紅い眼の魔物
馬車とはなんと便利な乗り物なのだろうか。
自分の意思で足を前に進めなくても、金さえ払えば自動的に目的地へ向かってくれるのだから。だから耐えるだけでいい、ただ耐えるだけで…。
ラクランは延々と不毛なことを考えていた。なぜか体感の時間は実際よりもやたら長く感じられ、長旅の疲れを一層重たくした。
これから故郷へ帰るというのに、まるで処刑を待っているかのような気分だった。歯の奥ががちがち震える、一体俺は何をそんなに怖がっているんだろう。
忘れなきゃ、そうだあれは、あの少女との生活はただの夢だったんだ、冒険疲れが起した白昼夢だったんだ。
そう思いでもしないとまた俺は弱くなってしまう、祖国と、くだらない感情を天秤にかけなくてはならなくなる。理性ではどちらが重いかわかっているはずなのに、その天秤はなぜか右へ左へグラグラと揺れるばかりでいつまでも納得いく結論を与えてくれない。
そんなことばかり考えていたせいか、ラクランはその異変に気づくのにだいぶ遅れてしまった。
動かない。小窓から見える外の景色が動いていない。
「………馬車……止まってる………」
馬車のドアを開き、ずっと体勢を固定されていたせいでぎしぎし軋む身体をなんとか外へ押し出し地に足をつける。
「おい!おい、どうした!」
ラクランの問いかけも虚しく、御者の返事はない。不自然な静けさに嫌な予感がして、回り込んで御者台を確認する。
「いない………!」
御者が忽然と姿を消していた。ラクランが乗る馬車は、中からは御者が見えないデザインだ。一体いつの間にいなくなったというのか。きちんと信頼できる御者を選んだつもりだ、逃げ出すなんてことあり得るのか?いや、こういうときは…!
「魔物…!」
ラクランも一時は冒険に身を投じていたからこういう時の対応は心得ている。まずは周囲の状況を確認し、その次は…
「空!」
咄嗟に身を伏せると、黒い大きな影が頭上を通り過ぎラクランの衣服の一部をちぎり去っていった。
「あははは!勘がいいねぇ!素敵ィ!」
ひゅう、と滑空した後にばさばさと羽ばたいて高度を調節し、その影は正体を現す。
凛とした顔の、ショートカットの黒髪の美しい女だ、女が、空を舞いながら猛禽を思わせる獰猛な笑みを浮かべ笑っている。
露出度の高い黒い衣装を纏うすらりとした肢体に不釣合いなほど大きな黒い翼ばさばさとはためかせ、脚にある黒光りする鉤爪は獲物を狙ってがばりと開いている、攻撃を緩める気配はない。
「まずい!」
さっきの滑空は目に見えないほどの速さだった、逃走はきっと無意味だ。ラクランは素早く馬車の中に滑り込み扉にロックをかける。
「はぁ…はぁ…ここはもう教国領のはずなのに…なんで魔物が…!」
ラクランはここで旅を終えるわけにはいかない、雑嚢から護身用のナイフを取り出し身構える。
「アハハハハハ!逃げたって無駄だって!」
ぐら、と馬車が傾く、すると漆黒の翼が日光を遮り、馬車の中が真っ暗になった。あの黒翼の魔物が馬車に取り付いたのだ。
ほどなくして、めきめきと嫌な音を立てて大きな鉤爪が馬車からあっけなく扉を剥がし取っていく。
「っは!」
間髪入れずにラクランは黒翼の魔物目掛けてナイフを突き込んだ、だがリーチの長い黒脚で足蹴にされてしまい、有効なダメージを与えられそうにない。
「結構勇敢なんだ…♪…ね、アンタ私の旦那にならない?」
見目麗しい容姿と甘言で惑わすのは狡猾な魔物共の常套手段だ。
「ふざけんな、失せろ!!」
言いながらラクランはナイフを渾身の力で振り抜き脚を袈裟斬りにしようとした、しかしいとも簡単にかわされ、鉤爪で右腕を取られてしまう。
「はい捕まえた♪」
「ちっ…!」
その巨大な鉤爪は大の男の腕だろうが容易く掴み取り、一度食い込んだら決して離さない。
恐ろしいほどの膂力に耐えられず、ラクランはずるずると外に引きずり出されていく。
ラクランは全身全霊で歪んだ馬車の柱を左手で掴んだ。指先が真っ白になるほど柱を強く握りしめる、しかし魔物に神の祝福を受けていない只人が力比べで勝てるはずがない。
「セリア!!!」
空へと攫われていく刹那、ラクランは人形の少女の名を呼んだ。
(俺は志半ばで魔物に食われてしまうのか、さんざん偉そうなこと言っておいて…情けない主で済まなかったな…)
・
・
・
黒翼の魔物は上機嫌で空を舞っていた。やはり略奪というのは気分がいい。お堅い軍の仕事でもこういうのは性にあってる、その場ですぐに旦那にしちゃいけないのが玉に瑕だが。
