勇者と魔王
1
「はぁ…はぁ…もう目の前だ!」
勇者ラインは魔王城の廊下を駆けている。
彼の右手には、青い蛍光が纏わっている一丁の長剣があった。しかしそれは単なる術式の効果ではない――刃の先は花のように咲き、一つの砲口が出された。真っ黒で冴えなく、でも何か複雑で網みたいな紋章が付けてる。ラインが歩を進めるたびに、蛍光の粒子が長剣から落ちている。
言わば、古典魔法と魔導科学のミックスである。さっきラインが魔人形を一ダース殴り倒したのは、こいつのおかげだった。
「絶対…絶対魔王を倒し、世界に平和を戻して見せる!空の彼方で私を見守ってください、ヘルシン先輩!」
ラインは更に右手に力を注ぐ。
現世代の魔王は女性なのに、その強さは底知らぬ。位に就いてからたった一年間、その四天王は人間の国を幾つも征服し、光の女神様もさぞ悲しいのだろう。それに、ラインが小さい頃からずっと憧れており、魔王を討伐に行った先代勇者ヘルシンも、その女の魔の手に罹って帰りに来なかった…
魔王がいるホールの重いドーアは、もう眼前だ。
これで全ての終わり。幾千の時間を越えた因果は今日で斬ってやる!魔王を倒したら、また平和と正義がこの大陸の上で輝く!
ポンンンンンンンンンンンン
「覚悟しろ、魔王!」
ラインは恰好よく一つの斬撃でドーアを切り裂いて、中に飛び込んだ。
「……」
「んぁ〜」
「……」
「……え?」
ラインは目の前の光景にびっくりした。
そこに魔王がいた。ドラゴンの骨で作られる玉座に、思ったより弱々しく、角と尻尾の生えている少女がいた。たぶん最初は筋肉系の男性魔王のため設計されたものなので、その王座は彼女にとってソファーのようで、繊細な足から地上まであと少し距離がある。
その魔王の膝に、ある男が頭を預けていた。魔王が爪の先で耳かきしてくれるのを楽しんでいるみたい。
「うんん〜」
「……」
「あ、そこちょっとくすぐったいから軽く掻いて。」
「要求の多い男ですわ…」
「そうそう〜そこだ。ありがとうリリス。」
「って、お客が来ましたよ。」
「うん?」
その男は崩れたドーアと呆れたラインへ視線を向けてくる。
ヘルシンだ。
先代勇者、最強人間と名乗る、軍隊にも匹敵と言われる存在。
魔王リリスの白い太ももを味わっている。
「えっと……すまん、どなた?」
「ヘ、ヘルシン先輩!?どうしてここに――」
魔王に殺されたはずだが。
「知り合い?」
「いゃ見たことない、たぶん。共通語で15秒の自己紹介をしてくれ。」
「わ、わたしはラインですよ!小さい時から最強勇者のヘルシン先輩に憧れて、あなたの姿に追うと誓って今まで頑張ってきたそのライン――」
「あぁ〜なんか複雑な設定なので止めとけ。タレントショーもパス。そう言われても思い出せないからとにかく出て行け。それにドーアをちゃんと閉めること。」
「ま、待ってくださいヘルシン先輩!せめてどうして魔王と一緒に――」
「はいはい〜『極電爆弾』〜」
「え!?」
ヘルシンは魔王リリスの膝に寝ていながら前へ手を出す、何かを掴んだように。
そして、まるで手品みたいに何もない虚空から電光の鎖が付いてる長剣を抜き出し、ラインに刃を向け、無詠唱で一つの巨大なライトニングボールを作り始めた。
ラインは慌てた。どうして自分の憧れる人はその女のそばに?どうして会ってから間もなく必殺技で彼を追い払うの?それに「勇者異聞録」によれば、ヘルシンが山さえ吹き飛ばせる『極電爆弾』を使う場合はスリーバーの詠唱が必要なのに――
相当な大きさを得たライトニングボールは、悄然と前へ発射された。
フンンンンン
一瞬にして、ラインはオレンジ色の混ざる狂乱な嵐に連れて行かれた。瞬く間に自分はもう魔王城でなく、幾千メートルの高空にいた。
くそ!一体なぜヘルシン先輩に嫌われたのか?それに彼は強すぎるじゃない!噂よりもずっと強いほど。まさか、以前は実力を隠していたなんて…
ところで、魔王ってこんなに可愛い女の子なんだ…ってなに考えてるんだ私!それは人間殲滅を企てる極惡な魔王だよ!
っと、あれこれを思いめぐらしながら、勇者ラインは天から落ちた。
2
ビビビビビビ〜
暖かい朝、時計術式の魔法音は魔王城のある寝室に響いた、豪華な羽毛製のマットレスを巻く音と共に。
「ふにゃん〜」
猫みたいな声を発して、ベッドから起きて欠伸をしたのは勇者ヘルシン。
現在二十二歳、魔王城に住んでいる。
「別人の家なのにこれまで思うままにして、九時になってこそベッドに立ち上がってドーアから入った私にパンツ姿を見せるなんて、私のほうが使用人になっている感じがするわ。」
「おはようリリス。」
「おはよ。」
十七歳の魔王少女リリスはコーヒポットを持って部屋に入った。でも実は、「便利ですから」と主張し午前九時までワンピース寝巻きを着たままの彼女は、ヘルシンをつっこむ資格がない。
「朝ごはんはアンジェリーナさんが作ったパンケーキとコーヒ。保温術式はあと少しで失効ですから急いで。」
「了解。」
ヘルシンはベッドから飛び降りて、スリッパを履いて隣のトイレへ行った。
アンジェリーナさんは魔王城のメイド長であり、種族はリリスと同じ悪魔である。昔ヘルシンが泊まることになった頃彼女は猛烈に反対した。仕事が倍増して自由時間が減るから。しかしヘルシンは週末掃除の手伝いを承諾したうえ、秘かにアンジェリーナさんに人間魔導師が作ったおもちゃを幾つか贈ったので、彼女はそれ以上言わなかった。
「いただきます。」
「いただきます。」
歯を磨き終わったヘルシンはリリスと一緒リビングルームに着いて、長い食卓の一角に座って、挨拶をした後パンケーキで腹を満たし始めた。メイド長姉さんが作った料理は変わらず美味しい。特にヘルシンとリリス各の分を準備したこと。ヘルシンはシュガーの多いほうが好きなんだ。
「昨日の名前知らず勇者君について。」
「(ゴムゴムゴム)?」
ヘルシンは口にパンケーキいっぱいなので、声がはっきり聞こえないが、リリスは別に気にせず話し続けた。
「もうあなた本人を目撃しましたけど、吹き飛ばしていいですか?それとも黙っているように注意しておくの?」
「構わない。どうせ全大陸で宣伝しても、人間達は『魔王の手に罹った勇者は洗脳されて魔王の手先になった』と認識するだろう。」
