連載小説
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2話目
曇天と見紛う寒空が青さを取り戻し、窓に張りつく霜がとけゆく最中。
とある男は悪魔を従として、教団の廊下を連れ歩んでいた。

(さぁて……これから如何すべき、か)

男の顔は前を向いておらず、廊下の床に視線を落としていた。歩く速さに合わせ、床の模様が次々と巡り変わっていくが、思案を重ねていた男の頭には全く入っていない。

「ゲルト様。本日のご予定は、どのようになっておりますか?」

数歩ほど遅れ、男の背後に付き従っていた悪魔が、主人である男に本日の予定を尋ねる。悪魔の正装なのか、真っ黒なローブと一体化していたフードを深く頭に被っているため、視線の行き先は定かではない。しかしながら、男はなんとなくで人間に化けている悪魔が、俯き加減で尋ねているのを背中越しに感じた。

「やりてーことは山ほどあるが……まずは飯だ」

ゲルトと呼ばれた男は、全ての思案を一時保留とし、まずは今にも鳴りだしそうな自身の空きっ腹を落ち着かせることにした。
「左様でございますか。朝食はどちらでなさいますか?」
後ろに控えていた、悪魔であるレギーナが続けて質問を投げかける。フードから隠れきれていない口元からは事務的な口調がなされるが、その唇は艶やかで、大多数の人間はフードに隠されたレギーナの残りの素面を美しく想像するだろう。
「この先に、ここで寝泊りする連中用の食堂があるからな。朝はそこで…………てか」
「はい?」
ようやく前を向いて歩きだそうとしたゲルトを、不意に沸きでた疑問が歩みを止めさめ、疑惑の当事者である首をかしげていたレギーナに振り返る。
「お前は人間と同じ飯が喰えんのか?だいたい、食事は必要か?」
「えぇ。ゲルト様と同じく、お食事を頂きます。食べ物からでも魔力の補充はできますので」
「魔力の補充……」
「そう、魔力の補充です。極論を言ってしまえば、魔力さえ補充できれば食事は不要となりますが」
やはりと言うべきか、悪魔というヤツは生物の根底からして別物らしい。ゲルトは眉をひそめ、自分の常識外の存在に質問を続ける。
「……そうかい。なら、食事以外の方法はなんだ?それができたら、穀潰しの飯代が浮いて非常に助かるんだが」
「……お食事前にするような内容ではございませんが、よろしいですか?」
なんともいえない様子でレギーナが念を押す。その姿に、もしやと思ったゲルトがそれとなしに正解を確かめる。
「つまり、契約で禁止されている行為、だな?」
「……はい」
「そりゃ、大変だな。補充のたびに毎回か?」
「えぇ、まぁ。……ですが、ゲルト様とならいくらでも致せるかと思います」
フードの上から頬を押さえ、嬉しそうに喋るレギーナに、ゲルトは真顔で言い返す。
「はぁ?冗談じゃねぇ。なんで俺がお前のために、人を殺さなきゃいけねぇんだ?」
「っえ?……あっ。いえ、ゲルト様。誤解になります。我々は断じて人を殺めたり、食べたりは致しません。魔力の補充とはつまるところ、性交渉による体液の「もういい、黙れ」
 踵を返し、足早にゲルトはその場を去っていく。
一人置き去りにされたレギーナは反論する間もなく、慌てて主人の後を追う。なんとか追いつき口を開こうとするも、訳も分からずにゲルトに凄まれ、口を利いてもらえなかった。何度か同じやり取りを繰り返した後、諦めたレギーナは黙って歩調の速い主人についていく。

(コイツ、……契約の件といい、連中の話と全然違うじゃねぇーか)

落ち込む悪魔を尻目に映し、ゲルトは廊下を進む。
 教団の話によるところ、悪魔とは数多いる魔物のなかでも特に恐るべき存在であり、人の肉を食べ、魂を喰らい、死しても地獄へと魂を堕とし、永遠に人間を弄ぶと聞く。神々にも忌み嫌われる悪魔は、まさに討伐すべき化物というわけなのだが……この悪魔と接し、実際に言葉を交わしてみれば、どうにも教団の話が腑に落ちない。
無論、この悪魔に限っての話であるうえに、本性を偽り、勇者である自分の油断を誘おうと下手な芝居を打っている可能性もある。そう考えるほうがごく自然ではあるのだが―

(コイツの言ってることが全面的に正しいとするならば、臭うのは教団のほうってことになるが……さて……)

魔物は人を喰わない。
それが真ということであれば、教団の認識に間違い、あるいは全くの見当違いがあるということになる。教団の根底どころか、社会全体に大きな衝撃と影響を及ぼしかねないほどの情報を突如前にして、ゲルトが強引に会話を打ち切ったのは動揺からではなく―

(最低でも大金……上手いこと立ち回れば返り咲きも夢じゃねぇ)

思いもよらぬ悪魔の一言に、我知らずで男の口元が伸びた。
空いていた腹具合もよそに、ゲルトは再び思慮を始める。これから取るべき自分の行動、下僕とした悪魔に対する認識、そして、新たに加わった教団に対する疑念。これら全てを先ほどよりも広く、深く、細かく、明確に行う。次第に歩みは鈍いものとなり、もはや止まる寸前となった頃―

―……ッ!…………ピッシャァァ!

何の前兆もなく、廊下の窓から雷光が駆け込む。わずかばかりの間をおいて、地面を打ち鳴らす雨音が建物全体を震わせた。

「こんな時期に……珍しいですね」

 晴天の霹靂とはまさにこのことか。
窓全体に線を描く雨足を眺めて、レギーナがポツリと漏らす。つられるようにゲルトも窓に目を映し、その片隅で悪魔を捉える。視界に映る、人の姿をした悪魔はどこか物悲しげに、永々と降り続ける雨粒を見つめていた。

「……急ぐぞ。早くしねぇと席が混む」

 返事を待たず、急ぎ足でゲルトは食堂を目指す。同じく、主人の後に数歩遅れ、レギーナも後へと続く。
道中、どことなく人間くさい悪魔を肩越しで覗くが、ついて来るのにやっとの状態だったのを見て、歩調を緩める。しばらくして、様子に気づいたレギーナは顔をあげると、口元をほころばせることで主に応える。最後にゲルトが鼻で息をすると、今度こそ前を向いて歩きだした。