次の獲物を探して俯瞰する視界の中に、黒翼の魔物はさっき襲った馬車を見つけた。
そうだ、あの男、確か最後に誰かの名前を呼んでいなかっただろうか。まだ人間が残っているかもしれない。
黒翼の魔物はニヤリと狡猾な笑みを浮かべると、ごう、と急降下して着地し馬車の中を覗き込んだ。
(…誰もいない…でもなんか、私達みたいな匂いが…)
「うわっぷ!」
瞬間、紫色の閃光が黒翼の魔物の胴体目掛けて飛んできた。反射的に黒翼の魔物は翼で受け止める。
「へ…なんで…なんで教国行きの馬車の中に魔物がいるのさ…!?」
馬車の四角には真っ白い肌の、ごてごてした装甲のついた人形の魔物が冷たい青い目で黒翼の魔物を睨んでいた。
「教えて…セリアのマスターはどこ?」
人形の少女はふわりと宙に浮かび上がると、決意を秘めた青い双眸で黒翼の魔物を射抜いた、一方黒翼の魔物はまるで意に介さない。
「っは!こちとらあの御方に教国にはネズミ一匹通すなって言われてるんでねぇ…同じ魔物だからって容赦しない…!」
黒翼の魔物は獰猛な笑みを浮かべて翼を広げようとした。が、いくら力を入れても翼がびりびりと痺れて動かない、広げることができない。
「な…なに……なにこれ…!?」
人形の少女が腕を振ると、がしゃ、と白い腕から金属の砲身が展開され、虚空から紫の弾丸の連なりがずらりと現れた。人形の少女は、その銃口をゆっくり黒翼の魔物の首筋に突きつけた。
黒翼の魔物はぶんぶん身体を捻って無理やり翼を広げようと試みたが無駄だった、そして翼を失った今、激昂した人形の少女から逃げることはできそうもない。
「質問に答えてください…セリアの、マスターは、どこ?」
「悪かった!悪かったよ、お手付きだなんて知らなかったんだ!」
・
・
・
教国行きの街道から道を逸れ、ぼうぼうと草が生い茂る道なき道を歩く影。
ラクランが遭遇したのは運悪く魔王軍だったようで、黒翼の魔物に捕まった後に捕虜にされ、身体の所々が緑の鱗に覆われた蜥蜴の魔物に連行されていた。
茶髪のポニーテールと引き締まった健康的な肢体、ラクランを連行する兵士も含め魔物というのは皆決まって容姿端麗だ。
ラクランの両手首は魔王軍謹製の荒縄でぎっちり縛られており、自由が効かない。
蜥蜴の魔物は腰に柄の長い長剣を佩いており付け入る隙がない、相当な手練の雰囲気を漂わせている。
「逃げようとしても無駄だ」
蜥蜴の魔物がつり目の三白眼を光らせる。
「さっきからそこかしこに目を配らせてるようだが、私がみすみす人間を逃がすほど弱そうに見えるなんて心外だな」
「…ちっ」
「悪いようにはしないさ、お前のような捕虜は駐屯地に連れ帰ったら兵に均等に配分される規定になっている…ふふ、今晩を楽しみにしているがいい」
余裕を見せる蜥蜴の魔物に、分配されるなど趣味が悪い、とラクランは思った。祖国を救うなどと息巻いていた自分さえも、結局人食いの魔物のつまみにされるのか。
「……待て!」
蜥蜴の魔物がラクランを制止した。後ろから追いついてくる、スカート状の装甲を身に着けた見慣れぬ白い魔物を見つけたのだ。
「セリア!」
ラクランは目を見開いた、あれは一度決別したはずの、人形の少女ではないか。
距離を詰めてくる人形の少女に対し、蜥蜴の魔物は手を前に突き出し「止まれ!」と一喝する。
「…どこの魔物だ?所属は?」
「…まずはマスターを放してください!」
「…マスターとは、この男のことを言っているのか?」
「そうです!」
「……我が軍の魔物ではない、というわけか」
「セリア…!」
「…つがいだったかやりにくい……このあたりをうろちょろされると我々は困るんだよ」
ラクランからの呼びかけに蜥蜴の魔物は合点がいった様子だ。
「どうやらわけありなようだが…この男の行き先が教国である限り、お前の願いは聞き届けられん、白いやつ」
蜥蜴の魔物は鞘から刀身が赤紫色に光る長剣を抜くと、鋭い三白眼でギロ、と睨みを効かせる。
「…貴方がマスターを邪魔するなら、セリアには実力行使しかありません!」
「気持ちはわかるが無謀だな…野生の魔物ごときが、我々魔王軍を相手取ろうとは…!」
セリアが右腕を水平に掲げると、ジャコ、と腕から金属の砲身が展開し、そこから紫の弾丸が放たれた。
それを蜥蜴の魔物は驚くべき反射神経で弾道を読み、赤紫色の刀身で軌道を逸らした。
「珍しい武器だな、面白い…!」
蜥蜴の魔物はペロリと舌なめずりした。強い敵、未知なる敵との交戦は、戦闘種族である彼女の心を昂ぶらせる。
蜥蜴の魔物は身を低くすると、爬虫類の脚で勢い良く地を蹴った。
