アッサム
……それは、だいたい一年前くらいの、雪の降っていた日のことだった。
寒い寒いと思いながらも、いつものように、僕は開店準備をマスターと一緒に始めていて、テーブルを拭こうとしていた。
「……いや、やっぱり寒い。マスター！ストーブつけていいですか〜!?」
「……ああ！部屋温めとけ!!」
どうやら厨房にいたマスターも寒いと感じたらしく、あっさりと許可をもらえた。
僕の世界とは違って、魔力によって起動するストーブに点火しながら、僕は窓から外を見る。
窓の向こうでは、真っ白な、大きな結晶がしんしんと降っていた。
……雪かぁ、どうりで寒いわけだ。
しかもこれ、積もるタイプの雪じゃん……
てか、もう積もりかけてるし……
あー、明日止んだら屋根の雪かきとかしないとなぁ……
じんわりと暖かくなってくる部屋で、そんなことを考えていると……
……とさっ……
「……ん？」
まるで何か重いものを布団の上に落としたかのような音を、僕は聞いた。
店内を見回してみるけど、何か落ちた様子はない。
カウンター裏なんかも確認してみる。……異常なし。
そしたら二階かな、と思ったけど、それはないと思った。
そもそも、音の発生源が違う方向だったからだ。
となると……外かな？
そう思って、僕は扉を開けて、少しだけ周りを見渡してみる。
……そして扉のすぐ目の前で、女性が倒れているのを発見した。
「あー、これはマズいな……」
服はボロボロで薄いし、体もそこかしこに軽い打撲跡や切り傷なんかもある。
まぁ、十中八九、どこかから逃げてきたんだろうな……
ともかく、このままだと、凍傷になったりして危険だ。
そう思い、僕は倒れた女性を抱えて店のなかに運び、ストーブの前に横たえる。
「マスター！大変です！女性が倒れてました〜!!」
「なんだ……？ふむ、わかった、じゃあちょっとこっちに持ってこい。ストーブもだ。……少し厄介なことになるぞ……」
「あ、はい。わかりました」
厨房から出てきて、女性の様子を見たマスターは、すぐに指示を出してきて、僕はそれに従う。
まずは女性から奥の厨房へ運び、椅子を組み合わせて簡易ベットのようにして、そこに寝かせる。
次に、折角暖まったストーブを一旦消してから、厨房に運び、また点ける。
そして、嫌な予感がした為、念の為の準備をしておく。
部屋に戻り、ある本を取り出して持っていく。
……“メモ”は……まぁ、下に降りて時間があったらだな。
「……ってるんだ」
「……らんと言ってるだろうが」
下に降りると、店の方からなにやら声が聞こえてきた。
片方は、聞き覚えのない、冷めたような男の声。
それに答えているもう片方は、マスターの声だ。
「マスター、どうかしたんで……って、誰ですか、その人達は？」
店の方へ向かうと、店の扉付近で、大柄な男が二人、マスターと話しているところだった。
「ああ、なんでも人探しをしているようだが、星村、お前誰か見たか？」
「……いいえ？誰も見てませんが……」
人探し。
そう聞いて、僕は真っ先に彼女のことを思い浮かべた。
なので、僕は自然に嘘をつく。
彼女のあの様子に、この男達の風貌……
黒い帽子に、顔が隠れる程襟を高くしてあるコート。
どう見たって、まともなやつじゃあない。
マスターの言っていた厄介なことの意味をやっと理解し、僕は本を少し開いて“使って”おき、すぐに床においておく。
「……嘘をつくな。店の前に倒れた跡があった。この店以外あいつのいる場所はいない！」
「……だから、知らんものは知らんと言ってるだろう……」
「まったく、強情なやつだ……」
そう言って、二人はポケットから黒光りする鉄塊を取り出してきた。
「っ!?」
「……なんだ、これは……？」
「……まさか、この世界にもうコレがあるなんてね……!?」
「……ほう、これがなにか知ってるのか」
英語では、ピストル。日本語では、拳銃。
それを、この男達は手に持ち、銃口をこちらに向けてきた。
……まさか、魔法特化のこの世界で、こんなものを見るなんてね……
「……ならば話は早い。死にたくなければ、あいつを寄越せ。あいつは……大切な“商品”だ」
商品……なるほど、奴隷商か……
拳銃を突きつけられながらも、僕は冷静に思考する。
相手は男二人。
身長は……僕よりちょっと高いくらいかな？
拳銃を突きつけられてるから、下手には動けない。
でも、様子を見るとあんまし使い慣れてない感はある。
まぁ、素人目だから確証はないけど……
となると、動いたら二人ともその動いた方に拳銃を向けると思う。
幸い、マスターはあれがなんだかわからないけど、死にたくなければ、と聞いてから警戒して動かないでいてくれる。
そしたら、あとはどうするか……
なんというか、備えあれば憂いなしというけど、本当そうだなぁ、って痛感するね。
準備のおかげで、なんとでもなるんだから。
あとは、一番いい方法を思いつくだけなんだけど……
