連載小説
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後編
良助の家は、一言で表すなら昔ながらの日本家屋だった。大人の腰の高さくらいの石造りの門を一歩入ると、玄関までの道を示すように点々と平らな石が置かれている、小さな庭には良助の祖父が趣味で育てている鉢植えが見栄えを気にせず雑多に置かれていた。ここからは覗くことはできないが、家の西側と北側を囲むようにせり出した縁側から見える裏庭にも、育てているのか、勝手に育っているのかという調子で多くの植物が茂っている。
ポケットから鍵を取り出し、差しこんで、良助が違和感に気づく。開いている。引き戸を開けると、老人が帽子を取り壁に掛けているところだった。背が高く、白髪を短く整えた温和そうなこの人物が、良助の祖父の佐伯良治(サエキ ヨシハル)である。
こちらに気付いて微笑みかける。

「おお、お帰り」
「爺ちゃん、はやいね」

良助が驚いたように言う。良治は苦々しい顔で返した。

「ちょっと咳をしたら吉岡が無駄に心配して、今日はもうあがれと言ってきてな」
「せき、って」

良助がさっと表情を変える。エウリカが初めて見る顔だった。

「大丈夫なの」
「なんだお前まで、この歳になったらどっか悪いのは当たり前だ。心配するな」
「心配しないわけないだろ……」

小さくそう言う良助に良治は苦笑いする。ふと、彼の横で少し所在なさげにしているエウリカに気づく。良助がその視線に気付いてどう紹介しようか悩んでいると、エウリカが両手をへそのあたりで組んで頭を下げた。

「えーと」
「初めまして、良助君の『お友達』のエウリカ・ニジェルカと申します」
「う」

『お友達』という言葉の言外のプレッシャーに良助が小さくうめくが、良治はそれに気づかずにほう、と笑った。

「お前が家に友達を連れてくるのはひさしぶりだな」
「娯楽が無いから連れてきても申し訳ないだろ……」
「買ってやるっつってんのに」
「いいって」

そんな会話をしながら二人は玄関にあがる。良助がスリッパを出してエウリカに言った。

「どうぞ、なんもないとこですけど」
「ううん、素敵なお家、あ、ちょっと待って」

ぱんと手を叩く、手に持つ袋の重さが軽くなった気がして見てみると、氷が跡形もなく消えていた。

「ありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言われる筋合いはないよ」
「ほんとにないパターンって珍しいですよね……」

苦笑いする良助に案内され、居間の畳に座る。良治はどこに行ったかと思ったが、奥の台所でゴソゴソ動いているらしい。良助が体は動かさず、少し大きな声でそちらに向かって言う。

「お茶?いいよ俺やるから」
「や、晩飯食べていくだろう」
「食べないし、食べるにしても爺ちゃんもう料理なんて忘れてるだろ」
「今お前が作るわけにもいかんだろ」

その会話を聞いたエウリカが、良助の手料理、と考えてぽつりと「食べたいな」と漏らす。「そんな大層なものは作れませんよ」と良助が言うが、期待に満ちたそのエウリカの眼差しに怯んでしまう。作っている間エウリカをひとりにすることを理由に断ろうとしたが、その考えを先回りしていたように言った。

「作ってる間はおじいさんとお話してるから」

良助の家族に興味があったこともあってそう言うと、少し考えてから折れたように立ち上がる。

「すいません、少し失礼します」
「ていうか、私も手伝おっか」
「いえ、お客さんにそんなことをさせるわけには、大丈夫です」

入れ替わるように、話を聞いていた良治がお茶を持って居間に入ってきた。

「すまんね、こんな老人が相手で」
「いえ、私がお話したいんです」

エウリカが笑い、お茶を両手で受け取る。ちゃぶ台を挟んで彼女の反対に座って、良治が確認するように言う。

「エウリカさんは、ここのもんじゃないんだろう?」

「地元の人ではないだろう」というような軽い調子で言うのでエウリカは少し可笑しくなってしまった。

「はい、魔界から……なんだか、すんなりと私達を受け入れられていますね?」

そう訊くと、良治は「爺さんが世の中の流れに何を言ったところでなあ」と笑った。しばしの沈黙の後、少し落ち着いた声で言う。

「親御さんは元気かい」
「両親ですか?」

そう言ってエウリカは遠く魔界の地にいる二人に思いを馳せる。デビル特有の小さな体に、大物の雰囲気をぎゅうぎゅうに詰め込んだ母、元は勇者だったらしく、いまだ精悍な体つきを持つ父。異世界に渡る技術がもう少し一般に普及しないと会うことは難しいだろう。どうしているだろうか。

