それはカフェかもしれないし、カレー屋さんだったかもしれない
時刻は12時を少し回ったところ。
ビルの谷間から差し込む日差しは、冬にしては少し汗ばむほどだ。
そんな俺、飯田ジョー(33歳・営業職)は、ネクタイを少し緩め、大きく息を吐いた。
午前の商談は、予想以上に難航した。だが、粘り強い交渉の末、なんとか契約までこぎつけたのだ。今の俺の身体は、達成感という名の心地よい疲労と、それ以上に強烈な「空腹」に支配されている。
(さて・・・俺の胃袋は、今、何を欲している?)
大通り沿いのチェーン店か? いや、今日の俺はもっと静かな、それでいて心を満たしてくれる何かを求めている。
雑踏を避け、ふらりと路地裏へ足を向けたその時だった。
――フワッ。
鼻孔をくすぐる、芳醇な香り。これは・・・コーヒーだ。それも、深煎りの豆を丁寧にハンドドリップした時にだけ立ち上る、極上のアロマ。焦げたような苦味の奥に、確かな甘みを感じさせる香り。
(ほう、こんな裏路地に喫茶店か。悪くない)
香りの糸に引かれるように、飯田はさらに奥へと進む。古びたレンガ造りの建物の角を曲がると、そこにはひっそりと、しかし確かな存在感を放つ木製の看板が掲げられていた。
『オウルメイジさんかふぇ』
フクロウの絵が描かれた看板は、隠れ家的な名店のオーラを漂わせている。なるほど、喫茶店のランチか。厚切りのトーストに、こだわりのブレンドコーヒー。あるいは昔ながらのナポリタンというのも捨てがたい。
午後の仕事までの束の間、静寂と紫煙の中でページを捲りながら、遅めの朝食兼昼食を摂る。それこそが、今の俺に相応しい「大人の休息」だ。
(決まりだ。今日はここにするか)
飯田が革靴のつま先を店に向け、ドアノブに手をかけようとした、その瞬間である。
――ベニョーン、ポロン、タラララ〜ン♪
突如、頭上から謎の効果音が響いた。
どこか間の抜けた、しかし妙に耳に残る、シタールのような音色。インディアンな旋律が路地裏の空気を震わせる。
「・・・ん?」
飯田が音が鳴る方へと顔を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできた。重厚な木製の看板が、まるでからくり人形のように パタリ と反転したのだ。
『Curry House おうるめいじ』
文字フォントが、明朝体から一気に極太のポップ体へ。
フクロウのイラストも、学帽を被った知的な姿から、ターバンを巻き、額にビンディを付けた怪しげな姿へと変貌している。
(な、なんだ今の仕掛けは・・・!?)
驚愕する飯田を、さらなる衝撃が襲う。先ほどまでの優雅なコーヒーの香りが、一瞬にして塗り替えられたのだ。
――ドオオォォォン!!
それは、香りの爆発だった。
クミン、コリアンダー、カルダモン、クローブ。複雑怪奇に絡み合った数十種類のスパイスが、換気扇から奔流となって溢れ出し、路地裏を黄金色の熱気で満たしていく。
鼻の奥を突き抜け、脳髄を直接揺さぶるような、強烈かつ暴力的なまでの食欲への挑発。
(なんだ、この匂いは・・・!ただのカレーじゃない。胃袋を鷲掴みにされ、引きずり込まれるようだ!)
口の中に、唾液が津波のように溢れ出す。サンドイッチ? コーヒー?そんな優雅な選択肢は、スパイスの嵐に吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。
今の俺の身体は、猛烈に、死ぬほどに、「カレー」を求めている。この扉の向こうに待ち受けるのが、灼熱の地獄だろうと構わない。
(・・・受けて立とうじゃないか)
飯田ジョーは、もはや抗うことをやめた。導かれるように、その重い扉を押し開ける。
カラン、コロン。
軽やかなベルの音と共に足を踏み入れると、そこは異界だった。外の喧騒が嘘のように遮断された店内。薄暗い照明が、壁一面を埋め尽くす、カレーへの執着に満ちた本棚を照らし出している。
煮込まれた野菜の甘い湿気と、鼻腔を刺すクミンの鋭利な刺激が渦巻く空間。その発生源たるカウンターの奥に、その人物はいた。
(・・・っ!?)
飯田は息を呑んだ。
そこに佇んでいたのは、オウルメイジ――フクロウの魔物娘だ。
だが、ただの魔物娘ではない。
まず目を奪われるのは、その圧倒的なまでの「モフモフ」だ。身体を覆う豊かな羽毛は、極上のシルクすら凌駕するであろう、見るからに柔らかそうな質感。思わず顔を埋めたくなる衝動を必死に抑えなければならないほどだ。
そして、そのモフモフの頭には、エキゾチックな刺繍が施された鮮やかなターバンが巻かれている。首元や腕には、銀やターコイズをあしらったインディアンジュエリーがジャラジャラと輝き、羽毛の白さと鮮烈な対比を描いていた。
知的な丸眼鏡の奥から覗くのは、息をのむほどの美貌。賢者としての知性と、猛禽類としての野性が同居した、神秘的な黄金色の瞳。
それは、とんでもない美女だった。異国の高貴な巫女が、なぜかカレー鍋の前で降臨しているような、神々しさすら感じる。
そして何故だか分からないが、彼女は「カレー長」という名で呼び親しまれている・・・そんな確信があったのだ。
そんなカレー長たる彼女は、鍋をかき混ぜる手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
視線が合う。
彼女は口を開かない。ただ静かに、値踏みするようにじっと飯田を見つめているだけだ。
「あの、すいませ・・・」
飯田が気圧されながら声をかけようとした、その時。
『・・・イラッシャイマセッ』
脳内に直接、奇妙な音が響いた。
「え?」
飯田は周囲を見回すが、他に人はいない。店主の口も、固く閉ざされたままだ。
『Curry House オウルメイジ ヘ ヨウコソ・・・』
再び響く声。それは、古いラジオから流れてくるような、少しノイズ混じりの、それでいて妙に心地よい響き。明らかにカタコトなその言葉は、鼓膜ではなく、脳髄を直接震わせていた。
(て、テレパシー!? さすが賢者、言葉を発するまでもないということか・・・!)