やっぱ、気絶させた方がいいよなぁ。
でも、僕は喧嘩は出来ても、こんな命のやりとりは出来ないし……
…………あ、そうだ！
思いついた瞬間、僕は動き出していた。
「……!!お前、何をす……ガァッ!?」
「グッ!?」
突然大きな動きを見せたため、男達が銃口をこちらに向けてきたが、次の瞬間には、バチッ！という音が二つ鳴り、その後に、二人とも、拳銃を手から落とし、そして、自らもバタンッ！と大きな音を立てて倒れた。
「ふぅ、よかった、成功した……ああ！怖かったぁぁぁ……痛っ!?」
「……おっかないのはお前だ……いったい、何をしたんだ？」
成功したのを確認した後、僕はヘナヘナ床に座り込み、そしてマスターの拳骨を食らった。
「痛たた……うーん、なんというか、珍しい技術には珍しい技術をってやつですかね？」
そういいながら、僕は両手に持ってる拳銃とは違った、黒いモノをマスターに見せる。
「……なんだそれは？さっきまで持ってなかったよな？」
「これはスタンガンって言って、まぁ、なんというか相手の意識を奪う武器ですよ。いつだしたのかは、まぁ、訊かないでください。ただくだらない術を使っただけですから」
痛つつつ……と頭痛と拳骨の痛みに顔をしかめながら、僕は本を拾って立ち上がる。
「とりあえず、この二人を連れて自警団の方に行ってきますね。ええと、ロープとかどこでしたっけ？」
「いや、それは俺がやる」
さてと、とロープを探し始める前に、マスターが止める。
珍しいな、マスターが店のこと以外を自分からやろうとするなんて……
「それよりお前は、あいつをなんとかしろ……」
……そうだった。安心してすっかり忘れてた。
そうだよ。彼女、いったいどうしよう……
「……とりあえず、領主にあいつのことを話してみる。それまで、あいつの相手を頼む」
「……わかりました」
簡単に男達を縛り、運びやすく荷台に乗せ、マスターはコートを羽織って外に出た。
そういえば、マスターは人と話すのは苦手なんだよな……
とりあえず、僕は厨房の方へ向かい、彼女の様子を見る。
まだ寝てるようだ。うーん、ここは自然に起きるのを待った方がいいよなぁ……
と言っても、やることは今のところ特にない。
とりあえず、彼女のことを見てみることにした。
うーん、年は同じくらいだろうか……？
服はボロボロで、体にはあちこち傷がある……が、元々の容姿はよかったようで、綺麗な顔立ちや、体つきをしている。
……いや、それもある意味では当たり前か。
僕は彼女のある部分を見て、その理由を悟る。
彼女の頭の辺りに、狐のようなとがった耳がある。
……魔物娘。
つまりは、そういうことだ。
よく見ると、尻尾もある。なんで運んだ時に気がつかなかったのだろうか……
……にしても、“似てる”……
髪の色なんかは違うけど、この顔は、やっぱり……
「……ぅ……ん……？」
じぃっと見ているうちに、ピクリと瞼が動き、彼女が起き出した。
「ああ、起きた？」
「あっ……ヒッ!?」
そして、近くに僕の姿があると認識すると、小さな悲鳴をあげ、後ろに下がろうとしたのか、ガタンッ！と大きな音を立てて床におちてしまった。
「あっ!?大丈夫!?」
「や……やだ……！やめ……こないで……！」
助け起こそうと近づくが、彼女は怯えた様子で部屋の隅の方へ這いずって移動し、縮こまり、そして、震えながら、必死に、来ないで、と言い続ける。
……仕方がないか。たぶん、奴隷商に連れ去られて、ろくな扱いも受けないで、逃げ出してきたんだろうからな……
……人っていうのは、怖いよな。こんなに簡単に、人に恐怖を植え付けるんだから。
……でも、その恐怖を取り除けるのも、人か……
そんなことを考えながら、僕は彼女の近くに寄り、頭に手を置く。
「ひぅっ!?」
「……大丈夫だよ。僕は君に怖いことは何もしないから。怯えないで」
手を乗せた瞬間、彼女はビクッと体を強張らせたが、僕は安心させるように、彼女の頭を優しくなで始める。
しばらくなで続けていると、危害を加えないとわかったのか、少しずつ、顔を上げて僕の顔を見てきた。
「大丈夫だよ。安心して」
僕は言うが、彼女の顔は、未だに怯えたままで、今にも泣きそうだ。
でも、まだ安心出来なくて、泣くことも出来ない。
……なら……
「……ちょっと、ごめんね……」
「あっ……!?」
スッ、と両腕を彼女の背中に回して、抱きしめる。
彼女の体は、カタカタと、小刻みに震えている。
なにかされるのではないかと、不安になったのだろう。
だから僕は、彼女が安心出来るように、そっと言う。
「大丈夫。ここなら、安全だから。僕しかいないから。なにも襲って来ないから。だから、安心して……泣いても、いいんだよ……」
「……ふ……ぐ……ヒクッ……う……うぅぅぅ……こあ……こわかっ……うぐ……」
「うんうん、怖かったか。大丈夫。もう、大丈夫だよ……」
静かに、しかし、関が切れたように、彼女は泣き出す。
