそう簡単に負けはしないだろう。だが、数の不利だけはどうしようもない。そして、それは相手の兵士も気が付いたようであった。どうやら敵は二人しかいない、と。

 先に仕掛けたのは、兵士たちであった。三手に分かれた兵士たちはそれぞれ別の方向から集落に向けて慎重に前進し始める。それを見たアイオンは覚悟を決め、兵士たちの前へと出る。その手に剣を携え、影から踏み出す。その瞬間、アイオンに向かって矢が放たれるも素早く躱し、そのまま低い姿勢を保ちながら兵士の一団に挑む。振るわれた刃が盾に当たり、火花が散る。
 盾にかわされ、大地を抉った刃を返すように振り上げるも再び受けられ乾いた音を響かせる。その動きは熟練のものであり、アイオンは直感的にただの兵士たちではないと悟る。
 「アイオン!」
 飛び出して行ってしまった、愛するものを守るためガーラも駆ける。だが、その眼前を矢が掠める。立ち止まったガーラに対し、続けざまに矢が放たれるも大斧で弾き飛ばし弓兵を睨む。だが、はるか先にいる弓兵は怯むことなく矢を放ち続ける。
 (こいつらっ!)
 その矢は明確に、ガーラを牽制するものであった。そして、その矢に気を取られている間に兵士の一団と、二人の戦士がガーラへと迫っていた。
 「囲え! ハイオークだ、決して近づきすぎるな!」
 戦士の指示を受け、兵士は槍と盾を構えガーラに迫る。一人二人ならまだしも、複数の武装した兵士に囲われ槍を向けられる状況というのは、ハイオークであっても厳しいものがあった。下手に強行突破を試みれば、一つや二つ、槍による一撃を受けてしまっても不思議はない。だが、ただじっと立っているわけにもいかなかった。本当に囲われてしまえば、それこそ四方八方から槍で突き刺され、その命を無駄に散らすことになってしまう。
 「くそっ!」
 ガーラは辺りを見回すと、僅かに開いた包囲の隙間に飛び込むように大斧を振るいながら駆け抜ける。突き出された槍の穂先を殴りはらい、包囲を抜ける。鋭い穂先が肌を切り裂くも、完全に囲われる前にガーラは包囲を抜け出す。だが、無傷とはいかなかった。
 空を切る音と共に、ガーラの足に矢が突き刺さる。
 ガーラの絶叫が、戦場に響く。雑な造りではない、純粋に刺し貫くことを目的に造られた矢はハイオークの強靭な肌を貫き、その肉を断つ。それも、訓練を積んだ弓兵が放った矢である。魔物でなければ、もう勝敗は決したといってもよい一撃であった。
 だが、ガーラは立つ。ここで膝を突けば、敗北が決定的なものとなってしまう。アイオンが助かるならば、この命惜しくはない。だが、ここで倒れればアイオンも同じ運命をたどることになってしまう。それだけはできなかった。
 「あぁっ! うっグッ! あああああ!」
 かつて幼き日に射貫かれた、腕と同じ痛みが足を襲う。だが、引き摺るようにして無理やり動かし兵士たちから距離を取る。
 「死ね! オーク!」
 「待て!」
 一人の血気逸った兵士が戦士の制止を振り切って槍を構え、止めを刺さんとガーラへと迫る。槍の切っ先がガーラの胴を捉えようとしたその瞬間に、ガーラは身を捩り槍の穂先を躱す。躱された槍は空を切り、兵士はガーラの目の前へとその身を晒した。

 まだ、死ねない

 次の瞬間、兵士の顔が砕けた。

 ガーラの腕と掌が、兵士の頭を捉えたのである。ぐしゃりとひしゃげ、吹き飛んだ兵士はそのまま壁へと叩きつけられ動きを止める。

 血ダ

 獣が、嗤う。
 「あ、ア ぁ……」
 紅い茨が、絡みつく。

 「ちくしょう! またやられた!」
 「化物めっ!」
 「殺してやる!」

 コロシテヤル

 獣が、叫ぶ。



 第五 この命果てるとも

 ……ガーラの叫びが、戦場を覆う。
 狂乱とも、狂喜ともとれる悍ましい叫びに辺り一面が凍り付く。だが、その場を恐れることなく駆けていくものが一人。
 「ガーラッ!」
 アイオンが、駆ける。

 駆け付けたアイオンの目に、ガーラが映る。倒れ伏した、住民たちの亡骸を守るように大斧を構えて敵を威嚇する姿に安堵を覚える。だが、次の瞬間《悪臭》がアイオンの鼻を掠める。むせてえづくような、不快な臭い。脳裏に蘇る、あの日の憎悪。

 魔物ダ

 目の前の、獣を見る。灰色の髪を振り乱した、恐ろしいケモノ。
 手にした剣が熱を持つ、灼けるように、手のひらが熱い。

 戦士としテ、獣ノ首ヲ刎ネヨ

 あの日の憎しみを、怒りを、忘れたことなど一度もない。
 戦士が剣を構えようとしたその時、背中に灼けるような激痛が走った。

 「堕落者めっ! 死ぬがいい!」

 兵士が叫び、剣が振り上げられる。いつの間にかアイオンの背は切り裂かれ、鮮血が飛び散っていた。
 「ぐっ!」
 倒れ伏すように膝をついたアイオンに刃が振り下ろされるも、それを跳ねるようにして避ける。その僅かな動きすら、痛みのあまりまともに動くことすらままならない。
 (戦いのさなかも敵に背を向けるなど……なぜっ⁉)
 苦悶に歪みながら、疑問に思う。なぜか、どうしてか、アイオンは戦いを忘れていた。戦いを忘れ敵に背を向けるほどの憎悪に、囚われていた。

 「アイオンッ!」

 ガーラ、愛する者の悲痛な叫びが耳に届く。迫る追手の前に、ガーラは立つ。血が沸き立つような、不思議な薫りを胸にアイオンも再び立ち上がる。たとえ満身創痍であったとしても、まだ負けるわけには、死ぬわけにはいかないと。

 「来なっ! 兵士どもっ! アタシがいる限り、絶対に手出しはさせないよ!」






 そんな!

 建物の陰に隠れ、様子を伺っていたカルタは恐怖と絶望に打ちのめされようとしていた。アイオンが深手を負い、ガーラもまた傷を負っている。その状況で敵はまだ多数であった。奮起したガーラが、何とかアイオンを守っているが動きが鈍く、少しずつ傷を増やしていく。アイオンも傷を負いながらも手にした剣を振るい、懸命に抗うも目に見えて弱り追い詰められていっていた。
 劣勢は明らかであった。

 (どうしよう……どうすれば!)
 自分自身に戦う力がないことは、カルタ自身が一番よくわかっていた。鋭い爪と牙を持てども、鎧を裂くほどの威力も鋭さはないし、そもそも今の魔物の爪と牙に人の命を奪う力はない。意図的に魔力を纏って殺傷力を持たせたり、ハイオークのように自身の力で人の身を砕くだけの怪力を持っていれば話は別だが、それでも無意識にせよ意識的にせよ明確な殺意が必要であった。
 明確な殺意と、強い覚悟、そして勇気がなければ魔物は人を殺せない。

