エンプティ・ネスター
最近、いやに時が経つのを早く感じてしまう。
気がつけば、暦はもう人馬の宮に入っていた。
音もなく降りしきる氷雨が、ガラス戸の向こう側の山々を煙らせる。
僕は何をするでもなく、部屋でぼんやりと外を見ていた。
木々の間を縫うように立ち込める霧は、この家と外界を隔てているようにも思えた。
山脈連なる自然の中に、たった一つ建つこの家を。
少し、昔話をしよう。
かつてこの家は、ある二つの国の間にあった。
かたや親魔物国、かたや反魔物国だった時代には、ここの山脈に築かれた防衛線を境に両国はいがみ合っていた。
そして、この家は防衛線を監視するための小屋だった。
やがて反魔物国はリリムの率いる軍勢により奇襲をかけられ陥落するのだが、その奇襲にはワームが作った、山を大きく刳りぬいたトンネルが使われたらしい。
今ではそのトンネルが、両国を繋ぐメインストリートとなっているそうだ。
つまり、こんな所には誰も好き好んで訪れやしない。
来訪者があるとしたら、方向音痴の旅人か放浪の学者が宿を求めに来るくらいだ。
こんな所に飛ばされた監視役の兵士の孤独に、思いを馳せる事もある。
それでも、僕はちっとも孤独ではなかった。
こんこん、と控えめなノックの音に、僕はドアの方へと目を向けた。
最初に入ってきたのは、美味しそうなホルスタウロスチーズの匂いと、それとは別の、鼻腔をじかに撫で触るような芳香。
次に入ってきたのは皿に入ったパスタを持った、最愛の僕の妻――フェリシアであった。
「……ごはん、できた」
フェリシアがふにゃっと微笑むと、つられて僕も顔をほころばせてしまう。
彼女の少女のような笑顔は初めて会ったときから変わらず、今なお可憐で、美しかった。
「いつもありがとう」
「……どういたしまして」
フェリシアは机に皿を置き、そばにある椅子に腰掛けた。
僕がベッドで横になっている姿勢から体をもたげようとすると、すぐさま彼女は僕の背に手を沿えた。
「無理しちゃダメ」
「ゴメン。 でも、これくらいは手を借りなくても大丈夫」
「……だけど」
「少しくらい強がらせてくれよ」
僕はそう言ってどうにか上半身を起こし、食事が出来るようにした。
たったこれだけの動作で、もう骨は軋み、腕は震え、心臓は浅く短く脈を打つ。
フェリシアの気遣うような視線を避けるように、僕は外を見ていった。
「雨、止まないな」
「そうだね」
「今日は買い物には行ったのか?」
「ううん、濡れるのイヤだし、行かなかった」
「そっか」
会話が途切れる。
さぁ、と細かな雨粒が屋根と木の葉を打つ音だけが空間を占めていた。
僕たちは言葉も交わさず、暫く窓の奥の景色を二人で見ていた。
「……あぁ、せっかく作ってくれたのに放っておいちゃいけないな」
僕は思い出して、彼女の作ってくれた夕食を見やった。
フェリシアも気付いたように湯気立つ皿を手に取り、フォークでパスタを巻き取る。
「うん、冷めないうちに……ハイ」
フェリシアの持つフォークが口に運ばれる。
柔らか目の麺に滋養たっぷりの粉チーズが絡んでいて、シンプルながらとても美味だ。
「どう?」
「今日も相変わらず美味しいよ」
「良かった」
安心したように笑うと、彼女は同じフォークで自分もパスタを食べ始めた。
そうやって僕たちが夕食に舌鼓を打つ間、二人の間をフォークがせわしなく行き来していた。
僕と妻についても、話をしようか。
この五体がまだ健全だった頃、僕はある国の軍隊に所属していた。
と言っても、僕は運動に関してはからっきしで、かといって兵法に通じているわけでもなく、要するに役立たずな人間だった。
そんな僕に回された仕事というのが、監視役。
防衛最前線に立って相手国の動向を監視するだけの、魔物に襲われること請け合いな役回りだ。
僕は否応なしに国を追い出され、一人小さな小屋に押し込められた。
そうして、僕は妻に出会った。
それはちょうど今日のような、底冷えする冬の日の夜だった。
冴えわたる蒼月の光が枕を照らす頃――珍しく無難に過ぎた一日の終わりを、毛布に包まって待っている頃だった。
