連載小説
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第二節 湿りと冒涜の祝福
 その日、大聖堂は異様な熱気に包まれていた。
 表向きの理由は「聖女の帰還」である。過酷な戦況を憂い、数週間にわたり奥の院にて沈黙の祈りを捧げていたエリスが、ついにその行を終え、民衆の前に姿を現す――教団はそう発表していた。
 だが、私だけはその美談の裏にある欺瞞に満ちた真実を知っている。 沈黙の祈りなど大嘘だ。彼女は祈っていたのではない。使い潰され、声を焼かれ、ただの肉塊として廃棄される寸前だったのだから。

 聖堂には救いを求める信徒と兵士たちで埋め尽くされていた。彼らの瞳にあるのは純粋な崇拝と期待だ。
 咳き込む音、鎧が擦れる音、脂汗と体臭。それらが混じり合い、天井の高い聖堂内に淀んだ雲のように滞留している。
 「我らの聖女様がより強い加護を持ち帰ってくださった」と信じて疑わないその無知な熱狂が、事情を知る私の苛立ちを募らせる。
 私は回廊の隅、石柱の影に身を潜め、その光景を冷めた目で見下ろしていた。

 最前列には、豪奢な法衣を纏った大司教たちが鎮座している。彼らの表情は硬い。期待と疑念、そして「もし使い物にならなければ今度こそ終わらせる」という冷酷な計算が見え隠れしていた。
 それもそうだろう。彼らにとって今日の典礼は故障した兵器が正常に動くかどうかの「動作テスト」に他ならない。もしエリスが声を発せなければ、その瞬間に教団の威信は地に落ちる。彼らは今、信仰心ではなく、保身の恐怖に震えているのだ。

 ゴーン、ゴーン、と重い鐘の音が鳴り響く。
 堂内のざわめきが波が引くように静まり返った。
 祭壇の奥、重厚な扉がゆっくりと開かれる。

「――聖女、入堂」

 神官の声と共にエリスが姿を現した。
 その瞬間、大気が――変わった。

 純白の祭服に身を包んだ妹は、休養明けのやつれなど微塵も感じさせなかった。それどころか、肌は陶器のように白く滑らかで、頬には瑞々しい林檎のような朱が差している。かつては憂いを帯びていた碧眼は、ステンドグラスの光を吸い込み、濡れた宝石のように爛々と輝いていた。
 美しい。誰が見ても息を呑むほどに美しい。
 だが私には、その美しさが泥濘に咲く花のような、毒々しい生命力に支えられているように見えた。

 エリスは祭壇の中央に進み出ると、信徒たちを見渡し、慈愛に満ちた――あるいは飢えた捕食者が獲物を見定めるような――微笑を浮かべた。
 大司教たちが、祈るように両手を組み、固唾を飲んで彼女の唇を見つめている。
 エリスは、ゆっくりと息を吸い込んだ。

『あぁ、愛しき子らよ……』

 第一声が放たれた瞬間、私の背筋に粟が立った。
 喧騒としていた堂内も一瞬のうちに静まり返る。

 それは、ただの美声ではなかった。まるで粘性のある液体が、鼓膜を直接撫で回したかのような感触。鼓膜を犯し、脳髄を揺さぶり、思考を書き換えてしまうかのような艶めかしさ。
 以前の彼女の声は硝子細工のように繊細で、触れれば壊れてしまいそうな儚さがあった。だが、今の声は違う。湿っているのだ。朝露を含んだ苔のように、あるいは蜜を湛えた花芯のように。湿度を帯びた声の波紋が、物理的な重みを持って空間を満たしていく。

『沈黙の棺にて、我は視た。 枯れ落ちるは肉の枷。芽吹くは魂の胞。
神の庭は天空にあらず。深き、深き、碧の底。 其処より溢るる甘露こそ、真なる福音なりや……』


 彼女が語りかけるたびに、堂内に満ちていた乾燥した埃っぽさが消え失せていく。代わりに鼻腔をくすぐるのはあの「森の香り」だ。腐葉土の豊かさと、熟れた果実の甘い腐臭。それが声に乗って拡散され、数千人の聴衆の肺へと浸潤していく。