「魔族の急進派は謎の自信が生まれて、人間王国に挑発かもしれないよ。」
「人間や魔族なんてどうでもいい。」
「それもそうだね――さっき面白いことを考えついた:あなたは何を証拠に自分は彼らの思い通り、過去私に敗れて洗脳されて無自覚な人形になったのではないと信じているの?」
「うん、確かに面白い。『水槽の脳』みたいな命題だな。強いて言えば、決定論や自由意志なんては兎も角、俺の魔法力が下がらなかったことは証拠になれるかな?歴史上の例によって、魔法力というのは知恵や意志に関するもの。人形になった者は魔法が上手な訳がないと思う。」
「しかし、魔法の強さを決めるものは知恵でなく信念である――そう考える学者もいるわよ。だとしたら、ご主人の命令に絶対服従、心の揺れることない人形こそが魔法力が高いでしょう。」
「でも人形は高級な魔法スキールが出来ない。特に古典魔法。お前の洗脳術式は対象の思考と知恵を保つことが出来て、とても偉いと認めるが、古典魔法はね、知恵よりも直感がずっと重要なのだ。つまり脳が環境のインフォメーションを入力して、魔法陣の線の敷き方を無意識に調整するという生き物に限っている技術。例えお前が作った人形でも比べ物になれない。」
こうして、世間話で朝ごはんの時間を過ごした。
その後、二人は魔王城の地下図書館へ移って、ある機械の前に来た。机くらい高いその機械の上、半透明で円い魔法陣が立ち上がってくると共に、長方形の魔法陣が面前に浮かんだ。その中は大きさが異なる鍵があって、指で押すと円い画面で何か変化を起こす。
これは「コンピュータ」と呼ばれる、魔力によって作業する魔導機械である。発明されてからまだ五年しかない新しい物だが、通信や商売など色々な役に立つので、急成長が見込まれている。
「さすが人間という種族、創造力が高いわ、戦闘しか知らない荒っぽい魔族とまったく違っている…メニューはどのキーだっけ?」
「ζを付けたそれ。」
リリスはヘルシンの手引きでコンピュータが好きになってきた。最近は簡単なコンピュータゲームを作ってみた、魔物チェスとか。
「うん…いきなり知らないサイトが出たけど。」
「『大陸ニュース』か、新種類の迷惑メールだろう。その新聞社は最近お金が足りないかな。」
「あら、あなた話題になったね、『ショック!前勇者ヘルシンは少女魔王とハネームーン中!?女騎士は浮気男の過去を訴える!』って。」
「くだらん記者が作ったくだらんニュースだけだ。現在の新聞業界は発展し始めたばかりで、まだ保守主義のはずだから、午後までに削除されると思う。ちなみに、どうしてこの記者は『あの伝説級の魔王は伝説級の貧乳!?』まで詳しいのか実に面白い。」
「今画面がちらついたけど、大丈夫でしょうか。」
「外界の魔力場の激変化はプログラムに変な影響を与えかねない。しばらく放置したら回復してくれると思う。」
こうして、コンピュータに午前中を費やした。
昼ご飯を食べ終わった後、ヘルシンとリリスは魔王ホールに行った。毎日三時間以上玉座に座って勇者を待ち構えることは魔王の義務なので、つまらないながらもやらなきゃいけない。だからついでに昼寝ができる時間を選んだ。ヘルシンがリリスの膝枕耳かきを味わっているうちに寝入って間もなく、リリスも眠くなって、二人は互いに体を預けるまま穏やかな昼を過ごした。
午後4時、二人はコンピュータの前に戻って、魔物チェスを指した。一局ずつでは簡単すぎるので、十局を同時に楽しむことになった。最終スコアは36対44。
午後6時、ずっと家にいたせいでカロリーをあまり消費しなかった。太らないようにダイエットクッキーを食べながら歴史小説を読んでいた。意外に面白い展開なので、第二巻を探すことに結構時間がかかった。結局深夜まで書斎にいた。
翌日、日程が前とほとんど変わっていない。
その翌日、なんの変化もない。実はヘルシンが泊まってからこうだった。
穏やかで、素晴らしい毎日。
3
「外で事件が起きたみたいわね。『暴風城北方のオーロラの正体は?冒険者チーム帰還せず』って。」
「北方か…つまり転送門によって天界と繋がっているそこ?女神のヤツまた更年期障害か。」
「失礼だね。何と言ってもあなたに光属性の力を恵んだ存在だよ。でないと、あなたの実力では本当に私の手先しかならないわ。」
「…そんなものいらねぇよ。『光の洗礼』というものの、実際は監視のため一部の力を俺の身に宿すだけだ。光属性なんてただのおまけ。そもそも修行というのは、聖と魔のバランスを求めることだ。洗礼されたら聖の割が急に上がって、一時の力を得られるが、長い目で見ると良いものとは言えない。」
「あなたの修行論はともかく、あの女神さんは何か企んでいるかしら。前も魔物を殲滅して人間を再造したがるという噂が出たけど。」
「それはおめでたい。勇者の仕事を完璧に仕上げたんじゃないか。感謝するぞ。」
「まぁ、あなたがそれでよければね。どうせ四天王が生きるか死ぬかも私と関係ないし…あなたのターンだよ。」
「うん、一局a6、二局Nge7、三局Td7……」
ヘルシンとリリスはチェスをやりつつ世間話をしていた。
無関心な訳ではない。むしろ、無関心な訳がない。
かつて関心すぎて、熱心すぎて、物事を見極めただけに、自分がなにもできないという事実に気付いた時はがっかりした。
もし何も救えない、変えられないなら。
せめて、自分の世界に住ませて。
女神のヤツのように、自らの築いたエデンの園から踏み出さず、死ぬまで自己陶酔するくらいはできるだろう――そう思っていた。
残念なことに、世界は盛大なカーニバルのように、個人の意志を問わずダンスに誘う。
いつも隅で一人でいる暗い子は、逆に目を引きやすい。
「魔王様!勇者様!小説に夢中にならないで、あいつらはもう来たんです!」
「……うるせぇよ。あいつらってどっち?」
「どっちも同じです!機械天使軍はもうこの大陸を席巻しました。人間と魔族は連合軍のようなものを組みましたけど、相手は天使だから幾らでも無理です!現在は魔王城の外に立って反省していて、お二人の協力を願っています…っていうか窓を通して聞こえるんじゃないですか!?」
「いゃ、風が強くてよく聞こえない。」
