仙石楼の危機
登場人物
ティエン
武の道を究めんと日々研鑽を……積もうとしている拳士。
しかしタオフーたちに毎日色々と絡まれ修行は進んでいない。
タオフー(桃虎)
雷爪のライフー……の妹、ということにしている人虎の魔物娘。
ティエンに求められるのが好き。
フオイン(火銀)
炎嵐のフオジンの妹……と最近本気で思い込み始めている火鼠の魔物娘。
ティエンに甘えるのが好き。
ヘイラン(黒蘭)
岩流のバイヘイの妹……を演じているレンシュンマオの魔物娘。
ティエンに尽くしてもらうのが好き。
ナオ(脳)
ヘイラン作“獣の脳の秘伝の薬味煮込み”が意思?を持ち動き出した料理。
ティエンのことが大好き。
第二記 仙石楼暗雲編
……幽玄なる大山脈が連なる霧の大陸、その一角に坐する大霊峰“天崙山”……
その中腹に仙石楼はあった。
かつて、この場所で数多の仙人とその弟子たちが修行していたという。だが、一人の仙人の堕落を端に発する大騒動ののち、仙人とその弟子たちは散り散りになり、仙石楼もまた捨て置かれることとなった。
そして廃墟となった仙石楼であったが、最近は様子が違っていた。少し前までは天崙山の中腹の主ともいえる魔獣ライフーの住処として誰も近寄らぬ地であったが、今は違う。何やらライフーが去り、その代わりに見目麗しい獣仙の天女が三人……人間の従僕を一人従えて暮らしているとも、いやいや男が仙人で獣たちを変化させて従え、奉仕させているのだとも、そんな噂が出てきていた。
噂とは不思議なもので、ほんのひとつまみでも真実が混じっていればさも全てがその通りのように聞こえるものであった。ただ、ライフーにとっては面白くのない話ではあったであろう。
まず、ライフーは去ってはいなかった。いなかったが……正体を偽っていた。後の世において、俗にいう“代替わり後”の世界、その節目にちょうど居合わせた魔物として己の体と精神に起きた大いなる変化を前に困惑していたライフーは、これまたたまたま“巡り合わせ悪く”宿敵たるティエンとの出会い頭の際に変化後の己を偽り“タオフー”として過ごす日々を選んでしまった。
それが結果としてバイヘイ、フオジンまでも巻き込み“三獣拳士の妹たち”としてティエンと共に仙石楼で過ごすという奇妙な日々へと繋がったのである。
そしていろいろなんやかんやあり……どうしてかティエンはタオフーら三獣拳士の爛れた日々を……艶やかな桃の花が咲き乱れるような……送ることになったのである。毎夜毎夜、かわるがわる見目麗しい仙女に求められるというのは霧の大陸にすむ男であれば必ず一度は思い描いたであろう桃源郷であり……ティエンは齢三十を目前にして、そんな男たちの夢を叶えていた。叶えていたが……まあ現実は往々にして空想夢想よりも厳しいものである。
実際のところ、楽しんでいるのは獣仙たるタオフーたちの方で、ティエンは貪られ喰われる獲物であり、淫魔に精を絞り取られる情夫の如く心身ともにぐったりしていた。
もちろん、天に上るような快楽と引き換えに、ではあるが。
そもそも天崙山にその名を轟かせる魔獣が変じたモノたちである。その体力は人間であるティエンとは比べるまでもなく、おまけに獣性故か性欲もまた尽きることなく、いかにして普段欲望を抑え込んでいるのかわからないほど強かった。それを人の身、それも一人で受けきるのは当然、無理があった。
だが、これも後の世になってわかることだが、一度“情を交わしてしまった”が最後、彼女たちが生涯のツガイとして認めるのはただ一人のみ。つまるところ、タオフーたちはずっと“タオフーのまま”となるし、それに伴いティエンの長い長い淫欲に満ちた苦難はまだまだ始まったばかりともいえたが、それは与り知らぬところであっただろう。
なんにせよ、それがいま仙石楼に住む者たちのざっくりとした真相であった。
はてさて、そんな仙石楼だったが……ちょっとした危機が訪れていた。
それは、ティエンにとってはいずれ来るものと分かり切っていたことであった。いや、それの訪れはまだ少し先だっただろう。しかし、もしも“今の生活を続ける”ならば……避けては通れない道であった。
それは……
「……調味料の備蓄が……もう、あまりない」
そう、厨房の調味料の備蓄であった。そうというのもここは遥かな山の上、料理を彩る香草だなんだの薬味はまだ何とか手に入ったが、基礎的な味付けを行う塩や酢、砂糖に醤油といった調味料だけはどうしても調達ができなかった。
もともと、多数の仙人とその弟子たちが過ごした場所である。当然調味料の備蓄も大量にあったが、如何せん長らく放置されていた場所である。調味料を保存していた大壺の容器はいくつか割れていたし、保存の状態が悪く使えなかったものもある。塩はまだまだ十分あったが、酢や砂糖、醤油の類はもう殆ど備蓄がなかった。
「ううむ」
