ドッペル・パラドクス
深い闇。
昏々とした混沌。
光も射さぬ意識の水底。
『感情』と名付けられた、淀んだ水が濁ったような黒い泥。
『魔王の魔力』と讃えられる、ある種の指向性を持った黒い川。
黒と黒とが混ざり熔かされた混沌。
その底に果ては無く、その深みには原初の闇が沈んでいる。
右も左も、底も天辺も無い。
唯、概念的な『上下』があるだけの世界。
そんな世界に、『私』は生を受けた。
『私』の名前はドッペルゲンガー
人の望みを象る物。
人の願いを騙る魔。
嗚呼、『私』を生みし愛しき人よ……
この手が持つのは貴方の意識
私と貴方を繋ぐ糸
この糸を解いたその時に、『私』は肉体を得るのだろう。
この糸に記された願いを知って、貴方の望みをこの身に受けて……
そして『私』は、貴方好みの私になろう。
その時『私』は、きっと光を目にするだろう。
貴方のいる、あの愛おしい世界の光を目にできるのだ。
嗚呼、『私』を産んだ愛しい貴方。
今、あいに……
xxx xxx xxx xxx xxx
その男を評するとすれば、まず『平凡』の二文字が浮かぶことだろう。
中肉中背。これといった特徴の無い、あるいみ小綺麗な顔。
古い麦穂のような短い茶髪に、深いオークの瞳色。
小さな町で、菓子屋を営む青年。
他に特徴と言えば、柔和そうな微笑みくらい。
仮に人の目に留まっても、すぐに忘れられてしまいそう……
彼は商人としては致命的な、そんな風な印象の青年だった。
決して裕福でも、楽な暮らしをしているわけでも無かった。
けれど彼は、のどかで平和な、その幸せな暮らしを好んでいた。
ある日の事である。
朝の仕込みを終えて、彼は安楽椅子の上でうたた寝をしていた。
ちょうど、昼時の書き入れ時まで待つばかり……といった時分。
そんな頃合いに、一人の婦人が表ドアーのベルを鳴らしたのだった。
「おじゃま致しますね……」
その婦人はドアーを開けたのと時を同じに、清潔そうな白色のつば広帽子を脱いで、たおやかに一礼をしたのである。それから遠慮がちに、奥ゆかしく店に入り、そこに店主の姿を見つけると、また優雅に一礼。
驚いたのは店主の方で、わたわたと慌てふためきながら身を起こし、何を思ったのか、こちらこそとでも言わんばかりに、後ろ頭に手をやって気恥ずかしそうに礼を返したのであった。それから婦人の注文を、まるで全くそれが王様の命令であるようにキビキビと働き。またその瞼が二重の凡な目で、チラチラと婦人の方に視線をやっているのである。
婦人は、両の手で取った帽子をへその辺りで受け置いて、物珍しそうに店の方々を見渡しながら、天女のように穏やかな微笑んでいる。またその真珠のような白く滑らかな肌の上に、肩を出す型のシルク製のワンピースを見事な風に着こなして、その少女らしい恰好と大人びた風な婦人の様相とが、ある種Unbalanceな美を構築していて、それが一層彼女を魅力的な風に仕立てていた。
店主はその彼女を見て、初心な少年にでも戻ったかのように顔を赤らめてしまうのだった。
対して婦人の方はといえば、そんな彼の可笑しな様子を見ながらも、笑うでも、また訝しんで眉をひそめるでも無く。まったく『貴婦人』と呼ぶに相応しい物腰で、きょとんと小首を傾げるなどとしているのである。
店主の頬が、ますます紅っぽく色めいた。
婦人は翌日にも来店し、シゥクリームを二つ注文した。
その際に一つ世間話などを始めて、ついぞ数日前に近くへ越してきたこと。道を覚えるかてらにこの店を見つけて、挨拶とも合わせて顔を出したのだということ。昨日のクッキーは美味しかったということ……
店主の男は必死になって、赤薔薇の花弁のような婦人の唇からこぼれ落ちる音を拾っていたが、鈴が転がるのよりも更に澄んでいるかのような声に、ただ上の空になって気の無い相槌を返すばかりだった。
それでも最後、婦人が出て行く間際に言った『また来ますね？』との言葉に、彼はハッとしたように正気に返り、威勢の良い返事と深々しい礼で応えることは出来ていたのだった。
それから、数ヶ月。
婦人は週に二、三度店へと足を運び、店主は時に上等な紅茶を出すなりしてもてなし、午後に差し掛かりはじめる気怠い時間を、実に有意義に充実した瞬間に変えていった。
