第一節 灰の喉、枯れ果てた祈祷
【いにしえの時代、魔物の森を焼き払おうとし、逆にその■■に魅了された聖職者がいた。 彼女は自ら放った火の煙に咽び、喉が裂けたとき、降り注ぐ■■を「天の慈雨」と見紛うほどの法悦に浸ったという。
彼女が最期に飲み込んだ、己を裏切った声帯の、甘く、無惨なほどに蕩けた残滓。それは濃縮し、凝固し、澱み溜まった膿となり、ひとつの個となった。
祝福を浴びるたび、喉は人の言葉を忘れ、湿った森のさえずりを奏で始める。それは福音か、あるいは終焉の警鐘か。】
「いらっしゃいませ……ようこそ"ぬけがら屋"へ。どうぞごゆっくり御覧くださいませ。身近な日用品から禁じられた遺物まで数多く取り揃えておりますゆえ、お気に召されるものがございましたらいつでもご相談ください。
オヤ……何かひどく憔悴しているご様子……まるで、大切な歌声を失ったかのような……
その悲痛な渇きを潤す、とっておきの品に心当たりがあります。
この小瓶が『聖息域の福音(ブレス・サンクチュアリ)』と呼ばれる特殊な飴細工にてございまして……エエ、ハイ……
ただの薬とは違い、これは深緑の森の奥深くで……いえ、成分の話は野暮でしたね。とにかく、枯れた喉を劇的に癒やす強いまじないが込められておりまして……一粒舐めるだけで、乾いた喉はたちまち森のような潤いを帯びることでしょう。
どうぞお持ち帰りください……エエ、ハイ……その瓶の蓋を開けるか否かは、貴方次第です。
代価?私はただこの飴がもたらす『結果』を見届けられればそれで良いのです……
それでは……甘い果実が実るのを、お待ちしております……」
―――――
石造りの聖堂は、底冷えする墓所のように静まり返っていた。
かつて、この場所には「天使の歌声」と謳われた福音(ゴスペル)が満ちていた。無垢な少女の祈りが、ステンドグラスを透過する光のように降り注ぎ、民の恐怖を拭い去っていたはずだった。だが今、高い天井に反響するのは、乾いた肺が痙攣する、ヒューヒューという頼りない風切り音だけだった。
「……ッ、か、……あ……」
簡素な寝台の上で、エリスが身をよじる。十四歳という年齢には不釣り合いな重厚な法衣は乱れ、痩せた胸元が激しく上下していた。彼女は何かを伝えようと、必死に喉の奥を震わせている。しかし、その声帯はすでに過酷な説法の代償として焼き切れ、ただ掠れた摩擦音を漏らすことしかできない。
口元を覆った白い布に、鮮やかな朱色が滲んだ。鉄錆の臭いが、香炉の香りと混じり合って鼻をつく。
「もういい……もういいんだ、エリス」
私はたまらず、彼女の小さな肩を抱き寄せた。神の代弁者として崇められたその体は、驚くほど軽く、そして壊れ物のように震えている。彼女の瞳――かつて希望そのものだった碧眼――は今は涙で潤み、音のない謝罪を繰り返し訴えていた。
祈りは枯れ果てた。
神は沈黙し、残されたのは声を失った少女と、無力な兄である私だけだった。
彼女が聖女の座に就いたのは、わずか三年前のことだ。
魔物の侵攻が激化する「この国」において、人々は剣や盾よりも、すがるべき偶像を求めていた。白羽の矢が立ったのが、類稀なる魔力と玉のような美声を持っていたエリスだった。
それからの日々は、聖務という名の緩やかな処刑だった。
来る日も来る日も、彼女は最前線の砦や聖堂のバルコニーに立たされ、喉から血が滲むまで聖句を叫び続けた。彼女の声に乗る魔力だけが、兵士の恐怖を麻痺させ、死地へと駆り立てる唯一の興奮剤だったからだ。
「……う……ぁ……」
エリスが再び咳き込み、身体をくの字に折る。
私は水差しから杯に水を注ぎ、ひび割れた彼女の唇に押し当てた。喉を通る水音さえもが、砂利を踏むように痛々しい。
飲み込み終えると、彼女は枕元の羊皮紙に震える指を走らせた。そこには、インクの滲んだ文字でこう記されていた。
『なかないで。わたしは、まだ、いのれるから』
その文字を見た瞬間、私の中で怒りとも後悔ともとれぬ、言いようのない濁った感情が臓腑の中を駆け巡った。
まだ、祈れる?
これほどボロボロになり、声を奪われ、明日をも知れぬ身となってもなお?