どうしたものか……と、ティエンは厨房で一人……うにょうにょテケテケとご機嫌なナオが周りをうろつきながら……腕を組み頭を悩ませる。
本来の備蓄量からだいぶ少なかったとはいえ、まだまだ余裕があると思ったのもつかの間。性欲と同じくらい食欲も旺盛な三獣拳士の妹たちの口と胃袋によって、おそらく毎食十人分前後……もしかすればそれ以上……の食事が空になっていたのである。当然、それほどの量であれば食糧事情はずっと深刻になりえたが、そこは毎日タオフーたちが山菜や果実を採り、野獣を狩ってきてくれるおかげで自給自足に加え少し保存や備蓄に回せるだけの余裕があった。
もちろん、誇り高い三獣拳士がそうまでして協力的なのもひとえにティエンが作り出す料理を味わいたいがためであった。旨い料理を作る……それには、必然的に相応の量と種類の調味料も必要になってくる。
もちろん、名高き霊峰の天崙山と言えどもその周辺全域が全くの未開の地というわけではない。むしろ、霊峰として有名な分、ほかのちょっと有名な程度の山に比べずっと人が多いといえた。麓から中腹にかけては山賊やら隠者やら、仙人志望の修験者やらがうようよいることに加え、ティエンのように修行をしているものや、変わり種では魔物退治を生業にしているものもいた。また麓まで下りればそうした天崙山に上る連中相手に商売をするために発展したそれなりに大きい町もあるので、麓まで下りればむしろ調味料だなんだの調達はずっと楽といえたのである。
「……しかし……うむ……」
「テケリー!」
ティエンは悩んでいた。
そうというのも、ティエンは待ち人があった。正確にいうと、待ち獣人というべきかもしれないが。タオフーの兄……ということになっている……ライフーの帰還を、である。先の戦いの折、ライフーは勝負を預け、仙石楼にて決着をつけようと去っていった。その後、まさかライフーが理由はあれど失踪し、一晩のうちに行方不明となってしまって以降、ティエンはタオフーたちと過ごしながらライフーの帰還を待ち続けていたのである。
しかし、一向に戻る気配がないまま幾つかの月日が流れようとしていた。
その事実に、流石のティエンもいよいよおかしいと思い悩むようになる。
また、その気持ちを後押しするかのように天崙山周りの事情……異変もまたティエンの気持ちをざわつかせていた。それは、かつて見慣れた“魔物”の姿が消え、代わりに妖しく淫美な“淫魔”の類がどうもかなり目立つようになってきたということである。
淫魔……美しく淫らな魔性で、男女を問わず誘惑しその精を吸い尽くし死に至らしめるという危険な魔物。それがティエンの知る淫魔であった。故に幾度か調伏に出向くべきかと思い立ったこともあったが、では実戦とばかりに出陣するもののどこに行ってもなぜか淫魔はティエンを避けて姿を見せようとしない。それでは襲われているものを助けようとするも、襲われているものは皆吸い殺されそう……ではなく、どうもやたらと気力にみなぎり血色も良いばかりではなく幸せそうであった。念のためと声をかけても“大丈夫だから放っておいてくれ”と皆言うばかりで、あまつさえ淫魔がその身を挺してまで襲っていた男を守ろうとする様子であった。一部の淫魔は、人の身でありながら魔を討つだけの力を備えたティエンの武を見抜き、それに敵わないと知ってなおその身を震わせながらも襲っていた男を守らんと立ち塞がったのである。その姿を前に、流石のティエンも“厄害もたらすもの調伏すべし、討とう”とは思えず、ほうっておこうと立ち去るのであった。
そんなことばかりが、ここ最近の天崙山で起きていた。
もちろん、不殺を奉ずるティエンからしてみれば、ここ最近の魔物の変化……悪意ではなく、情をもっての存在、というのはありがたいことであった。少なくとも、無理に調伏せずとも話を聞いてくれるようになっただけでも、大きな変化といえた。それに、淫らすぎたが、天崙山の淫魔の姿はティエンの思い描く人魔共存の王道楽土にも近しかった。それを成すためにティエンは己の内に天すら調伏するだけの力が必要と思っていたが、もしも全ての地の魔物がこの天崙山のようになったのならば、武によって成す必要もないと考えていた。武をもって調伏せずとも、人と魔が共存できるのだから。
「テッテケテケテケ テケリー!」
うにょんと、ティエンの周りで変な踊りを踊り始めるナオを眺めつつ、しかしてとティエンは再び悩む。
(……それはそうとして、約定は約定……ううむ……しかしタオフーたちのため……味気のない料理というのはなんとも申し訳ない)
だが、それはそれ、これはこれである。ライフーとはここで待つとの約定を交わしている以上、できることならば入れ違いになるようなことは避けたかった。それに、ライフーが戻れば、少なくともティエンが打ち勝たぬ限りライフーは妹であるタオフーとの情は許さぬであろうことは想像に難くなかった。それはフオジン、バイヘイ両者にも言え、彼らが戻った暁には、武をもってフオイン、ヘイランとの情を勝ち取らねばならない。