倒れそうなほどの前傾姿勢で用いる突進技は蜥蜴戦士の種族の伝家の宝刀だ。
柔らかな関節と地に踏ん張りのきく鉤爪があるからこそなせる技で、中長距離の攻撃手段を持つ敵にも決して的を絞らせない。
セリアは連射し紫の弾幕を展開したが、ジグザグに移動することで回避される。
まんまと長剣の間合いに入り込んだ蜥蜴の魔物は人形の少女を横薙ぎに一閃しようとした。
ギィンッ
「硬い!」
ガギギ、と鈍い金属音が鳴り響く、セリアの腕に嵌っていた歯車が長剣を受け止めていた。
「くっ…魔界銀でも斬れないとは…!」
蜥蜴の魔物は身を起こすと、そのままぎし、と剣に体重を乗せて鍔迫り合いに持ち込んだ。いくら装甲が硬くても、細身の人形の魔物相手なら、戦士の種族の蜥蜴の魔物の方が力押しでは有利だ。
人形の少女は押し負けてずるずると後ろへ下がっていく。だが。
「マスターをお守りするために、セリアは負けるわけにいきません!」
「なに!」
ギュルルルル
セリアの腕の歯車が凄まじいトルクで回転を始める、歯車の溝に刀身が巻き込まれ、蜥蜴の魔物はぐりん、と手首を想定外の方向にひねられることになった。
蜥蜴の魔物は人形の少女を前に無様に仰向けに転がってしまう、すばやく低姿勢を作って逃げようとするが間に合わない、蜥蜴は前向きにしか走れない。
「ぐあっ!」
人形の少女が放った紫の連弾が蜥蜴の魔物の脚を射抜いた。対象の無力化に突出した先代文明の魔法武装により、今後数時間蜥蜴の魔物は満足に立ち上がることすらできないだろう。
「マスター!」
人形の少女は蜥蜴の魔物が動けなくなったことを確認すると、大切な主のもとへと寄った。
だが人形の少女は主との再会を喜ぶあまり、蜥蜴の魔物が目を盗んで懐から紅い瞳を模した魔道具を取り出していたことに気が付かない。
(あの御方に…あの御方にお伝えしなくては…!)
紅い瞳の魔道具をぶちゅ、と握りつぶすと、地にぼたぼたと血のようなどす黒い液体が垂れた、そこから煙幕状にどろりと赤黒い闇が立ち込めていく。
「マスター、お怪我は?」
「あ、ああ…お前こそ、大丈夫か…?」
「へっちゃらです!」
人形の少女は両手で拳を握って無事をアピールする。セリアの右手から露出している砲身を見て、ラクランはセリアの新機能と、事の顛末を理解した。
「…どうしてここに?」
「マスターがセリアを呼びました…あの、セリアはマスターのお役に立てましたか…?」
「ああ、こうして命まで救われてしまうなんてな…」
「出会った時、マスターはこうしてセリアを救ってくださいました」
「ああ、そんなこともあったな」
本当にこの少女は主のためだったらなんだってこなしてしまう。従者に助けられてばかりであることが主であるラクランには歯痒くて仕方がない。
もしこの従者が居なければ、ラクランの旅は終着点を目前に終わっていたに違いない。しかし、ラクランが使命を全うするには、まだこの少女を祖国のための犠牲にする、最後のステップが残っているのだ。
皮肉にもセリアの活躍でラクランの仮説は確信へと変わる、この技術があれば勇者に頼らずとも魔王軍に対抗できる、この力で祖国は変えられる、決してラクランの私情のために独占していい代物ではない。
「役に立った…立ったから、もう、いいんだ…」
ラクランは人形の少女の顔を見ることが出来ない、この娘が今笑顔だったとしても泣き顔だったとしても、今は見るのさえ辛い。
「……行こう」
「はい、マスター」
ラクランは人形少女の手を引き、祖国へ向けて歩きだそうとした。そして、異常事態がまだ終わっていないことに気づいた。
暗い。とにかく暗い。
日は高かったはずなのに、いつの間にか夜闇のような暗さが周囲を覆っている。平原がもう数歩先すら満足に見通せない。
すると、闇の中からめりり、と生々しい音を立てて紅い亀裂が横一線にばっくり開いた。その亀裂がみるみるうちに大きくなる。
(眼……!?)
眼だ、両手を広げたよりも大きい、血のように紅い眼がぎょろりとラクランとセリアを見ている。タチの悪い悪夢のような光景だった。
「今、あの娘達にとってすごォくイイところだから、外から教国に人が入ってきたりしたら困るの…」
紅い眼から声がする。女の声だ、矮小な存在を嘲笑うかのような、邪悪で、狡猾で、それでいて高貴な気品に満ちた女の声。
ラクランの心臓がばくばくと高鳴る。これは魔物なのか?魔物の形すらしていない、今まで出会った魔物と比較にならないほどの威圧感だ、まるで勝てる気がしない、勇者達はこんなとんでもないモノと戦っていたのか――?