彼女はこの教団の教義に縛られているのか。それとも、そう思い込まなければ自身の人生が無意味だったと認めてしまうのが怖いのか。
彼女は聖女などではなかった。
教団という巨大な機構に組み込まれた、交換可能な部品――ただの「生きた拡声器」だったのだ。
そして今、その部品は摩耗し、焼き切れ、無惨な廃棄物としてここに転がされている。
「……少し、風に当たってくるよ」
私は彼女の汗ばんだ前髪を払い、逃げるように立ち上がった。
エリスは音もなく微笑み、またすぐに浅い眠りへと落ちていく。その寝顔は、祭壇に祀られた蝋人形のように生気がなく、不気味なほどに静かだった。
重い樫の扉を開け、冷たい石造りの回廊へと出る。
廊下の奥、礼拝堂の方角からは、新しい代役の聖職者たちが練習する賛美歌が空虚に響いてきていた。その美しい旋律が、私には妹への死刑宣告のように聞こえた。
神というものは本当に存在するものなのか?
私の脳裏に、決してよぎってはならない禁忌の思想が浮かび上がってくる。
その問いに対する答えは、空虚な石畳に吸い込まれ霧散した。
そして同時に思うのだ。神はいない。少なくともこの石の牢獄には――と。
◆
目的もなく回廊を彷徨っていた私の足は、いつしか大司教の執務室の前で止まっていた。
分厚い樫の扉の向こうから、低い男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。普段なら下級の神官に過ぎない私が立ち聞きなどすれば重罰ものだが、今の私に恐れるものなど何ひとつなかった。
「――それで、エリスの喉はどうなのだ。回復の見込みは?」
「皆無ですな。治癒魔術師にも診せましたが、あれは怪我というよりは『代償』に近い。声帯が炭のように焼け焦げて使い物になりませぬ」
事務的な報告の声。まるで壊れた備品の在庫確認でもするかのような口調に、私は扉に張り付いたまま奥歯を噛み締めた。
彼らが話題にしているのは、つい昨日まで「聖女」と崇め奉っていた私の妹だ。だが、その声には一片の慈悲も、感謝の念すら含まれていない。むしろ腫れ物を扱うかのような疎々しさすら感じ取れた。
「惜しいな。あの娘の声波は、魔物を退けるのに最も効率が良かったのだが」
「代役はすでに手配済みです。歌唱力、魔力共に劣りますが、見た目は悪くない。信徒たちへの『見栄え』は十分でしょう」
「致し方あるまい……して、壊れた方はどう処理する?」
処理。
その単語が、冷たい刃物のように私の鼓膜を突き刺す。
「大聖堂に置いておくわけにはいきますまい。『声の出ない聖女』など、信徒の信仰心を揺るがす不吉な象徴でしかない」
「では、処刑するか?」
「馬鹿な。表向きは英雄だぞ、反感を買う。……そうだな、『静養』という名目で辺境へ送るのが妥当でしょう」
「なるほど。人里離れた地で、ひっそりと果ててもらうわけか」
下卑た笑い声が、扉越しに響いた。
静養とは名ばかりの、事実上の追放宣告。
支援金を打ち切り、護衛もつけず、魔物の脅威に晒される辺境へ放り出す。声も出せず、体も弱りきった少女がそんな場所で生きていけるはずがない。彼らは手を汚さずにエリスを野垂れ死にさせるつもりなのだ。
胃の腑が裏返るような吐き気に襲われた。
これが、我々が全てを捧げてきた神の庭の正体か。神聖さなど欠片もない。ここはただの、冷酷な計算と保身で塗り固められた巨大な屠殺場だ。
「……ッ」
私は扉を蹴破って怒鳴り込みたい衝動を、血が滲むほど拳を握りしめて抑え込んだ。
今ここで騒ぎを起こせば、その場で捕らえられ、エリスと共に即刻始末されるのが落ちだ。
この腐敗した教団の中にはもう救済など存在しないのかもしれない。
私は音を立てぬよう踵を返し、呼吸をするのも忘れてその場を離れた。
思考が真っ白に染まる。恐怖と、吐き気と、無力感。それらが泥のように混ざり合い、私の足をただ出口へと急がせた。
重い裏木戸を押し開け、外へ出る。
いつの間にか空は鉛色に閉ざされ、冷たい雨が石畳を打ちつけていた。
私はフードも被らず、雨あられと降り注ぐ冷気の中を亡霊のように彷徨い歩いた。
どこへ行けばいい?