 咳き込んでいた老人がピタリと咳を止めた。
 恐怖に震えていた兵士がうっとりと目を細め、脱力してその場に崩れ落ちた。
 年端も行かない子供たちは瞳孔を開き、口をあんぐりと開け虚ろに聴き入っている。  
 民衆は戸惑っていた。「いつもの聖女様の声」ではないからだ。しかし、その戸惑いは瞬く間に抗いがたい快楽へと塗り替えられていく。
 それは安らぎではない。強制的な鎮静。脳の奥にある恐怖を感じる部位を、甘い蜜で麻痺させられているかのような異常な静寂だった。
 人を人たらしめる根源的な恐怖、不安、恐れ……それら一切合切をまるで初めから存在しない出来事であるかのように書き換え、塗りつぶし、覆い尽くす。

『祈りは平和を紡ぐ繭、神聖なる肉は欲に綻ぶ。 牧歌は滴る精となり、平穏の海へ愛を溶かす。
恐れを捨て、腐り落ちる幸福を啜れ。 此処にあるは甘き微睡、永遠の祝福』


 最前列の大司教たちが安堵のため息を漏らし――そして次の瞬間、呆気にとられたように口を開けた。彼らもまた計算高い理性を剥ぎ取られ、ただの「音を聴く肉塊」へと成り下がっていたのだ。想定していた「修理」以上の性能に、彼ら自身の魂が飲まれかけている。

 これは祈りではない。聖句という名の呪いだ。
 この巨大な石の箱庭は、今まさに我々だけの湿った聖域へと書き換えられようとしている。

『滲む天蓋、滴る星霜。 朽ちて甘きは天の蜜。 白き微睡、無音の苗床。 
渇きを捨てよ、形を捨てよ。 慈雨は降り、楽園はここに醸される――』


 エリスは歌うように祝詞を紡ぐ。一音一音が、水滴となって空間に滴り落ちる。
 信徒たちは皆、恍惚の表情を浮かべていた。中には、あまりの快楽に涙を流す者、空を掴むように手を伸ばす者さえいる。
 彼らは知らない。自分たちが享受している救いが、神とは最もかけ離れたものであるということを。
 祭壇の上、エリスの視線がふと、私の方へ向いた気がした。
 距離が離れていて表情までは見えない。だが、彼女の口元が、三日月形の歪な弧を描いたように見えたのは、私の罪悪感が見せた幻影だろうか。

(兄さん、わたし、やったよ)

 歌声が終わっても、拍手は起こらなかった。
 ただ、数千の人間が同時に吐き出す、熱く、湿った溜息だけが大聖堂に反響していた。
 男らは昂る下半身を抑え、前屈みになりながら荒い息を整え。
 女らは熱くなった下腹部を擦り、露の滴る太腿を布で覆い隠し。
 皆一様に頬を赤らめ、困惑と恍惚が入り混じる不可解な感情に動揺を隠せずにいたようだった。
 私とエリスだけが知っている。これは聖女による祝福などではなく、無防備な苗床に見えざる種を植え付ける、甘く冒涜的な『改宗』なのだと。











 典礼を終え、聖具室へと戻った直後、その場は異様な狂乱に支配された。

「おお、聖女様!素晴らしい、奇跡だ!」
「あのような御声は聞いたことがない!私の魂が、いや、身体中の血が沸き立つようでしたぞ!」

 先ほどまで「エリスが失敗したら廃棄する」という冷徹な計算をしていた大司教たちが、今は見る影もなく理性を崩壊させている。彼らはエリスを取り囲み、あるいは跪き、賛辞を喚き散らしていた。脂ぎった額には玉のような汗が浮かび、目は充血し、瞳孔が開ききっている。その姿は高潔な聖職者というよりは、極上の餌を前にして涎を垂らす家畜そのものだった。