別に何ということはない、ただ世間話をするだけだ。単なる小さな茶会に過ぎない。
けれども店主は、次第に、時が経つほどに、より一層に彼女への思いを深くしていった……
重ねて言おう。
彼女は正に、貴人と称するべき人物だった。
決して他を陥めるような言葉はなく、話の端々に見え隠れする配慮の色。指の先から頭のてっぺんまで一辺の見苦しさすらも見られぬ様々の仕種。風がそよげば仄かに香るラベンダーの香水。ぼーっと何処かに重いを馳せて、それを言葉に態度に示された時にふとして見せる、少女らしさの残った表貌。
ただの一口ティーカップに口を付けてみせれば、白い陶磁にそっと這った指が、瑞々しさが一層際立った唇が、コクリと咽下した時の、妙に艶っぽい白魚の喉が……
全てが店主を、彼を引きつけ、魅了し、彼の心を捕らえるのだ。
しかし婦人にはそのような下卑た思惑が有るはずもなく、彼の作った菓子を食べ、彼の煎れた茶を飲んで、どこかでニブい感性で果敢無く優しい微笑みを浮かべるばかり。
だが店主はそれを不満とは思わず、むしろそれすらも彼女の魅力の一つと捉えた。
そしてついに、彼は適わぬという自覚を持ちながら、婦人へと恋心を抱いてしまったのだ………
xxx xxx xxx xxx xxx
それは、まぎれもない『彼』の初恋。
はや十九にもなる彼が、やっと初めて抱いた感情。
幼い頃から、ただその時に至るまで、修業と仕事に明け暮れていた彼に初めて巡り合わせた恋だった。
記憶を過去へと辿って行けば、彼の人となりを型作ったであろう過去も見えてきた。
貧しい一家の末っ子として生まれたこと、口減らしに商家へ奉公に出されたこと。そこで使用人として働いている時に、見様見真似で職人の作った菓子を再現して同僚に振る舞ったこと。それが目に留められて、弟子として働きだしたこと……
長く、厳しい修業の日々。
いつしか彼は腕の良い職人になっていた。
けれど自分が平凡人でしか無いことに気付き、それ以上にはなれないと悟ってしまった事。
そして彼は、日々を漫然と、時に多忙に過ごしながら、今のような平凡な青年に育ったのだった。
彼は……誠実な人間だった。
生まれは、とても幸福なものでは無い。
けれど彼はそれを理由に歪んだりはしなかった。
バカ者と罵りを受けるくらい、彼は誠実で、正直だった。
私は…一層に彼を好きになってしまった様だ
さあ、ページをめくろう。
もっと彼を知らなくては……
xxx xxx xxx xxx xxx
おおよそ、半年が過ぎた。
関係の破綻は、思っていたよりも呆気なく訪れた。
何という事はない、単に基礎的な情報が一つ入っただけの事だ。
きっかけは、馴染みの噂好きの客の一言だ。
『この前越してきた人、いい子よねぇ……
気立ても良いし、若いのに礼儀正しいし。
旦那さんも、なかなか恰好良いものね』
―旦那さんも―
それだけの言葉、そして全てが破綻した。
彼女は既婚者だった。
本来なら、すぐに分かりそうな事ではある。
互いに分かり合おうと願うならば、真っ先にでも耳に入るべき事であろう。
だが、あくまで店主と客というだけの関係で甘んじ、色恋に無頓着だった店主はそれを怠っていた。
それ故に、その事を知った時にはもう、引き返しがたい深みにはまってしまっていたのである。
初恋だった。
遅い、人の並より十年は遅い。
初めての思いだった。
故にその処理の仕様も知っていなかった……
彼の思いは『燻った』
その身の内に秘めた思いを、ようやっと自覚した所なのだ。
だというのに、ストン、とそれが無為の物となってしまった。
遣り場が無くなった。どうのしようも、無くなってしまった。
ただ純情の思いであった。
健全な、愚直とすら言えるほど純粋な恋だった。
なにも悪いことではない。
されど、物を知らぬ幼子の恋ではない。
時に、婦人の裸体を脳裏の裏に浮かべることもあった。
なにも悪いことではない。
しかし今、思い返して見たならば
その時の彼女ですら、決して男と交わりを持つことは無かった。
男はその意識の奥底で届かぬことを、『高嶺の花』と諦めを感じていた。