不意に、寒風が眠る僕の頬を撫でた。
突然の異変に焦りつつ窓を見ると、そこには丸い月に煌く光をまとう一つの影があった。
それがモスマンという魔物であることを、僕は知っていた。
知っていて、僕はなされるがままに彼女と交わったのだ。
ただただ、美しかった。
鱗粉に中てられたとか、魔物の魔力に嵌められたとか、そういうことはどうでも良かった。
無邪気に笑い、その豊かな身体で強く抱き付かれ、遮二無二唇を奪われて、それでも相手の愛を突っぱねられるほど僕は強情ではなかっただけの話だ。
ヒトと人に芽生える感情の、その燦然たる輝きに僕は目を奪われてしまった。
どこまでも純粋な彼女の愛情は孤独にささくれた心に暖かく、柔らかく沁み込んだ。
つられるように彼女への愛情が芽生えるのに、さして時間は掛からなかった。
因みに、後に聞いた話では、丁度その夜に本国は落とされたそうだ。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
フェリシアは空になった皿を机に置き、椅子を近づけて僕に寄り添うようにして座った。
仄かな体温が伝わって、僅かばかり身を預けたくなる思いがした。
「からだの調子はどう?」
「悪くないよ。 フェリシアが傍にいてくれるだけで、ずいぶん居心地がいい」
「……うん」
彼女は少し俯いて、寂しそうに笑った。
やはり長年連れ添った妻を騙すなんて叶いっこない。
僕の老い先が長くは無いことくらい、フェリシアも感じ取っているのだ。
「片付けてくるね」
「うん、お願い」
しばしの沈黙の後、フェリシアは皿を持って部屋を出た。
僕はさらさらと揺れる彼女の長い髪を目で追っていた。
僕はまた一人になった。
彼女とはどれほどの獣欲を交し合っただろうか。
本当に毎日毎日、思い出せばきりがないほどに僕らは交わった。
あれほど濃密で、甘く刺激的な経験を当時の僕は知らなかった。
互いを慰め、互いの愛を確かめ、自らを刻み付ける。
その行為の快楽、多幸感、充足感に僕は完全にやられてしまった。
フェリシアは本当に良い妻であった。
それは勿論、夜の時間もである。
その豊満な体は僕を十分に愉しませてくれた。
的確な愛撫は僕の快楽を存分に引き出してくれた。
僕の無茶な要望を喜んで受け入れてくれた。
気を遣るときも、いつも一緒だった。
僕は彼女にとても良く尽くしてもらった。
今も昔も、ずっとそうだ。
だから僕も彼女に、最高の幸せを送ってやりたかった。
捧げられるものはすべて捧げてもいいとすら、そう思っていた。
そう思っていたんだ。
真夜中になっても雨は止まず、むしろその勢いを強めているように感ぜられた。
月明かりは雲に遮られ、暗闇に雨音が迫ってくるようであった。
「暗いのに、眠れないね」
「そうだね」
フェリシアは僕に寄り添う形でベッドに横になっている。
もはや骨と皮だけになりかけている腕に、彼女がひしと縋りついていた。
彼女の健康的だった身体も、ずいぶんと痩せてしまっている。
それでも人肌の温かみが、どこか不穏な夜には心強かった。
「……フェリシア」
「なぁに?」
つと、声をあげてみた。
僕に向けられたその瞳は暗がりにも深く澄み渡り、ガラス玉のように透き通っていた。
「どうして、僕を好きになったんだい?」
単純な好奇心だった。
或いは、僕のためにここまで我が身を捧げる、その理由が欲しかった。
フェリシアの瞳が揺れた。
「ねぇ、今日でおしまいみたいなこと、言わないで」
「ごめん、でも」
僕の身体に顔を押し付けるようにして、フェリシアは僕に抱きついてきた。
小さく震える肩に、苦労して手を乗せてやる。
妻を不安にさせながら、慰める事すら苦労する自分の老体が憎かった。
少ししてから、フェリシアは顔を上げずに口を開いた。
「ひかりが見えたの。 とても明るくて、優しいひかり。 でも、すごく寂しそうに瞬くひかり」
思い出すように、一つ一つ、フェリシアは言葉を紡いでいった。
「きれいだな、なぐさめてあげたいなって、そう思って、私はそのひかりに誘われたの」