そんな彼女の背中を、僕は優しく叩く。
キュッ、と僕の背中に彼女の腕が回る。
大丈夫だよ。大丈夫だよ。
泣いている彼女に、僕は、ずっとそう言い続けたのだった。
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「普通の風邪でよかったね」
「そうだね。まぁでも明日までは安静にしなさいって言われちゃったけど」
医者に見てもらい、普通の風邪であると診断され、僕は念の為の風邪薬を少しもらい、明日までの安静を言い渡された。
「仕方がないわよ。医者に言われたんだし、ちゃんと明日まではおとなしくするのよ？……さてと、じゃあ私は出かけるわよ？……そろそろ店を開けないと、薬が腐っちゃいそうだし……」
「あ、はい。つき合わせてしまってすみませんでした、リースさん」
「いいわよ。同じ家に住んでいるのだもの、このくらいは当然よ。じゃあ、安静にしてなさいよ？」
「あははは……何度も言わなくてもわかってますよ」
何度も注意しながら、リースさんは部屋を出ていった。
まったく、心配性のお母さんみたいだよねぇ、と言いながら、僕は美核に言いながら苦笑いをする。
美核も、だねぇ、と共感しながらクスクスと笑う。
だが……
「「………………」」
やはり、会話がなくなった途端、気まずい空気になる。
うーん、やっぱり僕も美核も、急に二人きりになっちゃうと耐えられないかぁ……
「えと……じゃあ、私もいろいろと片付けちゃわなきゃいけないから、部屋にいないけど、無理して歩き回ったりしないでよ？」
「え……？あ、ああ、うん。わかってるよ」
美核が突然言ってきて、え？もうちょっと二人きりで……なんて、何も話せないくせに名残惜しく思いながらも、僕は答える。
そして、美核も部屋を出て、残ったのは氷枕に頭を乗せて寝ている僕だけ。
「…………はぁ、寝よ……」
一人で起きていてもしょうがない。
たぶん、夕飯には美核が起こしてくれるだろう。
なるべく寝てちゃんと体調を元に戻さなきゃ、などと考えて、僕は眠りにつくのだった。
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「はい。寒いでしょ？ココア作っておいたよ」
「……ぁりがとぅ」
「うん。どういたしまして」
泣き止んだ後、僕は、外にいたし、傷が化膿でもしたら大変だと思い、彼女に風呂に入ってもらってから、傷の手当てして、暖かい飲み物を出した。
僕の隣で、コクコク……と、少しずつ、彼女はココアを飲む。
「……美味しい……」
「うん、それはよかった。……さて、いろいろと訊きたいんだけど、いいかな？」
落ち着いてきたし、そろそろいいだろうと思い、訊くと、彼女はコクリ、と小さく頷いた。
「えーと、まずは……名前は？」
「名前……ない。ただ、イナリって呼ばれてた……」
……イナリ……稲荷か。
ただ種族名だけで呼ばれていたのか……
いやにしても……
「元の名前とか、ないの？さらわれたにしても、そういうのは、あるはずなんだけど……」
「ううん。気づいた時には、もうイナリって。そう呼ばれて、暗い部屋に……」
「あ……大丈夫かい？無理なら、話さなくても……」
「……大丈夫」
嫌な記憶がまた浮かんできたんだろう。また、彼女は泣き出しそうになる。
やっぱり、過去を詮索するような質問は、するべきじゃなかったかな……
しかし、彼女の説明から考えると、彼女、物心がつく前から、さらわれたんだよな……
そしたら、どうやって言語を……
……いや、ここは詮索するべきじゃないな。
さて、あとは……
何を訊こうか考えていると、ドアのベルが鳴り、誰か……まぁ、十中八九マスターが来たことを伝えた。
タッ、タッ、タッ、タッ、とゆっくり歩く音が少し聞こえたあと、マスターがここに入ってきた。
「……帰ったぞ」
「ひぅっ!?」
「お帰りなさい、マスター。……大丈夫だよ、この人も僕と同じで、君に何も危害を加えないから」
「……う、うん……」
マスターを見た瞬間、彼女はビクッとまた怯えるような顔をして、僕の服の袖を掴んできたので、僕は彼女をなだめて落ち着かせた。
「随分と懐かれてるな……まぁ、その方が都合がいい……」
「……え？どういうことですか？」
「……先に、あいつらの話からするぞ」
「あ、はい」
そう言ってマスターは、僕の向かい側に座ってから、説明し始めた。
「まず、あいつらは……まぁ、予想は出来たようだが、奴隷商だった。ただ、下っ端だったらしいな。今のところあいつらから取れた情報はそれくらいらしい」
「はぁ……なるほど。そこそこの規模をもった組織なんですね……」
「今、大元を自警団が探索してるらしいから、捕まるかもしれんな。……あとは、こいつのことだ」
そう言って、マスターはじっと彼女をこと見る。
と、彼女がまた怯え始めたので、僕はまた彼女をなだめながら、マスターを少したしなめる