 何もできない、だが何かをしなければ……カルタの心に焦りだけが募る。
 (触媒が、触媒さえあればっ!)
 カルタが唯一持っている戦う術。それはゴーレム術。
 命無きものに命を宿す、太古から綿々と続く魔導士の秘術。熟練した使い手が創り出したゴーレムは竜にすら勝るとも劣らないとされる。だが、制約も多い。制約の中でも一番の制約は魔力の核となる触媒が必要、ということであった。命持たぬものであるゴーレムにとってみれば、心臓と脳の役割を持つ核は存在する上で必要不可欠なものであった。
 もちろん、なんでも触媒に使えるというわけではない。触媒となるには最低限、魔力が宿っている必要があり、最大の問題はゴーレムを作り出せるだけの魔力を有した物はそこらへんに転がっているようなものではないという事であった。
 「カルタ……」
 カルタの胸元から、ノチェの声が響く。ノチェもまた、戦えぬ己の身を嘆くように悲痛な音色が混じる。だが、同時に何か覚悟を決めたかのような声音でもあった。
 「教えて、ゴーレムが作れればアイオンとガーラを、救えるの?」
 もう時間がない、そう急かすようにノチェの声が響く。
 「わからない! わからないよ! でも、このままじゃアイオンが死んじゃう!」
 どちらにせよ、もはや猶予はなかった。今も目の前でアイオンとガーラは兵士たちの攻撃にさらされている。戦士らしき人間が、弓兵を呼ぼうと叫んでいた。
 「カルタ」
 ノチェの声が響く。小さいのに、はっきりと、しっかりとカルタの耳に届く。

 「私を使って」

 「私を使って、ゴーレムを作って 私は小さいけれど、魔力はあるわ ゴーレムを創って、アイオンとガーラを助けて」
 澄んだ、深い覚悟を決めた音で願う。
 「そんな! ダメだよ、君のために旅をしているのに! ゴーレムの触媒になったらどうなるかわかっているんでしょ⁉」
 「でも、私のために死んでほしくなんかない! それに……大切な人のためなら死んでもいいわ」
 「でも!」

 剣戟の音が弱まる。すでに満身創痍となったガーラが、ふらつくアイオンを庇うように立ち兵士たちを睨む。

 「カルタ!」

 ノチェが、叫ぶ。
 「ダメだ」
 冷たく響く、カルタの声。
 その声にノチェはびくりと震える。
 どうして、そう問おうと顔を上げてカルタの顔を見る。
 「ノチェ、君を犠牲にはできない アイオンは僕を信じて、君を守るように言ったんだ……だから 君を犠牲にはしない」
 小さな妖精の、黒い瞳を、大きな猫の薄翠の瞳が見る。その目は妖精と同様に、とある覚悟を決めた瞳であった。
 「……僕は、行くよ!」
 そう力強くつぶやき、カルタは飛び出す。

 「魔物がいたぞぉっ!」
 「まだいたぞ! 討て!」

 建物の影から、小さな魔物が飛び出す。猫の似姿を持つ魔物は素早く兵士の間を駆け抜けていく。
 放たれた矢はそのものを捉えることなく、突き出された槍はそのものを貫くことなく、振り下ろされた刃はそのものを討つことなく、ひらりと羽のように躱しながら魔物は駆ける。
 大切な人を守るために、戦うために。

 「カルタ!」

 アイオンは叫ぶ、なぜ出てきたと。だがカルタは気に留めることなく、兵士たちの追撃を躱し、避けてアイオンのほうへと走る。
 「アイオン!」
 満面の笑みで、悲しげに笑う。
 「カルタ、どうして……」
 「ごめん、ごめんね アイオン……僕、嘘をついてた あるんだ、ゴーレムは創れる……創るための触媒は、あるんだ……でも それを使えばきっとアイオンは僕のことを嫌いになる だから嫌だった……ごめんね そのせいでガーラが、アイオンが……」
 カルタがそっと、突然のことに呆然としているノチェを、同じように戸惑うアイオンに手渡す。

 「でも、僕はもう迷わない 嫌われたっていい! それでアイオンが、みんなが助かるなら!」

 カルタの登場に、動揺していた兵士たちが平静を取り戻し、改めて攻撃を仕掛けようとしていた。

 「……行くよ」
 カルタは跳ねる。跳ねてアイオンの後ろへと着地をすると人形を抱いた、小さな少女の亡骸の前に立ち爪を一突き、己の手のひらに刺す。
 紅い血が、カルタの手のひらに広がっていく。
 次の瞬間、その血がまるで炎のようにカルタの手の上で揺らめき始める。カルタの瞳が、淡く光る。
 その異様な光景に、兵士たちは警戒するようにその動きを止める。

 『失われしものよ』

 カルタの口から、言葉が漏れる。仄暗い淀みの中から響くような、重い声が周囲を染める。

 『我、カルタが汝を見つける 汝の名を此処に示せ』

 カルタの血が揺らぎ、文字へと変わる。カルタは一瞥するとすぐに片方の手で、その文字をかき消す。
 カルタの鋭い爪でかき消された血が、靄のように広がり少女の亡骸へと入り込む。靄が入り込むと同時に、刻印のような紅く輝く模様が少女の体に広がっていった。

 『然り、汝は失われしもの 故に我が新たな名と命を奉ずる』

 揺らいだ血が大地へと突き刺さっていく。突き刺さった血は大地へと染み込み少女を中心として魔法陣を描き始めていった。

 「奴は魔術を使おうとしている! 早く止めるのだ!」
 後方にいた戦士が叫ぶ。しかし、多くの兵士は血と亡骸によって行われる魔術を前に、恐怖を覚えその身をすくませていた。
 「カルタ……!」

 『穢れなき無垢をその身に宿すものよ 無垢のまま失われしものよ、その純潔と我が血をもって誓約とせん 従属を引き換えに、とこしえを、新たな体を我カルタが奉ずる』

 カルタが手を握りしめると同時に、大地が隆起し噛みつき食らうように少女の体を飲み込む。

 『立て 失われし無垢なるものよ 新たなその身に刻むがよい、汝の名を!』

 カルタが高らかに叫ぶ、その者の存在を。

 『出でよ 無垢のゴーレム!』

叫びとともに、大地から翠の燐光がはじけ、その中から這出るようにしてそれは現れた。
 土と岩を纏った永遠の肉体を持つもの。
 だが、それは悍ましいもの。魔術師の血を触媒に、亡骸を核に作り替えたもの。少女の亡骸は今、土と岩に包まれた異形として戦場に立つ。
 ゴーレムの胸元に埋め込まれた少女は全身に紅く輝く呪文と刻印が刻まれ、その閉じた両目からは血涙を流しているかのように紅い魔力が流れ落ちる。生気はなく、紅に彩られた青白い肌が恐ろしいまでに美しく見える。だがそれは背徳の罪、決して手を出してはいけない領域にあるが故の妖美である。
 その少女の胸元に、炎のように文字と紋章が浮かび上がる。紅と蒼に彩られた炎の文字と紋章は妖しく揺らめき、少女の胸を焼いていく。

 古より伝えられし、秘文によって刻まれるは《無垢》の刻印。
 死せる処女の亡骸より創られる、古き時代の外法。

 その由来を知るものはなく、愛娘を殺され狂った聖者が創り出したとも、処女趣味の魔術師が考え出した悍ましき術法であるとも、その真偽は定かではなくとも忌避すべき禁術であることは間違いなかった。