胸がじんと熱くなるのは、彼女の吐息だけが原因ではないだろう。
フェリシアは顔を上げて、ゆっくりと僕を見た。
「そこにね、あなたがいたの。 まぶしくて、包みこむような、素敵なひかり。 それが、あなただったの」
きゅう、と愛しさに息苦しさすら感じた。
たまらなくなって、手探りで、不器用に彼女を探した。
頬に伝う水気を、親指でぬぐう。
「僕は君の願いを叶えてあげられなかった。 身体ばかり老いて、もう君を満足させることも出来ない」
フェリシアの身体が強張るのを感じた。
「僕はね、辛いんだよ。 君に子供を遺してやれなかった。 ただそれだけが、いつも僕の心を責めたてる」
モスマンの至上の悦び、子供を授かること。
僕はそれを成就することもできず、今にも命を枯らそうとしている。
それが――それだけが、僕は情けなくて、申し訳なくて仕方が無かった。
「あやまらないで」
フェリシアはぎゅうと僕の身体を抱きしめた。
顔の押し付けられた胸がどんどん濡れて、彼女の声には嗚咽が混じる。
「もういいの。 十分よ。 あなたとずっと一緒にいられた。 あなたの笑顔を、いちばん近くでみることができた。 それだけで、言葉にできないくらい、私はしあわせなの」
涙ながらにフェリシアは語った。
きっと顔をくしゃくしゃにさせて、泣きじゃくっているに違いない。
あぁ、僕は。
妻を泣かせる酷い夫だ。
妻を満たせない酷い夫だ。
妻の願いを叶えてやれない、酷い夫だ。
それでも妻は寄り添い、共に歩んでくれた。
幸せだと、そう言ってくれたのだ。
何て、何て僕は幸せなんだろう。
「本当に……本当に君は」
胸が詰まって、それ以上は言葉が続かなかった。
僕たちは二人、静かに涙した。
いつか、そう遠くない未来、僕は死ぬ。
それは何がどうあれ変わらない。
それでも――フェリシアの、妻の幸せに僕が寄り添えるなら。
せめて魂が尽きるまで、僕は命の灯火を燃やし続けよう。
それが僕に出来る、最期の恩返しだ。
彼女の瞳に映る僕は、今も輝いているのだろうか。
気がつけば、暦はもう人馬の宮に入っていた。
音もなく降りしきる氷雨が、ガラス戸の向こう側の山々を煙らせる。
僕は何をするでもなく、部屋でぼんやりと外を見ていた。
木々の間を縫うように立ち込める霧は、この家と外界を隔てているようにも思えた。
山脈連なる自然の中に、たった一つ建つこの家を。
少し、昔話をしよう。
かつてこの家は、ある二つの国の間にあった。
かたや親魔物国、かたや反魔物国だった時代には、ここの山脈に築かれた防衛線を境に両国はいがみ合っていた。
そして、この家は防衛線を監視するための小屋だった。
やがて反魔物国はリリムの率いる軍勢により奇襲をかけられ陥落するのだが、その奇襲にはワームが作った、山を大きく刳りぬいたトンネルが使われたらしい。
今ではそのトンネルが、両国を繋ぐメインストリートとなっているそうだ。
つまり、こんな所には誰も好き好んで訪れやしない。
来訪者があるとしたら、方向音痴の旅人か放浪の学者が宿を求めに来るくらいだ。
こんな所に飛ばされた監視役の兵士の孤独に、思いを馳せる事もある。
それでも、僕はちっとも孤独ではなかった。
こんこん、と控えめなノックの音に、僕はドアの方へと目を向けた。
最初に入ってきたのは、美味しそうなホルスタウロスチーズの匂いと、それとは別の、鼻腔をじかに撫で触るような芳香。
次に入ってきたのは皿に入ったパスタを持った、最愛の僕の妻――フェリシアであった。
「……ごはん、できた」
フェリシアがふにゃっと微笑むと、つられて僕も顔をほころばせてしまう。
彼女の少女のような笑顔は初めて会ったときから変わらず、今なお可憐で、美しかった。
「いつもありがとう」
「……どういたしまして」
フェリシアは机に皿を置き、そばにある椅子に腰掛けた。
僕がベッドで横になっている姿勢から体をもたげようとすると、すぐさま彼女は僕の背に手を沿えた。
「無理しちゃダメ」
「ゴメン。 でも、これくらいは手を借りなくても大丈夫」
「……だけど」