されど、事実。現実に事実を突き付けられた。
思いが決して実ることがないと、気付いてしまった。
否、気付かされてしまったのだ！
もしもこれが、直接かの婦人の言葉によって知らされたのならばどうか？
もしもこれが、彼女とその名も顔も知らぬ彼との逢瀬を見たのであれば如何か？
もしやすると、一時の感情に押されて何やら口走れたかもしれぬ。
ひょっとすると、彼女が良い返事を寄越してくれないとも限らない。
例えその結果が最悪の物であったとしても、少なくともある種『燃え尽きる』事が出来たに違いない。
少なくとも、今この時に感じる、この「どうのしようもない」感覚は無かったはずだ。
嗚呼、それでも。
それでも彼は、この思いを切って捨てた。
自身の中にある、黒く暗い燻りと共に、『初恋』を棄てたのだ。
一人の、社会人たる模範的な行動として……
そして棄てられた思いは無意識の水底に堆積する。
やがてその『感情』は、『魔王の魔力』と讃えられし物と結び付く。
純然たる指向性を持った、性嗜好の存在として……思いは、現実に具現する。
「…どう、………しよう……」
私は具現してしまった。
肉体を得てしまった。もはや元には戻れない。
「わた、し……どうしたら……？」
彼の思いを紐解いて、気付いてしまった。
彼は、彼女のその清純なたたずまいに心奪われたのだ。
男は、かの婦人の高潔な気品ある態度に心酔したのだ。
決して容姿に惚れ込んだのでは決して無い。
「私はどうすればいいの…？」
空を仰ぐ。
雲一つ無い満点の星空だ。
そこに穴のように口を開けた真円の月は、背筋が凍るほど美しく輝いている。
月の魔力が夜に満ちている。今なら私はどんな姿にだってなれるだろう。
「それが何だっていうの！！」
意味が、無い。
まるで意味が無いのだ……
彼が愛したのは、「純潔な婦人」
例え私が『彼女』の姿で彼に愛を伝えた所でどうなる？
失望を与えるに過ぎない。そうなるであろう事は、先に見た彼の記憶から間違いが無い。
なら、どうする？
私は、どうすれば良いのだ？
「私は貴方を…こんなにも………」
嗚呼、彼の思いが痛いほどによく分かる。
記憶を見たからではない。そんな出歯亀な、安い同情的な理解では無い。
同じだ。同じなのだ。彼と私の感情の奔流は、まったくの同一の流れを辿っている。
知らなければ、こんなに辛くなったりはしなかった！
私が、彼をこうも深く知らないままでいたなら？
ほかの皆がそうしたように、思い人の姿で『彼』に会いに行っていただろう。
そして思いを伝え、拒絶されていただろう。
『その程度』ならばドレホド良かったか!!!
それならば、それだけなのだ。
振られて、多少傷ついても、それだけだ。
後はノラになるなり、失意に消滅するなり、魔力で誘惑するなりすれば良い。
「けど…だけど、もう……」
私にはもう、それが出来ない。
私は、こんなにも彼を知って、愛して、しまった。
彼が、産みの親だからではない。
純情を、純粋なまま持ち続けた彼を。愚直な彼を。
失意にも歪まなかった彼を、『彼』を……あの人を、愛してしまった。
もう、別の誰かを愛することなんて出来ない。そんな事、したくない。
もう、消えることなんて出来ない。そうなったら、誰が彼を救えるというのか？
もう、彼女の姿で誘惑をする気には……どうしてもなれなかった。
例え魔法を使って、彼の正気を奪って、それで丸く収める事が出来たとして…
それは、彼女のみならず『あの人の恋』への冒涜だ。
彼の恋したあの女は、決してそんな事をする娘では無いのだから。
ああ、どうして？
なんでこんな残酷な……
――あの人の恋はもう、叶うことは無い――
「ねぇ…ねえ、だれか……誰か教えて…？
どうすれば…どうすれば彼を救えるの？」
私じゃあ…あの人を、しあわせに…できない……
「だれか…ねぇ、お願い、誰か……
どうか、彼を……あの人を、助けて！！」
私の声、悲痛な叫び。
喉が痛くなるほど声を張り上げた、願い。
それはただ、夜空へと虚しく響くだけ……
空に浮かぶ満月、木の葉を揺らす風。
何も、私に答えをくれるものは無かった。
昏々とした混沌。
光も射さぬ意識の水底。
