一
氷雨の中、北国から都にやって来た二人の僧が近くの東屋に雨宿りにやって来る。
其処に、若い女が現れ、彼らが東屋に来た理由と東屋の由縁を教える。
その東屋は昔、高名な歌人が建てたもので、
興味を持った僧たちは、詳細な説明を求めた。
女は、『供養の用事があるから、そこで話を』と言い、
蔦葛に纏われた古い石塔に彼らを案内する。
石塔は貴い血筋の女性の墓で、纏わりつく蔦はかの歌人と同じ名であった。
彼女は幼い頃に聖地の聖女として過ごし、
その任を降りた後も終生、純潔を守る事を義務とされた。
その後都に戻った後、家司となったかなり年下の、
若き頃の歌人と秘めた恋に落ち、深く契った。
しかし、生まれつき身体が丈夫でなかった彼女はしばらく後に身罷り、
長生きした歌人は死してもその思慕の故に蔦となり、その墓に幾重にも絡みついた。
最後に女は自分こそが件の宮であると明かし、二人を成仏させてくれと頼んで消えた。
丁度雨も止んだので、
『何れも高名な歌人であるお二方に、そのような話が。妖の作り話ではあるまいか』と思った僧達は都で情報を集めてから動くことにした。
結果、作り話どころか例の歌人草は
『周辺住民が取り除いても一晩で元通り、触ったら祟りがある』として
有名になっており、
逆に『彼らを救えるのはあなた方だけです』と頼み込まれる始末であった。
その晩、彼らはあの蔦葛の墓へ足を運んだ。
僧達が読経を始めると、来るべき解放と成仏を喜ぶあの女の声が聞こえた。
やがて蔦は解け始め、中から在りし日の皇女が現れ、報恩の舞いを見せる
…が墓から離れようとはしない。
読経が終わると、墓へ戻った皇女は再び蔦葛に覆われてしまった。
***
…夢を見た。
良い夢なのか、悪い夢なのか、自分でも解らない。
僕が、蔦となって織子様に這い纏わる夢であったのは確実である。
蔦の僕は織子様の身体のあちこちに張り付き
、気持ち良くなれそうな場所を愛撫し、熱と蜜を愉しんだ。
やがて僕の精は織子様の胎内に吐き出され、途方もない快楽を味わう。
読経の音と共に僕はどうしようもない力で引き剥がされてしまうが、
それさえ過ぎればまた織子様の元へ。
一晩中愉しんだ末に―――褌に、白い濁りが、べっとり。
「また汚されたのですか、貞嘉様。余りお身体も丈夫でないお方の無駄打ちは体力を消耗して悪循環ですよ」
「余りそういう見解は述べないでくれるか」
汚れた褌を家僕に見られる時の辛さと言ったら無い。
何故ああいう夢を見るのかぐらいは自覚している。
僕と織子様は、この世ではどうあっても結ばれぬ定めだから。
歌人の家に生まれた僕は、とにかく『才能はあるから、出世して名を残せ』という
無言の圧力に反発し、歌の練習を避けてきた。
王朝文化華やかな、摂関の時代はとうに過ぎ。院政の時代と、武士の時代のせめぎ合い。
武家同士の争いには我関せずを貫きたい僕でも、
歌で出世できる時代ではない事ぐらいは知っていた。
その後、父の古き友という旅の僧に感化されて
『出家して旅先で歌を詠みたい』と父に申し出。
「その様な勝手を言っていられるのも私たち一族の積み重ねがあるからだろ!」と
一喝され。
父と殆ど口を利かない日々が過ぎていたある日。
「お前、姉上と共に前の斎女様の所に仕える気はないか」
―――これが全てのはじまり。
***
八条院の前の斎女様―――織子様は、とても香しい方であらせられた。
“うん、僕は父上よりも立派な歌人になろう”
あっさりと、僕は違う方向へ決意出来た。
彼女と歌を競い合い、やがて僕の恋歌がなかなか上達しない、という段になって。
『なら、わたくしと恋歌を取り交わしてみませんか?』
***
しかし所詮は歌の中の恋。
違う、そうじゃない。
織子様の『恋歌』が父に見つかり、関係を疑われた時は事情の説明に苦労した。