「少しくらい強がらせてくれよ」
僕はそう言ってどうにか上半身を起こし、食事が出来るようにした。
たったこれだけの動作で、もう骨は軋み、腕は震え、心臓は浅く短く脈を打つ。
フェリシアの気遣うような視線を避けるように、僕は外を見ていった。
「雨、止まないな」
「そうだね」
「今日は買い物には行ったのか?」
「ううん、濡れるのイヤだし、行かなかった」
「そっか」
会話が途切れる。
さぁ、と細かな雨粒が屋根と木の葉を打つ音だけが空間を占めていた。
僕たちは言葉も交わさず、暫く窓の奥の景色を二人で見ていた。
「……あぁ、せっかく作ってくれたのに放っておいちゃいけないな」
僕は思い出して、彼女の作ってくれた夕食を見やった。
フェリシアも気付いたように湯気立つ皿を手に取り、フォークでパスタを巻き取る。
「うん、冷めないうちに……ハイ」
フェリシアの持つフォークが口に運ばれる。
柔らか目の麺に滋養たっぷりの粉チーズが絡んでいて、シンプルながらとても美味だ。
「どう?」
「今日も相変わらず美味しいよ」
「良かった」
安心したように笑うと、彼女は同じフォークで自分もパスタを食べ始めた。
そうやって僕たちが夕食に舌鼓を打つ間、二人の間をフォークがせわしなく行き来していた。
僕と妻についても、話をしようか。
この五体がまだ健全だった頃、僕はある国の軍隊に所属していた。
と言っても、僕は運動に関してはからっきしで、かといって兵法に通じているわけでもなく、要するに役立たずな人間だった。
そんな僕に回された仕事というのが、監視役。
防衛最前線に立って相手国の動向を監視するだけの、魔物に襲われること請け合いな役回りだ。
僕は否応なしに国を追い出され、一人小さな小屋に押し込められた。
そうして、僕は妻に出会った。
それはちょうど今日のような、底冷えする冬の日の夜だった。
冴えわたる蒼月の光が枕を照らす頃――珍しく無難に過ぎた一日の終わりを、毛布に包まって待っている頃だった。
不意に、寒風が眠る僕の頬を撫でた。
突然の異変に焦りつつ窓を見ると、そこには丸い月に煌く光をまとう一つの影があった。
それがモスマンという魔物であることを、僕は知っていた。
知っていて、僕はなされるがままに彼女と交わったのだ。
ただただ、美しかった。
鱗粉に中てられたとか、魔物の魔力に嵌められたとか、そういうことはどうでも良かった。
無邪気に笑い、その豊かな身体で強く抱き付かれ、遮二無二唇を奪われて、それでも相手の愛を突っぱねられるほど僕は強情ではなかっただけの話だ。
ヒトと人に芽生える感情の、その燦然たる輝きに僕は目を奪われてしまった。
どこまでも純粋な彼女の愛情は孤独にささくれた心に暖かく、柔らかく沁み込んだ。
つられるように彼女への愛情が芽生えるのに、さして時間は掛からなかった。
因みに、後に聞いた話では、丁度その夜に本国は落とされたそうだ。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
フェリシアは空になった皿を机に置き、椅子を近づけて僕に寄り添うようにして座った。
仄かな体温が伝わって、僅かばかり身を預けたくなる思いがした。
「からだの調子はどう?」
「悪くないよ。 フェリシアが傍にいてくれるだけで、ずいぶん居心地がいい」
「……うん」
彼女は少し俯いて、寂しそうに笑った。
やはり長年連れ添った妻を騙すなんて叶いっこない。
僕の老い先が長くは無いことくらい、フェリシアも感じ取っているのだ。
「片付けてくるね」
「うん、お願い」
しばしの沈黙の後、フェリシアは皿を持って部屋を出た。
僕はさらさらと揺れる彼女の長い髪を目で追っていた。
僕はまた一人になった。
彼女とはどれほどの獣欲を交し合っただろうか。
本当に毎日毎日、思い出せばきりがないほどに僕らは交わった。
あれほど濃密で、甘く刺激的な経験を当時の僕は知らなかった。
互いを慰め、互いの愛を確かめ、自らを刻み付ける。
その行為の快楽、多幸感、充足感に僕は完全にやられてしまった。
フェリシアは本当に良い妻であった。