しかし、今すぐ逃げ出すべき状況なのに、なぜかラクランは警戒心を抱くことができなかった。憎むべき相手のはずが、その存在に敬意すら感じてしまう、きっとこの魔物の魔力の影響だ。
「俺は祖国に帰ろうとしていただけだ…!」
ラクランは答えた。これはもう抵抗するかどうかの問題ではない、いかにこの紅い「眼」に見逃してもらうか、それを考えなくてはならない。
「ワタシ達の存在を知ったからには、帰ってもらっては困るわぁ…?」
「魔物の都合なんざ知らない…!」
「ふぅーん…」
紅い眼は興味なさげにぎょろりと人形の少女の方に視線を移す。
「じゃあ、そこの可愛らしい女の子はどうかしら?その娘はアナタにとって、な・あ・に?」
「お前には関係ない、ただの機械人形だ」
「…素直じゃないのね、アナタも……きっとこの国の病に侵されているんだわ……ウフフフフフフ…♪」
紅い眼は目を細め、身がすくむような甲高い笑い声を響かせた。
「この娘はアナタなんかにはもったいないわぁ……アナタを殺して、ワタシのオモチャにしちゃおうかしら?」
すると暗黒からぞっとするほど美しい白い両手が這い出して人形の少女の身体を捕まえた。
「セリア!」
「あら、そこを動いちゃダメよぉ?」
紅い眼が言うと、ラクランの身体が、いやそれ以前に精神がその言葉に屈して動かなくなってしまった。訳がわからないがこの紅い眼の言葉には逆らうことができない、崇拝に近い感情に心が支配されてしまう。
「ねぇ…アナタも変わっちゃいたいと思わない?ずっとずっと、ステキで淫らな存在に…♪」
白い指先はそっと人形の少女の額に嵌った青い宝玉に触れると、鋭く尖った深紅の爪の先で宝玉の表面をつー、と官能的に撫でた。
「ああああああああああ!!!」
人形の少女は断末魔のような絶叫を上げた。すると人形の少女の海のように青かった宝玉と瞳が、宙に浮かぶ不気味な眼と同じ血のような紅色に染まっていく。
「セリア!!」
ラクランの頭をまるで走馬灯のように思考が駆け巡る。
ああ、どうしてこんな。俺は魔物に全て奪われてしまうのか、祖国も、命も、自分だけを慕う従者さえも。なのに情けないことに自分はこの魔物に屈服し、手をこまねくことしかできない。
セリアはこの紅い眼の魔物に殺戮の道具として利用されてしまうのだろうか。そしたら、この虫も殺せないほど優しい少女の涙は誰が拭うのだろう。この少女の痛みを誰が分かつことができるのだろう。
せっかくセリアが救ってくれた命なのに。ああ。どうせ殺されるんだったら。もう最初から。
セリアのためだけに生きれば良かった―――――――。
ラクランは猛烈に後悔した。ああ、そうだ、俺の痛みがセリアの痛みだというなら、セリアにとっての痛みは俺の痛みだ。
そいつは俺だけの従者だ、魔物のオモチャじゃない、誰の許しを得て馴れ馴れしく俺のセリアに触っているんだ、ふざけるのも大概にしろ。
ラクランの中に抑え込まれていた独占欲が爆発した。
がりっ
ラクランは舌を強く噛んだ、口の中に鉄のような苦味が広がる、痛い、痛い、痛いけどセリアの痛みはこんなものじゃない。
なぜかこれで多少は身体が動くようになった気がする、それでも痛みが足りない、あの眼に敵意を抱き続けるには。
ラクランは震える手で腰から護身用のナイフを抜くと、それを左腕に勢い良く突き立てた。
「があああああ!!」
だくだくと流れる鮮血とともにジンジンと燃えるような痛みがラクランの身体を駆け巡った。これでようやく身体が動かせる、セリアを助けられる。
本能が訴えかける危険信号は、紅い眼が強制的に与える「崇拝」の感情を淘汰した。
ラクランはざり、ざり、と人形の少女に距離を詰める。
「セリアを、放せェェエエエエエ!!!」
ラクランは歯を剥き出しにして声だけで殺せそうな勢いで咆哮した。目は充血して赤くなり、悪鬼羅刹の形相と化したラクランはもはや現在の魔物の姿よりずっと「魔」のものらしい。
「刺し違えてもいい、必ず一矢報いてやる、その白い指を食いちぎってやる!!二度と安心して寝られると思うな、俺を殺しても俺のセリアを泣かせたらすぐさま呪い殺してやる、セリアの前から消えろ!!」
「…………♪」
すると、ラクランが悪魔の白い指に今掴みかかろうかどうかといったところで草原を覆っていた暗黒が晴れ、宙に浮かぶ紅い眼と白い指がふっと消えた。同時に、赤く染まったセリアの宝玉と瞳も、元の綺麗な青色に戻った。
「セリア…!」
紅い眼の支配から介抱されたラクランはセリアに駆け寄る。
「マスター…?」
「無事か、セリア…!」
「マスターこそ、血が…!」
「……痛ッ!?」
「マスター!?」
ラクランが人形の少女の介抱に必死になる内に、こっそり近づいた白い指がぴしっとラクランの額をでこぴんした。
「アナタ達はすぐそうやって自分を傷つけようとするんだから、お馬鹿さん」
