連載小説
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1話目
寒気が静寂に染み込んだ、秋の闇。
深い森の奥に、孤独感が際立つ小屋の中で男は酒で暖を取っていた。

「……シケてんな」

舌打ちと同時、男が愚痴をこぼす。
行儀悪く足を組んで乗せているテーブルには乱雑と酒瓶が並び、床の至るところには用済みとなった空瓶が転がっていた。男の荒んだ心情そのものを体現した現場であったが、当人の荒れようはそれ以上のようで、無造作に分捕った酒瓶が空だったことがさらに男の機嫌を斜めにする。

「……ったく、酒までシケてやがる」

癪に障った空瓶を放ると、近くで何かが割れる音が響いた。
またしても舌打ちをかますと、男は我関せずのまま、先と同じようにテーブルから酒瓶をひったくる。幸いにも今度の奴は中身があったようで、乱暴に振って確かめた酒瓶に直接口をつけて持ち上げる。喉音を何度もうねらせた後、男はゲップ混じりの息を下品につむぐ。
深夜、男は独り、酒に溺れていた。
ただ、男自身はいくら飲んでも酔える気分ではなかった。今の自分の置かれた現状、現実。
そして、何の変化のないまま続くであろう、自らの暗い未来を思い描けば―

「っ!……っくそが!!」

役立たずの酒瓶を、男は壁に叩きつける。
今夜一番の派手な音が室内に響く。しかし、男が痛感している閉塞感の前では遠く、霞む。

(こんなので終わりなのか!?俺は!!こんなところでよぉ!?……冗談じゃねぇ!!
なんとかならねぇのか!?なにか、ねぇのか!チャンス!!逆転の目は!?
……もう、なんだっていい!誰だろうが……たとえ!!!)

「悪魔だろうが!!!」

冷え切った深夜、咆哮だけが木霊する―




















同刻の深夜。正確には男が怒号を放っての、すぐの真夜中。
やけ酒をしこたま飲んでいただけの男は、驚愕していた。

―コン、コン……

家の扉から、乾いた音が鳴ったせいだ。
真っ先に男は自身の正気を疑う。無茶苦茶飲んだから、不気味の一言に尽きる、ありもしない幻聴を自分の耳が作り出したのだ、と。
半ば思い込むように、男が自分に言い聞かせようとする、その前に―

―コン、コン……

幻聴や、錯覚でもない。確かに玄関の戸は叩かれた。深夜、何者かによって。
たまらず、男はそっと席を立ち、壁に立てかけていた愛剣を手にする。すぐに男の手には良く馴染んだ感触が伝わってきた。とうに酔いは醒めている。おそらくいるであろう、扉の前にいる何者かに全神経を注ぐだけとなった時―

「夜分遅くに申し訳ありません……どなたかいらっしゃいませんか?」

何者かの、声がした。女の声だ。
間髪いれず、男が口を挟む。

「こんな夜中にふざけてんのか?……どこの誰だか知らんが、とっとと失せろ」

まだ冷や汗の引かない男は、今一度、柄を握り直す。
声こそ女のものだが、まだ姿は見えていない。魑魅魍魎の魔物がはびこる現世、それこそ美女に化けた妖怪の類がでてもおかしくない。

「不安にさせてしまったことは謝ります……ですが、先ほどお呼び出ししたのはそちら様では?」

言葉の意味を理解した直後、男はとっさに剣を振りぬく。
これが答えだと言わんばかり、問答無用で空を切った一撃には渾身の魔力が込められていた。
扉はおろか、壁一面を丸ごと魔力で上乗せされた剣圧で吹っ飛ばす。
男の正面には白煙が立ち込め、ぶっぱなした衝撃波は冷え切った夜により、轟音となって響き渡る。
威力も申し分もなく、手ごたえも十分にあった、だが―

(てんでだめだな……こりゃ……)

いまだ晴れない煙と同じく、男の眉間には皺がよった。
今は亡き扉があった場所からは依然として、不気味な雰囲気が漂っていた。どうやら、深夜に訪問してきた何者かは、相当のやり手らしい。
面倒なことになりやがったと、男が再び構えると―

「まったく、無茶苦茶な人間ですね………」

徐々に視界が明らかになるにつれ、何者かの姿が男の前で露となる。
とはいったものの、全身は漆黒のローブで包まれており、なおかつ顔付はフードで覆われているため、素性が全くわからない。唯一、本人の一部とおぼしきものは、ローブの袖から現れた左手だけだったが、その掌からは強力な魔力を帯びた障壁を作り出していた。
この時、男にとって一番の厄介事は、自身が放った渾身の一撃を完璧に防がれた魔法の障壁にあらず、軽く掲げらていた相手の左手が、丸ごと青色だったということだ。

「……なんだ、てめぇは?」

呟くような男の一言だった、が―

「申し遅れました。私め、貴方様が呼んだ…………悪魔《デーモン》です。以後、レギーナとお呼びください」

しっかりと、女が応える。
女は左手でフードをめくると、固まったままの男を、紅い眼光で見据えた。




















ほどなくして、二人は半壊した屋内のテーブルを挟んで対面していた。
より正確に表せば、一人の男と一匹の悪魔ではあるが。

(……つか、マジでなんなんだぁ?こいつはよぉ〜……)