「マスター、彼女はあんまり人に慣れてないんですから、そんなにじっと見てあげないでください」
「む……ああ、すまない。で、話を続けるが……実は、こういった、魔物が奴隷商から逃げてきた、というのは、今数件、同時に出ているらしくてな……」
「ああ、なるほど。だから下っ端とかいう情報が簡単に手に入ったんですね」
「まぁそれで、だ。またこの件が増える可能性があるから、保護した魔物はその保護した家が引き取るように言い渡された」
「え……？」
それってつまりは……
「まぁ、無理ならば、自警団の方で預かるそうだから、念の為星村に訊いておこうと思ってな。……お前はどうだ？」
「……いや、僕は大丈夫……というより、二人きりっていうのは少しさみしかったから、大賛成ですけど……マスターは大丈夫なんですか？」
念の為に、僕もマスターに確認してみる。
マスターは、流されやすい割に人付き合いとか苦手だからな……
僕も最初はコミュニケーションの取り方に困ったし……
「……ああ、大丈夫だ。お前がいるし……店にも、少し人手が欲しかったからな……」
「……そうですか、なら……」
満場一致で決定したところで、僕は彼女にくるりと顔を向けて、ニコリと笑う。
「今から、ここは君の家になったよ」
「え……えっ……？」
突然言われて、彼女は困惑したような顔になった。
あっ、そうだ……彼女の意思を訊いてなかったよ……
「えと……もしかして、嫌だった？」
「あ……ううん。違う……ちょっと、ビックリして……でも……嬉しい……」
「そっか、それはよかった」
フッ、と淡く彼女が微笑んだのを見て、僕は安心した。
「……あ、そうだ！そしたら、名前どうしよう……」
「……名前……？ないのか……？」
「ええ。捕まっていた場所でも、イナリ、と種族名でしか呼ばれてないようで……」
「……そうか、なにかいい名前があればな……」
むむむ……と、二人して、考え込む。
名前か……何かいいものはないだろうか……
体の特徴とか、いろいろと材料はありそうなんだけど……
そう思いながら彼女を見ていると、どうしても思ってしまう。
“似てる”。とてつもなく、“あの人”に、似てる。
だが、それだけはダメだ。
その名前だけは、使っちゃダメだ。
しかし、強くそう思ってたのに、いや、思ってたからだろうか、僕は無意識に、その名を言ってしまった。
「……立宮 美核……」
「ほう……美核か……」
「……え!?今僕なんか言いましたか!?」
「……無意識だったのか？はっきりと、“立宮 美核”と言ってたぞ？」
「あ、その名前はちょっと……」
「なんだ？いい名前じゃないか……それに……」
「……みさね……美核……美核……ん……♪」
「あいつは気に入ってるようだぞ？」
「あー……えー？……はい。彼女が気に入ったのなら、それで……」
承諾しながら、僕は後悔する。
ああ……ごめんなさい……
××××××××××××××××××××××××××××××
「……ん……立宮…先輩……」
「えっ？」
やらなきゃならないことが一通り終わり、空理と一緒に居たいという理由で隣でずっと様子を見ていた私は、突然つぶやいてきた空理の言葉に少し驚いた。
もしかして……呼ばれた？
いや、違うかも……
少なくとも、空理はいつも私のことは美核って呼んでるから、苗字で、しかも先輩なんてつけて呼ぶことはあり得ないはず……
そしたら……いったい誰を……
……空理が倒れた時とは違う、嫌な予感……とても大きな不安が、私の中に渦巻いていく。
思い出すのは、空理とマスターが、私の名前を考えてくれた時のこと。
立宮 美核
その名前を言った時、空理は、少し寂しそうな顔をしていた。
そして、私にその名前をつけることを少し渋っていた。
……立宮 美核……
美核……私……
立宮……先輩……
……空理と一緒に居れて、嬉しいはずなのに、今は、ここにいることが辛かった。
……おかしいな……さっきまでは本当に嬉しかったのに……
でも、なんだか、ここには居れない。そう、思ってしまう。
……空理がちゃんと寝てるのを見てから、私は部屋を出て、台所に向かう。
……何か、暖かいものが飲みたい……
そう思って、私は紅茶を入れ始める。
種類は、アッサムティー。
空理は香りのいいダージリンが好きらしいけど、私はそれより少し甘みのあるこれが好きだ。
空理に習った通りに、紅茶を淹れ、カップに注ぐ。
ほのかに香る紅茶の匂いを、まるで精神安定剤の代わりにするかのように嗅いで自分を落ち着かせながら、私は紅茶を飲み始める。
「…………あんまり、美味しくないな……」
やっぱり、空理が淹れてくれたやつの方が美味しい。
……早く、よくなるといいなぁ……
……あの言葉の意味、なんだったんだろう……
「……くうり……」
いろいろ考えながら、私は無意識に彼の名前を呼んでいた。
寒い寒いと思いながらも、いつものように、僕は開店準備をマスターと一緒に始めていて、テーブルを拭こうとしていた。
