二人の約束(当店裏メニュー)
ハロウィンも過ぎ、時の流れは速く、早くも一ヶ月と17日も過ぎた。
今日は雨。流石にお客さんも雨の日にはあまり来ない。
「……はぁ、暇だなぁ……」
「そうだね。でも、ハロウィンの日は忙し過ぎたし、こんな日は少しぐらい休んでもいいんじゃないかな?」
「……まぁ、そうだけどさ……」
お客さんがいないので、店の掃除をしながら美核はハァ……と溜息をついた。
それを見ながら、僕は微笑む。
「……お客さんもいないし、掃除が終わったら紅茶でも淹れるよ」
「……うん、ありがと……」
結構真面目な美核は、少し忙しいくらいが落ち着くらしい。
でも、お客さんがいない時ぐらいはのんびり過ごして欲しい。
ということで、さっさと掃除を終わらせて僕は紅茶を淹れることにした。
「マスター、紅茶淹れますけど、マスターもどうですか?」
「……いや、いい」
「そうですか」
カウンターにいるマスターに訊いてから、僕は紅茶を淹れる準備をした。
今日は……そうだな、僕の好きなダージリンにしようか。
茶葉とポット、カップを用意して、僕は紅茶を淹れ始めた。
「ふっふふんっふっふふんっふっふっふ〜♪」
鼻歌を歌いながら僕は時間を図る。
紅茶を淹れる上で注意すべきなのは時間と温度だからね……
と、何か一人で紅茶に関する講釈を垂れようとしたところで、チリンチリン……とベルが鳴った。
ふむ、お客さんか……常連さんかな?
気になったし、紅茶もちょうどいい時間なので、僕はポットとカップをトレーに乗せて持っていきながらお客さんを見に行く。
お客さんは一人。
髪はボサボサな茶髪、瞳の色は青。細身で優しそうな雰囲気の男性で、カウンター席でマスターと話していた。
「ああ、ククリスさん。お久しぶりです」
一応、僕は彼のことを知っている。
彼の名はククリス・アルフ。この街の端にある孤児院の院長をしている人だ。
彼が来たということは、もうそんな時期なのか……
「やぁ星村君。元気だったようだね」
「空理、この人は?知り合い?」
「そっか、美核は去年の十二月くらいにここに来たから知らなかったよね」
「初めまして。僕はククリス・アルフ。この街で孤児院の院長をしてるんだ」
「初めまして。立宮 美核です」
「ふむ、独特な名前だね?もしかして、星村君と同じ“日本”とかいう場所出身なのかい?」
「いえ、違いますよ。美核はジパング出身です。まぁ、名付けたのは僕ですが……」
「……?どういうことだい?」
「……まぁ、いろいろあったということで」
「……ていうか、この街に孤児院なんてあったんだ……」
「うん。端っこの方に、ひっそりとだけどね」
「……で、注文は」
「いつものでお願いします」
マスターが訊くと、ククリスさんはまるで常連のようにそれに答えた。
それを見た美核は、少し不思議そうに僕に訊いてきた。
「ねぇ、ククリスさんって、ここの常連さんじゃあ、ないわよね?」
「うん。でも、必ず一年に一度来てくれてるんだ。……ちょっとした用事でね……」
「用事……?」
なぜ用事でこの店に、と思ったのだろうか、美核は訝しげな顔をしている。
と、そんな僕達の目の前、つまりカウンターに、マスターがある飲み物の入ったグラスが置かれた。
色は透明で薄い桃色。
そして、シュワシュワと小さな泡が発生していた。
炭酸水が使われているのだ。
「……?何あれ?あれって、うちのメニューにないものよね?」
「……あれは、普通のお客さんには出してない飲み物で、“二人の約束”って言うんだ……」
「二人の、約束……?」
「そう。約束。昔、マスターの息子さんがある戦場に向かう前に、息子さんの恋人と、帰ってきたら結婚しようっていう約束をして飲んだのが始まり。昔は炭酸水が高級品だったからね。こういう炭酸で作ったジュースが精一杯の贅沢だったんだろうね」
飲み物の名前の由来を話しながら、ククリスさんは二人の約束を飲む。
「……うん。すっきりしていて美味しい……」
「……私も飲みたいな……」
「……分かった。今回だけだぞ……」
ポツリと羨ましそうに美核が言うと、マスターはもう一つ約束を作る。
「……星村、お前はどうする?」
「僕は……いいです。紅茶が勿体無いですし……」
「あ……ごめん、忘れてた……」