彼女の黄金色の瞳が、「ソコニ、スワレ」と語りかけてくる。飯田はその圧倒的な目力と、脳内に響く不思議な声に導かれるように、フラフラとカウンター席へ引き寄せられた。
椅子に腰を下ろすと、再び脳内に声が響く。
『チュウモンハ? ・・・ト キクマデモ ナイネ。キミノ イブクロハ、スデニ ワタシノ Curry ヲ モトメテイル』
丸眼鏡の奥で、カレー長の瞳がニヤリと笑ったように見えた。こちらの思考も空腹具合も、全てお見通しというわけだ。
『メニュー ハ・・・ Curry ト サラダ。ソシテ コーヒー。・・・コレ ダケ』
潔い。直球勝負だ。俺の返答を待たず、さらに畳み掛けてくる。
『コーヒー ハ・・・サキ ニ ノム? ・・・ソレトモ、ショクゴ?』
なるほど、セット内容は固定だが、コーヒーのタイミングは選べるというわけか。
このスパイシーな香りの渦中でコーヒーを先に飲むのは無粋というものだろう。カレーの余韻を、最後にビターな一杯で締める。それが定石だ。
「・・・食後で、お願いします」
俺が短く答えると、彼女は満足げにコクリと頷いた。その仕草に合わせて、首元のインディアンジュエリーがジャラリと涼やかな音を立てる。
そして、彼女はカウンターの隅にある小さな黒板――そこには何も書かれていないはずだったが――に視線を向けさせ、最後にこう告げた。
『オダイ ハ・・・500エン、ダヨ』
(・・・はい?)
一瞬、思考が停止した。
500円?
ワンコイン?
サラダとコーヒーが付いて?
(安っっす!!)
飯田ジョーの脳内で、絶叫がこだました。この物価高のご時世に、しかもこんなこだわり抜いたスパイスの香りを漂わせておいて、たったの500円だと?
社員食堂だって、もう少し取るぞ。まさか、魔力でコストを削減しているのか? それとも、この店は森の賢者の道楽なのか?
『・・・フクロウ ハ、カネ ニ シュウチャク シナイ。・・・ Spice ヲ ヒロメル コト コソ ガ、シンリ』
こちらの動揺を見透かしたように、彼女――カレー長は、フンと鼻を鳴らした(ように見えた)。そして、バサリと袖のような羽を翻し、湯気の立つ寸胴鍋へと向き直る。
カチャ、カチャ。
お玉が鍋底をこする音が、静かな店内に響く。その背中――いや、モフモフの羽毛に覆われた後ろ姿からは、タダモノではないオーラが漂っている。
まず運ばれてきたのは、小ぶりな木のボウルに入ったサラダだ。だが、ただの生野菜ではない。紫色の葉野菜や、見たこともない形状の根菜が混じり、ドレッシングからは柑橘系ともハーブともつかない爽やかな香気が漂っている。
(・・・美味い。シャキシャキとした食感と共に、身体の毒素が抜けていくようだ)
前菜でこれだ。期待値は嫌でも高まる。サラダを平らげ、一息ついたその時だった。厨房の奥から、重厚な気配が近づいてくる。
オウルメイジ――カレー長が、盆を恭しく捧げ持ち、音もなく滑るように近づいてきた。その丸眼鏡が、怪しく光る。
『オマチドオサマ・・・』
脳内に響く、いつものノイズ混じりのカタコト声。だが、彼女が皿をテーブルに置いた瞬間、その「声」の質感が一変した。
『コレガ、ワタシノ タドリツイタ・・・ Ultimate Spice Curry ダ』
(えっ?)
今、何て言った?Ultimate Spice Curry?そこだけ、まるでBBCのナレーターのような、あまりにも流暢で重厚なネイティブ発音だったぞ!?
飯田がそのギャップに唖然として顔を上げると、カレー長は何食わぬ顔で(というより、少しドヤ顔で)眼鏡の位置を直している。
『サア、トレイ ノ Spoon ヲ ツカッテ・・・ Enjoy シテクレ』
(まただ! なぜそこだけ発音が良くなる!?)
ツッコミたい。猛烈にツッコミたいが、目の前に置かれた「それ」が、飯田の思考を強制停止させた。
そこにあるのは、カレーという名の小宇宙(コスモ)だった。
ライスは白米ではない。鮮やかな黄金色のターメリックライス。その頂には、フライドオニオンが王冠のように鎮座している。
そして、その島を取り囲むルーの海。色は深い、限りなく深いダークブラウン。だが、ただ暗いだけではない。照明を受けて、赤、緑、オレンジと、数多のホールスパイスが宝石のように煌めいているのだ。
湯気と共に立ち上る香りは、もはや暴力。クミンの野性味、カルダモンの清涼感、そして正体不明の甘く妖艶な香り。それらが渾然一体となり、鼻腔を突き抜け、脳の快楽中枢を直接ノックしている。
『・・・Don't think. Feel.』
再び脳内に響く、無駄に良い発音の格言。
ーー考えるな、感じろ。飯田は頷き、その黄金の山へとスプーンを突き立てた。
ゴクリ、と喉が鳴る。スプーンの上で揺れる褐色の液体と、黄金色のライス。湯気からは、相変わらず得体の知れない妖艶なスパイスの香りが立ち上っている。
(・・・行くぞ)
飯田は意を決し、恐る恐るスプーンを口へと運んだ。
パクッ。瞬間――。
(・・・ッ!? 辛ッ!!)
舌に乗せた刹那、電流のような刺激が走った。
熱い。痛い。
これは唐辛子か? それとも胡椒か?反射的に水へ手が伸びそうになった、その時だ。
――スゥゥッ・・・。
嘘のように、その強烈な熱波が引いていく。まるで魔法だ。嵐が去った後の静寂のように、口内には痛みではなく、幾重にも重なった香りの余韻だけが残された。
(・・・なんだ、これは?)
鼻孔をくすぐるクミン。喉の奥で踊るカルダモン。そして、噛み締めた瞬間に弾けるホールスパイスの食感。複雑怪奇なオリエンタルの風が、俺の口の中で吹き荒れている。
(・・・うまい。・・・いや、めちゃくちゃ美味いぞ、これ!!)