酒を煽っていた時と同様、男はテーブルに両足を乗せたまま目の前の悪魔、もとい、レギーナと名乗った深夜の訪問者に不信感まる出しな視線を浴びせまくる。フードの下から出てきた頭の上には、捻じ曲がった鉤爪状の黒い角が乗っかっており、顔面の肌色は掲げていた左手と同じく、危篤の患者が健康体に見えるほどの超真っ青だった。おそらくはローブに包まれた全身も同じく青色なのだろうと想像すると、ゲルトには悪寒が走る。

「こちらが名乗ったのですから、そちらも名乗られてはいかがです?」

無遠慮な視線や、不遜な態度にも特段何も思うところはないといった様子で、レギーナは淡々と男の名を尋ねる。
「……名乗ったら帰ってくれんのか?悪魔さんよぉ?」
「レギーナです。……帰るかどうかは貴方様次第ですが」
毅然としたまま、レギーナは言い放つ。
「……ゲルト、だ。……気が済んだか?済んだら帰れ。いますぐ、だ」
埒が明かねぇ、と男が舌打ちを交え、ぶっきらぼうに返す。

 あの後、フードから顔を晒して名乗ったレギーナに対し、ゲルトは続けざまに魔力で上乗せした剣圧を放ちつづけた。2度、3度では終わらず、柄から剣先部分がすっぽ抜ける勢いで剣を振り続け、左右の壁面が余波で消し飛び、後方の壁にヒビが入ったところで、ようやくやめるのであった。後に残るは、屋根のなくなった男の家と、やれやれとため息をつく悪魔だけである。

「……ゲルト、様ですね。まずは一歩前進、といったところでしょうか」
心底疲れた風で、レギーナがため息を漏らす。しばし押し黙る二人であったが、ふと、思いついたようにレギーナが口を開いた。
「ゲルト様。不躾なお願いになりますが、何かお飲物を頂けませんか?埃が舞ったせいか、少々喉が荒れておりまして……」
「ここが喫茶店にでも見えんのか?あぁ?それともオープンカフェってか?……な〜んなもでねぇから、とっとと帰れ」
「そんな邪険にされなくとも……いえ、無理もありませんね」
言葉の途中、喉をさすっていたレギーナは自らの発言を否定する。
相対するゲルトが顔に青筋を立て、愛剣の柄に手を掛けようとしたからである。
「……で?俺次第で帰るとかぬかしたよな?どうやったら帰ってくれんだ?」
はやく言えやと、ゲルトはテーブルを蹴って急かす。
レギーナは目を瞑ると、一呼吸置いて、落ち着いた口調で宣告した。
「結論から単刀直入に言います。私と契約して人生を変えてみませんか?」
「んなこったろうと思ったぜ。却下だ。でもって、失せろ」
ゲルトは即答した。大方の予想通りの話だったことで、自然と舌打ちも出る。
悪魔と契約する。どう考えても破滅の未来しかゲルトには思いつかなかった。
まともな頭の持ち主ならそれこそありえない話で、仮に契約するようなおめでたい頭の持ち主がいるとするならば、悪魔と契約して破滅する前に、むしろ同じ人間同士に騙されて全てを失っているところだろう。……だからこそ、逆転を夢見て悪魔と契約するのかもしれないが。
「そうですか……まぁ、そうおっしゃられるとは思いましたが」
レギーナも予想していたのか、軽くため息をつくと、そのまま黙ってしまう。
どれほどの時間が流れたのか、テーブルを挟んで座っていた二人はただ黙っていた。互いに口も利かず、視線も合わせず、時間だけが過ぎていく。いい加減、沈黙を保っていられなくなったゲルトが、ついに口火を開く。
「用は済んだな?なら、もういいだろ?……消えろ」
口を閉ざしているだけのレギーナが、妙にゲルトの気に障った。とりあえず、一刻も早く自分の視界から消そうと退去命令と一緒に、愛剣を手にして席を立つ。促されるようにして、レギーナも席を立ち、青い両手で顔にフードを被せようとする。
黙って席を立つレギーナに、なぜだかは分からないが、ゲルトの苛つきも加速した。
「……お答えしましょうか?」
突然、沈黙を破ったレギーナが喋りだす。
「……なに?」
「ゲルト様が感じている、ご不満の原因です」
読心にも近い、レギーナの問い。思わぬ一言にゲルトは一瞬だけ顔を苦くする。
「そんなことか?お前が消えればおさまるさ」
「いえ、治りません。その時はゲルト様が後悔されていることでしょう」
「……なんでだ?」
フードを被せようとしていた途中の両手で、今度は逆に、レギーナはフードをたくし上げた。
最初に名乗った時と変わらず、まったく動じないレギーナが紅い眼をゲルトに向ける。
「期待しているからです。……ゲルト様が、私に」
「だから、何をだ!?」
苛々が怒りに昂まったゲルトは、怒号を張った。怒号は夜を駆け抜け、繰り返し二人に反響する。極限にまで夜が静まりかえると、レギーナは一拍置き、改めてゲルトに宣告する。
「ゲルト様は確かにお呼びになられました。だからこそ、今、私はここにいるのです。……ですから、私と契約しませんか?」
それはゲルトが初めて見た、今まで無表情だった、レギーナの最初の笑顔だった。




















二人が出会い、いくぶんかの時が流れた頃。
微笑む悪魔に、男は険しい顔で剣先を向けていた。

(……こいつは、マジで、なんだ?)