 本来なら、エリスが口にした祝詞は異端もいいところだ。「神の庭は地下にある」「肉欲を肯定する」など、教義に対する反逆以外の何物でもない。
 だが、彼らの誰一人としてそれを咎めることはなかった。あの湿った声を聞いた瞬間、彼らの脳内では「快楽」と「正義」が捻じ曲げられ、エリスの言葉こそが新たな教典であると昇華したのだろう。

「すぐに次のミサの日程を!」
「いや、まずは特別寄付の窓口を増やさねば。信徒たちは皆、財布の中身をすべて置いていく目をしておりましたぞ!」

 欲望剥き出しの醜悪な会話。
 ――一方の私は部屋の隅で、自分でも恐ろしいほど冷静にその光景を見ていた。
 滑稽だ。彼らは自分たちが聖女を利用し、富と権力を再確認した気でいる。
 醜悪な豚が泣き喚くその姿を、私は家畜同然の憐れみで見下していた。

「――皆様、少し疲れてしまいました」

 ふと、エリスが小さく呟いた。その可憐な声は、しかし有無を言わせぬ冷ややかな響きを含んでいた。
 大司教たちは弾かれたように動きを止める。

「お、おお!これは申し訳ない!」
「聖女様には休息が必要だ。さあ、皆の者、退室を!聖女様のお休みを妨げるな!」

 彼らは蜘蛛の子を散らすように、あるいは主人の命令に絶対服従する奴隷のように慌ただしく部屋を出て行った。
 重厚な樫の扉が閉まる。静寂が戻った部屋には、私とエリス、二人きりが残された。

「……兄さん」

 先ほどまでの「聖女」の仮面を脱ぎ捨て、エリスが私の方へ駆け寄ってくる。その足取りは幼い少女そのものだ。だが、私を見上げる瞳には、あどけなさと同居する濃厚な妖艶さがどろりと渦巻いていた。

「上手だった? わたし、ちゃんとできた?」

 賞賛をねだるように、彼女は私の胸に顔を埋めた。私は無言で彼女の肩を抱く。
 その瞬間、指先に伝わった感触に私は息を呑んだ。

 冷たい。

 熱狂的なミサを終えた直後だというのに、彼女の肌には人間らしい体温が欠落していた。
 しかし、その冷たさとは裏腹に彼女の肌はしっとりと湿っていた。汗ではない。皮膚そのものが、微細な粘液の膜で覆われているかのような、ヌメリ気のある質感。

「……エリス」

 私は妹の名を呼ぶ。それは安堵の声ではなく、抗いがたい欲情の呻きに近かった。見てはいけないものを見ている。触れてはいけないものに触れている。
 この腕の中にいるのは、かつて共に育った愛しい妹なのか、それとも私の罪悪感が産み落としたエリスの皮を被った別のナニカか。

 エリスは私の胸に耳を押し当てたまま、くすりと笑った。

「兄さんの心臓、すごくうるさい。……あの豚たちと同じ音がする」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめる。  その顔はあまりに美しく、あまりに神聖で――そして背徳的であった。
 
 『あの豚たち』
 
 普段のエリスならば天地が返ろうとも絶対に口にするはずもない、他者への嘲笑。だが私はそれを咎めなかった。聖女らしからぬ発言に、彼女もまた私と同じ場所――人間を見下ろす、共犯の座――まで堕ちてきてくれたのだという暗い歓喜が胸を満たし、私の理性を麻痺させていたからだ。

「すまない、エリス……」
「ううん、いいの。兄さんだったらうるさくても、いい。ねえ兄さん。ご褒美くれるんでしょう?」

 彼女の吐息が私の顎にかかる。その息からは、脳髄を痺れさせる芳香が漂っていた。
 私は、自分が正常な「兄」として振る舞うべき理性が、芳香に溶かされつつあるのを実感した。
 この蒼白く、冷たく、湿った肌を、もっと確かめたい。この香りの発生源をこの手で暴き、蹂躙し、支配し、あるいは取り込まれてしまいたいという、昏い衝動。