 最早少女は、切り殺された無力な少女ではない。ゴーレムとしての力を持ち、新たな体と使命を持った生き人形へと変わった。その無垢はすべて、主に捧げられるためだけに存在している。

 その《無垢》が、ゆっくりと大地に立つ。

 「いけっ! ゴーレム! 奴らを、あの兵士たちを倒せ!」



 第六 無垢のゴーレム

 ……カルタの命令とともに、ゴーレムの胸元が紅く光る。そしてしなやかに、その腕が振るわれた。瞳を開けずとも、兵士たちが見えているのかその岩の腕は容赦なく、恐怖に震える兵士の一人を打つ。細い岩が連なった、大鞭のようにしなる腕に殴りつけられた兵士は悲鳴を上げる間もなく大地へとめり込むように殴りつけられ、その身を沈める。
 そばにいた兵士の一人が叫び声をあげる。

 それは、恐怖の叫び。

 ゴーレムの細腕が、再び振るわれると共に兵士の一団が薙ぎ払われる。鉄の鎧がひしゃげる音とともに、複数の悲鳴が戦場に広がる。だが、ゴーレムはその冷たい表情を動かすことなくその腕を振りまわし兵士の体へと打ち付けていく。

 べこべこと、その体が凹み、血があたりに飛び散る。

 あちこちから、悲鳴が上がり始める。
 それは恐怖の連鎖。再び、狩る側が狩られる側へと回った、回ってしまったが故の恐怖。
 「悪魔めっ!」
 戦士が叫び、槍を構えるとゴーレムへと投げ放つ。

 鈍い音が、響いた。
 肉を貫き、骨を砕くような、嫌な音。

 戦士が投げ放った槍は、正確にゴーレムの核となる少女の体を貫いていた。二度目の死が、少女の体に訪れる……

 はずだった。

 かすかに揺らめき倒れるようなそぶりを見せるも、ゴーレムは動きを止めない。それどころか、わき腹から小さな細腕を新たに生やすと少女の体に突き刺さった槍を掴み乱雑に引き抜く。ぐちゅぐちゅと、肉がかき回される音とともにずるりと槍が抜き放たれる。
 戦士が放った槍は、ゴーレムに何一つ痛苦を与えることはなかったかのように、無垢は動き続ける。
 「……っ! お前たちは引けっ! 領主様をお守りするのだっ!」
 槍を投げた戦士がその様子から即座に脅威を悟り、兵士たちに向かって叫ぶ。すでに、あのひと時で数人の兵士が亡き者となっていたこともあり、戦士の号令で兵士はすぐに撤退を始める。
 「お前も引け!」
 もう一人の、若い戦士に叫ぶ。
 「隊長! 一人では!」
 「お前の勝てる相手ではない! 今は引くのだ!」
 ゆっくりと、ゴーレムが戦士のほうを向く。その腕には先ほど引き抜かれた槍がこん棒のように握られていた。
 死せる少女をその胸に抱き、兵士の血で彩られた悍ましきゴーレムが戦士の眼前に立つ。
 最早一刻の猶予もない、そう悟った戦士は若い戦士を殴りつけるように後ろへと押しやり、剣を引き抜くとゴーレムへと斬りかかった。

 だが、その抵抗は一瞬で終わる。

 焦りと動揺か、脅威を前にした恐怖か、その双方か……どちらにせよ戦士の一撃は彼の普段の戦いを知るものであればひどく大振りに映ったことであろう。ゆえにあっさりと、戦士はゴーレムに捕らえられた。
 片腕に喉元を掴まれ、もがく戦士。刃をゴーレムにふるうも、岩でできた腕を人の力で断ち切れるはずはなく、無意味に乾いた音が響く。
 そして、そのまま乱雑に宙へと持ち上げられていく。ゴーレムの片手には槍が握られていた。
 戦士の苦悶のうめきが、空に溶けていく。

 そして、そのまま無造作に、機械的な動きで突き出された槍が戦士の腹を突き破る。

 血と、死が、乾いた風に混じる。
 若い戦士の叫びが、絶叫が、無味乾燥に散らばっていく。
 そのままどしゃりと、ゴーレムは動かなくなった戦士を若い戦士のほうに投げ捨てる。
 「あ……っ ぁあ そ、んな ヨ……ヨアンネス様 そんな!」
 ぴくりとも動かない、戦士の亡骸を前に若い戦士は呻きとも慟哭とも取れない、悲痛の喘ぎを漏らす。その若い戦士の前に、ゴーレムが立つ。
 「あ……」
 その目が、絶望に見開く。ゴーレムは閉じた瞳のまま、その腕を振り上げ打ち下ろさんと構えたその時であった。

 「もういい! やめろ!」

 アイオンが叫ぶ。すでに勝敗は決していた。
 戦士の一人が敗れたことで、領主の一団は完全に戦意を喪失しすでに逃げ去った後であった。若い戦士を救うために残るものは、一人もいなかった。
 アイオンの叫びに呼応するように、ゴーレムはその動きを止める。微動だにすることなく、その腕を振り上げたまま止まる。
 「カルタ ……やめさせろ」
 「……ゴーレム」
 カルタの言葉ののち、ゴーレムは少し抵抗するかのように震えた後に振り上げた腕を下ろす。そのまま数歩後ろに下がると、核を、少女の体を覆っていた刻印がゆっくりと消えていく。それに合わせるように、その体を覆っていた土くれが崩れ、岩や石が剥がれ落ちていく。
 やがて全てが崩れ落ちると、その場所に一つの影が現れる。小さな角を生やした、淡い金の髪を風にたなびかせた魔族の少女が、何も纏うことのない姿でそこに立つ。その体には切り裂かれた傷が生々しく残り、下腹部には槍でえぐられた傷穴がぼっかりと口を開けていた。肌は青白く、うっすらと開かれた眼は濁り、紅い瞳だけが爛々と燃えるように輝いていた。その無垢な体が、岩と土を纏い複数の兵士をあっという間に肉塊へと変えてしまったのである。

 辺りには、死体だらけであった。集落の人々の亡骸をはじめ、それを襲った兵士の亡骸、ゴーレムによって殺された戦士の亡骸、焦げ付いた火の臭いに混じって血の臭いが広がっていく。
 あまりにも無残な、だが北の大地からすればありふれた風景。いつもこうであった、いつもそうであった。人と魔が交わるその果ては、いつも血と死によって幕を下ろす。