金もない、力もない、当てもない。ただ「助けたい」という願いだけが、雨に濡れた犬のように惨めに震えている。親がまだ生きていればせめてまともな看病くらいはできたのだが、生憎私ら兄妹は天涯孤独の身であった。
大通りを避け、人目を避けるように路地から路地へ。腐った野菜と汚水の臭いが充満する、街の最下層へ。光の届かぬ場所へ潜れば、この絶望から逃れられるとでも思ったのだろうか。
ーーふと、足が止まった。
気づけば私は、一度も足を踏み入れたことのない、狭く湿った路地の袋小路に立っていた。周囲の喧騒は嘘のように消え失せ、雨音だけが鼓膜を叩く。
その突き当たりに、奇妙な店があった。
古びた布切れを繋ぎ合わせたような暖簾。看板には、見たこともない文字で何かが記されているが、なぜか私にはそれが『ぬけがら屋』と読めた。
店先から漏れる薄暗い灯りが、雨に煙る視界の中で、そこだけ生き物のようにゆらりと揺らめく。
まるで、最初からそこに私が来ることを知っていて、口を開けて待ち構えていたかのような――不吉で、それでいて抗いがたい引力。
理性が警鐘を鳴らすよりも早く、私の体は動いていた。
濡れた石段を一段、また一段と降りていく。
この先に待ち受けるのが救いなのか、それとも破滅への落とし穴なのか。今の私には、それを確かめる術すら残されていなかったのだ。
◆
湿った暖簾をくぐると、カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。店の中は外の雨気が嘘のように乾燥していた。いや、ただ乾いているのではない。古い書物が積み重なったような、あるいは干からびた爬虫類の標本のような埃っぽくも独特な静寂が満ちていた。
薄暗く狭い店内を見渡す。得体の知れない薬品、仰々しい武具、用途の不明な小物、見たこともない模様が描かれた骨董品。そのどれもが奇怪としか言い表せない品々であり、不気味さをより一層際立てている。
仄暗くゆらゆらと揺れる照明が、ガラス瓶や金属片を反射させる。侵入者である私を照らしているようで、背筋に冷たいものが走る。
「いらっしゃいませ……ようこそ"ぬけがら屋"へ」
唐突に、影の奥から声がした。カウンターの奥、薄闇の中にぽつりと鮮烈な「赤」が浮かんでいた。それは、深い赤色のフードを深く被った小柄な少女だった。
年齢は十の坂を越えたばかりというぐらいだろうか。フードの影から覗く口元は笑みを浮かべず、表情をうかがい知ることもできない。
「どうぞごゆっくり御覧くださいませ。身近な日用品から禁じられた遺物まで数多く取り揃えておりますゆえ……お気に召されるものがございましたらいつでもご相談ください……エエ……」
少女はカウンターの奥からぺこりと頭を下げた。その愛らしい声とは裏腹に、語り口は老獪な商人のそれだ。
私は面食らい、言葉を失う。ただ、フードの奥にある見えない視線が、私の顔を――その奥にある絶望をじっと覗き込んでいるのを感じた。
「オヤ……何かひどく憔悴しているご様子……」
少女が首をコクリと傾げる。
「まるで……そう、大切な声を失ったかのような……」
心臓が跳ねた。
なぜ、それを。私は何も言っていない。フードの下で、彼女はクスクスと喉を鳴らした。
「渇き、痛み、苦しみ……エエ、さぞお辛いことでしょう……その悲痛な渇き……潤わせたくはありませんか……?」
彼女がカウンターの下から取り出したのは、小さな掌に収まるほどの小瓶だった。中に入っているのは、深緑色の飴玉。薄暗い店内でも、それだけが自ら発光しているかのように、妖しく鈍い輝きを放っている。
「これは『聖息域の福音(ブレス・サンクチュアリ)』と呼ばれる特殊な飴細工にてございまして……エエ、ハイ……」
彼女は小瓶を頬ずりするように愛でる。その無邪気な仕草と、扱っている魔具の禍々しさが、どうしようもない違和感となって私の背筋を撫で上げた。
「これは深緑の森の奥深くで……いえ、成分の話は野暮でしたね。とにかく、枯れた喉を劇的に癒やす古いまじないが込められておりまして……一粒舐めるだけで、乾いた喉はたちまち森のような潤いを帯びることでしょう」
枯れた喉を癒やす。その言葉は、今の私にとってどんな宝石よりも魅力的な響きを持っていた。私は思わず手を伸ばしかける。だが、少女はその手を制するように、人差し指を立てて言葉を続けた。
「……過ぎたるは猶及ばざるが如し」
「え?」
「それだけ、注意していただければ。当店では、服用後の不可逆的な変化、および社会的立場の喪失につきましては一切の対応は受け付けておりませんので、そこのところはご了承いただきます」
不可逆的な変化。社会的な死。それは、エリスがもう二度と清廉な聖女としては生きられなくなることを示唆していた。だが、それがどうしたというのだ。教団に見捨てられ、このまま野垂れ死ぬのを待つだけの運命なぞクソ食らえだ。
「それでもよければ、必ずやご希望に添えることでしょう……」
「構わない」
私は考えるまでもなくそう答えた。少女は満足そうに頷き、小瓶をカウンターへ滑らせる。
「ではどうぞお持ち帰りください……その瓶の蓋を開けるか否かは、貴方次第です」