「……いや、やっぱり寒い。マスター！ストーブつけていいですか〜!?」
「……ああ！部屋温めとけ!!」
どうやら厨房にいたマスターも寒いと感じたらしく、あっさりと許可をもらえた。
僕の世界とは違って、魔力によって起動するストーブに点火しながら、僕は窓から外を見る。
窓の向こうでは、真っ白な、大きな結晶がしんしんと降っていた。
……雪かぁ、どうりで寒いわけだ。
しかもこれ、積もるタイプの雪じゃん……
てか、もう積もりかけてるし……
あー、明日止んだら屋根の雪かきとかしないとなぁ……
じんわりと暖かくなってくる部屋で、そんなことを考えていると……
……とさっ……
「……ん？」
まるで何か重いものを布団の上に落としたかのような音を、僕は聞いた。
店内を見回してみるけど、何か落ちた様子はない。
カウンター裏なんかも確認してみる。……異常なし。
そしたら二階かな、と思ったけど、それはないと思った。
そもそも、音の発生源が違う方向だったからだ。
となると……外かな？
そう思って、僕は扉を開けて、少しだけ周りを見渡してみる。
……そして扉のすぐ目の前で、女性が倒れているのを発見した。
「あー、これはマズいな……」
服はボロボロで薄いし、体もそこかしこに軽い打撲跡や切り傷なんかもある。
まぁ、十中八九、どこかから逃げてきたんだろうな……
ともかく、このままだと、凍傷になったりして危険だ。
そう思い、僕は倒れた女性を抱えて店のなかに運び、ストーブの前に横たえる。
「マスター！大変です！女性が倒れてました〜!!」
「なんだ……？ふむ、わかった、じゃあちょっとこっちに持ってこい。ストーブもだ。……少し厄介なことになるぞ……」
「あ、はい。わかりました」
厨房から出てきて、女性の様子を見たマスターは、すぐに指示を出してきて、僕はそれに従う。
まずは女性から奥の厨房へ運び、椅子を組み合わせて簡易ベットのようにして、そこに寝かせる。
次に、折角暖まったストーブを一旦消してから、厨房に運び、また点ける。
そして、嫌な予感がした為、念の為の準備をしておく。
部屋に戻り、ある本を取り出して持っていく。
……“メモ”は……まぁ、下に降りて時間があったらだな。
「……ってるんだ」
「……らんと言ってるだろうが」
下に降りると、店の方からなにやら声が聞こえてきた。
片方は、聞き覚えのない、冷めたような男の声。
それに答えているもう片方は、マスターの声だ。
「マスター、どうかしたんで……って、誰ですか、その人達は？」
店の方へ向かうと、店の扉付近で、大柄な男が二人、マスターと話しているところだった。
「ああ、なんでも人探しをしているようだが、星村、お前誰か見たか？」
「……いいえ？誰も見てませんが……」
人探し。
そう聞いて、僕は真っ先に彼女のことを思い浮かべた。
なので、僕は自然に嘘をつく。
彼女のあの様子に、この男達の風貌……
黒い帽子に、顔が隠れる程襟を高くしてあるコート。
どう見たって、まともなやつじゃあない。
マスターの言っていた厄介なことの意味をやっと理解し、僕は本を少し開いて“使って”おき、すぐに床においておく。
「……嘘をつくな。店の前に倒れた跡があった。この店以外あいつのいる場所はいない！」
「……だから、知らんものは知らんと言ってるだろう……」
「まったく、強情なやつだ……」
そう言って、二人はポケットから黒光りする鉄塊を取り出してきた。
「っ!?」
「……なんだ、これは……？」
「……まさか、この世界にもうコレがあるなんてね……!?」
「……ほう、これがなにか知ってるのか」
英語では、ピストル。日本語では、拳銃。
それを、この男達は手に持ち、銃口をこちらに向けてきた。
……まさか、魔法特化のこの世界で、こんなものを見るなんてね……
「……ならば話は早い。死にたくなければ、あいつを寄越せ。あいつは……大切な“商品”だ」
商品……なるほど、奴隷商か……
拳銃を突きつけられながらも、僕は冷静に思考する。
相手は男二人。
身長は……僕よりちょっと高いくらいかな？
拳銃を突きつけられてるから、下手には動けない。
でも、様子を見るとあんまし使い慣れてない感はある。
まぁ、素人目だから確証はないけど……
となると、動いたら二人ともその動いた方に拳銃を向けると思う。
幸い、マスターはあれがなんだかわからないけど、死にたくなければ、と聞いてから警戒して動かないでいてくれる。
そしたら、あとはどうするか……
なんというか、備えあれば憂いなしというけど、本当そうだなぁ、って痛感するね。
準備のおかげで、なんとでもなるんだから。
あとは、一番いい方法を思いつくだけなんだけど……
やっぱ、気絶させた方がいいよなぁ。
でも、僕は喧嘩は出来ても、こんな命のやりとりは出来ないし……
…………あ、そうだ！
思いついた瞬間、僕は動き出していた。