飯田の瞳が見開かれる。辛さはただの起爆剤だったのだ。その後に訪れる、野菜と肉の凝縮された旨味。そして、脳髄を痺れさせるようなスパイスの多幸感。
カチャッ。カチャッ。
もう、止まらない。
スプーンが意志を持ったかのように、次々とカレーの山を崩し、口へと運び続ける。
(この肉も凄い。舌で押すだけで解ける。脂の甘みがスパイスの鋭さを包み込んで・・・)
夢中で食べ進めるうちに、再びじわりと額に汗が滲んできた。心地よい熱さだ。だが、少し口の中をリセットしたい。
飯田は、カレーの横に添えられていた、氷の入ったグラスに手を伸ばした。
――ラッシーだ。
ストローでひと口吸い上げる。
ズズッ。
(・・・あぁ〜〜、これだ)
冷たく、濃厚なヨーグルトの風味。そして、絶妙な甘酸っぱさが、火照った舌を優しく撫でていく。スパイスで敏感になった味覚に、この爽やかな甘さは反則級の相性だ。
口の中がリセットされると、また無性にあの刺激が恋しくなる。
カレー、ラッシー、カレー、ラッシー。
この無限ループ、抜け出せる気がしない。
(・・・って、思わず飲んでしまったが、俺はラッシーなんて頼んでいないはずだ)
確かメニューは、カレーとサラダ、そしてコーヒーだけだった。まぁ、いい。これだけ美味いんだ。追加料金を払うのは構わないのだが――。
そう思いかけた、その時だった。
『Lassi ハ ヒツジュヒン・・・ ダカラ ツケルノハ トウゼン』
相変わらずのカタコトの中に混じる、流暢すぎるネイティブ発音。
『コレデ 500エン。・・・モンク アル?』
文句?無い、あるわけがない。むしろ、安すぎて申し訳なくなるレベルだ。この店、完全に採算を度外視している。スパイスへの愛と、客への「布教」だけを考えているとしか思えない。
(すげぇ店だ・・・)
飯田は心の中で脱帽した。ここはただの喫茶店・・・じゃなくてカレー屋さんではない。森の賢者が運営する、奇跡の Curry House だったのだ。
ーーカチャリ。
スプーンが皿に触れる乾いた音が、完食の合図だった。飯田は大きく息を吐き、背もたれに体重を預けた。胃袋は満たされ、身体中をスパイスの熱が駆け巡っている。額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、余韻に浸る。
(・・・凄かった。嵐のようなランチだった)
500円という価格設定もさることながら、あの味の深淵。俺は今日、路地裏でとんでもない秘境を見つけてしまったのかもしれない。
その時だ。
カラン、コロン♪
入り口のドアベルが、軽快に鳴り響いた。飯田がなんとなく振り返ると、そこにはまた別の影があった。
(ん? 客か?)
いや、違う。入ってきたのは、先ほどの店主――カレー長よりも二回りは小さい、小柄な魔物娘だった。
種類で言えば、コキンメフクロウといったところか。丸みを帯びた愛らしいフォルムに、白と褐色のまだら模様の羽毛。
だが、その服装は奇妙に「堅い」。
清潔な白シャツに、黒のネクタイをキッチリと締めているのだ。まるで、仕事帰りのサラリーマンか、あるいは執事のように。
さらに異様なのは、彼女の周囲だ。スーパーのロゴが入った紙袋が3つ、4つ。彼女の手ではなく、その周囲の宙にふわりふわりと浮遊している。
(・・・浮いてる。魔法か。便利だな)
飯田が呆気にとられていると、そのコキンメフクロウは、店内に充満する濃厚なスパイスの香りに気づき、ビクリと羽を逆立てた。
そして、鋭い視線をカウンターの中のカレー長へと向ける。
『・・・ッ! マタ カッテニ カレーヤサン ニ シテル!』
脳内に響く、高い少女のような、しかしキリキリと怒気の混じったテレパシー。それは先ほどのノイズ混じりの声とは違う、クリアで生真面目そうな声質だった。
カウンターの中、カレー長がバツが悪そうに視線を逸らす。
『・・・チッ。 マネージャー ノ キタク カ。・・・タイミング ガ ワルイ』
カレー長は、ボソリとネイティブ発音を交えて愚痴ると、そそくさと寸胴鍋の蓋を閉じた。どうやら、この店本来の主人は、この小さなコキンメフクロウの方らしい。
ーーその名を「コキンメ店長」・・・これまた何故だか分からないが、その名で親しまれているのだということが理解できる。
コキンメ店長は浮遊させていた荷物をカウンターの奥へと流れるように移動させると、パタパタと短い歩幅でこちらへ近づいてきた。
『モウ! ニオイ ガ ウツッチャウ デショ! ・・・ゴメンナサイ オキャクサマ。スグ ニ コーヒー ヲ イレマス ネ』
コキンメ店長は、カレー長とは対照的に、申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。そして、手際よくネクタイを正すと、カウンターの中にあったサイフォンへと手を伸ばす。
ここからは、コキンメ店長のターンだ。
カレー長が「動」なら、コキンメ店長は「静」。
先ほどまでの荒々しいスパイスの熱気が、彼女の所作ひとつで、凛とした静寂へと塗り替えられていく。
コポコポ、コポ・・・。
湯の沸く音。挽きたての豆が膨らむ様子。やがて漂ってきたのは、あの入店直前に嗅いだ、深みのある珈琲のアロマだった。
目の前に置かれたのは、湯気を立てる白磁のカップ。中には、黒く、それでいて光を吸い込むような深みを持った液体が静かに波打っている。
飯田ジョーは、もう一度深く呼吸を整えた。
先ほどまでのスパイスの嵐――あの極彩色のカーニバルのような熱狂が、嘘のように引いていく。
店内の空気は、この小さな「コキンメ店長」がカウンターに立った瞬間から、凛とした静寂に包まれていた。
コポコポ、とサイフォンの残り湯が微かな音を立てる。それ以外の音はない。まるで、森の図書館の最奥に迷い込んだかのような静けさだ。
(さて、お手並み拝見といこうか)
飯田はカップの取っ手に指をかけ、ゆっくりと顔に近づけた。
――フワッ。
その瞬間、鼻腔を撫でたのは、とてつもなく「高貴」な香りだった。それは単純な焙煎の香ばしさではない。
濡れた土の匂い、古い革表紙の本、そして夜露に濡れた果実のような、しっとりとした甘い湿り気を含んだアロマ。スパイスで麻痺しかけていた嗅覚が、その優雅な香りによって、一瞬にしてリセットされ、覚醒させられる。
(・・・ほう。これは、期待以上かもしれない)
唇をカップの縁に寄せる。熱すぎず、ぬるすぎない。唇が触れただけでわかる、完璧な温度管理。艶やかな漆黒の液体が、ゆっくりと口内へと滑り込む。
――チャプ。
(・・・ッ!!)