 それは間違いなく、禁忌への渇望だった。

「……ああ。よくやった、エリス」

 私は震える指で、彼女の冷たい頬を撫でた。指先に絡みつく粘り気が、蜘蛛の糸のように私を捕らえて離さない。エリスは猫のように目を細め、私の指に唇を寄せた。
 瓶の蓋を開け、『聖息域の福音』を一粒、また一粒と妹の口腔へと滑らせる。

 チュプ……カラ、コロロ、ガリッ。

 唾液と舌で蹂躙される飴玉は、乾いた音を立てながら悲鳴を上げ。
 最後に歯で断末魔を上げる。
 ただの咀嚼音だというのに、それすらも欲情的で――蠱惑だった。
 飴玉の命が一つ尽きる度に、エリスの瞳が煌々と発光し生命力が増しているようにも感じとれた。

「ふふ……大好き。兄さん。ずっと、ずうっと……一緒だからね」

 彼女の言葉に頷こうとして私は言葉を詰まらせた。抱き寄せた彼女の背中――祭服の薄い布越しに伝わる感触が私の理性を裏切り、猛烈な勢いで本能を揺さぶり始めたからだ。

 私の掌は無意識のうちに彼女の背骨をなぞるように這い上がっていた。
 指先がうなじに触れる。そこには、あの微細な粘液が汗のように滲んでいた。指に絡みつく糸を引くような粘り気。それは不快であるはずなのに、今の私には蜜のように甘美なものに感じられた。

(……よせ。何を考えている)

 脳の片隅で道徳を説く理性の声が警告を発する。
 相手は妹だ。兄として、この身体の異変を憂慮こそすれ欲情するなどあってはならない。
 だが、その警告は瞬く間に甘い芳香にかき消されていく。
 至近距離で嗅ぐエリスの匂いは私の脳髄を直接痺れさせていた。
 視線を落とす。そこにあるのは、かつて私が知っていた無邪気な妹の顔ではなく、熱を帯びた瞳で私を見上げ、唇を僅かに開いて荒い息を漏らす、一匹の雌の顔だった。

「……兄さん?」

 エリスが甘えた声で囁き、身体を擦り寄せる。冷たく湿った肢体が私の体温を貪るように押し付けられる。その柔らかさと弾力が、彼女がもう子供ではないこと、成熟した「女」の肉体を持っていることを残酷なまでに私に突きつけてくる。

(違う。これは病状の確認だ。脈拍と、皮膚の状態を……)

 私は心の中で必死に言い訳を並べ立てた。だが、その手は止まらない。
 私の指はまるで吸い寄せられるように彼女の首筋から鎖骨へと、祭服の襟元を割り入るように滑り込んでいた。

 ひやりとした冷気が指を包む。衣服の下、露わになった素肌は、陶器のように白く、そしてじっとりと濡れていた。私が指を這わせるたび、エリスの喉から「くう……」という甘い呼気が漏れ、ビクンと身体が震える。その反応はあまりに扇情的で、私の下腹部に重く熱い疼きをもたらした。

 禁忌だと分かっている。一線を越えれば、二度と戻れないことも理解している。しかし、その背徳感こそが油を注がれた炎のように欲情を燃え上がらせていく。
 この白く冷たい肌を汚したい。聖女と崇められるこの肉体を、兄である私だけが独占し、その粘膜の奥底まで暴き尽くしてしまいたい。
 それは庇護欲などではない。おぞましい所有欲だ。
 私もまた彼女の「兄」であることをやめ、ただの「雄」になりかけていた。

「……変だよ、兄さん」

 エリスがふふ、と笑う。拒絶ではない。それは誘惑の響きだった。
 彼女は私の腕の中でとろけるように力を抜いた。

「兄さんの手、熱い……。もっと、触って? 私の『中』まで、確かめて……」

 その言葉が、私の理性を融解させた。聖具室の薄暗がりの中、私たちは抱き合う力を強める。兄と妹という関係はこの閉ざされた部屋の中で、腐敗し、退廃し、取り返しのつかない奈落へと堕ちてゆく。