私は震える手で小瓶を掴んだ。ひやりとした硝子の感触が掌に吸い付く。
財布を取り出そうとすると、彼女は白い手を振ってそれを止めた。
「代価? 私はただこの飴がもたらす『結果』を見届けられればそれで良いのです……」
「結果……?」
「ええ。種は蒔かれなければ意味がない。水と土が交わり、肥料を与え、愛を育む……それでは甘い果実が実るのを、お待ちしておりますよ……」
意味深な言葉を背に、私は店を後にした。
外の雨はまだ降り続いていた。だが、懐に入れた小瓶の熱だけが、私の冷え切った体を芯から焼くように熱かった。ドロリと蕩けるような、甘く退廃的な熱が。
◆
聖堂に戻る頃には、雨は夜の冷気を含んで霙(みぞれ)へと変わっていた。ずぶ濡れの外套を引きずりながら、私は長い回廊を歩く。石畳を叩く私の足音だけが死に絶えた巨大な生物の体内を歩くように響いていた。
部屋に戻るとエリスの呼吸はいっそう浅くなっていた。
蝋燭の燃え尽きた薄闇の中、彼女の白い喉元だけが痙攣するように小さく波打っている。その音は、いまにも切れそうな弦楽器の悲鳴に似ていた。
「……ッ、く……ぅ……」
苦悶に眉を寄せ、身じろぎする妹。
私は濡れた服も脱がず、寝台の脇に膝をついた。懐から取り出した小瓶は、私の体温を吸って生温かく、まるで脈動しているかのような錯覚を覚える。
――『その瓶の蓋を開けるか否かは、貴方次第です』――
あの少女の嘲笑が脳裏に蘇る。
これは薬ではない。もっと冒涜的で根源的な「何か」だ。
だが、教団に見捨てられ、緩やかな死を待つだけのこの部屋に神の慈悲など一欠片も落ちてはいなかった。あるのは冷たい石の壁と、孤独だけだ。
ならば、縋るべきは悪魔の甘言でも構わない。
私は意を決し、小瓶のコルク栓を抜いた。
ポン、と小気味よい音が鳴ると同時に濃密な香りが鼻腔をくすぐった。
それは雨上がりの森の匂い。腐葉土と、熟れすぎた果実と、花の蜜が混ざり合ったような、むせ返るほどに甘く、どこか懐かしい「生命」の芳香。消毒薬と線香の臭いに満ちたこの病室にはあまりにも不釣り合いな香りだった。
「エリス……口を開けてくれ」
私の声に、彼女がうっすらと瞼を開ける。焦点の合わない瞳が私を捉え、何かを訴えるように唇が震えた。だが、そこから声は出ない。ただ、ヒューヒューという乾いた音だけが漏れる。
私は瓶から転がり出た深緑の粒を、指先で摘まんだ。飴は照明の光を吸い込み、底知れぬ緑の輝きを放っている。
震える彼女の唇にそれを押し当てる。それはまるで、信徒に聖体を授けるサクラメントのようであり、雛鳥に餌を与える親鳥のようでもあった。
コロン。
飴は吸い込まれるように、乾いた口腔へと滑り落ちた。
その瞬間――ビクリ、とエリスの体が大きく跳ねる。
彼女は目を見開き、シーツを鷲掴みにした。喉の奥で、何かがジュワリと溶け出し、粘膜に染み渡っていく音が聞こえた気がした。
苦しげに喉を掻きむしろうとする彼女の手を、私は必死に押さえつける。
「……ぁぅッ!! ぅう…………ん、んぅ!!!!」
「大丈夫だ、エリス。すぐに楽になる……すぐに……」
本当に効果があるのかどうか、そんな保証はどこにもない。自分に言い聞かせるように呟く。数秒か、あるいは数分か。永遠にも感じる沈黙の後、変化は劇的に訪れた。
あれほど苦しげだった呼吸音が、ピタリと止んだのだ。
部屋を満たすのは、完全な静寂。恐怖で心臓が凍りつきそうになった時、エリスの唇がゆっくりと動き安らかな吐息が漏れた。
「……ぁ……」
ため息だった。
だが、掠れた音ではない。朝露に濡れた若葉が擦れ合うような、瑞々しく潤いを帯びた「音」。焼けたはずの声帯が瞬時にして未知の組織へと書き換えられたかのような、奇跡的な回復だった。
「……兄、さん?」
エリスが私を呼ぶ。その声の、なんと甘美なことか。以前の彼女の声とも違う。もっと深く、脳髄を直接撫で回されるような、抗いがたい響き。聞いているだけで、私の喉の奥までが共鳴し、甘く痺れていくような感覚。
彼女の頬に赤みが差し、瞳にはかつてないほどの生気が宿っていた。こんなエリスの瞳を最後に見たのはいつ以来だっただろうか。そう思わざるを得ないほど、つい数刻ほど前の瞳とは別物だった。
だが、それは健康的な正気というよりは、熱病に浮かされたときのような危うい恍惚の色だった。
ぞくり。
一瞬。ほんの一瞬だが、私はエリスに対して、抱いてはならない邪な感情を抱き、瞬時に脳裏から消し去る。あまりにも彼女の恍惚とした表情が『妹』らしからなかったからだ。
彼女は自分の喉元に手を当て、うっとりと呟く。
「すごい……痛くないの。喉が甘い水で満たされているみたい……」
エリスが息を吐くたびに、部屋の中にあの「森の香り」が満ちていく。石造りの無機質な部屋が、まるで目に見えない植物によって浸食され温室へと変わっていくようだ。
私は震える手で空になった小瓶を握りしめ、エリスを抱きしめた。
エリスは救われた。それも、神の力ではなく、得体の知れぬ不可思議な力によって。