教団の食堂に、一人の男と一匹の悪魔がたどり着く。
早朝ということもあってか、席には誰も着いていない。

「少し早すぎましたか?お席に空きが目立ちますが……」
「じきに混む。そうなりゃ野郎同士で肘を突き合わせなきゃならん」

心配するレギーナを置いて、ゲルトはカウンターへと進む。そのまま厨房の奥にいた人物に指を二本上げて合図すると、カウンターに積まれていたトレイに食器を並べ始めた。
「ゲルト様。このような雑務は、私めにお任せください」
いつの間にか歩み寄っていたレギーナが、不満げに意見する。
「ここはセルフなんだが……まぁ、いい。だったらお前の分も合わせて持って来い」
「かしこまりました。それでは、お席にてお待ちください」
「水も忘れずにな。それと、支払いはこれでしろ」
懐から取り出した硬貨をカウンターに置き、出入り口とカウンターの両方から遠い隅の席へと、ゲルトは一人で向かった。乱暴に椅子を引いて席に腰掛けると、遠巻きにカウンターにいるレギーナの様子を伺う。
そこには慣れた手つきで食器を並べるレギーナが、厨房の人間となにやら親しそうに話す姿があった。いつの間にかフードを頭から外しており、容姿端麗の素顔を和らげて話すレギーナに、厨房にいた人間達はすっかり気を良くしている。

(たいした人たらしだ……さすがは悪魔、といったところか)

率直な感想を浮かべ、冷ややかな視線飛ばすゲルトに気づいたレギーナは、厨房の人間と手短に別れの挨拶を済ませると、足取り静かに主人の元へと朝食を運ぶ。
「お待たせしました。どうぞお召し上がりください」
朝食のトレイを丁重にゲルトの前へと差し出すと、軽く会釈を行い、再びカウンターへとレギーナは向かう。
 去り行くレギーナとトレイに乗った朝食を交互に見てから、ゲルトはスプーンを握る。奴隷の支度を待つべきかと考えた末、自分はそんな主人ではないと判断したからだ。断じて空腹で待ちきれなかったわけではない。
 出来合いの野菜スープにスプーンを突っ込み、空いてる左手でパンを掴むと、直接かじりついてからスプーンに口をつける。
(かってぇ……もっとマシなのはいくらでもあるだろうが)
食堂のパンは固く、まともに食べたら顎が疲れるため、ゲルトなりに導き出したパンの食べ方だったが、それでも硬いものは硬い。スープに浸せばすぐにでも柔らかくなるだろうが、ふやけたパンの感触はそれ以上に嫌いなため、ゲルトはコップに注がれていた水で一気に流し込む。
 忌々しく朝食を取っていたゲルトの元に、自分の分の朝食を運んできたレギーナがすぐ傍で立ち止まる。

「対面のお席でもよろしいですか?私め、ゲルト様と利き腕が逆ですので、お席が隣ですと何かと不自由しますから……」

角の席を陣取っていたため、ゲルトの左側に席はない。残るゲルトの右隣の席に、レギーナは困った眼差しを向け、お互いの利き腕同士がぶつかり合う席に座るのを躊躇する。
「好きにしろ。席は空いてる」
お伺いを立てるレギーナに一瞥もせず、ゲルトはぶっきらぼうに言う。レギーナも小さく返事をすると、ゆったりとゲルトの対面に着席した。
 パンを手に取したレギーナが軽く揉んでその硬い感触を確かめと、手で小さく千切りながら口へと運ぶ。時折、何かを思い出したかのようにパンを皿に戻すと、左手で持ったスプーンで野菜スープを掬う。味については言及せず、ただ黙々とレギーナはパンとスープを少量ずつ口に運んでいく。人に化けた悪魔の朝食風景を盗み見にしていたゲルトであったが、特段おかしな点も不作法もなかったため、再び己の硬いパンと格闘する。
 しばし、二人は無言で食事をとった。
気まずいとまではいかないが、どことなくゲルトは落ち着かなかった。誰かと一緒に食事をするのが久しぶりのせいだろうか。味はどうだの、量は足りているかなどと、奴隷に対する最低限の配慮も兼ねた話をするべきではないかと迷うが、主人たる自分が場の雰囲気を気にするというのもおかしな話だ。

(……俺の性分でもないしな)

奴隷は黙って主人から与えられた物を食べればいい。内容も主人と同等の物ならばなおのことだ。食事の感想も後で聞けばいいだろうと結論付けると、ゲルトは黙って硬いパンに噛り付く―

―ガヤガヤ、ドタドタ……

食堂の出入り口から、複数の足音と話し声がごっちゃになって入ってくる。
どちらともなく、ゲルトは目線だけを動かし、レギーナは身体ごと振り向いて、なにやら騒がしいほうへと注意を向ける。
「あちらは……宿舎を利用されている方々でしょうか?昨夜、お見受けした方もいらっしゃるようですが……」
レギーナの視線の先には、かなりの人数の男達が順番にカウンターで食器のやり取りをする姿があった。うち何人かの男達が、ゲルトとレギーナにちらちらと視線を投げてくる。普段、ここでは見慣れないゲルトの姿があるのもそうだろうが、やはりレギーナの存在が大きいのだろう。まだその存在をよく知らない人間は、昨夜の当事者たちに未知なる美女について尋ね、尋ねられた当事者たちは知っている範囲の内容をどこか楽しげに語っていた。話している最中も、話が終わった後も、周りの男達は突如として現れたレギーナに興味が尽きないようで、朝食の席についても好奇の視線を覗かせいていた。
突然の出来事に多少なりとも戸惑うレギーナであったが、素っ気ないそぶりは見せず、どこの誰とも知れない人とでも目が合えば自然と笑顔を返していた。

(……悪い気はしねぇんだろうがな。本来なら)

男臭い職場に、絶世の美女を引き連れて朝食を取る。
いかにも上の人間って感じがする絵面ではあるが、中身は残念ながら正真正銘の悪魔だ。昨夜の再現がごとく、ゲルトに向けられている羨望と嫉妬の視線はこのうえなく鬱陶しく、ただただ迷惑でしかない。
この場からさっさと去るべく、ゲルトはまだ半分も残っていた朝食のパンに目線を戻し、思い切り喰らいつく。すると―

「ゲルト殿、おはようございます。……勝手ながら、ご一緒してもよろしいですかな?」

すぐ近くから、落ち着いた初老の声がした。
ゲルトはパンを咥えたままの顔を向けると、声の持ち主である初老の男が朝食のトレイを持って立っていた。パンにがっつり喰らいついていたゲルトは、手で無理やり引きちぎると、ゆっくりと租借して飲み込む。
「別に構わんが、……話しかけるタイミングはもう少し考えてくれ。隊長殿」
ゲルトがパンを飲み込むまで間、相席を希望した初老の男はその場で立ち尽くしていた。レギーナの件で周囲の注目が集まっているなか、ゲルトに断られたり、無視された後のことを考えると、短いながらも初老の男はかなりの焦燥を感じていたに違いない。
「……これは失礼を。いやはやお恥ずかしい」
気恥ずかしそうにゲルトの隣の椅子を引くと、隊長と呼ばれた初老の男はそそくさと席に着く。初老の男がさっそくスプーンを手に取るが、それ以降はなかなか動かず、なにか別の機会を伺っている様子だった。