「なんだと…!?」
「お行きなさい、どこへなりとも…きっとアナタ達ならワタシ達のジャマにはならないでしょう」
そう言い残すと、手首がふっと宙に消え、紅い眼の魔物の気配は鳴りを潜めた。
「……セリア、俺について来てくれるか?」
「もちろんです、マスター!」
・
・
・
人形の少女とその主が立ち去った後も、紫の閃光に射抜かれた蜥蜴の魔物はその場を動くことができず地面にのされたままだ。
そこに物陰に隠れて成り行きを見守っていた、まだ痺れて翼を開けない黒翼の魔物が姿を現した。
無事合流を果たした手負いの2匹は遠い目をして呟く。
「こういうときのあの御方って……」
「本当に役者、だよねぇ……」
自分の意思で足を前に進めなくても、金さえ払えば自動的に目的地へ向かってくれるのだから。だから耐えるだけでいい、ただ耐えるだけで…。
ラクランは延々と不毛なことを考えていた。なぜか体感の時間は実際よりもやたら長く感じられ、長旅の疲れを一層重たくした。
これから故郷へ帰るというのに、まるで処刑を待っているかのような気分だった。歯の奥ががちがち震える、一体俺は何をそんなに怖がっているんだろう。
忘れなきゃ、そうだあれは、あの少女との生活はただの夢だったんだ、冒険疲れが起した白昼夢だったんだ。
そう思いでもしないとまた俺は弱くなってしまう、祖国と、くだらない感情を天秤にかけなくてはならなくなる。理性ではどちらが重いかわかっているはずなのに、その天秤はなぜか右へ左へグラグラと揺れるばかりでいつまでも納得いく結論を与えてくれない。
そんなことばかり考えていたせいか、ラクランはその異変に気づくのにだいぶ遅れてしまった。
動かない。小窓から見える外の景色が動いていない。
「………馬車……止まってる………」
馬車のドアを開き、ずっと体勢を固定されていたせいでぎしぎし軋む身体をなんとか外へ押し出し地に足をつける。
「おい!おい、どうした!」
ラクランの問いかけも虚しく、御者の返事はない。不自然な静けさに嫌な予感がして、回り込んで御者台を確認する。
「いない………!」
御者が忽然と姿を消していた。ラクランが乗る馬車は、中からは御者が見えないデザインだ。一体いつの間にいなくなったというのか。きちんと信頼できる御者を選んだつもりだ、逃げ出すなんてことあり得るのか?いや、こういうときは…!
「魔物…!」
ラクランも一時は冒険に身を投じていたからこういう時の対応は心得ている。まずは周囲の状況を確認し、その次は…
「空!」
咄嗟に身を伏せると、黒い大きな影が頭上を通り過ぎラクランの衣服の一部をちぎり去っていった。
「あははは!勘がいいねぇ!素敵ィ!」
ひゅう、と滑空した後にばさばさと羽ばたいて高度を調節し、その影は正体を現す。
凛とした顔の、ショートカットの黒髪の美しい女だ、女が、空を舞いながら猛禽を思わせる獰猛な笑みを浮かべ笑っている。
露出度の高い黒い衣装を纏うすらりとした肢体に不釣合いなほど大きな黒い翼ばさばさとはためかせ、脚にある黒光りする鉤爪は獲物を狙ってがばりと開いている、攻撃を緩める気配はない。
「まずい!」
さっきの滑空は目に見えないほどの速さだった、逃走はきっと無意味だ。ラクランは素早く馬車の中に滑り込み扉にロックをかける。
「はぁ…はぁ…ここはもう教国領のはずなのに…なんで魔物が…!」
ラクランはここで旅を終えるわけにはいかない、雑嚢から護身用のナイフを取り出し身構える。
「アハハハハハ!逃げたって無駄だって!」
ぐら、と馬車が傾く、すると漆黒の翼が日光を遮り、馬車の中が真っ暗になった。あの黒翼の魔物が馬車に取り付いたのだ。
ほどなくして、めきめきと嫌な音を立てて大きな鉤爪が馬車からあっけなく扉を剥がし取っていく。
「っは!」
間髪入れずにラクランは黒翼の魔物目掛けてナイフを突き込んだ、だがリーチの長い黒脚で足蹴にされてしまい、有効なダメージを与えられそうにない。
「結構勇敢なんだ…♪…ね、アンタ私の旦那にならない?」
見目麗しい容姿と甘言で惑わすのは狡猾な魔物共の常套手段だ。
「ふざけんな、失せろ!!」
言いながらラクランはナイフを渾身の力で振り抜き脚を袈裟斬りにしようとした、しかしいとも簡単にかわされ、鉤爪で右腕を取られてしまう。
「はい捕まえた♪」
「ちっ…!」
その巨大な鉤爪は大の男の腕だろうが容易く掴み取り、一度食い込んだら決して離さない。
恐ろしいほどの膂力に耐えられず、ラクランはずるずると外に引きずり出されていく。
ラクランは全身全霊で歪んだ馬車の柱を左手で掴んだ。指先が真っ白になるほど柱を強く握りしめる、しかし魔物に神の祝福を受けていない只人が力比べで勝てるはずがない。
「セリア!!!」
空へと攫われていく刹那、ラクランは人形の少女の名を呼んだ。