「ゆう・しゃ・さ・ま!ずっと溜め込んで我慢してきました!今後魔王様とのラブラブオタク生活が続けられるためにも、少しでもやる気を出しなさい!」
「……お前が行ってみたらどうだ。天使なんて瞬殺だと思うぞ、マジで。」
っと、メイド長アンジェリーナさんにぶっつけられて壁に嵌められたヘルシンが呟いた。
「控え目に見積もって、その連合軍とやらはどれくらい耐えられるの?」
「全滅まであと三ヶ月だそうです、魔王様。」
「あのさ、リリスに結界でも張って、魔王城の辺りを一労永逸に外の世界から隔絶してもらえないか?」
「単純すぎるよ…私の結界は完璧じゃないもん。詠唱し続けないと女神さんの一撃で破れるよ。それに魔王城の食糧備蓄も限られっている。」
「じゃどうするつもりだ。」
「私は、別にどちらでも構わないけど。」
「そう…」
ヘルシンは乱れた髪を整えて、右手を前に伸ばして、虚空から久しぶりの愛剣「雷電のフルンティング」を抜き出した。その刃は錆びることなく、電光の鎖と共に照り輝いている。ただ、刃に映っているヘルシン本人の姿はどうもだらしなく、愛剣ほど元気ではなかった。
「まったく……人間と魔族なんてどうでもいいと言ったのにな」
4
無論、ヘルシンとリリスは戦争に大きな影響を与えた。
死んでしまったと思われていた歴代最強の勇者及び久しく顔を出せない伝説の魔王、どちらも天使にすら匹敵する存在。人魔連合軍の士気は大いに上がった。
「『極電爆弾』」
オレンジ色の光束がヘルシンの剣から放出し、何百もの機械天使を断ち切った途端、ヘルシンは剣を構え直して右から襲ってきた突撃型天使の長剣を防ぎ、彼女を天使軍の方へ全力で蹴った。
「切りがないな……あのクソ女神、なぜこんなにたくさんの魔導合金があるんだ?」
「よくできた。これでサラン地方の敵は連合軍が片付けられるほどに減った。次は西方地区に向かうわよ。」
リリスは長距離通信術式でヘルシンとの連絡を保つ。
「あのさ、戦争に行く兵士って辛いだぞ。特に暖かい参謀室で紅茶を飲みながら命令を下している誰かと比べると。」
「私だって結構忙しいよ。前の参謀さん達はね、なんと世界が終わりを迎えても自分の得ばかり考えていたわよ。お陰で色々な問題が残されて、一刻も早く処理したいわ。それに彼らの軍隊配置もバカみたい。」
「同感。特に魔法部隊が前線に派遣されたこと。」
今回ヘルシンは敵地に迷ったある魔法大隊を助けに来た。大体の魔法士は強化術式が上手なヘルシンと違って、補助魔法や遠距離攻撃魔法しかできないから、前線に行ったら逆に邪魔になる。
サラン地方の役目を果たした後、ヘルシンは風の如く大陸を駆け抜け続けた。西にある風雪城は攻城型天使の圧倒的な力に潰されたらしい。地形や天候のせいで他国の軍隊が行けないので、ヘルシンの他に頼る人がない――そう考えたらなんか自分かなり役に立った気がする。
「確かに役に立ったわ。主に人心を奮い立たせること。」
「もう承知しているからわざわざ言わないで欲しい。」
そう、いくら頑張っても、いくら命かけて戦っても、ヘルシンは士気を高めるマスコットみたいなものだけだ。人間や魔族達が希望を失わないように、彼らの前で雑兵を倒して腕を示すだけだ。
一方、参謀であるリリスは自分の才知を戦闘力と化し、戦争そのものに直接影響している。誰のほうが重要なのかは言うまでもない。
また、もし光の女神や御前天使に面したら、ヘルシンはあまり勝つ自信がない。
「感傷はあとにして、一つ言っておかないと――世界各地から『洗礼された勇者は女神の意志に蝕まれている』という情報が絶えず寄せられているけど、あなたは大丈夫?」
「大丈夫。」
なんてありえない。
ヘルシンもますます強く感じてきた、他の勇者の場合と少々異なるけど。ヘルシンが強い故に、女神が監視のために彼の身に宿した力も強い。それで今はその力でヘルシンを蝕みたいのではなく、どうやら奪い返そうとしているようだ。
当然ヘルシンはその女の思うままにさせるつもりはない。彼は一生懸命にその力を手に掴んでいる。戦争にはまだ価値があるからだな。そのせいで最近よく眠れなかった。
前はそんなセリフを言ったのに。なんと皮肉なものか。
おいおい、俺って勇者だろう、なんとなくコメディー系主人公になった感じがするけど。
「とにかく、私は今仕事で忙しいから、アンジェリーナさんが率いる魔族軍も結構離れている。私がそばにいない時、ちゃんと自分のことに気をつけなさい。」
「うん。安心しろ。」
ヘルシンは真面目そうに返事した。
5
どうしてだろうか、なんか寒い。
そして頭が痛え。
一体何が起きたのか?
頭の中がごちゃごちゃになっている……とりあえず今までのあらすじを整理しよう。
南方のグリーン地方に援助して、参謀室が立てた戦略を国王達に告知した後、南方軍と共に中部地方へ急いだ。
それで?
それで途中で天使に襲われた。機械天使ではなく、原初種だった。
別に自分の命を脅かす程度の量ではなかったが、人間と魔族にとっては大危機だった。
敵も味方も全滅し、自分だけが生きる訳にはいけない。士気が挫けるから。その故に兵士達を守りながら敵軍を倒さなければならない。しかも大規模攻撃魔法は禁止。
結局、敵を滅ぼした後こっちも相当な損をした。兵士達は皆疲れた、俺も。
その瞬間を待っていたかのように、女神のヤツは不意に俺に宿していた力を抜き出して、この長い綱引きの勝利を得た。
それと同時に、御前天使の三人は輝きつつ空から降り、数万人の南方軍の前に姿を現した。
仕方なく、辛いながらも緊急転送術式を使って、自分と御前天使達を50キロ離れた雪山へ転送した。相手は聖霊だから普通より何倍もの魔力を費やして、到着の瞬間血を吐いてしまった。
七大御前天使の二人はこの前やっつけたけど、それは一対一だった。最弱の一人は連合軍に取り囲まれてやられたらしい。しかし一対三はどうも困ったものだ、特にあのクソ女神がくれた光の力がなくなった以上。それでも痛みを我慢して天使達と戦って、その一人を計略で雪山に封じた自分は、誰か褒めてくれないかな。
それで?
それで力を尽くしたか、熾天使の「六枚の翼」が召喚した数え切れない金の羽根を避けられなくて、体が傷だらけになって、眼もひどく裂かれて見えなくなった。
その後は?