ふと郷愁に誘われたエウリカは元いた世界の事を考える。

彼女の魔界時代の生活は、およそ空虚と言っていいものだった。おそらく良治と自分が過ごしてきた年月は同じくらいだろうが、経験という面で言えば圧倒的に良治の方が豊かだろう。
魔界の奥のさらに奥地を住処にしていた彼女は、男と、さらに言えば人間と出会う事すら少なかった。ウンディーネの天然水や魔界の果実を食べるだけの長い空白。そのために心が凍りついてしまったのか、火の粉を払うように女勇者を魔物に変えても、砂漠の水より貴重なはずの男を見ても、なんの思いも抱かない。ぼんやりと見ているうちに男は他の魔物に連れ去られてしまった。
とはいえ、他のデビルのように積極的に男を探そうという気にもなぜかなれなかった。
自分は魔物としてどこかおかしいのか、と母に相談したこともある。母は優しく「あなたがまだ運命の人に出会っていないからよ」と言ってくれたが、なんとなく、このまま自分は一人で過ごしていくのだろうと考えていた。
転機が訪れたのは、前回よりも広く周知された、第二次異世界移住計画の移住者募集の知らせが耳に入った時だ。
それを聞いた瞬間から彼女の記憶はぼんやりとし、気付いた時には装置に吸い込まれていく列に並んでいた。自分でもよくわからない強烈な衝動に突き動かされるのを自覚していた。
ここに来て本当によかったと思う。整然と並ぶ建物の物珍しさにふらふらと飛び回っていただけで、母が言うところの「運命の人」に出会えた。
長い生活の中で、これほどうるさく心臓が鳴ったことはない。青年の穏やかな顔。まっすぐな足取りにも関わらずその瞳にはどこか迷子の子供のような影がさしていて、デビルという種族にしては理性的な方だと思っていた自分が一も二もなく襲いかかっていた。
驚くその顔もまたよくて、とエウリカが考えていると、自分の名を呼ぶ気遣わしげな声が聞こえ現実に引き戻される。

「エウリカさん?」
「あ、す、すいません。元気にしていると思いますよ」

良治が自分の名を呼ぶそのトーンにどこか良助の面影を感じる。「そうか」と良治は笑い、台所をちらりと見た。

「あいつは、早くに親をなくしてな」
「はい」

エウリカは居住まいを正した。聞かなければならない大事な話が始まると思ったからだ。

「その頃には俺も一人になってて、昔の子育てを思い出しながら四苦八苦したんだが、まあ無理もさせちまったんだろうな」

ああなっちまった、と悲しげに台所の方を見る。

「自分が我慢するのが当たり前だと思ってんだ。俺のせいだな」
「……」

エウリカには何も言えない。何か言えるほどまだこの二人の事を知ってはいない。ただ良助と良治がお互いの事を大事に思っているのは痛いほどわかる。

「あいつによろしくしてやってくれ」
「はい」

「変な話をしてすまんね」と言う良治の頼みを受け止める。なんとなく会話が一段落し、場の空気を変えるのにこういうのもありかなと思って言った。

「ここだけの話、私は良助君が好きなんですよ」

ほう、と良治はにやりとする。

「あいつには言わないほうがいいのかな?」
「いえ、良助くんも知ってるんですけど、あと脈ありなんですよ」
「ここだけの話じゃなかったんかい」

そう言って、人間からすれば長い時間、悪魔からすればほんの短い時間を生きた良治は、子供のように顔をくしゃくしゃにして笑った。

◆ ◆ ◆

「めちゃめちゃ仲良くなってる……」

良助がお盆を持って居間に戻ってくると、ケラケラと笑う良治とエウリカの姿が目に入った。何度か往復して料理を並べていく。それくらいは手伝おうと良治とエウリカ立ち上がるが「大丈夫」と言って良助は二人を座らせる。大皿に入ったぶり大根をみてエウリカが感嘆の声をあげる。