(俺は志半ばで魔物に食われてしまうのか、さんざん偉そうなこと言っておいて…情けない主で済まなかったな…)
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黒翼の魔物は上機嫌で空を舞っていた。やはり略奪というのは気分がいい。お堅い軍の仕事でもこういうのは性にあってる、その場ですぐに旦那にしちゃいけないのが玉に瑕だが。
次の獲物を探して俯瞰する視界の中に、黒翼の魔物はさっき襲った馬車を見つけた。
そうだ、あの男、確か最後に誰かの名前を呼んでいなかっただろうか。まだ人間が残っているかもしれない。
黒翼の魔物はニヤリと狡猾な笑みを浮かべると、ごう、と急降下して着地し馬車の中を覗き込んだ。
(…誰もいない…でもなんか、私達みたいな匂いが…)
「うわっぷ!」
瞬間、紫色の閃光が黒翼の魔物の胴体目掛けて飛んできた。反射的に黒翼の魔物は翼で受け止める。
「へ…なんで…なんで教国行きの馬車の中に魔物がいるのさ…!?」
馬車の四角には真っ白い肌の、ごてごてした装甲のついた人形の魔物が冷たい青い目で黒翼の魔物を睨んでいた。
「教えて…セリアのマスターはどこ?」
人形の少女はふわりと宙に浮かび上がると、決意を秘めた青い双眸で黒翼の魔物を射抜いた、一方黒翼の魔物はまるで意に介さない。
「っは!こちとらあの御方に教国にはネズミ一匹通すなって言われてるんでねぇ…同じ魔物だからって容赦しない…!」
黒翼の魔物は獰猛な笑みを浮かべて翼を広げようとした。が、いくら力を入れても翼がびりびりと痺れて動かない、広げることができない。
「な…なに……なにこれ…!?」
人形の少女が腕を振ると、がしゃ、と白い腕から金属の砲身が展開され、虚空から紫の弾丸の連なりがずらりと現れた。人形の少女は、その銃口をゆっくり黒翼の魔物の首筋に突きつけた。
黒翼の魔物はぶんぶん身体を捻って無理やり翼を広げようと試みたが無駄だった、そして翼を失った今、激昂した人形の少女から逃げることはできそうもない。
「質問に答えてください…セリアの、マスターは、どこ?」
「悪かった!悪かったよ、お手付きだなんて知らなかったんだ!」
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教国行きの街道から道を逸れ、ぼうぼうと草が生い茂る道なき道を歩く影。
ラクランが遭遇したのは運悪く魔王軍だったようで、黒翼の魔物に捕まった後に捕虜にされ、身体の所々が緑の鱗に覆われた蜥蜴の魔物に連行されていた。
茶髪のポニーテールと引き締まった健康的な肢体、ラクランを連行する兵士も含め魔物というのは皆決まって容姿端麗だ。
ラクランの両手首は魔王軍謹製の荒縄でぎっちり縛られており、自由が効かない。
蜥蜴の魔物は腰に柄の長い長剣を佩いており付け入る隙がない、相当な手練の雰囲気を漂わせている。
「逃げようとしても無駄だ」
蜥蜴の魔物がつり目の三白眼を光らせる。
「さっきからそこかしこに目を配らせてるようだが、私がみすみす人間を逃がすほど弱そうに見えるなんて心外だな」
「…ちっ」
「悪いようにはしないさ、お前のような捕虜は駐屯地に連れ帰ったら兵に均等に配分される規定になっている…ふふ、今晩を楽しみにしているがいい」
余裕を見せる蜥蜴の魔物に、分配されるなど趣味が悪い、とラクランは思った。祖国を救うなどと息巻いていた自分さえも、結局人食いの魔物のつまみにされるのか。
「……待て!」
蜥蜴の魔物がラクランを制止した。後ろから追いついてくる、スカート状の装甲を身に着けた見慣れぬ白い魔物を見つけたのだ。
「セリア!」
ラクランは目を見開いた、あれは一度決別したはずの、人形の少女ではないか。
距離を詰めてくる人形の少女に対し、蜥蜴の魔物は手を前に突き出し「止まれ!」と一喝する。
「…どこの魔物だ?所属は?」
「…まずはマスターを放してください!」
「…マスターとは、この男のことを言っているのか?」
「そうです!」
「……我が軍の魔物ではない、というわけか」
「セリア…!」
「…つがいだったかやりにくい……このあたりをうろちょろされると我々は困るんだよ」
ラクランからの呼びかけに蜥蜴の魔物は合点がいった様子だ。
「どうやらわけありなようだが…この男の行き先が教国である限り、お前の願いは聞き届けられん、白いやつ」
蜥蜴の魔物は鞘から刀身が赤紫色に光る長剣を抜くと、鋭い三白眼でギロ、と睨みを効かせる。
「…貴方がマスターを邪魔するなら、セリアには実力行使しかありません!」
「気持ちはわかるが無謀だな…野生の魔物ごときが、我々魔王軍を相手取ろうとは…!」
セリアが右腕を水平に掲げると、ジャコ、と腕から金属の砲身が展開し、そこから紫の弾丸が放たれた。
それを蜥蜴の魔物は驚くべき反射神経で弾道を読み、赤紫色の刀身で軌道を逸らした。