短時間の間に、全くと言っていいほど、同じ疑問を浮かべてしまったゲルトは自身に投げかける。結局は理解不能にして、眼前にいる悪魔の正体と同じく、答えは見つかりそうにない。
「早速、契約について詳細を詰めたいのですが……少々邪魔が入りそうですね」
肩を落としてレギーナは息をつくと、近づいてくる馬のひづめの音に振り返った。馬のひづめはかなりの多重音かつ不規則すぎるテンポで響いているため、正確な数はまるで見当がつかない。それでも、大雑把に見積もれば、十数人といったところか。
(ようやくおでましか……おっせぇーんだよ、カス共が)
内心で毒づくゲルト。
馬のひづめを鳴らす集団の正体は、教団に属する勇者の一団だった。
先刻、ド派手に暴れて放った、ゲルトの狼煙代わりの衝撃波に気づき、駆けつけたのだろう。ただし、ゲルト当人としては、救援といっても差し支えない一団にたいして感謝はおろか、その対応の鈍さに腹を立てる始末だったが。
「ゲルト様、いかがいたしましょうか?」
少しも困った素振りを見せないレギーナが、ゲルトに向き直る。
そういったところがいちいち、ゲルトの癇に障った。
「どうもこうもねぇだろうが?お前が退治されて、めでたし、めでたしのハッピーエンドだ」
よかった、よかったと、ゲルトはしきりに感心して頷く。
対し、少々あきれ気味のレギーナが答える。
「……それが到底叶わぬことだと解っているのは、ゲルト様ご自身ではございませんか?私めの力量は既に、十分にご存知のはず。あわせて、さきほどゲルト様が呼びつけた一団の質と量をもってしても、私を退治することが叶わないことも」
だからなんだと、口を挟もうとするゲルトを制し、レギーナが続ける。
「私はゲルト様と契約に来ただけです。それ以外のことに興味はありませんし、ましてや、危害を加える気は毛ほどもありません。……ですが」
みたび、レギーナは紅い眼光でゲルトを見据え、重く述べる。
「それでも私を排除なさろうとする者がいるならば、相応のご覚悟をしていただくことになります。……もちろん、それがゲルト様であっても」
その表情は悲しげにも、怒りにも取れる。
思いもよらない悪魔の表情に、ゲルトは一瞬、戸惑いを覚えてしまった。だが、次第に大きくなってくる馬群の音がゲルトを現実に引き戻し、本人のなかで眠っていた焦燥感が彼を身構えさせた。
次に下す、ゲルトの判断次第で本人はもちろんのこと、他人の生死すらかかっている今、決断までの猶予はいくらばかりも残されていない。すでに馬を走らす人影が、闇夜にくっきりと浮かび上がってきた。
取るべき選択は、すべてを投げ打つ決死の一戦か、あるいは―

「とりあえず、俺に合わせろ。な?……殺し合いがしたいなら、別だが」

現状の保留を選択した。
この悪魔に危害を加える意思がないのは、先のやり取りからも明らかである以上、こちらから仕掛けなければ、無用な衝突は避けれると踏んだからだ。もちろん、この悪魔を全面的に信用するつもりは毛頭ないが。
ともなれば当面の問題として、すぐそこまで迫っている教団ご一行の件だが―

「……ということは、ご契約していただけるんですかぁ!?」

歓喜満面。幸福に満ち溢れる顔を浮かべたレギーナが、曇りを知らない、輝きの眼差しをゲルトに浴びせる。
「アホか?んなもん後回しだ、ボケ。いいから、そのツラ隠せ。でもって、大人しく黙ってろ」
本日、何度目と知れない舌打ちをかまして、ゲルトは剣を収める。
渋々といった様子で、レギーナは今度こそフードで顔を覆った。