「おいしそう」
「老人好みの料理ばっかなんでアレですけど……」

そう言う良助に良治が言い返す。

「俺も最近流行りの食べ物くらい知っとる」
「なに?」
「パンナコッタな」
「けっこう古いよ……」

苦笑しながら手際よく皿を並べていく良助。楽しそうに話す二人の事をエウリカは穏やかな笑顔で見ていた。



「むう〜〜」

しかし彼女が笑顔でいたのは良助の料理に箸をつけるまでのことだった。険しい顔をしたので口に合わなかったのかな、と思った良助だったが、「おいしい」「おいしい」と言いながら次々に口に運んでいく。美味しいことが気に喰わないようだった。その不満気な顔は彼女を送る今になってまで続いている。

「明らかにお嫁さん力で負けている……」
「お嫁さん力って」
「ドレインしなくちゃ……」
「俺の知ってるお嫁さん力と違う……」

ぽうと紫に光る指先に怯える良助だったが、そういえば、と気づく。送っているというのにエウリカがどこに住んでいるか知らない。

「エウリカさんってどこに住んでるんですか?」
「んー?こっちに移ってきた魔物娘が最初に住む寮があるんだよ」

光を消してエウリカが質問に答える。そういえば、長らく空き地だった場所に急にアパートが建っているのを最近になってよく見かける。

「でも、ずっとは住めないから早く引っ越すか……旦那さまを見つけなきゃ」
「う」
「はやくなー!旦那さまをみつけなきゃなー!」

ちらちらと良助を見てくるエウリカ。良助はそちらを見ないように見ないようにとしながら話を逸らす。

「そ、そういえば結構新しいアパートが建ってましたけど、あれ全部そうなんですか?」
「……人間が住んでもいいらしいけどね。これから結構魔物娘がこっちに来ると思うから」

いまは逃がしてやる、というような不敵な表情でエウリカが質問に答える。

「だから、あんまり夜に出歩いちゃだめだよ。襲われちゃうから」

自分の事を棚に上げて注意を促す。そういえば、という風に口を開く。質問をし返すチャンスだ。

「なんであんな遅くに出歩いてたの?近くにコンビニとかもないし」
「あー」

そのおかげで襲えたのだが、という言葉は言わないでおいた。良助が言葉を探すように上を向く。吐く息が冬の空に煙になって昇っていく。それを見上げながら言った。

「散歩です」
「あんな夜にしなくても」
「……夜はこのへん静かですよね」
「うん」
「最近寒いし」
「……そうだね?」
「いい練習になると思って」
「……わからないように言ってるでしょ」

