読切小説
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トゥ・ザ・ムーン
 例えば詩人なら、この気持ちをどうやって著すだろう。
 例えば歌手なら、この気持ちをどうやって歌い上げるだろう。

 たった一つのこの気持ちに、どんな言葉が綴られていくのだろう。
 たった一つのこの気持ちに、どんな旋律が紡がれていくのだろう。

 書いては消して、組み立てては戻して。
 悩んで、想って、時間は過ぎて。

 そうやって作られた、貴方のためだけの、たった一つの作品。
 それはきっと、ステキなものだろうなと思う。


 でも私は、そんな美しい言葉は知らないから。
 そんな綺麗な声も、持ってないから。

 それでもこの気持ちは、絶対に伝えたかったから。
 だから、私に出来ることを考えた。
 ずっと、長い間ずっと探し続けて、やっと見つけた。

 私なりの、最高の伝え方を――。







 それは、白湯を片手に、入り江で一人腰掛けていた夜。
 冬の潮風が、年越しの祭り酒に火照った頬に凍みる夜だった。

 また、目出度いことの一つもないまま年が過ぎていってしまった。 耳に残る宴会の喧騒の余韻に浸りながら、自分に笑いかけた。
 成人前に両親が逝ってからというもの、出来のいい兄は都へ官職務め、妹は早々に隣町に嫁いで行き、生まれ故郷に残ったのは自分一人。
 幸いにも友人や隣人との関係は良好だったため、この村で過ごしていくことに不自由はなかった。 それでも、共に生活する者が居ない孤独感から逃れることは出来なかった。
 昔馴染みたちは次々にくっついて、今や同年代で結婚していないのは自分だけだ。 無理もない。 両親に代わって村の運営に携わっていれば、そんな余裕もなくなる。
 辺境の女は強いという決まりだ。 どっしり構えていれば群がってくれるような、そんな柔で雅な性質など、この村の女性は備えていないのだ。
 宴会の席で見た、潰れた夫の首根っこを掴んで磊落に笑う妻の構図を思い出すと、少し笑いがこみ上げてきた。

 入り江を洗う波の音は、心に被さってくるようで、俺は密かに身震いをした。
 千切れ雲の舞う冬空に隠された星々を、海面越しにただ、眺めていた。

 現状に不満があるわけではない。
 ただこの海のように広がる、薄暗く漠然とした未来が不安だった。
 しかし毎年の祭りのあと、こうしてこの入り江で海を眺めるたびに、心の中で伴侶を求める自分の声が遠くなっていくのも自覚していた。
 じんわりと手先を暖める陶器のマグが、かえって身の冷たさを際立たせているような気がした。

 そろそろ潮時かと、そんなことも考え始めていた。
 年甲斐もなく足掻くのは止めた方がいいと、そういう風にも思っていた。

 彼女が現れたのは、そんな夜だった。




 帳が払われるようにして雲が流れたとき、目前に映し出されたのは無造作に散らばる星々と、凛と光る満月だった。
 余りの眩さに脇の砂浜へと目線を逸らすと、その先で信じられないようなものと目が合った。


 数十歩先に、淡い衣をまとう可憐な少女と、少女に一体化した巨大な蟹が居たのだ。


 その見慣れない容貌に少したじろぐ、が、彼女がキャンサーであると思い至るまでに、さして時間はかからなかった。
 そしてキャンサーが人間に危害を加える魔物ではないということも、俺は知っていた。 両親が魔物に対して明るかったので、自分もある程度の知識はあるのだ。

 互いを認識しあった瞬間から微動だにせず、目線だけが行き交う。 くりっと大きな少女の目が、じいと僕の顔を見つめていた。 彼女は無表情で、強張った面持ちをしている。
 僕はその視線に気付きながら、少女の上半身には余りにも似つかわしくない下半身を、ちらちらと盗み見ていた。
 会話もないまま、しばし、奇妙な硬直状態が続いた。