だが同時に、私たちは決して戻れない一線を越えてしまったのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。後ろめたくもあったが、眼前に輝く『聖女』を目にするとそんなことは些細な問題に等しくもあった。
窓の外では、雷鳴が轟いている。だが今の私たちには、この甘い閉鎖空間だけが世界の全てだった。
彼女が最期に飲み込んだ、己を裏切った声帯の、甘く、無惨なほどに蕩けた残滓。それは濃縮し、凝固し、澱み溜まった膿となり、ひとつの個となった。
祝福を浴びるたび、喉は人の言葉を忘れ、湿った森のさえずりを奏で始める。それは福音か、あるいは終焉の警鐘か。】
「いらっしゃいませ……ようこそ"ぬけがら屋"へ。どうぞごゆっくり御覧くださいませ。身近な日用品から禁じられた遺物まで数多く取り揃えておりますゆえ、お気に召されるものがございましたらいつでもご相談ください。
オヤ……何かひどく憔悴しているご様子……まるで、大切な歌声を失ったかのような……
その悲痛な渇きを潤す、とっておきの品に心当たりがあります。
この小瓶が『聖息域の福音(ブレス・サンクチュアリ)』と呼ばれる特殊な飴細工にてございまして……エエ、ハイ……
ただの薬とは違い、これは深緑の森の奥深くで……いえ、成分の話は野暮でしたね。とにかく、枯れた喉を劇的に癒やす強いまじないが込められておりまして……一粒舐めるだけで、乾いた喉はたちまち森のような潤いを帯びることでしょう。
どうぞお持ち帰りください……エエ、ハイ……その瓶の蓋を開けるか否かは、貴方次第です。
代価?私はただこの飴がもたらす『結果』を見届けられればそれで良いのです……
それでは……甘い果実が実るのを、お待ちしております……」
―――――
石造りの聖堂は、底冷えする墓所のように静まり返っていた。
かつて、この場所には「天使の歌声」と謳われた福音(ゴスペル)が満ちていた。無垢な少女の祈りが、ステンドグラスを透過する光のように降り注ぎ、民の恐怖を拭い去っていたはずだった。だが今、高い天井に反響するのは、乾いた肺が痙攣する、ヒューヒューという頼りない風切り音だけだった。
「……ッ、か、……あ……」
簡素な寝台の上で、エリスが身をよじる。十四歳という年齢には不釣り合いな重厚な法衣は乱れ、痩せた胸元が激しく上下していた。彼女は何かを伝えようと、必死に喉の奥を震わせている。しかし、その声帯はすでに過酷な説法の代償として焼き切れ、ただ掠れた摩擦音を漏らすことしかできない。
口元を覆った白い布に、鮮やかな朱色が滲んだ。鉄錆の臭いが、香炉の香りと混じり合って鼻をつく。
「もういい……もういいんだ、エリス」
私はたまらず、彼女の小さな肩を抱き寄せた。神の代弁者として崇められたその体は、驚くほど軽く、そして壊れ物のように震えている。彼女の瞳――かつて希望そのものだった碧眼――は今は涙で潤み、音のない謝罪を繰り返し訴えていた。
祈りは枯れ果てた。
神は沈黙し、残されたのは声を失った少女と、無力な兄である私だけだった。
彼女が聖女の座に就いたのは、わずか三年前のことだ。
魔物の侵攻が激化する「この国」において、人々は剣や盾よりも、すがるべき偶像を求めていた。白羽の矢が立ったのが、類稀なる魔力と玉のような美声を持っていたエリスだった。
それからの日々は、聖務という名の緩やかな処刑だった。
来る日も来る日も、彼女は最前線の砦や聖堂のバルコニーに立たされ、喉から血が滲むまで聖句を叫び続けた。彼女の声に乗る魔力だけが、兵士の恐怖を麻痺させ、死地へと駆り立てる唯一の興奮剤だったからだ。
「……う……ぁ……」
エリスが再び咳き込み、身体をくの字に折る。
私は水差しから杯に水を注ぎ、ひび割れた彼女の唇に押し当てた。喉を通る水音さえもが、砂利を踏むように痛々しい。
飲み込み終えると、彼女は枕元の羊皮紙に震える指を走らせた。そこには、インクの滲んだ文字でこう記されていた。
『なかないで。わたしは、まだ、いのれるから』
その文字を見た瞬間、私の中で怒りとも後悔ともとれぬ、言いようのない濁った感情が臓腑の中を駆け巡った。
まだ、祈れる?
これほどボロボロになり、声を奪われ、明日をも知れぬ身となってもなお?
彼女はこの教団の教義に縛られているのか。それとも、そう思い込まなければ自身の人生が無意味だったと認めてしまうのが怖いのか。
彼女は聖女などではなかった。
教団という巨大な機構に組み込まれた、交換可能な部品――ただの「生きた拡声器」だったのだ。
そして今、その部品は摩耗し、焼き切れ、無惨な廃棄物としてここに転がされている。
「……少し、風に当たってくるよ」
私は彼女の汗ばんだ前髪を払い、逃げるように立ち上がった。
エリスは音もなく微笑み、またすぐに浅い眠りへと落ちていく。その寝顔は、祭壇に祀られた蝋人形のように生気がなく、不気味なほどに静かだった。
重い樫の扉を開け、冷たい石造りの回廊へと出る。
廊下の奥、礼拝堂の方角からは、新しい代役の聖職者たちが練習する賛美歌が空虚に響いてきていた。その美しい旋律が、私には妹への死刑宣告のように聞こえた。
神というものは本当に存在するものなのか?