「ゲルト様。お食事中に申し訳ありませんが、こちらのお方はどなた様でしょうか?昨夜、集団の先頭に立たれていた御仁とは存じますが……」

相席した人物の正体を尋ねている風だが、実のところ、レギーナが初老の男に助け舟をだした。
 これ幸いとばかり、初老の男は咳払いを一つ前置きにしてから語り始める。
「自己紹介がまだでしたな。自分は『アルノルド』と申します。僭越ながら、この村の部隊長などをしております。……貴殿はレギーナ殿、でしたかな?どうぞ、よろしくお願いします」
アルノルドと名乗った初老の男は手に持っていたスプーンをトレイに戻し、両手をひざに置いてから深く頭を垂れた。
「自己紹介は済んだな。で、用件はなんだ?隊長殿」
丁寧に自己紹介をしたアルノルドに、これまたレギーナが丁寧に挨拶を返そうとした矢先、ゲルトが会話の流れをぶった切って先を促す。
 ゲルト自身、初老の男が何かを話したがっているのは百も承知だったが、自分がそういった気遣いをするような人間ではないため、話のきっかけを作ってくれたレギーナには内心でありがたく思っていた。だが先を急ぎたいゲルトにとって、それ以上の二人のやり取りは蛇足でしかない。それこそ仰天するアルノルドとレギーナが目の前に現れようが、本題にとっとと入りたいゲルトには知ったことではなく、無言でスープを飲むことでさらなる圧力を二人にかける。
「……そうですな。今朝は特に急ぎますから、さっそく本題と参りましょう」
アルノルドは乾いた笑いを浮かべてその場をごまかす。本題はさておき、レギーナとの会話をささやかながらに期待していた彼にとって、無礼でしかないゲルトの対応が加わった彼の心境はさぞ複雑なものだろう。そんなアルノルドに、対面にいるレギーナが心配そうに視線を送っていたが、ゲルトは黙ってスープを飲み続けるだけだった。
「……ォホン、ゲルト殿。……昨晩はあいにくでしたが、こたびの遠征には加わっていただけるのでしょうな?」
先と同様に、咳払いをしてから本題を切り出す。若干ではあるが声色は強く、最初とは明らかに雰囲気を変えていた。アルノルドの本題は寸分たがわずゲルトの予想と一致しており、驚くものではない。
参加の是非はともかく、まずは常識的な提案をゲルトは行うことにする。
「そうは言うがな……」
そう言って、ゲルトは無言で近くの窓に目を向ける。アルノルドも促されるように、ゲルトが見つめている窓へと視線を合わせる。その先には―

―ザァァァァァァァァァァァァッーーー

 雨粒が強く窓を叩き、部屋に雨音を響かせることでその存在を強調させていた。雨粒のなかにはところどころ白くて小さな粒が混ざっており、それをアルノルドが雹だと理解した瞬間、さらに大きな音を伴って窓全体が白く染まっていく。
「遠征は中止……もしくは延期にしたほうがよくねぇか?この時期の雨は、冷える」
風邪でも引いたら元も子もないと呟くと、ゲルトはパンをかじった。思わず息を呑むアルノルドだったが、ここで気押されるわけにいかないと話を進める。
「た、確かに良い天気とは言えませぬが……しかし、このような天気、いつまでも続くものではないはず。それならば、少しばかり出発を遅らせればいいだけの話……違いますかな?」
「そりゃ、ごもっとも。……ま、どっちにしろ関係ねぇな。なんせ、今日の俺は休暇だ」
「なんと?それはまた、どういった了見からですかな?」
「こちとら帰る家もねぇってのに、遠征なんかノコノコやってる場合じゃねーだろうが……それともあれか?今からでも野宿生活ができるように、遠征でしっかり慣れとけってか?笑えねぇな」
かじったパンを咀嚼しながら話すゲルトに、長々とため息をついたアルノルドが苦言する。
「身から出た錆であろう。それに、今回ばかりは通りませんぞ。なにせこたびの遠征は他の部隊とも連携して行う、いわば合同の大遠征となるのですから。……毎度のことながら、少々勝手が過ぎやしませんかな?ゲルト殿」
いままでになく語気を強める。ことごとく休暇で遠征をやり過ごすゲルトに、温厚な隊長もとうとう堪忍袋が切れたようで、なんとしてでも今回の遠征に参加させたいらしい。

(……だからって、『はい、そーですか』とはいかねぇんだよ)

アルノルドに退く気配は全くない。昨夜の件もあいまって、他の連中からの突き上げも相当数あったのだろう。
どうしたもんか、とすこしばかり熟考した結果、ゲルトはある決断を下す。