そうした事情もあり、あまり深い仲になるのは憚られたのだが……もう十分すぎるほど深い仲にはなってしまっていた。色恋とは無縁であったティエンも、流石に気づいていた。タオフーの眼の奥には甘えるような親愛の情が光り、フオインもまた実の兄のようにティエンを深く慕い、ヘイランはやや控えめではあったがそれでも十分好意をもって接してくれている。
それもまた深い悩みをティエンに与えていた。果たして、己は……武の道、人の道、両道からして彼女らに相応しいのかと。欲に流されるままに体を許し、武をもってしてもタオフー、ヘイランの両者には敗北を喫している。フオインも習熟すればティエンを凌ぐ武を得ることだろう。そのようなことで果たして己は良いのだろうかと、悩む。
「どうしたのだ、ティエン」
「ピギー!」
厨房で腕を組み、仁王立ちのまま深刻な顔をしていたからであろうか、タオフーが少し心配気に声をかける。
「ああ、申し訳ない……実は、少し備蓄に不足が」
「む、何が足りない? 我がとってきてやろう」
「その、肉や野菜の類ではないので……調味料がないのです」
調味料と聞いて、タオフーは不思議そうな顔をする。
「調味料? なんだそれは?」
「料理に塩辛さや甘さといった味付けをするためのものです それがないと味がつかないので、どうしようかと」
いまいちピンとこないのか、難しそうな顔をするタオフーだったが、少なくともティエンの料理には必要なものだということは理解できた。
「むう……それはどこにある?」
「麓の町まで下りれば」
「町か……」
一つ奪いに行ってみるか。そうタオフーは考えるも、ティエンの顔を見て考えを改める。おそらく、この愚か者は奪い取ったと知ればタオフーに返すように告げるだろうし、押し付けても使わないだろうことは容易に想像できたからである。それならば、別の方法で手に入れるしかないが、あいにくとタオフーには奪う以外に人が作る物を手に入れる方法は知らなかった。
「なので、買いに行きたいのですが……ライフー殿との約定もある故、どうしようか悩んでいた次第です」
「ああ……ああ ライフー……兄上は……その、まだ戻らないと思うぞ あ〜……まだ、かかりそうだと連絡があった」
少しばかりばつの悪そうにタオフーが答える。実際のところ、元に戻れる気は全くしていなかったが、嘘をついている手前ライフーが“いる”ということにはしておかなければならなかった。
「なんと! それは何時!? 文ですか!?」
「うっ! いや、いや 違う あ〜……我が一族に伝わる〜……方法だ、人間には読めん! ……すまない」
思った以上に食いついてきたティエンに、タオフーは一瞬圧され、しどろもどろになりながらもさらに嘘を重ねてのらりくらりと躱す。はたから見れば怪しいことこの上なかったが、さしものティエンも幾度となく情と体を重ねた相手が……何夜も激しく、柔く甘えてきたのが……まさかの宿敵と……思うのは酷なことであっただろう。
「む、そうですか……なれば仕方ありません……」
思わしくないタオフーの返答に、落胆するティエン。しかし、すぐに気持ちを切り替えると再び先ほどの問題に向き合い始める。
「まあ一月二月は戻らんだろうからな その、町とやらに行ってはどうだ? 調味料とやらがないと困るのだろう?」
「しかし……」
「我としてもティエンの料理が味わえないのは困るのだ ダメか?」
「う、う〜ん わかりました、少しばかり留守にするので……もしもライフー殿が戻られましたら、すぐにティエンは戻るとお伝えください」
すんとした、タオフーの表情に押されティエンは決断する。
その言葉にタオフーはそうかそうかといった感じでぱっと花を咲かせる……が、肝心なことにタオフーは気づいていなかった。
すなわち、ティエンが留守の間……誰が食事を作るのか、という問題について。
……「それでは行ってまいります 申し訳ありませんが、留守は頼みますよ」
思い立ったが吉日、そうといわんばかりにティエンは荷物をまとめ、仙石楼から金子を幾ばくか拝借して山を下りると皆に告げて門に立つ。
当然、タオフー以外経緯を知る由もないヘイラン、フオイン両名、ならびに粘性のナオは突然の宣言に面を食らった様子であった。
“山を下ります”
そう軽くティエンが告げた瞬間、ヘイランはたまたま口に含んでいたお茶を噴き出し、演武をしていたフオインは衝撃のあまり奇妙な体勢のまま固まり、暫く動かなくなってしまった。ナオは意味がわからないのか変わらずウニョウニョしていた。
それからは大変であった。特にフオインが。
“捨てるのか!? 俺を捨てるのか!!”