「……や、やあ」

 堪えきれずに沈黙を破ったのは俺の方だった。
 唐突だったのか、キャンサーの彼女は怯えるように身を縮ませた。 同時に蟹の爪が少女を守るように持ち上がる。
 なぜだか悪いことをしてしまったような気がする。

「えーと、どうかした? こんな夜に」
「え……ぁ」

 俺の質問に少女は顔をそらし、黙りこくってしまう。
 下半身の蟹はせわしなく足の置き場を探しており、こちらに向けられたままの爪はカツカツと音を鳴らし始めた。
 キャンサーとは初体面なので分からないが、怒っているのだろうか。 不安だ。

「あー、その、居場所荒らしたとかで気分悪くさせたんなら帰るから。 ゴメン」
「えっ……! ちっ、ちが……待って!!」

 大きな声で、彼女は立ち去ろうとした俺を呼び止めた。
 面食らって驚く俺に、必死な表情で彼女は語り始めた。

「いきなりで、その、迷惑かも……しれないですけど」

 一つ一つ、自分自身に言い聞かせるように、彼女は話を続けた。

「伝えたいことが、あるんです……。 ずっと前、初めてここで、貴方を見たときから……毎年見てたときから、伝えたかったことが」
「"ずっと前"……って、もしかして俺が成人して、宴会に出るようになってから、ずっと?」

 彼女は遠慮がちに頷いた。 ということは、信じがたいことに実に10年もの間、彼女はここで毎年俺を見ていたということになる。 祭りの後でないと、俺はこの入り江には来なかったからだ。
 本当にいきなりだが、そんなに前から伝えたかったこととは……一体、何なのだろうか?

「私、話すのは……苦手、で……だから、ちょっと変わった形に、なるんです、けど……」

 たどたどしく、しかし噛み締めるように、彼女は僕に語りかける。
 寄せては返す波の音が、言葉と言葉の間に入り込んでいく。

「見ていて、ください。 きっと伝わるって、信じてます」

 そう言い切ると、意を決したように、彼女は一歩身を引いて目を閉じた。 彼女の下半身はいつの間にか、地面に這い蹲るように体勢を変えている。
 一体何が始まるのか、正直なところ、俺は半分いぶかしむような気持ちでいた。




 そして彼女が両腕を高く掲げた瞬間――



 ――光が舞い降りた。




 彼女の細い腕は、宵闇に白く、美しく輝いていた。 上体を覆う羽衣は星と月の光を妖しく湛え、彼女の未発達な身体を引き立たせていた。
 薄く開かれた瞳からは頼りなさが消え、艶やかな流し目が俺を射止めた。 かすかに上がる彼女の口角に、思わず息が詰まる。

 次の瞬間、ゆらりと崩れた身体が美しい曲線を描き、顔から順番に、白魚のような指が、ゆっくりと、下へ、下へ、這ってゆく。 僅かながらの膨らみを強調するように、丁寧に、輪郭がなぞられる。
 足に被さって波のしぶきが散り、吐息が白く、虚空をたゆたう。 浜風がふわりと髪を持ち上げ、色めいた彼女の表情を月下に露わにする。

 押し抱くようにされた両の手が、今度は蝶々のように、優雅に闇の中を舞い始めた。 這い蹲っていた下半身も動き出し、危うげな、しかし絶妙な均整を保った足取りで、上体を悩ましく揺らめかせる。
 砂浜に描かれた足跡の軌跡を、泡立つ海水が掻き消していく。 両爪は独特な拍子をとりながら、時に力強く、時に繊細に、両手と共に踊っている。
 そして腕が虚空を切る度に、残像のように小さな泡の粒が流れていく。 きらめく光の中で踊る彼女は、星々に囲まれて遊んでいるようにも見えた。


 緩急自在に動き続ける彼女の両腕、両爪と4対の足が織り成す演舞の数々、そして冬の海辺という特別な舞台――これらは俺の目を釘付けにするには十分すぎた。
 無駄の無い動き、いっそ誘惑めいた仕草、色っぽい彼女の表情、そして自然の作り出す予想外の演出……。 どれもが俺の心を鷲掴みにして離さない。
 この美しくも淫靡な光景を独占できているという状況が、酷く俺の支配欲を煽っているのを感じていた。