 ふと、遠い記憶が蘇る。今の湿り気を帯びた空気とは対極にある、乾いた風と暖かな陽光の記憶だ。

 私とエリスは、辺境の小さな村で生まれた。慎ましくも慈愛に満ちた両親と、麦畑を走り回る日々。
 エリスは幼い頃から歌が好きだった。彼女が古い民謡を口ずさむと、不思議と野鳥が集まり風さえもその音色に合わせて凪ぐようだった。私はそんな妹を、誰よりも誇らしく思っていた。
 あの日、教団の巡回宣教師が村を訪れるまでは。

 村の広場でエリスはいつものように歌っていた。同年代の子供らと共に歌い、笑い、走り、ただの村娘としてごく普通に日々を堪能していた。
 その姿がたまたま宣教師に目に留まり、足を止めた。彼の目は、エリスの歌声を聞いた瞬間、信仰の輝きと、値踏みするような貪欲さでギラリと光った。

(見つけた)

 その日の夜、我が家に訪れた宣教師は有無を言わさぬ口調で告げた。エリスを大聖堂へ連れて行く、と。
 彼女には「聖女」としての稀有な素質がある。それは神からの賜り物であり、このような辺境で朽ち果てさせるのは罪である、と。

「い、いやだ!わたしはパパ、ママ、兄ちゃんと一緒にいたい!」

 エリスは泣き叫び、父と母にしがみついた。両親も必死に抵抗した。
 「娘はまだ幼い」「どうか見逃してくれ」と、額を床に擦り付けて懇願した。
 だが、宣教師は冷ややかな目でこう言い放ったのだ。

「神の召命を拒むか。ならば貴様らは神の意に逆らう異端者ということになるが――それでもよいか?」

 異端認定。その言葉が持つ重みは、片田舎の村人である私たちでさえも知っていた。それは社会的な抹殺のみならず、火炙りの刑さえ意味する絶対的な宣告だ。
 しかもそれは私たち家族のみならず、親戚一同全てを巻き込んだものとなる。
 父の顔から血の気が引いた。母は絶望に喉を詰まらせ、崩れ落ちた。
 私たちは無力だった。絶対的な教団の権威の前では、家族の愛など枯れ葉一枚ほどの重さもなかったのだ。

 数日後、エリスは連れ去られた。
 馬車の窓から身を乗り出し、「パパ!ママ!兄ちゃん!」と叫び続ける妹の声を私は生涯忘れることはないだろう。
 私はただ、砂煙の向こうに消えていく馬車を呆然と見送ることしかできなかった。
 教団から巨額の謝礼金を受け取ることになったのだが、心にポカリと空いた空虚さを埋めることはなかった。

 その後、家の中からは「音」が消えた。
 太陽のようだったエリスを失った両親は、まるで根を切られた植物のように急速に衰弱していったのだ。
 食事が喉を通らなくなり、一日中エリスの名を呼び、やがて流行り病にあっけなく倒れた。
 謝礼金は両親の治療費に注ぎ込み、気がつけば底をついていた。

 葬儀の日、集まった親戚や村人らの顔は今でも忘れない。
 彼らは両親の死を深く憐れむような表情を浮かべていた。だが、その瞳の奥には「選ばれなくてよかった」「我が子でなくてよかった」という、浅ましい安堵の色が透けて見えた。
 その安堵の顔を、私は一生許しはしないだろう。

 私は二人の墓の前で誓った。
 神になど祈らない。奇跡になど縋らない。
 私は私の力で、必ずエリスの元へ行く。そして今度こそ、誰にも――神にさえも奪わせはしないと。











 それから数年。私は地獄のような日々を過ごした。
 素質もコネもない、私のような田舎出身者が教団の本部に入るには難関とされる神学校の試験に合格し、正規の聖職者となるしか道はなかったからだ。