 時を置かず、目の前に駆けつけてきた集団が揃って馬の足を止めた。
教団に属する一団とはいえ、個人の服装や装備にこれといった統一性はなく、一見した限りでは傭兵にしか見えない。それでも、あえて教団らしい要素をあげるとするならば、集団の先頭に立つ隊長らしき人物が着込んでいた鎧に、教団のシンボルが刻印されていることぐらいか。
(くそが。マジで、クソ、めんどくせぇことになりやがった)
心中、色々ありすぎて鬱憤で一杯のゲルトは、駆けつけてきた一団を睨みつけ、さしあたりで八つ当たりをかます。
「…ぅ!ゲ、ゲルト殿、これは一体、何事でありますか!?」
いきなり凄まれた先頭の男は怖気づくものの、気を取り直し、極めて丁寧な口調で尋ねる。
「あぁっ!?何事ってのは、どういう意味だぁ!?」
「そ、それは、その……物凄い音がしましたので、何か一大事かと思い……この、壊れた……家、の状況と申しますか、そのぉ……」
先頭の男の目線は何度か宙を泳ぎ、壁のなくなった室内をなぞり、空き瓶と家の残骸で溢れた床を滑った後、一番気になる箇所へと移る。
「そちらにいる御仁、は……何者でしょうか?」
おずおずといった感じで、ゲルトと集団のちょうど中間に位置する、全身をローブで覆った怪しい人物を指差した。夜中、駆けつけてきた一同が一様に思う、一連の騒ぎの核心らしき不審人物に、その場の焦点が全て集まった。
(……まぁ、そこが一番気にはなるわな。フツーに)
完璧に酒が抜けてしまったゲルトは、質問には答えず、後ろで倒れていた酒棚に向かう。しばらく、ゲルトは棚の中で寝転がっている酒瓶の数々を、転がすことでラベルを表にし、黙々と物色する。何か言いたげな様子の、先頭の男が口を開こうとした瞬間、ゲルトは鞘から半分ほど剣刃を晒す。一同は息を呑み、緊張で強張るが、ゲルトは構わず続ける。
「たっく。何をぬかすかと思えば……」
横になっていた棚の中から一番きつい酒瓶を掴むと、栓はそのままに、抜いた剣刃でボトルの上部を斬り落とした。呆気にとられる一同の前で、ゲルトは勢いよく酒瓶を逆さに掲げ、ボトルの切り口に吸い付く。もはや飲むというより、胃に液体を直接落としているだけだった。度数もかなり高いため、腹の底から熱が吹き上げ、一気に頭のてっぺんを突き抜けるが、ゲルトはお構いなしだ。
「っばぁ!……はぁっーーー、きっぅくぅぅぅ!」
言い終わると、首が落とされた空き瓶を床に叩きつける。飛び散る空き瓶に、周囲は同時に身体を震わせてビクつく。
唯一、ローブを着込んだ人物だけは微動だにしなかったが。
「みりゃわかんだろうが?あぁ〜〜?…………どっから、どぉ〜〜見ても奴隷だろうが!奴隷!」
手の甲で口の周りをぬぐい、目を見開いて周りを見回す。
「ど、奴隷とは、また………主神に仕える、勇者にあるまじき………そのぉ」
先頭の男の言葉尻が弱々しくなったのは、鞘から剣を完全に抜いていたゲルトが、刃面を舐めるように覗き込んでいたせいだろう。
 ゲルト自身、正直やりすぎな気もしていたが、酒の勢いで押すしかなかった。誰が好き好んで、不審人物は教団に仇なす悪魔で、曲がりなりにも勇者である自分に契約を持ちかけてきました、なんて与太話まがいの真実が言えようか。もっとも、話したが最後、流血沙汰どころか死傷者必須の殺し合いを始めるはめになるが。
このまま引き下がれや……と思うゲルトであったが、やはり、少々無理があったようで、先頭の男はともかく、他の面子が黙っていそうにもなかった。当然といえば当然か。夜中に轟音で叩き起こされ、急いで駆けつけてみれば、酒乱相手に傲慢な態度を取られたあげく、肝心なことを聞けずにいるのだ。このまま手ぶらで帰れというほうが無理な話だろう。
(ボケ共が……誰のためにやってると思ってんだ)
修羅場寸前の現場に、忌々しい沈黙が続く。しかし、その場の誰もが手詰まりで、誰も次の一手を持ち合わせていなかった。どうしたもんかと本気で頭を抱えそうになったゲルト達に、思いもよらない人物がその場の全員に救いの手を差し伸べてきた。

「皆様方。夜分遅くにご足労様です。ただいま、旦那様はひどく泥酔されておりますので、御用件がございましたら、私めが後ほどお伝えいたします」

そう言って、ローブ姿の人物が深々と腰を折り、悠然と一団にお辞儀をしてみせる。
渦中の人物の発言に、ゲルトはもちろんのこと、集まった一同は驚きを隠せない。
「おぉ、これはこれは……用というほどのものではないのだ。深夜に凄い音がこちらから聞こえましてな。なにが起こったか、そなたはご存知ではないか?」
気後れしていただけの先頭の男が、ここぞとばかりに渦中の人物に事の顛末を問いただす。
「はい。……恥ずかしながら、私めが旦那様の秘蔵のボトルを誤って落としてしまい、深酒もあいまってか、少々お乱れになられたのでございます」
「それは、また……とりあえず、無事が確認できましたので、ほっとしましたぞ。なぁ?皆の衆」
男は周囲を見回し、他の者に同調を求めた。それを受け、一部からは乾いた笑い声があがり、若干ではあるが場の緊張がほぐれる。ゆるやかに安堵の輪が広がれば、その場の誰もが得心したかのように頷き、各々が勝手にお喋りを始める始末だった。
(くそったれが……)
こころなしか、随所から哀れむような視線と囁き声を感じる。
ここにいる連中のほとんどが、酔っ払いが暴れて家をぶっ壊しただけ、と本気で思っているのだろう。自身が作り出した流れとはいえ、腑に落ちないゲルトは黙って周囲を眺めるしかない。
「……して、そなたは本当にゲルト殿の……奴隷であられるのか?この辺りでは見かけない方だが。……不都合でなければ、お顔を拝見できませんか?皆、安心できますゆえ」
満を持して、先頭の男が核心に迫った。
「えぇ、もちろん。こんな顔でよろしければ構いません」
ゲルトが静止を掛ける前に、レギーナがフードに手をかける。
(ちょ……!?ざけっ………!んなっ!?)
レギーナが自身の素顔を曝け出すと、背後に控えていたゲルトの狼狽は仰天に変わる。
一方、レギーナの正面にいた一団からは感嘆の声を上げると、徐々にため息が混じりだす。
踵を返し、あらためてレギーナはゲルトと正面から向き合った。