その後は多分智天使が振るっていた巨大化の金鎚に命中されて、ゴルフボールのように飛ばされて、雪山の峰にぶつかっただろうか。全身粉砕骨折は勿論、恐らく頭も花のように咲いて何枚かに割れただろう。
なるほど、これで分かったわ。
では、どうしてあなたはまだ生きているの。
それは多分…
「『魔力回路』、か。」
「正解。」
懐かしい声が聞こえた。
自分がちゃんと話せるということに驚かなくもないが、彼女なら十分ありえる。
ヘルシンは目を開いてみた。目に映ったのは自分の顔をじーっと見ているリリスだった。この体勢も懐かしいよな。彼女の太ももに頭を寄せて横になって、耳かきを楽しんだことを連想させる。
「魔力回路」はリリスの唯一無二の技であり、本来は臨時人形を作るための技だった。なにものであろうと、魔力を注いで回路を築けば、しばらくの改造と操縦ができる。魔力の最上級の運用と言っても過言ではない。普通は品物を対象とするけど、必要な時は人に使ってよし。例えば、神経の代わりに魔力の線で麻痺を苦しむ人を歩かせたり、魔力で水晶体を繕って盲人の視力を回復させたり。
さらに、魔力の橋で割れた脳を結び、脳死の人を蘇らせたりすることができる。
リリスは下を見て、別に悲しみはなく、ただ軽く溜め息を吐いた。
「どうしてここまで頑張るの?毎日毎日『世界の平和なんてどうでもいい』と愚痴を零していたでしょう。」
「なんというか…残り僅かな良心?」
「だからその悪役口調をやめてくれないかしら。」
「良心、言い換えれば公徳心、つまり規範意識である。か弱い人々は生存のために契約を結び群体になった。年月が経つごとにその不文律は公徳という偉そうな名前を名乗って、皆にいいと思われるようになった。理性的な思考でなく、社会の一員であるゆえ知らず知らずに受けた観念だから、誇りを持つべきじゃない。」
「それでも立派な勇者として歴史教科書に収録されると思うよ。」
「御前天使は?」
「もう片付けたわ。」
そう淡々と言うなよ……
確かに、よく考えればヘルシンは一度もリリスに勝ったことがない。むしろ一度も戦ったことがない。でも彼女は自分より戦闘が得意だと感じられる、特に小規模戦闘におけば。様々の結界や加護術式などで二人の御前天使を弄ぶのもおかしくない。
なんだ、結局俺弱いじゃん。
そこで、ヘルシンは一つ真面目なことに気づいた。
「リリス……この魔法、長く保てないよな?」
「私もそう思う。」
そう、「魔力回路」は完璧じゃない。世の中には完璧な物が存在しない。むしろ努力すべき方向を失って、完璧を目指すことさえできない場合が多い。
「言っとくけど、俺が死ぬまで見守ってそして自殺なんて言わせないぞ。」
「ええ、ご心配なく。」
「いゃ真剣です、お願いしますから。」
「目には目、歯には歯ということですわ。」
面倒くせえ……リリスはこんなわがままな子だっけ?
「まったく、好きにしろ…でも戦争は?戦争はどうするつもり?あなたの協力抜きには大変になるぞ。」
「機械天使はもう全滅。最強の御前天使もさっき連合軍に倒されたらしい。残っているのは女神さんだけ。もし魔族四天王に勇者兵団に一万人近くの魔導火力という組み合わせさえ女神を倒せないなら、そんな戦争は勝つ意味などないわ。」
「ふん……あ、そうだ。じゃ継承者は?魔王の位は世襲だ。しかしあなたまだ子供がないだろう?これは御先祖様が決めたしきたり、決して変えてはいかん。」
「大丈夫、人間の技術で済ませる。こういうこともあろうと思ったからずっと人工授精に必要な精子と卵細胞を集めていた。魔王城の冷蔵庫に十人分くらいがあると思う。アンジェリーナさんが代理母になると約束した。」
「意外な理由で反論された…自意識過剰だったら申し訳ないが、あなたと俺はしたことがないはず。それどころか互いの裸を見たことさえない。どうして精子を採集できるのか?」
「でも男性の欲望を処理する行為はしたのでしょう。パンツやティッシュなどに残ったのはまだ活性があるかも。アンジェリーナさんに掃除の時ついでに採集してもらった。」
「なんか知らないうちにプライバシーを犯された気がする。」
「仕方ない。これが社会というものですわ。」
「リリス、俺もうすぐ死ぬのだ。」
「誰だって死ぬのよ。人間も、魔族も、天使も。」
「死ぬのは嫌だな。」
「……」
ヘルシンはリリスの膝に頭―ではなく、頭の欠片を預けて、上向きの瞳は徐々に明るさを失っていく。
「死人は呼吸できない。感知できない。行動できない。思考できない。世界が美しくなろうと醜くなろうと一切見られない。自分がやり遂げた事も全部、いつかは砂浜の足跡のように波に消されていく。」
「確かね。」
「自分の存在がこれからなくなると意識して、悔しくて仕様がない。もう随分頑張っただろう。大根だと自覚しているけど、せめてエキストラとして認められたいな。」
「実はもっと自慢していいと思うよ。」
「あと、耳かき、もう味わえないかな。」
「残念なことに、あなたの耳は既に耳に見えないの。爪が入らないわ。」
「そうか。」
「でも安心しなさい。『魔力回路』はこんなことまでできるわよ。」
リリスはヘルシンの耳だったところを軽く撫でて、掌から紫色の魔法陣が浮かんできた。紫は寒色なのに、なんだか穏やかで安心できる。
そして、ヘルシンの大脳はその痺れるような感触を受けた。
耳が軽く掻かれるくすぐったさも、頬にくっつけるリリスの太ももの柔らかさも、そばにいてくれる彼女の温もりも。
「魔力で神経中枢を直接に刺激しているのよ。どうかしら、気持ちいい?」
「ああ……気持ちいい……」
このように、ヘルシンはリリスが与える慰めに溺れている。
何秒か後、ヘルシンは命を終えた。
雪に覆われた山々に、肌を刺すような寒風だけが吹き荒れている。
……
「もしもし、アンジェリーナさん?私考え直しました。やはり私の本質は感性で自己主義な魔物ですね。今女神さんへ突き進んでいる軍隊を全部止めてください。結界でも囲んで構いません。私すぐ行きます。」
6
「お母様、ご質問があります。」
「はい?」
「直接聞かせていただきます。私はお母様の実の子ではありませんよね?」
「…ある意味ではな。どうして分かる?」
「私は思っていました。遺伝学から言えば、明るくて積極的なお母様はどんな男性と結んでも、ひねくれた性格を持つ私を産めません。きっと両方が同様に暗くて一人ぼっちで、そしてある程度の才能が備えられているのでしょう。それについて、私はお母様が何か才能があるとは思いません――痛いですお母様。」
「大人の前で皮肉を言うな。社会に入ったら大変になる。」
「お母様、もう一つ。あの二人が暗くて一人ぼっちであるなら、どうして私を放って先に逝ったのか、私は理解できません。他人の気持ちなど全然興味ない以上、彼らは一体何のために命懸けで世界を救おうとしていたのですか?」
「知らん。いつか彼らの轍に踏んだら本人に聞け。」
「はぁ…はぁ…もう目の前だ!」
勇者ラインは魔王城の廊下を駆けている。
彼の右手には、青い蛍光が纏わっている一丁の長剣があった。しかしそれは単なる術式の効果ではない――刃の先は花のように咲き、一つの砲口が出された。真っ黒で冴えなく、でも何か複雑で網みたいな紋章が付けてる。ラインが歩を進めるたびに、蛍光の粒子が長剣から落ちている。
言わば、古典魔法と魔導科学のミックスである。さっきラインが魔人形を一ダース殴り倒したのは、こいつのおかげだった。
「絶対…絶対魔王を倒し、世界に平和を戻して見せる!空の彼方で私を見守ってください、ヘルシン先輩!」
ラインは更に右手に力を注ぐ。
現世代の魔王は女性なのに、その強さは底知らぬ。位に就いてからたった一年間、その四天王は人間の国を幾つも征服し、光の女神様もさぞ悲しいのだろう。それに、ラインが小さい頃からずっと憧れており、魔王を討伐に行った先代勇者ヘルシンも、その女の魔の手に罹って帰りに来なかった…
魔王がいるホールの重いドーアは、もう眼前だ。
これで全ての終わり。幾千の時間を越えた因果は今日で斬ってやる!魔王を倒したら、また平和と正義がこの大陸の上で輝く!