 私は死に物狂いで学んだ。教義を暗記し、薬学を修め、歴史を叩き込んだ。
 睡眠時間を削り、指にペンだこを作り、時には空腹を紛らわせるために本を齧るようにして知識を貪った。
 全ては、妹に再会するためだけに。

 そして私は入団試験を突破した。
 希望配属先はもちろん――聖女エリスの直轄区だ。
 表向きは「聖女様の歌声に感銘を受けた」という模範的な志望動機を語り、内心では復讐者のような執念を燃やして。

 配属初日。私は遠目から、数年ぶりにエリスの姿を見た。
 大聖堂のバルコニーに立つ彼女は、美しい法衣に身を包み民衆に手を振っていた。
 背は伸び、見違えるほど美しく成長していた。だが、私には分かってしまった。
 彼女の笑顔が、精巧に作られた仮面であることを。
 その瞳の奥には故郷で小鳥たちに歌っていた頃の輝きはなく、ただ義務と孤独だけが澱んでいたのだと。

(……待っていてくれ、エリス)

 私は慎重だった。
 今の私が「兄」として近づけば、教団上層部は私を警戒し、エリスから遠ざけるだろう。
 私は常に法衣を深く被り、目元を隠して行動した。言葉を発する際も声を低く殺し、決して悟られぬよう細心の注意を払った。
 一介の「医務神官」という影になり、喉のケアや体調管理を通じて、密かに彼女を支え続けたのだ。

 だがある日の午後、日課であるハーブティーを彼女の私室へ運んだ時のことだ。
 私がカップをテーブルに置き、無言で退室しようとしたその背に、涼やかな声がかかった。

「ねえ。いつまで隠しているつもり?」

 どきり、と心臓が弾けそうになる。
 振り返ると、エリスがティーカップを口元に運びながら悪戯っぽく微笑んでいた。

「貴方の淹れるお茶……お母さんが作ってくれた味と同じよ。それに、その歩き方、本のページのめくり方。わたしが忘れるとでも思った?」

 彼女はカップを置き、真っ直ぐに私のフードの奥を見据えた。

「バレてないと思っていたのは兄さんだけだよ……ずっと、気づいてた」

 その瞬間、私の完璧な偽装は崩れ去った。
 いや、意味をなさなかったのだ。
 彼女もまた、この孤独な鳥籠の中で私を見つけてくれていたのだから。

 私は震える手でフードを脱いだ。
 エリスは泣き出しそうな、それでいて心から安心したような顔で私に駆け寄り、その小さな身体で私を抱きしめた。私もまた、大きくなった妹の背を抱きしめ数年ぶりの「再会」を果たしたのであった。
 その日以来、私たちは「聖女と医務神官」という仮面の下で、二人だけの秘密の時間を共有するようになった。

 だからこそ。
 運命が彼女の喉を奪い、教団が彼女を廃棄しようとした時、私は迷わなかったのだ。
 あの怪しげな飴を授けることに一抹の躊躇いもなかった。
 かつて両親を守れなかった無力な子供はもういない。ようやく取り戻したこの温もりを、再び理不尽に奪われるくらいなら私は堕ちるところまで堕ちてやる。



 現在(いま)、私の腕の中でエリスが寝息を立てている。
 彼女は誰の所有物でもない。
 この閉ざされた部屋で、私だけを見つめ、私だけを求め、私の腕の中で安らいでいる。

 皮肉なことだ。
 異能の力に縋ることでしか、私は彼女をこの場所に繋ぎ止めることができなかった。
 そして彼女もまた、この歪んだ鳥籠の中でこそ本当の笑顔を取り戻したのだ。

「……兄さん?」

 ふと、エリスが寝ぼけ眼で私を見上げた。
 私は慈愛を込めて、その冷たく白い額に口付けを落とす。

「ああ、ここにいるよ。もう二度と離れない」

 これは堕落ではない。
 私たち兄妹にとっての、遅すぎた愛の成就なのだ。
25/12/28 08:33更新 / ゆず胡椒
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