「申し訳ありません、旦那様。勝手な行動ばかりを、どうかお許しくださいませ」

深く頭を垂れると、レギーナがおもてを上げる。
肩まで伸びた艶やかな蒼い髪の奥には病的にも思える、レギーナの白い素肌が周囲の明かりを吸い込むことで整った顔立ちを、はっきりと闇夜に浮かび上がらせていた。鼻筋が通った面持ちに、愛らしくもそこはかとなく色気をかきたさせる唇は、魔性ともいえる彼女の紅い瞳が映し出す感情しだいで、幼くもなり、知性をも感じることができた。
そこには紛れもなく、一人の美女が佇んでおり、息を呑むゲルトを見つめて微笑んでいた。

「いやはや……なんと、お美しい……」

半ば、思考が止まっていたゲルトを引き戻したのは、一団の先頭の言葉だった。
「ご紹介が遅れました。私め、ゲルト様に身請けしていただき、先日より身の回りのお世話をしている者です。名を、レギーナと申します。どうぞ、お見知りおきを」
ゲルトが我に返るよりも先に、レギーナが再び一団に向き直って補足し、会釈をする。途端、嘆美と羨望があちらこちらで上がった。
「ゲルト殿。もう、この辺りで許されてはいかがだろうか?……酔いもかなり進んでおられるようですし、これ以上は周りにも迷惑が掛かってしまいますぞ?」
先頭の男がこのうえなく畏まって、ゲルトを諭すかのごとく戒める。
周りに控えていた一団もレギーナを労わり、何らかの使命感に取り付かれたのか、ゲルトに向け、無言の圧力を掛けていた。
(……めでてぇー連中だな。クズ共が)
教団の一団が人に化けた悪魔の身を案じ、酔っ払いの振りをしている勇者を宥めに入る。
傍から見れば、なんともお馬鹿な光景だと笑ってしまいそうになるが、図らずとも当事者となってしまったゲルトには全く笑えない場面だった。
無性に頭の後ろを掻きたくなるゲルトであったが、舌打ちも抑え、ただ黙って酒棚に向かう。見かねたように、先頭の男が何か喋ろうとしたところで、ゲルトの怒りが頂点に達した。
「いいか?お前ら。俺は全然酔ってねぇーし、至ってまともだ。わかるな?わかるよなぁ?……もしこれ以上、なにかふざけたことをほざくつぅーならっ!!」
直後、ヒビが入っていた屋内最後の壁が木端となった。
「今しがた、俺の家が無くなっちまった……しばらくは宿舎にやっかいになるから、すぐ空けろ。いいな?」
煙が立ち込めている愛剣を片手に、ゲルトは先頭の男を睨む。
先頭の男は全力で頷き、後方に控えていた一団は揃って硬直する。
唯一、やはりというべきか、レギーナだけが何事もなかったかのようにフードを深々とかぶった。




















鶏が闇夜に終わりを告げ、陽が昇りはじめた薄暗い早暁。
肌寒く、起きるのもつらい時期に、いつもと違う枕で寝ていた男は早くも目を覚ました。

(あぁ〜……マジ、眠みぃ)

身体を起こし、両手で目を覆う。
瞼は重く、今なら立ったままでも熟睡できそうだった。しかしながら、指の隙間から隣のベッドを覗き見すれば、このうえなく静かに眠る悪魔がいた。仮にも教団施設のド真ん中で、こうも穏やかに眠っていられるような悪魔を、ゲルトは律儀にも寝ずの番で見張っていた。

「……もしや、昨晩はお休みになられておりませんか?」

横になったまま、レギーナは言葉を口にする。
唐突に喋る悪魔にも動じず、ゲルトは重くて長いため息をつくだけだった。

 自宅が崩壊後、ゲルトは一団から馬を借りると、軽めの荷造りをはじめた。その間、先頭の男が率いた一団は駆けつけてきた時と同じく、ゲルトのために空き部屋を設けるべく、大慌てで宿舎へ馬を走らせた。一方のレギーナはというと、荷造りの協力を申し出たが、ゲルトがそれを許さず、逆にただ大人しくしているよう命令される。以降、ゲルトは気を休めることなく、引越しの支度とレギーナの監視に追われていた。

「まともな人間が悪魔を横にして、能天気に寝てられると思うか?」
「……そう、ですね」
ゲルトに同調すると、レギーナはゆっくりと身を起こす。
今のレギーナは初対面のときと同じく、血の気もよだつ真っ青の顔面だった。どれだけ精巧かつ麗しく人間に化けようが、中身は正真正銘の悪魔なのだ。一瞬たりとも気を抜くわけにいわず、まして、二度と昨夜のように見惚れるものかとゲルトは固く決意していた。
「……思うに、私に対するゲルト様の信頼等は、全くと言っていいほど、無いようにお見受けできます」
「ったりめーだろうが……」
何をいまさら、とゲルトは呆れるが、レギーナは構わずに話を続ける。
「このままでは契約はもちろんのこと、お傍にいることもゲルト様の負担になってしまいます。そこで……」
レギーナは寝ていたときも着込んでいたローブの右袖に、反対の青く染まった手を入れ、丸められた洋紙を取り出してみせる。
「昨夜の奴隷のお話を、まことのお話に致しましょう。……こちらがその証となります」
いよいよ本性を現したのか、悪魔らしく、なにやら胡散臭い話を持ちかけてきた。
ゲルトは忌々しく思う反面、好奇心が全くといってないのかと問われればー
「………机に置け。でもって、壁に寄ってろ」
「………」
レギーナは何も言わず、静かに洋紙を置くと、足を抱えてベッドの壁際に寄る。
伏し目がちに様子を伺っていたが、ゲルトと目が合うと、完全に俯いてしまった。
つかの間、ゲルトはうずくまるレギーナと洋紙を交互に眺めると、レギーナから視線を外さず、丸められた洋紙を手に取った。そのまま丸められた洋紙をゆっくりと上下に広げきったところで、ようやくレギーナから視線を移した。