「……おい。あの袋、下で広げろ」

ゲルトは小声で対面のレギーナに指示する。
すぐに察したレギーナは両手をテーブルの下にまわすと、金貨がぎゅうぎゅうに詰まっていた袋の口を器用に指先で広げる。姿勢はそのままに、ゲルトは左手で金貨をいくつか握り締め、右手に持っていたスプーンを床に落とした。
「こいつは失礼、っと」
スプーンを拾い、ゲルトはテーブルに置かれていた紙ナプキンに手を伸ばす。そして、見せ付けるようにスプーンを丹念に磨くと、ゆっくりとゲルトは自分のトレイに戻す。その先には、黄金に光り輝く金貨が二枚もあった。
「……、なっ!そ、それは!?」
「そこまで驚くことか?拭いたから綺麗なもんだろうが」
再び手にしたスプーンをまじまじとゲルトは見つめる。その傍ら、左手の人差し指と中指で二枚の金貨を何度も小突いていた。
「そ、そんなもの、汚いに決まっている!」
「おいおい、隊長殿。まさか、腐った役人がやり取りするような物と勘違いしてねぇか?……いいか」
ゲルトは薄笑いを浮かべ、一枚の金貨を、狼狽していたアルノルドの方へとトレイの上で滑らせる。
「こいつはただの『迷惑料』だ。昨晩はアンタを含め、他の連中には随分と迷惑をかけっちまったようだしな……ここはひとつ、うまい酒でも飲ませてやったらどうだ?もちろん、『隊長殿の奢り』ってことでな」
「っう……!」
息を詰まらすアルノルドに、さらにゲルトがもう一枚、金貨を滑らせる。
「で、そいつは俺なりの『休暇届け』だ。わかるよな?俺は休みを取るのに、めんどくせぇ書類を書くのは嫌いなんだ。まっ、いわば書類代わりの手間賃ってやつだ。……ほらなっ?どこも汚なかねぇだろ?」
「うぅっ!!」
禁断の果実が金色に光り、アルノルドは唸る。ぎりぎりのところで留まっていられるのは、敬愛する主神への罪の意識を感じているせいか。ならばと、隊長の罪悪感を取り除くべく、ゲルトは理をたてる。
「それにな、隊長殿。こういっちゃなんだが……俺がいないほうが行軍はスムーズにいくだろうよ。違うか?」
「そういう問題では…………隊の規律を守るためにも、ゲルト殿には!」
「隊の規律、か。……なら、なおのこと俺を休みにするべきだと思うんだが?」
「なんと?それはどういう……」
「おやおや…………いいか?」
いまいち合点のいかないアルノルドに、信じられんといった表情を浮かべ、ゲルトは右手に持っていたスプーンの先端を正面にいたレギーナに向けてみせる。
「考えてもみろ。仮にも神聖たる教団の宿舎から、うら若き女の声が夜な夜な聞こえでもしたら……奴隷とはいえ、プライバシーくらいはあってもよくねぇか?」
ゲルトがゆっくりとスプーンで円を描くにつれ、何かに気づいたレギーナが徐々に顔を赤らめていく。わずかに遅れてアルノルドが気づくと同時、即座にレギーナが顔を背けた。目を伏せたまま、レギーナは決して二人と顔を合わせようとはしなかったが、その横顔は見まがうことなく朱に染まってる。
「ッゲルト殿!?宿舎でそのような不埒を認めるわけには!」
「不埒、……ねぇ。まぁ、隊長殿がどんな想像をしたかはさておいてだ。そもそもが教団に属していない人間……それも、個人が所有しているだけの奴隷を宿舎に連れ込んでいいなんて規則…………ウチにあったか?」
「いや、それは、その……」
もとよりレギーナと目を合わせてもらえないアルノルドが、面と向かって規則違反だと言えるはずもなく、ただただ目を泳がせて言葉を濁す。
「無理に決まってるよな?仮に許可が下りたところで……俺と奴隷が普段通りに過ごすだけで、知らず知らずに風紀を乱すような日々を送っちまったら……他の連中に申し訳がないだろうが?宿舎の安穏のためにも、早いとこ俺達を追い出したほうがよくはねぇか?」
「ゲ、ゲルト殿の言い分はよく分かりもうした!しッ、しかしながら!遠征を終えてから宿舎を出ていく算段を付けても遅くは無いはず……!それまでは、多少のご不自由をレギーナ殿には強いることにはなりますが、ゲルト殿の参加自体には支障無いでしょうッ!そうであろう!?ゲルト殿!!」
「そりゃぁ、大事な遠征を蹴ってまで、家探しをしたいってのは俺のわがままだろうよ……けどな?」
トドメの一撃とばかり、ゲルトは隠し持っていた三枚目の金貨をトレイに叩きつける。
「だからこそ、こうやって『お願い』をしてるんだよ……隊長殿?」
「っ!!!」
もはや言葉を無くしたアルノルドに、陥落を確信したゲルトが最後の一押しを行う。
「考えてもみろ。今まで散々遠征をやってきたが、魔物なんざ……」
言いかけたゲルトが一度、俯いていたレギーナの方を見てから言い直す。
「……そうそうでるもんじゃねぇだろ?それよか、ここを手薄にしないっつう意味でも、俺が残ってるほうがよっぽど世のため、人のため……隊長のためだと思うところなんだが、……どうだ?」
アルノルドは生唾を飲み込み、目を見開く。落ち着き無く周囲を見渡し、自分に向けられる視線に異常が無いことを確認する。最後、顔を背けていたレギーナに目が留まるが、何の答えも得られそうにない、が―

―どうぞ、よしなにお願いしますね?

ぽつりと呟いたレギーナが、伺うようにアルノルドを横目で見つめた。










いつ終わるとも知れなかった雹もおさまり、冷たい風とぐずった大地が残った跡。
遥か上空の黒い空模様を見て、いつまた始まるともしれない冷雨に男達は愚痴っていた。

「なにも、今日降ることはないだろうに……」
「遠征は……ほんとにやるのか?」
「残念ながらな。……隊長も、中止は期待しないでくれと言ってたよ」
「覚悟決めるしかないってか、はぁ〜……っにしても冷えるなぁ〜」

朝食を終え、続々と兵舎に集まっていた男達が遠征の準備を進める。さりとて、あいにくな天候と寒さのせいか、鎧を着込む手つきもどこか鈍く、ぬかるんだ地面を見れば、あちこちから溜息が漏れていた。

「……それで、例の勇者様は参加するのか?」
「隊長の説得も虚しく…………不参加、だそうだ」
「はぁっ?またかよ!これで何度目だっ!?」

もっぱら、やる気だけを削がれていく男達。荷馬車に積み込むはずの荷物を目の前にしても、誰も作業を進める気は起きない。

「今回はまた、どういった理由で勇者様はサボられたんだ?」
「なんでも、壊れた家の代わりを探すんだとよ」
「アイツが酔っぱらって、自分で壊しただけだろうが…………もしかして、わざとか?」
「たまんねぇよなー?夜中に大暴れして、そのくせ自分は遠征をぶっちときたもんだ」
「マジで、やってられないよな…………隊長は隊長で、アテにならないし」
「まっ、大方の予想通りだろ?隊長が不甲斐ないのも、いつもの事だしな」
「……すみませんなぁ、こんな不甲斐ない隊長で」

最後の一言に、一同は揃ってぎょっとする。
一斉に声のした方へと顔を揃えれば、我らが隊長、アルノルド当人が兵舎の入り口にたたずんでいた。
「たっ、隊長ぉ!?いつからそこに!?」
「じ、自分は別に、ただ!!」
「……よいのだ。実際のところ、私がもっと日頃から彼に対し、強く出て然るべきなのですからな。彼の怠慢はむしろ、私の怠慢になろう」
慌てふためく一同に、アルノルドは手のひらを上げて淡々と漏らす。
「アルノルド隊長……」
怒りもなく、哀愁を漂わせる隊長に、どんよりとした空模様に負けず劣らず、一同が集まる兵舎の雰囲気も重くて暗いものとなる。
一転、満面の笑みを浮かべたアルノルドが、一同に向けて言い放つ―