そして、父から縁談が切り出され、僕は思わず八条院に逃げ込み
―――御簾の向こうへ飛び込んだ。
「貞嘉。歌の先を私に求めないで。私たちは文字の上だけが、与えられた舞台なの」
「でも、歌は棄てないで。詠う為に、何度でも来て」
ひどいお方だ。
娶れなければ恋仲になることも許されないのに、
歌を交わす為だけに来て欲しいだなんて。
でも、織子様の言葉の意味が解らないほど僕は馬鹿でもない。
身分の低い母から生まれた皇女である彼女は幼い日に神託によって神に仕え、
青春の全てを神事に尽くし、病弱の為にその任を降りた。
その後、都が戦に巻き込まれる中で親王宣下も受けられなかった弟君は挙兵後敗死、
迫り来る秩序の崩壊に、彼女は為す術も無い、否、動く事すら許されない。
たった三十一字前後の連なりの上だけに、彼女の自由、幸福への翼は存在しているのだ。
若し僕が織子様を抱けば、遥か昔の悲劇
―――皇女は出家、男は絶望し放蕩の道に走った―――の再現だ。
若し僕が織子様から離れれば、
恋歌の相手を失くした彼女は身も心も凍てつくような孤独に取り残される。
だから、僕も共に触れられるようで触れられぬ恋の世界に身を置くことにしたのだ。
「今日は参内の日では御座いませぬか?」
「そうだった。なら身支度を早くしないとな」
***
嗚呼、クソ忌々しい、歌も碌に詠めぬ馬鹿ども!!
貴様らが我欲の為に争うから国土は荒れているんじゃないか!!
御蔭で我等貧乏貴族は生活に事欠く有様だ。
たった百首も詠んだ事のない人間が一人前に人の歌にケチつけているんじゃねぇ!!
上皇も歌より今様とかの方が好きとか、どんどん生きづらい事になっている。
その内、『血』が物を言わなくなる日も来るのだろうか。
来ないのだろうk――――「貞嘉、貞嘉、大変よ!!!」
え、何した姉上。
「今、内裏から文が届いて…織子様が…洛外追放されるらしいの」
***
「何でも、八条院の女院様の部屋の下から、呪詛の道具が見つかったらしいのよ。
どう考えても女院様の自作自演だけどさ、女院様は織子様が犯人って事に仕立て上げて、
体良く八条院から追い出したいらしいわ。
もしホントに洛外追放になったら織子様には供の方も少数しか許されないでしょうし、
下手したら姉弟揃って失職するk――−聞いているの!?」
あ。聞いていました。
確かに僕は目と口共に半開き、
動かしたら魂魄がどっかの穴から流出しそうな状態でしたが。
言い忘れていたけれど、織子様は八条院に居住されているが、八条院の主ではない。
神女の任を降りた後に、叔母の女院様のいる八条院に身を寄せたのだ。
しかし、大らかで、女房が季節に合わない着物でも注意しない女院様と、
常に身辺に気を配り、女性としての矜持を持って生活する織子様とでは合うはずも無い。
だからって、だからって。
「都の外は、妖怪だらけなのに…!!!」
洛外、そこは夜間妖怪の跋扈する危険な壁外。
殆どの妖怪は人間に対して敵意を持っていないが、一部では
『受領の若き従者、任地へ下る最中にかどわかされ行方不明』
『さらわれた里の娘によく似た妖怪を発見、新たな人さらいとして。
親は前世の因縁と諦め出家』
等の被害報告が寄せられている。
万一、織子様がその新たな住処への途上で、否、住処へ引っ越した後も一生涯ずっと。
敵意のある一部の妖怪による捕食、
悪くすれば、妖怪そのものへの変化に脅えなくてはならないとは。
そして、妖怪になってしまったら、その時は――――。
「牛鬼…狐…絡新婦…濡女…猫又…大百足…狸…ハァハァ」
「ちょっと、女を魔道に引きずり込む可能性のある妖怪名を羅列するのはいいけど、
『それ』に変わってしまった織子様の姿も同時に想像しているでしょ!