 ここは白い果て、赤き血も、黒き死も、全てが白く覆われ隠され、そしていつか暴かれる大地。



 「……カルタ」
 傷の痛みを耐え、アイオンは問う。
 「っ……これは、どういうことだ 何を、したんだ?」
 肉が裂かれ、骨が傷つき、血が流れ落ちる。意識が朦朧としようとする中で、アイオンは振り絞るように踏みとどまる。ここで倒れるわけには、意識を失うわけにはいかないと。
 カルタが振り向き、その翠の瞳が悲しげに微笑む。
 「……無垢のゴーレム 処女の……魔力を宿した処女の死体から作られる、ゴーレムなんだ この娘は……魔物だった……そして処女だった だから、使った……でも、わかってるんだ それが許されないことだっていうのは……僕だって……僕だって……」
 戦う力があれば、その言葉を口の中で噛み殺し、カルタはアイオンからそっと離れる。許されることではないと、わかっていたから。
 「カルタ!」
 アイオンは身を乗り出し、離れ去ろうとするカルタへと手を伸ばす。確かに、カルタのしたことは許されることではない。死者への冒涜ともいえる行為であった。かつてのアイオンであれば決して許しはしなかっただろう。
 だが、それはひとえにアイオンを救うため。無力なカルタにできる精一杯の抵抗、何事にも代えがたい思慕と引き換えにしてでも救いたい者がいたからこそ禁忌に触れたのだと。
 それをわかっているからこそ、全ての責をカルタに負わせることはできない、してはいけないとアイオンは手を伸ばす。たとえ敵だったといえども、短い時しか共に過ごしていなくとも、それでも旅の道連れとして情を交わした相手としてただカルタだけが悪なのだと断じることはできなかった。
 だから、そっとその手をカルタの額に、痛みを耐え、やさしく乗せて撫でる。
 「すまなかった、お前に……つらい決断を、させてしまった」
 すまなかった、そう力なく、つぶやくように……言い聞かせるようにカルタへと問いかける。カルタを許すために、力なき自分、カルタを守ることのできなかった自分を責めるように。
 カルタの目が閉じられ、その端から涙が落ちる。小さな嗚咽が、喉の奥からあふれてくる。溢れる涙をこらえられず、零れ落とすカルタを前にアイオンはそっと微笑むと、力なくその膝をつく。
 「アイオン!」
 ガーラが慌ててその体を支えるも、足の傷口から血が噴き出し、その痛みに顔をしかめる。だが、決して支えることを止めようとはしなかった。
 「くそっ! 傷が……!」
 先ほど受けた傷から止まることなく、赤い血が流れ落ちていた。深く切り裂かれた背中は赤く染まり、その傷が決して浅いものではないことは一目瞭然であった。ガーラは何とか止血しようと衣服できつく縛るも、満足な処置ができないがために血が完全に止まることはなかった。
 「ちくしょう……!」
 「とっとにかくここを離れよう!」
 「アイオン! しっかりして……」
 先ほどの兵士どもは逃げたが、態勢を立て直して再びやってくる恐れがあった。少なくとも相手はこちらが負傷していることを知っているために、追撃を出す可能性は十分に考えられたのである。
 ガーラは己の足の傷を縛ると、歯を食いしばりアイオンを担ぎあげ、揺らしすぎないようにゆっくりと歩き始める。人一人の重さ程度であればハイオークであるガーラにはなんてことはない、ただ足の傷と疲労がガーラを苦しめていた。
 ガーラたちは警戒しながら、集落を出る。日はまだ高く、辺りには冷たく乾いた風だけが吹いていた。ちらりと振り返り、かつて集落で暮らしていた亡骸たちを見る。
 (……結局、満足に埋葬してやれなかったな)
 それどころか、兵士たちの死骸が混じり、陰惨たる様相となってしまっていた。このまま野晒しとなり、野の獣たちに贄を供することになるのだろうか。そう思うと、ガーラはやるせない気持ちに苛まれる。
 (ごめんな、名もなき人たち……)
 だが、死者への弔いよりもガーラには優先しなければならないことがあった。最愛の人、それを守るために死者たちへと背を向け、生きるために前へと進む。ただ許して、すまない、そう呟きながら。



 第七 痛み

 ……どれほど意識を失っていたのだろうか、そう思いながらアイオンは意識を取り戻す。心地よい薫りがあたりに漂い、何者かの背に揺られる感覚。はるかな昔、兄の背に抱えられた安らぎを思い出す。どこまでも荒涼とした大地が眼前に広がり、その風景の中に灰色の髪が風と共に揺らぐ。柔らかく、温かい肉体。
 (……そうか、ガーラ……)
 大切な、愛する人。その人に背負われ、運ばれている。寒いはずなのに、じっとりとした汗に濡れ、荒い息を吐きながらガーラは進んでいた。ガーラのすぐ前には、心配そうにちらちらとこちらを振り返る小さなカルタが、その胸元から身を乗り出しじっとアイオンのほうを見ているさらに小さなノチェを抱えて歩いていた。
 「気が付いた……?」
 そのノチェが、小さな声で問う。ハッとするように、カルタもアイオンのほうを見る。
 「アイオン!」
 ガーラが、心配そうにちらりと視線をアイオンに向ける。荒い吐息が、顔にかかる。だが不快ではなかった。
 「……心配、かけたな ぐ……っ!」
 焼けるような痛みが、じんわりと背中に広がっていく。それにひどく寒かった。目が覚めていくと同時に、失われていた感覚が蘇って嫌でも体の危機的状況を自覚させられる。
 「だい、じょうぶかい?」
 ガーラもまた、苦しそうに……だが心配をかけさせまいとでもいう風に努めて笑顔で、アイオンのほうを見る。
 「ガーラ……足は……?」
 そう言うと、ガーラはニッと笑う。
 「ヒヒッ ……大丈夫、だよ あたしは傷の治りが早いんだ 心配しなくても傷は塞がったさ」
 じくじくと、血が染み出す足を見せないように、心配をかけさせないようにガーラは笑う。そんなガーラの言葉にアイオンはふぅっと小さく息を吐くと、力なくその身をガーラに預ける。ふわりと暖かい命の匂い、ガーラの薫りがアイオンを包む。くるまれていると安心する、柔らかな薫り。既に日は落ちつつあり、夕闇が迫っていた。けれども、ガーラは立ち止まることなくただただ前へと進み続けている。
 (……一体、どれほど?)
 彼女は、ガーラはアイオンを抱え歩き続けたのだろうか。休むことなく、ただひたすらに進んでいく。
 背に揺られているうちに、再びアイオンの瞼が重くなってくる。疲れがひどく、そして寒かった。

 「……アイオン? おい、アイオン」
 聞こえているが、返事が出ない。軽くうなづくように首を動かすと、安堵するような吐息が聞こえてくる。
 「……ガーラ、もう休もうよ ずっと歩きっぱなしじゃないか」
 カルタの心配そうな声が、小さく響く。
 「……その足だって」
 「黙れ」
 「っ でも、ガーラまで倒れちゃったらどうするの?」
 「……まだ、だめだ 休める場所を見つけたらだ こんなところじゃ……」
 深く息を吐きながら、ガーラは言う。長いこと歩いているが、廃墟も小屋もそうそう簡単には見つからない。せめて身を隠せる岩でもあればいいのだが、それもない。
 小さな集落はあったがそれぐらいであり、何とか一晩身を隠せそうな建物はまだ見つかっていなかった。洞窟でもあればいいのだが、それもなかなか見つからなかった。だが、どうにかしてでも、寒空の下に傷を負ったアイオンを寝かせるということだけは、ガーラは避けたかった。
 「……疲れたっていうなら負ぶってやるよ ちび助程度なら増えたところで気にはならないしな」
 「ちびじゃないよ! ……大丈夫 ありがとう」
 「……なら、行くぞ」
 二人の会話を聞きながら、アイオンの意識は黒く塗りつぶされて、力が抜けていく。
 やがて、意識を失っていった。