ポンンンンンンンンンンンン
「覚悟しろ、魔王!」
ラインは恰好よく一つの斬撃でドーアを切り裂いて、中に飛び込んだ。
「……」
「んぁ〜」
「……」
「……え?」
ラインは目の前の光景にびっくりした。
そこに魔王がいた。ドラゴンの骨で作られる玉座に、思ったより弱々しく、角と尻尾の生えている少女がいた。たぶん最初は筋肉系の男性魔王のため設計されたものなので、その王座は彼女にとってソファーのようで、繊細な足から地上まであと少し距離がある。
その魔王の膝に、ある男が頭を預けていた。魔王が爪の先で耳かきしてくれるのを楽しんでいるみたい。
「うんん〜」
「……」
「あ、そこちょっとくすぐったいから軽く掻いて。」
「要求の多い男ですわ…」
「そうそう〜そこだ。ありがとうリリス。」
「って、お客が来ましたよ。」
「うん?」
その男は崩れたドーアと呆れたラインへ視線を向けてくる。
ヘルシンだ。
先代勇者、最強人間と名乗る、軍隊にも匹敵と言われる存在。
魔王リリスの白い太ももを味わっている。
「えっと……すまん、どなた?」
「ヘ、ヘルシン先輩!?どうしてここに――」
魔王に殺されたはずだが。
「知り合い?」
「いゃ見たことない、たぶん。共通語で15秒の自己紹介をしてくれ。」
「わ、わたしはラインですよ!小さい時から最強勇者のヘルシン先輩に憧れて、あなたの姿に追うと誓って今まで頑張ってきたそのライン――」
「あぁ〜なんか複雑な設定なので止めとけ。タレントショーもパス。そう言われても思い出せないからとにかく出て行け。それにドーアをちゃんと閉めること。」
「ま、待ってくださいヘルシン先輩!せめてどうして魔王と一緒に――」
「はいはい〜『極電爆弾』〜」
「え!?」
ヘルシンは魔王リリスの膝に寝ていながら前へ手を出す、何かを掴んだように。
そして、まるで手品みたいに何もない虚空から電光の鎖が付いてる長剣を抜き出し、ラインに刃を向け、無詠唱で一つの巨大なライトニングボールを作り始めた。
ラインは慌てた。どうして自分の憧れる人はその女のそばに?どうして会ってから間もなく必殺技で彼を追い払うの?それに「勇者異聞録」によれば、ヘルシンが山さえ吹き飛ばせる『極電爆弾』を使う場合はスリーバーの詠唱が必要なのに――
相当な大きさを得たライトニングボールは、悄然と前へ発射された。
フンンンンン
一瞬にして、ラインはオレンジ色の混ざる狂乱な嵐に連れて行かれた。瞬く間に自分はもう魔王城でなく、幾千メートルの高空にいた。
くそ!一体なぜヘルシン先輩に嫌われたのか?それに彼は強すぎるじゃない!噂よりもずっと強いほど。まさか、以前は実力を隠していたなんて…
ところで、魔王ってこんなに可愛い女の子なんだ…ってなに考えてるんだ私!それは人間殲滅を企てる極惡な魔王だよ!
っと、あれこれを思いめぐらしながら、勇者ラインは天から落ちた。
2
ビビビビビビ〜
暖かい朝、時計術式の魔法音は魔王城のある寝室に響いた、豪華な羽毛製のマットレスを巻く音と共に。
「ふにゃん〜」
猫みたいな声を発して、ベッドから起きて欠伸をしたのは勇者ヘルシン。
現在二十二歳、魔王城に住んでいる。
「別人の家なのにこれまで思うままにして、九時になってこそベッドに立ち上がってドーアから入った私にパンツ姿を見せるなんて、私のほうが使用人になっている感じがするわ。」
「おはようリリス。」
「おはよ。」
十七歳の魔王少女リリスはコーヒポットを持って部屋に入った。でも実は、「便利ですから」と主張し午前九時までワンピース寝巻きを着たままの彼女は、ヘルシンをつっこむ資格がない。
「朝ごはんはアンジェリーナさんが作ったパンケーキとコーヒ。保温術式はあと少しで失効ですから急いで。」
「了解。」
ヘルシンはベッドから飛び降りて、スリッパを履いて隣のトイレへ行った。
アンジェリーナさんは魔王城のメイド長であり、種族はリリスと同じ悪魔である。昔ヘルシンが泊まることになった頃彼女は猛烈に反対した。仕事が倍増して自由時間が減るから。しかしヘルシンは週末掃除の手伝いを承諾したうえ、秘かにアンジェリーナさんに人間魔導師が作ったおもちゃを幾つか贈ったので、彼女はそれ以上言わなかった。
「いただきます。」
「いただきます。」
歯を磨き終わったヘルシンはリリスと一緒リビングルームに着いて、長い食卓の一角に座って、挨拶をした後パンケーキで腹を満たし始めた。メイド長姉さんが作った料理は変わらず美味しい。特にヘルシンとリリス各の分を準備したこと。ヘルシンはシュガーの多いほうが好きなんだ。
「昨日の名前知らず勇者君について。」
「(ゴムゴムゴム)?」
ヘルシンは口にパンケーキいっぱいなので、声がはっきり聞こえないが、リリスは別に気にせず話し続けた。
「もうあなた本人を目撃しましたけど、吹き飛ばしていいですか?それとも黙っているように注意しておくの?」
「構わない。どうせ全大陸で宣伝しても、人間達は『魔王の手に罹った勇者は洗脳されて魔王の手先になった』と認識するだろう。」
「魔族の急進派は謎の自信が生まれて、人間王国に挑発かもしれないよ。」
「人間や魔族なんてどうでもいい。」
「それもそうだね――さっき面白いことを考えついた:あなたは何を証拠に自分は彼らの思い通り、過去私に敗れて洗脳されて無自覚な人形になったのではないと信じているの?」
「うん、確かに面白い。『水槽の脳』みたいな命題だな。強いて言えば、決定論や自由意志なんては兎も角、俺の魔法力が下がらなかったことは証拠になれるかな?歴史上の例によって、魔法力というのは知恵や意志に関するもの。人形になった者は魔法が上手な訳がないと思う。」
「しかし、魔法の強さを決めるものは知恵でなく信念である――そう考える学者もいるわよ。だとしたら、ご主人の命令に絶対服従、心の揺れることない人形こそが魔法力が高いでしょう。」