と、烈火のごとく泣き出し、挙句の果てにティエンにひしとしがみ付き“捨てるならこのまま一緒に焼け死んでやる!!”とまでのたまう始末であった。ヘイランはヘイランで神妙な顔つきのままティエンを拘束しようと動き、ナオはウニョウニョしていた。
暫く、騒ぎ立てるフオイン、そして恐ろしい怪力と速さで迫りくるヘイランに説明して説得と納得をさせたのはティエンが山を下りると伝えてから数刻ほど経ってからようやくのことであった。
ただ少しの間買い物をするために町に戻るだけ、ヘイランは承諾したがフオインは理解をしても駄々をこねるように“俺も一緒に行きたい”と言い募るのであった。しかし、ティエンが向かうのは人の領域である。いくらフオイン含め、タオフー、ヘイランがかなり人に近しい、それも美女の類だったとしてもやはり隠しようのない魔の部分が見えてしまっている以上、騒ぎになってしまう可能性が高く連れて行くのは難しいことであった。それにおそらく、フオインの同行を許せばタオフー、ヘイラン両名も“ならば我らも”となるのは自明の理であった。
故に何とかフオインを説得……最後はヘイランが引き剥がす形で……することでティエンはようやく出立のための準備へと取り掛かったのである。そこに至り、ようやくナオは主人がどっかに出かけようとしていることに気が付き、いそいそと荷物の中に紛れ込もうとするもこれまたヘイランに捕まり、普段寝床にしている小鍋の中に封印される。そのままがたがたピギピギと跳ね回る鍋に何となく後ろ髪をひかれながらもティエンは荷支度を終え、ようやく門の前に立った次第であった。
門の前には仁王立ちのタオフー、その横に嗚呼無常といわんばかりに不満げなフオイン、にこにことしているが威圧感を放つヘイラン三名が並び立ち、ティエンの出立を見送ろうとしていた。
「絶対だぞ……絶対戻ってきてくれよ!」
「……なるべく早く戻るように」
「信じていますけど……早くお戻りになってね?」
三者三様、態度は違えど同じはティエンの戻りを待ちわびるということであった。元々が傍若無人、強欲で鳴らした者たちである、一度口にした獲物を逃す機会を与えるということ自体慣れたものではない。それにやはりなんだかんだこの三体が纏まっていられるのはひとえにティエンの存在がそれだけ大きいことを示していた。
「申し訳ない、急ぎますゆえどうかお許しを ……それと自分がいない間の食事ですが、本当に大丈夫ですか?」
「くどい、何度も言うが我らとてこの天崙山で長く過ごした身 食事の一つや二つ、用意できる」
「……兄ちゃん、本当に、本当に早く戻ってきてくれよ……」
「ああ、その 少しではありますが、厨房に作り置きの汁があるのと 食糧庫のほうにもいくつか糧食がありますので、必要ならばお食べになってください」
自信満々……にというわけではないが、なんとかなる、しようと意気込むタオフーにとは対照的に、ヘイランとの日々を過ごしたフオインは露骨に警戒心を露わにしており、ティエンにどうか早く戻ってきてくれと懇願するようであった。
「それでは、行ってまいります」
フオインの泣き顔に後ろ髪をひかれつつも何はともあれ、出立せねばとティエンは礼をすると仙石楼の門を後にする。その後ろでは獣仙たちが、さっそく名残惜し気を通り越し後悔を滲ませた表情で愛する従僕の旅立ちを恨めしく思うのであった。
……しかし、まだこの時彼らは気づいていなかった……
……本当の危機がすぐそこにまで迫っているということに……
ティエン
武の道を究めんと日々研鑽を……積もうとしている拳士。
しかしタオフーたちに毎日色々と絡まれ修行は進んでいない。
タオフー(桃虎)
雷爪のライフー……の妹、ということにしている人虎の魔物娘。
ティエンに求められるのが好き。
フオイン(火銀)
炎嵐のフオジンの妹……と最近本気で思い込み始めている火鼠の魔物娘。
ティエンに甘えるのが好き。
ヘイラン(黒蘭)
岩流のバイヘイの妹……を演じているレンシュンマオの魔物娘。
ティエンに尽くしてもらうのが好き。
ナオ(脳)
ヘイラン作“獣の脳の秘伝の薬味煮込み”が意思?を持ち動き出した料理。
ティエンのことが大好き。
第二記 仙石楼暗雲編
……幽玄なる大山脈が連なる霧の大陸、その一角に坐する大霊峰“天崙山”……
その中腹に仙石楼はあった。
かつて、この場所で数多の仙人とその弟子たちが修行していたという。だが、一人の仙人の堕落を端に発する大騒動ののち、仙人とその弟子たちは散り散りになり、仙石楼もまた捨て置かれることとなった。