「……!!お前、何をす……ガァッ!?」
「グッ!?」
突然大きな動きを見せたため、男達が銃口をこちらに向けてきたが、次の瞬間には、バチッ！という音が二つ鳴り、その後に、二人とも、拳銃を手から落とし、そして、自らもバタンッ！と大きな音を立てて倒れた。
「ふぅ、よかった、成功した……ああ！怖かったぁぁぁ……痛っ!?」
「……おっかないのはお前だ……いったい、何をしたんだ？」
成功したのを確認した後、僕はヘナヘナ床に座り込み、そしてマスターの拳骨を食らった。
「痛たた……うーん、なんというか、珍しい技術には珍しい技術をってやつですかね？」
そういいながら、僕は両手に持ってる拳銃とは違った、黒いモノをマスターに見せる。
「……なんだそれは？さっきまで持ってなかったよな？」
「これはスタンガンって言って、まぁ、なんというか相手の意識を奪う武器ですよ。いつだしたのかは、まぁ、訊かないでください。ただくだらない術を使っただけですから」
痛つつつ……と頭痛と拳骨の痛みに顔をしかめながら、僕は本を拾って立ち上がる。
「とりあえず、この二人を連れて自警団の方に行ってきますね。ええと、ロープとかどこでしたっけ？」
「いや、それは俺がやる」
さてと、とロープを探し始める前に、マスターが止める。
珍しいな、マスターが店のこと以外を自分からやろうとするなんて……
「それよりお前は、あいつをなんとかしろ……」
……そうだった。安心してすっかり忘れてた。
そうだよ。彼女、いったいどうしよう……
「……とりあえず、領主にあいつのことを話してみる。それまで、あいつの相手を頼む」
「……わかりました」
簡単に男達を縛り、運びやすく荷台に乗せ、マスターはコートを羽織って外に出た。
そういえば、マスターは人と話すのは苦手なんだよな……
とりあえず、僕は厨房の方へ向かい、彼女の様子を見る。
まだ寝てるようだ。うーん、ここは自然に起きるのを待った方がいいよなぁ……
と言っても、やることは今のところ特にない。
とりあえず、彼女のことを見てみることにした。
うーん、年は同じくらいだろうか……？
服はボロボロで、体にはあちこち傷がある……が、元々の容姿はよかったようで、綺麗な顔立ちや、体つきをしている。
……いや、それもある意味では当たり前か。
僕は彼女のある部分を見て、その理由を悟る。
彼女の頭の辺りに、狐のようなとがった耳がある。
……魔物娘。
つまりは、そういうことだ。
よく見ると、尻尾もある。なんで運んだ時に気がつかなかったのだろうか……
……にしても、“似てる”……
髪の色なんかは違うけど、この顔は、やっぱり……
「……ぅ……ん……？」
じぃっと見ているうちに、ピクリと瞼が動き、彼女が起き出した。
「ああ、起きた？」
「あっ……ヒッ!?」
そして、近くに僕の姿があると認識すると、小さな悲鳴をあげ、後ろに下がろうとしたのか、ガタンッ！と大きな音を立てて床におちてしまった。
「あっ!?大丈夫!?」
「や……やだ……！やめ……こないで……！」
助け起こそうと近づくが、彼女は怯えた様子で部屋の隅の方へ這いずって移動し、縮こまり、そして、震えながら、必死に、来ないで、と言い続ける。
……仕方がないか。たぶん、奴隷商に連れ去られて、ろくな扱いも受けないで、逃げ出してきたんだろうからな……
……人っていうのは、怖いよな。こんなに簡単に、人に恐怖を植え付けるんだから。
……でも、その恐怖を取り除けるのも、人か……
そんなことを考えながら、僕は彼女の近くに寄り、頭に手を置く。
「ひぅっ!?」
「……大丈夫だよ。僕は君に怖いことは何もしないから。怯えないで」
手を乗せた瞬間、彼女はビクッと体を強張らせたが、僕は安心させるように、彼女の頭を優しくなで始める。
しばらくなで続けていると、危害を加えないとわかったのか、少しずつ、顔を上げて僕の顔を見てきた。
「大丈夫だよ。安心して」
僕は言うが、彼女の顔は、未だに怯えたままで、今にも泣きそうだ。
でも、まだ安心出来なくて、泣くことも出来ない。
……なら……
「……ちょっと、ごめんね……」
「あっ……!?」
スッ、と両腕を彼女の背中に回して、抱きしめる。
彼女の体は、カタカタと、小刻みに震えている。
なにかされるのではないかと、不安になったのだろう。
だから僕は、彼女が安心出来るように、そっと言う。
「大丈夫。ここなら、安全だから。僕しかいないから。なにも襲って来ないから。だから、安心して……泣いても、いいんだよ……」
「……ふ……ぐ……ヒクッ……う……うぅぅぅ……こあ……こわかっ……うぐ……」
「うんうん、怖かったか。大丈夫。もう、大丈夫だよ……」
静かに、しかし、関が切れたように、彼女は泣き出す。
そんな彼女の背中を、僕は優しく叩く。
キュッ、と僕の背中に彼女の腕が回る。
大丈夫だよ。大丈夫だよ。
泣いている彼女に、僕は、ずっとそう言い続けたのだった。