お前は織子様に対して淫らな妄想を向けすぎなのよ!!」
「僕は織子様が人で無くなったとしても愛する自信がある!!」
バキッ。
「大概にしろよ。貴様のやっている事は不敬罪に相当するのよ。
何時だったか月給全て寝具職人に渡して
織子様のお姿を映した詰め枕を作らせたことがあるじゃないの。
作り物とはいえ宮様のお姿を火にくべるのは心が痛んだわ」
「あー、あれ姉上だったのか!!実らぬ恋はああいう形でしか叶えられないのに!!」
「もう少し『真っ当』な相手でしたら、私も応援する気になったわよ。
けれど、貴方の恋は相手も破滅させるだけよ」
「僕だって越えてはいけない一線ぐらい把握しているってば!!」
「とっくに越えているわアホ!!」
…
「…話を戻して。とにかく、私たちは内裏の決定を覆せる立場ではない。
織子様には申し訳ないけれど…次の就職先を探す外なさそうね」
「…そうだろうね。僕も妖怪に勝てる武芸はないし」
都の外で争っていた武家達は、大抵の妖怪なら退けられる。
武装した寺社の坊主や、掠奪を生業とする盗賊も又然りだ。
それでも、それに該当する男たちもかどわかされていく…そんな事例も増えてきている。
ましてや、生まれつき身体が弱く、咳の発作がある僕はとても洛外で生を終えるまで
織子様のお側にいれるとは思えないのだ。
「私たちに出来る事と言えば
…織子様の旅路と、一生を加護されるように祈るばかりかしら」
「…それしか出来ないんだね。僕等には」
どうか、どうか、どうか。
宮廷内外の人の形をした妖怪に苦しめ続けられた織子様の前に、
今後如何なる妖怪も現れませんように。
***
羅生門の扉が閉じた。
私は二度と、都には戻れぬ身。
随行者は、僅かに牛車を操る者達と―――婢が二人。
「織子様…これから真っ直ぐ大原へ向かわれますか?」
「まずは、小倉山へ向かいましょう。
髪を落とす前に、鮮やかな紅葉をこの眼に焼き付けておきたいの」
大原で髪を落とすことは、決めていた。
自らの潔白を証明するために、そして――――戯れの恋を、退ける為に。
大原には、信頼する御坊がいる。
若しかしたら、私が真に惹かれていたのはあの方だったのかもしれない。
いずれにせよ、私は最初から恋など無用の身であった。
「私が尼になったら、貴女方も新しい主を見つけなさい。
私は自分の居所さえ見つけられないもの」
貴族出身の下男や家司、女房たちは、事前に暇を申付けた。
彼等や彼女等が新しい主を早く見つけられるように。
家司の彼―――貞嘉の取り乱し方は、相当の物であったが。
「歌人として名を馳せる筈の貴方が、洛外で土になる事は許しません!
今すぐお帰りなさい!もう二度と来てはいけません!!」
彼が門外まで追ってくるのではないかと、怖れていたが。
どうやらそれはないようで、安堵した。
と同時に、心にぽっかりと穴が開いた気がした。
「小倉山に庵を結びましょうか、別府まで足を伸ばしましょうか」
無論、洛外には多くの妖怪が跋扈していることも知らない訳ではない。
でも、この国の妖怪達は滅多なことでは人を襲わない。
中には男を攫い、女を魔道に引き込む者もいるというが、ほぼ例外に近い。
人間より仏の道に近い者達ではなかろうか。
***
深紅、真紅、黄肌、青。
牛車の向こうから、様々な色が、私達を取り囲んでいた。
私に許された、最後の鮮やかな世界。
勿論ずっとこれからも歌を詠む事は出来るが、旅に出る事は出来ないだろう。
先程の別府もものの例えであって、
生まれつき身体が弱く、しかも四十近い私にそんな徒歩の長旅は出来ない。
これからは墨染を纏い、この山の四季を詠おう。
「おりこさま…っ!!あ、あれ!!」
牛車が、不意に停まった。
男達の悲鳴が響き、駆け出す音が聞こえた。
続いて女達の悲鳴が上がり、転げ落ちるような音が響いた。
『妖怪が現れ、恐れをなした従者は牛車を置いて逃げ出した』。
その状況は容易に想像できた。
さて、今ざわざわと蠢く影は、
果たして本当に私に敵意を持って近づいているのだろうか。
私も髪を落とす決意をしているから、念仏を唱えながら食べられる覚悟は出来ている。
どうか、どうか。
魔道にだけは――――
「あれ、女の人?
こんなに綺麗な人なのに、どうしてそんな寂しそうな顔をしているの?」
眼前に現れた妖怪は、どんな絵巻でも見た事の無い、
時雨の季節にあって、尚青々とした蔓を従える少女であった。
14/07/22 00:01更新 / Inuwashi
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