そして廃墟となった仙石楼であったが、最近は様子が違っていた。少し前までは天崙山の中腹の主ともいえる魔獣ライフーの住処として誰も近寄らぬ地であったが、今は違う。何やらライフーが去り、その代わりに見目麗しい獣仙の天女が三人……人間の従僕を一人従えて暮らしているとも、いやいや男が仙人で獣たちを変化させて従え、奉仕させているのだとも、そんな噂が出てきていた。
噂とは不思議なもので、ほんのひとつまみでも真実が混じっていればさも全てがその通りのように聞こえるものであった。ただ、ライフーにとっては面白くのない話ではあったであろう。
まず、ライフーは去ってはいなかった。いなかったが……正体を偽っていた。後の世において、俗にいう“代替わり後”の世界、その節目にちょうど居合わせた魔物として己の体と精神に起きた大いなる変化を前に困惑していたライフーは、これまたたまたま“巡り合わせ悪く”宿敵たるティエンとの出会い頭の際に変化後の己を偽り“タオフー”として過ごす日々を選んでしまった。
それが結果としてバイヘイ、フオジンまでも巻き込み“三獣拳士の妹たち”としてティエンと共に仙石楼で過ごすという奇妙な日々へと繋がったのである。
そしていろいろなんやかんやあり……どうしてかティエンはタオフーら三獣拳士の爛れた日々を……艶やかな桃の花が咲き乱れるような……送ることになったのである。毎夜毎夜、かわるがわる見目麗しい仙女に求められるというのは霧の大陸にすむ男であれば必ず一度は思い描いたであろう桃源郷であり……ティエンは齢三十を目前にして、そんな男たちの夢を叶えていた。叶えていたが……まあ現実は往々にして空想夢想よりも厳しいものである。
実際のところ、楽しんでいるのは獣仙たるタオフーたちの方で、ティエンは貪られ喰われる獲物であり、淫魔に精を絞り取られる情夫の如く心身ともにぐったりしていた。
もちろん、天に上るような快楽と引き換えに、ではあるが。
そもそも天崙山にその名を轟かせる魔獣が変じたモノたちである。その体力は人間であるティエンとは比べるまでもなく、おまけに獣性故か性欲もまた尽きることなく、いかにして普段欲望を抑え込んでいるのかわからないほど強かった。それを人の身、それも一人で受けきるのは当然、無理があった。
だが、これも後の世になってわかることだが、一度“情を交わしてしまった”が最後、彼女たちが生涯のツガイとして認めるのはただ一人のみ。つまるところ、タオフーたちはずっと“タオフーのまま”となるし、それに伴いティエンの長い長い淫欲に満ちた苦難はまだまだ始まったばかりともいえたが、それは与り知らぬところであっただろう。
なんにせよ、それがいま仙石楼に住む者たちのざっくりとした真相であった。
はてさて、そんな仙石楼だったが……ちょっとした危機が訪れていた。
それは、ティエンにとってはいずれ来るものと分かり切っていたことであった。いや、それの訪れはまだ少し先だっただろう。しかし、もしも“今の生活を続ける”ならば……避けては通れない道であった。
それは……
「……調味料の備蓄が……もう、あまりない」
そう、厨房の調味料の備蓄であった。そうというのもここは遥かな山の上、料理を彩る香草だなんだの薬味はまだ何とか手に入ったが、基礎的な味付けを行う塩や酢、砂糖に醤油といった調味料だけはどうしても調達ができなかった。
もともと、多数の仙人とその弟子たちが過ごした場所である。当然調味料の備蓄も大量にあったが、如何せん長らく放置されていた場所である。調味料を保存していた大壺の容器はいくつか割れていたし、保存の状態が悪く使えなかったものもある。塩はまだまだ十分あったが、酢や砂糖、醤油の類はもう殆ど備蓄がなかった。
「ううむ」
どうしたものか……と、ティエンは厨房で一人……うにょうにょテケテケとご機嫌なナオが周りをうろつきながら……腕を組み頭を悩ませる。
本来の備蓄量からだいぶ少なかったとはいえ、まだまだ余裕があると思ったのもつかの間。性欲と同じくらい食欲も旺盛な三獣拳士の妹たちの口と胃袋によって、おそらく毎食十人分前後……もしかすればそれ以上……の食事が空になっていたのである。当然、それほどの量であれば食糧事情はずっと深刻になりえたが、そこは毎日タオフーたちが山菜や果実を採り、野獣を狩ってきてくれるおかげで自給自足に加え少し保存や備蓄に回せるだけの余裕があった。