 ……次にアイオンが目を覚ましたのは、暗い闇夜の中であった。荒野を駆ける風の音がはっきりと聞こえてくる。
 だが、不思議と寒くなかった。それどころか、感じるはずの背中の痛みもだいぶ和らいでいた。だが、体は動かない。何かが体に絡みつき、その動きを封じていた。柔く弾力のあるそれは、触っていて心地の良いもの。ガーラの肢体であった。
 アイオンは、自らにガーラが背後から抱きしめている形で、どこか狭い場所の中で眠りについていたのだと推察する。
 (ここは……?)
 狭く土っぽい香りがするが、湿っぽくはなかった。耳を澄まさずとも風の音が聞こえるため、野外に近い場所だろうとアイオンは考える。何とか起き上がり周りを見回そうとするも、思った以上に狭い場所であることに加え、ガーラがしっかりと木の根のように手足を絡めていたために全く起き上がることができなかった。
 だが、次第に目が慣れてくることでようやくここがどこか、どのような場所なのかがアイオンにも理解できた。どうやらここは小さな、すごく小さな洞穴のようであった。
 そして、それと同時に自身が裸同然であることにアイオンは気が付く。
 (これは……)
 そしてまた、己に抱き着いているガーラもまた半裸、ないしは全裸に近い状態であるとも感じ取っていた。
 しっとりとした肌が、背中に密着している。むにゅりと弾力を感じるそれはまず間違いなくガーラの胸であろうことが察せられた。熱い温もり、乳房の奥から鳴り響く鼓動を背中で感じ取る。とくんとくんと、小さく鳴り打つそれは身を預けたくなるような安心感があった。母の腕に抱かれる感じとは、このようなものなのだろうかとアイオンは思う。
 ガーラの薫りと体に包まれる小さな洞の中は、死にかけの体に生命を、熱を与えるかのようにアイオンをやさしく包みこんでいた。
 「……アイオン?」
 ささやき、ガーラの声が耳元で聞こえる。応じるように頷く。
 その瞬間、ぎゅっと力強く、それでいて優しくいたわるように抱きしめられる。小さな嗚咽を吐き出すように、ガーラは深く息を吐いてその顔をアイオンに擦り付ける。
 「……よかった 本当によかった アイオン、お願いだから……あたしを置いていかないでおくれよ……」
 熱い涙がアイオンの肩を伝う。アイオンはそっとガーラの手と重ねると握りしめる。ガーラの手は土に汚れていたが、気にならなかった。
 「……すまなかったな 心配させてしまった ……でも、どうやって? 決して浅い傷ではなかったはずだ」
 不思議と背中の痛みは和らいでいる、ガーラの温もりも合わさりほとんど痛みがないと言っていいほどであった。
 「カルタだよ…… あいつがやったんだ 治癒魔法のことなんて何も知らないらしいけど、アイオンを治すために必死になって魔法をかけていた ……よくわからないけど、すごく時間はかかったけど、でも傷は塞がった 皮一枚しかつながってないけど、血は止まったんだ」
 「そうか…… ここは?」
 「あの集落から離れた茂みだよ 身を隠せると思ってね……穴はあたしが掘ったんだ」
 土に汚れたガーラの手をアイオンは撫でる。
 「心配しないで、穴掘りは得意なんだ 問題ないよ」
 湿っぽくガーラは笑う。
 「カルタと、ノチェは? 一緒に寝ているのか?」
 「二人は、外にいるよ ……その、掘る時間がなくて それにカルタは外を見張りたいって言ってさ……」
 (カルタ……)
 一抹の不安が、アイオンの心をよぎる。アイオンのもとを、カルタは去ろうとしているのではないのかと。カルタが望むのならば去ることは構わない、だがアイオンは決してカルタのことを嫌ったわけでも見限ったわけでもないのだと。
 望まぬのならば、去る必要はないのだと、それをカルタに伝えたかった。
 「大丈夫だよ あのちび助は勝手に消えるような奴じゃない 絶対にね」
 そんなアイオンの心配を察するように、ガーラはささやく。起き上がろうとするアイオンを窘めるように、安心させるようなささやき。
 だが、どうにも湿っぽく、熱っぽい。

 「……アイオン」
 しゅるりと、ガーラの手がアイオンの体に回される。むっとした空気が、薫りが満ちる。肌と肌がより密着していく。柔く、熱い、とにかく熱い、じっとりとしたガーラの褐色の肌が蛇のようにアイオンの体を撫ぜる。
 「ガーラ……! んぅ⁉」
 そんな気分ではないと、伝えようと振り向きざまにその口を塞がれる。ねっとりとした肉厚の舌が閉じた口を割って侵入し、貪り味わうように、舌を絡めとり口内の隙間をなぞっていく。口の中だけだというのに、まるで頭の中まで撫でられているかのようなぞわぞわする快感が背中を伝う。
 突然のことに、混乱するアイオンの瞳をガーラの黄金の瞳がじっと、何物にも代えがたい宝を見つめるように、執着に彩られた輝きで見つめている。褐色の欲望が、アイオンの肌の上で這う。
 むわりとした、熱くむせかえるような薫り。ハイオークの……ガーラの薫り。アイオンの愚息が、ぐっと力を入れる。主張するそれを、ガーラが見つけるのは一瞬のことであった。ガーラの手が、愚息の根元を捕らえきゅっと締め付ける。
 「うっ! ガーラッ!」
 弱点を握られアイオンは怯むも、まだそれに屈することなくガーラを止めようと抵抗を試みる。
 「だめだよ」
 だが、それを受け入れまい、という確固たる意志でガーラは答える。
 にゅるりとした、熱い、蛞蝓のような感触がアイオンの尻に這う。ただ触れるだけで、吸い付くような錯覚を覚えるそれをアイオンはよく知っている。玉のような汗に濡れた肌よりも滑り、心臓のように熱く燃え滾る炉でもあるそれは、待ち望んでいる。熱く滾る炉にふさわしい、固く太い薪がくべられるのを。
 その炉の入り口を、アイオンに押し付けながらガーラは荒い息でゆっくりと愚息を扱き始める。力強くも、緩急をつけたその動きにたちまちアイオンは追いつめられる。視界が赤く染まり、思考が沸騰し始めていく。それに伴い、背中の傷跡が熱く疼き始める。痛みがないのが、恐ろしく感じる。ただただ、快感一色に染まり始める体を前に、アイオンは困惑する。
 「こっち向いて アイオン」
 ぬるりと、まるで潤滑油をまぶされていたかのようにその体は回り、抵抗する暇もなくアイオンの眼前にガーラの顔が来る。美しい、褐色の戦女神。大地の恵みと力によって描かれたような存在。だが、その黄金の両目は悲哀と、怒りに満ちていた。
 その瞳を前に、アイオンは言葉を失う。
 硬直したアイオンの体に、ガーラの体が重ねられる。柔らかく、重量のある胸が固い胸に合わせられ、つんとした頂がこすり合わされる。深く密着しているがゆえに、とくとくと力強く脈打つ互いの心臓の音が重なり合い、一つの生命になったかのような錯覚を覚える。
 全身は汗でしっとりとぬるつき、ぴったりと肌と肌が噛み合う、重なり合うその感触はじんわりとした心地よさをアイオンに与えていた。
 そしてまた、愚息の先がガーラの下半身に沈み込み、程よい圧迫感と湿り、そして温もりによって与えられる快感は痺れる熱となってアイオンの心を焼いていく。ガーラが身をわずかによじるたびに、きゅむきゅむと揉みしだかれる度にアイオンはたまらず吐息を漏らす。まだ愚息は飲み込まれていない、それはわかっていた。愚息の胴にぴったりと噛みつくように秘裂が合わせられ、動きとともに舐るように蠢いているからである。
 ただ、このように体を重ねているだけで達してしまいそうであった。そんなアイオンの様子を、変わることなく怒りと悲しみに満ちた瞳でガーラは見つめていた。
 じっと見つめた、そのまま……再び口と口が合わさる。
 柔らかく弾力のある唇が重なり、そこからガーラの息が吹き込まれると、アイオンはそのまま肺に吸い込むようにしてその薫りを味わう。どちらとも知れず舌と舌が絡みつき、互いの味を染み込ませていく。
ガーラの手が、背中の傷に触れる。
 「ガーラッ!」
 ぴりっとした、こそばゆい感触から反射的に、口をはなして身をよじる。だが、ガーラはぐっとより力を込めて、まるで自らの中に沈み込ませようとするかのようにアイオンに自らを押し付けていく。力で叶うはずはないということは、わかりきっていた。
 アイオンは抵抗もほどほどに、そっと力を抜くとガーラの体に身を預ける。既に愚息ははちきれんばかりに熱くなっている。今すぐにでもガーラの中に埋め、溜まりに溜まった劣情を吐き出したい心地であった。
 しかし、まだ愚息を埋めることはしない。互いに準備は整っていた。炉は開かれ、薪は十分に熱せられている。あとはくべてしまえば激しく燃え上がるだろう。だが、まだその時ではない。
 アイオンは、ガーラの瞳を見る。
 黄金色の、深い悲しみと怒りに彩られた美しい宝石を見つめる。
 そっと、アイオンの頬にガーラの手が添えられる。
 「許さないよ……」
 「……ああ」
 「あたしを置いて……先に 先に……いくなんて ゆるさないよ」
 その目から、涙があふれる。
 そっと、アイオンはガーラを抱きしめる。その両腕で、しっかりと。ガーラの手が、傷を撫でる。恐る恐る、まるでちょっとでも触れば傷が開いてしまうかのように。
 ガーラは怖いのだ、恐ろしいのだ、目の前の愛する者が、白い帳の向こう側へと行ってしまうことが。もしかしたら、今すぐにでもこの手から零れ落ちてしまいそうで。