カップに紅茶を注ぎながら、僕は苦笑をした。
まぁ、飲んだことのない飲み物だから、美核が飲んでみたくなるのは仕方がないと思う。
でも、やっぱり少しさみしいかな、忘れられてたのは……
「……そういえば、さっき話に出て来たマスターの息子さんは、帰って来れたんですか?」
「うん。盛大に死亡フラグ立てたくせに生き残って帰って来てくれたそうだよ?」
「死亡フラグ?」
「あー、気にしないで。それよりククリスさん、やっぱり今年も?」
「うん。マスターをしばらく借りてくよ」
「?何をするの?」
美核のもっともな疑問に、ククリスさんは表情を少し暗くする。
まぁ、仕方がないよな、内容が内容なんだし……
ククリスさんは答えられないだろうし、マスターは答えないだろうし……ここは、僕が言うしかないか……
「墓参り、だよ。……ククリスさんの先代の院長先生の、ね……」
「あ……ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。……すまないね、星村君」
「いえ。気持ちは分かりますしね……」
「……ククリス、飲み終わったら行くぞ。星村、立宮、店は閉めてしばらくは休め。……少なくとも一週間したら帰る……」
「分かりました」
僕がそう言うと、マスターは荷物をまとめるために部屋に行った。
「ふぅ、しばらくは休みか……どうしようかな……?」
「去年はどうしてたんだい?」
「去年は……一人寂しく街を歩いてました……」
「それは……すまなかったね……」
「いえ、大丈夫です……」
「……準備が出来たが……」
「おっと、じゃあ、行きますかね……」
マスターが荷物を持って出てくると、ククリスさんは残ったジュースを全部飲み干して立ち上がった。
「じゃあ、マスター借りてくね」
「……戸締まりは、しっかりしろよ……」
「はい。行ってらっしゃい」
マスター達は、傘をさして外に出発したのだった。
その後に、僕は店のOpenの看板をclosedに変え、また紅茶を飲む。
「……そういえば、なんでお墓参りなのに一週間も店を空けるの?」
「墓参り以外にも、やることがあるらしいよ」
「そっか……」
少し話した後で、僕達の会話が止まってしまった。
雨の音と、紅茶のカップが立てる音だけが、店内に響く。
……うーん、気まずいなぁ……
男女二人っきりっていうのは、僕の苦手な状態である。
何を話したらいいのか迷うし、動きづらい。
やはり身内に近い美核でも、それは同じらしい。
……いや、美核だからかな?
いつもはマスターがいたからなぁ……
うむむむ、気まずいなぁ……
「……うん、美味しかった……」
コトン、とコップを置きながら美核はほぅ、と溜息をつく。
「あ、空理、紅茶頂戴」
「……今飲み終わったばかりでしょう……」
「大丈夫大丈夫。まだ飲めるわ」
「そういう問題でも無いですよ」
と言いながらも、僕は紅茶をもう一つのカップに注ぐ。
「ん。ありがと」
「あ、はい。……!?」
自然にカップを横から取られて、僕は驚いた。
なぜなら、さっきまでカウンターに座っていた美核が、僕のいるテーブル席の隣に座っていたからだ。
ち、近い……
今の僕にはあまりにも近過ぎる距離で、僕は思わず緊張してしまう。
「……うん。こっちも美味しい」
「……そりゃよかった」
緊張はしているが、それを悟られないように僕は努めて普通に接する。
ここら辺は、長年の経験によって上手く誤魔化すことができる。
ついでに僕は、いつもらしく軽口を叩くことにした。
「さっきは忘れられてたからね。美味しくないのかなぁ、と思ってたよ」
「ははは、ごめんごめん……」
僕の軽口に、美核は苦笑しながら少し楽しそうに謝る。
と、不意にその顔を下に向けた。
「……恋人か……いいな、そういうの……」
「……ああ、二人の約束のか……」
「うん。話し聞いてたら、ちょっと羨ましくなってね……」
「いないの、恋人?」
「…………………………」
うん。失敗した。
いつも通り過ぎた……
僕の言葉に、美核は黙ってしまった。
少しの間、気まずい空気が流れる。
「……空理には、いないの?恋人……っていうか、好きな人」
「……う〜ん……」
思わぬ美核の問いに、僕は唸ってしまう。
好きな人か……いるにはいるけど、ねぇ……?