もちろん、誇り高い三獣拳士がそうまでして協力的なのもひとえにティエンが作り出す料理を味わいたいがためであった。旨い料理を作る……それには、必然的に相応の量と種類の調味料も必要になってくる。
もちろん、名高き霊峰の天崙山と言えどもその周辺全域が全くの未開の地というわけではない。むしろ、霊峰として有名な分、ほかのちょっと有名な程度の山に比べずっと人が多いといえた。麓から中腹にかけては山賊やら隠者やら、仙人志望の修験者やらがうようよいることに加え、ティエンのように修行をしているものや、変わり種では魔物退治を生業にしているものもいた。また麓まで下りればそうした天崙山に上る連中相手に商売をするために発展したそれなりに大きい町もあるので、麓まで下りればむしろ調味料だなんだの調達はずっと楽といえたのである。
「……しかし……うむ……」
「テケリー!」
ティエンは悩んでいた。
そうというのも、ティエンは待ち人があった。正確にいうと、待ち獣人というべきかもしれないが。タオフーの兄……ということになっている……ライフーの帰還を、である。先の戦いの折、ライフーは勝負を預け、仙石楼にて決着をつけようと去っていった。その後、まさかライフーが理由はあれど失踪し、一晩のうちに行方不明となってしまって以降、ティエンはタオフーたちと過ごしながらライフーの帰還を待ち続けていたのである。
しかし、一向に戻る気配がないまま幾つかの月日が流れようとしていた。
その事実に、流石のティエンもいよいよおかしいと思い悩むようになる。
また、その気持ちを後押しするかのように天崙山周りの事情……異変もまたティエンの気持ちをざわつかせていた。それは、かつて見慣れた“魔物”の姿が消え、代わりに妖しく淫美な“淫魔”の類がどうもかなり目立つようになってきたということである。
淫魔……美しく淫らな魔性で、男女を問わず誘惑しその精を吸い尽くし死に至らしめるという危険な魔物。それがティエンの知る淫魔であった。故に幾度か調伏に出向くべきかと思い立ったこともあったが、では実戦とばかりに出陣するもののどこに行ってもなぜか淫魔はティエンを避けて姿を見せようとしない。それでは襲われているものを助けようとするも、襲われているものは皆吸い殺されそう……ではなく、どうもやたらと気力にみなぎり血色も良いばかりではなく幸せそうであった。念のためと声をかけても“大丈夫だから放っておいてくれ”と皆言うばかりで、あまつさえ淫魔がその身を挺してまで襲っていた男を守ろうとする様子であった。一部の淫魔は、人の身でありながら魔を討つだけの力を備えたティエンの武を見抜き、それに敵わないと知ってなおその身を震わせながらも襲っていた男を守らんと立ち塞がったのである。その姿を前に、流石のティエンも“厄害もたらすもの調伏すべし、討とう”とは思えず、ほうっておこうと立ち去るのであった。
そんなことばかりが、ここ最近の天崙山で起きていた。
もちろん、不殺を奉ずるティエンからしてみれば、ここ最近の魔物の変化……悪意ではなく、情をもっての存在、というのはありがたいことであった。少なくとも、無理に調伏せずとも話を聞いてくれるようになっただけでも、大きな変化といえた。それに、淫らすぎたが、天崙山の淫魔の姿はティエンの思い描く人魔共存の王道楽土にも近しかった。それを成すためにティエンは己の内に天すら調伏するだけの力が必要と思っていたが、もしも全ての地の魔物がこの天崙山のようになったのならば、武によって成す必要もないと考えていた。武をもって調伏せずとも、人と魔が共存できるのだから。
「テッテケテケテケ テケリー!」
うにょんと、ティエンの周りで変な踊りを踊り始めるナオを眺めつつ、しかしてとティエンは再び悩む。
(……それはそうとして、約定は約定……ううむ……しかしタオフーたちのため……味気のない料理というのはなんとも申し訳ない)
だが、それはそれ、これはこれである。ライフーとはここで待つとの約定を交わしている以上、できることならば入れ違いになるようなことは避けたかった。それに、ライフーが戻れば、少なくともティエンが打ち勝たぬ限りライフーは妹であるタオフーとの情は許さぬであろうことは想像に難くなかった。それはフオジン、バイヘイ両者にも言え、彼らが戻った暁には、武をもってフオイン、ヘイランとの情を勝ち取らねばならない。