「でも人形は高級な魔法スキールが出来ない。特に古典魔法。お前の洗脳術式は対象の思考と知恵を保つことが出来て、とても偉いと認めるが、古典魔法はね、知恵よりも直感がずっと重要なのだ。つまり脳が環境のインフォメーションを入力して、魔法陣の線の敷き方を無意識に調整するという生き物に限っている技術。例えお前が作った人形でも比べ物になれない。」
こうして、世間話で朝ごはんの時間を過ごした。
その後、二人は魔王城の地下図書館へ移って、ある機械の前に来た。机くらい高いその機械の上、半透明で円い魔法陣が立ち上がってくると共に、長方形の魔法陣が面前に浮かんだ。その中は大きさが異なる鍵があって、指で押すと円い画面で何か変化を起こす。
これは「コンピュータ」と呼ばれる、魔力によって作業する魔導機械である。発明されてからまだ五年しかない新しい物だが、通信や商売など色々な役に立つので、急成長が見込まれている。
「さすが人間という種族、創造力が高いわ、戦闘しか知らない荒っぽい魔族とまったく違っている…メニューはどのキーだっけ?」
「ζを付けたそれ。」
リリスはヘルシンの手引きでコンピュータが好きになってきた。最近は簡単なコンピュータゲームを作ってみた、魔物チェスとか。
「うん…いきなり知らないサイトが出たけど。」
「『大陸ニュース』か、新種類の迷惑メールだろう。その新聞社は最近お金が足りないかな。」
「あら、あなた話題になったね、『ショック!前勇者ヘルシンは少女魔王とハネームーン中!?女騎士は浮気男の過去を訴える!』って。」
「くだらん記者が作ったくだらんニュースだけだ。現在の新聞業界は発展し始めたばかりで、まだ保守主義のはずだから、午後までに削除されると思う。ちなみに、どうしてこの記者は『あの伝説級の魔王は伝説級の貧乳!?』まで詳しいのか実に面白い。」
「今画面がちらついたけど、大丈夫でしょうか。」
「外界の魔力場の激変化はプログラムに変な影響を与えかねない。しばらく放置したら回復してくれると思う。」
こうして、コンピュータに午前中を費やした。
昼ご飯を食べ終わった後、ヘルシンとリリスは魔王ホールに行った。毎日三時間以上玉座に座って勇者を待ち構えることは魔王の義務なので、つまらないながらもやらなきゃいけない。だからついでに昼寝ができる時間を選んだ。ヘルシンがリリスの膝枕耳かきを味わっているうちに寝入って間もなく、リリスも眠くなって、二人は互いに体を預けるまま穏やかな昼を過ごした。
午後4時、二人はコンピュータの前に戻って、魔物チェスを指した。一局ずつでは簡単すぎるので、十局を同時に楽しむことになった。最終スコアは36対44。
午後6時、ずっと家にいたせいでカロリーをあまり消費しなかった。太らないようにダイエットクッキーを食べながら歴史小説を読んでいた。意外に面白い展開なので、第二巻を探すことに結構時間がかかった。結局深夜まで書斎にいた。
翌日、日程が前とほとんど変わっていない。
その翌日、なんの変化もない。実はヘルシンが泊まってからこうだった。
穏やかで、素晴らしい毎日。
3
「外で事件が起きたみたいわね。『暴風城北方のオーロラの正体は?冒険者チーム帰還せず』って。」
「北方か…つまり転送門によって天界と繋がっているそこ?女神のヤツまた更年期障害か。」
「失礼だね。何と言ってもあなたに光属性の力を恵んだ存在だよ。でないと、あなたの実力では本当に私の手先しかならないわ。」
「…そんなものいらねぇよ。『光の洗礼』というものの、実際は監視のため一部の力を俺の身に宿すだけだ。光属性なんてただのおまけ。そもそも修行というのは、聖と魔のバランスを求めることだ。洗礼されたら聖の割が急に上がって、一時の力を得られるが、長い目で見ると良いものとは言えない。」
「あなたの修行論はともかく、あの女神さんは何か企んでいるかしら。前も魔物を殲滅して人間を再造したがるという噂が出たけど。」
「それはおめでたい。勇者の仕事を完璧に仕上げたんじゃないか。感謝するぞ。」
「まぁ、あなたがそれでよければね。どうせ四天王が生きるか死ぬかも私と関係ないし…あなたのターンだよ。」
「うん、一局a6、二局Nge7、三局Td7……」
ヘルシンとリリスはチェスをやりつつ世間話をしていた。
無関心な訳ではない。むしろ、無関心な訳がない。
かつて関心すぎて、熱心すぎて、物事を見極めただけに、自分がなにもできないという事実に気付いた時はがっかりした。
もし何も救えない、変えられないなら。
せめて、自分の世界に住ませて。
女神のヤツのように、自らの築いたエデンの園から踏み出さず、死ぬまで自己陶酔するくらいはできるだろう――そう思っていた。
残念なことに、世界は盛大なカーニバルのように、個人の意志を問わずダンスに誘う。
いつも隅で一人でいる暗い子は、逆に目を引きやすい。
「魔王様!勇者様!小説に夢中にならないで、あいつらはもう来たんです!」
「……うるせぇよ。あいつらってどっち?」
「どっちも同じです!機械天使軍はもうこの大陸を席巻しました。人間と魔族は連合軍のようなものを組みましたけど、相手は天使だから幾らでも無理です!現在は魔王城の外に立って反省していて、お二人の協力を願っています…っていうか窓を通して聞こえるんじゃないですか!?」
「いゃ、風が強くてよく聞こえない。」
「ゆう・しゃ・さ・ま!ずっと溜め込んで我慢してきました!今後魔王様とのラブラブオタク生活が続けられるためにも、少しでもやる気を出しなさい!」
「……お前が行ってみたらどうだ。天使なんて瞬殺だと思うぞ、マジで。」
っと、メイド長アンジェリーナさんにぶっつけられて壁に嵌められたヘルシンが呟いた。
「控え目に見積もって、その連合軍とやらはどれくらい耐えられるの?」