バレた!と笑う良助。むうと膨れるが追求せず、質問ついでにもうひとつ、と言う。本当はこちらが本命だ。

「あのね」
「はい」
「大丈夫って、口癖になってるのかな」
「そんな言ってます?どういう時に」

驚いたような顔をする良助。どうやら本当に自覚がないらしい。具体例をあげてやろうと彼との会話を思い出している途中で、エウリカの住む寮に着いてしまった。

「まあこの話はまたでいいや、遅くまでお邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、だいじょう」

パッ、と二人の会話が止まる。

「……こういう時か」

自分の方を見ずにそう呟く良助の表情にはどこか色のようなものがなく、エウリカはその顔に、ほんの少しの不安を覚えた。

◆ ◆ ◆

それから一週間が経つ。高校での良助の居場所は、窓側に面した列の真ん中あたりの席だ。鞄を置いた友人が声をかけてくる。

「おー」
「おう」
「宿題をぜんぶ見せてくれ、全部、全部だ」
「マジかこいつ……」

甘えきった発言をする友人に冷ややかな目線を向ける。ごそごそと宿題を探して渡そうとすると、ふと、ある場所に目がとまった。

「かっこいいのがついてんね」

友人は良助の目線を追う。すぐに自分の学生服から覗く、右腕についた蛇のうろこのアザだと理解して、笑いながら答える。

「あー、まあね」
「仲がいいことで」
「でもこのアザあれじゃないか?ちょっと怪談っぽいというか」

良助はちら、と友人の背後に視線を向け、噛んで含めるようにゆっくりと言う。

「いやあ、かっこいいと、思うなあ、おしゃれっていうか、ねえ?」

ねえ、の部分で視線を強めて目を合わせたのだが、気づくことはなく友人が続ける。

「いやーありがちな話じゃん。日に日にアザが増えていって最後の夜に背後からするりと」
「するりと?」

友人の首にするりと蛇の尾が巻き付く。錆びた機械のようにゆっくりと振り向くと、その後ろにはメデューサの女学生がにこにこと笑って立っていた。

「するりと巻き付くと?肋骨などを?こうやって?」
「死んじゃう、彼氏死んじゃうよー」

友人が見たことのない顔色になっていくのを慌てて止めると、女学生はにぱ、と破顔して良助に挨拶する。

「佐伯くん、おはよー」
「おはよう、いや、解いてやって……」

良助がそう言うと、えー、と言いながらも友人が解放される。ぜえぜえと息をして友人が女学生に食って掛かるその間にも他の友だちが横を通り、良助と挨拶を交わしていく。
良助は落ち着いた雰囲気で、人の話を嫌な顔ひとつせず楽しそうに聞く。友達が多くいるわけではないが、クラスの真ん中にいる生徒に自然と好かれる、という風な存在だった。
だいたいお前は何よあんたはといういつもの口論を背景に良助は窓の外を見る。
晴れた日の冬の空は高く、どこまでも澄んでいる。換気のために少し開いている窓から冷たい空気が入り、暖かい日差しと混ざって不思議な感触を良助に与える。手が届きそうなほどすぐ外にある桜の木は、色味を落とし、春へと向けてしんしんと眠っている。膨らんだスズメが二羽その上で遊んでいた。
一言で表すなら穏やかな日だった。穏やかな日。

両親がいなくなったのも、こういう―

いけない、と思って良助は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。いつのまにか癖になっている仕草だった。不穏ななにかが頭を支配しそうになると、いつもそれをする。吐く息とともに悪いものが出て行く気がするからだ。
しかし、今日はなぜかそれが上手く行かなかった。いきなり教室で深呼吸を繰り返すのも変だと思いやめる。右の拳を口に当てて考えこむように俯く。

「……おい、良助?」
「佐伯くん?」

いつのまにか二人が自分を心配そうに見つめていた。良助は笑いながら言う。

「喧嘩は?」
「終わったよ、それよりおまえ」
「大丈夫」

友人の言葉を遮るように大丈夫と言う。しかし、良助の頭のなかで坂を転げ出した石のように次々とあの日のことが思い出される。
そうだ、あの日は先生が少し強張った顔でやって来て……

教室に先生がやって来て、あの日の記憶と今見ている景色が重なる。

強張った顔でやって来て、自分を見つけて……

こちらを見る先生と視線が合う。教壇で止まるはずの先生が今日は歩みを止めずにこちらにやってくる。

先生が強張った顔でやって来て、静かな声で告げる。

「佐伯、病院から電話だ。今すぐ行きなさい」
「はい」

震える体とは逆に、返事をするその声は自分でも驚くほどに落ち着いていて、平らだった。

◆ ◆ ◆

良助の家の近くに大きな木がある。

なんという名前かはわからない。良助も良治もそれを「大きな木」と呼んでいた。子供の頃買い物帰りの二人はよくそこまで競争していた。
今、その木の上にエウリカは座っている。太い枝に腰を下ろし、良助の家を見下ろす。いつもなら静かであまり人気もないようなこの通りに、今日は多くの人々がやってくる。皆黒い服を着ている。中には泣いている人もいる。
視線を移すと良助がいた。涙ぐむ老婆に手を握られ、困ったように笑っている。良助の口が動く。魔法で聞くこともできるけれど、そんなことをしなくてもわかる。「大丈夫」と言っているのだ。
喪服を着た人々がきまりよく並び、その前に良助が位牌を持ち、まっすぐに背筋を伸ばして立っている。
あの日良助が言った「練習」がなんのことかようやくわかった。
あれは、「ひとりになる練習」だ。いつか必ず訪れるこの時のための。

良助は泣いていなかった。背筋を伸ばしていつものような顔で立っている。

それがとても悲しくて、エウリカは彼の代わりに静かに涙を流した。

◆ ◆ ◆

遺された者の色々を終え、良助が家に戻ってくると、門の前にエウリカがしゃがんで座っていた。こちらに気づいて彼女が立ち上がる。

「よければお線香あげてください」
「うん」

しばらく見つめ合っていた二人だったが、良助のその言葉に動き出す。良助が手慣れたように玄関の鍵を開ける。靴を脱ぎながら言った。

「いやー、どうなることかと思ったんですけど、葬儀屋の人がよくしてくれて、いやはや人間も捨てたものではない……」
「……君も人間でしょ」
「そうだった」

狭い玄関で順番待ちのように良助の後ろに立つエウリカ。ここからでは彼の背中しか見えない。どんな顔をしているだろうか。悲しい時には、悲しい顔をして欲しい。そうすれば、自分が笑顔にしてあげることもできるのに。