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「普通の風邪でよかったね」
「そうだね。まぁでも明日までは安静にしなさいって言われちゃったけど」
医者に見てもらい、普通の風邪であると診断され、僕は念の為の風邪薬を少しもらい、明日までの安静を言い渡された。
「仕方がないわよ。医者に言われたんだし、ちゃんと明日まではおとなしくするのよ？……さてと、じゃあ私は出かけるわよ？……そろそろ店を開けないと、薬が腐っちゃいそうだし……」
「あ、はい。つき合わせてしまってすみませんでした、リースさん」
「いいわよ。同じ家に住んでいるのだもの、このくらいは当然よ。じゃあ、安静にしてなさいよ？」
「あははは……何度も言わなくてもわかってますよ」
何度も注意しながら、リースさんは部屋を出ていった。
まったく、心配性のお母さんみたいだよねぇ、と言いながら、僕は美核に言いながら苦笑いをする。
美核も、だねぇ、と共感しながらクスクスと笑う。
だが……
「「………………」」
やはり、会話がなくなった途端、気まずい空気になる。
うーん、やっぱり僕も美核も、急に二人きりになっちゃうと耐えられないかぁ……
「えと……じゃあ、私もいろいろと片付けちゃわなきゃいけないから、部屋にいないけど、無理して歩き回ったりしないでよ？」
「え……？あ、ああ、うん。わかってるよ」
美核が突然言ってきて、え？もうちょっと二人きりで……なんて、何も話せないくせに名残惜しく思いながらも、僕は答える。
そして、美核も部屋を出て、残ったのは氷枕に頭を乗せて寝ている僕だけ。
「…………はぁ、寝よ……」
一人で起きていてもしょうがない。
たぶん、夕飯には美核が起こしてくれるだろう。
なるべく寝てちゃんと体調を元に戻さなきゃ、などと考えて、僕は眠りにつくのだった。
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「はい。寒いでしょ？ココア作っておいたよ」
「……ぁりがとぅ」
「うん。どういたしまして」
泣き止んだ後、僕は、外にいたし、傷が化膿でもしたら大変だと思い、彼女に風呂に入ってもらってから、傷の手当てして、暖かい飲み物を出した。
僕の隣で、コクコク……と、少しずつ、彼女はココアを飲む。
「……美味しい……」
「うん、それはよかった。……さて、いろいろと訊きたいんだけど、いいかな？」
落ち着いてきたし、そろそろいいだろうと思い、訊くと、彼女はコクリ、と小さく頷いた。
「えーと、まずは……名前は？」
「名前……ない。ただ、イナリって呼ばれてた……」
……イナリ……稲荷か。
ただ種族名だけで呼ばれていたのか……
いやにしても……
「元の名前とか、ないの？さらわれたにしても、そういうのは、あるはずなんだけど……」
「ううん。気づいた時には、もうイナリって。そう呼ばれて、暗い部屋に……」
「あ……大丈夫かい？無理なら、話さなくても……」
「……大丈夫」
嫌な記憶がまた浮かんできたんだろう。また、彼女は泣き出しそうになる。
やっぱり、過去を詮索するような質問は、するべきじゃなかったかな……
しかし、彼女の説明から考えると、彼女、物心がつく前から、さらわれたんだよな……
そしたら、どうやって言語を……
……いや、ここは詮索するべきじゃないな。
さて、あとは……
何を訊こうか考えていると、ドアのベルが鳴り、誰か……まぁ、十中八九マスターが来たことを伝えた。
タッ、タッ、タッ、タッ、とゆっくり歩く音が少し聞こえたあと、マスターがここに入ってきた。
「……帰ったぞ」
「ひぅっ!?」
「お帰りなさい、マスター。……大丈夫だよ、この人も僕と同じで、君に何も危害を加えないから」
「……う、うん……」
マスターを見た瞬間、彼女はビクッとまた怯えるような顔をして、僕の服の袖を掴んできたので、僕は彼女をなだめて落ち着かせた。
「随分と懐かれてるな……まぁ、その方が都合がいい……」
「……え？どういうことですか？」
「……先に、あいつらの話からするぞ」
「あ、はい」
そう言ってマスターは、僕の向かい側に座ってから、説明し始めた。
「まず、あいつらは……まぁ、予想は出来たようだが、奴隷商だった。ただ、下っ端だったらしいな。今のところあいつらから取れた情報はそれくらいらしい」
「はぁ……なるほど。そこそこの規模をもった組織なんですね……」
「今、大元を自警団が探索してるらしいから、捕まるかもしれんな。……あとは、こいつのことだ」
そう言って、マスターはじっと彼女をこと見る。
と、彼女がまた怯え始めたので、僕はまた彼女をなだめながら、マスターを少したしなめる
「マスター、彼女はあんまり人に慣れてないんですから、そんなにじっと見てあげないでください」