「全滅まであと三ヶ月だそうです、魔王様。」
「あのさ、リリスに結界でも張って、魔王城の辺りを一労永逸に外の世界から隔絶してもらえないか?」
「単純すぎるよ…私の結界は完璧じゃないもん。詠唱し続けないと女神さんの一撃で破れるよ。それに魔王城の食糧備蓄も限られっている。」
「じゃどうするつもりだ。」
「私は、別にどちらでも構わないけど。」
「そう…」
ヘルシンは乱れた髪を整えて、右手を前に伸ばして、虚空から久しぶりの愛剣「雷電のフルンティング」を抜き出した。その刃は錆びることなく、電光の鎖と共に照り輝いている。ただ、刃に映っているヘルシン本人の姿はどうもだらしなく、愛剣ほど元気ではなかった。
「まったく……人間と魔族なんてどうでもいいと言ったのにな」
4
無論、ヘルシンとリリスは戦争に大きな影響を与えた。
死んでしまったと思われていた歴代最強の勇者及び久しく顔を出せない伝説の魔王、どちらも天使にすら匹敵する存在。人魔連合軍の士気は大いに上がった。
「『極電爆弾』」
オレンジ色の光束がヘルシンの剣から放出し、何百もの機械天使を断ち切った途端、ヘルシンは剣を構え直して右から襲ってきた突撃型天使の長剣を防ぎ、彼女を天使軍の方へ全力で蹴った。
「切りがないな……あのクソ女神、なぜこんなにたくさんの魔導合金があるんだ?」
「よくできた。これでサラン地方の敵は連合軍が片付けられるほどに減った。次は西方地区に向かうわよ。」
リリスは長距離通信術式でヘルシンとの連絡を保つ。
「あのさ、戦争に行く兵士って辛いだぞ。特に暖かい参謀室で紅茶を飲みながら命令を下している誰かと比べると。」
「私だって結構忙しいよ。前の参謀さん達はね、なんと世界が終わりを迎えても自分の得ばかり考えていたわよ。お陰で色々な問題が残されて、一刻も早く処理したいわ。それに彼らの軍隊配置もバカみたい。」
「同感。特に魔法部隊が前線に派遣されたこと。」
今回ヘルシンは敵地に迷ったある魔法大隊を助けに来た。大体の魔法士は強化術式が上手なヘルシンと違って、補助魔法や遠距離攻撃魔法しかできないから、前線に行ったら逆に邪魔になる。
サラン地方の役目を果たした後、ヘルシンは風の如く大陸を駆け抜け続けた。西にある風雪城は攻城型天使の圧倒的な力に潰されたらしい。地形や天候のせいで他国の軍隊が行けないので、ヘルシンの他に頼る人がない――そう考えたらなんか自分かなり役に立った気がする。
「確かに役に立ったわ。主に人心を奮い立たせること。」
「もう承知しているからわざわざ言わないで欲しい。」
そう、いくら頑張っても、いくら命かけて戦っても、ヘルシンは士気を高めるマスコットみたいなものだけだ。人間や魔族達が希望を失わないように、彼らの前で雑兵を倒して腕を示すだけだ。
一方、参謀であるリリスは自分の才知を戦闘力と化し、戦争そのものに直接影響している。誰のほうが重要なのかは言うまでもない。
また、もし光の女神や御前天使に面したら、ヘルシンはあまり勝つ自信がない。
「感傷はあとにして、一つ言っておかないと――世界各地から『洗礼された勇者は女神の意志に蝕まれている』という情報が絶えず寄せられているけど、あなたは大丈夫?」
「大丈夫。」
なんてありえない。
ヘルシンもますます強く感じてきた、他の勇者の場合と少々異なるけど。ヘルシンが強い故に、女神が監視のために彼の身に宿した力も強い。それで今はその力でヘルシンを蝕みたいのではなく、どうやら奪い返そうとしているようだ。
当然ヘルシンはその女の思うままにさせるつもりはない。彼は一生懸命にその力を手に掴んでいる。戦争にはまだ価値があるからだな。そのせいで最近よく眠れなかった。
前はそんなセリフを言ったのに。なんと皮肉なものか。
おいおい、俺って勇者だろう、なんとなくコメディー系主人公になった感じがするけど。
「とにかく、私は今仕事で忙しいから、アンジェリーナさんが率いる魔族軍も結構離れている。私がそばにいない時、ちゃんと自分のことに気をつけなさい。」
「うん。安心しろ。」
ヘルシンは真面目そうに返事した。
5
どうしてだろうか、なんか寒い。
そして頭が痛え。
一体何が起きたのか?
頭の中がごちゃごちゃになっている……とりあえず今までのあらすじを整理しよう。
南方のグリーン地方に援助して、参謀室が立てた戦略を国王達に告知した後、南方軍と共に中部地方へ急いだ。
それで?
それで途中で天使に襲われた。機械天使ではなく、原初種だった。
別に自分の命を脅かす程度の量ではなかったが、人間と魔族にとっては大危機だった。
敵も味方も全滅し、自分だけが生きる訳にはいけない。士気が挫けるから。その故に兵士達を守りながら敵軍を倒さなければならない。しかも大規模攻撃魔法は禁止。
結局、敵を滅ぼした後こっちも相当な損をした。兵士達は皆疲れた、俺も。
その瞬間を待っていたかのように、女神のヤツは不意に俺に宿していた力を抜き出して、この長い綱引きの勝利を得た。
それと同時に、御前天使の三人は輝きつつ空から降り、数万人の南方軍の前に姿を現した。
仕方なく、辛いながらも緊急転送術式を使って、自分と御前天使達を50キロ離れた雪山へ転送した。相手は聖霊だから普通より何倍もの魔力を費やして、到着の瞬間血を吐いてしまった。
七大御前天使の二人はこの前やっつけたけど、それは一対一だった。最弱の一人は連合軍に取り囲まれてやられたらしい。しかし一対三はどうも困ったものだ、特にあのクソ女神がくれた光の力がなくなった以上。それでも痛みを我慢して天使達と戦って、その一人を計略で雪山に封じた自分は、誰か褒めてくれないかな。
それで?
それで力を尽くしたか、熾天使の「六枚の翼」が召喚した数え切れない金の羽根を避けられなくて、体が傷だらけになって、眼もひどく裂かれて見えなくなった。
その後は?