「珍しい武器だな、面白い…!」
蜥蜴の魔物はペロリと舌なめずりした。強い敵、未知なる敵との交戦は、戦闘種族である彼女の心を昂ぶらせる。
蜥蜴の魔物は身を低くすると、爬虫類の脚で勢い良く地を蹴った。
倒れそうなほどの前傾姿勢で用いる突進技は蜥蜴戦士の種族の伝家の宝刀だ。
柔らかな関節と地に踏ん張りのきく鉤爪があるからこそなせる技で、中長距離の攻撃手段を持つ敵にも決して的を絞らせない。
セリアは連射し紫の弾幕を展開したが、ジグザグに移動することで回避される。
まんまと長剣の間合いに入り込んだ蜥蜴の魔物は人形の少女を横薙ぎに一閃しようとした。
ギィンッ
「硬い!」
ガギギ、と鈍い金属音が鳴り響く、セリアの腕に嵌っていた歯車が長剣を受け止めていた。
「くっ…魔界銀でも斬れないとは…!」
蜥蜴の魔物は身を起こすと、そのままぎし、と剣に体重を乗せて鍔迫り合いに持ち込んだ。いくら装甲が硬くても、細身の人形の魔物相手なら、戦士の種族の蜥蜴の魔物の方が力押しでは有利だ。
人形の少女は押し負けてずるずると後ろへ下がっていく。だが。
「マスターをお守りするために、セリアは負けるわけにいきません!」
「なに!」
ギュルルルル
セリアの腕の歯車が凄まじいトルクで回転を始める、歯車の溝に刀身が巻き込まれ、蜥蜴の魔物はぐりん、と手首を想定外の方向にひねられることになった。
蜥蜴の魔物は人形の少女を前に無様に仰向けに転がってしまう、すばやく低姿勢を作って逃げようとするが間に合わない、蜥蜴は前向きにしか走れない。
「ぐあっ!」
人形の少女が放った紫の連弾が蜥蜴の魔物の脚を射抜いた。対象の無力化に突出した先代文明の魔法武装により、今後数時間蜥蜴の魔物は満足に立ち上がることすらできないだろう。
「マスター!」
人形の少女は蜥蜴の魔物が動けなくなったことを確認すると、大切な主のもとへと寄った。
だが人形の少女は主との再会を喜ぶあまり、蜥蜴の魔物が目を盗んで懐から紅い瞳を模した魔道具を取り出していたことに気が付かない。
(あの御方に…あの御方にお伝えしなくては…!)
紅い瞳の魔道具をぶちゅ、と握りつぶすと、地にぼたぼたと血のようなどす黒い液体が垂れた、そこから煙幕状にどろりと赤黒い闇が立ち込めていく。
「マスター、お怪我は?」
「あ、ああ…お前こそ、大丈夫か…?」
「へっちゃらです!」
人形の少女は両手で拳を握って無事をアピールする。セリアの右手から露出している砲身を見て、ラクランはセリアの新機能と、事の顛末を理解した。
「…どうしてここに?」
「マスターがセリアを呼びました…あの、セリアはマスターのお役に立てましたか…?」
「ああ、こうして命まで救われてしまうなんてな…」
「出会った時、マスターはこうしてセリアを救ってくださいました」
「ああ、そんなこともあったな」
本当にこの少女は主のためだったらなんだってこなしてしまう。従者に助けられてばかりであることが主であるラクランには歯痒くて仕方がない。
もしこの従者が居なければ、ラクランの旅は終着点を目前に終わっていたに違いない。しかし、ラクランが使命を全うするには、まだこの少女を祖国のための犠牲にする、最後のステップが残っているのだ。
皮肉にもセリアの活躍でラクランの仮説は確信へと変わる、この技術があれば勇者に頼らずとも魔王軍に対抗できる、この力で祖国は変えられる、決してラクランの私情のために独占していい代物ではない。
「役に立った…立ったから、もう、いいんだ…」
ラクランは人形の少女の顔を見ることが出来ない、この娘が今笑顔だったとしても泣き顔だったとしても、今は見るのさえ辛い。
「……行こう」
「はい、マスター」
ラクランは人形少女の手を引き、祖国へ向けて歩きだそうとした。そして、異常事態がまだ終わっていないことに気づいた。
暗い。とにかく暗い。
日は高かったはずなのに、いつの間にか夜闇のような暗さが周囲を覆っている。平原がもう数歩先すら満足に見通せない。
すると、闇の中からめりり、と生々しい音を立てて紅い亀裂が横一線にばっくり開いた。その亀裂がみるみるうちに大きくなる。
(眼……!?)
眼だ、両手を広げたよりも大きい、血のように紅い眼がぎょろりとラクランとセリアを見ている。タチの悪い悪夢のような光景だった。
「今、あの娘達にとってすごォくイイところだから、外から教国に人が入ってきたりしたら困るの…」
紅い眼から声がする。女の声だ、矮小な存在を嘲笑うかのような、邪悪で、狡猾で、それでいて高貴な気品に満ちた女の声。
ラクランの心臓がばくばくと高鳴る。これは魔物なのか?魔物の形すらしていない、今まで出会った魔物と比較にならないほどの威圧感だ、まるで勝てる気がしない、勇者達はこんなとんでもないモノと戦っていたのか――?