(奴隷契約書、ねぇ。どれ……)






《奴隷契約書》

本契約書は、 契約者 (以下、”主人”と表記する)の損害賠償を目的とした『奴隷契約』を 被契約者 (以下、”奴隷”と表記する)との間に締結し、その内容と条件について定めたものである。

一、 本契約の期限は契約日より、 3年 とする。

一、 本契約の期間中、 奴隷 は 主人 の命令の遂行に最大限の努力をもって従い、 主人 の日常生活における炊事・洗濯・掃除、その他あらゆる奉仕活動に尽力することを誓う。ただし、主人、奴隷ならび、他者の生命を危険に及ぼすような命令に限り、 奴隷 は拒否権を持ち、場合によっては本契約の期限を待たずに契約を破棄することができる。

一、 本契約の期間中、 奴隷 は 主人 以外との肉体関係及び、性交渉を禁じる。また、主人 は 奴隷 に対して、他者との肉体関係及び、性交渉を強制する命令を禁止・無効とする。

一、 本契約の期間中、 奴隷 は人間の女性に扮して 主人 に仕えるものとする。ただし、奴隷 の肉体及び、魔力に制限を設け、その能力は一般的な人間の女性に準ずるものとする。

一、 本契約の期間中、 主人 は 奴隷 の衣食住の一切と、身の安全を保障する義務を負う。 主人 が義務の履行を果たせない場合、 奴隷 は本契約の期限を待たずに契約を破棄することができる。






「いかがでしょう?何らかの不備、質問等がございましたら、承りますが?」

いつの間にか、顔を上げていたレギーナが尋ねる。
下ろしていた契約書の端っこでその姿を捉えていたゲルトは、視線は契約書に向けたまま、口を開く。
「……色々と聞きてぇが、とりあえず、『誰それを、ぶっ殺せ』ってのは無理なんだな?」
「はい。………失礼ですが、なぜ、最初にそれをお尋ねになられたのですか?」
「文面が一番長ぇからだ。大事なことなんだろう?……とにかく、人を傷つけたくねぇってのは、よぉ〜く分かった」
「……誤解のなきように補足させていただきますが、その文面における『他者』とは私達、魔物も含まれておりますので、その点はご注意くださいね?」
しきりにうなずくゲルトに、レギーナが念を押す。
「……つぅーことは、お前ら、バケモンの情報や居所を教えろってのは?」
「状況にもよりますが、教団または第三者による情報の悪用や漏洩を否めない場合、拒否権を発動させていただくことになります。あくまで、この契約における真の目的は、ゲルト様の損害を賠償することにあります」
淡々粛々と、事務的に答え続けるレギーナ。
回答もさることながら、自身の嫌味にもすまし顔でいる、目の前の悪魔から一向に主導権を握れないゲルトはイラついていた。
「……なら、次の質問だ。契約書の3番目、いわゆる下の話だが……なんで禁止にしてんだ?女を奴隷にしたら、ご主人様のヤることは一つだろうが」
契約書を見せ付け、ヒラヒラと片手で揺らし、レギーナに返答を促す。
「悪魔と契るということは、悪魔と契約することと同義でございます。それをむやみやたらに行っては、ゲルト様をはじめ、周りの方々の迷惑になるのは自明の理。……ゲルト様も、噂程度にはご存知では?」
「初耳だ。てっきり、貧相な身体を見られるのが困るんじゃねぇのかと、邪推しちまったぜ」
「……ついでながら、主従間での性交渉は禁止されておりません。私めと契約なされるおつもりでよろしければ、夜伽等でお命じくださいませ…………私めの身体が貧相かどうかその時に、存分にご確認を」
「安心しろ。絶っ対にそんな事にはならねぇから。よかったなぁ〜?」
「…………」
笑いを忍ぶゲルトに、沈黙をもって応えるレギーナ。
一本取ったかと思いきや、無言を貫く悪魔に、内々でゲルトは冷や汗を掻く。
「……さて、最後の質問だ。そもそも、俺が被った損害ってのはなんだ?現在進行形で、お前と同じ空気を吸ってることか?」
冷静に次を促すゲルトに、レギーナは鼻で息を抜くと、気を取り直して説明を再開する。
「ゲルト様のご自宅が全壊した件になります。昨晩、自衛のためにゲルト様が起した行動の要因は、間違いなく私めにございますので、その損害を賠償したく、この度の契約書を作成いたしました。文面にその旨の記載がないのは、事実関係を詳細に記載した場合、ゲルト様に不快な思いをさせてしまうのでは、と拝察したからです」
「そりゃ、嬉しい気遣いだこと。ありがとよ。で、思い出したわ。……仮に、だ。この契約書にサインしても、今の俺には穀潰しを養うための『家』が無いんだよなぁ、これが?……そうなりゃ義務の不履行ってことで、契約を結んだ瞬間、はいそれまでよ、ってなことにならねぇかぁ?なぁ?」
「……どうぞ、こちらをお納めください。後出しのようで、大変申し訳ありませんが」
レギーナはそう言って、契約書を取り出した時と同じく、袖口から重そうな袋を取り出した。封を解き、袋の中身をゲルトに見せると、中にはぎっしりと金貨が詰まっていた。
「こちらの金貨は今回の契約に関わらず、今、この場でゲルト様に差し上げます。ご自宅の再建に、仮にゲルト様が契約を結び、私めを3年間扶養していただいても、十分に余る金額かと存じます」
目を点にして固まるゲルトを尻目に、レギーナはそっと金貨がたんまり入った袋を机に載せる。されど、袋は自重に耐え切れず、雪崩を打って金貨が机一面に広がり、何枚かは床へと転がり落ちる。
「わからんな……」
朝日を浴び、まばゆく輝く金貨を前にして、ゲルトは顔をしかめた。
「何でしょう?金額の明細が必要ですか?それとも、他にご質問が?」
首をかしげるレギーナに、ゲルトは語気を強める。
「この金がありゃ、すくなくともテメーが奴隷になる必要はねぇだろうが…………何が狙いだ?」
「ですので、ゲルト様の損害の賠償を………いえ、失礼いたしました」
いままでになく凄むゲルトに、レギーナはあらためて正面から向き合う。