「他に血縁ないからすごい大変だったんですよ。疲れる疲れる」
「良助君」
「いやあ、やっぱひと」
「良助君」

しばらくの間があり、振り返った彼の顔はやはり、悲しみとは縁遠いものだった。気遣うような笑顔で、申し訳なさそうに頭を下げる。

「寝てないから、なんか、テンションがおかしくなってるかも、やっぱり今日はちょっと、すいません」
「……わかった、でも覚えておいてね、君は」
「……すみません、おやすみなさい」

良助が再び振り向き、言葉を遮るようにカラカラと戸が閉じていった。
しばらくその場に留まっていたエウリカだったが、諦めたようにその場を離れる。
顔を上げると、良助の家を見ている男とメデューサのカップルが目に入った。訝しく思いながらも通りすぎようとすると、その二人から「あの」と声をかけられる。

「良助の友達のデビルの人ってあなたですか?」
「……今は、ね。『今は』友達」

少しむっとして括弧付きで肯定すると、やはり、という顔で男が言う。

「良助は」
「寝てないから寝るって、君たちも、良助君の友達?」

エウリカの少し不審そうな声を聞き、会話を急ぎすぎていた事に気づいたのか、慌てて自己紹介をする男とメデューサ。エウリカも警戒を解くと自分の名を名乗った。

「良助はどうでしたか」
「体調とかは悪くなさそうだったよ、でも」

普通ならばそれを聞いてほっとしそうなものだが、彼の事をよく理解しているのだろう。エウリカがそう言うと二人の顔が微かに曇った。利発そうなメデューサが不安げに男の服を握る。

「エウリカさんにもそうなんですか」
「も?」
メデューサが言葉を引き取る。
「佐伯君、学校でもそうなんです。普通にしてて……普通にしてていいわけないのに」
「……そうなんだ」

それぞれが良助の事を考えたのか、沈黙が降りてきた。再び男が思い出したというように口を開く。

「エウリカさんのこと、一緒にいて面白いって言ってましたよ。子供のような、大人のような、とかなんとか」
「なにそれ」

妙な人物評にプッと吹き出してしまう。他の人に自分の事を話してくれているのが少し嬉しかった。と、いきなり男が頭を下げてくる。

「あいつの事よろしくおねがいします」
「……うん」

良治にも同じような事を言われたのを思い出した。「うん」とはいうものの、自分に何ができるのだろうか。良助の大丈夫という言葉は、他人から差し伸ばされた手を払うような響きを持っていて、それを思い出し、エウリカはまた少し悲しくなった。自分に何ができるだろうか。

◆ ◆ ◆

そんな不安が未来を形作ったかのように、その日から良助と会えない日が二週間も続いた。

魔界の食べ物が豊富にあるので飢えることはないが、そんなことはどうでもよくて、それよりも良助の事が心配だ。
はー、と机に頬杖をつきながらエウリカは深く溜息を漏らす。自分の後ろを多種多様な魔物娘がぞろぞろと通り、夕日で赤く照らされた会議室を出て行く。華やかな百鬼夜行のようだ。
こちらに来たばかりの魔物娘は、この世界の勉強のために多くの時間が割かれる。今日も朝から講義を受けていて、自然、良助の家に行くことのできる機会は少なくなる。
その少ない機会を見つけて、意を決し彼の家を訪ねるのだが、なぜか夜にも彼は留守にしているようだ。
何をしているのだろう。せめて体を壊していなければいいのだが、と思っていると、こちらで知り合った友人のワーバットに話しかけられた。

「ちょ、ちょっと体貸して……」
「難儀な体質……」

夕日を遮るように立ってやる。光を大の苦手とする彼女は、講習中部屋の影の部分でそれでもビクビクとしていたのだが、西からの陽光でそのわずかな影すら無くなって参ってしまったらしい。エウリカの小さな体では覆いきれないが、それでも幾分マシになったのかほっとしたように一息ついた。