「しかしながら!我らが主神のため!ひいてはこの世の全ての愛すべき神の子らのため!こたびの遠征!我々がしっかりと成し遂げましょうぞ!!」

勢いそのままで拳を突き上げ、一人だけの掛け声を高らかに行う。
意気揚々とはしゃぐアルノルドとは対照的に、一同には何の反応はなく、呆気にとられていた。より正確には、隊長の豹変に誰も付いていけなかったのだ。
 場違いのように突き上げた拳をすごすごと顔の下まで持っていき、どこか恥ずかしそうに咳払いをしてからアルノルドは付け足すように喋る。
「ォホン…………なお、無事に今回の遠征を終えた暁には、昨晩の慰問も兼ねた打ち上げを、えぇ〜、ぜひ『私の奢り』で!!催したいと考えている次第ですが…………いかがですかな?皆様方」
ちらりと片目を覗かせたアルノルドに、固まっていた一同がにわかに騒ぎ始め、事の内容が浸透するころには一気にその場はやかましいものとなる。各々が隊長の奢りである事を念入りに確認し、その度にアルノルドが嬉しそうに頷いてみせては一同が盛り上がる。
 そうなればと、先の停滞が嘘のように消え、一同は手際よく遠征の準備を再開する。あっという間に活気を取り戻した兵舎に、アルノルドは現金なものだと半ばあきれつつも、嬉しそうにはにかんでいる自分に気づく。とはいえ、あまり浮かれてばかりもいられないと、部下達が積み込んでいた荷物を、今一度抜けがないか、笑顔で確認をはじめる―

―カッコ、カッコ、カッコ、カッコ…………

騒々しくなっていた兵舎の前を、一台の馬車が通りかかる。
一頭の芦毛の馬が引いていたその馬車は、全面を薄暗い青色に染められ、随所に金属を打ち叩いて模様を浮かばせた装飾がなされており、馬車の前後には教団の紋章が大きく掲げられてた。

「あれ?………なんで来賓用の箱馬車が出てるんだ?」

集まっていた一同のうち、とある男が見たままの疑問を口にする。
 彼らが拠点としている教団の施設にて、所有している馬車は数台の荷馬車のほか、ごくまれに訪れる要人の送迎として使う、いくぶんか豪華な来賓用の箱馬車が一台ほどある。荷馬車自体は教団の物資の輸送や遠征のほか、農繁期においては兵士たちと共に農作業にも借り出されたりと頻繁に利用されていた。対し、おせじにも煌びやかとはいえぬ、閑散としているこの拠点では要人専用の箱馬車など滅多と使われることはなく、年中のほとんどを倉庫で過ごして埃をかぶっているのが常である。
 本来であれば見かけるのも珍しい馬車が、遠征の出発間際になって一同の前に姿を現したことで、その場に居合わせていた男達に動揺が広がる。

「隊長?……誰か、お偉いさんでも来るんですかい?」

様々な憶測がなされるなか、施設内の状況に一番精通している、最高責任者であったアルノルドに事態の説明を求める者があらわれるのは自然なことだろう。
どこかズレたところはあるものの、回答そのものは手堅いというのが一同が持つ、アルノルド隊長への認識だからだ。

「えっ!?あっ、いや……そうですな。あれは、なんというか、その……」

ただし、それはいつもの隊長であることに限る。
現状のように目に見えて狼狽している場合、彼自身があずかり知らぬ故の動揺ではなく、むしろ何かしらの事情を知っており、大抵の場合―

「車輪の回りが悪りぃ……油、差しとくか」

馬車の先頭部に位置する、馬を御するための御者台から、とある男の声がした。
御者台に座っていた男はマントを羽織っており、頭には布を巻きつけて急な雨と寒さに備えていた。素性からは男の正体を判別できなかったが、その声色と隊長の様子からすぐに一同は男が何者であるかを推察できた。

「ゲルト……副隊長っ……」

ある隊員が呻くようにつぶやくが、呼ばれたゲルトはなにを返すでもなく、台から飛び降りるだけだった。
固まっていた一同の脇を抜け、壁に掛けかけてあった油差しを手に取ると、再び乗ってきた馬車の前輪付近へと戻っていく。黙々とゲルトが車軸に油を差している間、重い沈黙が一同に再度のしかかる。

(アルノルド隊長!?なぜ、副隊長が箱馬車なんかに乗ってるんですか!?)

声を潜めて尋ねる隊員に、慌てふためく隊長が答える、その前に―

「理由が知りたいか?……新居の引越しには荷馬車があったら便利だろ?あいにく、今日の遠征で全部出払っちまってるがな……仕方がねぇから、こいつで我慢してるんだよ。……貸し出しの届けは、休暇願いと一緒に、隊長殿へ提出済みだ」

ゲルトが間に割り込み、丁寧に解説する。
小声を拾われた隊員は、気まずそうに頭を下げるが、ゲルトはただ黙って作業を続けるだけだった。

「あっ、あ〜、ゲルト殿。今回ばかりは事情が事情だけに、大目にはみますが……次回の遠征こそは、ぜひとも参加願いますぞ?」

あちこちで不穏な雰囲気が立ちこむなか、アルノルドが口を開く。
立場上の罪悪感のせいか、自身への非難の声を少なからず感じとったからだ。
「さぁ?どうだろうな?俺が酔っぱらっても、ぶっ壊れない家があればいいんだが……」
アルノルドの苦言に、ゲルトは脅し半分の冗談で返す。
「……ッ!?いやはや、ゲルト殿……!」
当初、下手な冗談かと勘違いするアルノルドであったが、無表情かつ、淡々と作業を続けるゲルトを視認したことで、慌てて笑ってみせる。そんな隊長に構うことなく、ゲルトは反対側の車輪へと向かう。ただし、ゲルトの瞳は兵舎内のどの空間よりも冷めていた。
痛いほど静まり返った兵舎に、隊長の笑い声だけが響く。完全に詰んでしまった現状に、居合わせた全員がどうにかしてくれと切に願う。そんな、縋るような人々の期待に応えるがごとく、その場に現れたのが―

「なにやら楽しそうな声が聞こえますが……何かおもしろいことでも?」

落ち着いた声と一緒に、黒いローブで全身を包んだレギーナがのんびりと登場する。その両手には大きなカバンを一杯に抱えているが、一同の視線はもっぱら、フードを外していたレギーナの素顔に釘づけだった。

「っおぉ!?……そんなことより、まずはその荷物をどうにかしましょう!さぁっ、さぁっ!」

突如として現れたレギーナに、願ったり叶ったりと、大慌てでその荷物に飛びつくアルノルド隊長。レギーナが丁重にお礼を述べている間も、たいしたとことではないと、隊長はことさらに騒ぎながら箱馬車へと荷物を積み込む。賑やかな二人の間に、周りの何名かの隊員が便乗しはじめると、兵舎内の緊張は一気にほぐれたものとなっていた。

(マジで……しらけるな……)