しかし、今すぐ逃げ出すべき状況なのに、なぜかラクランは警戒心を抱くことができなかった。憎むべき相手のはずが、その存在に敬意すら感じてしまう、きっとこの魔物の魔力の影響だ。
「俺は祖国に帰ろうとしていただけだ…!」
ラクランは答えた。これはもう抵抗するかどうかの問題ではない、いかにこの紅い「眼」に見逃してもらうか、それを考えなくてはならない。
「ワタシ達の存在を知ったからには、帰ってもらっては困るわぁ…?」
「魔物の都合なんざ知らない…!」
「ふぅーん…」
紅い眼は興味なさげにぎょろりと人形の少女の方に視線を移す。
「じゃあ、そこの可愛らしい女の子はどうかしら?その娘はアナタにとって、な・あ・に?」
「お前には関係ない、ただの機械人形だ」
「…素直じゃないのね、アナタも……きっとこの国の病に侵されているんだわ……ウフフフフフフ…♪」
紅い眼は目を細め、身がすくむような甲高い笑い声を響かせた。
「この娘はアナタなんかにはもったいないわぁ……アナタを殺して、ワタシのオモチャにしちゃおうかしら?」
すると暗黒からぞっとするほど美しい白い両手が這い出して人形の少女の身体を捕まえた。
「セリア!」
「あら、そこを動いちゃダメよぉ?」
紅い眼が言うと、ラクランの身体が、いやそれ以前に精神がその言葉に屈して動かなくなってしまった。訳がわからないがこの紅い眼の言葉には逆らうことができない、崇拝に近い感情に心が支配されてしまう。
「ねぇ…アナタも変わっちゃいたいと思わない?ずっとずっと、ステキで淫らな存在に…♪」
白い指先はそっと人形の少女の額に嵌った青い宝玉に触れると、鋭く尖った深紅の爪の先で宝玉の表面をつー、と官能的に撫でた。
「ああああああああああ!!!」
人形の少女は断末魔のような絶叫を上げた。すると人形の少女の海のように青かった宝玉と瞳が、宙に浮かぶ不気味な眼と同じ血のような紅色に染まっていく。
「セリア!!」
ラクランの頭をまるで走馬灯のように思考が駆け巡る。
ああ、どうしてこんな。俺は魔物に全て奪われてしまうのか、祖国も、命も、自分だけを慕う従者さえも。なのに情けないことに自分はこの魔物に屈服し、手をこまねくことしかできない。
セリアはこの紅い眼の魔物に殺戮の道具として利用されてしまうのだろうか。そしたら、この虫も殺せないほど優しい少女の涙は誰が拭うのだろう。この少女の痛みを誰が分かつことができるのだろう。
せっかくセリアが救ってくれた命なのに。ああ。どうせ殺されるんだったら。もう最初から。
セリアのためだけに生きれば良かった―――――――。
ラクランは猛烈に後悔した。ああ、そうだ、俺の痛みがセリアの痛みだというなら、セリアにとっての痛みは俺の痛みだ。
そいつは俺だけの従者だ、魔物のオモチャじゃない、誰の許しを得て馴れ馴れしく俺のセリアに触っているんだ、ふざけるのも大概にしろ。
ラクランの中に抑え込まれていた独占欲が爆発した。
がりっ
ラクランは舌を強く噛んだ、口の中に鉄のような苦味が広がる、痛い、痛い、痛いけどセリアの痛みはこんなものじゃない。
なぜかこれで多少は身体が動くようになった気がする、それでも痛みが足りない、あの眼に敵意を抱き続けるには。
ラクランは震える手で腰から護身用のナイフを抜くと、それを左腕に勢い良く突き立てた。
「があああああ!!」
だくだくと流れる鮮血とともにジンジンと燃えるような痛みがラクランの身体を駆け巡った。これでようやく身体が動かせる、セリアを助けられる。
本能が訴えかける危険信号は、紅い眼が強制的に与える「崇拝」の感情を淘汰した。
ラクランはざり、ざり、と人形の少女に距離を詰める。
「セリアを、放せェェエエエエエ!!!」
ラクランは歯を剥き出しにして声だけで殺せそうな勢いで咆哮した。目は充血して赤くなり、悪鬼羅刹の形相と化したラクランはもはや現在の魔物の姿よりずっと「魔」のものらしい。
「刺し違えてもいい、必ず一矢報いてやる、その白い指を食いちぎってやる!!二度と安心して寝られると思うな、俺を殺しても俺のセリアを泣かせたらすぐさま呪い殺してやる、セリアの前から消えろ!!」
「…………♪」
すると、ラクランが悪魔の白い指に今掴みかかろうかどうかといったところで草原を覆っていた暗黒が晴れ、宙に浮かぶ紅い眼と白い指がふっと消えた。同時に、赤く染まったセリアの宝玉と瞳も、元の綺麗な青色に戻った。
「セリア…!」
紅い眼の支配から介抱されたラクランはセリアに駆け寄る。
「マスター…?」
「無事か、セリア…!」
「マスターこそ、血が…!」
「……痛ッ!?」
「マスター!?」
ラクランが人形の少女の介抱に必死になる内に、こっそり近づいた白い指がぴしっとラクランの額をでこぴんした。
「アナタ達はすぐそうやって自分を傷つけようとするんだから、お馬鹿さん」
「なんだと…!?」
「お行きなさい、どこへなりとも…きっとアナタ達ならワタシ達のジャマにはならないでしょう」
そう言い残すと、手首がふっと宙に消え、紅い眼の魔物の気配は鳴りを潜めた。
「……セリア、俺について来てくれるか?」
「もちろんです、マスター!」
・
・
・
人形の少女とその主が立ち去った後も、紫の閃光に射抜かれた蜥蜴の魔物はその場を動くことができず地面にのされたままだ。
そこに物陰に隠れて成り行きを見守っていた、まだ痺れて翼を開けない黒翼の魔物が姿を現した。
無事合流を果たした手負いの2匹は遠い目をして呟く。
「こういうときのあの御方って……」
「本当に役者、だよねぇ……」
17/08/31 23:23更新 / 些細
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