言葉を失った。
思考が、真っ白に染め上げられた。
苦い? 酸っぱい?そんな陳腐な味覚の座標軸では、この珈琲は語れない。
まず感じるのは、絹(シルク)のような滑らかさだ。液体であるはずなのに、まるで上質なオイルのように舌に絡みつき、重厚な質量を持って喉の奥へと落ちていく。
雑味が、一切ない。一粒の塵すら許さない潔癖なまでに澄み渡った「黒」が、俺の身体に浸透していく。
(なんだ、これは・・・透明だ。黒いのに、限りなく透明だ)
そして、飲み込んだ直後に訪れる、爆発的な「返り香」。喉の奥から鼻へと抜ける瞬間に、カカオのようなビターな苦味と、完熟したベリーのようなフルーティな酸味が、花火のように弾けた。
美味い。
いや、美味いという言葉すら生温い。
これはもはや「魔性」だ。先ほど食べたカレーのスパイス――クミンやコリアンダーの強烈な残響が、この珈琲と出会うことで、信じられない化学反応(マリアージュ)を起こしている。
スパイスの熱気が、珈琲の深淵なる苦味によって中和され、昇華され、一種の甘美なる「甘み」へと変貌するのだ。
(これが、計算だというのか?)
飯田は驚愕のあまり、カウンターの向こうでカップを拭いているコキンメフクロウを見つめた。
彼女は、キリッとした表情でネクタイを締め直し、真面目くさった顔で作業をしている。だが、その愛らしい丸い瞳の奥には、確固たる職人(マイスター)の矜持が宿っていた。
『・・・オクチ ニ アイマシタ カ?』
脳内に響く、澄んだ鈴のようなテレパシー。飯田は無言で、深く、深く頷いた。
声が出ないのだ。この感動を言語化するには、俺の語彙はあまりにも貧弱すぎた。
再びカップに口をつける。二口目。今度は、温度が僅かに下がったことで、より輪郭のハッキリした甘みが顔を出す。
(・・・森だ。俺は今、夜の森を飲んでいる)
目を閉じれば、月明かりに照らされた静寂の森が浮かぶ。風が木の葉を揺らす音。遠くで聞こえる小川のせせらぎ。仕事の疲労、商談のストレス、都会の喧騒。
それら全てが、この漆黒の液体によって洗い流され、浄化されていく感覚。胃の腑に落ちたカレーが「太陽」のエネルギーだとすれば、この珈琲は「月」の癒やしだ。
熱狂と静寂。破壊と再生。
この二つが揃って初めて、『オウルメイジさんかふぇ』のランチは完成するのだ。
(恐ろしい・・・)
飯田は身震いした。
たった一杯の珈琲で、世界が変わって見える。
サラリーマンの短い昼休みが、まるで何時間も瞑想したかのような、濃密な休息へと変わってしまった。
ふと、横を見る。
ミルクピッチャーが置かれていることに気づく。普段ならブラック派の俺だが、この店に限っては、試さずにはいられない。
この完璧な世界に、異物を混入させる背徳感。一滴、また一滴。ミルクを垂らすと、黒い水面に白い雲が広がり、マーブル模様を描いていく。スプーンで静かに回し、口へ運ぶ。
(・・・あぁ)
ため息が漏れた。角が取れ、まろやかになったその味は、まるで母親に抱かれているような安心感を与えてくれる。鋭利なナイフのような切れ味が、柔らかな毛布のような優しさへと変わった。
コキンメフクロウの――この店長の、モフモフとした羽毛の感触。それが味覚として再現されているかのようだ。カップを置く頃には、飯田ジョーの心は完全に満たされていた。
空腹は去り、渇きは癒やされ、明日への活力が、いや、今すぐにでも走り出せそうなほどのエネルギーが体の底から湧き上がってくる。
これが、500円。ワンコイン。
(・・・まいった。完敗だ)
飯田は、空になったカップの底に残る、褐色の雫を見つめながら独りごちた。こんな店を知ってしまったら、もう他の店には行けない。
というかこの店の甘味すらも・・・いや、時間が許されるのならば全然頼むのだが、あいにくこれ以上は午後の仕事に障る。全くもって遺憾ながら、今日のところは諦める。
だがしかし、絶対にまたここに来る。今度はオヤツ時の時間帯に、再びこの店へと訪れるのだと心に誓う。
午後からの仕事?ああ、今の俺なら、どんな理不尽なクレーム処理でも、笑顔でこなせる気がする。いや、むしろ会社ごと買収できるんじゃないかという全能感すらある。
「・・・ごちそうさま。最高でした」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど素直で、敬意に満ちていた。
コキンメフクロウの店長は、その言葉を聞くと、パタパタと嬉しそうに羽を揺らし、少し誇らしげに胸を張った。
『アリガトウ ゴザイマス。・・・マタ、オマチ シテ オリマス・・・ツギ ハ、ちゃんと キッサテン ノ ジカン ニ・・・』
彼女はチラリと、奥で小さくなっているカレー長を睨みながら付け加えた。その様子がおかしくて、飯田は思わず吹き出した。
財布から500円玉を取り出し、トレーに置く。その銀色の硬貨が、この至高の体験の対価としてはあまりにも安っぽく見えたが、それがこの店の流儀なのだろう。
店を出る。
裏路地の空気は、入る前とは違って見えた。ビルの隙間から見える空が、いつもより青く、高く感じる。
「さて、行くか」
飯田ジョーはネクタイを締め直し、力強く歩き出した。
その背中には、微かに、しかし確かに、スパイスと珈琲の残り香が纏わりついていた。
それは、森の賢者たちから授かった、現代社会を戦うための、頼もしい「加護」なのかもしれない。
ビルの谷間から差し込む日差しは、冬にしては少し汗ばむほどだ。
そんな俺、飯田ジョー(33歳・営業職)は、ネクタイを少し緩め、大きく息を吐いた。
午前の商談は、予想以上に難航した。だが、粘り強い交渉の末、なんとか契約までこぎつけたのだ。今の俺の身体は、達成感という名の心地よい疲労と、それ以上に強烈な「空腹」に支配されている。
(さて・・・俺の胃袋は、今、何を欲している?)