『感情』と名付けられた、淀んだ水が濁ったような黒い泥。
『魔王の魔力』と讃えられる、ある種の指向性を持った黒い川。
黒と黒とが混ざり熔かされた混沌。
その底に果ては無く、その深みには原初の闇が沈んでいる。
右も左も、底も天辺も無い。
唯、概念的な『上下』があるだけの世界。
そんな世界に、『私』は生を受けた。
『私』の名前はドッペルゲンガー
人の望みを象る物。
人の願いを騙る魔。
嗚呼、『私』を生みし愛しき人よ……
この手が持つのは貴方の意識
私と貴方を繋ぐ糸
この糸を解いたその時に、『私』は肉体を得るのだろう。
この糸に記された願いを知って、貴方の望みをこの身に受けて……
そして『私』は、貴方好みの私になろう。
その時『私』は、きっと光を目にするだろう。
貴方のいる、あの愛おしい世界の光を目にできるのだ。
嗚呼、『私』を産んだ愛しい貴方。
今、あいに……
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その男を評するとすれば、まず『平凡』の二文字が浮かぶことだろう。
中肉中背。これといった特徴の無い、あるいみ小綺麗な顔。
古い麦穂のような短い茶髪に、深いオークの瞳色。
小さな町で、菓子屋を営む青年。
他に特徴と言えば、柔和そうな微笑みくらい。
仮に人の目に留まっても、すぐに忘れられてしまいそう……
彼は商人としては致命的な、そんな風な印象の青年だった。
決して裕福でも、楽な暮らしをしているわけでも無かった。
けれど彼は、のどかで平和な、その幸せな暮らしを好んでいた。
ある日の事である。
朝の仕込みを終えて、彼は安楽椅子の上でうたた寝をしていた。
ちょうど、昼時の書き入れ時まで待つばかり……といった時分。
そんな頃合いに、一人の婦人が表ドアーのベルを鳴らしたのだった。
「おじゃま致しますね……」
その婦人はドアーを開けたのと時を同じに、清潔そうな白色のつば広帽子を脱いで、たおやかに一礼をしたのである。それから遠慮がちに、奥ゆかしく店に入り、そこに店主の姿を見つけると、また優雅に一礼。
驚いたのは店主の方で、わたわたと慌てふためきながら身を起こし、何を思ったのか、こちらこそとでも言わんばかりに、後ろ頭に手をやって気恥ずかしそうに礼を返したのであった。それから婦人の注文を、まるで全くそれが王様の命令であるようにキビキビと働き。またその瞼が二重の凡な目で、チラチラと婦人の方に視線をやっているのである。
婦人は、両の手で取った帽子をへその辺りで受け置いて、物珍しそうに店の方々を見渡しながら、天女のように穏やかな微笑んでいる。またその真珠のような白く滑らかな肌の上に、肩を出す型のシルク製のワンピースを見事な風に着こなして、その少女らしい恰好と大人びた風な婦人の様相とが、ある種Unbalanceな美を構築していて、それが一層彼女を魅力的な風に仕立てていた。
店主はその彼女を見て、初心な少年にでも戻ったかのように顔を赤らめてしまうのだった。
対して婦人の方はといえば、そんな彼の可笑しな様子を見ながらも、笑うでも、また訝しんで眉をひそめるでも無く。まったく『貴婦人』と呼ぶに相応しい物腰で、きょとんと小首を傾げるなどとしているのである。
店主の頬が、ますます紅っぽく色めいた。
婦人は翌日にも来店し、シゥクリームを二つ注文した。
その際に一つ世間話などを始めて、ついぞ数日前に近くへ越してきたこと。道を覚えるかてらにこの店を見つけて、挨拶とも合わせて顔を出したのだということ。昨日のクッキーは美味しかったということ……
店主の男は必死になって、赤薔薇の花弁のような婦人の唇からこぼれ落ちる音を拾っていたが、鈴が転がるのよりも更に澄んでいるかのような声に、ただ上の空になって気の無い相槌を返すばかりだった。
それでも最後、婦人が出て行く間際に言った『また来ますね？』との言葉に、彼はハッとしたように正気に返り、威勢の良い返事と深々しい礼で応えることは出来ていたのだった。
それから、数ヶ月。
婦人は週に二、三度店へと足を運び、店主は時に上等な紅茶を出すなりしてもてなし、午後に差し掛かりはじめる気怠い時間を、実に有意義に充実した瞬間に変えていった。