「はー落ち着く……夜の側で地球の自転止まったらいいのに、エウリカもそう思うよね」
「なんで私がそう思うと思ったのよ……」

そんな無茶な願いに同意できるわけがない。
それに、彼女には悪いがエウリカは朝焼けを見るのが好きだった。魔界のとろりろした妖しい景色も好きだが、この世界の朝焼けは美しい。黒く輪額が曖昧だったものたちが日に照らされて息づいていくのを見ると、心が洗われるようだった。そんな事を言うと、ワーバットに「変なの」と一蹴されてしまった。

「エウリカって時々魔物っぽくないよねえ、そんなんで彼氏できるの、ってごめんごめんどかないで」
「おーきなお世話よ……」
目下の問題を無邪気に指摘されエウリカがうめく、ふと思い立ち彼女に相談してみた。

「ねえ」
「んー?」
「好きな人が苦しんでて、でも助けを求めてない時ってどうしたらいいんだろうね」
「なにその状況」
「いいから」

んー、と考えて彼女か言う。

「そばにいてあげればいいんじゃない?」
「一人になりたいって言ってるのに?無理やりにでもそばにいるの?」

思わず問い詰めるような口調になってしまってワーバットが怯む、が、彼女は言葉を続けた。

「だ、だってその人が助けが欲しくなった時にそばに誰もいなかったら駄目じゃん」
「……」
「あと無理やりでもいいじゃん」

魔物なんだし、と彼女が言った。目を点にするエウリカに慌てる。

「な、なに?馬鹿なこと言ってる?」
「いや、賢い、かも……」
「そっかな、エヘヘ、さすがIQ五百兆万億……」
「やっぱそうでもないかも……」

どんどん桁を暴走させていくワーバットはさておき、なにか心につかえていたものが取れたような気持ちだった。今まで何をすべきかばかり考えて、自分がどうしたいかを見失っていた気がする。

一途で強引な魔物娘の一人として、自分は彼と一緒にいたい。

気づかせてくれたお礼の気持ちを込めて友人に報告する。

「そういえば私、好きな人ができたの」
「おっ、やったじゃーん、どんな人?」

容姿を説明すると、友人はんーと記憶を探るようにうめいた。

「その彼ならたぶん……」

その言葉を聞いた瞬間、夕日を浴びてぎゃーと叫ぶ友人の声を背中にエウリカは部屋を飛び出していた。















公園のベンチに一人で座っていた。
別段なにをするわけでなく、たまに手をぐっと握ったり、開いたり、その手を他人事のように見つめていたが、すぐにそれもやめてしまって、目線を漠然と前の地面に落とす。

日が傾いて、子供たちの遊ぶ声が聞こえていた。それもすぐに耳に入らなくなった。















「散歩?」

良助がはっと声の方に顔を向けると、エウリカが隣に座っていた。すでに月が登り、公園には良助とエウリカ以外には誰もいなくなっていた。身を切るような寒さを遅れて感じる。夜になっていた事も、エウリカが隣に座った事にもまったく気づかなかった。

「……散歩です」

しばらく横にいるエウリカを見つめていたが、ゆっくりと顔を前に戻して良助が答える。エウリカは一言「そっか」とだけ言うと、それきり黙ってしまった。しばらくというには少し長いだけの時間、二人の間に沈黙が訪れる。冬の夜は気が遠くなるほどにしんとしていて、良助とエウリカの小さな息遣いがだけが聞こえる。

「……帰らないんですか」
「君が帰るなら、私も帰るよ」

沈黙を破ったのは良助からだった。遠回しの拒絶の言葉に、しかしエウリカは動じずに答える。面食らった顔の良助が、それでもなんとか言葉を続ける。

「風邪ひきますよ」
「悪魔は風邪ひかないんだよ、それより君のほうが」

そう言いながら、エウリカは良助の方に手を伸ばす。ビク、と逃げるように動いたが、しっかりと掴まれた良助の右手はそのままエウリカの小さな両手に包まれる。

「こんなに、冷たい」

泣き出しそうな顔でエウリカは良助の右手をさする。良助はどうしたらいいかわからない、という顔でそれを見ている。

「冷たいよ。いつからここにいたの」
「気遣ってくれて、その、ありがとうございます。でも、俺のことなら大丈夫……」
「大丈夫じゃないよ」

少しだけ開いていた二人の距離が近づいて、無くなる。エウリカは良助を抱きしめていた。その力は小さな体のどこに、と思うほど強く、彼女の暖かさが良助の冷えきった体に伝わる。