大通り沿いのチェーン店か? いや、今日の俺はもっと静かな、それでいて心を満たしてくれる何かを求めている。
雑踏を避け、ふらりと路地裏へ足を向けたその時だった。
――フワッ。
鼻孔をくすぐる、芳醇な香り。これは・・・コーヒーだ。それも、深煎りの豆を丁寧にハンドドリップした時にだけ立ち上る、極上のアロマ。焦げたような苦味の奥に、確かな甘みを感じさせる香り。
(ほう、こんな裏路地に喫茶店か。悪くない)
香りの糸に引かれるように、飯田はさらに奥へと進む。古びたレンガ造りの建物の角を曲がると、そこにはひっそりと、しかし確かな存在感を放つ木製の看板が掲げられていた。
『オウルメイジさんかふぇ』
フクロウの絵が描かれた看板は、隠れ家的な名店のオーラを漂わせている。なるほど、喫茶店のランチか。厚切りのトーストに、こだわりのブレンドコーヒー。あるいは昔ながらのナポリタンというのも捨てがたい。
午後の仕事までの束の間、静寂と紫煙の中でページを捲りながら、遅めの朝食兼昼食を摂る。それこそが、今の俺に相応しい「大人の休息」だ。
(決まりだ。今日はここにするか)
飯田が革靴のつま先を店に向け、ドアノブに手をかけようとした、その瞬間である。
――ベニョーン、ポロン、タラララ〜ン♪
突如、頭上から謎の効果音が響いた。
どこか間の抜けた、しかし妙に耳に残る、シタールのような音色。インディアンな旋律が路地裏の空気を震わせる。
「・・・ん?」
飯田が音が鳴る方へと顔を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできた。重厚な木製の看板が、まるでからくり人形のように パタリ と反転したのだ。
『Curry House おうるめいじ』
文字フォントが、明朝体から一気に極太のポップ体へ。
フクロウのイラストも、学帽を被った知的な姿から、ターバンを巻き、額にビンディを付けた怪しげな姿へと変貌している。
(な、なんだ今の仕掛けは・・・!?)
驚愕する飯田を、さらなる衝撃が襲う。先ほどまでの優雅なコーヒーの香りが、一瞬にして塗り替えられたのだ。
――ドオオォォォン!!
それは、香りの爆発だった。
クミン、コリアンダー、カルダモン、クローブ。複雑怪奇に絡み合った数十種類のスパイスが、換気扇から奔流となって溢れ出し、路地裏を黄金色の熱気で満たしていく。
鼻の奥を突き抜け、脳髄を直接揺さぶるような、強烈かつ暴力的なまでの食欲への挑発。
(なんだ、この匂いは・・・!ただのカレーじゃない。胃袋を鷲掴みにされ、引きずり込まれるようだ!)
口の中に、唾液が津波のように溢れ出す。サンドイッチ? コーヒー?そんな優雅な選択肢は、スパイスの嵐に吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。
今の俺の身体は、猛烈に、死ぬほどに、「カレー」を求めている。この扉の向こうに待ち受けるのが、灼熱の地獄だろうと構わない。
(・・・受けて立とうじゃないか)
飯田ジョーは、もはや抗うことをやめた。導かれるように、その重い扉を押し開ける。
カラン、コロン。
軽やかなベルの音と共に足を踏み入れると、そこは異界だった。外の喧騒が嘘のように遮断された店内。薄暗い照明が、壁一面を埋め尽くす、カレーへの執着に満ちた本棚を照らし出している。
煮込まれた野菜の甘い湿気と、鼻腔を刺すクミンの鋭利な刺激が渦巻く空間。その発生源たるカウンターの奥に、その人物はいた。
(・・・っ!?)
飯田は息を呑んだ。
そこに佇んでいたのは、オウルメイジ――フクロウの魔物娘だ。
だが、ただの魔物娘ではない。
まず目を奪われるのは、その圧倒的なまでの「モフモフ」だ。身体を覆う豊かな羽毛は、極上のシルクすら凌駕するであろう、見るからに柔らかそうな質感。思わず顔を埋めたくなる衝動を必死に抑えなければならないほどだ。
そして、そのモフモフの頭には、エキゾチックな刺繍が施された鮮やかなターバンが巻かれている。首元や腕には、銀やターコイズをあしらったインディアンジュエリーがジャラジャラと輝き、羽毛の白さと鮮烈な対比を描いていた。
知的な丸眼鏡の奥から覗くのは、息をのむほどの美貌。賢者としての知性と、猛禽類としての野性が同居した、神秘的な黄金色の瞳。
それは、とんでもない美女だった。異国の高貴な巫女が、なぜかカレー鍋の前で降臨しているような、神々しさすら感じる。
そして何故だか分からないが、彼女は「カレー長」という名で呼び親しまれている・・・そんな確信があったのだ。
そんなカレー長たる彼女は、鍋をかき混ぜる手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
視線が合う。
彼女は口を開かない。ただ静かに、値踏みするようにじっと飯田を見つめているだけだ。
「あの、すいませ・・・」
飯田が気圧されながら声をかけようとした、その時。
『・・・イラッシャイマセッ』
脳内に直接、奇妙な音が響いた。
「え?」
飯田は周囲を見回すが、他に人はいない。店主の口も、固く閉ざされたままだ。
『Curry House オウルメイジ ヘ ヨウコソ・・・』
再び響く声。それは、古いラジオから流れてくるような、少しノイズ混じりの、それでいて妙に心地よい響き。明らかにカタコトなその言葉は、鼓膜ではなく、脳髄を直接震わせていた。
(て、テレパシー!? さすが賢者、言葉を発するまでもないということか・・・!)