なんと答えたらいいのか、困ったが、不意に、少し本音で話したくなった。
覚悟を決めて、素直に答えてみる。
「恋人とかはノーコメントとして、付き合ったり結婚したいとはまだ思ってないよ」
「なんで?」
「う〜ん、なんというか、今で満足してるから……いや、違うな。今の状態から変化することが怖いから、だね」
「……どういうこと?」
「今のままで十分幸せで、それが変わってしまうのが怖いんだよ。……マスターがいて、美核がいて、リースさん達がいて、お客さんとも触れ合えて。僕にとっては、それだけで十分幸せなんだ。だから、いつまでもそれが続いて欲しい。美核はどう?」
「私は……」
僕の正直な気持ちを伝えてから訊くと、美核は難しい顔で考え始めた。
僕はカップを傾けて紅茶を飲みながら、ゆっくりと美核の答えを待つ。
しばらくした後、美核の答えも決まったようだ。
「……うん。私も、今で十分幸せだと思う」
「そっか。それはよかった」
「でも、やっぱり好きな人とは一緒になりたい……かな?」
「……そっか……」
美核の答えに、僕は薄く微笑む。
好きでいてくれることは、男としてとても嬉しい。
それが自分の好きな人であるなら、なおさらだ。
でも、やっぱり僕は今から先に進むことが怖い。
だから、僕が先に進む勇気を手に入れるまで、待っていて欲しい。
時間がかかり過ぎて、僕に愛想を尽かして諦めてくれてもいい。このままでも、僕は十分幸せだから。
でも……
頑張ってみたい。
微笑んでいる僕の顔を見て、少し顔を赤くしている可愛らしい美核を見ながら、僕はそう思ったのだった。
「……あ、空理、おかわり、頂戴」
「はいはい……」
今日は雨。流石にお客さんも雨の日にはあまり来ない。
「……はぁ、暇だなぁ……」
「そうだね。でも、ハロウィンの日は忙し過ぎたし、こんな日は少しぐらい休んでもいいんじゃないかな?」
「……まぁ、そうだけどさ……」
お客さんがいないので、店の掃除をしながら美核はハァ……と溜息をついた。
それを見ながら、僕は微笑む。
「……お客さんもいないし、掃除が終わったら紅茶でも淹れるよ」
「……うん、ありがと……」
結構真面目な美核は、少し忙しいくらいが落ち着くらしい。
でも、お客さんがいない時ぐらいはのんびり過ごして欲しい。
ということで、さっさと掃除を終わらせて僕は紅茶を淹れることにした。
「マスター、紅茶淹れますけど、マスターもどうですか?」
「……いや、いい」
「そうですか」
カウンターにいるマスターに訊いてから、僕は紅茶を淹れる準備をした。
今日は……そうだな、僕の好きなダージリンにしようか。
茶葉とポット、カップを用意して、僕は紅茶を淹れ始めた。
「ふっふふんっふっふふんっふっふっふ〜♪」
鼻歌を歌いながら僕は時間を図る。
紅茶を淹れる上で注意すべきなのは時間と温度だからね……
と、何か一人で紅茶に関する講釈を垂れようとしたところで、チリンチリン……とベルが鳴った。
ふむ、お客さんか……常連さんかな?