私の脳裏に、決してよぎってはならない禁忌の思想が浮かび上がってくる。
その問いに対する答えは、空虚な石畳に吸い込まれ霧散した。
そして同時に思うのだ。神はいない。少なくともこの石の牢獄には――と。
◆
目的もなく回廊を彷徨っていた私の足は、いつしか大司教の執務室の前で止まっていた。
分厚い樫の扉の向こうから、低い男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。普段なら下級の神官に過ぎない私が立ち聞きなどすれば重罰ものだが、今の私に恐れるものなど何ひとつなかった。
「――それで、エリスの喉はどうなのだ。回復の見込みは?」
「皆無ですな。治癒魔術師にも診せましたが、あれは怪我というよりは『代償』に近い。声帯が炭のように焼け焦げて使い物になりませぬ」
事務的な報告の声。まるで壊れた備品の在庫確認でもするかのような口調に、私は扉に張り付いたまま奥歯を噛み締めた。
彼らが話題にしているのは、つい昨日まで「聖女」と崇め奉っていた私の妹だ。だが、その声には一片の慈悲も、感謝の念すら含まれていない。むしろ腫れ物を扱うかのような疎々しさすら感じ取れた。
「惜しいな。あの娘の声波は、魔物を退けるのに最も効率が良かったのだが」
「代役はすでに手配済みです。歌唱力、魔力共に劣りますが、見た目は悪くない。信徒たちへの『見栄え』は十分でしょう」
「致し方あるまい……して、壊れた方はどう処理する?」
処理。
その単語が、冷たい刃物のように私の鼓膜を突き刺す。
「大聖堂に置いておくわけにはいきますまい。『声の出ない聖女』など、信徒の信仰心を揺るがす不吉な象徴でしかない」
「では、処刑するか?」
「馬鹿な。表向きは英雄だぞ、反感を買う。……そうだな、『静養』という名目で辺境へ送るのが妥当でしょう」
「なるほど。人里離れた地で、ひっそりと果ててもらうわけか」
下卑た笑い声が、扉越しに響いた。
静養とは名ばかりの、事実上の追放宣告。
支援金を打ち切り、護衛もつけず、魔物の脅威に晒される辺境へ放り出す。声も出せず、体も弱りきった少女がそんな場所で生きていけるはずがない。彼らは手を汚さずにエリスを野垂れ死にさせるつもりなのだ。
胃の腑が裏返るような吐き気に襲われた。
これが、我々が全てを捧げてきた神の庭の正体か。神聖さなど欠片もない。ここはただの、冷酷な計算と保身で塗り固められた巨大な屠殺場だ。
「……ッ」
私は扉を蹴破って怒鳴り込みたい衝動を、血が滲むほど拳を握りしめて抑え込んだ。
今ここで騒ぎを起こせば、その場で捕らえられ、エリスと共に即刻始末されるのが落ちだ。
この腐敗した教団の中にはもう救済など存在しないのかもしれない。
私は音を立てぬよう踵を返し、呼吸をするのも忘れてその場を離れた。
思考が真っ白に染まる。恐怖と、吐き気と、無力感。それらが泥のように混ざり合い、私の足をただ出口へと急がせた。
重い裏木戸を押し開け、外へ出る。
いつの間にか空は鉛色に閉ざされ、冷たい雨が石畳を打ちつけていた。
私はフードも被らず、雨あられと降り注ぐ冷気の中を亡霊のように彷徨い歩いた。
どこへ行けばいい?