ゲルトは人知れず、馬車の陰で小さくため息をつくと、改めて辺りを見渡す。
いつの間にか騒がしくなっていた兵舎は、各々がそれぞれの準備を進めだしていた。その中心には、手が止まっていた隊員に冗談めいた檄を飛ばすアルノルド隊長と、傍で笑顔を絶やさず、気さくに隊員たちと談笑をしているレギーナの姿があった。昨夜の件といい、食堂の時といい、どうやらレギーナの人たらしは相当のモノらしい。
レギーナが作り出した空間に、完全に毒気を抜かれてしまったゲルトは最後の車輪に油を差し終えると、油差しを元あった場所へと戻すべく、壁際へと向かう。
「あっ!申し訳ありません、ゲルト様!これは気が利いておりませんでした……」
すぐさまゲルトの元へと駆け寄り、心底申し訳なさそうにレギーナは頭を垂れる。
その背後には、心配そうに目配せする隊員がちらほらとみえた。
「……次から気をつけろ。それより、とっとと出発するぞ」
無造作に油差しを壁に掛けると、返事も待たずにゲルトは箱馬車の御者台へと飛び乗る。
おずおずとレギーナも後に続くが、高所に位置する、御者台に飛び上がろうとしたところで、慌ててゲルトが止めに入る。
「こっちじゃねぇ。後ろだ」
「ゲルト様を差し置いて、私だけ席に座るわけにはまいりません」
「いいから、早くしろ」
「ですが……!」
「まぁまぁ、お二人とも。今朝は一段と冷えますゆえ……さぁ、どうぞ、どうぞ」
なおも食い下がろうとするレギーナに、堂々とアルノルドが割り込むと、馬車のドアを開き、手のひらを差し出して室内へと誘導する。
一度だけ、レギーナは沈黙を貫く主人に伺うように顔を向けた後、失礼しますと小さく答えながら馬車へと乗り込んでいく。その様子を、終始にこやかな笑みを浮かべて見守っていたアルノルドは、レギーナが席に落ち着いたのを入念に確認してから、これまた極めて静かに馬車のドアを閉める。
「ゲルト殿……我々が出掛けている間、くれぐれも留守を頼みますぞ?」
かしこまったアルノルドが、神妙な面持ちでゲルトに告げる。
「言われなくてもそのつもりだ……んなことより、そっちこそ大丈夫か?たかが1名欠員が出たくらいで部隊が全滅……なんて無様晒すことにならなきゃいいが」
「いえいえ。我々も日々、厳しい訓練を行っている身……ゲルト殿は何の心配もなさらず、お二人の新居を心ゆくまで探されよ」
「そうかい……」
最後に、ゲルトは呻くように声をひねり出した。
おそらく今の隊長には、いかなる皮肉も効かないのだろう。正真正銘、悪魔たるレギーナの人たらしは、ある種の高揚状態にまで群集を持っていけるらしい。その証拠に、文字通り気持ち悪いほどの満面の笑みを浮かべたアルノルドに、ゲルトは見送られることになりそうだからだ。
フラストレーションもいい加減に溜まっていたゲルトは、片手でこめかみを強く抑えたまま、馬に鞭を入れて八つ当たりをかました直後―

「皆様方〜。くれぐれも道中、お気をつけてくださいね〜」

馬車から顔を出したレギーナが、出発間際の隊員達に気遣いの言葉を投げかけた。










不意に現れた水溜りが日の光りを照り返し、旅人の足と目を鈍らす頃。
男は神の名の下に集う衆人から離れ、悪魔が同乗する馬車を走らせていた。

(ほんと、マジで、なにやってんだろうな……)

着込んだマントの先からはみ出ている、手綱を持つ両手が鈍いのは寒さだけでのせいではないだろう。

「教団の皆様方、本当にいい人ばかりですね!?さすがは主神に仕える方々ですっ!」

御者台に座っていた男の背後から、馬車の前面にある窓を開け、顔をのぞかせた悪魔が屈託のない笑顔をみせる。悪魔の声がいつもより張っているのは、馬車が揺れる雑音に負けなようにするためだけだろうか。

(……だったら、教団の馬車にお前を乗せてる、俺は何だってんだ)

レギーナの話にはのらず、ゲルトは黙って馬に鞭を一発くれてやる。
馬が悲鳴をあげ、馬車の揺れが激しくなったことで、レギーナが自らの発言に気づく。
「……ゲルト様。もしや、ご気分を害されましたか?」
「何でだ……?」
「さきほど、私めが失言めいたことを……」
「いや、ちょっとばっかし、考え事をしててよ……なんか言ったのか?」
「っ!いえ、大したことでは……それより、ゲルト様は何をお考えになられていたのですか?」
「くだらねぇぞ?主神はどんな地獄に俺を落とすんだろうなって話だ」
「…………誠に申し訳ございません」
「……」
沈黙のまま、ゲルトは追加で鞭を振るう。
二人の間にはぬかるんだ大地を車輪が踏みしめる音に加え、馬車が激しく揺れ動く音だけが虚しく響く。
「ふぅーっ……ゲルト様。これから、どちらに向かわれるのですか?」
ひと呼吸置き、気を取り直したレギーナが、馬車の揺れで乱れてしまった髪をかきあげながら尋ねる。
「……村長のところだ。ここらで余ってる、空き家を紹介してもらうつもりだ」
ゲルトも同じく鼻から息を抜くと、知らずに固まっていた肩から力を抜き、視線は前に向けたまま話しだす。
「空き家……賃貸ですか?家を新調なさるおつもりは?」
「周りを見てみろ。見渡すかぎりの麦畑だろ?……俺はこんなところで、埋もれるつもりはねぇんだよ」
「……?それでは近々、お引越しなさるおつもりですか?」
「ぜひともそうしたいね……まっ、そのためには、色々と準備ってもんが必要だろう?」
「準備、ですか…………っ!まさか、教団をお辞めになるおつもりですかっ!?」
「もしくは異動だな。いわゆる栄転ってやつだ」
目を輝かせるレギーナに、間髪いれずに冷や水をぶっ掛けるゲルト。
自らの早合点に、それはそうですよねと、ひとしきり自身を納得させていく過程で、新たに生まれた疑問をレギーナは尋ねる。
「ゲルト様の今後の方針はわかりました。ですが、そう都合よく人事が動くとは…………まさか?」
「ご明察、……って程のこともねぇか」
ポンポンっと、みっちりと金貨が詰まっている袋を懐で浮かせながら、ゲルトは呟く。その様子を、訝しむ表情を浮かべ、レギーナは見つめていた。
「……ゲルト様は、金銭にご執着なさらないのですか?」
「あぁん?何でそう思った?」
「私めが渡した、金貨の扱いからになります。契約の時の反応といい、食堂でアルノルド隊長に賄賂として……失礼しました。ともかく、お金に対する扱いが少々雑に思えましたので……」
賄賂という単語に反応した主人に、レギーナは謝罪をしながらも核心に迫る。
「……金は大好きだぞ?ただし、悪銭となりゃ話は別だがな」
「悪銭……?いえっ、その金貨はっ!」
「……言い方が悪かったな。ようは、出所不明の金貨には手をつけたくねぇだけだ」
感情を露に出して、抗議するレギーナ。
その姿にわずかながらも動揺を覚えてしまったゲルトは、彼としては珍しく、言葉を訂正してから説明を続ける。
「この金を使うにしても、モノの真偽は確かめんことにはな……お前自身が気付いてないだけで、妙な細工やら呪いでもあったら大事だろうが?最終的な信用にかかわるのは俺なんだからな」
「それは、……そうですが」
「腐るな。この金貨が正真正銘の本物なら、俺も大喜びで、お前の株もあがってで、お互い万々歳だ。違うか?……だから、隊長連中が無事に飲んだくれるのを気長に待ってろ、な?」
「……もし、皆様方のお支払いに問題が起きましたら?」
「安心しろ。そんときは即、詐欺師の首がすっ飛んで事件解決だ」
「そのようなことは絶対に起きませんから、どうぞご安心を」
「そうなってほしいぜ。みんながハッピーエンドになれるもんな?」
背後でレギーナがため息を隠すなか、ゲルトは不敵に笑いながら、馬に再三の鞭をいれてやった。