彼女の黄金色の瞳が、「ソコニ、スワレ」と語りかけてくる。飯田はその圧倒的な目力と、脳内に響く不思議な声に導かれるように、フラフラとカウンター席へ引き寄せられた。
椅子に腰を下ろすと、再び脳内に声が響く。
『チュウモンハ? ・・・ト キクマデモ ナイネ。キミノ イブクロハ、スデニ ワタシノ Curry ヲ モトメテイル』
丸眼鏡の奥で、カレー長の瞳がニヤリと笑ったように見えた。こちらの思考も空腹具合も、全てお見通しというわけだ。
『メニュー ハ・・・ Curry ト サラダ。ソシテ コーヒー。・・・コレ ダケ』
潔い。直球勝負だ。俺の返答を待たず、さらに畳み掛けてくる。
『コーヒー ハ・・・サキ ニ ノム? ・・・ソレトモ、ショクゴ?』
なるほど、セット内容は固定だが、コーヒーのタイミングは選べるというわけか。
このスパイシーな香りの渦中でコーヒーを先に飲むのは無粋というものだろう。カレーの余韻を、最後にビターな一杯で締める。それが定石だ。
「・・・食後で、お願いします」
俺が短く答えると、彼女は満足げにコクリと頷いた。その仕草に合わせて、首元のインディアンジュエリーがジャラリと涼やかな音を立てる。
そして、彼女はカウンターの隅にある小さな黒板――そこには何も書かれていないはずだったが――に視線を向けさせ、最後にこう告げた。
『オダイ ハ・・・500エン、ダヨ』
(・・・はい?)
一瞬、思考が停止した。
500円?
ワンコイン?
サラダとコーヒーが付いて?
(安っっす!!)
飯田ジョーの脳内で、絶叫がこだました。この物価高のご時世に、しかもこんなこだわり抜いたスパイスの香りを漂わせておいて、たったの500円だと?
社員食堂だって、もう少し取るぞ。まさか、魔力でコストを削減しているのか? それとも、この店は森の賢者の道楽なのか?
『・・・フクロウ ハ、カネ ニ シュウチャク シナイ。・・・ Spice ヲ ヒロメル コト コソ ガ、シンリ』
こちらの動揺を見透かしたように、彼女――カレー長は、フンと鼻を鳴らした(ように見えた)。そして、バサリと袖のような羽を翻し、湯気の立つ寸胴鍋へと向き直る。
カチャ、カチャ。
お玉が鍋底をこする音が、静かな店内に響く。その背中――いや、モフモフの羽毛に覆われた後ろ姿からは、タダモノではないオーラが漂っている。
まず運ばれてきたのは、小ぶりな木のボウルに入ったサラダだ。だが、ただの生野菜ではない。紫色の葉野菜や、見たこともない形状の根菜が混じり、ドレッシングからは柑橘系ともハーブともつかない爽やかな香気が漂っている。
(・・・美味い。シャキシャキとした食感と共に、身体の毒素が抜けていくようだ)
前菜でこれだ。期待値は嫌でも高まる。サラダを平らげ、一息ついたその時だった。厨房の奥から、重厚な気配が近づいてくる。
オウルメイジ――カレー長が、盆を恭しく捧げ持ち、音もなく滑るように近づいてきた。その丸眼鏡が、怪しく光る。
『オマチドオサマ・・・』
脳内に響く、いつものノイズ混じりのカタコト声。だが、彼女が皿をテーブルに置いた瞬間、その「声」の質感が一変した。
『コレガ、ワタシノ タドリツイタ・・・ Ultimate Spice Curry ダ』
(えっ?)
今、何て言った?Ultimate Spice Curry?そこだけ、まるでBBCのナレーターのような、あまりにも流暢で重厚なネイティブ発音だったぞ!?
飯田がそのギャップに唖然として顔を上げると、カレー長は何食わぬ顔で(というより、少しドヤ顔で)眼鏡の位置を直している。
『サア、トレイ ノ Spoon ヲ ツカッテ・・・ Enjoy シテクレ』
(まただ! なぜそこだけ発音が良くなる!?)
ツッコミたい。猛烈にツッコミたいが、目の前に置かれた「それ」が、飯田の思考を強制停止させた。
そこにあるのは、カレーという名の小宇宙(コスモ)だった。
ライスは白米ではない。鮮やかな黄金色のターメリックライス。その頂には、フライドオニオンが王冠のように鎮座している。
そして、その島を取り囲むルーの海。色は深い、限りなく深いダークブラウン。だが、ただ暗いだけではない。照明を受けて、赤、緑、オレンジと、数多のホールスパイスが宝石のように煌めいているのだ。
湯気と共に立ち上る香りは、もはや暴力。クミンの野性味、カルダモンの清涼感、そして正体不明の甘く妖艶な香り。それらが渾然一体となり、鼻腔を突き抜け、脳の快楽中枢を直接ノックしている。
『・・・Don't think. Feel.』
再び脳内に響く、無駄に良い発音の格言。
ーー考えるな、感じろ。飯田は頷き、その黄金の山へとスプーンを突き立てた。
ゴクリ、と喉が鳴る。スプーンの上で揺れる褐色の液体と、黄金色のライス。湯気からは、相変わらず得体の知れない妖艶なスパイスの香りが立ち上っている。
(・・・行くぞ)
飯田は意を決し、恐る恐るスプーンを口へと運んだ。
パクッ。瞬間――。
(・・・ッ!? 辛ッ!!)
舌に乗せた刹那、電流のような刺激が走った。
熱い。痛い。
これは唐辛子か? それとも胡椒か?反射的に水へ手が伸びそうになった、その時だ。
――スゥゥッ・・・。
嘘のように、その強烈な熱波が引いていく。まるで魔法だ。嵐が去った後の静寂のように、口内には痛みではなく、幾重にも重なった香りの余韻だけが残された。
(・・・なんだ、これは?)
鼻孔をくすぐるクミン。喉の奥で踊るカルダモン。そして、噛み締めた瞬間に弾けるホールスパイスの食感。複雑怪奇なオリエンタルの風が、俺の口の中で吹き荒れている。
(・・・うまい。・・・いや、めちゃくちゃ美味いぞ、これ!!)