気になったし、紅茶もちょうどいい時間なので、僕はポットとカップをトレーに乗せて持っていきながらお客さんを見に行く。
お客さんは一人。
髪はボサボサな茶髪、瞳の色は青。細身で優しそうな雰囲気の男性で、カウンター席でマスターと話していた。
「ああ、ククリスさん。お久しぶりです」
一応、僕は彼のことを知っている。
彼の名はククリス・アルフ。この街の端にある孤児院の院長をしている人だ。
彼が来たということは、もうそんな時期なのか……
「やぁ星村君。元気だったようだね」
「空理、この人は?知り合い?」
「そっか、美核は去年の十二月くらいにここに来たから知らなかったよね」
「初めまして。僕はククリス・アルフ。この街で孤児院の院長をしてるんだ」
「初めまして。立宮 美核です」
「ふむ、独特な名前だね?もしかして、星村君と同じ“日本”とかいう場所出身なのかい?」
「いえ、違いますよ。美核はジパング出身です。まぁ、名付けたのは僕ですが……」
「……?どういうことだい?」
「……まぁ、いろいろあったということで」
「……ていうか、この街に孤児院なんてあったんだ……」
「うん。端っこの方に、ひっそりとだけどね」
「……で、注文は」
「いつものでお願いします」
マスターが訊くと、ククリスさんはまるで常連のようにそれに答えた。
それを見た美核は、少し不思議そうに僕に訊いてきた。
「ねぇ、ククリスさんって、ここの常連さんじゃあ、ないわよね?」
「うん。でも、必ず一年に一度来てくれてるんだ。……ちょっとした用事でね……」
「用事……?」
なぜ用事でこの店に、と思ったのだろうか、美核は訝しげな顔をしている。
と、そんな僕達の目の前、つまりカウンターに、マスターがある飲み物の入ったグラスが置かれた。
色は透明で薄い桃色。
そして、シュワシュワと小さな泡が発生していた。
炭酸水が使われているのだ。
「……?何あれ?あれって、うちのメニューにないものよね?」
「……あれは、普通のお客さんには出してない飲み物で、“二人の約束”って言うんだ……」
「二人の、約束……?」
「そう。約束。昔、マスターの息子さんがある戦場に向かう前に、息子さんの恋人と、帰ってきたら結婚しようっていう約束をして飲んだのが始まり。昔は炭酸水が高級品だったからね。こういう炭酸で作ったジュースが精一杯の贅沢だったんだろうね」
飲み物の名前の由来を話しながら、ククリスさんは二人の約束を飲む。
「……うん。すっきりしていて美味しい……」
「……私も飲みたいな……」
「……分かった。今回だけだぞ……」
ポツリと羨ましそうに美核が言うと、マスターはもう一つ約束を作る。
「……星村、お前はどうする?」
「僕は……いいです。紅茶が勿体無いですし……」
「あ……ごめん、忘れてた……」
カップに紅茶を注ぎながら、僕は苦笑をした。
まぁ、飲んだことのない飲み物だから、美核が飲んでみたくなるのは仕方がないと思う。
でも、やっぱり少しさみしいかな、忘れられてたのは……
「……そういえば、さっき話に出て来たマスターの息子さんは、帰って来れたんですか?」
「うん。盛大に死亡フラグ立てたくせに生き残って帰って来てくれたそうだよ?」
「死亡フラグ?」
「あー、気にしないで。それよりククリスさん、やっぱり今年も?」
「うん。マスターをしばらく借りてくよ」
「?何をするの?」
美核のもっともな疑問に、ククリスさんは表情を少し暗くする。
まぁ、仕方がないよな、内容が内容なんだし……
ククリスさんは答えられないだろうし、マスターは答えないだろうし……ここは、僕が言うしかないか……
「墓参り、だよ。……ククリスさんの先代の院長先生の、ね……」
「あ……ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。……すまないね、星村君」
「いえ。気持ちは分かりますしね……」
「……ククリス、飲み終わったら行くぞ。星村、立宮、店は閉めてしばらくは休め。……少なくとも一週間したら帰る……」
「分かりました」
僕がそう言うと、マスターは荷物をまとめるために部屋に行った。
「ふぅ、しばらくは休みか……どうしようかな……?」
「去年はどうしてたんだい?」
「去年は……一人寂しく街を歩いてました……」
「それは……すまなかったね……」
「いえ、大丈夫です……」
「……準備が出来たが……」
「おっと、じゃあ、行きますかね……」
マスターが荷物を持って出てくると、ククリスさんは残ったジュースを全部飲み干して立ち上がった。
「じゃあ、マスター借りてくね」
「……戸締まりは、しっかりしろよ……」
「はい。行ってらっしゃい」
マスター達は、傘をさして外に出発したのだった。
その後に、僕は店のOpenの看板をclosedに変え、また紅茶を飲む。
「……そういえば、なんでお墓参りなのに一週間も店を空けるの?」
「墓参り以外にも、やることがあるらしいよ」
「そっか……」
少し話した後で、僕達の会話が止まってしまった。
雨の音と、紅茶のカップが立てる音だけが、店内に響く。
……うーん、気まずいなぁ……
男女二人っきりっていうのは、僕の苦手な状態である。
何を話したらいいのか迷うし、動きづらい。
やはり身内に近い美核でも、それは同じらしい。
……いや、美核だからかな?