 踊り続ける彼女に見とれていると、ふと、彼女の下半身から吹き出し始めた泡の存在に気付いた。 甘い芳香を漂わせる泡は、うねる腰から腹、胸の辺りへと、徐々に浮かび上がっていく。
 やがて、漂う彼女の掌がそれを掬い取り、俺の方へ差し出すように、ぱっ、と泡沫を投げかけた。 もう片方の手の指は、紅を塗るように、唇をゆっくりとなぞっている。

 空中を漂うようにして、彼女の泡は俺の元へと届いた。 気が付けば、彼女は踊りながらも、もうあと数歩のところまで距離を詰めている。 余韻を残して、差し出されたままの掌に触れれば、簡単に引き寄せてしまえそうだ。
 冴える月の光を凝縮したような泡沫が、眼前で音も無く弾けていく。 例えようもない馥郁(ふくいく)とした香りが鼻腔をくすぐり、俺の理性が奪われていく。

 もう我慢の限界だった。 白く吐息を漏らしながら切なげに表情を歪め、指を咥え、手を伸ばしたまま待つ彼女を待たせることは出来なかった。 その手をとって、自分のものにしたいと思うほどに、彼女は魅力的だった。
 痺れを切らした彼女が、何かを言おうと唇を動かそうとした、その寸前に俺は彼女を引き寄せ、その小柄な身体を無理やりに抱きしめていた。





「あっ……」
「……えっ?」

 手から離したマグの割れる音で、二人の意識が元に戻った。
 彼女は本当に驚いたといった様子で、俺の胸の中に納まっていた。 顔を真っ赤にして上目遣いで俺を見ながら、しかし、俺の拘束から逃れようとはしなかった。
 両爪を使えば簡単に振りほどけるだろうが、下半身は足ごと縮こまって、動こうとはしない。
 ここまで好意的な態度をとってくれれば、例え女心に疎い俺でも分かるというものだ。

「……いいんだよな?」
「……はい」

 彼女は目に涙さえ浮かべて、俺の背中に手を回した。 強張っていた足から力が抜けて、へたりと身体を沈めてしまう。

「大丈夫?」
「ご、ごめんなさい……! 私、私……怖くて」

 彼女はしゃがみこんで、俺の腹の辺りに顔を埋めたまま話し始めた。

「貴方が、何も、言ってくれないから……伝わらなかったのかもって。 それが、怖くて……」
「……うん、ゴメンな」

 落ち着かせるために、慣れない手つきで、頭を撫でてやる。 彼女は驚いたようにこちらを見て、やがて耳まで赤くなった。
 愛くるしい彼女の仕草に、胸が締め付けられそうになる。


「君の気持ち、確かに受け取ったよ。 大切にするから」


 もう一度はっきりとそう告げてから、ゆっくりと、彼女の唇と自分の唇を重ねた。
 熱く、甘く、蕩けるような口付けだった。





「そういえば、名前聞いてなかったよな」
「あっ、私も知らない……です」
「……普通、順番逆じゃない?」
「…………ぅぅ」
「まぁ、いいか。 じゃあお互い自己紹介しとこうよ」
「……あ、はい。 私の、名前は――」

 それから暫く、俺達は浜辺で話し合った。
 お互いのことも、家族のことも、これからのことも。



 夜の海は、月と星が明るく照らしていた。
 
15/01/07 07:16更新 / 妄想フィルター

■作者メッセージ
実に前作から1年ぶりです。 妄想フィルターと申します。
時間が取れた&インスピレーションが舞い降りたので、一発リハビリ代わりに、一夜漬けで書き上げてみました。
最後駆け足感ありますが、力尽きました。 もしかしたら後で手直しするかもですが、今は寝たいです。

皆さんの心に残るものがあれば幸いです。


p.s. 私はトニー・ベネットさんのが一番好きです。

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