そうした事情もあり、あまり深い仲になるのは憚られたのだが……もう十分すぎるほど深い仲にはなってしまっていた。色恋とは無縁であったティエンも、流石に気づいていた。タオフーの眼の奥には甘えるような親愛の情が光り、フオインもまた実の兄のようにティエンを深く慕い、ヘイランはやや控えめではあったがそれでも十分好意をもって接してくれている。
それもまた深い悩みをティエンに与えていた。果たして、己は……武の道、人の道、両道からして彼女らに相応しいのかと。欲に流されるままに体を許し、武をもってしてもタオフー、ヘイランの両者には敗北を喫している。フオインも習熟すればティエンを凌ぐ武を得ることだろう。そのようなことで果たして己は良いのだろうかと、悩む。
「どうしたのだ、ティエン」
「ピギー!」
厨房で腕を組み、仁王立ちのまま深刻な顔をしていたからであろうか、タオフーが少し心配気に声をかける。
「ああ、申し訳ない……実は、少し備蓄に不足が」
「む、何が足りない? 我がとってきてやろう」
「その、肉や野菜の類ではないので……調味料がないのです」
調味料と聞いて、タオフーは不思議そうな顔をする。
「調味料? なんだそれは?」
「料理に塩辛さや甘さといった味付けをするためのものです それがないと味がつかないので、どうしようかと」
いまいちピンとこないのか、難しそうな顔をするタオフーだったが、少なくともティエンの料理には必要なものだということは理解できた。
「むう……それはどこにある?」
「麓の町まで下りれば」
「町か……」
一つ奪いに行ってみるか。そうタオフーは考えるも、ティエンの顔を見て考えを改める。おそらく、この愚か者は奪い取ったと知ればタオフーに返すように告げるだろうし、押し付けても使わないだろうことは容易に想像できたからである。それならば、別の方法で手に入れるしかないが、あいにくとタオフーには奪う以外に人が作る物を手に入れる方法は知らなかった。
「なので、買いに行きたいのですが……ライフー殿との約定もある故、どうしようか悩んでいた次第です」
「ああ……ああ ライフー……兄上は……その、まだ戻らないと思うぞ あ〜……まだ、かかりそうだと連絡があった」
少しばかりばつの悪そうにタオフーが答える。実際のところ、元に戻れる気は全くしていなかったが、嘘をついている手前ライフーが“いる”ということにはしておかなければならなかった。
「なんと! それは何時!? 文ですか!?」
「うっ! いや、いや 違う あ〜……我が一族に伝わる〜……方法だ、人間には読めん! ……すまない」
思った以上に食いついてきたティエンに、タオフーは一瞬圧され、しどろもどろになりながらもさらに嘘を重ねてのらりくらりと躱す。はたから見れば怪しいことこの上なかったが、さしものティエンも幾度となく情と体を重ねた相手が……何夜も激しく、柔く甘えてきたのが……まさかの宿敵と……思うのは酷なことであっただろう。
「む、そうですか……なれば仕方ありません……」
思わしくないタオフーの返答に、落胆するティエン。しかし、すぐに気持ちを切り替えると再び先ほどの問題に向き合い始める。
「まあ一月二月は戻らんだろうからな その、町とやらに行ってはどうだ? 調味料とやらがないと困るのだろう?」
「しかし……」
「我としてもティエンの料理が味わえないのは困るのだ ダメか?」
「う、う〜ん わかりました、少しばかり留守にするので……もしもライフー殿が戻られましたら、すぐにティエンは戻るとお伝えください」
すんとした、タオフーの表情に押されティエンは決断する。
その言葉にタオフーはそうかそうかといった感じでぱっと花を咲かせる……が、肝心なことにタオフーは気づいていなかった。
すなわち、ティエンが留守の間……誰が食事を作るのか、という問題について。
……「それでは行ってまいります 申し訳ありませんが、留守は頼みますよ」
思い立ったが吉日、そうといわんばかりにティエンは荷物をまとめ、仙石楼から金子を幾ばくか拝借して山を下りると皆に告げて門に立つ。
当然、タオフー以外経緯を知る由もないヘイラン、フオイン両名、ならびに粘性のナオは突然の宣言に面を食らった様子であった。
“山を下ります”
そう軽くティエンが告げた瞬間、ヘイランはたまたま口に含んでいたお茶を噴き出し、演武をしていたフオインは衝撃のあまり奇妙な体勢のまま固まり、暫く動かなくなってしまった。ナオは意味がわからないのか変わらずウニョウニョしていた。
それからは大変であった。特にフオインが。
“捨てるのか!? 俺を捨てるのか!!”