金もない、力もない、当てもない。ただ「助けたい」という願いだけが、雨に濡れた犬のように惨めに震えている。親がまだ生きていればせめてまともな看病くらいはできたのだが、生憎私ら兄妹は天涯孤独の身であった。
大通りを避け、人目を避けるように路地から路地へ。腐った野菜と汚水の臭いが充満する、街の最下層へ。光の届かぬ場所へ潜れば、この絶望から逃れられるとでも思ったのだろうか。
ーーふと、足が止まった。
気づけば私は、一度も足を踏み入れたことのない、狭く湿った路地の袋小路に立っていた。周囲の喧騒は嘘のように消え失せ、雨音だけが鼓膜を叩く。
その突き当たりに、奇妙な店があった。
古びた布切れを繋ぎ合わせたような暖簾。看板には、見たこともない文字で何かが記されているが、なぜか私にはそれが『ぬけがら屋』と読めた。
店先から漏れる薄暗い灯りが、雨に煙る視界の中で、そこだけ生き物のようにゆらりと揺らめく。
まるで、最初からそこに私が来ることを知っていて、口を開けて待ち構えていたかのような――不吉で、それでいて抗いがたい引力。
理性が警鐘を鳴らすよりも早く、私の体は動いていた。
濡れた石段を一段、また一段と降りていく。
この先に待ち受けるのが救いなのか、それとも破滅への落とし穴なのか。今の私には、それを確かめる術すら残されていなかったのだ。
◆
湿った暖簾をくぐると、カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。店の中は外の雨気が嘘のように乾燥していた。いや、ただ乾いているのではない。古い書物が積み重なったような、あるいは干からびた爬虫類の標本のような埃っぽくも独特な静寂が満ちていた。
薄暗く狭い店内を見渡す。得体の知れない薬品、仰々しい武具、用途の不明な小物、見たこともない模様が描かれた骨董品。そのどれもが奇怪としか言い表せない品々であり、不気味さをより一層際立てている。
仄暗くゆらゆらと揺れる照明が、ガラス瓶や金属片を反射させる。侵入者である私を照らしているようで、背筋に冷たいものが走る。
「いらっしゃいませ……ようこそ"ぬけがら屋"へ」
唐突に、影の奥から声がした。カウンターの奥、薄闇の中にぽつりと鮮烈な「赤」が浮かんでいた。それは、深い赤色のフードを深く被った小柄な少女だった。
年齢は十の坂を越えたばかりというぐらいだろうか。フードの影から覗く口元は笑みを浮かべず、表情をうかがい知ることもできない。
「どうぞごゆっくり御覧くださいませ。身近な日用品から禁じられた遺物まで数多く取り揃えておりますゆえ……お気に召されるものがございましたらいつでもご相談ください……エエ……」
少女はカウンターの奥からぺこりと頭を下げた。その愛らしい声とは裏腹に、語り口は老獪な商人のそれだ。
私は面食らい、言葉を失う。ただ、フードの奥にある見えない視線が、私の顔を――その奥にある絶望をじっと覗き込んでいるのを感じた。
「オヤ……何かひどく憔悴しているご様子……」
少女が首をコクリと傾げる。
「まるで……そう、大切な声を失ったかのような……」
心臓が跳ねた。
なぜ、それを。私は何も言っていない。フードの下で、彼女はクスクスと喉を鳴らした。
「渇き、痛み、苦しみ……エエ、さぞお辛いことでしょう……その悲痛な渇き……潤わせたくはありませんか……?」
彼女がカウンターの下から取り出したのは、小さな掌に収まるほどの小瓶だった。中に入っているのは、深緑色の飴玉。薄暗い店内でも、それだけが自ら発光しているかのように、妖しく鈍い輝きを放っている。
「これは『聖息域の福音(ブレス・サンクチュアリ)』と呼ばれる特殊な飴細工にてございまして……エエ、ハイ……」
彼女は小瓶を頬ずりするように愛でる。その無邪気な仕草と、扱っている魔具の禍々しさが、どうしようもない違和感となって私の背筋を撫で上げた。
「これは深緑の森の奥深くで……いえ、成分の話は野暮でしたね。とにかく、枯れた喉を劇的に癒やす古いまじないが込められておりまして……一粒舐めるだけで、乾いた喉はたちまち森のような潤いを帯びることでしょう」
枯れた喉を癒やす。その言葉は、今の私にとってどんな宝石よりも魅力的な響きを持っていた。私は思わず手を伸ばしかける。だが、少女はその手を制するように、人差し指を立てて言葉を続けた。
「……過ぎたるは猶及ばざるが如し」
「え?」
「それだけ、注意していただければ。当店では、服用後の不可逆的な変化、および社会的立場の喪失につきましては一切の対応は受け付けておりませんので、そこのところはご了承いただきます」
不可逆的な変化。社会的な死。それは、エリスがもう二度と清廉な聖女としては生きられなくなることを示唆していた。だが、それがどうしたというのだ。教団に見捨てられ、このまま野垂れ死ぬのを待つだけの運命なぞクソ食らえだ。
「それでもよければ、必ずやご希望に添えることでしょう……」
「構わない」
私は考えるまでもなくそう答えた。少女は満足そうに頷き、小瓶をカウンターへ滑らせる。
「ではどうぞお持ち帰りください……その瓶の蓋を開けるか否かは、貴方次第です」
私は震える手で小瓶を掴んだ。ひやりとした硝子の感触が掌に吸い付く。
財布を取り出そうとすると、彼女は白い手を振ってそれを止めた。
「代価? 私はただこの飴がもたらす『結果』を見届けられればそれで良いのです……」