飯田の瞳が見開かれる。辛さはただの起爆剤だったのだ。その後に訪れる、野菜と肉の凝縮された旨味。そして、脳髄を痺れさせるようなスパイスの多幸感。
カチャッ。カチャッ。
もう、止まらない。
スプーンが意志を持ったかのように、次々とカレーの山を崩し、口へと運び続ける。
(この肉も凄い。舌で押すだけで解ける。脂の甘みがスパイスの鋭さを包み込んで・・・)
夢中で食べ進めるうちに、再びじわりと額に汗が滲んできた。心地よい熱さだ。だが、少し口の中をリセットしたい。
飯田は、カレーの横に添えられていた、氷の入ったグラスに手を伸ばした。
――ラッシーだ。
ストローでひと口吸い上げる。
ズズッ。
(・・・あぁ〜〜、これだ)
冷たく、濃厚なヨーグルトの風味。そして、絶妙な甘酸っぱさが、火照った舌を優しく撫でていく。スパイスで敏感になった味覚に、この爽やかな甘さは反則級の相性だ。
口の中がリセットされると、また無性にあの刺激が恋しくなる。
カレー、ラッシー、カレー、ラッシー。
この無限ループ、抜け出せる気がしない。
(・・・って、思わず飲んでしまったが、俺はラッシーなんて頼んでいないはずだ)
確かメニューは、カレーとサラダ、そしてコーヒーだけだった。まぁ、いい。これだけ美味いんだ。追加料金を払うのは構わないのだが――。
そう思いかけた、その時だった。
『Lassi ハ ヒツジュヒン・・・ ダカラ ツケルノハ トウゼン』
相変わらずのカタコトの中に混じる、流暢すぎるネイティブ発音。
『コレデ 500エン。・・・モンク アル?』
文句?無い、あるわけがない。むしろ、安すぎて申し訳なくなるレベルだ。この店、完全に採算を度外視している。スパイスへの愛と、客への「布教」だけを考えているとしか思えない。
(すげぇ店だ・・・)
飯田は心の中で脱帽した。ここはただの喫茶店・・・じゃなくてカレー屋さんではない。森の賢者が運営する、奇跡の Curry House だったのだ。
ーーカチャリ。
スプーンが皿に触れる乾いた音が、完食の合図だった。飯田は大きく息を吐き、背もたれに体重を預けた。胃袋は満たされ、身体中をスパイスの熱が駆け巡っている。額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、余韻に浸る。
(・・・凄かった。嵐のようなランチだった)
500円という価格設定もさることながら、あの味の深淵。俺は今日、路地裏でとんでもない秘境を見つけてしまったのかもしれない。
その時だ。
カラン、コロン♪
入り口のドアベルが、軽快に鳴り響いた。飯田がなんとなく振り返ると、そこにはまた別の影があった。
(ん? 客か?)
いや、違う。入ってきたのは、先ほどの店主――カレー長よりも二回りは小さい、小柄な魔物娘だった。
種類で言えば、コキンメフクロウといったところか。丸みを帯びた愛らしいフォルムに、白と褐色のまだら模様の羽毛。
だが、その服装は奇妙に「堅い」。
清潔な白シャツに、黒のネクタイをキッチリと締めているのだ。まるで、仕事帰りのサラリーマンか、あるいは執事のように。
さらに異様なのは、彼女の周囲だ。スーパーのロゴが入った紙袋が3つ、4つ。彼女の手ではなく、その周囲の宙にふわりふわりと浮遊している。
(・・・浮いてる。魔法か。便利だな)
飯田が呆気にとられていると、そのコキンメフクロウは、店内に充満する濃厚なスパイスの香りに気づき、ビクリと羽を逆立てた。
そして、鋭い視線をカウンターの中のカレー長へと向ける。
『・・・ッ! マタ カッテニ カレーヤサン ニ シテル!』
脳内に響く、高い少女のような、しかしキリキリと怒気の混じったテレパシー。それは先ほどのノイズ混じりの声とは違う、クリアで生真面目そうな声質だった。
カウンターの中、カレー長がバツが悪そうに視線を逸らす。
『・・・チッ。 マネージャー ノ キタク カ。・・・タイミング ガ ワルイ』
カレー長は、ボソリとネイティブ発音を交えて愚痴ると、そそくさと寸胴鍋の蓋を閉じた。どうやら、この店本来の主人は、この小さなコキンメフクロウの方らしい。
ーーその名を「コキンメ店長」・・・これまた何故だか分からないが、その名で親しまれているのだということが理解できる。
コキンメ店長は浮遊させていた荷物をカウンターの奥へと流れるように移動させると、パタパタと短い歩幅でこちらへ近づいてきた。
『モウ! ニオイ ガ ウツッチャウ デショ! ・・・ゴメンナサイ オキャクサマ。スグ ニ コーヒー ヲ イレマス ネ』
コキンメ店長は、カレー長とは対照的に、申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。そして、手際よくネクタイを正すと、カウンターの中にあったサイフォンへと手を伸ばす。
ここからは、コキンメ店長のターンだ。
カレー長が「動」なら、コキンメ店長は「静」。
先ほどまでの荒々しいスパイスの熱気が、彼女の所作ひとつで、凛とした静寂へと塗り替えられていく。
コポコポ、コポ・・・。
湯の沸く音。挽きたての豆が膨らむ様子。やがて漂ってきたのは、あの入店直前に嗅いだ、深みのある珈琲のアロマだった。
目の前に置かれたのは、湯気を立てる白磁のカップ。中には、黒く、それでいて光を吸い込むような深みを持った液体が静かに波打っている。
飯田ジョーは、もう一度深く呼吸を整えた。
先ほどまでのスパイスの嵐――あの極彩色のカーニバルのような熱狂が、嘘のように引いていく。
店内の空気は、この小さな「コキンメ店長」がカウンターに立った瞬間から、凛とした静寂に包まれていた。
コポコポ、とサイフォンの残り湯が微かな音を立てる。それ以外の音はない。まるで、森の図書館の最奥に迷い込んだかのような静けさだ。
(さて、お手並み拝見といこうか)
飯田はカップの取っ手に指をかけ、ゆっくりと顔に近づけた。
――フワッ。
その瞬間、鼻腔を撫でたのは、とてつもなく「高貴」な香りだった。それは単純な焙煎の香ばしさではない。
濡れた土の匂い、古い革表紙の本、そして夜露に濡れた果実のような、しっとりとした甘い湿り気を含んだアロマ。スパイスで麻痺しかけていた嗅覚が、その優雅な香りによって、一瞬にしてリセットされ、覚醒させられる。
(・・・ほう。これは、期待以上かもしれない)
唇をカップの縁に寄せる。熱すぎず、ぬるすぎない。唇が触れただけでわかる、完璧な温度管理。艶やかな漆黒の液体が、ゆっくりと口内へと滑り込む。
――チャプ。
(・・・ッ!!)