と、烈火のごとく泣き出し、挙句の果てにティエンにひしとしがみ付き“捨てるならこのまま一緒に焼け死んでやる!!”とまでのたまう始末であった。ヘイランはヘイランで神妙な顔つきのままティエンを拘束しようと動き、ナオはウニョウニョしていた。
暫く、騒ぎ立てるフオイン、そして恐ろしい怪力と速さで迫りくるヘイランに説明して説得と納得をさせたのはティエンが山を下りると伝えてから数刻ほど経ってからようやくのことであった。
ただ少しの間買い物をするために町に戻るだけ、ヘイランは承諾したがフオインは理解をしても駄々をこねるように“俺も一緒に行きたい”と言い募るのであった。しかし、ティエンが向かうのは人の領域である。いくらフオイン含め、タオフー、ヘイランがかなり人に近しい、それも美女の類だったとしてもやはり隠しようのない魔の部分が見えてしまっている以上、騒ぎになってしまう可能性が高く連れて行くのは難しいことであった。それにおそらく、フオインの同行を許せばタオフー、ヘイラン両名も“ならば我らも”となるのは自明の理であった。
故に何とかフオインを説得……最後はヘイランが引き剥がす形で……することでティエンはようやく出立のための準備へと取り掛かったのである。そこに至り、ようやくナオは主人がどっかに出かけようとしていることに気が付き、いそいそと荷物の中に紛れ込もうとするもこれまたヘイランに捕まり、普段寝床にしている小鍋の中に封印される。そのままがたがたピギピギと跳ね回る鍋に何となく後ろ髪をひかれながらもティエンは荷支度を終え、ようやく門の前に立った次第であった。
門の前には仁王立ちのタオフー、その横に嗚呼無常といわんばかりに不満げなフオイン、にこにことしているが威圧感を放つヘイラン三名が並び立ち、ティエンの出立を見送ろうとしていた。
「絶対だぞ……絶対戻ってきてくれよ!」
「……なるべく早く戻るように」
「信じていますけど……早くお戻りになってね?」
三者三様、態度は違えど同じはティエンの戻りを待ちわびるということであった。元々が傍若無人、強欲で鳴らした者たちである、一度口にした獲物を逃す機会を与えるということ自体慣れたものではない。それにやはりなんだかんだこの三体が纏まっていられるのはひとえにティエンの存在がそれだけ大きいことを示していた。
「申し訳ない、急ぎますゆえどうかお許しを ……それと自分がいない間の食事ですが、本当に大丈夫ですか?」
「くどい、何度も言うが我らとてこの天崙山で長く過ごした身 食事の一つや二つ、用意できる」
「……兄ちゃん、本当に、本当に早く戻ってきてくれよ……」
「ああ、その 少しではありますが、厨房に作り置きの汁があるのと 食糧庫のほうにもいくつか糧食がありますので、必要ならばお食べになってください」
自信満々……にというわけではないが、なんとかなる、しようと意気込むタオフーにとは対照的に、ヘイランとの日々を過ごしたフオインは露骨に警戒心を露わにしており、ティエンにどうか早く戻ってきてくれと懇願するようであった。
「それでは、行ってまいります」
フオインの泣き顔に後ろ髪をひかれつつも何はともあれ、出立せねばとティエンは礼をすると仙石楼の門を後にする。その後ろでは獣仙たちが、さっそく名残惜し気を通り越し後悔を滲ませた表情で愛する従僕の旅立ちを恨めしく思うのであった。
……しかし、まだこの時彼らは気づいていなかった……
……本当の危機がすぐそこにまで迫っているということに……
24/01/04 15:40更新 / 御茶梟
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