「結果……?」
「ええ。種は蒔かれなければ意味がない。水と土が交わり、肥料を与え、愛を育む……それでは甘い果実が実るのを、お待ちしておりますよ……」
意味深な言葉を背に、私は店を後にした。
外の雨はまだ降り続いていた。だが、懐に入れた小瓶の熱だけが、私の冷え切った体を芯から焼くように熱かった。ドロリと蕩けるような、甘く退廃的な熱が。
◆
聖堂に戻る頃には、雨は夜の冷気を含んで霙(みぞれ)へと変わっていた。ずぶ濡れの外套を引きずりながら、私は長い回廊を歩く。石畳を叩く私の足音だけが死に絶えた巨大な生物の体内を歩くように響いていた。
部屋に戻るとエリスの呼吸はいっそう浅くなっていた。
蝋燭の燃え尽きた薄闇の中、彼女の白い喉元だけが痙攣するように小さく波打っている。その音は、いまにも切れそうな弦楽器の悲鳴に似ていた。
「……ッ、く……ぅ……」
苦悶に眉を寄せ、身じろぎする妹。
私は濡れた服も脱がず、寝台の脇に膝をついた。懐から取り出した小瓶は、私の体温を吸って生温かく、まるで脈動しているかのような錯覚を覚える。
――『その瓶の蓋を開けるか否かは、貴方次第です』――
あの少女の嘲笑が脳裏に蘇る。
これは薬ではない。もっと冒涜的で根源的な「何か」だ。
だが、教団に見捨てられ、緩やかな死を待つだけのこの部屋に神の慈悲など一欠片も落ちてはいなかった。あるのは冷たい石の壁と、孤独だけだ。
ならば、縋るべきは悪魔の甘言でも構わない。
私は意を決し、小瓶のコルク栓を抜いた。
ポン、と小気味よい音が鳴ると同時に濃密な香りが鼻腔をくすぐった。
それは雨上がりの森の匂い。腐葉土と、熟れすぎた果実と、花の蜜が混ざり合ったような、むせ返るほどに甘く、どこか懐かしい「生命」の芳香。消毒薬と線香の臭いに満ちたこの病室にはあまりにも不釣り合いな香りだった。
「エリス……口を開けてくれ」
私の声に、彼女がうっすらと瞼を開ける。焦点の合わない瞳が私を捉え、何かを訴えるように唇が震えた。だが、そこから声は出ない。ただ、ヒューヒューという乾いた音だけが漏れる。
私は瓶から転がり出た深緑の粒を、指先で摘まんだ。飴は照明の光を吸い込み、底知れぬ緑の輝きを放っている。
震える彼女の唇にそれを押し当てる。それはまるで、信徒に聖体を授けるサクラメントのようであり、雛鳥に餌を与える親鳥のようでもあった。
コロン。
飴は吸い込まれるように、乾いた口腔へと滑り落ちた。
その瞬間――ビクリ、とエリスの体が大きく跳ねる。
彼女は目を見開き、シーツを鷲掴みにした。喉の奥で、何かがジュワリと溶け出し、粘膜に染み渡っていく音が聞こえた気がした。
苦しげに喉を掻きむしろうとする彼女の手を、私は必死に押さえつける。
「……ぁぅッ!! ぅう…………ん、んぅ!!!!」
「大丈夫だ、エリス。すぐに楽になる……すぐに……」
本当に効果があるのかどうか、そんな保証はどこにもない。自分に言い聞かせるように呟く。数秒か、あるいは数分か。永遠にも感じる沈黙の後、変化は劇的に訪れた。
あれほど苦しげだった呼吸音が、ピタリと止んだのだ。
部屋を満たすのは、完全な静寂。恐怖で心臓が凍りつきそうになった時、エリスの唇がゆっくりと動き安らかな吐息が漏れた。
「……ぁ……」
ため息だった。
だが、掠れた音ではない。朝露に濡れた若葉が擦れ合うような、瑞々しく潤いを帯びた「音」。焼けたはずの声帯が瞬時にして未知の組織へと書き換えられたかのような、奇跡的な回復だった。
「……兄、さん?」
エリスが私を呼ぶ。その声の、なんと甘美なことか。以前の彼女の声とも違う。もっと深く、脳髄を直接撫で回されるような、抗いがたい響き。聞いているだけで、私の喉の奥までが共鳴し、甘く痺れていくような感覚。
彼女の頬に赤みが差し、瞳にはかつてないほどの生気が宿っていた。こんなエリスの瞳を最後に見たのはいつ以来だっただろうか。そう思わざるを得ないほど、つい数刻ほど前の瞳とは別物だった。
だが、それは健康的な正気というよりは、熱病に浮かされたときのような危うい恍惚の色だった。
ぞくり。
一瞬。ほんの一瞬だが、私はエリスに対して、抱いてはならない邪な感情を抱き、瞬時に脳裏から消し去る。あまりにも彼女の恍惚とした表情が『妹』らしからなかったからだ。
彼女は自分の喉元に手を当て、うっとりと呟く。
「すごい……痛くないの。喉が甘い水で満たされているみたい……」
エリスが息を吐くたびに、部屋の中にあの「森の香り」が満ちていく。石造りの無機質な部屋が、まるで目に見えない植物によって浸食され温室へと変わっていくようだ。
私は震える手で空になった小瓶を握りしめ、エリスを抱きしめた。
エリスは救われた。それも、神の力ではなく、得体の知れぬ不可思議な力によって。
だが同時に、私たちは決して戻れない一線を越えてしまったのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。後ろめたくもあったが、眼前に輝く『聖女』を目にするとそんなことは些細な問題に等しくもあった。
窓の外では、雷鳴が轟いている。だが今の私たちには、この甘い閉鎖空間だけが世界の全てだった。
25/12/23 21:06更新 / ゆず胡椒
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