「もう、濁すのはやめましょう。私が心から望むものは…………ゲルト様の全てです」

決定的な一言を、こともなにげにレギーナは言い放つ。
されど、彼女は一枚の宗教画に宿る、聖母の如き微笑でゲルトに微笑み掛けていた。




















低い空に真ん丸と陽がその姿を現し、淡かった壁を純白に染めていく。
壁を背にして悪魔と対面していた男には、既に眠気などどこにもなかった。

(わからん……こいつは、マジで)

覚めない悪夢の気分だった。
昨晩から繰り返される悪魔の微笑に、どうしてこうも心を掻き毟られるのか。

「なるべくお早めに結論を頂きたいのですが……そうですね」

先の笑顔が嘘のように消え、レギーナが再び抑揚のない声で話す。
「どうでしょう?この奴隷契約を『仮』で結ぶというのは?……期限は私めがゲルト様の元を離れても、周りの方々が不審がらないような時期を見計らうまで、ということでは?」
何の反応も示さないゲルトを置き去りにして、レギーナは話を進めていく。
(まずいな……くっそ)
すっかり向こうのペースだった。
 レギーナの言うとおり、今のゲルトには周りの視線が鬱陶しすぎた。あれだけの騒動の後である。何の前触れもなくレギーナだけが忽然と去ってしまっては、嫌でもあらぬ疑いがかけられるだろう。いや、疑いだけならまだましだ。最悪、人殺しの噂まで立ちかねず、自身の存在を快く思わない連中による魔女狩りならぬ、でっちあげによる弾劾という名の勇者狩りが行われかねない。
脅しにも取れる悪魔の提案に、ゲルトは重ねて様子を伺う。相変わらずレギーナは沈黙を守り、ゲルトの次の返答を待ち続けている。素知らぬ振りをしているのか、仏頂面すぎてゲルトには事の真偽を図りかねた。
「……いいだろう。契約してやる。しかも『仮』じゃなく、正式に、だ」
「本当ですか!?」
一転、別人のように笑みを浮かべるレギーナに、指を一本立ててゲルトは釘をさす。
「ひとつ、条件がある」
「……条件、ですか?」
「そう心配すんな……単純なこった。俺のほうからでも契約を破棄できるようにしろ。いつでもどこでも、テメーが何かやらかしても、だ」
いずれにしろ、契約自体を蹴ろうにも、一度は目の前の悪魔を奴隷にして教団相手に小芝居を打つ必要がありそうだった。ならばと、保険もかねた有利な条件をゲルトは申し付けたのだ。
「つまるところ、『主人側からの契約の破棄』ですね。…………ん〜〜〜」
「………最低でも、テメーがいなくなっても円満のハッピーエンドになるまでは傍に置いといてやる。その間に、ただの穀潰しじゃねぇーのを俺に示せばいいだろが。……違うか?」
何やら渋るレギーナに、ゲルトが付け足す。
提案を受けると、不安そうにしていたレギーナが意を決したのか、深く頷いてから向き直った。
「……承知しました。その条件で構いません。どうぞ、よろしくお願い致します」
姿勢を正し、深々とゲルトに頭を下げる。
再びおもてを上げたレギーナの表情は、やはり、もの柔らかな笑顔だった。
瞬間、ゲルトは自身の判断に一抹の不安を覚える。とはいえ、契約自体に何の不備も思い当たらず、むしろこの上なくこちらに有利な条件のはずだ。ならば臆する必要はないと、気を強く取り直してゲルトは対峙する。
「決まりだな。……で、後はここの『契約者(主人)』ってところにサインすりゃいいんだな?」
「ええ。くれぐれも、お書き間違えのないようにしてくださいね?」
「だな。でねぇーと、俺がテメーの奴隷になっちまう」
「そうですね。それならそれで……いえ、失言でした。申し訳ありません」
ガン飛ばすゲルトに、レギーナが訂正して俯く。ゲルトはふと、悪魔が舌を出している絵画が思い浮かぶ。
(まぁ、いい……せいぜい、こき使ってやる)
ゲルトは契約書を机に叩きつけたうえ、引き出しからペンとインクを乱暴に取り出すと、洋紙をぶち破らんとばかりの勢いで自身の名前を殴り掻きする。腹をくくったゲルトはペンを机に放ると、腕を組んでベッドの奥深くに腰掛けた。
にじり寄るようにレギーナがベッドから立つと、机の上に置かれた契約書を確認しはじめる。ひとしきり契約書を小声で読み直すと、ふいにポンと手を叩く。
「申し訳ありません。ゲルト様。ひとつ失念しておりました。先ほど、ゲルト様のおっしゃっていた条件を付け足したいのですが……文面は私めに任せていただけるのですか?」
「……そうだったな。文字はお前が起こせ。もちろん、後で俺に見せろよ?」
「仰せのようにいたします。では……」
袖口から出したレギーナの青色の指先が淡く光り始める。ゆっくりと契約書をなぞると、契約書に新たな文面が浮き上がってきた。