いつもはマスターがいたからなぁ……
うむむむ、気まずいなぁ……
「……うん、美味しかった……」
コトン、とコップを置きながら美核はほぅ、と溜息をつく。
「あ、空理、紅茶頂戴」
「……今飲み終わったばかりでしょう……」
「大丈夫大丈夫。まだ飲めるわ」
「そういう問題でも無いですよ」
と言いながらも、僕は紅茶をもう一つのカップに注ぐ。
「ん。ありがと」
「あ、はい。……!?」
自然にカップを横から取られて、僕は驚いた。
なぜなら、さっきまでカウンターに座っていた美核が、僕のいるテーブル席の隣に座っていたからだ。
ち、近い……
今の僕にはあまりにも近過ぎる距離で、僕は思わず緊張してしまう。
「……うん。こっちも美味しい」
「……そりゃよかった」
緊張はしているが、それを悟られないように僕は努めて普通に接する。
ここら辺は、長年の経験によって上手く誤魔化すことができる。
ついでに僕は、いつもらしく軽口を叩くことにした。
「さっきは忘れられてたからね。美味しくないのかなぁ、と思ってたよ」
「ははは、ごめんごめん……」
僕の軽口に、美核は苦笑しながら少し楽しそうに謝る。
と、不意にその顔を下に向けた。
「……恋人か……いいな、そういうの……」
「……ああ、二人の約束のか……」
「うん。話し聞いてたら、ちょっと羨ましくなってね……」
「いないの、恋人?」
「…………………………」
うん。失敗した。
いつも通り過ぎた……
僕の言葉に、美核は黙ってしまった。
少しの間、気まずい空気が流れる。
「……空理には、いないの?恋人……っていうか、好きな人」
「……う〜ん……」
思わぬ美核の問いに、僕は唸ってしまう。
好きな人か……いるにはいるけど、ねぇ……?
なんと答えたらいいのか、困ったが、不意に、少し本音で話したくなった。
覚悟を決めて、素直に答えてみる。
「恋人とかはノーコメントとして、付き合ったり結婚したいとはまだ思ってないよ」
「なんで?」
「う〜ん、なんというか、今で満足してるから……いや、違うな。今の状態から変化することが怖いから、だね」
「……どういうこと?」
「今のままで十分幸せで、それが変わってしまうのが怖いんだよ。……マスターがいて、美核がいて、リースさん達がいて、お客さんとも触れ合えて。僕にとっては、それだけで十分幸せなんだ。だから、いつまでもそれが続いて欲しい。美核はどう?」
「私は……」
僕の正直な気持ちを伝えてから訊くと、美核は難しい顔で考え始めた。
僕はカップを傾けて紅茶を飲みながら、ゆっくりと美核の答えを待つ。
しばらくした後、美核の答えも決まったようだ。
「……うん。私も、今で十分幸せだと思う」
「そっか。それはよかった」
「でも、やっぱり好きな人とは一緒になりたい……かな?」
「……そっか……」
美核の答えに、僕は薄く微笑む。
好きでいてくれることは、男としてとても嬉しい。
それが自分の好きな人であるなら、なおさらだ。
でも、やっぱり僕は今から先に進むことが怖い。
だから、僕が先に進む勇気を手に入れるまで、待っていて欲しい。
時間がかかり過ぎて、僕に愛想を尽かして諦めてくれてもいい。このままでも、僕は十分幸せだから。
でも……
頑張ってみたい。
微笑んでいる僕の顔を見て、少し顔を赤くしている可愛らしい美核を見ながら、僕はそう思ったのだった。
「……あ、空理、おかわり、頂戴」
「はいはい……」
11/04/25 21:31更新 / 星村 空理
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