 人は、弱い
 魔物よりも、ずっと儚い

 時として死すらも軽々と超越する魔物とは違い、人の死、今の理においてしても人は死を完全に超越することはできていない。ほんの僅かに、主神より加護を受けた勇者だけが死を超越するというが、それも伝説の中でのみ語られることである。いま人にできることは、せいぜい死神の訪れをできる限り引き延ばし遅らせることだけ。
 そんな人が死を超越する時、それは魔物となる時。そして、それが許されているのは雌雄でいうところの雌のみであった、それがこの世界の理。アイオンは雄、失われたら、二度とは戻らない。運命ともいえる引き合わせによってツガイとなった今、ガーラに喪失の痛みを耐える術はない。絡み合った大樹が、片割れの死とともに倒れ崩れるように……どんな傷よりも、深くガーラの体と心を引き裂き、死をもたらすであろうその痛み。

 「おねがい、アイオン……」
 すがるように、抱きしめる。ガーラにとって、自身がいくら傷つこうとも構いはしない、それは耐えられる痛み。だが、アイオンが失われること、失われそうになること、それはガーラにとっては耐えがたい痛みである。
 「あたしが……あたしが守るから お願い、死なないで……あたしを、壊さ……ないで……」
 情が深い、ではすまされないほどの想い。
 アイオンはぐっと、より力を込めて抱きしめる。不安なのだろう、今目の前にいてもなお、失われてしまうのではないのかと。だからこそアイオンは強く抱きしめる。自分はここにいるのだと、ガーラの前に、変わることなく、失われることなく今ここにいるのだと。

 ガーラは怖かった アイオンが失われたその時は 自身が壊れるとき

 魔物の娘 ではなく 魔獣そのもの になるとき

 血に飢えた 人を喰う 化け物になるとき

 「ガーラ……すまなかった」
 愛する人の温もりが、魔物を包む。ただそれだけが、自分は化け物などではないのだと、信じられる唯一の証であった。

 「……きて」

 熱い囁き。男は頷き、魔物の尻へと手を這わせる。その手に、しっぽが甘えるように絡みつく。じっとりと汗で湿った臀部をかき分けるように両の手でわしづかむと、押し広げられた炉からどろりと溶蜜が流れ落ち、すぐ前にまで差し込まれた薪へと伝う。こんこんと熱気を迸らせるそれへと、薪を押し付ける。炉の入り口はすぐに開いた。だが、それすらもまどろっこしいとでもいうように、強引に腰を突き上げ薪を押し込んでいく。
 炉の中に、押し込まれていく。熱い、どこまでも熱く溶けきったそこはすぐに薪を舐り焼き尽くそうとうねり、締め上げていく。渦のように蠕動し、逃がすまいと、奥へ奥へと薪を飲み込んでいく。
 何度くべても、なお慣れぬ……いや、突き入れるたびにより熱く、より心地よく変わっていくその魔物の炉を男は夢中になって突き上げる。背中の傷の痛みなど、目の前の魔物がもたらす快楽の前では程よい刺激に過ぎず、むしろより快感を際立たせていた。

 熱い

 熱が、愚息を包む。決して激しくない、緩やかな結合。だがその快感は、普段の何倍にもまして強かった。火花のように散るだけでなく、延焼し続ける炎のように快感が体と思考を焼き包んでいき、耐えがたい衝動となって目の前の存在へとぶつけていく。
 ずるりと引き出される度に溶けた鉄のような蜜がべっとりと愚棒へとまとわりつき、蜜肉は出て行ってしまった熱を取り戻そうとするかのように吸い付く。そこに再び突き入れればより強く、離すまいとするかのように強く締め上げ、より熱く粘り気のある蜜が愚棒へと塗される。
 ふつふつと煮えたぎる欲望が男の奥で渦巻き、魔物の中へと攻め込まんとその戸を叩く。すでに限界は近い。だが、長く、できるだけ長く、この熱を味わっていたい。焼き尽くされてしまいたい、この炉の中で。少しでも長く、炎に包まれていたい、男は歯を食いしばり押し寄せる沸点に耐える。
 だが、そんな男の気持ちを知ってか知らずか、魔物はより深く咥えこもうと腰を浮かすと、より奥へと導くように落とす。ずるりと、奥へと、より深みへと到達する。最も熱く、狭く、蜜が渦巻く場所に男の先端がくべられる。
 「ああっ! ガーラ!」
 男は叫ぶ、愛する者の名を、魔物の名を。
 「んぅっ! きて! アイオンッ!」
 魔物も叫ぶ、愛する人の名を、男の名を。
 引き絞られる最奥で、命の炎がはじけ飛ぶ。
 命の炉の中に、燃料が流れ込んでいく。炉よりも熱く、熱をもって流れ込むそれを感じ、魔物は悲鳴のように長く息を吐く。じくじくと染み込み、侵略されていく快感。何度味わっても足りない、満たされる感覚に魔物は涙を流して吼える。
 男もまた、己のすべてをなげうつかのような快感を前に、呻くように、より深く、強く、奥へと打ち付けていく。吐き出し続けてなお、硬度と熱を失わないそれをこすりつけるように、炉の奥を叩く。
 そうしているうちに最後の一滴が、炉の中に流し込まれていく。いまだに炉は燃え、愚棒は火に炙られ続けていた。
 心地よい事後の感覚に、男は微睡みを覚える。ひどく疲れていた。