その後は多分智天使が振るっていた巨大化の金鎚に命中されて、ゴルフボールのように飛ばされて、雪山の峰にぶつかっただろうか。全身粉砕骨折は勿論、恐らく頭も花のように咲いて何枚かに割れただろう。
なるほど、これで分かったわ。
では、どうしてあなたはまだ生きているの。
それは多分…
「『魔力回路』、か。」
「正解。」
懐かしい声が聞こえた。
自分がちゃんと話せるということに驚かなくもないが、彼女なら十分ありえる。
ヘルシンは目を開いてみた。目に映ったのは自分の顔をじーっと見ているリリスだった。この体勢も懐かしいよな。彼女の太ももに頭を寄せて横になって、耳かきを楽しんだことを連想させる。
「魔力回路」はリリスの唯一無二の技であり、本来は臨時人形を作るための技だった。なにものであろうと、魔力を注いで回路を築けば、しばらくの改造と操縦ができる。魔力の最上級の運用と言っても過言ではない。普通は品物を対象とするけど、必要な時は人に使ってよし。例えば、神経の代わりに魔力の線で麻痺を苦しむ人を歩かせたり、魔力で水晶体を繕って盲人の視力を回復させたり。
さらに、魔力の橋で割れた脳を結び、脳死の人を蘇らせたりすることができる。
リリスは下を見て、別に悲しみはなく、ただ軽く溜め息を吐いた。
「どうしてここまで頑張るの?毎日毎日『世界の平和なんてどうでもいい』と愚痴を零していたでしょう。」
「なんというか…残り僅かな良心?」
「だからその悪役口調をやめてくれないかしら。」
「良心、言い換えれば公徳心、つまり規範意識である。か弱い人々は生存のために契約を結び群体になった。年月が経つごとにその不文律は公徳という偉そうな名前を名乗って、皆にいいと思われるようになった。理性的な思考でなく、社会の一員であるゆえ知らず知らずに受けた観念だから、誇りを持つべきじゃない。」
「それでも立派な勇者として歴史教科書に収録されると思うよ。」
「御前天使は?」
「もう片付けたわ。」
そう淡々と言うなよ……
確かに、よく考えればヘルシンは一度もリリスに勝ったことがない。むしろ一度も戦ったことがない。でも彼女は自分より戦闘が得意だと感じられる、特に小規模戦闘におけば。様々の結界や加護術式などで二人の御前天使を弄ぶのもおかしくない。
なんだ、結局俺弱いじゃん。
そこで、ヘルシンは一つ真面目なことに気づいた。
「リリス……この魔法、長く保てないよな?」
「私もそう思う。」
そう、「魔力回路」は完璧じゃない。世の中には完璧な物が存在しない。むしろ努力すべき方向を失って、完璧を目指すことさえできない場合が多い。
「言っとくけど、俺が死ぬまで見守ってそして自殺なんて言わせないぞ。」
「ええ、ご心配なく。」
「いゃ真剣です、お願いしますから。」
「目には目、歯には歯ということですわ。」
面倒くせえ……リリスはこんなわがままな子だっけ?
「まったく、好きにしろ…でも戦争は?戦争はどうするつもり?あなたの協力抜きには大変になるぞ。」
「機械天使はもう全滅。最強の御前天使もさっき連合軍に倒されたらしい。残っているのは女神さんだけ。もし魔族四天王に勇者兵団に一万人近くの魔導火力という組み合わせさえ女神を倒せないなら、そんな戦争は勝つ意味などないわ。」
「ふん……あ、そうだ。じゃ継承者は?魔王の位は世襲だ。しかしあなたまだ子供がないだろう?これは御先祖様が決めたしきたり、決して変えてはいかん。」
「大丈夫、人間の技術で済ませる。こういうこともあろうと思ったからずっと人工授精に必要な精子と卵細胞を集めていた。魔王城の冷蔵庫に十人分くらいがあると思う。アンジェリーナさんが代理母になると約束した。」
「意外な理由で反論された…自意識過剰だったら申し訳ないが、あなたと俺はしたことがないはず。それどころか互いの裸を見たことさえない。どうして精子を採集できるのか?」
「でも男性の欲望を処理する行為はしたのでしょう。パンツやティッシュなどに残ったのはまだ活性があるかも。アンジェリーナさんに掃除の時ついでに採集してもらった。」
「なんか知らないうちにプライバシーを犯された気がする。」
「仕方ない。これが社会というものですわ。」
「リリス、俺もうすぐ死ぬのだ。」
「誰だって死ぬのよ。人間も、魔族も、天使も。」
「死ぬのは嫌だな。」
「……」
ヘルシンはリリスの膝に頭―ではなく、頭の欠片を預けて、上向きの瞳は徐々に明るさを失っていく。
「死人は呼吸できない。感知できない。行動できない。思考できない。世界が美しくなろうと醜くなろうと一切見られない。自分がやり遂げた事も全部、いつかは砂浜の足跡のように波に消されていく。」
「確かね。」
「自分の存在がこれからなくなると意識して、悔しくて仕様がない。もう随分頑張っただろう。大根だと自覚しているけど、せめてエキストラとして認められたいな。」
「実はもっと自慢していいと思うよ。」
「あと、耳かき、もう味わえないかな。」
「残念なことに、あなたの耳は既に耳に見えないの。爪が入らないわ。」
「そうか。」
「でも安心しなさい。『魔力回路』はこんなことまでできるわよ。」
リリスはヘルシンの耳だったところを軽く撫でて、掌から紫色の魔法陣が浮かんできた。紫は寒色なのに、なんだか穏やかで安心できる。
そして、ヘルシンの大脳はその痺れるような感触を受けた。
耳が軽く掻かれるくすぐったさも、頬にくっつけるリリスの太ももの柔らかさも、そばにいてくれる彼女の温もりも。
「魔力で神経中枢を直接に刺激しているのよ。どうかしら、気持ちいい?」
「ああ……気持ちいい……」
このように、ヘルシンはリリスが与える慰めに溺れている。
何秒か後、ヘルシンは命を終えた。
雪に覆われた山々に、肌を刺すような寒風だけが吹き荒れている。
……
「もしもし、アンジェリーナさん?私考え直しました。やはり私の本質は感性で自己主義な魔物ですね。今女神さんへ突き進んでいる軍隊を全部止めてください。結界でも囲んで構いません。私すぐ行きます。」
6
「お母様、ご質問があります。」
「はい?」
「直接聞かせていただきます。私はお母様の実の子ではありませんよね?」
「…ある意味ではな。どうして分かる?」
「私は思っていました。遺伝学から言えば、明るくて積極的なお母様はどんな男性と結んでも、ひねくれた性格を持つ私を産めません。きっと両方が同様に暗くて一人ぼっちで、そしてある程度の才能が備えられているのでしょう。それについて、私はお母様が何か才能があるとは思いません――痛いですお母様。」
「大人の前で皮肉を言うな。社会に入ったら大変になる。」
「お母様、もう一つ。あの二人が暗くて一人ぼっちであるなら、どうして私を放って先に逝ったのか、私は理解できません。他人の気持ちなど全然興味ない以上、彼らは一体何のために命懸けで世界を救おうとしていたのですか?」
「知らん。いつか彼らの轍に踏んだら本人に聞け。」
15/06/23 20:45更新 / ぁぃぅぇぉ