それは勿論、夜の時間もである。
その豊満な体は僕を十分に愉しませてくれた。
的確な愛撫は僕の快楽を存分に引き出してくれた。
僕の無茶な要望を喜んで受け入れてくれた。
気を遣るときも、いつも一緒だった。
僕は彼女にとても良く尽くしてもらった。
今も昔も、ずっとそうだ。
だから僕も彼女に、最高の幸せを送ってやりたかった。
捧げられるものはすべて捧げてもいいとすら、そう思っていた。
そう思っていたんだ。
真夜中になっても雨は止まず、むしろその勢いを強めているように感ぜられた。
月明かりは雲に遮られ、暗闇に雨音が迫ってくるようであった。
「暗いのに、眠れないね」
「そうだね」
フェリシアは僕に寄り添う形でベッドに横になっている。
もはや骨と皮だけになりかけている腕に、彼女がひしと縋りついていた。
彼女の健康的だった身体も、ずいぶんと痩せてしまっている。
それでも人肌の温かみが、どこか不穏な夜には心強かった。
「……フェリシア」
「なぁに?」
つと、声をあげてみた。
僕に向けられたその瞳は暗がりにも深く澄み渡り、ガラス玉のように透き通っていた。
「どうして、僕を好きになったんだい?」
単純な好奇心だった。
或いは、僕のためにここまで我が身を捧げる、その理由が欲しかった。
フェリシアの瞳が揺れた。
「ねぇ、今日でおしまいみたいなこと、言わないで」
「ごめん、でも」
僕の身体に顔を押し付けるようにして、フェリシアは僕に抱きついてきた。
小さく震える肩に、苦労して手を乗せてやる。
妻を不安にさせながら、慰める事すら苦労する自分の老体が憎かった。
少ししてから、フェリシアは顔を上げずに口を開いた。
「ひかりが見えたの。 とても明るくて、優しいひかり。 でも、すごく寂しそうに瞬くひかり」
思い出すように、一つ一つ、フェリシアは言葉を紡いでいった。
「きれいだな、なぐさめてあげたいなって、そう思って、私はそのひかりに誘われたの」
胸がじんと熱くなるのは、彼女の吐息だけが原因ではないだろう。
フェリシアは顔を上げて、ゆっくりと僕を見た。
「そこにね、あなたがいたの。 まぶしくて、包みこむような、素敵なひかり。 それが、あなただったの」
きゅう、と愛しさに息苦しさすら感じた。
たまらなくなって、手探りで、不器用に彼女を探した。
頬に伝う水気を、親指でぬぐう。
「僕は君の願いを叶えてあげられなかった。 身体ばかり老いて、もう君を満足させることも出来ない」
フェリシアの身体が強張るのを感じた。
「僕はね、辛いんだよ。 君に子供を遺してやれなかった。 ただそれだけが、いつも僕の心を責めたてる」
モスマンの至上の悦び、子供を授かること。
僕はそれを成就することもできず、今にも命を枯らそうとしている。
それが――それだけが、僕は情けなくて、申し訳なくて仕方が無かった。
「あやまらないで」
フェリシアはぎゅうと僕の身体を抱きしめた。
顔の押し付けられた胸がどんどん濡れて、彼女の声には嗚咽が混じる。
「もういいの。 十分よ。 あなたとずっと一緒にいられた。 あなたの笑顔を、いちばん近くでみることができた。 それだけで、言葉にできないくらい、私はしあわせなの」
涙ながらにフェリシアは語った。
きっと顔をくしゃくしゃにさせて、泣きじゃくっているに違いない。
あぁ、僕は。
妻を泣かせる酷い夫だ。
妻を満たせない酷い夫だ。
妻の願いを叶えてやれない、酷い夫だ。
それでも妻は寄り添い、共に歩んでくれた。
幸せだと、そう言ってくれたのだ。
何て、何て僕は幸せなんだろう。
「本当に……本当に君は」
胸が詰まって、それ以上は言葉が続かなかった。
僕たちは二人、静かに涙した。
いつか、そう遠くない未来、僕は死ぬ。
それは何がどうあれ変わらない。
それでも――フェリシアの、妻の幸せに僕が寄り添えるなら。
せめて魂が尽きるまで、僕は命の灯火を燃やし続けよう。
それが僕に出来る、最期の恩返しだ。
彼女の瞳に映る僕は、今も輝いているのだろうか。
13/12/14 02:08更新 / 妄想フィルター