 普段の交合と比べれば、短い睦事であった。
 けれども、比べ物にならないほど濃密な交わりであったということはアイオンとガーラにははっきりとわかっていた。
 互いの心と体と溶かすような、交わりであった。

 「……お眠りよ」
 ガーラが、優しくアイオンの顔を撫でる。返事をしたい、そう願うもアイオンの口が動くことはなかった。
 ただ一言、すまない、そう呟くと同時にアイオンの瞼が落ちる。
 愛する者の薫りと温もりに包まれて、戦士は眠る。

 魔物は守るように、戦士の体を抱え包む。そして、そっとその額に口づけをすると同じように瞼を閉じる。
 もう大丈夫、そう呟きながら。

 きっと、よくなる 目を開けた時、冷たい躯になっていることはないのだと

 そう信じて



 第八 白い果て

 ……カルタは後悔していた。
 確かに、見張りを申し出たのは自分であったし、ガーラが素手で何とか掘った穴の大きさを見ればガーラとアイオンが収まるだけでいっぱいになってしまうというのは見ていて分かった。詰めれば何とか入りそうだとは思ったものの、それで休息が必要なアイオンが苦しくなってしまっては意味がない。
 それに自分の大きさではアイオンを温めることは難しいのもわかっていた。だからこそわからないなりに魔力を流し込み、何とか傷をふさいだアイオンの後のことをガーラに任せたのだが、カルタは大いに失敗だったと後悔していた。

 途中までは全く後悔を感じることはなかったが、主に後悔し始めたのは穴の中から湿っぽい音と嬌声が響き始めたあたりからである。幸い、なのかはわからないがノチェはカルタの毛皮の中でぐっすり眠っていた。だが、茂みの中、火を熾すことなくマントに包まって凍えていたカルタにとってみれば自分を差し置いて、目と鼻の先で愛する主人が別の雌と夢中になっているという事実が酷く腹立たしく思えたのである。
 あまりにも腹立たしいので、そこまで元気ならば邪魔してやろうか、邪魔しても問題ないだろうと意を決し立ち上がり穴の前まで来てみれば。

 「あたしを、置いて……」
 「……ああ……」

 あまりにも弱々しいガーラの声と、それに応じるアイオンの声が穴の中から響く。
 流石のカルタも真摯な思慕の会話の途中で割って入るほど無神経でも自分勝手でもなかった。結局、カルタはむすっとした表情のままとてとてと再び元居た位置へと戻ると、どかりと……実際にはぽすりとそのふわふわの尻で地面を押しつぶしてふて寝しようと、ちょうどよい茂みにもたれかかったその時であった、先ほどよりも激しい艶叫が洞穴の中から響き渡る。
 この時のカルタの表情を見ようものならば、あまりにも激しい憤怒の表情で恐怖におののいたことだろう。だが、結局は疲れもあり、またアイオンが励めるほどに元気になったという事実に安心したこともありカルタは怒りの形相のまま眠りに落ちていった。



 「うっ さぶい……」
 何度、この言葉で目覚めただろうか。そう思いながらカルタは目を覚ます。ぴりっとした冷たい風に透き通った空気。紛うことなき冬の朝であった。そしてまた空を見上げてみれば、曇天……そう言うにふさわしい天気であった。日は出ているはずなのにひどくどんよりとしており、灰色の厚雲が空の上で渦巻いていた。
 ただでさえ寒いというのに、世界が灰色だと余計に寒く感じる。嫌な一日になりそうな、そんな予感さえ感じる朝であった。
 「おはよう、カルタ」
 空を見上げながら、一つあくびをしたカルタの胸元からりんとした声が響く。ノチェはもうすでに起きていたのであろう。しゃっきりとした様子で目の前の荒野を眺めていた。
 「ああ、おはよう ノチェ」
 「……カルタ……アイオンは……大丈夫かしら」
 開口一番、ノチェの口から不安げな響きが漏れる。思えば、ノチェもまたアイオンを救うために微力ながらも奮闘していた。己の持つ魔力を、治療のためにカルタに譲り渡していたのである。そのためアイオンの傷が塞がったのを目にしたとたんに、疲れと消耗から気絶するように眠りに落ちてしまっていた。
 そのためアイオンが回復したということをまだノチェは知らなかった。知らなかったゆえに恐れてもいたのである。あまりにも朝が静かだったから。
 「大丈夫 大丈夫だよノチェ アイオンは元気だ」
 交わうことができるぐらいに、と口の中で呟きながらノチェの小さな頭の上に肉球を乗せる。カルタの言葉に、ほっと安心するように息を吐くノチェは、神妙そうな顔つきのカルタを不思議そうに眺めた後、荒野のほうへと視線を戻す。
 「アイオンに会いたいわ 会えるかしら?」
 「え? あ〜 うん う〜ん」
 どうしよう、カルタは悩む。
 昨日の様子からすると朝からまた始めていてもおかしくはない。それに、始めていなくても愛する人が別の雌と幸せそうに抱き合って寝ている姿というのもまた進んで見たいものでもなかった。
 まあ、でもいっか。そうカルタが判断しようとしたその時であった。

 「カルタ、ノチェ おはよう ……心配かけたな」

 「おひょおっ!」
 「アイオン!」
 突然の声かけに、素っ頓狂な声をあげてしまうカルタ。そんなカルタとは対照的に明るく声を響かせるノチェ。
 「ああ! アイオン! 大丈夫? 傷は? もう立って平気なの?」
 普段の動きからは想像できない機敏さでノチェはカルタの頭へとよじ登ると、その両腕を広げてアイオンの方へと手を伸ばす。
 「ああ、大丈夫だ ありがとうノチェ」
 そしてアイオンもまた、同じように手を伸ばしノチェをいつもの場所へと導く。すっぽりと、いつもの場所へと収まると同時にノチェは満足げに息を吐く。
 「はふぅ ……なんの匂いかしら、ガーラの香り?」
 すんすんと、可愛らしく鼻を鳴らしてノチェが問う。
 「……そうだな 一晩中、一緒にいたから」
 「あたしのにおいがなんだって?」
 「なんでもないわ おはよう、ガーラ」
 ノチェとしてみれば悪気はないのだろうが、自身の匂いに関してガーラは気にしており、少し不機嫌そうにしていた。
 「アイオン! アイオン、アイオン!」
 だが、そんなガーラをしり目に、カルタもまたノチェのようにアイオンへとよじ登るようにして抱き着く。ふわりとした、柔らかな感触にアイオンもたまらず抱きしめ返す。しっとりと沈み込むカルタの毛皮の感触は心地よく、癒されるものであった。
 「……ありがとう、カルタ 傷をふさいでくれたんだな」
 「あ……うんっ」
 うへへ、とにやけながらカルタはアイオンの腕の中で顔を埋める。
 「私も頑張ったのよ!」
 その様子に、少し納得がいかなかったのか、ノチェがすねた様子で声を上げる。
 「ノチェもありがとう、おかげで何とか、また立つことができた」
 くりくりと、その小さな姫君を指先で撫でる。しんとした黒髪が指先をくすぐるのが、何とも言えない気持ちよさがある。