一、 本契約の期間中、 主人 は本契約の期限に関わらず、契約を破棄することができる。ただし、契約を破棄するにあたって、 主人 の身辺が危ぶまれる場合、本契約の破棄は一時保留される。



新たに追加された一文を、ゲルトは食い入るように見つめた。その他、他の内容にも変化がないことも合わせて、入念にチェックする。
「こちらの内容で不服はございませんか?ゲルト様」
待ちきれない、といった様子のレギーナに催促される。悪魔の輝くような視線に、ついつい天の邪鬼を起こしたくなるゲルトであったが、内容に申し分がない以上、話を拗らせても意味はない。
「よぉぅし……いいぞ、名前を書いても。急げよ?俺の気が変わらないうちにな」
「はい。それでは……」
転がっていたペンを手に取ると、レギーナはこの上なく早く、それでいて丁寧に自身の名前を書き込んでいく。

「これにて、契約完了、です…………んっ!!」

言い終わった直後、レギーナの全身から光が溢れだす。溢れでた光が渦を巻いてレギーナの周りを旋回するにつれ、手足の先から毒々しい青さが消え去り、人間のものへと変わっていく。やがて、頭上へと集まった光りは契約書へと吸い込まれ、収束した。
「……お見苦しいところを、見せてしまいましたね。大変申し訳ありません」
人肌となった頬を紅く上気させ、弁明する。縋るようなレギーナの目線に、思わずゲルトの心が止まる。だが、すぐさま己を切り替えると、改めてレギーナの状態を確認する。
(……どうやら契約自体に、間違いはねぇようだな)
先とうってかわり、わずかばかりの魔力しか感じないレギーナを見て、ゲルトは人知れずに胸を撫で下ろす。最後の最後、何か裏があるのではないかと勘ぐっていたが、杞憂に終わったらしい。
「こちらが正式な契約書となります。くれぐれも無くさないでくださいね?」
契約書をゆるゆると丸めて紐で括ると、レギーナは両手で受けてゲルトに差し出す。それをなにげなしで、ゲルトは掴む。刹那、触れた端から感じた契約書に宿る底知れぬ魔力に、契約の履行が確かなことをゲルトは実感した。

「……となりゃ、話は早ぇ。さっそく、俺の命令を聞いてもらおうか」

不意に沸き立つ自身の嗜虐心に、笑いを堪え切れなくなったゲルトは少しも隠そうともせず、奴隷の前で不敵に笑いだす。突如として笑い出す主人に、レギーナは一瞬だけ眉をひそめるが、すぐさま思い直し、ゲルトに問いかける。
「かしこまりました。一体、いかなるご用件でしょうか?」
「そうだな……………まず」
固唾をのんで見守るレギーナに、ゲルトは無情にも言い放つ。
「床に散らばった金貨を拾ってもらおうか。それと、全部で何枚あるのか教えろ。正確にだ」
呆気にとられるレギーナ。よほどの覚悟を決めていたのか、なかなか次の反応を示さない。
「どうした?俺の命令が聞けないのか?」
「あ、いえ。失礼しました。…………金貨を拾いまして、数えればよろしいのですね?」
「そうだ。わかったなら、とっととはじめろ」
「……その前に、ひとつよろしいですか?」
「なんだ?言ってみろ」
「ゲルト様の最初のご命令が、今の……命令ですか?」
「そうだ。金は大事だろう?」
かくして、悪魔を従えた男の、新しい一日が始まる。
18/10/12 21:56更新 / 眠猫
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■作者メッセージ
お久しぶりです。ひっそりと生きておりました。
起承転結の全4話を予定しております。(未定ですが……)

次回は11月2日になります。(書き溜め分でございます……)

次回投稿時には、序説に契約書を全文記載いたします。
それでは、どうぞ気長にお付き合いくださいませ。

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