刻々と陽が高さを増すも、一向に全貌を明かさずに人々の不安を煽るおり。
男は村長に案内されるまま、悪魔と共に新居へと向かっていた。

「しかし、はぁ〜……えらい別嬪さんですな〜」

馬車に乗っていた老年の村長が、対面する美女をまじまじと見つめながら感嘆する。
それを受け、きわめて困った風体で悪魔が謙遜していた。

(これから先、何回このやり取りを聞きゃいいんだ?)

背後の二人に聞き耳を立て、無言で馬車を走らすゲルトが疎ましさで顔が歪む。
教団の施設から離れ、町の中央に位置する小さな役場にいた村長の元を訪ねると、ゲルトは事情を説明して空き家の紹介を依頼した。よっこらせっと、村長が年のせいで重くなった腰を上げると、案内ついでに乗せてくれと入り込んだ馬車内にてレギーナを見つけてからは、今に至るまで、上機嫌に悪魔と会話を弾ませている。

ゲルトの部隊が駐屯している拠点は教団が出資してできた町であり、部隊の主な目的としては教団の軍の兵糧を賄うべく、大規模な穀倉地帯の干拓の一環として作り上げた町の監督であった。ただし、あまりにも耕作を意識しすぎた地域に築いたため、町としての利便性は低く、都市部とも離れているせいで商いも難しく、そのせいで人が寄りつかずと負の連鎖を生んでいた。せっかく出資した耕作地を余らせるのは得策ではないため、早々に農奴でも投入して耕作させるべきところなのだろうが、度重なる戦乱でどこも慢性的な人手不足であり、税率を他所よりも低くすることでしか人々を呼び込めないだろう。

(本来なら、敵国の人間を奴隷にすりゃ済むとこなんだが……)

教団の主敵である魔物は奴隷にすることができず、そのうえ、どこからともなくいくらでも現れる。放っておけば民衆に被害が出るがために、剣を交えねばならないが、さすれば働き手となるべき兵士が戦闘でこの世から離脱し、負ければ民衆の反感まで買う。教団のみならず、人間社会にとって魔物とはまさに忌々しい奴等といえよう。

「そうですね。本当に、主様には感謝のしようがありません……」

忌々しい頭痛の種に、ゲルトは感謝される。いまだ表立った被害は被ってはいないが、これから先もそうだとは限らない。
年寄りの相手は面倒だからと、レギーナに話し相手を任せていたが、どうにも雲行きが怪しい。レギーナ自体はそこまで頭の悪い奴とは思えないが、村長は別だ。話の尾びれを尻尾にして、角を生やしたり、翼で翔けていくような内容を第三者にされたのでは堪ったものではない。一応、釘を刺しておこうと、好き放題に喋っていた二人に振り向いた、瞬間―

「おぉ!勇者殿!……そこです、そこの角の建物ですじゃ!」

興奮した面持ちで、村長が前方の家をしわくちゃの指で示す。
レギーナも同調しながら、興味津々で村長が指差した家を見つめ、ゲルトも同じく正面に振り返る。
三者の視線を集めた先には、町の終わりに佇むように建てられた煉瓦造りの建物があった。その建物は周辺の建造物よりも頭一つ抜けて高く、また、煉瓦自体も一つ一つの固体が大きく、頑丈そうな物が使用されていた。
「わしが若い頃は、兵隊さんが見張り台として使ってての……今でこそ麦畑が広がっておりますが、昔のこっち側は森みたいなもんでな。獣が悪させんか、夜通し見張ってましたわい」
しみじみと語る村長に、しきりに相槌を打つレギーナ。ひとまず二人を無視したゲルトは、改めて紹介された物件を値踏みする。

(立地としちゃ町の裏通りで、ちょいと不便だが……角地なのは依頼どおりか。さて……)