「大丈夫じゃない。大丈夫じゃなくていいんだよ……」
「……」

しばらくされるがままになっていた良助だが、怯えるようにゆっくりと彼女の背中に手を回し、力を込める。ぽつりぽつりと言葉が紡がれる。

「もっと、長生きしてくれると、思ってて」
「うん」
「俺が大人になるまで待っててくれて、美味しいもの食べさせてあげたり、もっと」
「うん」
「まだ何にも返せてない、のに」
「お爺さんね、君の料理が一番好きなんだって」
「……」
「君が育っていくのを見るのが本当に幸せだって、『照れくさいから言わないけど』って私に教えてくれた」

良助の口から漏れ出す言葉を、エウリカはひとつひとつ心に落とし込んで、伝えなければならないことを伝える。彼の手が震える。

「ぜんぶ、私に教えて。君の気持ち」
「……」
「……」
「俺、は、」
「うん」
「俺、ひと、りに」
「ひとりじゃないよ」

パタ、と翼がはためき、エウリカの体が浮かぶ、良助の胸のあたりにあった彼女の顔は、今は彼の肩に乗せられている。ぎゅっと抱きしめる力はさきほどよりも強く、少し息苦しさを覚えるくらいだ。
二人の体格差とは反対に、良助は彼女に包まれているような気持ちになった。優しい声でエウリカが囁く。

「君は私のものだって、言ったよね。一緒だよ。何があっても、私だけはずうっと一緒」
「……」
「論破」
「傷心の男を論破するとは……」

呻くような良助の言葉にエウリカは「ふふ」と笑う。彼女の体は暖かく、抱きしめる力は息苦しいくらいに強く。

「爺ちゃん」

その温度に誘われるように、その力に押し出されるように、良助の瞼から暖かな水がぽたりぽたりと溢れだした。

◆ ◆ ◆

「おおー、朝……」
「朝だねえ……」

窓から東の方を見ると微かに橙色に染まっていた。これから町は昇る日に照らされ、その色を短い時間の間にさまざまに変えるだろう。車の音も聞こえ始めた。人々の生活が始まろうとしている。

手をつないで家に戻った二人は、そのまま夜を共に過ごした。
とはいえ、魔物らしいなにかをするわけでもなく、二週間分の空白を埋めるようにお喋りしたり、軽口を叩いたり、少しうとうとした後でまたお喋りをするだけの時間が続いた。
それでけでもエウリカの心が幸福で満たされていく。
あの、と良助が言った。踏ん切りがつかずにここまでもつれてしまったが、言わなければいけないことがある。

「あの、すいませんでした」
「……なにが?」
「最後に会った日に追い返しちゃった事と、その時送れなかったことと……」

はあ、と溜息をつき、エウリカの両手が良助の頬を優しく包んだ。
かと思うと、そのまま三回ピシャリピシャリピシャリと叩かれる。

「そんな!ことで!あやまるな!」
「いたい!いたい!いたい!」

そのまま良助を抱きしめて「もうこれでいい……」とつぶやく。

「こうできてるだけでいい……」
「あと、好き、です」

エウリカの手がぴくりと震えるのが良助の体に伝わった。石のようにしばらく固まった後、ぐしぐしと良助の胸にこすりつけてから、顔をあげる。幸せそうに笑うその目には、それでも拭い切れない涙が浮かんでいた。

「変なタイミング」
「い、今しかないと思ったんですけど」
「変なタイミング」
「ご、ごめんなさい」
「ううん、うれしい……」

ね、と良助に笑いかけるエウリカの表情は、打って変わって小悪魔らしいにやにやとしたものになっていた。自分の唇をとんとんと指さしながら言う。

「キスしようよ、恋人になるまで我慢してたんだから」
「あ、はい、じゃあ目を閉じて」
「やだ、ガン見するから」
「や、それはさすがに恥ずかしいというか」
「舌も入れる」
「どんどんハードルあげるのやめて……」
「いいじゃん生娘じゃあるまいし、えーい逃げるな!」

太陽がはっきりとその姿を現す。暖かな温度を持つ光が窓から差し込み、はしゃいで笑い合う二人を包み込んでいた。
13/12/22 13:02更新 / コモン
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■作者メッセージ
最後まで読んでいただきありがとうございました。
エロありの明るいおまけを書こうと思っているので、よければもう少しおつきあい下さい。

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