別に何ということはない、ただ世間話をするだけだ。単なる小さな茶会に過ぎない。
けれども店主は、次第に、時が経つほどに、より一層に彼女への思いを深くしていった……
重ねて言おう。
彼女は正に、貴人と称するべき人物だった。
決して他を陥めるような言葉はなく、話の端々に見え隠れする配慮の色。指の先から頭のてっぺんまで一辺の見苦しさすらも見られぬ様々の仕種。風がそよげば仄かに香るラベンダーの香水。ぼーっと何処かに重いを馳せて、それを言葉に態度に示された時にふとして見せる、少女らしさの残った表貌。
ただの一口ティーカップに口を付けてみせれば、白い陶磁にそっと這った指が、瑞々しさが一層際立った唇が、コクリと咽下した時の、妙に艶っぽい白魚の喉が……
全てが店主を、彼を引きつけ、魅了し、彼の心を捕らえるのだ。
しかし婦人にはそのような下卑た思惑が有るはずもなく、彼の作った菓子を食べ、彼の煎れた茶を飲んで、どこかでニブい感性で果敢無く優しい微笑みを浮かべるばかり。
だが店主はそれを不満とは思わず、むしろそれすらも彼女の魅力の一つと捉えた。
そしてついに、彼は適わぬという自覚を持ちながら、婦人へと恋心を抱いてしまったのだ………
xxx xxx xxx xxx xxx
それは、まぎれもない『彼』の初恋。
はや十九にもなる彼が、やっと初めて抱いた感情。
幼い頃から、ただその時に至るまで、修業と仕事に明け暮れていた彼に初めて巡り合わせた恋だった。
記憶を過去へと辿って行けば、彼の人となりを型作ったであろう過去も見えてきた。
貧しい一家の末っ子として生まれたこと、口減らしに商家へ奉公に出されたこと。そこで使用人として働いている時に、見様見真似で職人の作った菓子を再現して同僚に振る舞ったこと。それが目に留められて、弟子として働きだしたこと……
長く、厳しい修業の日々。
いつしか彼は腕の良い職人になっていた。
けれど自分が平凡人でしか無いことに気付き、それ以上にはなれないと悟ってしまった事。
そして彼は、日々を漫然と、時に多忙に過ごしながら、今のような平凡な青年に育ったのだった。
彼は……誠実な人間だった。
生まれは、とても幸福なものでは無い。
けれど彼はそれを理由に歪んだりはしなかった。
バカ者と罵りを受けるくらい、彼は誠実で、正直だった。
私は…一層に彼を好きになってしまった様だ
さあ、ページをめくろう。
もっと彼を知らなくては……
xxx xxx xxx xxx xxx
おおよそ、半年が過ぎた。
関係の破綻は、思っていたよりも呆気なく訪れた。
何という事はない、単に基礎的な情報が一つ入っただけの事だ。
きっかけは、馴染みの噂好きの客の一言だ。
『この前越してきた人、いい子よねぇ……
気立ても良いし、若いのに礼儀正しいし。
旦那さんも、なかなか恰好良いものね』
―旦那さんも―
それだけの言葉、そして全てが破綻した。
彼女は既婚者だった。
本来なら、すぐに分かりそうな事ではある。
互いに分かり合おうと願うならば、真っ先にでも耳に入るべき事であろう。
だが、あくまで店主と客というだけの関係で甘んじ、色恋に無頓着だった店主はそれを怠っていた。
それ故に、その事を知った時にはもう、引き返しがたい深みにはまってしまっていたのである。
初恋だった。
遅い、人の並より十年は遅い。
初めての思いだった。
故にその処理の仕様も知っていなかった……
彼の思いは『燻った』
その身の内に秘めた思いを、ようやっと自覚した所なのだ。
だというのに、ストン、とそれが無為の物となってしまった。
遣り場が無くなった。どうのしようも、無くなってしまった。
ただ純情の思いであった。
健全な、愚直とすら言えるほど純粋な恋だった。
なにも悪いことではない。
されど、物を知らぬ幼子の恋ではない。
時に、婦人の裸体を脳裏の裏に浮かべることもあった。
なにも悪いことではない。
しかし今、思い返して見たならば
その時の彼女ですら、決して男と交わりを持つことは無かった。
男はその意識の奥底で届かぬことを、『高嶺の花』と諦めを感じていた。