近づくにつれ、おおよそで物件の全貌が分かりだす。
外見を一言で表せば上に長い直方体の建物で、窓の位置から考えるに、どうやら三階建ての建物らしい。一階部分の前面には木製の両扉が並んでおり、入り口の大きさから察するに、おそらくは馬屋になっているのだろう。
「玄関は裏側になりますじゃ。……どれ、そこらで馬を止めてくだされ」
ゲルトは言われるまでもなく馬を止め、ちょうど建物の外壁に備えられていた馬留めに馬をつなぐ。その間、レギーナがゆるりと村長に付き添いながら馬車から降りてきた。
「1階も中でつながっておりますじゃ。さてと……」
村長が側面から奥に回りはじめると、ゲルト達も後に続く。
建物の真裏に到着すると、錠で閉じられた扉を前にして、村長が束ねて持ってきた鍵を懐から取り出した。
「こいつじゃないのぉ……おっ、これじゃ、これ。」
数ある中の鍵から、迷うことなく見つけた鍵を錠前に差し込むと、すんなりと扉が開いた。高齢のわりにはしっかりとしている村長にゲルトが感心していると、さっそくで村長が物件の説明を始める。
「ご覧のとおり、玄関横の窓際に台所がございまして……反対側には馬小屋の出入り口がございますじゃ。あとは奥に階段がありますのう。」
付け加えると、馬屋側の側壁には厠が備え付けられていた。馬の世話のことも考えると至極当然のつくりだろう。階段は台所の奥にあり、そこから各階への上り下りのほか、屋上にまでつながっているとのこと。
三人が連なって階段を上がると、さらに上へとつながる階段と、二階の入り口とに分かれていた踊り場につく。まずはここからと村長が二階の扉を開こうとすると、年季の入った軋み声が階段に響いた。
「ほっ、ほっ……多少、埃っぽいですが、建物自体は立派なもんですじゃろ?」
「……まぁ、そうなんだろう、な」
埃が舞う刹那、ゲルトが上着で口を覆いながら率直に言う。
長年使われていないせいで、あたり一面は埃にまみれていたが、床や壁自体には大きな損傷は見当たらない。つづいて、部屋の構造に焦点を合わせれば、二階は大部屋として使われていたのだろう。部屋の中央部分には大きな暖炉が備え付けられており、食事のほか、憩いの場としてはうってつけだった。
「それから、3階は部屋が細かく区切られておりましてな?むかしは、兵隊さんが寝室やら物置に使っておりましたじゃ……」
本日、何度目となく村長が思い出に浸り、飽きることなくレギーナが感心する。
とうに慣れたゲルトは、しばらく熟考すると、簡単に決を下す。
「村長さん、ここでいい。さっそくでわりぃが、手続きをしちゃくれねぇか?」
「ほぇ?もう、決めなさるんかい?……まだまだ空き家はありますぞぇ?もっと、綺麗な空き家も……」
「角地の物件はここしかねぇんだろ?なら、他は見るだけ無駄だ」
呆気にとられる村長を置いて、ゲルトは部屋を出ると、ひとりで三階の様子を確認しに行く。三階も同じく埃まみれだったが、内部の状態は悪くなく、間取りも申し分なかった。
「村長さん?どうか焦らず、ゆっくりと……」
「ふぃ……老いぼれの身には、こたえますわい……」
レギーナに導かれ、村長が階段を上ってくる。一瞬、囚人を死刑台に誘う悪魔の絵画がゲルトの眼前で描かれる。
「……勇者殿。ほんとうに、ほかは見なくてええんですかい?」
「構わん。それで、家賃についてだが……」
「あぁ、ご安心くだされ、お安くしときますじゃ。こちらとしては、人が入るだけありがたいですしのぉ。それに……」
傍にいるレギーナに微笑むと、あらためて村長は口を開いた。
「今後、勇者殿は何かと入用になるじゃろうしのぉ……二人の門出に、ワシからのささやかなお祝いですわい」
「まぁ……有難うございます。村長さん」
ほっ、ほっ、ほっと短く笑う村長の手を取り、すかさず膝を折って礼を述べるレギーナ。
これに気を良くした村長が、なんの、なんのとさらに声を高くして笑う。部屋に老獪な笑い声が響くなか、レギーナが頬を赤らめ、上目遣いに主と視線を合わせようとしていた。
身の毛もよだつ空間で、ゲルトが青筋を抑えながら礼を述べるのは非常に困難を極めた。










日の光が上空で放物線を描くも、重くて鈍い雲に終始閉ざされた一日。
新居となった建物を、男は同居する悪魔と掃除に勤しんだ。

あの後、朗らかな笑顔を浮かべたままの村長と別れると、ゲルト達は早速で引っ越しに取り掛かる。部屋中の窓を開け、埃をはたき、床をきれいに磨き、荷物を整理し、修繕が必要そうな箇所を調べ……面倒ごとには事欠かなかった。
当初、全ての作業を奴隷に任せようと画策していたゲルトであったが、今更ながらに部屋の大きさに気づき、やむなくレギーナと共同で作業を行った。されど、どれだけ作業を進めようとも、終わりまで果てしなく遠く、結末は見えそうにもない。

「……今日はもういいだろ。切り上げるぞ」

いい加減嫌気が差していたゲルトが、同じく作業をしていたレギーナに告げる。

「そうですね。もう暗いですし、続きはまた明日にいたしましょう」

嫌な顔一つせず、屈託のない笑顔を主に返す。
修道女であれば文句なしの対応だが、中身が悪魔なら話は別だ。胡散臭すぎる。
(できれば買出しもしたかったが……こりゃ、無理だな)
辺りを見渡せば暗く、夕闇が町を飲み込みつつあった。
もともと人通りの少ない新居の周りには人の気配が感じられず、灯りなども全くと言っていいほど点いていない。
「とりあえず飯にするぞ。昼は抜いたからな……さすがに、腹が減った」
「あの、ゲルト様……今日は何も食材がございませんし、今からとなりますと、お時間が……」
「あんっ?まさか、作るつもりでいたのか?」
「……はい」
主の食事を用意できない自分を嘆いているのか、レギーナがしゅんとなって俯く。
大変いじらしいが、ゲルトには全くもって信用できない。
「勝手に落ち込んでるとこ悪いが、しばらくは外食だ……飯食ったら、その足で教団の宿舎まで戻るぞ」
「えっ?そうでしたか……それは、残念です」
「なんだ?そんなに、料理がしたかったのか?」
「そちらも理由のひとつですが……てっきり今晩から、ここで二人っきりだと思っておりましたので……」
「…………お前の寝床は馬小屋でいいか?全部使って良いぞ?」
「ご冗談を」
真顔のゲルトに、あくまで、にっこりと微笑みで返すレギーナ。
計算からくる強かさなのか、純粋無垢の天然の笑顔なのか。昨晩と同様、ゲルトには判別がつきそうにもない。ともかく、一筋縄ではいかない相手なのは確かだ。
「言っとくが、外食するのはお前の味覚を確認するためだ。……俺は飯が不味いのだけは我慢できねぇからな。得体の知れない物体を俺の食卓に並べやがったら、その場で斬り捨ててやるからな?……肝に銘じとけ」
「はい♪必ずやゲルト様がご満足するお料理を、真心こめて、精一杯作らせていただきます」
楽しみでしょうがないといった様子で、合わせた両手を頬の横に持ってきていたレギーナが先ほどと同じく、屈託無く微笑む。
間違いなく裏があるはずだと疑惑を確固たるものとすると、ゲルトが踵を返し、苦虫を噛み潰しながら馬車へと向かう。慣れたもので、レギーナがどこか嬉しそうに後を付いていく。
まもなく、寂れた町の食堂に初めてうら若き奴隷をつれた男がやってくることとなる。
18/11/04 10:21更新 / 眠猫
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■作者メッセージ
最初に謝罪と言い訳から入ります……すみません。
約束の期日を過ぎてしまい、大変申し訳ありませんでした。
リアルの都合上で更新と編集が滞っておりました。(なにか一言でも、コメント欄に記載するべきでしたね……)

最後に次回の予定について一言。
下地だけで物語をゆるゆると進めてきましたので、次回は大きく動かす予定でございます。
更新は……12月の第1週とさせてください。(なるべく善処いたしますので、なにとぞお許しを)
それではまた、お会いできるのを願いつつ一時のお別れです。

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