 ともかくとして、アイオンは無事であった。ただそれだけが、ガーラ、カルタ、ノチェにとっては何よりも大事なことであった。

 そんな折、誰かの腹が鳴る。
 思えば、一昨日の夜から何も食べていなかったことをアイオンたちは思い出す。
 「何か、食べよう」
 僅かな蓄えから、決して豪勢とも沢山ともいえない量の食料を取り出す。それでも、アイオンたちにとっては大切なことであった。生きている、それを実感するために。

 「……アイオン」
 何か来る。
 ささやかな、食事をとり終わったその時であった。ガーラが低く警戒するように呟く。
 それに応じるように、アイオンたちは素早く茂みの影にその身を隠す。傷は塞がったとはいえ、薄皮一枚でつながっているにすぎず、まだ十全には回復してはいなかった。戦闘を行うにしても長時間の戦いには決して耐えられはしないことは明白であった。
 その何者かは、まだ遠かったが迷うことなく、一定の速度でこちらに歩んできていた。その姿は小さく、あの兵士の一団ではないということは分かった。それに何より、そのものには見覚えがあった。
 「ゴーレム!」
 しまった、という風にカルタがしょんぼりとする。
 「……ごめん、すっかり忘れてた……」
 何はともあれ敵ではないということにアイオンは安堵する。だが、それと同時に疑問がわく。
 「あのゴーレムは……死……止まることはないのか?」
 少なくとも、アイオンが知るゴーレムは魔力の供給が止まるか、術者が命じればその動きを止めるものという認識であった。そのため、カルタがあの時作り上げた……死者のゴーレムはもうとっくにその役目を終えて亡骸へと戻っているとばかり思っていたのである。
 「……無垢のゴーレムは……死者を、無理やり蘇らせたようなものなんだ ゾンビ……が近いかもしれない だから普通のゴーレムとはだいぶ違うんだ それにあの姿だったらほとんど魔力は使わないし、何よりゴーレムだから大地の上に立っていれば動く分だけの魔力は吸い取って賄えるんだ」
 「止めることは?」
 「できる ……本当だったらもっと前に止めてあげるべきだったね……」
 そう呟くと、カルタはまた口を閉ざす。
 恐らく、無垢のゴーレムとは死霊術に近いものなのだろうと、詳しくはないアイオンにも察せられた。ゆえに禁術、外法として封印されているのだ。死者を蘇らせ、意のままに操るというだけでも冒涜的だというのに、ゴーレムとしての力をも持つというのは危険極まりないことであった。
 (……しかし不思議なものだな 魔力を宿した処女に限る、というのは……)

 暫くして、無垢のゴーレムはアイオンたちの眼前に立ちその歩みを止めた。
 幼いその体を隠すものは何一つなく、痛々しい傷跡がそのまま見えていた。断ち切られた背中の傷に、少しだけ塞がっている槍が貫いたと思わしき腹の傷、そして長い距離を素足で歩いてきたからであろう、その足には細かい傷跡が無数についていた。
 血も涙も流すことのない、死者のゴーレム。幼い魔物の少女だったもの。
 その容姿は、一言でいえば可愛らしかった。小さな角に整った顔立ち。時折覗く八重歯が快活な印象を与える。生きてさえいれば、きっと魅力的な少女だったに違いない。
 だが今は血の気のない肌に、くすんだ金髪が痛々しく絡んでいる。胸元には焼印のように文字が刻印されており、その両目は紅くぼんやりと光っていた。何より、全身に刻まれた傷跡があまりにも痛々しく、不気味であった。

 「……カルタ」
 わかった、という風にカルタは頷くとゴーレムの前に立ち、片手を前に出す。うっすらとカルタの両目が光り、指の爪も同じように翠の光を宿す。そのままゴーレムに近づくと、胸元に刻まれた刻印の文字を一つ、消すように切り裂く。
 『役目は終わった 眠れ、無垢なるものよ』
 ふっと、ゴーレムの両目から光が失われていくと、そのままぱたりと大地の上に倒れこむ。両の目を見開いたまま、空を見上げて少女は亡骸に戻る。胸の刻印も、うっすらと消えていく。幽かな死臭が、ふわりと少女の体から漂い始めた。
 「……ごめんね せめて、家族のそばにいたかったよね……」
 そう呟いて、カルタは顔を伏せる。焦っていたとはいえ、あの時解放してあげるべきだったのだ。それをこんな遠くまで連れてきてしまった。主を守るという命を守るために、その小さな体を引きずって。じくりとした罪悪感が、カルタの中に芽生える。
 アイオンは黙ってカルタの頭をなでると、少女の亡骸に近づきその両目に手を当てそっと閉じる。
 「……せめて安からに……」
 そして呟く、少女の名を。少女の衣服に刺繍されていた、大切にされていた少女の名前を。



 ……少女は眠っている。集落から遠く離れた、荒野の中で。そうと知るものでなければ分かりようのない、茂みの中の小さな墓。ちょこんと置かれた小岩に、その名は刻まれている。



 ……凍えるような、冷たい風が吹く。
 アイオンたちは旅を続けていた。灰色の空の下、厳しい旅を続けていた。背中の傷がじくじくと痛む。少しでも無理をすればすぐにでも傷口が開いてしまいそうであった。それでもアイオンは前へと進む。
 ガーラも、カルタも、ノチェも、そのあとを続く。

 荒野を進む一行の周りに、ふわりと空から冬が舞う。

 小さな、小さな白い粉雪。
 (……来たか)
 間に合わなかった。それは覚悟していた。
 「……これから、つらくなるね」
 ガーラが空を恨めし気に見上げる。辺り一面に、冬が舞う。白く白く、小さな冬が、死が、空から舞い散る。

 禁忌を犯したものは罰を受ける

 これがその罰か、そう呟くようにアイオンも空を見上げる。灰色は渦巻きながら、大地に白を降らせる。まもなく大地は白く染まり上がるだろう。

 白い果て

 全てのものは、いずれ白き大地に抱かれる
 人も魔も、そして神さえも……その白き抱擁から逃れる術はないのだと

 「……アイオン、もしも……」
 ガーラが、意を決するようにして問いかける。
 けれども、アイオンはその先は言うなと、そっと手を差し出して制止する。
 「……俺たちは生き延びる、誰一人として死ぬことなく ……そうだろう」
 その言葉に、ガーラたちは頷く。
 ここで死ぬわけにはいかない。生きて、生きて、いつまでも共にあるのだと。だからこそ歩むのだ、冬の大地を、この北の大地を歩むのだ。

 たとえ冬が訪れようとも、我らは進むのだと、悲壮な決意を胸に……アイオンとガーラ、カルタ、そしてノチェは行く。
 祝福されぬ、神から見放されたこの道を……
21/08/15 22:10更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
読んでいただき、ありがとうございます。

毎度のこと長編なので読むのが大変かもしれませんが、皆様のひと時の楽しみになれたのならば幸いです。

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