されど、事実。現実に事実を突き付けられた。
思いが決して実ることがないと、気付いてしまった。
否、気付かされてしまったのだ！
もしもこれが、直接かの婦人の言葉によって知らされたのならばどうか？
もしもこれが、彼女とその名も顔も知らぬ彼との逢瀬を見たのであれば如何か？
もしやすると、一時の感情に押されて何やら口走れたかもしれぬ。
ひょっとすると、彼女が良い返事を寄越してくれないとも限らない。
例えその結果が最悪の物であったとしても、少なくともある種『燃え尽きる』事が出来たに違いない。
少なくとも、今この時に感じる、この「どうのしようもない」感覚は無かったはずだ。
嗚呼、それでも。
それでも彼は、この思いを切って捨てた。
自身の中にある、黒く暗い燻りと共に、『初恋』を棄てたのだ。
一人の、社会人たる模範的な行動として……
そして棄てられた思いは無意識の水底に堆積する。
やがてその『感情』は、『魔王の魔力』と讃えられし物と結び付く。
純然たる指向性を持った、性嗜好の存在として……思いは、現実に具現する。
「…どう、………しよう……」
私は具現してしまった。
肉体を得てしまった。もはや元には戻れない。
「わた、し……どうしたら……？」
彼の思いを紐解いて、気付いてしまった。
彼は、彼女のその清純なたたずまいに心奪われたのだ。
男は、かの婦人の高潔な気品ある態度に心酔したのだ。
決して容姿に惚れ込んだのでは決して無い。
「私はどうすればいいの…？」
空を仰ぐ。
雲一つ無い満点の星空だ。
そこに穴のように口を開けた真円の月は、背筋が凍るほど美しく輝いている。
月の魔力が夜に満ちている。今なら私はどんな姿にだってなれるだろう。
「それが何だっていうの！！」
意味が、無い。
まるで意味が無いのだ……
彼が愛したのは、「純潔な婦人」
例え私が『彼女』の姿で彼に愛を伝えた所でどうなる？
失望を与えるに過ぎない。そうなるであろう事は、先に見た彼の記憶から間違いが無い。
なら、どうする？
私は、どうすれば良いのだ？
「私は貴方を…こんなにも………」
嗚呼、彼の思いが痛いほどによく分かる。
記憶を見たからではない。そんな出歯亀な、安い同情的な理解では無い。
同じだ。同じなのだ。彼と私の感情の奔流は、まったくの同一の流れを辿っている。
知らなければ、こんなに辛くなったりはしなかった！
私が、彼をこうも深く知らないままでいたなら？
ほかの皆がそうしたように、思い人の姿で『彼』に会いに行っていただろう。
そして思いを伝え、拒絶されていただろう。
『その程度』ならばドレホド良かったか!!!
それならば、それだけなのだ。
振られて、多少傷ついても、それだけだ。
後はノラになるなり、失意に消滅するなり、魔力で誘惑するなりすれば良い。
「けど…だけど、もう……」
私にはもう、それが出来ない。
私は、こんなにも彼を知って、愛して、しまった。
彼が、産みの親だからではない。
純情を、純粋なまま持ち続けた彼を。愚直な彼を。
失意にも歪まなかった彼を、『彼』を……あの人を、愛してしまった。
もう、別の誰かを愛することなんて出来ない。そんな事、したくない。
もう、消えることなんて出来ない。そうなったら、誰が彼を救えるというのか？
もう、彼女の姿で誘惑をする気には……どうしてもなれなかった。
例え魔法を使って、彼の正気を奪って、それで丸く収める事が出来たとして…
それは、彼女のみならず『あの人の恋』への冒涜だ。
彼の恋したあの女は、決してそんな事をする娘では無いのだから。
ああ、どうして？
なんでこんな残酷な……
――あの人の恋はもう、叶うことは無い――
「ねぇ…ねえ、だれか……誰か教えて…？
どうすれば…どうすれば彼を救えるの？」
私じゃあ…あの人を、しあわせに…できない……
「だれか…ねぇ、お願い、誰か……
どうか、彼を……あの人を、助けて！！」
私の声、悲痛な叫び。
喉が痛くなるほど声を張り上げた、願い。
それはただ、夜空へと虚しく響くだけ……
空に浮かぶ満月、木の葉を揺らす風。
何も、私に答えをくれるものは無かった。
11/05/07 18:14更新 / 夢見月