「む……ああ、すまない。で、話を続けるが……実は、こういった、魔物が奴隷商から逃げてきた、というのは、今数件、同時に出ているらしくてな……」
「ああ、なるほど。だから下っ端とかいう情報が簡単に手に入ったんですね」
「まぁそれで、だ。またこの件が増える可能性があるから、保護した魔物はその保護した家が引き取るように言い渡された」
「え……？」
それってつまりは……
「まぁ、無理ならば、自警団の方で預かるそうだから、念の為星村に訊いておこうと思ってな。……お前はどうだ？」
「……いや、僕は大丈夫……というより、二人きりっていうのは少しさみしかったから、大賛成ですけど……マスターは大丈夫なんですか？」
念の為に、僕もマスターに確認してみる。
マスターは、流されやすい割に人付き合いとか苦手だからな……
僕も最初はコミュニケーションの取り方に困ったし……
「……ああ、大丈夫だ。お前がいるし……店にも、少し人手が欲しかったからな……」
「……そうですか、なら……」
満場一致で決定したところで、僕は彼女にくるりと顔を向けて、ニコリと笑う。
「今から、ここは君の家になったよ」
「え……えっ……？」
突然言われて、彼女は困惑したような顔になった。
あっ、そうだ……彼女の意思を訊いてなかったよ……
「えと……もしかして、嫌だった？」
「あ……ううん。違う……ちょっと、ビックリして……でも……嬉しい……」
「そっか、それはよかった」
フッ、と淡く彼女が微笑んだのを見て、僕は安心した。
「……あ、そうだ！そしたら、名前どうしよう……」
「……名前……？ないのか……？」
「ええ。捕まっていた場所でも、イナリ、と種族名でしか呼ばれてないようで……」
「……そうか、なにかいい名前があればな……」
むむむ……と、二人して、考え込む。
名前か……何かいいものはないだろうか……
体の特徴とか、いろいろと材料はありそうなんだけど……
そう思いながら彼女を見ていると、どうしても思ってしまう。
“似てる”。とてつもなく、“あの人”に、似てる。
だが、それだけはダメだ。
その名前だけは、使っちゃダメだ。
しかし、強くそう思ってたのに、いや、思ってたからだろうか、僕は無意識に、その名を言ってしまった。
「……立宮 美核……」
「ほう……美核か……」
「……え!?今僕なんか言いましたか!?」
「……無意識だったのか？はっきりと、“立宮 美核”と言ってたぞ？」
「あ、その名前はちょっと……」
「なんだ？いい名前じゃないか……それに……」
「……みさね……美核……美核……ん……♪」
「あいつは気に入ってるようだぞ？」
「あー……えー？……はい。彼女が気に入ったのなら、それで……」
承諾しながら、僕は後悔する。
ああ……ごめんなさい……
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「……ん……立宮…先輩……」
「えっ？」
やらなきゃならないことが一通り終わり、空理と一緒に居たいという理由で隣でずっと様子を見ていた私は、突然つぶやいてきた空理の言葉に少し驚いた。
もしかして……呼ばれた？
いや、違うかも……
少なくとも、空理はいつも私のことは美核って呼んでるから、苗字で、しかも先輩なんてつけて呼ぶことはあり得ないはず……
そしたら……いったい誰を……
……空理が倒れた時とは違う、嫌な予感……とても大きな不安が、私の中に渦巻いていく。
思い出すのは、空理とマスターが、私の名前を考えてくれた時のこと。
立宮 美核
その名前を言った時、空理は、少し寂しそうな顔をしていた。
そして、私にその名前をつけることを少し渋っていた。
……立宮 美核……
美核……私……
立宮……先輩……
……空理と一緒に居れて、嬉しいはずなのに、今は、ここにいることが辛かった。
……おかしいな……さっきまでは本当に嬉しかったのに……
でも、なんだか、ここには居れない。そう、思ってしまう。
……空理がちゃんと寝てるのを見てから、私は部屋を出て、台所に向かう。
……何か、暖かいものが飲みたい……
そう思って、私は紅茶を入れ始める。
種類は、アッサムティー。
空理は香りのいいダージリンが好きらしいけど、私はそれより少し甘みのあるこれが好きだ。
空理に習った通りに、紅茶を淹れ、カップに注ぐ。
ほのかに香る紅茶の匂いを、まるで精神安定剤の代わりにするかのように嗅いで自分を落ち着かせながら、私は紅茶を飲み始める。
「…………あんまり、美味しくないな……」
やっぱり、空理が淹れてくれたやつの方が美味しい。
……早く、よくなるといいなぁ……
……あの言葉の意味、なんだったんだろう……
「……くうり……」
いろいろ考えながら、私は無意識に彼の名前を呼んでいた。
11/03/30 23:34更新 / 星村 空理
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