言葉を失った。
思考が、真っ白に染め上げられた。
苦い? 酸っぱい?そんな陳腐な味覚の座標軸では、この珈琲は語れない。
まず感じるのは、絹(シルク)のような滑らかさだ。液体であるはずなのに、まるで上質なオイルのように舌に絡みつき、重厚な質量を持って喉の奥へと落ちていく。
雑味が、一切ない。一粒の塵すら許さない潔癖なまでに澄み渡った「黒」が、俺の身体に浸透していく。
(なんだ、これは・・・透明だ。黒いのに、限りなく透明だ)
そして、飲み込んだ直後に訪れる、爆発的な「返り香」。喉の奥から鼻へと抜ける瞬間に、カカオのようなビターな苦味と、完熟したベリーのようなフルーティな酸味が、花火のように弾けた。
美味い。
いや、美味いという言葉すら生温い。
これはもはや「魔性」だ。先ほど食べたカレーのスパイス――クミンやコリアンダーの強烈な残響が、この珈琲と出会うことで、信じられない化学反応(マリアージュ)を起こしている。
スパイスの熱気が、珈琲の深淵なる苦味によって中和され、昇華され、一種の甘美なる「甘み」へと変貌するのだ。
(これが、計算だというのか?)
飯田は驚愕のあまり、カウンターの向こうでカップを拭いているコキンメフクロウを見つめた。
彼女は、キリッとした表情でネクタイを締め直し、真面目くさった顔で作業をしている。だが、その愛らしい丸い瞳の奥には、確固たる職人(マイスター)の矜持が宿っていた。
『・・・オクチ ニ アイマシタ カ?』
脳内に響く、澄んだ鈴のようなテレパシー。飯田は無言で、深く、深く頷いた。
声が出ないのだ。この感動を言語化するには、俺の語彙はあまりにも貧弱すぎた。
再びカップに口をつける。二口目。今度は、温度が僅かに下がったことで、より輪郭のハッキリした甘みが顔を出す。
(・・・森だ。俺は今、夜の森を飲んでいる)
目を閉じれば、月明かりに照らされた静寂の森が浮かぶ。風が木の葉を揺らす音。遠くで聞こえる小川のせせらぎ。仕事の疲労、商談のストレス、都会の喧騒。
それら全てが、この漆黒の液体によって洗い流され、浄化されていく感覚。胃の腑に落ちたカレーが「太陽」のエネルギーだとすれば、この珈琲は「月」の癒やしだ。
熱狂と静寂。破壊と再生。
この二つが揃って初めて、『オウルメイジさんかふぇ』のランチは完成するのだ。
(恐ろしい・・・)
飯田は身震いした。
たった一杯の珈琲で、世界が変わって見える。
サラリーマンの短い昼休みが、まるで何時間も瞑想したかのような、濃密な休息へと変わってしまった。
ふと、横を見る。
ミルクピッチャーが置かれていることに気づく。普段ならブラック派の俺だが、この店に限っては、試さずにはいられない。
この完璧な世界に、異物を混入させる背徳感。一滴、また一滴。ミルクを垂らすと、黒い水面に白い雲が広がり、マーブル模様を描いていく。スプーンで静かに回し、口へ運ぶ。
(・・・あぁ)
ため息が漏れた。角が取れ、まろやかになったその味は、まるで母親に抱かれているような安心感を与えてくれる。鋭利なナイフのような切れ味が、柔らかな毛布のような優しさへと変わった。
コキンメフクロウの――この店長の、モフモフとした羽毛の感触。それが味覚として再現されているかのようだ。カップを置く頃には、飯田ジョーの心は完全に満たされていた。
空腹は去り、渇きは癒やされ、明日への活力が、いや、今すぐにでも走り出せそうなほどのエネルギーが体の底から湧き上がってくる。
これが、500円。ワンコイン。
(・・・まいった。完敗だ)
飯田は、空になったカップの底に残る、褐色の雫を見つめながら独りごちた。こんな店を知ってしまったら、もう他の店には行けない。
というかこの店の甘味すらも・・・いや、時間が許されるのならば全然頼むのだが、あいにくこれ以上は午後の仕事に障る。全くもって遺憾ながら、今日のところは諦める。
だがしかし、絶対にまたここに来る。今度はオヤツ時の時間帯に、再びこの店へと訪れるのだと心に誓う。
午後からの仕事?ああ、今の俺なら、どんな理不尽なクレーム処理でも、笑顔でこなせる気がする。いや、むしろ会社ごと買収できるんじゃないかという全能感すらある。
「・・・ごちそうさま。最高でした」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど素直で、敬意に満ちていた。
コキンメフクロウの店長は、その言葉を聞くと、パタパタと嬉しそうに羽を揺らし、少し誇らしげに胸を張った。
『アリガトウ ゴザイマス。・・・マタ、オマチ シテ オリマス・・・ツギ ハ、ちゃんと キッサテン ノ ジカン ニ・・・』
彼女はチラリと、奥で小さくなっているカレー長を睨みながら付け加えた。その様子がおかしくて、飯田は思わず吹き出した。
財布から500円玉を取り出し、トレーに置く。その銀色の硬貨が、この至高の体験の対価としてはあまりにも安っぽく見えたが、それがこの店の流儀なのだろう。
店を出る。
裏路地の空気は、入る前とは違って見えた。ビルの隙間から見える空が、いつもより青く、高く感じる。
「さて、行くか」
飯田ジョーはネクタイを締め直し、力強く歩き出した。
その背中には、微かに、しかし確かに、スパイスと珈琲の残り香が纏わりついていた。
それは、森の賢者たちから授かった、現代社会を戦うための、頼もしい「加護」なのかもしれない。
26/02/09 19:36更新 / たっぷりとしたクリーム